こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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プロバンスの路地より-13 観音さま

仁保島の最高峰、東西に二つのピークが並んでいる島の東のピークが黄金山とよばれる。
桜並木が山頂のTVアンテナの広場までつづいていて、黄金でなくピンクに春は染まっている。
記録には仁保山とも、香山・ニホヤマともあるが、黄金山とされたのは、この山中腹の小さな尾根のサキッポに建立された観音寺が黄金山の山号であったことからだといわれる。
オーストラリアのユウカリの木の葉に地中の黄金が吸い上げられて採集できたニュースがあった。この山では南天の白い実を見つければ、その地下に黄金があると伝説は伝える。古代の修験者は、きっと今頃なに言ってんだ!って笑ってる、だろう。

南天の実からだけでなく、先日のブログで書いたように、邇保姫神がもたらす水銀を使用しての錬金術から黄金を生み出す企みであったことからの名だとも、主張したい。が、観音信仰に黄金にかかわるなにか?があるのかもしれない。黄金の名は、空想を拡げる。

プロバンスの路地が、仁保島の北の海岸にひろがった本浦、ここも香浦・ニホ浦とよばれたこともあったようだ。仁保ではいけなかったその訳はなんだろう。“香の浦”という地名は美しい。その集落に入ると島の海岸線を周回していた路地は手のひらの指のように広がって幾つもに分かれ山の麓まではいりこみ、細い路地に土塀の倉庫や民家がつらなる。その路地奥に案内地蔵さんが民家の壁に塗りこめられて、右手で観音寺への道筋を指差している。
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路地は上り勾配からバス道を横切って、急坂でちいさな森へと向ってゆく。森をめざして、登ると墓所にでる。古びた墓の奥に観音寺が見える。早朝の朝日のなかに線香がけむっている。墓のあちこちに人の影が動いている。線香の煙は朝日に向って昇ってゆく。白い。
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寺の森をぬけて裏の墓所へ廻った。そこがこの尾根の東端で、そそぐ朝日を浴びたくなったから。すこし此の朝は寒い。登りでかいた、汗も引いてきた。
墓石がきらめいて、その向う、数km程も遠くの西向きの府中町の山並みはまだ日差しが入り込んでいない。山は呉婆々宇山。その山頂から西に流れる尾根が丁度正しい二等辺三角形に、蔭のなかに浮かんでいる。「アレ!」この形は、まるで、これまであちこちでお会いした甘南備山、そのもの。
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その尾根の先端に岩屋観音寺があった。いまは焼けてしまって礎石と石段が小さな広場に残っている。黄金山の観音堂と呉婆々宇山の観音堂が南北で対峙しているように見えた。岩屋観音の尾根の右奥の谷に秋の白いガスがたゆたっている。尾根を越してながれてきそうだ。きれいだ!その温品の谷に朝日が差し込みだすと、その白い空気がゆれだした。

観音様は広島の三角州をかこむ山に幾つかおられる。戸坂の松笠山の松笠観音、己斐峠の滝の観音,船越の船越観音etc.
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なかでも三滝山の観音さまは著名だ。三滝の観音寺のある山は宗箇山と呼ばれる。江戸時代に茶道の上田宗箇が縮景園に立てた茶室がこの山を借景としていることから、宗箇山とよばれ、山頂の赤松が宗箇が植えたという伝承があり、いまも枯れると植え替えられている。大和の長谷寺や室生寺のような「こもりく・籠り、隠り」と呼ばれる奥まった場所で、信仰の場所として昔からあったのではないだろうか。その神聖さを、後に上田宗箇による泉亭の設計の基本点として踏襲されたのでは?と思う。宗箇山とよばれるのは、山頂に松を植林したことからだろう。借景の創作ってことより、美保の五本松のように、結界の標示で神仏と出現と人間界の境ってことではないだろうか。だた景色を松を植えて造作をする、なんてことを茶人はかんがえないだろう。茶道は捨象の世界であろうから。宗箇山と泉亭(縮景園)をむすぶ直線を東にのばすと、金ケ灯篭山の中腹の愛宕神社にあたる。尾根の先端の小さなピークに鎮座する朱塗りの拝殿と本殿の神社。

昔の風土設計という言い方があるとすれば、条里制などという直線の方形に計画する古代の設計がいまに残っている。その基点はいまも残されている。金ケ灯篭などの山名はここが夜間に燃やされた松明の場所であったとも想像できなくはない。山に明かりを灯して位置を測るのは、古代の建築屋さんのお手の物。京都の大文字焼きなどはその名残だ!と、いっていいのだろう・・・か?。そして、その基点は必ず神社仏閣と関連している。

矢野の愛宕神社は海田から林道であがれる。すごい広島市内への展望と尾根のピークに鎮座する朱色の本殿は必見。ここへの登り串掛林道は絶好の強度あり!です。

「こもくり」といわれる入口から見通せない谷間の奥に鎮座する神々や仏たちは、命再生を思わせる。己斐の滝の観音もこの分類だろう。参道を巡礼道とよぶ場所がおおい。アプローチに宗教的な意味がありそう。
反対に、明るい尾根筋の突端に鎮座する神仏は、その力を誇示する。麓からの目印としても、そしてそれを俯瞰してのぞむ人から見れば、神や仏の力の降臨、拡大するイメージがある。古代の古墳もその姿を誇示する場所に作られる。松笠観音、岩屋観音、船越観音そして黄金山の観音寺も麓からその森や場所がみえる。見せることが意図されてつくられたのだろう。
岩屋観音の麓は水分峡とよばれ、疎水がそこから引かれて文字どうり「水分」。これをミクマレと読むから、そこに何かある!と思うのはオレだけか?
「分」は分配だけでなく、選別もある。流れている水の選別は出来ない。この「水」は水金・水銀って話もあることはあるのだ。・・だから黄金山・・!
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by forumhiroshima | 2013-10-25 07:15

プロバンスの路地より 獅子舞の唄-13

十数年も前、秋の日曜日の早朝、黄金山へ走っていた。丹那側からの道へ入ると、街角に浴衣姿の獅子舞と横笛、太鼓の一団に出くわした。秋祭りの幟がゆれて、青空に立っている。一軒のドアがあいて獅子舞がはじまり、終わって獅子頭の中から少年の汗ばんだ顔が出てきた。横笛も太鼓も大人たち。「笛にうかれて、逆立ちすれば・・」「わたしゃ旅路の角兵衛獅子・・」いきなりこの歌詞がうかんできた。どちらも美空ひばりだけど、題はなんだったッケ?

プロバンスの路地のお好み焼きやのおばさんと、この獅子舞との出会いの話ですっかり仲良くなった。そこに一人の老人がいて「手伝え!」とおっしゃる。獅子がまう祭りの準備のことで、祭りで使うマキが手に入らないとも。
もみのき森林公園ではマキを一束400円。さっそくかけあって、寄付してもらうことにした。
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マキを届けた数日後、連絡があって、幟をたてる手伝い。その数日後、台風到来で幟をいったん終う。翌朝また立てて、祭りの準備。そして祭り前日の夜の獅子舞。
夕方すっかり暗くなったプロバンスの路地に一軒の家の軒で懐中電灯で照らされて、少年達の獅子舞がはじまる。終わるとそばの路地横の小さな祠のエビス神の前で獅子舞。「獅子舞が始まる民家はその昔にエビス神が嵐で海に流されそうなとき、守った家」というここのレジェンド。そこから祭りが始まり、夜の獅子舞はこの丹那で新しく普請された家を廻る。
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そして翌朝早朝の日曜日の朝の各家への訪問獅子舞。全ての戸が叩かれるが、開くのはすこしの家だけだ。開かない戸の向うの沈黙。獅子は次へと走り出す。そこにちびっこたちの小さな神輿がのりこんでくる。ピーコラ、ワショイ、ワッソイ、ドンドン。
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祭りの前の土曜日の朝は町内会の面々が餅つき。120kgはすごい。これを町内のおばさんが丸めて、祭りの餅まき。
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祭りの早朝の獅子舞は昼過ぎに終了する。そこから祭りの人々はいったん消える。1時半丹那・穴神社境内に人々が集まりだす。拝殿で神事の祝詞と小さな女の子の神舞。
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拝殿前に注連縄で結界がつくられ、そこに二つの釜がおかれ、もみのきの薪がくべられる。
釜に一升枡で三倍の水がきちっと計られて、そばにいる鬼が拝殿のろうそくの火を運ぶ。赤と青の鬼でそれぞれに薪に点火。獅子舞をしていた少年や青年たちが炎をあおぐ。どちらが早く沸騰するかの勝負。山の釜と海の釜の競争。
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勝負が決着すると、餅まき。そして神輿がはこばれ、くるくると回されてから路地へ。その後を小学生が扮した大名行列がゾロゾロ。
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路地の車通行止めの解除はもう五時をすぎていた。幟もたとまれ、注連縄も片付けられた。

プロバンスの路地を帰る。丹那と楠那の堺の崖をすぎるとき、オレって楠那の住人だったのだと、気付いた。
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by forumhiroshima | 2013-10-17 10:28

プロバンスの路地から-11 黄金の山

プロバンスの路地から-11 黄金の山

仁保島の山を、仁保山といわず、黄金山と呼ぶのは?

仁保島を一周する仁保島本通りは、モータリゼーションの波と埋立造成地がおしよせ、島を海から切り離すラインだ。その外周にマツダの自動車工場がとりまく。“時代”というのだろ。
車の離合もむつかしい時代遅れの路地の仁保島本通りは、その外側に作られた大きな車道の内側でひそやかに、息をひそめている。その小さな溜息にみえる景色がこの路地にある。その一つがお稲荷さんの祠だ。四ヶ所にある。地図におとして、四つのお宮の関係など思ったりしたが、なにもみいだせない。ただびっしりと重ねられた真紅の鳥居のトンネルが、この島の邇保姫さまを祀る人々の探した真紅一色といわれる朱砂の坑道を思わせる。
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ニホもニュウもこの朱砂にかかわる地名だという。仁保の地名は山口市にも岡山の山陽町にもある。千代田町の壬生・ミブはニフであったようで、これも同じ。マクドナルドがマックであったり、マクドであったりするように、その名を受け入れた人々、先住民の耳できいた発音がのこるという説に納得している。各地に朱砂をもとめた人々の足跡ってことなのだろう。

朱砂は水銀と硫黄の化合物で、水銀は“丹”として不老長寿の薬だとされてきた。古代の中国の秦の皇帝たちはこの“丹”薬によって中毒死したといわれる。水銀は石化エネルギーの発電からも放出されているし、電池の大切な材料でもある。中国の火力発電所から吐き出される大気中の水銀が拡散されているという。熊本の国際会議で水銀の規制を国際化する水俣条約の採択が予定されている。水銀の採取も使用も禁止される。

古代中国に朱砂から水銀を抽出する技術の記録がある。「朱砂から水銀を取り出すには、朱砂(硫化水銀HgS)を熱して水銀を気化させるのである。気化させたガスを水中に導くと、水銀は水中でコロコロと粒状になってしまう。空気中の酸素(O)をとって硫化水銀のもつ硫黄(S)と化合させ、水銀を分離させるのである。この方法をエア・リダクションという。 古代の朱/松田壽男」この水銀の蒸留に用いられたのが土釜である。古代化学プラントの出現だ。
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東大寺の大仏の金メッキには、金と水銀をあわせ粘土状の金アマルガムをつくる。それを鋳造された大仏の表面に貼り付ける。大仏を密封し、その中の温度を上げる。水銀は蒸発し金が表面にのこる。大仏殿が密封されていて、中をのぞく小さな窓が正面に開けられる。巨大な壺ではなかろうか。

砂金と不純物との選別には、採取した物を水銀と混ぜ合わせると水銀と金とのアマルガムとその他の不純物に分けられる。あとはエア・リダクション。朱砂を求めた人々はその採取の作業で金や銀や銅なんどの金属と水銀でアマルガムにし、エア・リダクションで水銀と分離させ、残された金属を溶かして、冷やす。固まる過程で比重の違いで各々の金属に層として固まる。あとは砕いて分離採取できる。
黄丹という朱砂から黄金を取り出す夢を“黄治”という。東洋の錬金術。硫黄と金とがアマルガムで見つかることから、朱砂から黄金ができると信じた人々がいた。黄金山に“黄金伝説”がある。山中で南天の白い実をみつけ、その下を掘れば黄金がでてくる。

仁保島本通りの東の場所にある竈神社の拝殿の正面に黄金山のTV塔がみえる。竈がエア・リダクションの釜に思える。邇保姫神、丹那、竈とたどってゆく妄想の本通りは、正しく?黄金にたどり着いた。仁保島の四隅におかれた稲荷の祠と真っ赤な鳥居のトンネルは、神の使いの妄想の王様のキツネ様に導かれて、黄金の宝へと通じていた。

古代の錬金術は、朱砂の硫黄にも注目した。火薬だ。瀬戸内海のこの海域の海人たちは手榴弾ともいわれる焙烙火矢・ホウロクヒヤを持っていた。鉄砲が伝来しるずっと前の時代からのことだ。素焼きの深皿を合わせたような玉のなかに火薬を入れ、導火線とつけて、相手の舟に投げ込む。遠心力で遠くへも飛ばしたという。
唐の時代には火薬は出来ていたといい、鎌倉時代の元寇で元の軍が使用したことから、それを入手したともいう。しかし、火薬(黒色火薬)の材料は炭素(炭の粉)、硫黄、そして硝酸カウム。しかし硝酸カリウムはこの国では産出していない。

織田信長が大阪の石山寺合戦で本願寺信徒の持つ鉄砲の多さに驚いたという。鉄砲も火薬なくしては役立たない。鉄砲の数だけで勝負はきまらない。が、硝酸カリウムがないのだ。
この解決法は輸入しかない。そしてそれができる人々は海人で、大型船の持ち主。大型船は安宅船とよばれ、数百人もの戦闘員が乗れたという。その船は伊予水軍で造られた。

信長と本願寺との決戦、石山寺合戦で、石山寺(いまの大阪城あたり。物資輸送が海から)へ加勢したのは、この海域の水軍たちだが、仁保島の城主でお坊さん、そのころの牛田の寺の住職であった東林坊願通もこの一帯の水軍の親分であった。まだ広島が出現していないころの話だ。
鉄砲の多さもさておき、手榴弾の数もすごく、信長はその後自軍の船を鉄板張りにしたという。東林坊願通たち本願寺派には、火薬造りに秘策があった。ヨモギの根に尿をかけ、一定の温度管理で、バクテリアの働きで硝酸が生成される。馬の尿とヨモギで火薬を作っていたという。
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厳島の合戦では、手榴弾が使われている。これで毛利氏の飛躍が始まる。
信長も堺の商人なくして火薬は入手できなかった。利休はただの魚屋ではないだろう!
スエーデンのノーベルはタイナマイトの発明により巨万の富をつくり、ノーベル賞を残した。東林坊願通は、飲みすぎで、財産は残さなかったので、人々は残った山を黄金といった。という妄想は!
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by forumhiroshima | 2013-10-10 08:19

プロバンスの路地より-10  竈神・カマドガミ

ずーっと、古く集落には、神の依り代のある神庭、死者達を葬送するモガリの庭、それをとりまく生活空間の3つがそろっていた。縄文の人々も弥生のひとびとも、その3つの空間に生きていた、らしい。神の依代は動かせない山やイワクラや大樹だ。
のち権力者たちのモガリの場・古墳が、神の庭となり、その葬送を司る支配者が、現人神となるかたちで、持ち運びできる鏡をご神体とするような今の神社の型式にかわってきたのだろう。死を嫌う神社が古い古墳の上に建っているという不思議なことになっている。祖先・ミオヤは死なず継承され続ける。継続することが、現実の生神、現人になる。
10/3の読売新聞の伊勢神宮の遷宮を“永久の発展を願う「常若・トコワカ」という神道の考えに基づく”と、解説している。縄文人や弥生人たちの自然への恐れともおもわれる神とは、また違う神になろうか。
神は死をおそれ、仏は死を受け入れたということだろうか。

走っていると、道が交錯しており、ちいさな広場に、風が巻いて流れ、光は乱反射しているような、明るい空間に行き当たることがある。
仁保島の東の仁保の竈神社の場所がそれだった。
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9月29日この神社の祭礼だったこと夕方思い出して、走っていった。
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夕方4時からの神事とハリガミにあったから、まだ間に合いそうだ。神社への長い急角度の石段は、たくさんの人々がユックリと、老人は休み休みにのぼっている。あがると狭い境内は雑踏となり、拝殿いっぱいに烏帽子をかむり、白い衣装があふれている。
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島根半島の美保神社の祭礼を思い出した。
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祭りといっても、老人達がハッピをきて、小さな集団で神輿を動かしている光景しかみていない町では驚異的、強烈な景色が眼前にある。本殿のむこうの空に黄金山のテレビ塔が真正面にそびえている。この神はあの山からここへ、いまから降臨する。小学生の赤い袴の少女が鈴を鳴らし、神舞をまう。
やはりここは古代のもっとも古い神の庭にちがいない。とたのしい妄想にはいいてしまった。
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黄金山からこの神社の鎮座する尾根の先の向うに拡がる家並みのまだ向うに猿侯川の河口に高速道路が交差している。高速道路もここを今、庭に交差して過去のように四方へ広がる。
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では、竈神って、どんな神様なんだろうか。
竈神の伝承に「大河の交差する愛知の家の竈の蓋の上にカッパが住んでいるという。このカッパ・猿侯はよく家の手伝いをしていた。熱い夏に家の者が、名古屋・知多半島の夏食べる名物の蓼汁を勧めた。カッパは汁の苦味をきらって、河へにげてしまった。それ以後その家は衰運に向ってしまった。竈神と厠神/飯島喜晴」
.竈神と猿侯・カッパって、近しい関係であったようだ。揖斐川、長良川、木曽川の大氾濫源の名古屋になる伝承が、太田川の氾濫源のここにあっても不思議はないだろう。渦巻いて猿侯にひきずりこまれる淵は幾つもそこにあっただろうから。

また飯島喜晴はこんな伝承も紹介している。「東北・宮城のある町に風来坊がやってきて住み付いた家があった。飯をくってはカマドのそばにクソをする。ほとほと困っていたら、いつも間にか居なくなった。カマドのそばにはクソの形をした黄金がたまってた。主人はさっそくに、この風来坊を神様としてまつった。それからというもの、その家は繁昌した。この祀られた風来坊がカマガミ様で、お家繁昌の守り神である。」

竈神社の山神は黄金山から降臨してくる。
仁保島の山がなぜ黄金山で、すぐ南の島が金輪島という地名なのかと、考えていた。黄金のクソがそのヒントになりそうだ。
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by forumhiroshima | 2013-10-03 16:09

プロバンスの路地から-9 坂の上の雲 より

楠那の集落の路地の東端の山際におおきな石碑がある。「忠魂碑」とあって、関心なかったのだけど、ブログネタの切り出しに困っていて、ネタ探しでのぞいてみた。「元帥 東郷平八郎揮毫」とある。エー!ここに“坂の上に雲”がある。美しい達筆が風月に痛んでいない。楠那の出身で戦役で亡くなった7名の名が刻まれていた。
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あの“トウゴウ ターン”作戦は元帥と愛媛県松山の出、秋山真之との創作で、海外の軍事専門家から驚嘆な賛辞の気分からそう呼ばれたという。
もう一つ、広島からこの会戦の勝利の要因を作った人がでている。下瀬雅充賀という人。彼が製作したのが日本海海戦のナパーム弾といわれる下瀬火薬だ。その迫力はいまのTNT火薬の性能をこえて、着弾した大砲が燃えたとロシヤ兵が言い残している。彼は広島藩の鉄砲役の子息で市内鉄砲町に生まれている。

今も海上自衛隊も海上保安庁もおかれるこの海域は、古代の越智水軍、中世の伊予(河野)水軍、戦国時代の村上水軍と、日本最大の武闘派海人の拠点だ。楠那の楠も船の材料の楠の生産地であったのかもしれない。「呉」はクレギでこれも船材料をいうという。

越智水軍の越智は愛媛県の越智郡としてのこっており、向島と本土の間の水路を整備し海賊活動の避難・逃亡・迂回ルートにしたことから越智の道で尾道の名が起こったと。
この越智氏は小千と書いていた。7世紀に当主の守興が朝鮮半島に出兵したが、唐軍に捕らえられ捕虜となって30年をかの地ですごした。それから脱出して帰国した。その子息の玉興が大阪からの帰りに使った船は中国人の船頭のふねであった。その船頭の話では父親は日本人であって、そのことを書かれた書置きの巻物に守興の名がある。それで兄弟であるとわかる。その彼が中国の南の越の生まれから、越智と名を書き換えた。玉興は大三島の大山祇神社の神主の越智家を創設し、船頭は越智水軍を創設したとある。(沖浦和光・瀬戸内海民俗誌)そうなると、越智水軍の親玉は混血児であったことになる。

宇品は牛奈と古文書に書かれるが牛那でもいいか!かってに、そうしちゃえ!!丹那・楠那・日宇那の那は支那の那、チャイナの那では、どうか。博多の港は那津で、この港が支那とつながっている地名、ステイションはそこからどこへ行くかの地名が使われる。それに、博多は中世のチャイナタウンである。

仁保島は古風をどこか感じさせる。ブログをプロバンスの路地と題するのも、その気分から。路地にある小さなスーパーの店頭に渋柿が売られていた。ふと、買ってしまった。干し柿にと、狭いベランダに吊るしたよ。こんなことするの初めてです。カラスが食べてもいいカー。渋柿うってる人も古いよね。買うひとも。小さな季節を買ったようです。
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by forumhiroshima | 2013-10-01 19:23


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