こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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広島という町を設計する-7 Vista/ヒロシマ

Vista-広島城
市立図書館の郷土資料のなかに潜っていると、「ケーススタヂィー 広島城下町の形成・・」という論文がでてきた。そのなかの地図に白神通りと標示される道筋が記載されていた。
広島城の南外郭になる八丁堀の西端、元安川ぞいになる猿楽町がわたしの本籍、ドームの北正面でうまれた。猿楽町の子供は大手町のこどもとは、遊びの輪がちがっていた。大手町1丁目の紙屋町の古物商の店先に電化製品が並べられて、そこがいまのエディオンの社長さんの店だった。電車通りを挟んだ反対に逓信局のちの電電公社の二階建てが火事になって、跡地にバスセンターと西警察ができた。デンキ屋さんは大忙しだと、大人たちが話題にしていた。都市計画でドーム周辺が整備されて立ち退きになると、本籍は猿楽町から大手町へと記載がかわった。

その猿楽町の東端、エディオンが今ある交差点から南下する道が論文の地図で“白神通り”とある。初めて出会った地名だった。紙屋町の交差点から南下する電車道が“大手町通り”、しか知らなかった。その論文には“白神通り”はここを北上する人々の正面に天守閣があることで、広島藩のランドタワーとなる、とあった。
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広島城とその城下町を毛利氏は町として作るのではなく、瀬戸内海へむかう拠点として普請するという強い意思を感じていたから、すこし論文に不満を思った。ここに町として連ねる住民たちは移住させられた、尾道の寺院建築を手がけていた宮大工たちであり、毛利藩の祭事に猿楽師、武士たちの道具の職人たち、革屋、研屋など、藩にかかわる人々の居住がもっぱらとされているようにみえる。城普請のころ白神通りのしっぽあたりは、白神社の境内でそこは岩礁が散らばる場所であったから白神通りとされたのだろうか。
彼らは出来上がってくる天守閣を毎朝ながめながら工事現場へむかったのだろう。このころ城下には西国街道も出雲街道も通ってはいない。やっと、二葉山山麓から城の北側、筥島をぬけて横川への道が二つの渡し場を経由するほどの道の状態だったと思える。西国街道は府中から戸坂、祇園と経由して大町から伴へとむかっている。だから太田川河口の広島城は孤立した要塞だった。だからここに造られた。天守閣からみえる人々はすべて関係者であった。毛利家本社とでもいえるものだろう。
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Vista-ヒロシマ
広島のVista/見通しラインは、平和公園の慰霊碑からみる原爆ドームへのラインだ。このラインは祈りのラインだけでなく“くりかえしません”という反戦のメッセージを持ったために、沢山の議論もそのラインに秘めてこれまできている。
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“祈る”という自己沈潜のエネルギーから“くりかえしません”という外への宣言のエネルギーすごく当たり前として、身近な大人たちは受け止めているようだったし、“もう、こりごり”と戦争体験を熱く、語っていた。銃弾の中を生き抜いたプライドと失った命への感情とがまざりあって、立ち上がろうとするエネルギーで大人達は爆発していた。
が、8月6日になると、どこかよそよそしく、正装で慰霊祭へ向う人よりも、早朝の日の出前には、もう慰霊碑は線香の煙につつまれて、慰霊祭の時間にはラジオからきこえる鐘の音に黙祷している人が多かったように見えていた。
慰霊碑正面にドームの頭を通過するVistaの左にある商工会議所のビルは、建替えられる際にこのラインの目障りだといわれ、黒い外壁におおわれたが、以前より一層その存在が浮き立ってしまった。そのころ夏の夕刻、慰霊碑の前に立つと、ドームも向うに市民球場のナイターの光と会議所の闇と北の薄墨色の空とが、三つ巴にVistaを遮るようにおもえた。
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地図にこの“Vistaヒロシマ”ラインを書き込んでみると、北へは太田川の上にのびて、緑井の阿武山にぶつかって、くだけてしまった。海へと南へ向うと、島々をかすりながらきえてしまう。そのまえに原爆資料館に直角にさえぎられて、Vistaのラインは公園の空間にとじこめられてしまっていた。
あのころ8月6日という、広島の大人たちのだれもがかかえている親族、知人の命日の感情がどこかウロウロとしていた。その訳はこのVistaの閉鎖性にあるのかもしれない。

原爆投下の翌々日の8日には市内の各地で救護活動が始まっていた。ドームの近くでは城の西の河畔の陸軍病院、白島の逓信病院、タカノ橋の日赤等々。
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この人々の活動拠点へ“ひろしまのVista”を慰霊碑から放射線状に拡げてつくられたとしたら、あの日の大人たちの“ウロウロとした気持ち”がくりかえし、くりかえし、空へ拡散していたかもしれない。
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1500年の歴史のある大阪・生駒の彼岸のラインのように、これから1500年“くりかえしません”とくりかえせたかも、しれない。8月8日の救護や治療の現場に“くりかえさない”という言葉への疑問は生まれなかっただろう。 そこに“祈り”では表せない、足りない、なにかがあったのだろう。
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by forumhiroshima | 2014-02-26 12:23

広島という町を設計する-6 Vista/見通しライン

真・南北そして、真・東西を軸線として、寺社や古代都市、さらに時間をさかのぼって古墳の石棺の北枕の設定、弥生時代の巨大建築物、縄文時代のストーンヘイジ(夏至の太陽が中央に日を差し込む)のような石造物も造られている。
南北と東西に区切られた区画は太陽光線を均等に家々が受けられ、同時に時刻を感じることができる。日陰、日向の感覚はもっとも基本的な感覚ではないだろうか。
が、太田川河口の三角州の島に新しくつくられた広島城と町並みはこの真の南北の基本線から北東に約16°傾いている。何故なのか?。

1588年に広島城建設が吉田・郡山城で決定され、毛利輝元が1591年入城している。設計建設のスタッフは義叔父の穂田元清、二宮就辰を奉行としその下に佐東広島之堀普請は二名、それに出雲から平田屋惣右衛門が加わっている。輝元の叔父の小早川隆景、そのころの毛利一族の最高実力者は本拠に三原城を沼田川河口の小島を使って建築をすすめて、河口のすこし奥の高山城から降りてくる。三原城は“浮城”と呼ばれるように海に浮かんでいる。広島城も太田川の河口の瀬戸内海との渚に設計された。吉田・郡山城から瀬戸内海へむかって毛利氏一族は侵入を始めたようにみえる。南北線より海への方向の選択であるようだ。

毛利氏によって滅亡させられた太田川河口を領地としていた武田氏の城のあった武田山の北東に、彼らによって毘沙門天が祭られている。長い参道を振り返るとその正面の武田山山頂がみえる。毘沙門天が武田氏の守護であることがわかる。武田氏のVistaだろうか。しかしスケールが小さい。
このラインは古代山陽道を区切っていて、またここで安川を山陽道は渡河するから通行税徴収の関所でもあったか。このラインは45°の北東への傾きで真南北線の真の南北線を感じさせている。毘沙門天ラインはただの風水方角思想からかもしれない。Vistaとはいえないだろうな。
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毛利氏の祖先が開幕に深くかかわった鎌倉幕府の都市設計はどうであっただろうか。「吾妻鏡」という鎌倉幕府の歴史書に、幕府庁舎の移転や、鎌倉のVistaとおもえる鶴岡八幡宮の参道の若宮大路、これは頼朝が妻、政子の安産祈願でつくらせた文字どおりの若宮大路(王子?)、などの設計・施工について「夜になって、御所と法華堂で火を燃やし、往復して方位を調べ、・・夜明けまえの山に登って二点間を見通し・・」と測量風景を記述している。間竿、間縄などの目盛付きの縄張作業道具を使っていたようだ。若宮大路は北東に27°の傾斜でつくられて、海にむかって伸びっぱなしのエンドレス。これは八幡神の海からの降臨とでもおもうほかないVistaだろう。ここに真南北線の設計はみられない。
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幕府よりずっと昔の794年から805年に建設された平安京の設計図が復元されている。南北線を決定し、東西の直線で方形に区分されて、風水思想をその中に落とし込んでいる。ただ、当初からその設計図いっぱいに人々が居住してなく、860年代には中央線、都のVista朱雀大路、当初の幅84mは牛馬の放牧がされ、クロサワ映画「羅生門」に描かれた盗賊たちの巣だったという。設計図先行の平安京ではあるが、今もその設計図が生きて京都の街になっている。妄想として京の夜をこがす五山送り火も平安京の施工に関係ありはしないだろうか。送り火は平安時代起源という話もあるのだが。
京都は叡山千日回峰行の都の行道を廻ったぐらい。三条、四条と繁華街に圧倒されて、またどこも結構物価高くて、親しめなかった。回峰行ルートも中世の叡山領地の見回りルートってことでもあったようで、ぎくしゃくしたコースで、動物たちのマーキングみたいだった。方向が掴みにくくて、ルートハンティングは結構難しかった。が、街に方角を感じたのは送り火の跡を山腹に見つけたときだった。
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毛利の居城であった安芸高田市吉田の郡山は麓に清神社が鎮座しそこを中心に土地区分に方丈があるのだが、郡山という地名が示すように、古代の郡の役所のあった場所だろうといわれており、区分は古代条里制の遺構だという。毛利氏が広島から移った萩の都市設計にも真南北線はみられない。

古代の都市設計・真・東西、南北ラインが現在もVistaとして強く存在している町がある。
「大阪の町並みは、中心部(上町台地西側・土井)にかぎっていえば、じつに整然としている。そこを走る主要な道路が、どれもきちんと、南北と東西の方向に走っているからである。南北に走る道路は「筋」と呼ばれ、東西に走る道路が「通り」といわれる。・・大阪には南北と東西に向う二つの軸線があり、それがこの町に基本的な座標軸をあたえている。これは京都の町並みの構成を考えてみれば、ごくあたりまえの都市計画の考え方ともいえる。しかし私は、大阪に限っていえば、その二つの軸は、近世の都市計画の思考によって決定されているのでなく、まさにアースダイバー的な古代的理由によって決められている。 大阪アースダイバー/中沢新一」
これは東京の縄文時代と弥生時代の遺跡、および寺社た墓所の位置をマッピングして、東京をサイクリングし出版した「アースダイバー」の続編で、自称、縄文地理学者の中沢さんが、大阪をアースダイビングした報告書だ。
彼がニーチェの叙述から引用したアポロン、とデュオニソスのラインの意味は、理解困難でむつかしい。理解しようと、追っかけると中沢マジックに落とし込まれてしまう。

デュオニソスは酔っ払いの神様みたいで、身近に感じる。中沢マジックではこの東西線をはっきりとは書いていないようだ。アポランラインは大阪城から真南へ、古代難波宮の朱雀大路ラインだが、デュオニソスラインは南北に長い生駒山山塊から帯のように西へ広がるライン、らしいがよく判らない。
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生駒の峠を北から全てを走っている、輝かしい?経歴の自分からすると、「オレのと違うナァ!臨場」。東西のラインは帯状ではない。四天王寺の西門の真正面に春分秋分の夕日は沈む。そのあたりは夕陽丘と呼ばれる。太陽の沈むラインと四天王寺の西門のラインを生駒山まで伸ばす。そこに往生院という寺がある。春分秋分の夕刻、往生院の石段にすわって、ボーッと霞む台地に太陽が沈んでゆく地点に四天王寺に位置がわかる。四天王寺が浄土だという。そうおもわせる場所に往生を願う寺がある。まさに一筋のライン。これほど空間の真・東西のラインを感じる場所はないだろう。

夕日が上町台地の向うへ落ちてしまって、サテ!とネオンの街へ走り出す。大阪の夜は明るい、が、どこも同じに見える。鶴橋、今里なんて区別できなくつながっている。すぐそばの鶴見緑地は地下鉄建設の廃土を埋めた湿地というだけのドベタ。坂道もない。上町台地の東は南北の軸心もなく、すぐに方向音痴になる。場所を尋ねても皆さん電車の路線を教えてくれる。自転車なんぞ、乗るものじゃないよ、って。電車ならスグなのだけど、と、すまなさそうに、教えてくれる。
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by forumhiroshima | 2014-02-25 14:05

広島という町を設計する-5 出雲の実力

広島城の天守閣は城領域の端、西北にぽつんとある。すこし孤独な雰囲気がある。武士たちはここで暮らすのではないから、飾り的になった建築物は孤独になるのかもしれない。

しかし、象徴的であればもっと効果的な、たとえば北面の中央などはどうか。威風堂々ってことにならないかな。そんな感想で広島城下の設計基準がわからないままの時間をすごしていた。広島を設計する!などとタイトルするのではなかった、と後悔。でも、妄想は健在だ。

出雲大社の建設は、大和朝廷から「千尋のタク縄をもって結いて百結び結び、八十結びて、天の下造ららし大神の宮造らし奉れ 出雲国風土記」との命令がきて、高層建築になり、その実行部隊が盾縫・タテヌイの郡の人々だ。百結びに結ぶ人々の盾縫郡に平田がある。
(※余談。平田は古代、沼田という地名だった。古代の大和のジャンヌダルク,神功皇后が遠征先で沼田という場所に立ち寄った伝承がある。沼田の海で鯛がたくさん浮き上がって皇后を歓迎した。その鯛を採って皇后にささげた。その沼田は北陸の若狭湾のヌタ、広島・三原の沼田川河口、そして古代には宍道湖は西の海とつながっていたから、この出雲の沼田。この伝承は有名で、広島県では御調という名を郡名としている。鞆の浦の鯛網はこんなところからの伝承で始まったのかもしれない)

普通、沼田はヌタ場あの猪は泥のなかで毛についた寄生虫をとる場所とおなじ湿地帯のこと。出雲では沼田を乾かして耕作地にしたから平田だという。
出雲は巨大建築の実現できる人々であるだけでなく、土木建築の得意だ。風土記の国引き伝説で「北門の佐伎・サキの国を、国の余りありやと見れば国の余りあり」と引き寄せた国が狭田・サダでこの国に盾縫郡が所属している。佐伎は隠岐から頂いたことになっている。

中世の出雲平野の地図を作った人がある。江戸時代初めの1635,1637年の洪水で斐伊川は東の宍道湖への流入になったというが、西に流れ込んでいた斐伊川本流は天井川で常に氾濫するために、ある程度人為的に天井川になっていなかった東へ導いた側面がおおきいという。その東への流入地域になった斐川町の民家はあふれてくる水流に築地松の家屋森をつくった。北風対策といわれるが、築地の名の通り、すこし盛り上げられた土手に松が植えられている。水害対策も付加されている。その森を切りそろえるのは、訳もあろうが、出雲の自然それも水と風との対話のようで、古代の「百結びに結ぶ・・」というワザからの発展におもえる。
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出雲の土木建設の古代から綿々とつながることを、ぐだぐだと書いてしまった。
広島城が建設されるころ、中国地方に川の三角州に城を築こうと考えた武将はいない。松江城も岡山城も江戸時代に入ってから。今治も三原も三角州のような不安定な場所に建設してない。
城下の基本ラインは岡山だって松江だって真北に設定されて、横の道で方形な市街地をつくっている。広島城の特異性に、ぶつかってしまった。

出雲の平田屋惣右衛門は、広島城建設の決定のまえから安芸国の山中の吉田の郡山城に入っている。そこで基本の設計が決められたのだろう。太田川の氾濫源の中に城を築く目的はなにか?
毛利元就が厳島で陶 晴賢の軍勢を破ったのは村上水軍の助力なくては実現しなかった。「毛利方は・・河内衆(太田川中州)300、熊谷衆(可部)200に命じて厳島へ周防大島の宇賀島衆、大島・桑原衆を討たしめた。しかし熊谷衆は船になれず、みな酔って戦うことができず・・宮本常一・郷土の歴史」という有様。その記憶が城を太田川の河口に海上制覇の拠点として築くことにした。
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しかし太田川河口の三角州は土地も不安定で、また太田川が氾濫することはいつもだった。太田川河口でもっとも安定した土地は横川。そこは古くから地盤は氾濫ではこばれる土砂で固められ、また瀬戸内海の汐の干満の一番奥の渚。満潮の潮が太田川の流れを止めて、そこに急激に土砂を堆積させ、洪水のつど氾濫する場所はもうすこし海へ下がった場所になる。その目印が白神社ではなかったか。
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一枚の地図を見つけた。広島城のある広島の標高を示す地図が図書館にあった。そこへ広島城の堀の設計図を重ねると、もっとも横川にちかい広島の頭からながれる城北川(城ができたから城北川の名称で、その前の名はなにだったのか?・・ドウオデもイイジャン)から堀へ入水を設計し平田屋川へ排出する。満潮線は平田屋川と八丁堀の接点で、ここに樋門をおき城への海水に流入を調節。万が一水量の流入が多くなって平田屋川樋門で処置できない状態では垂れ流しにしている西塔川が自動調整。ここがあふれることの被害は町屋衆の家並み。ってなことでなかった。その調整機能は後に破綻し堀から水があふれる状態がおきて、八丁堀近くに東への堀、源太堀を開削し堀の断面をV字(薬をローラー粉にする薬研とにている)に造った。この断面は水との接面が2つ、四角の横・底の3面とは摩擦係数がちがう。流水スピードを求める設計になっている。と妄想はすごい状態。

平田屋川と八丁堀との接点に樋門があって橋はつくられ、城へ向っての右岸が中の棚。仲の棚の地名は沢山の土地にみられる。魚市場だ。棚は七夕姫のタナで神聖な場所。殿様への魚を納入ってことだろう。
このように中の棚への魚の搬入は船で、平田屋川はお城へのいろいろな物の納入路でもあった。後日やはり川の底は浅くなって、雑魚場と名が変わって、河口付近(国泰寺中学南)
へ移転したり中島にも魚市場ができる。この水流を設計してから400年出雲の土木技術がすごい!と、おもってますよ。

先日O氏からのメールの話を書いたけど、周防大島の南の片島をタレントの清水国明さんが買い取った話しが送られた。釣で行かれたらしい。油宇の町が大島にあって、そこは漁師のにおいのする周防大島では珍しい集落で、四国てのフェリーも以前寄航していたと聞いた。走りにゆきたい。周防大島の南海岸はどこも、○マル。ここらが毛利氏と対峙していたが、寝返った桑原氏一派の水軍のテリトリーであった、そんなにおいがこの港にはある。移住するなら、ここだと思っている。思っているだけですが。
周防大島の北海岸から小さなフェリーの運航がある浮島が正面にみえる西方が宮本常一さんの故郷だが、この浮島は毛利氏の厳島合戦のころは宇賀島とよばれ、宇賀島衆とよばれる水軍で、毛利軍と戦った。宮島で敗北し壊滅した。「宇賀島のごときは人一人住まぬまでに追い払われ、また斬られたらしい。というのは、今の浮島はその後新たに移住した四軒の家が暫次ふえていったもので、一時、完全に無住の島になっている。 宮本常一 郷土の歴史」 宇賀島では記憶が消えないから浮島とよぶのかもしれない。

広島城の真柱は太田川河畔の神社のご神木をもってきた。それ以外の調達は各地にあったが、この宇賀島からが大半であったという。その木材は平田屋川から場内の建設現場に運ばれ、尾道の寺社大工が建設にあたり、城下に尾道の町名があった。
村上水軍が毛利軍加勢の条件に、勝利のあかつきにはこの周防大島の領有をもらうことだった。村上水軍の大将、武吉は秀吉におわれ毛利家の家臣になり、周防大島でなくなっている。墓所の集落から浮島がみえる。
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by forumhiroshima | 2014-02-08 15:09

広島という町を設計する-4 おふくろの出番

広島を最初に設計した毛利家の面々の気分を街角や古道にさがして、その気分の一端をみつけだそうと、勢いよく?チャリンこ、で飛び出した。

城下町にはその町の武士たちの有り様があるとしても、やはりその縄張という設計の基本線があるはず。それは古代の天皇の城下町では朱雀大路。難波京・上町台地の大阪も平城京の京都もその痕跡はのこっている。そこには方形に区分された町並みの景色がある。一方東京・新宿や大阪・梅田のように街道が集まって散ってゆく町では、放射線に展開する街道沿いに伸びる町の景色がある。そこは方形に固められた効率よいが、窮屈な景色があり、拡がる放射線状の町並みは成長する“いきものがたり”な景色がある。

広島を設計した毛利家の面々の気分は、なかなか浮かんでこない。マイッタ!よ。長く暮らしている町なのに、です。
毛利家が1591年に広島を離れ山口・萩で城を築いたのが1606年。広島城設計から16年後に設計し建設した萩城下のラインは城のある山の名が月指山とよばれるように、(的場を指す地名と思えないか?ないか!)毛利家もふつうに設計基本ラインをここでは使っている。
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広島市発行の広島城下大絵図に広島城創設期に毛利家が建立した社殿の記録のある神社をピックアップしてゆくと、基本点だと自分がまじ独断で決めた「碇神社」、そして碇神社の真西1.6kmさきのにある横川駅裏の「三篠神社」も毛利家奉納本殿があったというから、とても気になった。この神社の発生は、ここに巨木があって、それを祀ったことが発祥だと伝承されている。巨木!目立つじゃない!測量の目標にる。

広島城の南を東へ、京橋川を越えた場所に的場がある。的場は古代幹線道路設計によって目標とされた場所の地名、文字どおり“的”で使われる。広島近くでの使用例で、たとえば、船越の日本精工の東の小さな川の名は的場川。ここには堀越とか掘口の地名があって、平清盛開窄の伝承があるように、何らかの工事を感じさせる。その的場(この町はいまは1,2丁目とひろくて的がしぼれない。が路地は複雑にのこっている)の西に稲荷神社があって、さらに西の京橋川の右岸に市杵島神社がみえる。そのラインをずっと延ばして本川に交差させると、そこのすこし北の広場に中津宮がある。中津宮はいまの青少年センターの建設で今のこども科学館のそばに移転さされている。この神社を元の位置に戻してみると、これですべてが直線ラインにおさまる。中津宮が九州・宗像神社の中津宮であれば、その祭神は市杵島姫だ。中津宮=市杵島神社。広島城天守閣決定ラインの見立山、宮島手前の海に浮かぶアマニジャク島ラインに移転以前の中津宮が乗っかっている。市杵姫は宮島の祭神。
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碇神社VS三篠神社ラインと中津宮VS市杵島神社・稲荷・的場ラインとはパラレル。そして南側のお濠のラインとパラレル。東西の町の道もパラレル。
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広島城と城下町の設計ラインは、南北ラインでなく東西ラインが隠されていたと、ものすごい妄想の結果、決定!
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中津宮の由緒書きが小さな祠のまえにある。
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ここに書かれた川本福一なる人物がじつは親父です。原爆ドームのすぐ真北にあった自宅を再建(親父は宇品で被爆している)して、再婚して土井姓になっている。なぜか?はよく知らない。
電車通りをはさんで廃墟となった護国神社(元市民球場で神社は城で移転)とこの中津宮の焼け跡の整理をして小さな祠を護国神社につくって毎朝参拝していたそうだ。
ある夜お袋が寝ていると、枕元に姫神が現れ(お袋はお立ちになったといっていた)小さな神社だが中津宮もお守りせよ!おっしゃった。そこで親父と二人して小さな祠を立てたといっていた。こけてしまっていた鳥居を動かすのがたいへんだった、手振りで話していた記憶がある。ような。

ずっと依然のある日、久しぶりで中津宮に参拝すると、この由緒書きがつくられていた。お袋の前にも、ここの姫神は夢枕されるようだ。(実は今オレに夢枕する姫神がおられる。まじ時々現れる。が、なにも言わない。きっと、はよブログ書け!ではないよね。血筋なのだろか)

広島城下町の基本設計は南北東十数度傾いて掘り込んだ西堂川、平田屋川、流川、薬研堀川だろう。この南北ラインは市杵島姫の東西ラインの直角に交差させで基本ラインとした、と妄想の結論をつけてみた。が、まじ“神がかり”っぽいですね。
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とはものの、なんだか、落ち着かない、です。
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by forumhiroshima | 2014-02-07 19:00

広島という町を設計する-3 神と仏のライン

広島の町を出て関西で暮らし始めて、お客さんであったOさんから、折々にメールをいただいた。250円の居酒屋の生ビールがはたして、発泡酒かビールかの味の判定に熱くなるような自分に対して、高級ワインの味がわかる、おおきな食品会社の社長さんだった人だけど、速くもなく長距離を狙うわけでもない彼のサイクルライフをそのつど伝えてくるメールは魅力あるものだった。そして、暖かいものだった。

そのOさんが一月中旬に初詣に岩国城そばの白山比咩・ヒメ神社への初詣の様子のメールをいただいた。そうそうそんな神社があったなぁ、と読んでいて、そうだ広島の白神社の祭神もこの比咩さんであった!と想い出した。海の岩礁がなぜ、白山なのかと、印象にのこっていた。
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HPのカウントがすこしづつでも毎日加算されているのに、もう3ヶ月も更新してない後ろめたさと、自転車で走らなきゃ書かない、書けない自分にいらだちも感じていた。Oさん、ブログ更新しないけど元気か?とのメールもであったのだろう。白山比咩神はもしかして広島城の守護神では?と想い出した。

母校の小学校が神社そばの袋町小学校で、神社の秋祭りの日は午前半休。先生が白神さんはね、海に突き出た岩だったころ、船がぶつかって難破しないように白い紙を張ったから、白神さんってゆうんだよ!と話してくれた。だから書道の白い紙を張った友達もいた。がすぐに剥がれてしまった。
紙を張ったのは、ほんとうだろうか? このことも、どこかに引っかかっていた。

白神社の隣、いまはANNホテルになっているが、そこに広い国泰寺があった。この寺は広島城完成と同じころに安国寺として建立された。牛田、不動院もその昔の名は安芸国安国寺である。
祇園の武田山にあった武田城の主の武田氏が毛利元就によって滅亡さされた。その時武田家の子息が安国寺にはいって出家した。そののち京都で彼は高僧となり、のち毛利家に仕えることになる。そして広島城の南、白神社そばにあたらしく安国寺をつくり、のちに国泰寺と名を変える。安国寺恵瓊・アンコクイエケイと呼ばれた。うまくリクルートできた。しかし、関が原の戦いののち家康によって打ち首になっている。
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牛田・不動院とこの国泰寺とが、広島城の基本線では!と、結んでみた。広島城の最初の絵図には白神社と国泰寺は南北に連なっている。白島・碇神社は海底の岩を感じさせるが、白神社は現れた岩礁。この白山比咩さんもこのラインに参加している。

白山比咩神をネットでしらべてみると、ククリヒメ神であるともあった。ククリヒメ神が白山比咩神であるといいだしたのが、平安時代の大江匡房という学者だといい、その孫の大江広元が、彼は鎌倉幕府創設のスタッフ。その4男季光が相模国毛利荘の領主になったことから毛利氏と名乗りだしたとある。そののちの12世が毛利元就。大江氏も毛利氏も同じ家紋を使っている。
一文字三ツ星。この文様は一品の図形化。それは古代土師氏の一派の大江氏の祖先に平城天皇の皇子の阿保親王の落し胤があるとしており、親王が一品の位置であったことからこの家紋だという。NHKの番組でもなく、ましてラーメン屋さんの名でもない。
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ククリヒメ神はイザナギ、イザナミの仲を取り持った神で、二人をククッた神だからククリヒメだ、らしい。
毛利、二川とよばれた小早川,吉川氏のその吉川氏の居城の岩国の白山比咩神社から妄想がふくらんだ。小早川氏の居城の三原や竹原に白山比咩神の鎮座所をさがしてみたが、ないようだった。

不動院と白神社を結んでみた。平田屋川のラインと平行っぽくみえるけど、天守閣は通らない。どうも基準線の予想は外れた。白神さんは白い紙をはられていたのだろうか。
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このラインではないが、まだあきらめない説をみつけた。毛利氏の広島城下町に白神通りというラインが天守閣から南下していたという。紙屋町の交差点の西の電車の停留所のそばの信号機のある交差点。北側がそごう。元デオデオの横の南北のライン。これが名を変えて大手町通り。天守閣を町人に見せ付ける上から目線のラインだと、広島工大の先生は発表されている。納得するけど、でもこのラインを設計した基本線はどこからでたのかは、論文では言われていないようだ。平田屋川のラインをひく基本線も解決できてない。が、この南北ラインはなにかある!
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余談です。
大江氏は古代の土師氏が源流。出雲大社の千家と同じ祖先・アメノホヒをもち、菅原道真もこの土師氏からでている。神と血筋をつなげるというこの国のとても不思議な常識がここにある。図書館で広島城の資料を調べていて、日本家系辞典なるものを発見して、覗き込んだ。大江氏の今日の有名人に大江健三郎が記載されていた。ヒロシマノートはそんな彼の血筋から・・?てなわけないけど。彼は家系などに最も遠い存在だろう。きっと記載してほしくないと思ってるとおもう。おかしな辞典もあるものだ。
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by forumhiroshima | 2014-02-05 17:28

広島という町を設計する-2 基本ラインがきまらない

毛利輝元の広島城建設の決定から、叔父さんにあたる毛利家の二人と出雲の平田惣右衛門の建設チームが決定された。広島城の天守閣の設置ポイントは、A・二葉山と己斐、旭八幡神社のラインとB・宮島・牛田の見立て山のラインに交点に設定されたという。

Aラインはうまく天守閣ポイントへ重なるが、Bラインの宮島の弥山山頂ではいまの天守閣へ重ならない。見立山は牛田山の西尾根で神田山とよばれる。この麓の水源地敷地に元・神田神社がある。このあたり(というのは水源地は戦前軍事施設でここにあった神田神社は宇品へ移転さされている。元の位置はわからない。神様が移された宇品、神田の地名はこのことによる。地名は神と一緒に動く。)としか見立てた位置をいえないのだけど。城の位置の決定した場所は神聖な場所として記憶されたにちがいないのだ。元、神社がだから戦後再建される。元・神田神社あたりから広島湾へでるラインを宮島へ向かわせると、津久根島(アマノジャクの島)を通ると天守閣に重なる。わかりやすい。
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HP“あの町この町 加藤徹”に見立て山から広島湾の写真が掲載されていて、小さくアマノジャク島があるように見える。(掲載させていただきます)
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コレで見ると、どうもアマノジャク島がポイントでイイカ!!になりそう。自分も先日、広島城と神田山へでかけてきた。ママチャリ、ギっちら。クッションきいてるサドルではお尻動かないからイタイ!のです。お猿のお尻です。その努力の甲斐なく当日、霞んでいました。

この国の古代からの首都。藤原京、平城京、木津川ほとりの恭仁京、平安京すべて同じ南北のラインを使って、例えば藤原京の西にあった直線に北上する古代下ツ道が平城京の朱雀大路になるというように、南北ラインがリレーするようにその都市設計につかわれる。天空の中心、北極星・北辰をポイントとしてきた。真北へ向かい決定すると背中が真南になる。この方向を決定し、180度クルリと廻り南向きを決定する。そのことを“指南する”という。
そして支配者たちは稲作を運営の基としてきた。南北のラインを稲作する田園の設計思想としてきた。太陽の運行ライン。そのことはこの国の景色を決定した。
このラインはこの国のオリジナルではない。もちろん、中国からの伝来した思想だ。

4世紀末の詩人、陶淵明の「桃花源記」に田園風景のあぜ道を「阡陌・センヒャク」と表記されている。「阡陌」は東西と南北に直線でかこまれた水田で、その囲まれた地面は長方形か正方形になり整然と連なることになる。古代条里制といわれる水田の景色で、そこのある民家の周囲に咲く花や木々のある景色を、この国では「桃源郷」といったのではなかろうか。それに対しているイメージは、エルドラド・黄金郷。アメリカ人の理想郷になのだろう。彼らはシュール革命とかはじめて、また地球食いつぶすつもりのようだ。「金」があれば、世界遺産の景色も高級リゾートも思いのまま、ですよね。たしかに。スケールちがう。

この国の天皇の居城は南北に整然と方形な空間につくられ、その周囲も方形に広がる。
それなのに、広島城の東に設定された直線は、真北をむかうラインからははずれている。これは城郭の設計として、とてもむつかしい。どう縄張したのだろうか。

縄張にひつような、設計図で、直角形をつくることは3,4,5の長さの辺の三角形をつくればもとめられる。ピタゴラスイッチ!!?
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設計図の北を実際の現場で北方向を求めるには。
直線を延ばす方法は。
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こんなことは、この国では3世紀からの古墳つくりでご承知なんだ。

なのに、お天道様のラインを持ち込まなかった広島城とその城下町の設計、設計をこの時代には縄張というのだが、縄をのばす先に目印を置くことしでラインつくるのか、と素人考えで、平田屋川の南の目印をさがしてみが、まったくケントウつかない。
江戸時代、すでに城主が浅野藩になっているころの絵が図書館にあった。平田屋川の河口、いまの広大跡地の東、東儀医院の前にあるお稲荷さんでも見てみようか、と出かけた。
お稲荷さんは平田屋川が大きく東に曲がるあたりにあった。
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このお稲荷さんへは大学のグランドから、ほとんどだれも使わない東門をぬける場所にあって、そばにそのころ流行っていたジャズを聞かす喫茶店へいっていたな。と、我が青春ラインをたどって構内へ入ってみた。廃墟のような雑草のしげる景色のなかにそのころの建物の位置が思い出されてくる。広場の向うに平田屋川、いや地蔵通りが2号線にでる出口がみえる。平田屋川のラインが向かってくる。このあたりになにか縄張の目標物あったっけ??グランドには通っていたけど教室には・・。
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by forumhiroshima | 2014-02-04 16:49

広島という町を設計する-出雲の住人

「洗いざらしのジーパンひとつ 白い花咲く 故郷が   あー誰にも故郷がある・・」
昨年8月 帰郷して、久しぶりの故郷の、生まれ育った中央を 遠くはなれた南区の
山の南の麓から、ママチャリ踏んで訪ねても なつかしいお店は消えていて 自分の影も見つからない・・・

「子供のころであった。私の弟が、よく乱暴をしたり、泣きわめいたりすると、叔母や祖母たちは“おまえは 広島の橋の下でたらいにのせられて流れていたのを拾った子だから、かえしにいくぞ”と言ってたしなめたものであった。・・手に負えないような元気のみちあふれた粗暴に近い子はすべてそういってたしなめられたり、おどかされたりしたのである。
・・私の子供心には、広島に大きな川があって、その川の川上の方から、子供をのせたらいが次々に流されて来 川口付近にいる船が、その子を拾い上げては帰ってゆく。橋の下の船はほうぼうからあつまったもので、それが子供をひろうと、またほうぼうへつれてゆく。どの船にも生まれたばかりの子供がつまれている情景が心の底にやきついていた。
  その広島というところは死んだ人のゆくところでもあったようだ。人が死ぬと“あの爺さんも広島へたばこ買いにいったげな”とうわさするものがあった。・・広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。」宮本常一・わたしの日本地図/広島

広島湾の南の海から、広島全部をすっぽりと抱きかかえて、抱きしめているような周防大島の北海岸から、冬空には透明な青の奥に北風に流される雲の下に振り込む霧のような雪が見える。原子爆弾の閃光もみえたという常一さんの故郷から思う広島はシュールな都会だったのだ。

仁保島の資料調べで、であった常一さんの“広島”の印象は、とても民俗学者の彼が書くいつもの明快なものと思えなかった。“広島”が妙に明るく冷たく幻想的であるのだ。この叙情的な文章に出会ったとき、故郷を離れて「誰にも故郷がある・・」と気付き、故郷という外からの感覚がすこし生まれてきた自分の気分を「広島という地」に、向わせたくなった。常一さんのシュールな感覚を掴んでみたくなった。
“広島”を訪ねる?はじめは大田川河口に砂洲の島を出現させた岩盤の上にあらわれた岩礁を神とした“碇神社”だった

広島の地名は、毛利輝元が家臣に築城を命じた「佐東(佐伯郡東)広島之堀普請1589年」という文章が始めだという。市立図書館で広島城を資料を相談してみたら、こんな物は?と地図を見せられた。現在、今の地図に広島城(江戸時代)とその関連する施設を重ねて製作された、広島城周辺、北部、南部の三部セット・広島城大絵図だった。
広島市中区役所の地域振興の担当へ電話すると1セットなら在庫あるといわれ早速に受け取りに走った。
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地図の碇神社をみつけて、城から南へとたどってみると、金座街から福屋の西で電車通りをこえる直線に道へ入り込んだ。定規でも神社からの南方向への直線がスッポリと金座街から並木通り、地蔵通りと入る。そのラインは広島城の東の外堀とそこから流れ出る平田屋川であると表示されている。
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広島城は毛利家臣のほか、平田屋惣右衛門にも町普請が命じられたとある。毛利氏によって消滅せられた、尼子氏の武将であっともいうが、毛利氏と関係深い商人で、出雲・平田の代官をつとめ、平田の町つくりを進めた。(しろうや広島城シンポジュウム レジメ)
出雲・平田の運河・舩川(平田船川)の開削、治水を行い、今に残る木綿街道を残した人物だという。
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  明治32年発行地図
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この平田整備事業の守護神が出雲国風土記の記載のある宇美神社だという。読みのとおり海の神様だとすると、碇神社の祭神が海の神であることと関係あるのかと思う。平田では斐伊川を、広島では大田川をさけて運河をつくる技術が平田屋惣右衛門にあったのだろう。彼の事業の守護は海の神ってことになると、自分はけっこうこの思いが気に入っている。

毛利輝元の広島城築城の際に海神の怒りにふれ成就できず、この海神をここに祭った伝承が「広島城大絵図」に載せてある。碇は怒りであったし、海神は平田と重なると、自分、かなり機嫌よくなった。
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by forumhiroshima | 2014-02-02 11:39


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