こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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広島という町を設計する-13 城下のきつね

広島城下に常葉稲荷が六つあると聞いた。常葉橋ちかくの饒津神社にある稲荷がその一つだろう、と想像できる。神社東隣の明星院は広島城天守閣の位置決めのポイントとの伝承がある。中央公園でそれを実感した。
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太田川河口の中洲の砂の下の岩礁が己斐から比治山にむけて登り勾配になっている。この基盤の岩礁が現れるのが白神社あたり。神社の西の平和大橋の橋脚は西から24m、20,18,16mで岩盤に達した。白神社本殿よこに稲荷が鎮座する。白島の碇神社にも稲荷が鎮座している。ここも岩礁の伝説がある。常葉でなく常盤の字なら岩礁を連想する。常盤だったのでは。この岩礁の露呈する場所が広島城建設のポイントであるらしいと、妄想している。

測量をして土地を起こす際に使用した測定のポイントであり、測量道具を作業終了後に納めるのが稲荷神社だという。測量を縄張という。ただ、神社が測量のポイントに置かれる場合が普通にあって、置かれる神は稲荷神だけではない。

稲荷の発音から“鋳ナル”と関連し鋳物鍛冶の神ともされる。稲荷の鬼火とも関連して陶芸や製鉄の現場にも勧請される。十日市の鍛冶屋稲荷などはこのケースかもしれない。稲荷町の稲荷は、広島城建設前からあった鍛冶塚の地名の場所に鎮座している。
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広島城下の稲荷神は、最もあたらしい、ガソリンスタンド経営の大野石油がつくった白島稲荷神社。ゆかた祭りのとうか(稲荷・トウカ)さん、新天地広場でいつもヨッパライに壊される紅桃花稲荷、中の棚稲荷、空鞘稲荷神社、などなど。
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稲荷神の多様さはすごい。
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豊臣秀吉の稲荷神への恫喝もすごい。養女の豪姫の産後のひだちが良くなく、その訳がキツネが付いての狼藉とおもい、伏見稲荷へ「野狐の所為とおぼし召され、・・速やかに退去すべし。さもなくば当社即時に破却せられ・・その類ことごとく殺し果たさるべき・・」。のち事なきをえたという。秀吉にキツネさんが憑いているように見える。だから仲間を殺すわけない。きっと伏見稲荷の神官がきにくわないのがいたのだろう。秀吉をしてその神官を脅したのだろう。

アースダイブする手法を構築した中沢新一さんもすごい。
「稲荷神社はたいてい古墳や古い埋葬地のあった場所につくられている。古墳の横穴に好んで狐が棲みついていたために、稲荷神社の神様は狐ご本人となっている。そうして古代の埋葬地の近くに世俗との縁の切れた空間ともいえる寺がつくられた。アースダイバー」
長州藩士の吉田松蔭は江戸で佐久間象山の塾にはいり、のちロシアへの密航のためロシア艦隊の停泊する長崎へむかう。この企てを佐久間象山に話をした。これをきいていた佐久間象山の妾のお蝶は、松蔭の企てがうまくゆくように、稲荷神社へ日詣りしている。(司馬遼太郎・世に棲む日日)佐久間象山塾はいまの銀座6丁目、歌舞伎座のすぐ南にあった。お蝶が日詣りした稲荷神社の候補は2つ。東の築地本願寺そばの波除稲荷神社と西の新橋に烏森稲荷神社になろうか。
「もともと新橋駅ちかくの烏森と呼ばれたあたりに、なかなか霊力の強い狐の神様を祀る神社があった・・。そのあたりは元武家屋敷だったから、怖いお狐様の神社は遠巻きにされていた・・(銀座は明治初期に大火にあっている)武家屋敷がなくなると・・一大花街の新橋、セラピーの町になってしまった。アースダイバー」と中沢先生のいう烏森稲荷か、水神社ともいわれる波除稲荷か。ドッチ!
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「松田松蔭・・もはやこの若者が常人であるかどうか、うたがわしくなってくる。司馬遼太郎 世に棲む日日」霊力か、波除の安全安心か。ドッチ!
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by forumhiroshima | 2014-03-25 11:13

広島という町を設計する-12 毛利のレジェンド

変化した町
毛利氏は広島城を完成させ、そして内装一般の整備がやっと終わったとおもったら、「関ケ原ノ役という大変動期を切り抜けぞこね、敗北者の側に味方したいため・・36万9千石の防長二州にとじこめられて日本海岸の萩に城をおくことを強制され、・・中ぐらいの大名におとしめられ・・ 司馬遼太郎」と広島城から出て行った。

「毛利氏に代わり、安芸・備後49万石の大名となった福島正則は、・・領内の把握につとめ、城の北に通っていた街道を城の下、南にひきこみ、町人町の領域を広げるなどして、・・ 広島城総合案内・広島市」町人町を拡大したのは、城下人口の7割をしめていた毛利氏武士団の退去により空地が増加。その空間を埋めるためだったという。移動させた街道を、今の堺町から北上する街道を整備して、出雲・石見街道とした。
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福島正則による街道の移動により、海への大動脈として掘割された平田屋川・西塔川に、それまで城の東口にのみにあった平田屋川の渡橋は川下に増加されて町内に架けられた。縦の海への展開はブッツりと、遮断された。
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毛利氏の海の同盟者で水軍の将の村上武吉は秀吉の海賊禁止令により、周防大島に蟄居した。縦から横へと町の変化は、毛利城下にあった立町に加えて、横町を元安川左岸に成立し、横道が縦で遮られる突き当たりの町、袋町が出来たようだ。
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私は袋町小学校出身で大好きな学校でした。だからか、どうも人生はいつも袋小路にはいります。ヘッヘ関係ないね。

いまの立町から八丁堀、胡町と並ぶ電停は、上り下りの停留所は交差点の対角線の位置にある。交差点を縦、横と渡って電停にゆくこともある。旧市内で東西、横に貫くルートは西国街道だけで、これに交差するいくつもの縦のルートとの交点が多く出来た為の残影ではなかろうか。そして、にぎあう交差点がこれまで時代ごとに移動してきたからだろう。それとも広電の趣味かな。バス停もおなじ混乱があるようにおもう。そうなら、歴史的結果だ!。でしょうか?な。

吉田・郡山城下から、南下してきたエビス
エビスたち
広島城HPに「引御堂と胡堂」の記事があった。記事の要約。『毛利氏の広島城建設以前におこなった検地で、引御堂という地名の記載があり、別に1575年に九州、島津藩の島津義久の紀行文に引御堂通過の記事があり、そこは今の古市になる。広島藩の「知新集」に西光寺に胡堂が付属してありこの寺は毛利氏の時代に吉田から、安佐南区古市に移動した。
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その場所を引御堂とあり、そののち広島城下の十日市、広瀬一帯あたりに移動した。そこも引御堂とよばれた。この寺が福島時代に東へ移動、一帯を胡町と東引御堂町とよばれ、十日市あたりは西引御堂町となった。西光寺は町年寄の指示のもと僧侶が管理した。町人の共同管理に運営が特徴。』

袋町小学校のころの11月20日のえべっさんはとても寒かった。えべっさんは吉田からおいでになった、と母がうれしそうに話していた。母の故郷は吉田と尾根一つ南、JR吉田口駅から数キロ。大きな町の広島に小さな町の吉田からきた神様が、やってきた。寒くてもあったかいフワーとした思い出。母のちいさな伝説の思い出。
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古市の胡堂、十日市町そばの榎町の恵美須堂と走った。古市、十日市と市場のたった場所に胡堂がある。
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八丁堀はご存知のビッグマーケットだ。ここに来て、胡神社はいつも見ている風景だ。が違った。胡神社の祭神は“大江広元・毛利輝元の祖先”とある。胡さんと合祀だけど。
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福島正則も浅野藩も西の毛利からの幕府のための防御ライン、といわれる。その城下のお堀の八丁堀に毛利氏の祖先が鎮座する。その証拠に大江広元の木造が祭ってあったが原爆で焼けてしまったという。そして写真があったともいう。
図書館へ出かけた。その大江広元さんのご尊顔を探した。たくさんのページをくりました。あったのです。なんと袋町小学校のパンフレット。なにせ学区ですから。
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いかに町民運営の神様だといえども、毛利氏の祖先を福島正則や浅野藩の城下の中心に移動させまつり、当地第一の祭りをおこなう。この不思議に“福島正則の妾さんに出雲御国の弟子の清七という女優さんがいた。この清七さんが吉田の出身だったことから、このラインで移動できたとも、そんなヨタ話があるくらいで誰も不思議だとおもったのだろう。
毛利氏も祖先を置いて行くってないだろう。幕末の長州と幕府との戦争の本陣は白神社隣の国泰寺に置かれている、広元さん、さすが、長州の勝利応援だった。毛利氏はこのために、置いていった!のでは?ないよね。

毛利氏は大江広元の墓を江戸時代1823年に鎌倉にあたらしく建てている。尾根中腹にある墓のふもとに石灯篭が1858年建立されている。毛利氏は大江広元を忘れてはいない。
翌年の1859年に吉田松蔭が萩から江戸に囚人籠に入れられて陸路で送られている。この囚人籠は西国街道を上っているので、胡神社の大江広元像の前を通っただろう。司馬さんは「世に棲む日日」で囚人籠の松蔭が備前で書いた詩を紹介している。

夢中の夢は真となり  醒めて後、 たちまち幻となる
いずれの時か  大夢醒め  人生のうれいを脱却せん

また胡神社に参拝した。暗く閉ざされたガラス戸にかしわ手を打った。松蔭の詩を写すために引き出した「世に棲む日日」を読んでみよう、と思った。
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by forumhiroshima | 2014-03-25 00:56

広島という町を設計する-11 広島のカイツブリ

海の王者の地位を築いた毛利の城が、王道の北辰・真南北のラインをはずしている。そのことに、こだわっている。地上の城の設計図からは、手がかりがみつからない。

中沢新一の“アースダイバー”から。  
「はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物達がつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーもカモメも挑戦して失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリが勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しんだ。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどりついた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料として、私たちの住む陸地はつくられた。北アメリカ先住人が語り継ぐ“アースダイバー”」

アースダイバー・カイツブリは潜って獲物を獲得する。その潜る時間がとても長いから“息長鳥・オキナガドリ”ともいわれる。ウイキィすると(※標準「カイツブリ」は、水を「掻いて潜る(掻きつ潜りつ)」が転じたか、「カイ」は、たちまちの意で、潜る時の水音が「ツブリ」に転じたとする説が有力。)とあった。
カイツブリは、鳰“ニヲドリ”とも呼ばれ、水に入る鳥で“鳰”の国字が使われる。夏に首あたりが赤い羽になるから、丹(タン・朱砂)を背負う(ヲ)鳥ともいわれ、仁保島の海をニヲ海、島南の丹那という地名,邇保姫神社のニヲ姫と連想される。ニヲの連想から本浦を香浦ニヲウラともよんだ。

“息長・オキナガ”のイメージから古代の女帝、神功皇后・オキナガタラシヒメを示す説があり、古代の息長族の居住地、琵琶湖の鳥とされている。オキナガタラシヒメは、海の神様、住吉三神との関係がふかく、大阪の住吉神社は皇后を加えて四柱が祭られている。

アメリカの先住民の伝説に、この国の古代伝承が、かさなってくる。悠久の時は大地の地中、海の中を流れアジアとアメリカをアースダイブしている。
「人間の心のおおもとをなしている泥のような“無意識”を抑制して、・・泥臭い(ドンくさい)“無意識”の介入なしに、スマートな合理的な文明を築きことをしてきた。しかしそうやって抑制してきた“無意識”が、いまさまざまな形のテロのよって、コンピューターに管理されたグローバル経済の社会に、挑みかかろうとしている。・・ぼくは自分もカイツブリにならなければ、と思ったのである。・・もういちど水の中に潜って、・・一握りの泥をつかんで・・それを材料として・・心を泥からこね直すのである。・・そんな気持ちで東京を見回してみると、・・そこには大昔に水中から引上げられた泥の堆積が、そこここに散らばっている・・スマートさの極限をいくような場所のすぐ裏手に、とてつもなく古い時代に心の底から引上げられた泥の堆積が残してある。この不徹底でぶかっこうなところが、私たちの暮すこの社会の魅力なのだ。」と中沢先生はママチャリでトキョウへ走りでて、「TOKYO一万年の夢、アースダイバー」を発表している。本に添付されているEarth Diving Mapには石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡に古代横穴墓、古墳、現状墓地と神社が洪積台地と沖積低地に色分けされている。町名・大学・寺の名がそこに重なって書かれる。カイツブリの中沢先生は地中へダイブ!だ。
マア、おすきにしてください。

広島のアースダイビング
広島城の建設、町づくりから400年の時間の経過がいまの街。まだまだお城はあたらしい。太田川の三角州に石器時代はない。“スマートさのすぐ裏手にある古い時代”はこの町には望めない。しかし、大地は大地だ。広島のアースダイブのMAPを探してみた。

2万年前に瀬戸内海は陸地で1万年前ごろは今より100mほど海水面は低く、縄文時代にむけて上昇を続け、6000年前に4mほどいまより高い位置に海水面があがっており、それから現在の海水面になっている。瀬戸内海が陸地の時代、太田川は大分と佐田岬の間から太平洋に流れていた。
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最終氷河期の予想水系図の川の流れをえどった黄色のラインは中国地方の河川の方向がある角度でパラレルであることと、直交することを強調したもので、これはリニアメントとよばれるライン。関東平野の印旛沼のリニアメントを書き込んだ図をみてもらおう。
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「関東地方ではこの直交する方向性が4000mの深部の岩盤中に存在している。地上に表れるリニアメントは基盤岩盤中の構造的割れ目を反映している。同じ走行のリニアメントは佐渡に現れている。その成因はプレート運動の際に働いた力だろう。 地下水と地形の科学・榧根勇」
このプレート運動を中国地方に置き換えた図はプレートの作用が中央構造線に対して約30°の角度で表出するとある。※日本の地形6
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プレート運動が、吉和からはじまり、戸河内で直角に曲がり、可部で再度直角にまがる太田川のコ字の流線への作用を示しており、太田川のリニアメントとして現れている。
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広島のカイツブリが潜って掴んだ泥は、とても熱いマグマだった。
もっと細部をみてみよう。福島以降よくでてくる断層帯だが、広島市周辺の断層帯の図がある。可部から南下する太田川の流線を延ばして中国山地へむけるラインより府中大川のラインがストレートにのびて理解しやすい。
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地中に潜るつもりで、実は空高く昇ってランドサットの気分になってしまっている。広島城下の設計図が書かれた時代の景色がわかるもの、それも地中のもの、を探してみた。

なんと「広島平野の沖積層下の埋没地形図 広島県史」を発見!
「花崗岩からなる基盤の地形は大芝町から草津をむすぶ線が最も深く、ここから東へむかって次第に浅くなり、白神社の旧顕礁をはじめとする三角州内の丘陵として、基盤が地表に現れるようになる。・・埋没地形 広島県史」
平田屋川、西堂川、これらは基盤にそった“キズ”のようである、埋没谷の存在が予想されている。そして白神社(神社の東の水のない池の同じ基盤であるそうだ)、そして広島城天守閣は基盤の地表への表出にほかならない。
太田川は横川に扇状地を基盤の上につくり、基盤に書き込まれたリニアメントにそって陸地であった瀬戸内海へ流れ込こみ太平洋へつながっていた。これが広島アースダイバーMapです。
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ここまでは、述べたことは、もちろん我が妄想である。それは学問的に証明されてないからではない。なぜ広島城の設計図はプレートのパワーにそったセンターラインを持っていたか、そしてそれを知っていたのは?が証明されてないからだ。

それでも浮かんでくる一つの回答がある。それは海の底、中、海面を熟知して、鮎の遡上、メバルの群れ、チヌの溜り場、海老や貝の運動場、などなどを日常に見ている人である。海神の人々である。その人々の長い経験の伝承であるとすれば。   と語るのは、きれいごとのまとめにすぎない。だろうな。

実際に広島城のセンターラインをどうして決めたのだ!その人の情報をだれか教えてくれ!!

予談ですが。府中大川からニヲの海にながれこむリニアメントのラインは比治山の東の基盤をもっとも深くえぐる。大河の地名はこの溝の流れによる、と。すれば6000年前の記憶だ。比治山の貝塚は大河の対岸になる。予想してました。 予談です。
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by forumhiroshima | 2014-03-17 22:56

広島という町を設計する-10 毛利氏の制覇へ伝説

広島城を太田川の河口に建設するという企みは、この城は海への砦、館だろうと思う。家臣が人口の7割を占めることからも、開かれた都市としては考えられない。西国街道からも遠く、城下に入る街道も整備した痕跡もみあたらない。
城から海へつくられた平田屋川も西堂川もおなじく幅は13間約23.4mで石垣の護岸工事がおこなわれていた。ざっと現在では6車線、砦は海にだけ向いている運河だ。
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太田川河口付近の戦国の領主・武田氏は1541年、毛利氏によって滅亡。武田氏との同盟関係であった仁保島の城主の白井氏は、1551年に太田川河口に進出してきた毛利氏と草津や尾長で戦っている。そのころ毛利氏は五家荘とよばれていた河口一帯への進出、支配を始めていた。白井氏は戦いのすぐのちの1553年には毛利氏の支配下に入っている。このころから太田川河口の砂洲に毛利氏は埋立や水路の開削と島普請といわれる土地の整備をはじめていた。

1555年厳島合戦以後毛利元就は周防・長州を支配下において、太田川河口への城の建設を考えていたといわれる。長男の隆元の1563年の突然の死去があり、そして1571年元就が死去、跡を継いだ孫の輝元は「1589年二月廿日吉田の城より御出馬あり。・・御城地お見立てあるべしとて明星院山、新山、己斐の松山、この三ヶ所に登り給いて、土地の陰陽要害考合あり。この地全く繁昌の勝地なりとて同年四月十五日、二宮太郎右衛門奉行として鍬初あえい。御城取は京都聚楽二条をうつして縄張あり。  1822年編集・浅野藩知新集」

1591年輝元が入城、石垣などのすべての完成は1599年慶長4年といわれる。翌年の1600年の関が原の戦いのあと、太田川河口への城建設を毛利元就が思い、厳島合戦から34年のときを経て着手し、建設に10年を費やした城をわずか在時9年で去って長州・萩に遷された。

「豊臣期には、毛利元就は豊臣家の財政感覚に似た家であった。というより、むしろ秀吉のほうが毛利氏の財政感覚を真似たのかもしれず毛利氏のほうがその方面の先輩であったであろう。戦国期、つまり自由毛利家の時代は、この家は山陰山陽十カ国のぬしで、王というにちかい。しかも源平時代以前から自立的に栄えていた瀬戸内海の島々の水軍のほとんどを戦国毛利氏はその傘下におさめ、その意味では、いわば海上の王であり、その方面の経済感覚をはちきれるほど持っていた。司馬遼太郎 街道を行く1 長州路」
「毛利氏は広島城を主城としていた。その広島を去り、防長二州に押し込められたとき、大内氏のむかしをおもって山口を主城にしようとした。ところが幕府は“萩へゆけ”と追いやってしまった。幕府は、毛利氏が山口のような便利のいい場所に府城を置くと、また瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手をのばすかもしれないということをおそれ、遠い日本海の漁村へやってしまったのである。 司馬遼太郎 街道を行く1 長州路」


1894年8月に開戦した日清戦争の兵站基地が広島の宇品港になり、10月に召集された第7回帝国議会が大本営となった広島城で開催された。現在は基町にある広島市駐車場西側の場所に造られた木造平屋建築であった。
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兵站基地になった宇品港は1889年に完成している。
宇品港の建設は巨額の費用がかかり、建設を推進した県知事の千田貞曉は減俸をうけ、新潟知事に転出し落成式には参加してないといわれる。26年後の大正4年に評価されて銅像と千田神社が建立されている。

もう一つ宇品港建設に際して、神社にかかわる話がある。毛利輝元が城の建設の場所を決定する際に訪れた牛田の見立て山(新山)にあった神田神社が宇品港の北に移転さされている。

※広島市HPより抜粋 「 神田神社は、文亀(ぶんき)3年(1503)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁公が祖国甲斐の国、今の山梨県からお城の守り神として牛田村神田に奉遷したのが始まりといわれています。当初は神田八幡宮と言っていたそうです。
最初は、現在の東区牛田にある東区スポーツセンター付近に建てられました。その後、武田氏は毛利元就公に滅ぼされ社殿は荒廃しました。しかし、元就公の孫の毛利輝元公が広島城に入ると輝元公は天正19年(1591)に荒廃した社殿を見かねて建て直し、守護神として祭りました。
明治22年(1889)神田神社の領地は旧陸軍省の軍用地となり、神田神社は牛田村、白島町、宇品町の三町村が協議の結果、当時広島県令であった千田貞暁公が造った新開地である宇品へ移転し、その護持を宇品の町民にまかせるようになりました。(広島市)」

自分には、この話にチョッと引っかかりがある。軍用地として接収されても、だいた転地は近い場所です。じつは今も神田神社は元にあった場所近くにあります、ってことで行って見たのですが、見つからなかった。そこで“広島ぶらりさんぽ”のHPで見つけました。掲載させていただきます。
氏神の神社を住民が協議して、手放すだろうか。事実、近くに移転させているのではないか。おおきな勢力の干渉があったにちがいない。それは?
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広島城が海へむかってつくられた。その運河ともいえる二つの川は浅くなって、もちろん大きな船は入れなかった。新しい港が宇品を埋め立ててつくられる。そこに毛利輝元が広島城を建設する際に建設場所を見立てた新山の神田神社を移転する。そして町名までも神田としたことは、瀬戸内海の覇王として雄飛する拠点とした広島城建設の企てを300年後に実現しようとしたのではないだろうか。この議会開催時の総理大臣は初代になる伊藤博文であることからも、連想が大きくなる。毛利氏は広島城を取り戻した。

ならば、宇品港の建設をすすめた千田貞暁は長州藩士に違いない!? 薩摩藩士でした。
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by forumhiroshima | 2014-03-15 19:27

広島という町を設計する-9 毛利支配、通り・筋・横丁

百万一心
広島城の資料に「近世の大名による城下町への家臣武士の集合化は家臣と領地との関係の希薄化による集権強化であったが、毛利家の家臣の広島城下への集住がおくれており、中世的な傾向がつよい・・」とあった。そのころ城下の人口の7割が家臣で、残りは普請関係者と家臣への消費財の供給をする商家だった。巨大な武士の館がそこにみえる。

毛利氏が広島を去ったのは1600年。すでに400年もすぎても、広島には毛利元就への残り火がくすぼっている。城の愛称の名をもつカープだけでなく、元就の三矢の教えからのサンフレッチェを頂くサッカーチームまで。そして孫の輝元が建設した広島城も、元就の事業と思っている方もおおい。たしかにそう思うことが素直だと感じる。

司馬遼太郎・歴史を紀行する。より
「“城も山陽道はこのましくない”と徳川家からいわれ、萩・阿武川の三角州に、ここに土を盛り上げて指月城を築き、田をうずめて市街をつくった。・・毛利家の持石を四分の一にへらされたため、家臣の大量の整理をしなければならなかったが、多くのもが無禄でも殿様についてゆくと泣き叫び、ついに収拾がつかなくなり、当主の輝元は幕府に、やってゆけないから城地もろともにほうりだしたい、といった。」
「広島から萩へつづく街道は、家財道具をはこぶ人のむれで混雑し、絶望と徳川家への怨嗟の声でみちた。どの家臣も食えぬほどにまで家禄をへらされた。それらは士籍をもちつつ山野を耕して自給した。農民になったものも数知れずいる。」
「はるかな後世、(※1863年)高杉晋作がクーデターを起こしたとき、農民1200人があらわれて陣営に投じた。徳川以前には毛利家家臣であったと称する者どもで、・・」

山口の人たちは、郷土が輩出する歴代総理はお殿様の江戸家老ほどの感覚なのだと、彼らの話から感じたことがある。伊藤博文のことでも、惨め過ぎる生家を保存公開している。
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司馬さんも元就がお好きだとおもう。「元就の印象として石橋をたたいてもなお渡らない、橋のはしにうずくまり、暮夜、槌でたたいているようなところがあった。・・大衆にうける照りのようなものが元就にはなかったにちがいない。街道をゆく21」
照りのない元就の記憶が、幕末に“家臣であった人々”を出現させる。その記憶の源の元就の存在が、きっと司馬さんを刺激するのだろう。元就の記憶の一つ、「百万一心」のキャッチフレーズを、そうだわたしは小学校で教えられたのだ!。

通りと筋、横丁
秀吉は造った京都・聚楽第をみたことで毛利輝元が広島城の建設にふみきらせた、という話がある。秀吉は朝鮮出兵の九州の基地になる佐賀・唐津の名護屋城へ出向く途中1592年に陸路広島城を訪れている。秀吉は城をほめたという。秀吉は東から城に入っている。この東からのルートに広島市発行の広島城下大絵図は“京橋筋”と注を記載している。
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広島城は平田屋川と平行する西堂川を縦のラインとして町並みが方形に並べられる。毛利氏時代の広島城絵図には家々が記載されそこの住人に名が横書きに書かれる。これから想像するに、家々の玄関は西向きに置かれていた。
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大阪では南北に走る道を“筋”と呼び東西になる道を“通り”。神戸もそうで海岸通りが有名だ。玄関口や商店の店先が並ぶ道が“通り”でその横の勝手口がある道が“筋”。表通りに対して横になるから“横丁(横町の読みをとっている)”。横丁の隠居は江戸の事情からの名称だという。コの字長屋の中心に井戸、時代劇でおなじみ、ヨッ鬼平!!。此処へ入る路地を押さえて大家の隠居の家がある。お政がそっと隠居屋敷前の水桶の陰にひそむ場所。だからこの名称は江戸のこと。どうりで、なじみがない。(鬼平は京都で撮影してるのだが・イランコト。)
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広島城下では縦のラインが“通り”になる。だから秀吉入城の道が“筋”と注がついたのだろう。
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京都は東西南北すべて“通り”。それは道へ各家の玄関口があけられる四方町だからだという。さすが年季、千年の古都らしい。
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ある町の古道や旧道を走っていて、この玄関口の有り様のチェックは、いまいる場所がメイン通りかどうか、がわかって面白い。すごくその町への妄想が拡がる。篠山盆地の古代山陰道では家の造り(切り妻、妻入り)まで統一されていた。そんな発見もある。
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広い車道に勝手口が開いていて、路地が玄関ってケースでは車道が新しい。車道が“筋”になるはずだけど、そうはいかない。新しい広い車道が“通り”になると、旧道、とくに平行してある旧道が“筋”へ格落ちする。
NHKの古い番組に「バス通り裏」があった。裏道抜け道。そうしてある種のおっさんを“筋者”と。広島ではR54に平行する寺町のお寺の山門が開く通りを、“寺町筋”。お坊さんとヤクザさん、どこかどこか!!。
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by forumhiroshima | 2014-03-08 17:45

広島を設計する-8

海人の記憶

碇ということ
広島城の設計の基本ラインが真南北ラインからずれていて、その訳が判らん。

太田川の砂洲が砂を溜めて海から浮き上がってきた大地らしき存在に、もっとも早くに足跡を残したのは海人たちだから、砂洲のなかで最初に海神が鎮座した筥島(白島)の碇神社を訪ねた。
記録では太田川の砂洲に早くに記録された神社は打越の八幡、比治山の黄幡があるが、打越の八幡は横川の最南端で砂洲の上ではない。比治山の黄幡は、いまは移転して比治山神社になっているが、もとは比治山の南の縄文時代の貝塚の発見された谷にあった。古代の痕跡ちかくに神社は建立されてることが多い。比治山の谷に鎮座していたから砂洲の上ではない。砂洲上の古い神社は碇神社だけになる。

筥島の碇神社へ紙屋町から牛田へのバス通りを北上して左にすこし折れて白島の電停につく。JR高架の向うの神社あたりへ車道はやはり左に折れるが、バス通りの真正面にあるように思えた。地図で確認すると、直線ラインの上にありそう。バス通りは広島城の東堀から平田屋川になる。いまの金座街から並木通り、地蔵通り。すでに埋め立てられた道ではあるが。
この平田屋川が広島城の縦のラインにちがいない。とすると碇神社と城、天守閣(これは山から見立てられた)が基点だとなる。と、妄想すると平田屋川の南端の基点があれば、広島城下の街並の縦横が方形であることから、設計全体が浮かび上がってくる。しかし、その南端の基点がみつからないから、“訳が判らん”となった。

“碇”という神社の名も基点らし。が由緒にあるように船の錨であるとはないはず。それはここが砂洲で常に砂が運ばれる浅い海であることから、錨は必要ないとおもっていた。碇を“怒り”と読み替えて、川の流れが岩礁にぶつかる状態、水流の怒りだと、自分をナットクさせていた。が、もっと状況証拠がほしい。

古代の“海人”を歌う万葉集の山部赤人の歌を見つけた。「・・海人アマの 海ワタの底 奥つ海石イクリに鰒アワビ珠タマ・・」   海石=いくり、発音がイカリに近い。これ、いいじゃん。奈良盆地の東の長谷から南の名張への谷道から、途中から山腹にあがった場所の赤人の墓へ走ったことが、きっとこの歌との出会いが生まれたと、満足、満足!!。

やはり碇神社は岩礁の上に鎮座されていた。このイクリが流れをせきとめ、ここから砂洲が生まれたのだ。舟の錨とは関係ない。
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碇神社の祭神は大綿津見神と神社正面の標示にある。
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この神は三神のまとまりの神様集団で、底津大綿津見、中津大綿津見、表津大綿津見。イザナミ神が黄泉国から帰還して祓えをしたとき住吉の神とともに生まれたと語られる。九州・博多湾の海の中道の先のある志賀島に鎮座する安曇氏が祭った志賀海神社の神。海の底、中、表面に神を置くのは住吉の神もおなじく底筒、中筒、表筒神の集団を祭っている。
志賀海神社に奉納されるのは海草と鹿の角。鹿角は漁具とくに釣針の材料で海人の県連する神社と鹿との関係はふかい。志賀海の志賀は鹿、と。この海神社は占いに鹿角を使ったといわれる。

神を三様に区分して集団として祭ること、大阪の住吉神社では本殿も姫神を加えて四つの本殿を田の字に境内に置いている。小さな家は並んでいて参拝にとまどう。どこから始めるか?この海の中での上、中、下の区分が不思議だった。赤人も“海ワタの底 奥つ”と歌う。どうしてか。

それが判ったとおもえる資料にぶつかった。赤人の歌といい、よく今日は資料がでてくる。その資料の水産資源の分類表をみていると、海の資源はネキトン(表面遊泳生物)プランクトン(海中遊泳生物)ベストン(底生生物)に区分されている。海人は潜って狩猟する。彼らにとって底、中、表面の各々の生物への対処の区分は当然の認識だったのだ。いま開催中の東大寺のお水取りの井戸の“鵜”はこの海中を自由に移動し狩猟する。そして地上から空中まで自由だ。人々の狩猟採取の鏡みたいな鳥ってことなんだろう。人様は地表をフラフラしていては海の神様のことの実感はもてないよ。
海を細分化して各々の神を置くとする人々は、ずっと古くから狩猟の生活をしてきた人々であろう。石器、縄文、弥生、古墳そして有史をこえている。そのことを強く感じた。

海人たち
厳島にVistaラインがあると、「神社の系譜 宮元健次」がいっている。
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このラインを弥山から通すと本殿、大鳥居が地図に落すと入らない。このラインは破綻している。しかし弥山・大聖院(宮島本殿西)・極楽寺・地御前神社のラインはあるようだ。地御前神社の成り立ちに仏教の真言宗へのかかわりがあるのだろうか。
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旧暦6月17日の満月の夜に行われる管絃祭に本殿から出発したご神体の乗る御座船が対岸の御地前に渡り、満潮時に帰還する。地御前神社は厳島神社からは対岸のフェリー乗場から北3kmの場所にある。この距離の訳を考えてみる。
この地御前は古代には安芸国佐伯郡海郷と呼ばれた場所で、海人たちが領有していた場所で彼らは厳島神社への神饌を貢納する人々であったといわれる。
ここに海郷があったという文献証拠よりも、海人たちの居住した地名が面白い。地御前の西の明石峠や峠の入口の明石はこの人たちの記憶だという。綿津見の綿、ワタの読みは、古代の海をいうハタやパタでもあるといって、八や幡、畑、波多、和田などもその記憶だという。ここに畑口の地名がみられる。地御前神社の北に住吉の地名もある。
広島湾は海人たちの痕跡といわれる地名の有数の集積地。
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海人の地名は黛弘道さんが提唱されている。私は走るときこの幾つかの地名を覚えていて、それにぶつかると、いきなり目の前の風景が消え去って、陸に上がった人々の痕跡、たとえば神社を探しだす。以前にであった海人の地名の場所と、今とのなにかの繋がり、共通点など探しはじめる。そこに何か見つかると・・・!。やめられませんよ。自転車の旅は。

旧暦6月17日 満月の大潮の日の管絃祭。大地が引力でもっともゆがむパワーエネルギーの日。そして夏至がちかい。空中は熱エネルギーがあふれかえっている。瀬戸内海では魚たちの産卵の日。クサフグの集団産卵は有名だ。海亀の産卵も月歴にかかわる。新月、満月のタイミング。生物たちの鼓動を引力の強さの感覚が押し込んでくるのだろう。そして熱エネルギーが持続力をはこんでくる。
パワーと持続をうける感受性、「熱すぎる」など言ってる自分達が失った感性だろう。まだ有るのなら、引き出せないのだろうか。自力走行してる自転車の上の自分はなにか感じてるように、おもえるのだけど。

月の周期は生物へ、だけでなく、大地へも力を押し込む。阪神大震災の朝は満月だったことはよく知られている。東日本大震災の日は三日月だったというが、なにかあるように思えるのだけど。

海人たちは陸の山を見立てして、位置を把握してゆく。夜の星空も見立てして移動してゆく。北極星の位置の重要さに加えて、機能的に位置をみたてしてゆくすべがあったのだろう。管絃祭では午前の満潮時に本殿をでて、夜半の満潮時に帰還する。海のパワーが祭りを動かしている。
太陽から方向は引き出せない夜の海での位置決めの方法を広島城の設計に取りいれたのではないか?。天守閣の位置を決めた神田山を見立山とよぶ記録がある。

碇神社の南方に見立てとなる岩礁があったにちがいない。天守閣の地盤も岩礁であったのではなかろうか・。と考えてしまう。なにせ基点が“海石”だから。
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by forumhiroshima | 2014-03-06 11:07


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