こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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広島という町を設計する-17 墓地と遊里

明治28年に西の遊郭が陸軍の大山元帥により、姫路の遊女屋5軒をよび、薬研堀の周囲に作られている。のちの弥生町と平塚町のあたりだという。
薬研堀の西の流川周囲に飲食店街ができたのは明治30年ごろだというから、120年ちかくのキャリアになっているのだ。

川を流川と呼ぶと、流れない川があるのか!と思いたくなる。沖縄の畑の道端で暑くてヘタってしまって、作業されてる人に水の在り処をきいたことがある。指差した先の「カワ!」といわれた。「カワ?」は見えない。井戸のことを「カワ」と呼ぶのだそうで、水が得られる所が「カワ」だと教えられた。なら“流川”は流す川で排水ルートとおもえる。広島城の堀はこの流川に流された。現在ここに流されるものは、水ではなくて、多様に考えられる。縮景園の端にある水路の導入口はここにつながるのか、松原町の川岸で覗き込んだことがある。もちろん見えなかった。“流川”は姿をみせては120年はつづかないのだ。

薬研は薬の砕く細長い先のとがったウスと鋭利なローラーのことで、堀の地名の場合はV字に掘られた水路を指す。流水への抵抗がすくなくて、流れる速度が速い。思い出はすぐに忘却されるという場所らしい。

流川通りを越えて、東進し薬研堀通りをこえると、夜の闇が濃くなる。戦後は警察公認の遊里の赤線地帯で、いまも路地が交錯して古い二階家がある。東遊郭とよばれた。

広島の地下地盤は本川から東が強力な岩盤で高層建築の基礎が作りやすいのだそうだが、このあたりは再開発という高層住宅の建築はすくなく、昼間の空は広い。その明るさがまぶしい町並みだ。中央への立地の良さという経済効率より、歴史的要因が高層建築出現を阻害している。阻害するパワーが町の色合いを選んでいる。高層建築の数をもつほど都市だといわれるが、阻害する場所をもつこと、これも都市の一面かもしれない。

経済効率を阻害する歴史的な場所に出現した大阪のアベノハルカスは近鉄の現状打破のあたらしい一撃だとおもえる。そこは近未来的な場所なのだろうか。各地に同じようにあたらしい一撃は発生するのだろうか。広島の駅前開発も同じ路線だろうか。そろそろ、どうかいな。
スラムから基町高層アパートへ、まではこの眼でみてきた。その時代から、そこを超高層住宅とショッピングモールの時代へ、と広島は歩むのだろうか。流川のおでんの源蔵や柳橋の川魚・小谷が高層建築の中でマックと並ぶ景色は、それはもう、文化の破綻です。先日歩いたハルカスそばの幹線道路に面した場所で、あやしいおばさんが焼いているホルモンの煙が、とても自分には印象深いものだった。

平塚は刑場があったともいわれる。しかし資料はみてはいない。平塚という地名は古く、太田川の河口が幾つかの砂洲であったころにすでに見られる。地名が見られる時代は室町時代より古い。
“塚”は盛り上がった場所で、古墳なども“塚”と呼ばれる。ここの地名の“塚”はどんな景色から付けられたのだろうか。

“塚”本来の意味からすると、盛り上がった塚が平たい、では、どうも“流川”よりたちが悪い。自己矛盾だ。平塚は京橋川の右岸になるが左岸にある比治山に縄文時代の貝塚が見つかっている。貝塚には貝だけでなく、動物やときには人骨も発見される。貝で盛り上がった場所には違いないが、ゴミ捨て場でなくて、墓場でもあったのではないか、ともいわれる。平は比良と同じで、比良は埋葬地、葬送の地だ。京都・比叡山は比良山脈に属し、縄文時代からの聖地だ。比治山の比治は泥のことで、湧く水のある神聖な場所をいう。平塚の平はそんな聖地だと考えたらどうだろうか。

京橋川は古代安芸国の安芸郡と佐伯郡の境界線で、のちにこの境界線は本川に替わる。比治山を中心に東は仁保の海、西は砂洲が幾重にもあらわれている、という景色が広島の古代だろう。だからこの川が境界になっていたのだろう。
この左岸に露出している岩礁があって、いま、釣のえさにする貝を採ってる人もいる。
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この岩礁の岸に千切地蔵堂がある。
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平塚の暗い路地に「おにいさん!!」と呼び込む、大阪でいうと辻君、江戸流だと夜鷹がまだ健在である。まさに岡場所である。「岡」は場所を指すのでなく“傍目・オカメ”のオカで非正規ということ、非公認のお姉さんってこと。浅野藩では岡場所の夜鷹もご法度で、それでは、と「広島では船をねぐらとしてひそかに春をうる“沖合芸子”がいたのである。 沖浦和光」ということだ。船にわたる雁木は広島には400以上もあるから、そういった意味では広島は便利な設定だが、京橋あたりがその渡り場であったらしい。
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千切地蔵はここが刑場であったことで、千も切ったからだと説明される。それより千日のお経の千日地蔵から千切に替わったと思うが、どうか。岩礁あたりで弱められた流れの淀みが沖合芸子をにせた船頭さんにとって、都合よかったりして。刑場ならば墓所がつきもの。そしてそこに発生する遊里。

比治山は縄文時代の貝塚だけでなく、実は全山が墓所であった。お盆には盆灯篭が西正面からの車道、これが墓所への参道を登ってきたといわれている。比治山神社貝塚の発見された比治山の南に谷にあった黄幡神社が移転されたもので、黄幡神は境界に置かれる神で天上と地上の境を示している。
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比治山の墓は昭和19年にすべての墓標を取り除き合同墓碑にまとめることになり作業がはじまった。原爆で作業は放棄され散乱する墓標の山となっていた。ここの墓所の一つに比治山陸軍墓地が黄幡谷の上にある。散乱している墓標を昭和30年から5年をかけてボランティアの人たちで整理され、明治の西南の役から日清、日露、第一次、二次大戦での戦死者を外国の捕虜もふくめて墓地が再建されている。
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海を見下ろす外人墓地で 君と別れた霧の夜 サファイア色のまなざしが 
燃える心に まだ残る ああ 長崎の 長崎の人

墓地から木々が育つまでは海が見えた。すぐ下のR2のヘッドライトが流れて 夜が一番いいところだったな。広島の沖合芸子さんには、青い目の芸子さんがいたのだろうか。このごろは墓地なんて歌詞にならないのだろうな。聖地は墓地なんだが。

高杉晋作がつくった奇兵隊の墓所になる、晋作の発案の桜山招魂社が、封建制度の藩の枠をこえて祀った戦没者の最初のもので、司馬遼太郎はこの招魂という神仏に無関係の墓所の発生が、日本という国家の姿が現れた最初の現象ではないかと、いっている。のち招魂社は各地に作られ、それが東京・九段の東京招魂社にまとめられ、後の靖国神社となった。
司馬遼太郎は「幕藩時代 幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば、法的に“私ワタクシ”であった。  新国家としては、日本におけるあたらしい“公”として、戦死者たちの“私死”を“公死”とする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は“公”とも国家ともいえない存在になる。 招魂 司馬遼太郎」いうことをいっている。無宗教施設であった招魂社が、靖国神社と変わり、政治的”私”により変化してゆくことへの司馬さんの憤りをつよく感じる。政府関係者の“私”としての参拝とは、なにだろうか?

高杉晋作は明治の始まりとされる二年前に倒幕の道筋をつけた。その年に肺結核を発病している。「藩では晋作の病状がおもわしくないことにおどろき、その医療については十二分なことをした。藩主の侍医を主張さきから呼び返て晋作の診療にあたらせたことであった。すでに救国の英雄の待遇をうけつつあり 」「晋作は自分の病態が容易なものでないことに覚悟をすえざるをえなかった。転居については、医師の意見によるものであった。場所は下関郊外である。桜山という名の丘のふもとで竹藪そばの独立家屋であった。」「この桜山の上には招魂社がある。“招魂社に入るべきおれが墓守になってしまった。せめて落ち葉でも掃きたい”と晋作はつぶやき   司馬遼太郎 世に棲む日々」

また、靖国神社の参拝や発言がニュースになっている。政府関係者全員で、終戦の日に広島陸軍墓地に参拝し、“私”の清掃奉仕をしたというニュースを一度聞きたい。いいところです。

やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下でさぞかし
待つだろう おっかさん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ
兄さんも
※この二番の歌詞はNHKで一度も放送されてない、のだそうだ。

高杉晋作の墓所は“吉田”という病床での、にうわごとで吉田の地におかれた。松蔭の墓所をいっていたのでは?ともいわれる。
「下関の吉原とでもいうべき遊里の裏町の店に上がり、妓をあげた。ちょっと妙なおんなでひどく無口だった。“旦那さん お名前は”とぐらいは普通きくものだが、女はそれもきかない。“こいつ阿呆か”と晋作はそれだけでひどく気に入った。そのくせ阿呆でない証拠に、酌だけは晋作の呼吸にあわせてうまくついでくれる。“おまえ なんという名だ”女はちょっと微笑ワライ“おうの”と、唇の奥で舌を動かす様子が、下から見ている晋作に可愛く見えた。“うまれはどこだ”“存じまへん”と邪気なげに笑っている。ついでながら、彼女には語ったところで詮のない事柄はいっさい語らなかった。“この阿呆を落籍ヒカセたい”とあけ方の寝床のなかで心からおもい、それとおなじほど長州の俗論党征伐の方法を考えた。世に棲む日々」
晋作の墓のそばに建てられた庵で、おうのが尼となってそれから17年の生涯の墓守となった。
「死後に墓前にて芸妓を集め、三弦など鳴らしお祭り下され候よう、頼み奉り候」と死後みつかった遺言にあった。”芸妓・おうの”によって、その願いは、かなった。

やっと、広島という町を設計したこの風土への妄想をおわります。
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by forumhiroshima | 2014-04-30 01:15

広島という町を設計する-16 賑わいの街

「広島の繁華街にエリアは西国街道を徐々に東進する。最初は堺町、中島町エリアであったのが、元安橋を渡って革屋町(本通り電停あたり)から平田屋町(金座街)へ移り、八丁堀あたりにいまは落ち着いている。」という都市伝説が紙屋町にそごうデパートが出現する前には言われていた。広島最初の繁華街は中島に出現した。いまは平和公園と平和大通りの空間に変わっている。そのあたりの被爆以前の地図が戸別明細に作られてHPで公開されていた。そこに中世の景色を探してみた。
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広島城下の処刑場は中島にあった浄土宗光明寺の地で「刑死者の冥福を祈るかめ千日間念仏を唱えたと伝えることから、別名千日寺、寺前の小路を千日小路と呼んだ。知新集」
中島は広島城築城当時 木挽小屋あり木挽町とか小屋町と呼ばれた資料もあり、後に材木町とよばれた。処刑場は毛利氏時代の中島から浅野藩になって竹ケ鼻・油屋町油池傍、河原町から堺町へ移り、広島市街地の拡大により次に樽ケ鼻(古江あたり)に移っている。地図には光明寺の記載はなかった。が多くの寺院と墓所記載がみえる。地図の中央に池もみえる。という浅野藩の処刑場の竹ケ鼻の油池とある池の記載がなにか印象が深くて、この中島の池が気になる。この池あたりが今の資料館の南の噴水で、フラワーフェスチバルの花の塔になる場所だ。平和公園は何故、この中島に建設されたのだろうか。広島都市計画の設計者に神か仏か、降臨したとしか思えない。そのエネルギーが今!花の塔に?。

「処刑の原型は、古代の供犠(神に、いけにえを供える宗教的・呪術的) 儀式である。 近世の社会では 古代的な供犠・サクリファイスの儀式から、宗教性を抜いて、刑罰をあたえる方法として、その型式が利用された。・・犠牲者は人の社会に属するものでなくなって、神の世界に吸い上げられていく“最後の瞬間”を待ち受けることになる。  神官の手にした刀や斧が、犠牲者に振り下ろされる。その瞬間に、見物人たちは“見た”のである。超越の世界の空の天井が、わずかに開いて、そこから神が姿をあらわし、犠牲者の魂をむんずとつかんで、超越の世界に引上げるのを。・・処刑場がなくなり、その跡地に寄席や見世物の小屋が林立した。  日常生活では隠されている秘密の光景を、扉を開いて見せてくれるのが、見世物である。  人々は自分の認識力の限界領域でおこる、さまざまな驚異の出来事を見たいばかりに、わざわざ遠くまで足を運んで行くのである。 中沢新一 」

「江戸期では“栄り場”とも表記されるが“盛り場”の原義は、人出で賑わう繁華街だった。遊郭のある色町と歌舞伎の小屋が並ぶ芝居町を中心に形成されていったのだが、それ以外に、当時では集客力のある“場”はなかった。 沖浦和光」
「城下町広島では、芝居興行は禁止されていた。芝居町はもちろんのこと、遊里も公然と認められたことはなかった。寺社の開帳や市立ての日には特別に操り浄瑠璃や小芝居が催された記録が残っているが、城下には“悪所(遊郭と芝居小屋)”は設けられなかった。    ちなみに1601から1803年までの藩のお触書の集成には、城下での芝居や遊女町に関する記録は全くない。辻相撲、辻踊、盆踊でも厳しく統制する町触がだされている。
ただし厳島神社の鎮座する宮島の四季の市では、勧進興行という名目で上方から歌舞伎座一座が来演した。 宮島には揚屋(遊郭)があって、遊里あそびをするものは広島市中から通っていた。  沖浦和光」

近代デジラルライブラリー「広島案内 M34/12」には、広島城下の傾城町(遊郭)は当初、材木町(中島)にあったが、浅野氏が1625年に城下町から宮島の東町はずれの新町へ移したとされている、とある。
歌舞伎の創設者の出雲のお国は公演したのは、石川五右衛門の処刑された京都、賀茂川三条の河原から。後に江戸三座があったのは、堺町、木挽町、葺屋町だという。広島にも堺町、木挽町(のち中島材木町)小屋町(中島天神町)と同じ地名があった。都市の仕組みは中心の江戸をなぞるのだろう。どこかの町でこの地名にであったら、遊郭の名残をさがしてみたい。

広島が百万をこえる人口を持ちながら、ビッグネームの公演が博多へ飛び越してゆくのは、きっと「風俗を壊乱し奢侈僭上・シャシセンジョウの風潮を煽動する歌舞伎・・浅野藩お触書」などとがんばった浅野藩のおかげかもしれない。近年、文化向上と各地につくられたコンサートホールが「箱物」と一括されるのは、行政のミスに違いないだろうが、その地方の江戸時代の文化風土からとも思える。

「広島というところは死んだ人のゆくところでもあったようだ。人が死ぬとあの爺さんも広島へたばこを買いにいったげな。とうわさするものがあった。 広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。 宮本常一」
この「私の日本地図 瀬戸内海1」の巻頭の文章が、ブログで広島のパイオニヤの思ったことを見つけてみようと“広島を設計する”と題したわけだ。
“広島でタバコ”は、周防大島からのぞむ広島の山々の下の都市生活への憧れを感じる。“広島と死”は日清戦争からの陸軍駐留する広島だとおもう。

明治になって、M12年ごろから小網町、河原町、舟入あたりが色町となった。陸軍が広島城に駐留をはじめて直ぐ、大山元帥の命令でM25年にあると舟入町に「遊郭」ができた。いまもある羽田別荘はその中核のものだろう。舟入遊郭と呼ばれた。
遊里には必ず、タバコ屋、銭湯、交番、飯屋、床屋・美容院があったもので、二階建、三階建の木造に欄干のある窓などの風情が残っていたりする。

河原町地蔵堂あたりの、どこかポッカリと広い空のある景色を通り過ぎるとき、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね ええ、夏、碓氷から霧積へ行くみちで 渓谷へ落としたあの麦藁帽ですよ・・」という森村誠一の人間の証明のセリフがなぜか浮かんでくる。明るい、谷間から吹き上がってくる乾いた風の吹く峠でよく浮かんでくるセリフだが、町中で浮かんでくることがある。その風景は誰もがそこで、なにか足早に通り過ぎようとする場所であるようだ。

自転車の上でつつまれる乾いた空気や湿った空気が、自分の気分に作用する。景色は見えない。
大阪・千日前で藤原重助という葬儀屋の息子が、見世物興行に大成功し、新しい歓楽街への発展がはじまった。この重助が「ある日のこと、輸入がはじまって間もない自転車という存在が、・・こいつは千日前にふさわしい商売ものになる、と直感した。道頓堀の辻から極楽橋まで、自転車に乗って往復するだけの日本で最初の貸自転車屋をつくり、大繁盛した。・・自転車に乗ると・・地上からフワッと浮き上がる。自転車がもたらした新感覚の秘密がここにある。完全に地上生活から離脱してしまうと人々は。ほんものの死者になってしまう。ところが自転車に乗ることで、人々は生きたまま“プチ離脱”を果たす快感を味わうのである。・・エンターテイメントの秘密はそれに夢中になっている間、人は日常のわずらわしい人間関係から、しばしの間プチ離脱を果たすことが出来る。自転車が生み出す“離脱感覚”は自分をとりまいている地上世界を見下ろす目を手に入れることができる。その目はじつは“死者”の視線と同じ構造をしている。地上からちょっとだけ離れて!それが処刑場の廃墟の上にうまれたエンタの神様のキャッチフレーズである。 中沢新一」

藤原重助の千日前の貸自転車の大成功が、自転車生産の拠点を堺につくり、その自転車を扱う店の丁稚さんが、後の家電王・松下幸之助になる。死者と自転車との深~い関係である。
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by forumhiroshima | 2014-04-28 22:02

広島という町を設計する-15 刑場-西

1867年4月14日(旧暦)高杉晋作の命日。約150年前。27年と8ヶ月の生命。
「4月16日の日没後、葬列は下関を出発した。すべて神式によった。参列者は三千人、それぞれ松明をかがし、星が動き、火が動き、長州におけるあらゆる葬式のなかで空前の盛儀であった。 世に棲む日々 司馬遼太郎」。私は三千一人目になり参列したかった。晋作が創設した奇兵隊での写真がある。ニューヨークで撮ったロックバンド・奇兵隊の凱旋ツアーCDのジャケット写真だといっても通用する。150年の歳月を飛び越えている27歳。
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高杉家の名の元となった高杉は三次市の風土記の丘公園の東にひろがる丘陵地帯で、ここの城主であったといわれ、祖先は高杉小四郎。広島・祇園の武田城主につながる家という。毛利氏と武田氏の戦いで敗れ、のち毛利氏の家臣となり、高杉を領地とした。高杉は低い尾根の麓に民家がならび、その谷間にひっそりと五輪塔が傾いて残っている、時間がずっと、うずくまっているような、そこが気になってウロウロさせられて、それですごくうれしい、そんな所です。

1859年安政6年10月に吉田松蔭が江戸・小塚原で斬刑。小塚原に埋められていた遺骸を1863年文久3年正月に晋作は白昼に小塚原に馬上姿であらわれ、数人で掘り出し、堂々と運び出し江戸の毛利家の地に埋葬した。後日談で、幕府が長州を攻めた四境戦争のころ、幕府はこの墓をくだいた(世に棲む日日)。この場所が今の東京の松蔭神社になる。松蔭神社は山口・萩にも建立されている。

広島城下町にも刑場があった。
平和公園の資料館前を西、広電江波線の路線にでる手前の平和大通りの南側、山口銀行支店の交差点を南に入るとすぐに、河原町地蔵堂が左手にみえる。このあたりが「竹の鼻」と呼ばれた場所で、“鼻”は川の分流のポイントや、流れに突き出た場所の突端がその名で呼ばれる。近くに土橋の地名のあるように、このあたりは築城当時には太田川がいくつにも枝分かれして流れていたのだろう。河原町の名が状態を示している。
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京都、賀茂川も刑場があった。五条あたりと今の三条の河原がそうだという。

竹の鼻の刑場が出来る以前には、資料館の南の噴水のあたりにあった浄土宗光明寺の地にあったといわれる。光明寺は死者の冥福を祈る千日念仏の道場で寺への道は千日小路とよばれた。(“ひろしま風景”サイト)
大阪の刑場については「道頓堀の盛り場の裏手に回ると、・・広大な墓地となっていた。竹林寺と千日寺という寺が立ち並び、さらに奥に進むと「火屋(火葬場)」の建物にたどりつく。そしてその周囲には、多くの粗末な非人小屋や聖たち(無資格僧侶)の坊が立ち並んでいた。千日寺の前には、刑場もしつらえていた。ここで実際の処刑がおこなわれることは稀であったとはいえ、獄門台の上にはいつも誰かの首が晒されてあった。このあたりが千日前と呼ばれるようになったのは、法善寺で「千日参り」という行事が盛んにおこなわれたからである。旧暦の7月一日にお参りすると、いつもの千日分あるいは四万六千日のお参りに相当するというので、大阪に人はよくその日に四天王寺にお参りした。やがてこれが法善寺に取り入れられて、ことらのほうが有名になっていった。法善寺はいつしか千日寺と通称されるようになり、火葬場に向うその前の通りが、千日前とよばれるようになった。 大阪アースダイバー 中沢新一」
明治に入って公開処刑はなくなり、道頓堀奥の墓場も移転され、跡地に寄席や見世物小屋が林立した。

京都、三条大橋の刑場は三条通りを東へ、東山の入口の粟田口にうつされ、広島では、西へ今の古江の「樽ケ鼻」へ移転し、明治にはいって廃止された。

京都・広島の河原町、大阪の竹林寺と竹の鼻の竹、そして千日寺。刑場をさがしてゆくと、同じキーワードにたどりつく。「仏教はあらゆる類の“没落してゆくもの”の味方であり、この世から没落してくゆくもの(死者)の魂を受け取って、それを浄土におくりこむという大逆転を引き受ける  大阪アースダイバー 中沢新一」

高杉晋作は吉田松陰の遺骸を小塚原の墓を掘り返して、取り戻し、再度埋葬している。ただ短に幕府憎しの感情からだけではないだろう。彼は神式で葬送されたことも考えあわせると、松蔭の魂を受け取ることへの彼の感情はどれほどのものだったのだろうか。28歳に満たない生涯で出現させた、この国の政治体制の大回転への展望の秘密があるのだろうか。

晋作が剃髪して僧侶になろうとしたことがある。名を武士身分を捨て僧になった西行から“西へ行く人を慕いて東へ行く我が心神を知るらん”と「東行」としている。江戸時代を葬送した巨大な僧侶であったのだろう。戦うヘビーなロックシンガーだろう。

おもしろき こともなき世を(に) おもしろく   辞世の句
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by forumhiroshima | 2014-04-17 02:13

広島という町を設計する-14  毛利氏の忘れ物

司馬遼太郎の「世に棲む日日」を“フウー”読み終えた。高杉晋作の描写には血の匂いが沸き立っていた。
「広島城を追われた、・・国替えのときに、それぞれ広島の思い出になるものを持って萩に移ったが、高杉家にあっては広島灯篭なのである。(萩の高杉家の小庭には、高杉家が広島城下にあったころからその庭に置かれていたという古拙な石灯籠がある)世に棲む日日」 
晋作は新婦に灯篭の由来を話している。江戸の幕府に”足を向け寝る西枕“を妻に教えている。

毛利藩が広島に残したものは三つ。広島城。そして「方言のことをいうと、広島あたりはずいぶん関東御家人が入っていましたから、広島に人はいまでも東京へ行ったら、アクセントも“クモ”“ハシ”をはじめ、広島のアクセントの通りで通用します。広島に人は標準語どおりにできるんです。司馬遼太郎、対話選集1」らしい。ワシャー、チョット信じられんが ノオ。
それに、胡子神社。とくにこの神社のご神体がとても気になるのです。
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神社のご神体は毛利氏の祖先の大江広元であった。大江広元は鎌倉幕府創設期のメンバーで胡子神とはまったく関係ない。
安芸の国に地頭となってやってきた御家人たちは祇園の武田氏や可部の熊谷氏、毛利氏。毛利氏の祖先になる大江家は京都の下級貴族でもあった。大江氏は神奈川の毛利荘に領地をもち、毛利と名を換えた。毛利氏は武士でありながら、貴族でもあった。

14世紀中ごろに安芸国吉田へ移住。16世紀中ごろ、毛利家52代の元就は「大内、尼子の大名をたおしその家来・被官団を吸収し“大”毛利家を作り上げた。・・その被官団どもが、毛利家はなりあがりではないか。と疑念をいだくであろうとすれば・・祖先が大江広元という・・明瞭であった(由緒ある筋目を)・・元就は国々に知らせなければならなかった。・・また大江家は遠くは平城天皇の子阿保親王より出たということになっている。世に棲む日々」阿保親王は第一皇子であったことから一品の位にあり一品親王と称された。その一品を旗印とし毛利の「一文字三つ星」紋と呼ばれた。毛利氏の皇室との繋がりを世間に知らしめる旗印だ。元就が52代と長い家系を持つのは大江氏の神代の祖先としているアメノホヒを慣行上初代としているからだ。アマンホヒ命は出雲大社社家千家、菅原道真の祖先でもある。
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「元就は天下公認の名家にするために、朝廷に献金せねばとおもった。・・ときに戦国であるために朝廷は衰微しきっている。・・しばしば献金し、ついには・・石見銀山の所有権まで献納した。・・元就は田舎大名ながら、(天皇の家臣の)朝臣を称し・・この朝廷への献金の習慣が元就の死後も続いた。・・幕府も儀礼であれば・・とゆるした。以後徳川二百数十年のあいだ毛利家はこの習慣をつづけ、 世に棲む日々」
毛利氏と天皇とのこのような関係が、勤皇や王政復古のスローガンの幕末の動乱へのおおきな影響をつくったのだろうか。司馬さんの明治維新への史観が世に棲む日々のなかにあった。

「松蔭は革命のなにものかを知っていたにちがいない。革命の初動期は詩人的な預言者があらわれ・・かならず非業に死ぬ。松蔭はそれにあたるであろう。革命の中期には卓越な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって電雷風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。 世に棲む日々」明治維新の基本テーマの“勤皇”。松蔭は「長州の勤王の第一声は自分であり、他の者は自分の書によって志をおこした。と先唱者である名誉を、人への手紙で、みずから誇示したこともある。・・松蔭はこの時代のもっとも急進思想である天皇崇拝主義の先端的な唱導者であった。・・徳川家は天皇から政治的外交を委任されているのであり、日本の国家元首はあくまでも天皇である。という解釈と思想を考え出したのは水戸の学者であった。長州にあっては松田松蔭である。松蔭の思想がもっとも純度が高い。 世に棲む日々」

市立図書館で4時間もかかって見つけたかわいらしい、胡子神社のご神体の烏帽子姿の大江広元の写真が浮かんでくる。毛利家を長州藩の家臣たちは江家とよんでいた。大江広元を強く印象していたように思える。
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図書館の窓から広島城が見える。毛利藩がこの広島の開拓者・パイオニアにちがいない。大江広元の広が広島につながるともいう。大江広元はまた明治維新の徳川から薩長への権力の移行のシンボルであるともいえるのだろう。それに鎌倉幕府創設期の主要メンバー。
毛利家に天皇家との経歴の関係があるのでは、という気分だけで王政復古ができたわけではないが、広島の中心の繁華街に、立ち去って400年の毛利藩の自分達の主人の系図への気分が、今もたちのぼっているように感じた。
胡子神社の御利益は、強烈にありそう、ですね!
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by forumhiroshima | 2014-04-13 10:48


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