こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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お城の引っ越し-2 上根峠

出雲街道が北上する谷がいよいよ狭くなってくると、街道はバイパスを吸収した国道に集合し吸収される。すべての道がひとつになるほどに谷はせまくなって、そこにあたらしいスベリ台のような高架が現れ国道の車を吸収して頭上を北上してゆく。
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旧道はその高架の足下駄の横をのびて、つづら坂の道になる。静かで車はふとした時間に通過してゆく。
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「やがて山中に入り、道路が急峻な峰の中腹を攀・ヨじてめぐりはじめた。・・このあたりは、根の谷という。道はさらにのぼってゆく。・・北方の高原に対する南方の壁をなしているように思えた。
・・道はひたすら平坦なのだが、ごくわずかにすでに北の日本海にむかって傾斜しているのであろう。このことは一つの驚きである。・・広島市街を出て太田川とその上流をわずかに20キロばかり北上しただけで、もう川が日本海にむかって流れているといのは、ただごとではない。
古代の文化圏でいうと、日本海の出雲文化圏が水流をさかのぼって(古代弥生式農耕文化は水流をさかのぼってゆく文化であった)広島市域北方20キロのところまできていたということではないか。街道をゆく 芸備の道 司馬遼太郎」

さすが、司馬の文章!「急峻な峰の中腹を攀・ヨじてめぐり」など上根の上りが浮かんでくる。自転車の上で身体を攀じるほどの登りではないのだけど。司馬さんはタクシーにのっている。九十九に登るこの壁を思うと、“可部”は“壁”があるからだといえるかもしれない。広島-松江間の最大の難所であったこの壁が、攀じれる坂として整備されたのは明治の23年R54、車の道として誕生している。

「街道はゆく」、つづいて
「・・安芸や備後は、なんとなく南方めいていて温暖の地だし、県民性も日本海的性格とはちがっているように思われる。古代の瀬戸内海の浦々や島々には、海洋漁撈の民族であったアズミ(安曇などと表記)が居住していた。 街道をゆく」
八木は海洋漁撈民アズミの神、ワダツミを信仰するアズミの一集団の名が地名に残ったものだという。漁撈民のアズミは「彼らの多くがやがて農耕化するようだが、農耕勢力としては微弱であったらしい」と出雲の古代農耕民たちとのちがいを記述する。信州の安曇野はこのアズミです。

「攀じのぼってしまったところが、市裏、市表という在所で、そこはすでに平坦で、田畑もひらけ、集落もある。郵便局もある。“ここは上根というところですよ”と運転手さんがいった。 街道をゆく」田畑もあり集落もあることが、坂の下と上とのちがいを言いたかったのだろう。

街道をゆくは、上根の地形、それが平地でありながら陰陽の分水嶺であることに強い印象があったのだろう、とても詳しく記述されている。

さて、出雲街道はこの坂を「「急峻な峰の中腹を攀・ヨじてめぐり」はしない。坂の取り付きの場所、いま八幡宮
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があるところを渡川して、いっきに直登するルートであったという。

坂に表裏があるといったのは、柳田国夫だ。新しい土地をもとめたパイオニアたちが尾根を越えてゆこうとするとき、見上げる尾根の鞍部をめざし直登する。尾根の鞍部、峠とよばれるようになる場所から下ってゆく先の目標地点をきめ、そこを見失わないように、また下りの穏やかな傾斜のルートを探しながら、九十九にくだってゆく。そのルートがいつか踏み固められて道になってゆく。坂の表のルートが直登で、裏が九十九のルートになる、といっている。
上根の坂の成立に柳田説を無理やりに汎用してしまえば、出雲街道の上根の坂は可部側からとりついたもので坂の上から下るルートがさきにできたのではない、となる。
上根の集落が司馬さんのいう出雲文化圏の最南端であり、人々は下ることに興味を持たなかった。といえなくもない。

九十九の車道の坂道が頂上を越すとちいさな交差点があらわれる。出雲街道の直登の上りのルーートはその痕跡もわからない。交差点を西にはいって、想定した街道の峠越えで出てくる場所あたりをうろうろしてみた。
街道の頂上への取り付き位置は繁みで古道らしきものはみつからない。そのあたりに、じつに重厚な寺院のような門のあるとても大きな家をみつけた。「宮中」と表札があって、門のとなりの農業の作業場のシャターはあがって中のひろい作業場が見えたが人影はなかった。
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宮中の表札から推計して、神社を地図でさがすと、すこし離れた場所にため池がありそばに鳥居マークがあった。宮中の重厚な門、それがすこし場違いに感じて、宮、そこにむかった。

ひろいため池と車道に向こうの池が見える空地から東に広場に入るとそこが神社の境内だった。神社は龍山神社と神額にある。
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龍は天空でおお暴れし風をよび、雲をおこし、雷を落とす。まことに神・鳴リな神様。江の川のもっとも南にある水源の土地にこの神が鎮座するのは、農耕民たちの信仰だ。平屋だが小学校の体育館ほどの敷地の宮中さんはこの神社の神主さんだろうか。だが、門にしめ縄は張ってはなかった。
出雲で八頭の大蛇が越の国では九つの頭の竜になる。九頭竜川。クズはどこでも水の神さまに付けられる名前。葛も九頭も、同根。そんなことをおもってると、意外と山中でであった神社にであったりする。これ予談でした。

神社の横に覚善寺があり参道に井戸が置かれて、石組みに青龍水と掘り込まれている。
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水を強く意識する寺社の配置になっている。江の川の最南端の水源地がこの井戸に込められているように思えた。ここ、峠の上の平地に水神がおられる、ここに神の出現を感じた人々がいたこと、彼らの神への実感がつたわってきたような、そんな場所だった。
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司馬さんの語る古代出雲文化圏、鉄を使用して稲作をすすめ、銅鐸で祭る人々の出雲の南の端の痕跡は、ここを源とする簸川という名にも見られる。古代出雲大川と呼ばれた川は斐伊川といまは呼ばれている。その川が宍道湖に形成した平野は簸川平野とよばれる。斐伊川、日野川、簸川、氷川などの名を持つ川の流域にはどこも出雲の神々が鎮座しているのだ。
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by forumhiroshima | 2014-05-31 18:37

お城の引っ越し-1

広島城開城のおり毛利氏は吉田・郡山の城から広島へ引っ越してきた。ただ「城下町への家臣の集住がおくれ・・(広島城・資料)」たようだ。郡山城の建物は、毛利氏が萩にひっこしてのち、1638年の島原の乱のあと、幕府は石垣も含めて一切を取り壊させた。1600年萩へ移封されたのち40年間郡山城は存在していたことになる。

お城の広島への引越しにつかわれたルートが先日「毛利元就のつくった戦国の古道・中郡・ナカゴウリ古道」として安芸高田市の郷土史グループによって発表され、その地図を入手できた。
これがチクチクと刺激する。体の調子もいまいちだが、出雲街道で吉田、吉田からJR芸備線沿線に記載された中郡古道という往還ルートにでかけてみた。出たとこ勝負!

吉田から広島に引っ越してきたのはお城だけでなく、恵比寿神も移ってきた伝承があって都市伝説になっている。そのほかに移ってこられた神様がもう一柱おられる。
毛利氏の祖先は大江氏という下級貴族で、鎌倉武士ではない。由緒正しい古代の神を祖先としている。その神は出雲大社の千家とおなじく、ノミノクスネで、クスナはまた菅原道真とおなじ祖神になる。後世、菅原道真は天満天神の神とされて、毛利氏もその神を郡山城に勧請して祭っている。その天神がやはり広島に移されたという伝承がある。この天神の郡山の社にも興味があった。二柱の神の引っ越し伝承に、広島-吉田のルートは司馬遼太郎の街道をゆく、21芸備の道というガイドブックが加わって、早朝ルンルンでスタートした。

広島の天神さんは平和大通りを原爆資料館とはさんだ南正面、イタ飯屋のある角の南の奥に三角形の小さな境内に鎮座する。
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ここにお参りして、
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平和公園の中を通る西国街道で西、堺町の交差点から北上するルートに入った。堺町の街角にあった出雲街道石柱は電車通りをこえた川沿いの空鞘稲荷神社に移されて、いまも健在だ。
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そこをまわっていよいよ出雲街道で横川へ向かった。

「“松江”と北方200km以上の地名が標識に出ている。この道は遠く出雲へ通ずるが、一方石見にも出てゆくことができる。出雲の尼子氏との交戦を繰り返した毛利氏の例でもわかるように、このあたりは山陰との接触がさかんなのである。むろん、この交通の頻繁さは古代以来のことで、古墳時代はむしろ北の山陰文化が安芸へ南下したのではないか。という以上に、古墳時代、備後や安芸は海岸や島々をのぞくほか、北方の出雲勢力圏に属したのではないかとおもわれる。 街道をゆく21・芸備の道 司馬遼太郎」

「汀線の位置は、場所にもよるが、一般的に新石器時代にはいまの標高10m以上、7500年前の縄文前期時代には標高5mほどにあったといわれる。広島湾で標高10mの線をなぞり、古代海岸線を想定すると太田川に沿う形で内陸部に入り、今の海岸線より20kmほども後退している。
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瀬戸内海と日本海との距離は安芸と石見・浜田間はわずか50kmほどに想定できる。 広島湾の歴史的展望」
「可部は広島北方の小市街だが、旧藩のころも川湊・カワミナトとしてさかえ、“可部屋町”と呼ばれ、北のほう、遠くは山陰からやってくる旅客のために、旅籠なども設けられていた。街道をゆく」
可部の町の入口あたり、八木の地名は、古代の海の人々のなかで最大勢力であったわだつみという集団のなかに、「八木 造・ヤギノミヤッコ 和多罪豊玉彦命の児、布留多摩命の後なり」と古代資料(新撰姓氏録)とあって、八木は古代海の民わだつみにあたる地名だろうといわれる。
古代の人々の痕跡がいまにつながっている。そこに古道が現存している。浮遊感覚の自転車の上で、もしかすると縄文の人々のみた景色が見えるかも?しれない。湊でも道でも時間の中で積み重ねられて、引き継がれてきている。それは新石器時代からかもしれない。

出雲街道は旧54号線国道をトレースして可部の町はずれまですすむと、南原川と根之谷川の合流点の手前でいまのR45を横切る。ここに石見街道の道標があたらしく建てられていた。
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出雲街道はここまで石見街道と重なっている。この道標から進んで南原川をふるびた鉄製の人がやっと交差できる幅の橋を渡る。ここからが石見街道と別れた純正の出雲街道になる。

どこでも、なぜここに?と疑問がでてくる、小さな橋に出会うことがある。ここには下流すぐそばに国道の橋がある。そこに、この橋を置かなければならなかった“わけ”があるはずだ。この橋が出雲街道であった証拠のように。
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たとえば高架道路にあるちいさなトンネルもそうだ。
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そこに通路を残さなければならなかった“歴史”がうずもれている。古代から引き継がれたものがそこにあるとおもえるのだけど。

R54、その前の県道という車道つくられるまえにあった出雲街道はこの橋の幅七尺が江戸時代のレギレーションだった。車通行止の橋に江戸の時間がとどまっている。川向こうの尾根の中腹に新しいガードレールが白い。可部バイパスのガードレールがみえる。この新しい出雲街道は、R54を旧道にし、橋をわたる道を古道に“昇格”させた。
「慶長以後往還土橋通り五竜山南麓下小原往還広島より三次へ本街道に相成り 高田郡社寺古城山由来記」とあることから、その開通時期が16世紀末~17世紀はじめと推測される。HP雲石街道。HPになかで見つけた解説がこれだ。広島城建設の時期に重なる。昇格した古道もまだ400年あまりの時間しかもっていない。7000年の縄文の景色には程遠い、な。

可部バイパスができるまで、R54国道は混むことがおおく、古道が抜け道になって道幅いっぱいになる車が集まってきていた。いまは驚くほどスイスイと走れる。まだ400年というが、この道に重ねられた時間は美しい。自転車では、ふつう景色など見ていない。路面を凝視して走っている。それでも、道の両側の景色はその路面に映える。路面から顔があがる場所がある。

出雲街道は出雲に入ると出雲とある石灯籠や一畑薬師への石碑がいくつも並びだす。可部からの道は、出雲街道と呼ばれるのに、出雲石灯篭はもとより、お地蔵さんや道しるべが見つけられない。ここが出雲街道か?とおもうほど、古道の小道具たちは姿をけしている。街道は広島市教育委員会のお墨付きなんだけど。

突然に古道に巨石の石垣が現れる。高さは一間ほど、薄赤茶色の石組みはとても新しくみえるが、自然石をくみあげる技は、石工集団の穴太一派の仕事にちがいない。御影石を割って整形して隙間なくくみあげるこの地方の石工たちのしごととは違う。中央の石段をのぼってみると、草の茂る平地のなかにお堂が立っている。そばの表示の板に15世紀からの可部の領主熊谷氏一族の菩提所で、観音寺跡とあった。南側に五輪塔の集合した墓所がみえる。地頭として鎌倉武士の熊谷氏が1222年にやってきている。

振り返ると熊谷氏の高松城のあった高松山がそびえている。50mも続こうかという巨石の石垣は低くて、ゴミ不法投棄されかねない、どこでもある景色だが、しかし気持ちがつよく揺れる。
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こんなのあったっけ!という発見とその姿の強さで。だが、この古道は数回走った。今日なぜ、この石垣と菩提所を発見したのだろうか。
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すっかり田圃に水が張られ、田植えの終わった景色が空を映している。「田ごとのそら!」がこの季節の自分のキャッチフレーズ。「丼鉢の底のような谷底に住まいをつくってきた日本の集落風景の典型のようなものが、可部であるかもしれない。ただし、広島の都市的熱気の火照りをうけていて、かわらに土木機械がうごき、土手下には赤や青の看板が多く、せっかくの画面をキリでひっかいているような落ち着きのなさはある。街道をゆく」
たしかにそうだ!が、田圃にプレハブ住宅が紛れ込んできていても、この「田ごとのそら」季節は赤や青を映して、あたらしい景色に変身してくる。そうなんですよ、司馬さん変わるものは、止められないのですよね。ただそこを抵抗しなきゃ、受け止められないのでしたね。このごろプレハブの民家の景色を写真に撮れるようになった。これまでは、景色の中にプレハブやコンクリートの建築物のない空間をみつけてシャターを押していた。この自分の変化は時に“流されている”のかな?

「安芸は浄土真宗の安芸門徒の国である。真宗(一向宗)は・・芸術的なものはほとんど残さなかった。むしろ民話的なものを消したほうが多いかもしれない。・・極端に迷信を排除したために、この宗旨がさかんだった地方には民話がほとんど残っていない。・・そういう迷信を真宗が積極的に排除したためであった。・・門徒たちがその家々にうっかりまつっていた神棚を18世紀後半・・とりはらってしまった。また毎年くばられてくる伊勢神宮の神符も拒否した。街道をゆく」
一向という研ぎ澄まされた人を思わせる言葉、ラジカルとでもいうのだろうか、そんな勢力は、景色から何かを消し去ろうとする。その勢力は、自分の“出雲”と違うんだなあ!。
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by forumhiroshima | 2014-05-31 01:54

鳰・ニオの海 

広島を設計した人々は、その支配する土地を比治山の西に置いていた。毛利氏の島普請・築城奉行であった二宮太郎左衛門は「己斐の河口-五筒荘は形勝の地なり・・子孫長く武備の業を伝うべし・・」といっている。広島の出来る以前の太田川の河口は“己斐の河口”であって“鯉の浦”とよばれていた。
と、広島が作られる前の海の名を見つけた。比治山の北端が猿侯川の河口であった。その河口が流れ込む海があった。それを鳰の海と呼んだ。

早朝に仁保島を周回するプロバンスの道へでる。黄金山の南の楠那から反時計回りに走ると、猿侯川に日宇那の集落でであう。高速の高架がのびて河口を渡るところにテントつくりのうどん屋がある。日宇那漁港がそばにあって、朝日が正面に差し込むテーブルの席に朝日が港の水面に照り帰ってテントを明るくする。瀬戸内の小さな漁港の朝がそこにあって、とても気に入っている。
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もみのき耐久レースの前日の土曜日の朝、明日は確実にレース会場は晴れというこの十年になかった安心の朝、うどん屋の港側の席にいた。しかし天候とは真逆にとても疲れていた。
朝日に輝く水面の漣が動くと、光の中に動くものがいた。すぐにもぐりこんで、長く現れない。数十秒が数分とも感じられると、黒い水鳥がポカ!と現れた。カイツブリだ。鳰鳥、息長鳥ともいわれる。鳰・ニオは水に入る鳥という和製漢字。息長鳥も同じ意味だが、古代琵琶湖の北東に広がった渡来の人々の氏の名でもある。
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鳰・ニオの海が仁保の海となったと江戸時代の浅野藩文書にある。鳰鳥の生息する海だったということだろう。その鳥が目の前にいる。写真を撮ろうとすると、気配に気付いてまるでイルカのように水中を高速で潜って、二、三百mも先の水面に現れた。
鳥の動きを追っているとその間は疲れを感じなかった。鳰鳥の出現にとても驚いて、気分が動いたことも、感じなくなっていたわけかもしれない。

小さな日宇那漁港を囲む防波堤を河口側にでると、猿侯川は広々として現れる。その景色をぐぐっともっと拡げる想像のさきに、古代鳰・ニオの海が現れる。広々の二乗で現れる。
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漁港の川向こうの対岸は向洋の露霞の渡しの鼻で、そこに渡場が置かれていた。露霞の読みが読めなくてHPでさぐってみると、ここ近くの小学校の音楽事業のパンフのPDFがヒットした。小学校では仁保・海苔とり唄を見つけ出して、授業でその民謡を子供達が唄っているようだ。ツユカゲ渡しとでもよぶのか。「つらい中でも あんたがたより 露霞渡松も見てござる・・」とあるはツユカゲワタシマツと、どう唄うのだろうか。唄いにくい。
疲れた中でも あんたがたより・・の歌詞が目についた。レースがんばらなくては。
露霞は菖蒲の一種の名でもある。この花が渡し場に咲いていたのか?
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サクラの開花の便りが聞かれるすこし早くに、露霞渡しの場所あたりに一本のサクラが満開になる。うどん屋から見る花見はごきげんな時間だ。いまはすっかり緑になったサクラの、そのあたりにカイツブリが海からちいさな砂浜にあがって羽を乾かしている。その景色もご機嫌だ。
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「灘は猿侯川下流仁保本島の対岸東方に位置し、河口灘側に湾曲し沿岸至る処浅瀬なり、上方よりの流水、満潮時の激流は河口中央より灘方を主流とし、特に露霞渡しの急流は甚だかりし、洪水、満潮の水筋が片より流木、汚物の溜り場として格好の条件の地形なり、古言に“流木ナダキ・拾い”といい、地形が自然に砂土堆積させし地なり、故「灘」となる地名発祥の起こりではなきや」向灘はのちに向洋の地名漢字に変えられた。

寄り木がある場所は胡浜とかとも呼ばれる。寄り木はタダである。また港としても使われる。そこへ寄る木が見られるように、本流から入りやすい水流を持つ場所であるからで、その流れの変化がそこに水が運んできた土砂を堆積しやすく、その土砂の高まりに日差しが海底までとどき海草が繁茂する。そこに小魚があつまりそれを追って魚が集まって魚場とされる。人にとって都合よい場所は鳥たちにも都合よい場所で、漁師たちが鳥を追う訳がそこにある。

しかし土砂の堆積は流れを変え、港は浅くなって放棄される。古代の大阪・難波の港は記紀にも書かれる重要な港・津であるが、淀川の土砂に埋もれていまも場所は御堂筋にある御津だといわれるが、学問的に論争され決められていない。なくなりゃ忘れられる。

もみのきのサイクリングコースも二十年を越えてすっかり弱ってしまっている。今回もメンテナンスに六日を費やした。とても時間がかかる。森の中の信号も対向車もない疾走はとてもおいしいと思っているが・・。このグチももう数年前からこぼしているのだが。

鳰鳥にあいたくて、か?朝日の中の湯気のうどんが呼ぶのか、晴れの朝漁港そばのテントへ足がむいてしまう。風上に向ってじっとウミウがたたずんでいる。サギが港の浅瀬を歩いている。カモメとカラスが交差して飛んでいて、雀が係留された船に群がっている。
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「ひやいさむいは 寝てわすれよ アーヒヤイノー サムイノー 海苔とり唄」
仁保島の西にある大河漁港では“生海苔”を売っている。みそ汁に入れるべし。
このプロバンスの路地あたりはまだまだ、鳥並みの生活が残っている。寝て忘れて、鳥並みに生きて行くかな。
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by forumhiroshima | 2014-05-23 02:45


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