こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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殿様川

黄金山の麓の路地をめぐっていると、「殿様川」とかかれた地元郷土史会の説明版が団地から、くねって降りてくる石段のしたのマンホールの蓋のそばにあった。すこし窪みになったコンクリートの壁にあるそのマンホールが、以前は豊な泉であって、そこから流れ出る水流を「川」と名づけた、とある。ここで「殿様」は黄金山山頂にあった城の主人だろうか。
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殿様川は猿侯川河口にのこっている“土居”の地名と連想させる。土居は土塁に囲まれた武家屋敷があった場所のことで、見張り所があったとも、想像できる。そこと山頂とを結ぶ尾根道が登っているのかもしれない。
翌朝徒歩で向った。新しい住宅街のなかに、きれいな石段がつくられて、また住宅の間をぬけて、また石段が山頂へと向っている。車がなきゃ暮せない団地にこれほど石段はいらないだろう。古道の記憶を消せなかったのだ。宅地業者は通路にも配慮して造成するそうだ。石段が登山道に替わって送電線の塔をぬけると、ポーンと黄金山の山頂へ向う車道にでた。武士達の連絡道も姿かえて残っているってことかな。
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車道を山頂に向う。早朝、幾人も歩いて、走って山頂へむかっている人も。ここまで来たからと山頂にむかった。老夫婦、いじさん、ダンベルを抱えて歩く人、リュックを背負って登山靴のおばさん。犬も登っている。自転車もやってきた。彼、ケイリンのS級パンツはいてる。早足で下ってくる人もやってきた。

またその翌朝、車道から山頂へランニング?を始めた。みなさん挨拶される。下を向いていても、気配を感じて眼をあげると、向うから。オハヨゥ!。うつむいて歩いて下ってくる人をチラっとみると、向うも顔があがって、オハヨ!。挨拶はどこかテレパシイのような感覚の表現だと気がついた。挨拶は警戒と集団への帰属の意識の動物の本性なのだろう。

幾日が続けて走ってみた。登っている人はほとんど常連さんみたいだ。山頂には山登りのグループの千回登山記念の植樹もあった。一年を55週、毎週で19年。数人が道幅いっぱいに横列で歩いているグループはこの千回、者たちかもしれない。挨拶はしても返事は返ってこない。この山は彼らの“シマ”ほどのものなのだろう。威張って堂々とされてる。コワイよ。なにか牢名主さんたちに見える。千回以上登れば、我が家なんだろう。
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山頂の広場は西から入る。朝日が差し込んでくる。幾つかのグループで体操も始まっている。6時、山の中腹の墓場の中にある観音堂の鐘音がゴーンと登ってくる。山頂の広場は差えぎるもののない日差しにつつまれる。
老人(私も含めて)にとって、いきなり広く明るくなる山頂は、浄土の輝きなのか。観音堂の鐘がやけにいい感じなんだ。
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一応走って登って、歩いてないことにしてるのだが、いつもパタパタとせまってくる細いおばさんがいる。足音でわかる。また抜かれる。じつはサッと抜きかえすのは、たやすい??わけないがはずだが、彼女はいつもピンクのTシャツ。後ろに「マラニック」のプリント。マラニックってなんかしらないけど、マラソンクリニック???だったらマラソンで病気治そうって感じ?。マラソンと書いてあるから抜かない。抜き返されるときの気分味わいたくない。なさけないです。

車道はループして山頂へむかっている。南斜面から広島湾が木々の間に現れる。海のにおい(といっても自分はいま鼻がきかない)は立ち上ってくるように思う。水蒸気も昇ってくる。夏ですね。海の季節ですね。
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いつもと違う足音が勢いよくやってくる。振り向かない。見たくない。足幅が広そう。若いぞ!その時、オハヨプデス!かっこいい高校男子だ。そうだな、あんな幅広に走れていたことも、あったっけ。彼にとって山頂の光は未来!未来なんだよね。もう、夏休みにはいったのだ。

未来君はテレビ塔の展望台まで飛んでいった。彼が飛んでるうちに、こそこそまわれ右して下る。下りも負けるの決まってる、ただ、それを確認するのはイヤ!と、車道をはずれて殿様川からの登山道にもぐりこむ。老人の平衡感覚トレーニングだ。なんていいわけして。重ねてなさけない。

山道が送電線の塔横で石段に変わる。降りると道が分岐。右にゆけば自宅の隣町の日宇那。左は殿様川のある仁保。近くの草をむしって空に投げ上げた。いっせいに左へ流れる。左へ降りよう。じつは、いつも左に朝風はふいているのだ。
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この先に朝6:30から開店している「うどん屋」さんがある。日宇那の港そばにテント仕様がかっこいい。かけうどん350円おでん80円(日曜日60円)・・ビ―とか、おさーとかあるんだよ。
でもいま禁酒している。山頂のかがやく広場を未来にしたい、なんて妄想してるから。まだ浄土行きは・・。
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うどんの湯気の中に海面の波形の影が紫にそまった。そして浪人中に使っていたカレンダーを想い出した。海面に輝くお日様のそれだけのカラー写真の小冊子で中国新聞の付録だった。その景色が朝焼けなのか夕焼けなのかが、とても気になった。朝焼けが合格、夕焼けがサクラ散る、と思い込んで、イライラしていた。判別できないのだ。
お盆に家を抜け出して比婆山の山頂でビバークしていたとき、朝日の影は紫に染まっていた。あのカレンダーは朝日の写真だと。うれしかった。夕日の浄土ではなかった。
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by forumhiroshima | 2014-06-30 22:09

お城の引っ越し-3 縄手

上根峠から出雲街道は西の尾根のふもとに続く古道なのか、
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国道54となっている直線で土師ダムまでつづく道なのかがわからない。

司馬遼太郎の街道をゆく・芸備の道に「道路は遠くまでまっすぐについている。自然の地形としてこの北へむかって細長い平坦地は尾根なのか高原なのかよくわからない。」と峠からの道を記述している。

峠の下から直登して上根の市裏という寺社のある集落からの道が、可部からの連続性を考えると出雲街道になりそうだ。
峠までの出雲街道はどこか古道の趣がすくない。古道を賑わせる小物のお地蔵さんや道標や祠がみられない。
「道は外部の世界に連なる、最も危険な場所であった。それでその要所には道祖神を祭り、道路の分かれめには岐・フナドの神、また境界にあたるところには塞・サエの神をおいた。・・塞は工の形をとった形の字で。疫病神もここから入ることはできない。そこは“塞・サヤります”神のあるところである。 漢字百話 白川静」とあってこその古道なんだ。

古道であっても、要所々に神々が置かれない古道がある。奈良盆地に南北に平行してつくられた伝承のある三本の道、上ツ、中ツ、下ツ道だ。江戸時代に主要な街道となった上道には道祖神がおおく、高野山巡礼道ともなって祠や道標もたくさんあったが、古代のルートが生活道路となったほかの道には、この出雲街道ほどの印象でお地蔵さんも道しるべ、もみられなかった。

「道とは恐るべき字で、異族の首を携えてゆくことを意味する。(シンニュウの上に首がのる字)・・それは戦争などのために敵地に赴く軍を、先導するときに用いられる。そのとき異族の首を、呪具としたのであろう。 漢字百話 白川静」
甲斐の武田信玄は信玄道とよばれる直線道路をつくっていた。騎馬軍団移動の便利性といわれるが、甲斐の主要路がすべてそうなってはいない。やはり呪術的な感覚がある。古い時代も今も同じように経済性とか便利性とかで計ってしまうのはおもしろくない。安芸の武田もこの地に領地をもったことがある。この直線道路は武田の呪術と?

田んぼは基本的に直線でかこまれる。直線で設計すること、自然な地形に合わせるのでなく、人為的に地形を直線でかこむ。これを阡陌・センハクと呼ぶのだそうだ。陌・ハクはミチとも読む。「径・ミチは地形にあわせて水平を保つ水田を取り囲む畔・アゼのこと 日本的風景考 斉藤 晃」
阡陌は古代の王城で、方形はまた空間も方形にひろがる、王城の方千里以内を畿内という。その外五百里を候服・コウフクとよび、この二つの空間が近畿になる。

「吉田と近郊の町割りは、小規模ながら京風に碁盤の目である。戦国末期から江戸期を通じて城下町の街路はまがりくねったものときまっている。西へ歩いているかと思えばいつのまにか北にむかっているというふうで、要するに外からの侵入軍をとまどわせ、曲がり角ごとに矢防ぎできるようになっており、いまなおそういう旧城下町が多い。
が、それ以前の室町末期ごろ、すでに繁栄していた勢力の城下町は往々にして京風である。周防の大内氏の第館・ダイカンがあった山口、また公家の姉小路氏の分流が建武中興のとき飛騨に国司として赴任し、そのまま武家化して城邑・ジョウフウにした高山、それにこの安芸の吉田である。・・この三氏は・・自分の都下が鄙びているのをきらい、せめて京風の井然とした街衝・ガイクにするようになったのである。 街道をゆく・芸備の道 司馬遼太郎」

吉田歴史資料館に郡山城南の多治比川河畔に設計された区画が展示してあった。河畔の開発に縄手という地名がのこった。「縄手」は湿地帯に盛り土して路をつくったことで、各地に残っている。大阪・四条畷はゆく知られた地名だ。縄を張って測量するから縄手。その縄が作業終了後、作られた土地の守護神となる。その縄のご神体を納める神社はお稲荷さま。この多治比川河畔で見つける時間なかった。必ず鎮座しているはずだ。

この開発が毛利氏によるのか、それ以前の条里制によるのかは私にはわからない。が方丈に路がつくられ、その基点に神社が置いてあるのは、古そうだ。
それに基本線が東西のラインに約30°の傾斜をもっているのは春分・秋分の日の出の方向になる。田植えの春分などのスケジュールがみえる。城山の中央にある清神社は
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祇園社であったといわれ、毛利氏が吉田に入るより古いといわれる。この神社の参道が縦の基準線になっている。それで祇園縄手の名称がのこっている。
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やはり縄手道は毛利氏に吉田入りよりふるいのではないか。
が縄手の直線もいまは新しい車道がおおいかぶさって、それらしい手がかりもみられない。

「道は外部の世界に連なる、最も危険な場所」とは前にふれたが、道を整備すれば攻め込んでくる敵に都合がいい。進みにくいと、攻められにくいが、攻めにくい。そうか考えると、古代の大和朝廷ってすさまじい武力があったのだと想像できる。7世紀の壬申の乱のとき奈良盆地の中央の直線、上ツ、中ツ、下ツ道は存在していたし西国街道は奈良時代には造られていた。

毛利元就が家督をついだのが1523年、「毛利元就の初期勢力は兵隊さんが六百人ほどだったという見当がつく。・・そのくせ二大勢力にはさまれている。北は出雲の尼子氏であり、西は周防の大内氏で、吉田の小盆地はこの二大勢力の往来する通路にあたっていた。 街道をゆく」
往来する軍は首を携えて移動したのだろうか。この二大勢力を倒すことによって、毛利元就は中国の覇者になるのだが、吉田がその勢力の往来する通路であったことによるのだろう。吉田の郡山のコオリはここに古代の郡の役所があったことによる。古代の中心地であった。

私の母親の実家が吉田の東の赤峠(?だったかな)から東の谷をくだったところで、実家に帰るにはJR芸備線の吉田口駅におりた。駅はとても吉田の入口にはなれない場所にある。列車到着時間には駅前で客待ちするタクシーも少なくて、よく歩かされた。実家から吉田まで3kmはある。母はよく吉田がさびれたのは国鉄(そのころ)が通らなかったからだといっていた。吉田口駅周辺も寂れていた。ローカルな快速もとまらない駅前の食堂で昼間からビールって光景は用意されたなかった。

広島から三次・庄原の備北の都市へのルートはR54が吉田を通るようにメインルートになる。芸備線は上根峠を上がらなければならない。撚れるようにスイッチバックの方法もあったのだろうが、大変な工事だろう。自転車のコースで一番安定して走りやすいのは鉄道沿線だ。三篠川をたどるルートが選ばれるのは、そでに吉田が毛利輝元時代の輝きを失っていたからだろう。安価な建設コストを打破する勢いが失われていた。

平和公園の資料館の南の天神さんが吉田・郡山の天神さん
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のクーロンだと広島の天神さんの説明版に記載されていた。その天神さんは歴史資料館の北側の郡山山麓に鎮座していた。これでもかと説明の掲示があるこの山一帯なのに、この天神さんは解説がないように見えた。歴史資料館の方に天神さんの位置を聞いたのだけど、広島に姿は移っていて、ここは影ですね、と話すと初耳だといっておられた。胡さんだけじゃないようですね。

胡神社
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は正確ではないが、巡礼堂縄手の南の端っこの位置に鎮座する。天神さんもなにかの目標として設置されているように思えた。南側は資料館の建物があって見わたせなかった。多治比川河畔を走れば祠などが見つかるかもしれない。天神は菅原道真を祭る、毛利氏の祖先の大江氏は古代のノミノクスネを祖とする。菅原氏もおなじくノミノクスネ、だから毛利氏も天神を祭る、と深読みしていた。が、この多治比川の氾濫源の開拓に守護として設計ポイントに置かれたのが真相のようだ。

天神さんも胡さんも、基は開拓の神々。広島に移られた訳は、単純にクーロンをつくっておいて、姿は広島、影は吉田、のパターンだった。広島での開拓の神々へ。だから国鉄の路線は影には近寄らなかったといえる。

時代は出雲文化圏を突き抜けて、上根峠道を九十九に設計しかえて、瀬戸内海へ、海へ、向っていた。毛利家は本家でなく三原の小早川家が主流になり始めていた。関が原で西の大将の毛利をおいて、小早川は徳川に走る。
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by forumhiroshima | 2014-06-01 00:32


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