こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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観音・巡礼

あの日前日。「大規模土砂災害」の前日の朝の朝焼けはおだやかな空ではなかった。厚い雲間から流れる朝陽の帯が、妖しく美しかった。
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翌日TVのニュースの災害報道と朝陽がだぶった。八木の地名が幾度もTVでさけばれている。ふと、「八木」の地名は古代の海人族の一つの系統の人々の記憶だと想い出した。記紀にこの人々が記録されている。彼らが定住することで、外から「八木」たちが居るところ、だった。
海人たちはその名を残す場所には水の豊かさの利便性が必ずみられるという。それが地盤の不安定さでもあり、地名から災害発生しやすい場所のリストにも加えられる。が、地名の範囲は不確実なものだから、あまり信頼できないのだけど。
それでも、そこは過去に幾度も災害の痕跡があるのではないだろうか、などと思った。

黄金山観音寺の鐘つきおばあさんが復活して、ふと、観音寺がどこかにあったのでは?と記憶をほじくっていた。なかなか、回答がでてこない。歳です。

ネットで広島・観音とヤフーやってみると、“矢野の観音谷観音”がヒットした。そこに由緒書きがあって、元宇品の観音寺の本尊は矢野にあった観音堂の観世音菩薩像で、それが元宇品で祀られたとある。
記憶から消えていた観音寺が元宇品の観音だとよみがえった。由緒に災害でお堂ごと海に流出したとある。八木の災害とダブった。元宇品へ早朝走りにいっていたころを思い出した。
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元宇品へ小学校の正門の登りから入って、観音寺へでた。びっくり!平屋の民家の仏間のようだったお寺がりっぱなコンクリートに変わっていた。そのころは風雨に現れたガラス戸は引き戸だった。それが観音さまのお宿らしかったのだが。

寺から灯台へ向った。緑のトンネルがずっと続く。木漏れ日の向うの海は緑のフェンスで見渡せない。灯台からプリンスホテルへ向う下りに。ホテル横から海にでた。
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久しぶりの宇品の海。が、海の色は茶色が交じり合った見たこともない鈍い青緑で、夕方から雨との予報を忘れたように、青空からの日差しを照り返していた。
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元宇品の観音寺をヤフー検索してもヒットしなかった。広島市被爆建物リストものぞいて見た。リストアップされていない。あの引き戸平屋はその由来をあらわさない。そして観音像は、誰がここに安置したのだろう。明治35年の地図を引っ張り出した。そこには寺のマークはついていなかった。
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広島が海だったころの地図も引っ張り出した。
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元宇品は、もっと陸地から離れてあった。そこに「牛奈島」と記載されている。そして埋立で陸続きになって、地名をとられて、元の宇品と呼ばれた。地名は成長するものだ。
今住む楠那と隣り合う日宇那、丹那と「な」が付く。博多は那津。地図はまだ元宇品が海の中にあった。宇品は牛な。「な」族の人々を夢想する。周防大島の南に惣那諸島もある。中国大陸も朝鮮半島も、一字が姓になる。中華街に観音寺があることが多い。長崎は有名だ。観音の渡来由来に関係あるかな。

波打ち際の海岸の散歩道をぬけて車道にでて、もう一度坂を登った。八木方面は見えないが、災害を経験した観音さんに、合掌をした。なにか胸に詰まってきた。
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元宇品の入口の電車道にでて、旧国鉄の宇品線の廃線の車道をとって、そばの小さな食堂にたちよった。ひさしぶりに、そして胸につまったものをすこし軽くしたくて、なんていいわけをつくってのれんをくぐった。
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早朝からあいている食堂は近くの一万トンバースの人々でいつも忙しかった。おばあさんは覚えてくれていた。3時すぎの食堂のおかずケースはがらんとしていた。野菜不足だからと、ほうれん草と茄子煮物をとって、瓶ビール!。置いてないよ、このごろ売れん。飲酒運転で。そう、そう。と缶になった。
すこし精進とも、おもっていた茄子煮には牛肉で煮てある。想い出した!これ食べたくてここに来ていた。甘くて辛くて、ナスは溶ける。
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TVが災害をさけんでいる。底なしの被害をさけんでいる。もう一本いやもう一缶をやめた。禁酒しているの、わすれていた。

観音巡礼は西国・坂東の33と秩父34で日本100観音巡礼。中国33観音霊場もある。人々は、この国に生まれると、観音さまをどこかで思い出すことになっているだろう。東大寺二月堂のお水取りの水は難波・大阪湾で引き上げられた観音さま。だった。
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by forumhiroshima | 2014-08-23 21:29

宮本常一「私の日本地図・広島湾付近」

雑踏をおもわせた観音寺の墓所はすっかり静かになった。安芸門徒特有のアサガオ灯篭もこのごろ少なくなって、墓前の生花が造花に変わってきた。東大寺のお水取りの造花の椿を思い出した。
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墓所入口の六地蔵の祠に墓参の人々の布施の金額が書き出してある。賑わいの熱がまだ残っている。
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「死者の霊の行くところに観音が多くみられます。吉野などは昔死にそうになると、みんなあの山の中に入っていったものなのです。山中を歩くと、白骨がいたるところにあると書いてあります。そういうところを人々は、その供養のために訪れているのです。そこに霊地信仰というものがあったのです。そのひとつが観音だといえるのだと思っています。宮本常一 炉辺夜話」
本浦の集落から観音寺への参道の三叉路に案内地蔵とよばれるお地蔵さんが置かれている。そばの説明に「毛利氏以前からあったと言われる」とある。山頂に城を築いた白井氏という豪族の菩提寺として観音寺が建立とされる歴史記述にもっと昔の姿があったのではと感じる。
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鎌倉時代の白石氏の歴史のもっとむこうの時代からあったのではないだろうか。住宅密集の中の細いうねった路地になる供養の参道が思いを深くさせる。供養の人の姿が早朝毎朝歴史の長さを証明しているようだ。

お盆期間にはなぜか、鳴らなかった鐘の観音寺の鐘つきおばあさんがチビの犬をつれて帰ってきた。
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すこし安心して寺の参道の急坂をくだって、広銀のある6ツ道の交差点からこれまで長く広島一の高さだったNTTビル方向へむかってゆくと、“地方・ジカタ”のバス停を見つけた。
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6ツ道交差点の有り様はここの過去賑わいを残しているのではと、感じさせる。コンビニもスーパーもこのあたりにあって、いまも小さな賑わいがざわめいている。
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瀬戸内の島々には農業部落の“地方・ジカタ”と漁業集落の“浦”が対になって固まってある場所がある。農民の紋付と漁民の法被と、礼服が江戸時代には区分があって相対する関係であった、と宮本常一が教えてくれた。その“地方”がここ仁保島にあったなごりの地名がバス停に残っている。ここは農業集落で、すぐ西に本浦のバス停がある。
ここでどんな農業ができていたのだろうか。すっかり住宅地となった黄金山の急坂の麓を見上げた。

親父の死去による家業をひきついで、従業員の給料の支払いがやっとの生活がつづいていた昭和47年だった。札幌オリンピックのテーマソング“白い恋人達”が店内にながれている書店で広島湾付近とサブタイトルのある「私の日本地図」が目にとまった。開くと原爆ドームの写真があって、懐かしい景色があった。
ドームの北正面に隣接していた我が家そばの景色だった。安心してのんびりの生活があったころだった。昭和40年ころ公園に整備されるために立ち退きになって、大げさにいえば“失われた景色”で写真中央の学生服の少年が自分にだぶっていた。その町、猿楽町のこのあたりに学生服姿は数人だった。本をつかんで、すぐにレジに向った。
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著者・宮本常一に始めてであったこの本が、このたび再販された。あの時購入した本はもう手元になくて、一冊分全部を図書館でコピーをファイルしていているのに、重複しているが、買ってしまった。 “失われた景色”を本物の“本”で持っていたい。

その本に仁保を“昭和36年(1961)11月のある日”に宮本は歩いて書いている。
「日宇那の村の中の道を歩いて、村の裏の山の方へのぼっていった。そしてそこでおどろくべきものを見た。・・なぜこんな畑をひらかねばならなかったのだろう。どうしてまた、このやせこけた畑に草一本もはやさぬほど手入れをしているのだろうと私は考えてみた。上から2段目の小さな畑は、私もそこまでいって見たのだが、広さは1平方mにもみたず、イモを植えても4株は植えられぬほどの広さであった。そしてその耕土の深さは10cmにもみたない。そのような畑をこの村の人たちは長い間つくりつづけてきた。その故にまずしかったともいえる。・・勤勉といっていいのか、無駄骨を折っているといっていいのか。  宮本常一 わたしの日本地図・広島湾周辺/広島」
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「わたしの日本地図」に畑へむかう山道の写真が掲載されている。畑の場所は造成されてあたらしい住宅地として分譲された。その団地の南北に幹線の車道がつくられて、市内中央へのバス路線もある。そのバス通りを東西に縦断する階段道が造られている。この犬の散歩にも使われない階段がここにあった畑への道のなごりにみえる。造成業者の苦心を思われる。道としてあった土地利用の権利保持からか、“無駄骨を折っているといっていいのか”。
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黄金山の名称の発生は、麦畑におおわれていたころ、初夏の麦の実りが黄金であったからともいう。またハゼの木を栽培しており、ろうそくの原料を採取していていた。その紅葉が黄金色であったともいわれる。イモ4株をうえる畑も、また黄金のムギ畑もここにあったのだろう。そうだから観音がお堂にまつられ、時をつげる鐘堂も供養の地に建立できる生活がここにあったのでは。その経済力の強さが小さな漁業の島で“地方”とよばせた農業の地名を獲得したのだろう。そして観音堂は黄金山観音寺の名称に変わったのだ。

日本の都市は、コンクリートとネオンからなるおおきな道路網とそれに絡まった細い路地とがぴったりと近接しているという見方がある。“大きくなりすぎた村の小道のまがりくねり”以上のものではないという意見である。どこかバカにしている評価で。それも日本人の建築家が。一方イギリス人のピーター・ポパムは、高くて硬いコンクリートの「殻」が柔軟性に富む商店やサービス業の「白身」とさらに柔らかな住宅の「黄身」を包み込んでいる卵のようだ、といっている。仁保のNTTビルもその硬い殻だろう。

サシクリングで町に入るには旧街道がある他は、幹線道路をたどるほかない。ルート〇〇ロードハンティングとでも呼ぶような、横文字の世界だ。できれば日本語の”古道”をたどりたいものだ。

町は訪問者にどこか身構えて、ロードサイドのコンクリートとネオンの壁で防御している。金はらったらいいことあるよ!と。卵の殻とよぶ表現に賛同する。だが、小さな都市ではその殻のすきまから、白身の商店やサービスの店がこぼれだしたりしている。黄身と表現された住居のエリアも白身とともにこぼれだしてくると、なぜか、すごく町並みが身近に思える。
このごろ、すっかり白身は疲弊してシャターが降ろされ、住居もあたらしいデザイン住宅に建替えられ、どこでもある景色になってきている。が、訪問者はここで後退できない。眼をこらして、デザイン住宅に住む住民達が支持する白身のサービスである居酒屋やすし屋や食堂を見つけ出す努力が、サイクリングを完璧な思い出に完成させる。その上に、住民達が日常の普通の宗教的行動の中心になる寺社を見出せば、そこで訪問者は住民の心に最も接近し、かれらの精神に遭遇できる。

仁保島のエリアに居住して1年がすぎた。1.5台分のスペースに二台の軽四がつ込んでいる中華料理店はいつも掃除されてピカピカのステンレスの壁の厨房をもっている。自転車が店頭に無造作に止められているお好み焼きの店のオデンは醤油の色で染まっているが、甘くてやわらかい。それらは、殻からはみ出している白身だ。台風になると店じまいのテントのうどん屋のそばの船溜りのテントへの波形の照り返しは、瀬戸内のうどんのトッピングだ。殻から光がこぼれてくる。

サイクリングで数十kmを自転車ですごしてきた身体は、地元の住民達の人生の休憩所、補給所の共有を必要としている。その疲れた身体の直感がきっと、それをみいだし、そこに神様は疲れた身体をやわらかく受け止めてくれるサービスを用意していてくれるだろう。

常一さんは、ある瀬戸内の港町の祭りの阿波踊りをみて
「踊る人たちがきちんと割り振られた位置について踊って、その後におおきなスピカーで録音した曲を流す車がやってくる。あれは人が機械に踊らされているように見える。踊っておる人たちのあとから三味線がついてきて、踊る人たちがいいかげん疲れてテンポが遅くなると、三味線の人たちもそのころ疲れて曲がゆっくりになる。それがいい具合に合うのだ。それが自然なのではないだろうか 」

その自然のさまを、みつけだせる訪問者になる、その修行をもっとしないと!
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by forumhiroshima | 2014-08-19 20:21

たなごころ

午前五時、アパートをでる。黄金山山頂の広場を経由して中腹の観音寺へ走ることをなぜか、つづいている。お寺の明け六つの鐘にはこの時間のスタートがリミット。そう決めていることで、なんとかカタツムルランが続いている。そして幾人かの知り合いもできた。

今日の日の出は5:30ごろ。アパートの前、暗い中、自分の手のひらの写真をとる。日の出30分前。
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山頂への薄暗い車道に歌がきこえる。タオルの鉢巻のバカボン親父さんの腰あたりからきこえる。親父さん、大きな声で“オハヨー!”彼の腰にipod、孫娘がプレゼントしたそうだ。親父が手招きでよぶ。ipodの音をもっと大きくしろ、です。もう十分に響き渡っているのに。この親父けっこうワガママ、です。そして“アイパット”という。それは胸にするものでしょ!。

山頂広場に入ると正面の山際に日の出。登坂練習している競輪選手と自転車がシルエットになった。彼は2往復のトレーニング。オレもレース出てみたい・・ナ。ウーン無理、無理。
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観音寺が見える高台に着いたのが6時すこし前。ここから寺の境内を覗き込む。白い帽子が動いている。鐘つきのおばあさん。先日お寺の境内でおばあさんの鐘つきを見ていたら、すごく恥ずかしそう。で、それからこの高台から高見の見物にしている。
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“アレ?”おばあさん帰っていっている。そうなると、誰が鐘つくのか。6時になった。誰もつきにあらわれない。それなら、自分が、・・。それは、ナイ。資格ナイ。

明け六つ、暮れ六つの鐘は日の出、日没のそれぞれ30分前につく、と説明される。が、その時間はどうしてわかるのか?と調べてみた。和時計、天体観測などのメカニカルな装置があれば、だが、この黄金山観音寺では、考えられない。
江戸時代の寺では「定香盤」で線香を燃やして時間を計った、が一般的らしい。このごろ12時間燃える蚊取り線香がある。もみのきのキャンプでは役立っている。線香は時間を表す技を内臓している。寺はこのお香代として近隣住民からお金を徴収していたらしい。消えたらどうする?

とても気に入った測定方法をみつけた。江戸時代末期の記録で、「明るい星ひとつだけが空に残って、手のひらの太い筋3本だけが見えると明け六つ」とある。
そこで手のひらの写真を撮っていた訳だ。丁度30分前に。「わが生活楽にならざり ぢつと手を見る 啄木」を想い出した。手のひらをみること、ってすこし悲しいものですね。

でも一方、手のひらを朝の暗闇にひろげて、そこに光を探すこと。夕暮れに手のひらから、光が失われていくことを見つめること。その時を、鐘をうって、空間にあらわす動作。時間を光にして、宇宙の流れに自分を置くことは、とても豊な気分をもたらしてくれそう。

「古代、奈良の三輪山の神がある姫のもとにあらわれ、朝に消えてゆく。姫はあなたは誰かと問いただす。彼は朝、小箱を開けよという。明けると小さな蛇がいて、その蛇を受け止めた姫の両手からこぼれて、朝日の中に溶けるように消えた。」神も手のひらに包まれる。

「だれぞ彼は」が夕刻の闇にたたずむ人への問いかけだと、思う。“タソガレ”は、明かりの消えた時間ではなかろうか。“夕暮れ”には、夕陽の残り日があるようにおもえる。“ライムライト”の中にはライト・明かりがある。どの言葉も豊な気分をもっている。

寺から車道に引き返すと、バカボン親父が下ってきた。
「広い世界の片隅に・・朝がくる・・そばに来ている幸せに、両手をのばして・・」
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手のひらを“たなごころ”という。手のひらで包んで、頭上の棚にさしあげる、のはきっと幸せにきまっているだろう。そこは明るく輝いているにちがいない。
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by forumhiroshima | 2014-08-12 00:49

八月五日、六日、七日

広島に帰って一年になった。昨年の8・6、平和公園ではボーイスカウトたちによる献花の配布が始まっていた。慰霊碑は人だかりになって、そばに白・黒の礼服の人々がせわしく動いている。スピーカーがテスト!を叫んでいる。慰霊碑の横にセレモニー用の伝書ハトを入れる黒いボックスがずらり並んでいる。いっぽう、公園に住むハトたちは、ハト公害対策とかで、めっきり少なくなった。公園の森に陽光をかきまぜるキラメキが失われた。

早朝の線香の煙のなかで静かに黙祷する人々はすでに立ち去っていた。
祈りの時間からセレモニーを待つ時間に替わった空間は、自分にすこし白々しい違和感を感じさせる。あまりにも遅くに来てしまった。

今年は億劫で、心が動いてくれないうちに八月五日になった。雨ですと天気予報。雨で自転車も走るのも止めたことないのに、午後はやく慰霊碑の前にたった。人々も雨を避けたか、多く立たれている。8・6は避けたかった。
合掌し、早々に公園の北の原爆供養塔の草饅頭へむかった。
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先日OS氏からのメールに自宅の庭のヤマボウシにヒヨドリが営巣し、巣立ちになったと写真も送られてきた。いったい、どれほどの庭かと、ヒヨドリより気になっていた。
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そのヒヨドリが十数羽も草饅頭の芝生でエサをついばんでいる。そばにスズメがヒヨドリには、きっとうるさい、ほども動いている。ここは命がキラめいている、のに、カメラもってない!

鳥たちがとてもうれしかった。草饅頭が凄い景色になった。

自分は原爆ドームの北隣で生まれた。ドーム周囲には垣根もなく、赤土の広っぱだ。そこに寺が二つ。まだ新しい本堂の座敷は白い骨壷で埋まっていて、はみだした「白」は、本堂横のバラックの小さな倉庫も埋めていた。そんなバラックの小屋は赤土の道の町じゅう、どこでも見られた。

その「白」がバタバタとよんでいた三輪トラックに満載されて集まってきた。自転車でも大八車でも馬車も運んできた。草饅頭の後ろの戸から中に運び込まれたのは昭和30年だと饅頭よこの掲示板にあった。そこにドームそばの二つの寺から運ぶ手伝いを手伝った。
説明に数万の遺骨が納めらているとあるが、覚えているのは7万ほどだといっていた大人たちの声で、そのうち名前のある遺骨が千体を越え、この遺骨をなにがなんでも返したいといっていた。
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草饅頭の標示の横にまだ縁者が見つからない名前のある遺骨のリストが張り出してある。
この遺骨は被爆後すぐに町の人々によってダビにふされ、一度埋められたものを掘り出して壺にいれて保管されたもので、その作業はすべて町の大人たちの仕事だった。復興は遺体の弔いから出発したのだ。

相生橋の東端に八月七日にアメリカ兵の遺体があった。1974年のNHKによる“原爆の絵”募集に、複数の米兵の死体が描かれたものがあって注目された。この遺体を埋葬したのが親父だと、この米兵を調査した森重昭氏の「原爆で死んだ米兵秘史」にある。家に彼の靴があった。編み上げのハーフブーツだった。
家は立ち退きになって、そのブーツは行方不明になった。そのころ沢山の人々が原爆を調査されていて、その誰かに渡ったのだろう。
その遺骨は、寺の「白」のどれかに、入っているのではないか?と。それは親父からは聞いていない。引越しの後から、原爆について話さなくなっていた。

翌日六日午後に晴れた。すぐにカメラをもって饅頭を訪ねた。が鳥たちは居なかった。翌日七日晴れた、また走った。居ました!二羽ですが。
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「沢山の犠牲があって、今の生活があります」といわれる。「あの沢山の人々が生きておられたら、もっと豊な生活があったはずです!」といわないのだろうか。
あの時代のこの町の大人たちは、自分たちの寝る場所よりも、亡くなった人々を“安らかにお眠りください”とする仕事をしてきたのだから。誰もすべて、生きていてほしかっただろう。アメリカの米兵の家族も。
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by forumhiroshima | 2014-08-08 21:40


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