こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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消えてゆく記憶“彼は誰”

いつもの黄金山の観音寺への明け六つ時参りも、日の出前の暗い時間になってきた。夕暮れ時が“誰そ彼・たそがれ(あなたは誰)”なら 夜明け前を“彼は誰(かわたれ)”だと教えてもらった。誰と彼を反対にして時間の違いを表すって、クール!

山頂からの東雲の夜景?イヤ、朝景!を見ていて、ふと、この電灯で輝く一帯は、その昔は暗い海だった、と気付いた。
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東雲の空が明るくなってくる。林立するモミュメントのようにビルが闇から浮かび上がってくる。オシャレな地名がこの時間にピッタリ。この海を埋立てレンコン畑になったころの写真がある。
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山頂から下るといつもの朝の登坂の人たちに挨拶。もう5ヶ月もやっているから、挨拶の仕方のそれぞれの違いが判ってきた。こちらもすこし認識してもらったようで、いつもの変わらない挨拶や無視や、をいただく。
いつも会う二人連れのおばさんには、挨拶のタイミングがまったくとれない。「オハ・・」の時点でふたりの私語がかさなってくる。「でね、あの・・」で無視。まったく!!。どんなツラしているんだ、とのぞいても“かわたれ”時間。まあ、見たくないけどね。

中腹の観音寺の明け六つの鐘つきをしているおばあさんにこの数日あってなかった。が、きょうは元気にボーン!。明け六つなのにいつも一つか二つの鐘、が聞けないと寂しいのだ。
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寺のそばで、「ここが一番!」といっていたすらりとしたおばあさんにもこのごろずっと逢ってない。すこしだが、いつもつっけんどうな受け答えの鐘つきおばあさんに、その消息をおそるおそる尋ねた。「いてるよ、すこし遅くなってからだけど。朝があけてからよ」江戸時代の不定時法遵守!でしょうか。すばらしい。ぜひ、ひさしぶりに会いたかったな。

観音寺の墓地に、ここに土地を寄付された人の名を刻んだちいさな石のモニュメントがある。在米・カルホルニアの人だ。ここに両親の墓標があるのだろうか。
「辛くても がまんをすれば きっときますよ 春の日が」残念にもここにつばきの木は生えてないのだが。日本のおかあさぁん!!の声が聞こえた。
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山を東に回って、“回峰”などとおもって走っているが、バカ「喝!」同じにするな、と比叡から声が聞こえる。
黄金山の中腹を開いてつくられた住宅地の東の古い斜面のちいさな畑の中の細い道を海へむかって下ると、日章旗がいつもひるがえっていて、認定されていないのか、投函してはいけない赤いポストが鎮座する白い土蔵の資料館がある。扉はいつも閉まっていて、たまたま先日半開きの扉をみつけて押した。中庭にご夫婦がおられて、閉館だよ!と笑われている。いまは小学生の郷土教育の遠足の機会だけ開いているのだそうだ。
建物の修繕中で、手元にあるだけの資料をいただいた。この資料館“仁保島村”は旧道からは、なんと広島市施工の白い舗装の路地が登っている。資料にハワイ移民資料館とある。広島市公認ってことだろう。
仁保島からだけでなく広島県全体は日本一の移民県だと資料にあって、仁保の人々は故郷に「白壁の土蔵」を建てるのが、成功の証、故郷に錦、だったとあった。
HP http://www.nihojimamura.com/ があります。
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周防大島にもハワイ移民資料館があって、大島では「二階建て、なまこ壁、ガラスの格子戸の家」を建てるのが“錦”だったと説明されている。大島サイクでこの仕様の家を見つけると、ハワイ!が浮かんできて、なぜかうれしい。島にはハワイアン音楽のBGMの流れる温泉もある。
上関原発の計画のある長島の西海岸の白井田は移民の多い集落で、ここは屋根が色とりどりに塗装される家が“錦”だった。

海外移民には漁民たちが多い。瀬戸内の島の渚に舟をとめ、そばの雑木林で薪をもとめ、ちいさな沢で水を集めていた生活が、全島みかん畑に変わるにつれて、拠点が失われて、そんなことも新天地を海外に求めた訳だと、宮本常一は書いている。

“回峰?”ランで回る住宅地の南端、道路が海岸線の幹線道路に下りだす角に「阿比留」という表札のでている家をみつけて、足が止まった。
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仁保島ではハワイ移民の以前に漁民たちは、対馬まで小船で出稼ぎしていたという。江戸時代末期のことだが。
「昭和36年11月のある日、私はまだほのぐらいときに広島に下車した。人にあうべき時間は10時だったので、それまでの間を、仁保島へ行ってみようと思って駅から歩いた。私は昭和25,26年に対馬漁村の調査にしたがい、そこで多くの向洋、仁保島、横浜などからきた漁民の子孫にあった。みな実にたくましく働いた人々であった。・・仁保島、そこで見たものは、漁村らしからぬ部落であった。家は密集していたし、道はせまかったけれども、一戸一戸の家は大きく堂々としたものが多かった。そして白壁をもっていた。白壁の家というのは、富裕であることを示しているようなものであった。白壁の家ばかりでなく、土蔵も多かった。決してまずしい漁村ではない。そしてかってこの浦々がめざましい活動をしたことを物語っている。・・たくましい意欲をもって海の彼方の遠くまで出て行ったことが、この人たちを富ましめたものであろう。 宮本常一 私の日本地図4」
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「3世紀末の出来ていた魏志倭人伝にある土地であり、そこに3世紀の日本のことが記録されている。対馬には良田がなく、人々は海産物によって自活し、船で南北に交通していた。おそらく対馬国および邪馬台国の統制・支配下で博多-壱岐-対馬-朝鮮半島の航海業務にたずさわった漁民のあったことを示すものであろう。 漂海民・羽原又吉」
「阿比留氏はかって対馬国を支配した氏族である。813年に対馬国にわたり。在庁官人であり、島最大の勢力であった。・・しかし1246年に国交のなかった高麗と交易していることを大宰府が咎めたが従わなかった。そのため大宰府から派兵された宗氏の征伐された。ウィキペディアより」

この阿比留という名を仁保島で見つけるって。
「“阿比留氏はこの鶏知(対馬の北岸の集落)にいるんです”。「いる」と現在形でいわれたことに不思議を感じがした。司馬遼太郎 街道をゆく13 壱岐・対馬の道」
仁保島にも“阿比留”の表札をみつけて、不思議な感じしました。
阿比留氏は「当初は土地から発生し、やがて自立性の高い土豪に成長すると、中央の官職がほしくなる。大宰府も武力と統治力をもった土豪に税収と行政をうけおわせる。(地元で成長した土豪の)阿比留氏の場合、大宰府から下級官史としての資格と義務をもらい、不在の国司にかわりに実際の行政をみた。司馬遼太郎」
阿比留氏は宗氏に征伐せられたのち、行政の立場を追われ、住吉社の祭祀をおこなった。「阿比留氏の氏神は、海神であったであろう。海神が中世になって多く住吉社になったように、鶏知の場合も住吉社になった。鶏知住吉神社の神官は出雲大社の千家のように世襲されている。かっての阿比留氏の末裔だという。司馬遼太郎」

ウィキペディアの解説とは違って、司馬さんは阿比留氏は古代の対馬の土豪で在地のものだといっている。卑弥呼の時代の記憶は、いまも生きている!その記憶が仁保島に。

今日は住宅地の麓の住吉神社が祭りだ。すぐに向った。祭りの寄付に、神社の玉垣の刻まれる寄進者の名に、“阿比留”その名を見つけようと。街はすっかり明るくなってまぶしかった。
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by forumhiroshima | 2014-09-30 12:22

お彼岸 秋分

彼岸花は秋の彼岸ごろの花。春の彼岸には咲かない。でも彼岸花??
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お彼岸は春分・秋分の日を基点に前後三日間をあわせた1週間のことだそうだ。
春分・秋分には真東から真西へ太陽が移動し、昼夜の時間が同じ日のこと。

9月18日秋分には早かったが、大阪の四天王寺の夕陽を見にでかけた。ここは夕陽丘の地名をもっている。四天王寺の山門と鳥居が並ぶライン中央に春分・秋分の夕陽が沈む。

境内は24時間開放されている。犬の散歩も禁止されてないようだ。このゆるさがすきです、大阪。曇り空を抜けて、やっとの夕陽が差し込んできた。9月23日の秋分には1週間ほどの時間があるから、夕陽はセンターラインからすこし北西に落ちている。それでも中央の石畳が光りだした。
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先日、NHKで「世界で一番美しい瞬間・希望の夕日 想いをこめるときニューヨーク」が放映された。HNKのHP「アメリカ・ニューヨーク。世界でもっともエネルギッシュな街で、年に2回だけ現れる奇跡の夕日“マンハッタンヘンジ(Manhattanhenge)”をご存知ですか。ビルとビルの間にすっぽりはまる太陽は、まるでコンクリートジャングルと宇宙が織りなす、わずか10分間の天体ショーです。もともとマンハッタンヘンジという言葉は、紀元前3000年以上前に建てられた、イギリスにある謎の古代遺跡“ストーンヘンジ”からネーミングされた造語で、春分と秋分の日に太陽が石組みにそってぴったりと並ぶ現象にインスパイヤされたと言われています。NHK・HP」
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HPにニューヨークの人々が群集といっていいほど集まって、夕日をみている写真が掲載されている。とてもうれしそうだ。
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マンハッタンヘンジの夕日は夏至冬至に等間隔の時間で年2回ほどみられる。この現象はニューヨークのマンハッタンの基盤の目状の大通りの東西方向の通りにちょう沿って太陽が沈むことによる。とウイキペディアはいう。
マンハッタンは都市計画によって東に29°沈んでいる角度で基盤目状に計画された通りで建設され、南北の通りをストリート、東西の通りをアベニューといい、マンハッタンヘンジはそのアベニューにそって見られる。この29°がキーワード。
ニュウヨークの北緯は40.3°。夏至の日の出は北から東に59°の位置。東西ラインから約31°になろうか。29°のマンハッタンのアベニューでは通りの真上を夏至の太陽が通るのではないようだ。だから、”等間隔”でといっているうようだ。判りづらいな。

この島は1620年に原住民から24ドルで買い取られた。
星野道夫の著作にイヌイットたちやインディアンたちは贈り物の交換で友好を始めると書く。そしてその交換品は決して失ったり、誰かに渡したりはしてはいけないのだと。24ドルは交換品であって、それを受け取るのも友好の初めだったのだろう。彼らは星野流であればその24ドルはそのまま仕舞って置かれただろう。一方24ドルで受け取った土地は・・。
マンハッタンヘンジをおこす原因になる29°のラインは、もしかすると原住民たちの神聖なラインだったのかもしれない。それは今のニュヨーカーへの24ドルの贈り物。
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マンハッタンヘンシがインスパイヤルされたアイルランドにあるストーンヘンジは紀元前3000年頃に“円形の囲いのある土地”・ヘンジとしてつくられその円上に56ヶのブルーストーンが立てられて、その下に埋葬された人骨も見つかっているストーンサークルである。入口は夏至の太陽の昇る方向で、その反対が冬至の日没のラインになり、発掘調査からブリテン島各地からも冬至には人々があつまってお祭りをしていたといわれる。日の出を計る施設でなく日の入を示す構造物だという。
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ストーンヘンジの北東になる古代の大集落とヘンジの入口を結ぶラインが冬至の日没ラインにあたる。このラインをアベニューとよび、氷河期にけずられた直線状の溝であり、夏至の日の出、冬至の日没ラインであることが、宗教的なものになったと解釈される説もある。
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NHK・HPでいう春分・秋分についてのストーンヘンジの解説はみあたらなかった。

四天王寺の周囲は古代の埋葬地で、荒陵・アラハカとよばれた古代聖地だ。寺の本尊は救世観音。JR環状線の駅森之宮ちかくの森之宮神社が仏教伝来を反対し、蘇我氏と聖徳太子によって滅亡さされた物部守屋の旧宅でそこにまずつくられたという伝承がある。故に森之宮は守屋の宮。守屋は難波の海に伝来した観音仏を投げ込んだといわれる。この観音様は海から取り上げられ、今は信濃の善光寺の秘仏だともいう。
東大寺のお水取りには難波の海に上陸した観音仏を秘仏としてお祭りする。
この夕陽丘にそれぞれの観音仏が上陸してきたと、妄想していますよ。それゆえ森の宮から上陸地に四天王寺は移転建立されたのでは。海からの観音渡来のアベニューがここに開かれていたのでは。それは春分・秋分の東西ラインでもあった。

マンハッタンヘンジのように、この国にも夏至・冬至を祭ったとおもわれる構造物がみつかっている。それは大和朝廷発祥地といわれる奈良盆地の南東の三輪山を中心としている。ここへ走ったことがあるが、放置された小さな繁みにあるマウントだった。三輪山の山頂もそばのプレハブの家の向うだ。みえへん。
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三輪山には地元在住であったオオモノヌシという出雲系の神様がすでに鎮座されており、あたらしく朝廷が信仰した太陽神といわれるアマテラスはここから追い出され、フラフラと丹波から近畿をさまよって、のちに飛鳥の真東の五十鈴川の上流におかれる。太陽の神様も奈良ではひどい扱いだった。

古代のストーンヘンジからマンハッタンヘンジまで、宇宙の運行に人間もその中にいるのだ、と感動したいものだ。ニューヨーカーのように。
しかし、春分・秋分は太陽の動きと地球が傾き、楕円形のため、国立天文台が作成する「暦象年表」に基づいて閣議で決定されるというものだ。うーん、権力くさい!それって、どうなん。

秋の山中の南北の谷間の午後には、おそろしいほど日暮れと夜がいっきに替わる。走っていて、とても追われる。闇にボーと白い路面をソロソロ走るのは怖い。まだ3時半だとウカウカできない。紅葉見物どころか、いそぎ走る谷をぬけることになる。所変われば、時計も変わる。

秋分の日の正午の太陽は南中していない。(356+閏年/4)/24で回ると仮の太陽の動きをきめて、決定される正午だから、本物とは誤差をもつ。最大20分ほどの誤差の日もある。どこか、納得できないものを感じる。
江戸時代までは一日は日の入の30分後から始まり、日の出の30分前が明け六つとして夜が終わる。毎日昼の時間がかわる。それを人々は肌で感じてくらしていた。

江戸時代の国学者の本居宣長がこういっている。「一日一日“来て”“往く”日を数えること{来経/ケ・数/ヨミ}」を、コヨミとする。ただしいコヨミは「天地の自ずからのコヨミで、中国などで作られた暦のような、人が巧に作ったものではない」という。「空の景色も、ほのかにのどけさの兆しがあって、霞も立って、柳ももえ、鶯も鳴いて、草々の物、あらたまり始まる。これを“始まり”と定めるものだ」という。
国中がどこでも同じ日でなければ混乱するという反論に対して「それぞれの人にとって、一日は一日。年の初めもそれぞれにあっていい」という。
一月は「朔・ツイタチは月立・ツイタチ」「望・モチは望月・モチツキ」「晦・ツゴモリは月隠・ツキコモり」とし、一年は一年と一日をして「月読み」「日読み」がこよみとしている。日の出も月の出の時も緯度によって替わる。それぞれの日と月。

これから始まる「紅葉前線」は、宣長流のコヨミだ。TVで説明される「前線案内」だけではダメですよ。南下してくる前線の最前線は、TVの前線よりもっと早い場所が前線の南の高い山の頂にきている。それが、それぞれの土地の三次元のコヨミ。俳句の季語も宣長流だ。新酒・濁酒は10月の季語、新米も。西条の新酒は冬だろうか。はよこい!新酒!
3世紀末の中国で書かれた魏志倭人伝に「ただ春耕秋収を記して年紀とす」とある。これが古代のわが国のコヨミだろう。

広島・南区の黄金山に東斜面の南仁保町の碁盤目のストーリーとアベニューがある。夏の朝、仁保中学校の横の路地におじいさんが東にのぼった朝陽に合掌していた。みごとに路地の中央に登って来る太陽だった。
季節が秋に向って朝陽の登り位置が南にうごいて、もしかすると秋分の朝は真ん中に登るかな、という場所を見つけて、その日を楽しみにしていてた。残念ながら、その日、秋分の朝の光は、中央ラインを通り過ぎて、南へよってしまった。
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日の出を待つ間、ふと地球は東へ落ちるようにまわっていて、太陽はその動きで登ってくると実感したのが、不思議だった。宇宙船にいる!感覚だった。

広島の設計の中央ラインは白島の碇神社を基準点に平田屋川が広島城の八丁堀の東側にひかれてパラレルに白神社の岩礁から北上したラインになろうと思う。この基準ラインは東西から約30度の広島の夏至・冬至のラインにも春分・秋分の東西ラインも関係していない。きっと堀の排水、海からと、西国街道が入る東からの防御のラインだったのだろうか。コヨミの記録はこの街には見つからないようだ。
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すこしガッカリして高台の住宅街からくだって、日宇那の旧道に入って足元の影が前に真っ直ぐに伸びていることに気付いた。振り向くと正面に朝陽があった。ほんの数十メートルの幻想
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by forumhiroshima | 2014-09-23 14:54

彼岸花

もみのきレースのあと、西宮ですごした。朝は上ケ原という高台の台地にある関西学院へ走っていた。高台への取り付きは台地の南尾根にある神戸女学院への登り道を使った。女学院も台地からでた尾根の上にある。登りの入口に真っ白い彼岸花が咲きだした。
「マンジューシャカ 恋する女は マンジューシャカ 罪作り 白い夢さえ 真紅に染める(山口百恵)」
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中国から来たこの花は三倍体で種ができない。そのため人が媒介してこの国に広がった。一株が広がったといわれる。だから、この国には一種類しか存在しない。白は突然変異だ。(西欧では観賞用の白があるやに)。人が持ち拡げたその訳は球根にある。田の畔に植えられて、猛毒ゆえに畔に穴を開けるネズミやもぐらは退散した。
中世に都の東、山科に竹を朝廷に貢納した竹供御人(山科家)があって、竹の販売を独占していた。竹の地下茎での生育域が拡大する。この地下茎をもってこの国に竹を拡大した人々がいて、その歴史的な結果で竹の販売の独占できた山科家ができたのだろう。彼岸花にもこのような人がいたのでは。猛毒の球根の扱いは専門的な感じがするのだが。

上ケ原にも稲穂が実り関学の校舎を囲みだした。ポツポチと彼岸花がのぞいている。
赤い絨毯をしきつめて、畔の緑の野草を押さえるように背伸びして、赤い炎で、実りだした黄色の稲穂を燃やしそうに、秋が広がる田園の主役を張る彼岸花を見たくなった。

奈良盆地の葛城山の山麓の風景を思い出した。彼岸花ならここだ。
が、遠い。このごろまともに自転車乗っていない。走れてもせいぜい50kmほどで、背中に筋肉痛がでる。ならば、有間温泉!でなくて、有馬へ宝塚から船坂を登って三田の酒米を造っている田んぼを訪問してみようか。そこならJRという味方がそばにある。だいち50kmに満たない。
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宝塚の生瀬・ナマセから蓬莱渓をたどる道を平安貴族が都から有馬温泉へ通ったルートではないか、と思う。暴れ川の武庫川河畔に宝塚生瀬という地名が付けられている。「瀬」は裸足で渡れる場所に付けられる。生瀬の北隣の谷筋は「名塩」と呼ばれる土地で、今は中国道が走っているが、「塩」は溶けるとベタベタ、乾くとカチカチになる湿地に付けられる。そんな悪路は古代の街道にならなかったと思うのだが。

迫った山尾根が、船のようにハンモック形の鞍部になる船坂まで350m/5kmのアップヒル。バスがくると追われる道幅で遭遇しないことを祈るのみ。やり過ごすにはガードレールの上に立たねば!おおげさ。
船坂から北に分岐して下りだす古道は脇街道・丹波道と呼ばれる。峠までは有馬道。温泉の威力は平安の時代から光っていたようだ。また都から丹波へは山陰道が近い。

有馬川沿いに三田の町へ下ると右岸に目的の田園風景が広がる。塩田と呼ばれる。湿地もいまはすっかり農地改良されて拡がる。ここが懐かしい風景になるほど、幾度もやってきた。懐かしい!そのころは船坂を練習コースと思っていた。遠い昔話です。

古い街道がのこる今は町外れの三田の旧市街をぬけ北上すると、西の景色に現れる長い尾根の上に新興住宅街の色とりどりの屋根がひろがる。その住宅地はどこまでも続いて、半端なひろさではない様子。そこに神戸からの高速道路と、神戸電鉄が入っている。六甲山を越えて神戸への通勤圏だという。この団地造成中の道路で実施された三田ウッディタウンロードレースはもう30年近くの昔話だ。公道レースにそのころ飢えていて、ここまで走りにきたことがあった。

その尾根上の団地の麓に拡がる田園風景の中の幹線道路に、「御霊神社」の標識をみたのが動機で左折して田園に入り込んだ。その先に貴志御霊神社への参道がみえる。
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「あれは8月 暑い夜 すねて19を超えたころ 細いナイフを光らせて にくい男を待っていた 愛というのじゃないけれど 私は捨てられつらかった “ざんげの値打ちもない/北原ミレイ」ミレイのからの連想です。浮かんでくる歌は、もうふた昔だな。
9月なら、太田裕美のseptember rain rain・・季節にあせない心さがして、かな?竹内まりやのSEPTENBER・・トリコロールの海辺の服はどうなったでしょか、 かな?
これだと一昔だろうか。冷酒からスパークリングワインに替わった様な歌の味だ。

貴志御霊神社の森に入る参道が神社方向から分岐して尾根を上がってゆく。登ると団地になった。貴志御霊神社は団地の下の麓に鎮座する。「貴志」は岸とも書かれる地名で、水際の場所をしめすだけでなく、古代に朝鮮半島から渡来した人々を指し示す地名でもある。
「吉士」と書かれるのは記紀を初めとする古代文書で、半島にあった古代の新羅という国での官位14等にあたる官僚の位のこと。当時、渡来してきて、朝廷に仕え外交折衝にあたったといわれる人々一族の居住地を示す。大阪に多く、住吉岸町とか淀川の右岸高槻に岸部がそれだといわれる。
もともとの居住地の半島や半島にいる中国人と外交官として折衝することは、たやすいことであっただろう。故郷にいる人々との折衝という仕事が外交であった。漢字という当時のグローバルな文字を使う人々、が浮かんでくる。今も変な外人、いますよね。

その彼ら一族に難題が起きた事件が発生した。この吉士・貴志・岸・一族に難波吉士がある。八幡神社に祭られる神功皇后・オキナガタラシヒメが息子を天皇にしようとした。それを阻む異母兄を皇后は殺した。吉士の彼らの祖先は異母兄側についたが戦いに敗れた。即位した息子の応神天皇の配下になるために、祖先を全国制覇のために各地に派遣された天皇家一族で将軍の一人、大彦命を祖先とし朝廷サイドにもぐりこんだ。(谷川健一・青銅の神の足跡)神功皇后は吉士の故郷の新羅遠征に身重でむかい帰還して息子・応神を産だとされる。現代・香港の政治家たちの苦労のようだ。中国共産党へのコネを血眼で捜しているにちがいない。

貴志御霊神社の由来書が本殿においてある。そこに「古来、言い伝えでは大彦命を祭っていたと言い伝えられる」とある。三田の貴志一族も大彦命を祖先としたのだ。続けて「鎌倉時代に当地豪族貴志氏が関東御家人となって・・」祭神を変えたとも書かれる。二度目の祭神の変更だ。祖先へのザンゲはドウナン!?

古代の風が貴志の田園に吹いてきた。身体が、なにか調子づいてきた。古代はロマンチックに妄想させる。妄想、暴想が走る!の動機に自分にはなるのだ。すっかり幹線道路となった丹波街道を北上。関東御家人の義経が都から篠山へぬけ、神戸のヒヨドリ越えの決戦へ走った古市の峠に向った。

「義経は古市村から、今田村へ越す岬にさしかかりました。義経の考えでは、平家の軍がきっとここにいるに違いないと思ったのに、一人もいなかったので「平家来ぬ坂」と言いました。それからこの峠を「不来坂」というようになったと伝えられています。
 又、もう一つの言い伝えでは、義経が来る少し前に都から逃げて来た平家軍が、ここまでくればもう追手も来ないだろうといって「源氏来ぬ坂」といったとも伝えられています」
と篠山市のHPは紹介している。峠には栗林のたわわに実った枝が道路まで伸びている。峠を西にくだって、途中の今田・コンダから北上して篠山盆地の西端の味間へ峠越え。暴想が走るのは、いいけど、大丈夫か??
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暴想から、味間という名がとても気になっていた。「朝鮮半島最南部の任那(ミマナ)の「城」(シロ=キ)、すなわち「任那の城の王」を意味するとし、崇神天皇を、朝鮮半島を経て大陸から移動し日本列島を征服した騎馬民族の王だとした」という騎馬民族王朝説が面白い。この崇神天皇はまた神武天皇の原型であるとういう。

峠越えで、味間の昔景色の農村の古道をフラフィラと移動した。
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暴想が走るには老人のエネルギーはここまでらしい。味間を南下してJR篠山口駅の向う。もうJR頼みの帰路にする。
JR篠山口駅の先に犬飼の地名がある。「犬飼」は犬を番犬として米蔵の番人や運送をしていた人々だという。この犬飼ちかくが武庫川の源流域になる。古代の船人たちだという。地図に神社があるから、その名を知ろうとおもっていた。が、ここまで。ここで終わりの暴想サイクリングだ。

終わりにする訳がもう一つ。駅で列車時刻表をたしかめて、そばのラーメン屋へ。ここのラーメンが美味い。ビールも冷えている。
しかしこの店とっても、とっても汚い。これで食堂かといいたい!が、ビールがある。ビールは汚くない。列車の時刻まで45分、飲めますね。どンどン、ね。
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想い出す歌が古くてはずかしい。若かりしころ!!は、新しい歌を探して今のページをのぞいたころもある。そのページの次、まだ真っ白のページに新しいトレンドなるものを語ったこともあった。ビートルズもプレスリーもそこにいたのだ。幸せだったな。古くないだろ!

今は、ページを昔へ昔へとくっていってしまう。目の前に広がる景色を造った最初の人々に、出会ったと思うこともある。行ったことがない景色にも、昔人たちが、きっと待っているにちがいないと思っている。

追伸
今田の自販機でコーラを購入。お釣レバーはアマガエルに占拠されていた。カワイクテ見てると、自動でお釣はでました。ソーとしておきました。
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by forumhiroshima | 2014-09-21 18:48


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