こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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向洋-3 向洋の男

平清盛の天女姫伝説にある赤旗をかかげた山を赤旗山という、情報を発見してしまった。天女姫の疱瘡神社の小山からは西側に住宅が建っていて猿侯川河口が見えない。神社の場所から、すこし西位置にピークがあって、そこに墓所がある。伝承では疱瘡神社の手前のピークが赤旗山とある。墓所のあるそこが赤旗山かな?と。発見してしまった情報の確認に再度向洋へでかけた。
墓所は疱瘡神社への案内のプレートの反対へ入る住宅の中の道から墓所へ出られそうだが、墓へのルートが見つからなくてうろうろ、だった。崖っぷちぎりぎりに細い道が入っていて、そこから墓地にでた。眼下にマツダの工場群が川沿いにならんで、本社ビルが西正面にあった。
この墓所にマツダの創設者・松田重次郎の墓標がある。墓所のもっとも高い場所に御影石の塀で囲まれた重次郎の墓が西をむいてたてられていた。まるで赤旗が立っているような墓標だ。西にひろがるマツダの工場群を見守っているように。
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向洋の対馬出漁は明治中期ごろには対岸の仁保・渕崎の漁民とあわせて200隻の釣船に漁夫1000人が操業していた記録がある。向洋の小さな集落の男どもは皆出張中?。
そのころの明治8年(1875年)8月6日、国内に廃藩置県がおこなわれ西郷隆盛、鹿児島帰郷のころに、松田重次郎は生まれた。

「戸数は百戸ばかり。ここ向洋浦は貧しくさびしい漁村であった。土地は狭く、村人たちは海にでるほかなく、それも瀬戸内海を通り越して、遠く壱岐・対馬のあたりへ、烏賊釣りにでかけたものである。・・松田和吉とヨリの間にひとりの男の子が生まれた。この夫婦はなかなかの子福者で、その子は十二番目の末っ子にあたった。夫婦は“十二郎”と名づけ、役場に届け出た。ところが役場の書記は無造作に“重次郎”ですな、と勘違いして戸籍簿に記入してしまった。 梶山季之“松田重次郎”から」
「重次郎が満三歳のとき、父はコレラでなくなり、長兄松之助をたよりに生計をたててゆかねばならない。・・松田家には学問をさせる余裕はなく、重次郎は学校に行かなかった・・十歳になったとき、母は“対馬に行ってみるかね”と・・四、五日かかって対馬着くと、早速、兄たちの烏賊釣り船に乗せられた。 梶山季之“松田重次郎”から」

明治31年の地図(広島・海田)をのぞくと猿侯川の川幅は広くひろがっている。河口は露霞渡の鼻で狭まって川の流れは潮の干満も加わって、川の流れは留まってしまう。向洋は「灘」で書かれていた。「灘」は流れが淀み、急流がはこんできた土砂をはきだし、海底が浅くなる。日差しが海底にとどけば、そこが海草の繁みになり、海の生物の棲みかになる。しかし、深い船底は航行が難しい。「灘」しい場所。
仁保島と向洋の前は広いラグーンだった。“にほの海”と呼ばれた。それは海水と川の淡水がよどむ汽水湖だ。川でうまれ海へむかった魚が産卵にまた川を登る、そのために汽水があって、そこが川上へは淡水に、また河口から海へは海水に身体を慣らす必要な大切な場所になる。広々とした湖面に比治山と黄金山が映っていて、その魚たちを捕獲する、にほ鳥が浮かんでいただろう、群れをなして。   こんな妄想はどんどん膨らむ。
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関西で正月は鯛だ。焼かれて店頭にならんでいる。広島の正月の祝魚は出世魚のブリだ、刺身だ。このブリが始めて広島に日本海からはこばれたのは、向洋の漁民たちが塩ブリを持ち帰ったことから、といわれる。

太田川の河口での牡蠣の養殖は国内で最も古い歴史がある。江戸時代、徳川家光の時代1630年ごろ(寛永年間)に吉和屋平次郎という者によって仁保島渕崎(仁保1丁目あたり)で、家綱の時代(延宝年間)に草津の小林五郎左衛門によって、中世に貝田と書かれた海田では1660年ごろ(万治年間)に始まっている。築城されて広島に町が生まれていたころに始まっている。向洋の両側をはさむ東西の海の豊な漁獲は、市場がうまれた広島の町人に大歓迎されたことだろう。

がしかし、広島湾東部の段原・東雲は1600年代に海田湾は1700年代に干拓されて海はすっかりせばまってきていた。
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牡蠣やのりの養殖は猿侯川河口の沖にうつされてしまっている。向洋の大原神社の石灯籠を寄進した人々が“かき仲間”と刻まれていた。養殖する海も、もっと遠くになっている。
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境内に「ある老人と海・橋本米松の話」の橋本の名の寄進の玉垣があった。米松さんの子孫だろうか・・?
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大正6年第一次大戦・ロシア革命のころ、大阪でロシアから砲弾の信管を大量受注していた松田重次郎の「松田製作所」を広島に移転する計画がはじまっていた。場所は府中の鹿籠から堀越あたり。50万坪購入しようとしていた。そこは「狐がでたり、兔狩りができたり、敷地の水田に鶴が二羽降りたことで“松田製作所”の移転が吉兆と大喜びして、新聞にその記事が掲載された。梶山季之“松田重次郎”から」
取得した土地は工場用地をさがしていた日本精鋼に譲渡し、その中に松田製作所を設立。府中に移転し昭和2年に社名が東洋工業に換わり、昭和6年に三輪トラックの生産をはじめている。

対馬で昭和25年ごろ、宮本常一にその生涯をはなした橋本米松老人は90歳を越えていると書かれているから1860年ごろの生まれになろうか。昭和26年松田重次郎の東洋工業は昭和天皇・皇后の工場参観がおこなわれた。社長は長男の松田恒次が就任している。
重次郎が居た対馬に米松は二十代後半だっただろう。対馬でおなじ時間をすごしていた。

自分は仁保島の南の楠那町に一年をこえて住んでいる。近くの海には府中町からずーっと宇品までマツダの工場が広がっている。でも楠那にはどこか海の感じがただよっているのだ。幹線道路からコンビニの信号を山へ向うと、正面に立ち広がる森が、海をかこんで海面から反射する光を受けているように深い緑で、その上の山頂にあるTV塔が灯台に思えたりする。
仁保島が島だった記憶は薄れてはいない。
その海への視線を遮る工場群をこの地元の人々はどう、受け入れているのか?と、新参もののうすっぺらい感覚だと思うが、すこし探していた。
宮本常一の視線はいつも海を失った人々を思う感じで、その視線に自分は影響をうけていた。唯一、工場が途切れ、波打ち際のちいさな漁港そばに居られる“テントのうどん屋”の水際のテーブルが、海を感じさせてくれて、とてもいいにおいがあるようで好きだ(というっても、脳神経障害で匂いがうまくとれないのだが、だからいっそうに!)。

松田重次郎は向洋の人々、仁保島のひとびとに、海を取り戻させた?、のかは、橋本米松老人に聞いてみたかった。二人が出会えば、高性能の回転式烏賊乾燥機をマツダがつくることになっていたかもしれないな。

マツダはMazdaと書かれる。「松田重次郎の姓をとった“マツダ“のローマ字での商標登録は個人の名は登録制限にひっかかるという。そこで”光の神 アウラ・マツダ“を借りて”Mazda“という文字にすることに  梶山季之“松田重次郎”から」

「広島は私の郷里だが、広島が松田重太郎を産み、東洋工業というい偉大な会社を産んだ事をわたしは大いに誇りに思っている。また私がこの仕事を引き受けたのは、郷土にたいする愛着心からである。梶山李之S41/1」
梶山李之は広島文理大の出身で、このS41年の所得は小説家で一位であったとの報道を覚えている。流行作家か!などと、後輩が思ったことを想い出した。
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by forumhiroshima | 2014-10-22 14:03

向洋のこと-2

向洋は古代には島だったという地図がHP・山陽道歴史探訪にある。いつごろかはわからない。
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その後府中とつながって半島になった。
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その半島をまた切り開いて島にしたのが“平清盛”だという伝承があって、、切り開きを始めた場所を“堀口”開いた場所を“堀越”とよんだ地名伝説がのこった。清盛の夕日に残業させて、音戸の瀬戸を切り開いたという伝説ににている。
音戸の瀬戸は昭和26年、そのころの運輸省が開削工事をしている。その工事の運輸省の担当責任者の長野正孝さんが書かれた「広島港発達史」のなかで、清盛時代の音戸開削では“人海戦術では水深1m程度まで”であろうといっている。中国の宋時代の大型帆船の航行は無理で、小船による航行がやっとであったろう、と書いている。古代の開削とは?

「石工は岩に穴をあけ、そこに火薬をつめて割る。男海人・アマ、一人と女海人二人が潜って岩にロープをしっかりかける。干潮時にその上に舟をおいて丸太をかけ、そこにロープをくくりつける。潮が満ちてくると舟は浮き上がり、岩が海底から離れて、そろりと深い場所にはこぶ」と対馬の橋本米松じいさんが自分達の港の開削について常一さんに話している。かなりの深さまで開削できると。現代、海人には公務員はいないだろう。長野さんも思いつかないよね。古代では海人の安曇氏が海軍大将だった。古代人もその子孫の海人も、海の土木工事の専門家であることは、あたりまえだった。

向洋の古い集落から細い路地が高架のR2に平行して坂を登るとR2をこえる架橋にでる。造成された住宅地と国道との連絡橋、この道は向洋の旧集落が山越えで堀越にでて、船越や府中につながる唯一の古道の道でもある。というのは、その他の道はすべて海岸線にでてしまう。海岸に道がつくられたのは江戸時代の中期以降の埋立によるのだから、この山道は古いはずだ。

車道に拡張された古道が橋のたもとからすぐに車道から別れ、それは細い路地になって住宅の間にはいっていく。車道から路地への分岐に「疱瘡神社へのみち」とかかれた小さなプレートがあった。
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治承3年(1179年)平清盛と、源義朝のあいだに源義経を生んだ常盤御前との間にできた天女姫が病におかされたとき、宮島に清盛が姫をつれて参拝したが、はかなく亡くなった。その姫の遺骸を埋める場所をさがすと、厳島南無大明神があらわれ、ここより7里東に赤旗のたっている山があり、そこを拝所とし、そこから東へ八間のところに埋葬しろとお告げがあった。その場所が向灘で、埋葬地に目印に栴檀の木を植えた。そうして、遺骸を狐や狼からまもるために、切り開き向洋を島とした。という。そのころ人々を苦しめていた疱瘡の病から、天女姫が守るだろうとされ、疱瘡神の社となったのだそうだ。常盤御前が清盛の娘を産んだかどうか?そんな、そこへの「疱瘡神社へのみち」。

小さな畑と住宅の間から見えるサクラの大木の下にある小さなお堂が疱瘡神社で、春の満開にはR2からもよく見える。とても気になる、ひきつけられる景色だ。
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神社から丘の斜面にそってうねって下る手すりのある道はちいさな峠にでる。
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そばに本川井戸と呼ばれる井戸が残っている。清盛がおこなった開削工事の作業員たちの飲み水として使用されたと案内板が掲げられている。
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井戸から東へ小さな峠を越える手前に今宮神社が鎮座して、あたりにゆるーい田舎時間が漂ってくる。ここの神社にも天女姫が祭られる。鍵屋と名がつく峠を越してくだると、的場川の河畔にでる。田舎道のこのコースはとても印象深い。平地に降りると、正面の日本製鋼の工場のフェンスの中に鳥居がみえる。地図で延命神社とあるが構内で、参拝できるのだろうか?。入口の守衛室には立ち寄らなかった。延命とあるからここも天女姫が鎮座されているだろう。

神話の時代、神武天皇は九州から安芸国へむかい、府中の埃宮・エノミヤに入るとき海田湾から舟を陸にあげて越したから船越という伝承もこのあたりにのこっている。船越、堀越、なぜだ!。

日本鋼管の神社横のフェンスから振り返ると、疱瘡神社のサクラの木がそそりたってみえる。的場川をすこし遡ると、こんどは今宮神社が、切り立った丘の端にみえる。
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東には岩滝山の山腹の岩場もみえる。「的場」の地名は古代の官道路設置のルート設計の基点となった地に付けられている地名で、船越や堀越の地名が並んでいるこの古代海田湾の西端になにか訳あり、か!。「なにか」に捕われだした。その「なにか」は地名だけでなく、大明神はお告げした“赤旗を建ててある場所”の御神託もあやしい。

追加資料を見つけてしまった。天女姫埋葬のあと「相国・清盛そばの岩鼻に立ち西を遥かに伏し拝み、南無極楽寺の観音仰ぎ祈り給えば、不思議や観世音此処に来り告げて曰く、我ら共に力を合わせ衆生を護り申さんと告げ、失せ給う。・・」
五日市の極楽寺がでてきた。この極楽寺は厳島神社の真北の極楽寺山の東尾根にあって、神社と寺とをむすぶ真の南北ラインは管絃祭で厳島大明神の御旅所の地御前神社を通るという、わたしの大好きな、「なぜ、そこにあるのか」問題のひとつの方程式である方位の場所だ。
ならば、疱瘡神社が赤い旗と的場川と堀越工事に関係ない訳はない!のだ。すぐに地図を調べたい。

地図はパソコンのカシミール3D。すぐに距離や緯度経度が計測される。まず日本精鋼構内の延命神社にカーソル。そこから的場神社から分岐して北上する掘割がスタートしているからだ。この北上のラインはすぐにわかった。船越峠から南西にのびる尾根の先端のピークがラインの正面奥にある。堀はこのピークから真南に開かれている。ピークと延命神社の関係はどうなるのか。というのは神社が日本精鋼の構内に残される。神社は時代の圧力にも動かしにくい。しかしこのあたりの川筋の変化はハンパではないだろうから。日本精鋼の土地はじつはマツダの創設者の松田重次郎の土地だった。それを譲渡した経過がある。土地のおおきな変化があったことはちがいない。
疱瘡神社の丘と延命神社の関係を考える。疱瘡神社の位置に国土地理院の三角点の標識が置かれている。地図を作成するときの三角測量の基点がしめされているが、そこは古代からそして現在の海の航行者たちにとっても“あて山”などとよばれるポイントで、国土地理院の測定ポイントにえらばれた理由もそんなところにある。めだつポイントなのだ。

海田の信仰のポイントである岩滝神社のある岩滝山の尾根にも三角点がある。岩滝の滝は“崖”で岩の崖の意味ととれる。その印象深い場所が神聖なポイントだとされ神社もおかれたのだろうか。その三角点と疱瘡神社とをつなぐラインが延命神社を通過した。そして正三角形があらわれた。30,60,90度はもっとも手に入れやすい角度だ。設計図とともに測定しやすい。延命神社の位置取りの決定ができた。(と、思うけど。これ面白い)
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疱瘡神社もバリバリの三角点だから、基点の資格は国土地理院保証の最高ブランドではあるが。実際に目立つのだが、清盛伝説の西の極楽寺と赤旗と、印象深い伝承がラインとしてあらわれない。
極楽寺は北緯N35.23.15.37疱瘡神社はN34.22.12.58。緯度1分は1852M。この両者の位置は東西で2KMほども違う。赤旗は平家といえば、納得するけど、工事用の標識というほうが、納得できる。神社は人がつくったもの、だけど、そこには土地神・地祇を祀る場所として決められて、なにか都合いいから、ここでいいや!ってものでないだろう。そのこだわりを時間を越えて、今誰も感じているのではないだろうか。

清盛、厳島神社、極楽寺と後の付会の伝承といえば、それまでだが、・・。いつかこの訳つかまえてやる!

ふと地図をみていて、仁保島の竈神社の丘と今宮神社の丘とが“青崎の渡”のラインに近いことに気付いた。仁保・渕崎の渡部氏の御宅そばにその渡しの船着場があった。今は丘は高速道路の高架によってさえぎられている。見通しは失われた。

この渡しの船頭さんはこの両岸の丘を目印にギッチラギッチラ。渡し場のふるい江戸時代の光景がふわーっと目の前を横切っていった。ほんとに見えたよ。見えたよ!。
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by forumhiroshima | 2014-10-21 13:47

向洋のこと

丹那の祭りのあとに、役員さんの一人からいただいた仁保郷土史会の「ふるさと仁保」を開いてみた。幾つかの“仁保のおはなし”が掲載されていた。その一つ。
向洋の朝・黄金山から
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お時さんの悲しみ
昔 仁保村に多蔵という若い漁師がいました。多蔵は「対馬の沖へ漁にいき、帰ってきたらいっしょになろう」と愛するお時さんにわかれを告げて漁にでました。
ところが多蔵の船はいつまでたっても帰ってきませんでした。お時さんは、心配してひどく悲しみました。
お時さんは、多蔵をさがしにゆくことにしました。博多から対馬・厳原へいこうとしましたが、嵐にあって流され、知らない島に流れ着きました。
そこにはなんと恋しい多蔵がいました。しかし、多蔵は島の娘と結婚し子どもまでいました。
お時さんの悲しみは、胸がはりさけるような思いでした。海辺でいつまでもいつまでも一人さみしく泣いていました。
その後のお時さんの姿を見たひとはいません。が、仁保の人々の心の中には、いまもお時さんの悲しみが、深く焼きついています。おしまい。

「広島藩主浅野斎賢の娘が対馬の宗義和にとついで、両者に婚姻関係が生まれ、広島と対馬・厳原のあいだに通信船の往来がはじまったことが、広島の釣漁師の進出することが始まった。この通信船の舸子が向洋の四人の漁師と、横浜の漁民であった。宮本常一」

宮本常一は対馬に5回民俗調査のフィールドワークをおこなっている。対馬で瀬戸内のとくに広島の漁師の進出の調査もおこなっていて、「私の日本地図4広島湾付近」では、仁保島地域をあるいて対馬での広島出身者への想いを報告している。

また宮本常一は1995年に平凡社から出版されてそのころの民俗学ブームの火付け役といわれた「日本残酷物語」に “忘れられた土地”の項目があって、その中の“禁じられた海”と題した対馬での人々の生活を担当している。その一節に“ある老人と海・橋本末松の話”がでている。その橋本老人は浅野藩通信船に舸子としてのった四人のうちの一人の子息になる。
はしょった形で、文章の雰囲気も伝えられないとおもうのだけど、ここに掲載してみる。できれば原文で読んでみてください。

ある老人と海(橋本米松の話)

・・この島に一番にすみついた住井良平というのが、わしも兄弟のようにしとりましたが、わしとおなじ広島の向洋生まれのもので、明治の初めごろこの方へイカ釣りにきておりました。
・・瀬戸内から対馬へ漁にでかけてくる男衆は、瀬戸内をはずれて下関か、小倉か、博多までくると、その辺の遊郭で遊んだものでした。住井は、下関の遊郭に、なじみがでけて動きがとれんようになってしもうた。そうして女が「つれて逃げてくれ」というもんじゃけえ・・女郎をつれどうて対馬まできよりましたんじゃ。・・ひとに見られるといけんちゅうて、ひるまはふねにかくしておきましてのお・・それが漁師仲間に知れ渡りましてのお。・・瀬戸内では吉和・尾道、因島のもんは舟に女をのせます。・・が蒲刈から西の漁師は女はけがれるというて舟にのせません。向洋も女をのせんところです。・・「どがいな苦労してもわしらぁいっしょにおるのじゃ」とちぎりまして・・(仲間から離れて)小さい納屋を建てて、かくれたんでございます。・・乞食小屋そっくりでありましたが、人もうらやむほど仲ように二人はくらしておりました。・・住井がわしの兄と知りあいになったのはそのころことでがんした。
・・わしの家は漁師でありました。父のとき・・広島と対馬・厳原をかよう殿様の通信船の舸子をしとりました・・父は厳原の家老の古川さまに雇われて・・わたしは母とともに八つのときによばれました。
・・兄はそのまえに厳原にきておって、・・住井とどうしたものか二人は大へん気がおうて・・ふたりしてスルメ製造を考えつけたのであります・
・・兄の末次もこんなところで仕事をするには女がのうては尻がおちつかんというて、年は若うてありましたが嫁どりをしました。兄嫁になったひとは住井の身内のもんでありました。・・兄はこの浦をさかえさせるために他の浦より値ようにイカを買い取っておりました。・・兄は“コウモリ傘乾燥機”というものを発明しよりました。・・イカは天日にほしてスルメにするのが一番ええのでありますが、雨が二日もつづけばみんな腐ってしまいます。・・そこで兄はおおきなコウモリ傘のようなものをこしらえて、・・イカをつるして・・そうして、なかで火をたくか炭火をおこしますとイカは火力でかわいていきます。・・これができるとイカを腐らせないでスルメをつくることがでけるようになりましたので、えっと値ようにイカを買い入れることができました。釣舟もえっとのことくるようになりました。・・夏になると二百八十そうも漁船があつまるほどに、このあたり一番の港までにこの浦をしあげたのでありますが、魔がさしたというものでござりましょうか、イカ釣りにきていた島原の漁師の女房をぬすみましてのう。・・よほど肌が合うたとみえまして家内や子どもをおいて駆落ちしてしもうたのでがす。あれほど大望をいただき才覚もありましたのに。

・・対馬では土地を村から借りるのに大へんやかましい条件があったでがす。わしらぁじぶんの大小便もかってに始末できなかったのであります。イカをひらいたワカが海の底にたまっとる、見えんか、あれ白うに光っとるととがめられ、立ち退けと難題をふっかけられて、海の底にもぐってワタとらされたものもあります。・・血気さかんなものはみんな「だれがこんなところに住んでやるもんか」といきまいたばかりか、この約定をむすんだわしを責めました。・・(本土からの)入り込みの漁師は村はずれか、人の住まわぬ浦を見つけて住むほかに方法がなかったのでございますが、そこに住みつくにしてもこれほどやかましい約定があったのでござります。

・・兄は駆け落ちしてしもうたのですが、しかし姉は兄のもどってくることを信じておりました。信じるというより、そう決めておるふうにありました。・・姉が信じていたとおり兄はもどってまいりましたが、それはもう兄が七十なんぼで死ぬるほんのすこし前のことでありました。・・姉に手をついてあやまり島で死にました。姉はそれで満足しとりました。・・姉はほんにええ女でありましたぞ・・・・。

向洋はR2の高架の下が入口になっている。高架が低く暗いので、また袋小路の集落であるために、その入口の暗さが強い印象になってしまって、奥の集落の印象がなかった。集落にある、マツダの小磯寮に知人がおられたが、もう長く逢っていないことを入口でおもいだした。

高架のところの左の旧道にはいってみる。仁保島の周回道にある景色よりも、明るく新しいことに驚いた。船溜りは本物の漁港の景色で、その奥にマツダの工場や施設、その奥のひろく明るい河口の猿侯川の川面、まだむこうに黄金山が広い空を区分している。海がせまっている。

だが、仁保島名物かな?白壁の土蔵もいくつもない。デザイン・プレハブの家々の町並みだ。
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その隙間の古い時間の景色をさがしても、すっかり時間が乾いている。
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漁港の船溜りに普通ある漁具もみあたらない。港町の雑多さがみられない。レジャーボートが波にゆれている。
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向洋の人々の渡海を決断する勇気の決断が、町並みを新陳代謝させているような、だから、昔探しには、すこし後ろに下がりがちになって、ちいさな失望がこころを押して、いつか景色を受身うける姿勢になっていた。ここの昔がみつからない。それが今を生きてる景色なのだけど。

“その時の絵をかく”。「信じるというより、そう決めておる」ここはお姉さんのふるさとで、辛さにつぶされるお時さんの故郷ではない、ようだ。明るい町だ。
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帰宅して、日本海の渡海の航行の荒々しさの痕跡(それってどんなん?)を期待していたのか、どこかすべってしまった気分直しに、とびきりの“するめ”を冷蔵庫からひっぱりだしてベランダに干してみた。日本海の風はここには吹かないけど。袋小路に海風を受け止めている集落にあいたかった。
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先日、高倉健さんの「ステーション」をTVが放映していた。
挿入歌・舟唄の歌詞“あぶった イカでいい”のイカはスルメじゃない?のかと。スルメは焼くだから・・なぁ。と長年解決していない難題にまたとりこまれた。スルメはすでに、焼かれて、皿の中です。窓から港が見えりゃいい。ときどき霧笛が鳴ればいい。・・とりあえず、酒があればいい。
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by forumhiroshima | 2014-10-17 19:05

仁保島の秋祭り

島の南海岸、といっても埋め立てられ島でなくなった仁保島の楠那に住み始めて1年がすぎて、昨年に無理やりに手伝いにもぐりこんだ丹那の穴神社の秋祭りの季節がめぐってきた。
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穴神社は丹那の集落の祭りで、楠那の住人にも地元の若宮神社の祭礼がある。土井さんは楠那だからな!と、昨年町内会のスタッフが、「残念」??そうに話しておられた。そう、ここはとても、縄張が厳しい。
丹那の集落の西にある船溜りにかかる橋が「大河口橋」で船溜りは埋めたてられて、西隣の大河の集落との共同の波止場になっているのに。「大河・」で、祭りのスタッフはとても気に入らないらしく、「あれは丹那の橋だ!」と話す。
祭りはその集落の縄張を強く印象させる。また、それができる仁保島の南海岸の各々すこし離れている、各集落たち、ってことだろう。

昨年もちょっと町内の外者としての、お手伝いに違和感があって、町内会の集会場になっているお好み焼き屋さんに近寄らなかった。が、祭りの世話役から電話があって、そのお好み焼き屋にスケジュール置いておくから、見てくれと、連絡があった。チョッとうれしい。

まず、幟立てが一週間まえの日曜日。これが台風18号で、火曜日に延期。数人で立ち上げる。祭りは土、日の2日。土曜日の早朝から餅つき。このもちはお供えと持ちまき用。120kgのすごさ。その夜の獅子舞から祭りは始まる。
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翌朝の7時から全戸の扉をたたいて、早朝の獅子舞のデリバリーが始まる。獅子舞いりませんか?、の御用聞きは少年たちが主役。お呼びがあれば、獅子舞は玄関から奥座敷から、ご要望のお答えする。けっこう室内への呼び込みが多い。
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コンビニからもお呼びがかかる。料金はお米か、百円以上のお金のお供え。老人たちは必ず正座で神妙にされていて、獅子舞いの動きにもメリハリがついてくる。終わるとねぎらいの言葉がかかる。朝の空気がいっそう澄んでくる。
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獅子舞は少年や青年たち。横笛と太鼓がライブで伴奏する。獅子舞のグループは3つで町内を手分けしていて、伴奏の笛は各グループに数人。その数人は、ハンパじゃなくて、十年二十年の吹き手がズラリ。各々の手にある横笛は100年ものだという。吹き手は腰に数本の笛をもってくる。湿度で変るから、だそうだ。神社拝殿での神事の笛も専用があるのだそうだ。

もう十年もたっただろうか、早朝にここに自転車で走りに来て、横笛の音色にひきつけられた。小学生のころラジオで聞いた笛吹き童子のテーマソングだ!笛の音色が朝の陽光に流れる中に浴衣の着流しで少年の獅子が舞う。こんなことが、あるのだ!
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獅子舞は昼過ぎに終了。お弁当をもらって解散。ごご一時すぎ、お宮集合。
浴衣の青年や少年がお湯の神事を準備。ふたつの釜のどちらが早く沸くか?が占い。終わると、神主さんの祝詞がはじまる。
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神主さんは、島の北の仁保姫神社からおいでになっている。江戸期まで仁保姫神社は八幡様で神紋は三つ巴。この穴神社は厳島神社と同じ三つ亀甲紋。
世話人曰く、仁保姫から神紋を巴にするように言われているが・・・。町内会役員「仁保姫さんよりこちらが古い・・はずだから三つ亀甲」青年たちは「穴神社にある伝承に“やまんば”の話があって、そのばばあが持つ合わせ斧と丹をいれたハッピを先輩たちが三十年前につくった。それでいい」と。みなさん、独立独歩ですなあ。
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亀甲紋は甲羅を焼く占いをする神々に使用される神紋。八幡神は人に神が降りる御神託型。だとおもう。湯釜神事は亀の甲羅を焼く神事の流れじゃないだろうか。だから神紋は軽々しくはできない、ですよね。

湯釜神事のあとに餅まき。こぶりな紅白の小もちは包まれず裸で撒かれる。地ベタの砂がついても皆さん、大興奮です。

いよいよ神輿がお出まし。そのあとに少年たちの大名行列。子供達は各々三方にお供えをもって行進する。お供えに息がかかってはならない!と小さな木の葉をくわえている。とても神妙な表情がとてもかわいい。が、子供達の行列にならんで、お母さんの行列ができる。“過保護・者”との声もある。お母さんにも木の葉くわえてもらったら、どうでしょうか?
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町内会スタッフでの餅つきをしながら、「九州の博多の海の中道のさきっぽの島でみつかった“漢倭奴国王”金印にある奴・ナは小さな国を表すという説(日本の海賊・長沼賢海S32)があるよ。穴は江戸時代には安那と書かれている。宇品はウジ那、タン那、クス那、ヒウ那と呼ばれるのは?」と切り出すと、皆さんの丹那の古代話ウンチクが盛り上がった。

幟も倒されて、始末が終わって解散すると「土井さん家に寄りんさい!仁保島の話の本があるけえ」とスタッフが声をかけてくれた。いただきます!よ。大好きなんだから。

次の秋にこの祭りにいるだろうか?オレ?
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by forumhiroshima | 2014-10-14 21:05

阿比留氏と渡辺さん

仁保の漁師たちの対馬への渡海遠征が始まったのは、「釣漁船の対馬への進出は1816年、この年広島藩主浅野氏と対馬の宗氏との婚姻に際して、広島と対馬との船の往来がおこなわれ、船の水夫たちが漁民であったことから、対馬沿岸がすばらしい魚場であることを発見し、対馬藩主に請うて出漁をはじめる 宮本常一・海に生きるひとびと」とある。

仁保からのハワイ等の海外移住の以前に、人々は対馬へ進出していた。この時代を超えて続く遠征、移住にすすむ人々のそのエネルギーの痕跡がここに今、何かないかと、探していた。そこに、対馬の古代の豪族、魏志倭人伝に現れる3世紀の対馬長官の卑狗・ヒコ(ヒク)から時代が2世紀ほど下って資料に表れる国造の「長」ではないか(永富久恵著・古代史の鍵・対馬)といわれる阿比留氏の名を見つけたというわけだ。
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阿比留氏は13世紀に半島と大宰府に無許可で貿易をし、そのことで失脚したといわれる。しかし失脚は政治の側面で、祭事の側面では、対馬の古墳時代の中心地にある鶏知住吉神社の神官として今に続いている。

阿比留氏の表札を見つけてから、秋祭りの季節に入った仁保島の古道沿いの神社をまわってみた。祭りの寄進札や石碑や石の玉垣に刻まれた寄進者の名の中に見つけられなかった。ツーリングは時として、古代との対面を用意してくれたりする、とどこかで夢想しているから。
しかし、対馬と仁保島との接点の証とおもった阿比留氏の痕跡探しは空振りだった。
阿比留の姓は対馬には多い。鹿児島にも見られるとウイクペディアにあったからだが、仁保島漁民渡海にはとりあえず発見できなかった、と結論した。残念!
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阿比留氏の痕跡を調べた対馬の民俗学者の永富久恵氏は「永富という海神・ワダツミ神社の社家(おそらく卜部・ウラベであったろう)の姓はナカトミではないかとある友人は冗談でいいます、と笑った。中臣氏・ナカトミとは、上代の大族である。古代社会では主として神事祭祀をあつかい、主として太占・フトマニの卜事・をあつかったという。ナカトミは「中つ臣」のつづまった音であるという復原は簡単にできる。・・「中」というのは、神と人の中を執り持つという意味であるとされる。 司馬遼太郎・街道を行く13/壱岐・対馬の道」永富氏は対馬・木坂の海神神社に社家である。

中臣氏の祖は中臣烏賊津使主・ナカトミオノイカツノオミとなっており、八幡神社の祭神神功皇后の審神者(審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことである。ウィキペディア)となっている。のち対馬県主となって、祭祀を司り、太古の亀卜の術をつかったという。対馬は烏賊・イカの良い漁場で、とてもふさわしい名の神様である。

阿比留氏は“「長」から対馬の地名に多い久比留とか昼ケ浦(比留浦)など比留とつく地名が多いこととか、また大比留女神社もあり・・”と阿比留氏への改名を示唆している。

「古代に戸籍が作られたとき、貴族はもとより氏、姓は天皇が与える形ができた。天皇は氏も姓ももっていないとされた。天皇は本来持っていなかったわけではなくて「倭・ワ」ではないかといわれる。(吉田孝・古代社会のおける氏)天皇はその姓を捨てることで、氏・姓を与える地位となった。・・このため地名に由来する姓はともかく、みなの氏・姓は天皇家あるいはその祖先神に遡ることになり、日本人すべてが天皇の子孫という、ありえないことの思想が戦前に生まれた。
また、古代の官位の制度が影響を苗字(氏)に反映されだした。官位も天皇により与えられるからだ。中つ臣であった鎌足が藤原と字を天皇から授与され、その一族は朝廷の大工であれば工藤、斎宮の関係から斉藤、修理管理(修理進)は進藤と、官名と藤原とが結びついた苗字になったといわれる。網野善彦・海と列島の中世」

仁保島の神社に阿比留の苗字をさがして走ってみて、驚くほど「渡部」が多い。仁保姫神社の神主さんも「渡部」氏とある。
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仁保島の東の旧道がLクランクにまがって、大きな屋敷の門が正面に遮っている。遠見遮断とよばれるコーナーで、町へ入ってくる敵の進路を遮る設計に見える。西国街道を東からむかえる京口門もこの遠見遮断になっており、毛利築城の時代の西の端の中島・平和公園の折鶴の像の前のゆるやかなカーブもこの遠見遮断の痕跡といわれる。
仁保島の遮断の旧家は「渡部」と表札にあり、庭に巨大な銀杏の木が聳えている。地図をみると、屋敷の北側には濠はあったのではとおもわせる区画がある。
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大阪の中島の南の渡辺橋そばにある座摩・イカスリもしくはザマ神社の神主は渡辺氏である。イカスリは居所知でいるところを知る意味(中沢新一・アースダイバー)で、古代に渡辺氏は都祁氏とよばれ、朝鮮半島の古代の国の新羅からの渡来だといわれる。
渡辺・渡部氏は渡しの部の人々で、渡りを仕事とする官名であった。渡しの部民になる。
渡部氏は長崎の五島列島で海賊とよばれた松浦党にもなっているほど瀬戸内海から壱岐対馬で活躍したという。海上での居所知の能力が発揮されたのだ。

仁保島の渡辺さんが、はたして古代の渡辺氏の流れであるかどうかは、わからないが、島一帯の神社の禰宜をしている仁保姫神社の神主さんであったりして、対馬の阿比留氏と同じ歴史の中にあるように思えた。渡辺氏一族が対馬への渡海船団を指揮したのだろうか。
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仁保島の漁民の対馬への渡海は宮本常一さんのいう江戸時代よりも前からのことではないか、とおもってしまう。

観音寺の鐘つきのおばあさんの犬・リリーがやっとなついてきた。俺って、寅さんかいな。
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by forumhiroshima | 2014-10-08 20:45


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