こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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月見の島

仁保島の南海岸の集落で一人すごしていると、曜日がわからなくなる。しかし、それが普通に当たり前って事だと、強がっている。なぜか。

「上つ代は 人の心も何もただひろく おおらかになん有りければ さて事たり またかの空なる月による月と年の来て経てをしいて ひとつに合わす“わざ”などもなくて ただ天地のあるがままにて有りける 真暦考 本居宣長」

本居宣長のいう天地のおのずからの暦とは自然暦のことであって、上代には暦法(合わすわざ)と称すべきものがなかったことになる。 能田 忠亮・暦 より。
古代大好き妄想人にとっては、“曜日”は社会集団生活によって成立した人々の社会的約束で、宇宙の偉大なる運動には関係ない、のだから。
七曜はユダヤ文化の旧約聖書創世記で神が天地創造に六日かかり、七日目に休息したことによるものだという。二世紀ごろギリシャの歴史家のカウシスの説では占星術によって、日月火水木金土の順に日月五星を並べたという(能田 忠亮・暦より)。古代ギリシャとは、ますます“わが国”とは関係ない、です。曜日が必要かどうか?は、どこまでも、個人的問題である!。

曜日を決めたのが、二世紀以前で、邪馬台国の卑弥呼の時代とは。2千年の実績はとても説得力がある。世はグローバルなんだって。古代に固執して、曜日わからん生活なんて、クソくらえ、ですね。いまは独裁に凝り固まってる中国文明も地中海文明には負けてはいない。「日の甲乙、月の大小、中星、月日の交会点である辰などについて、その行くところの数を定め、一歳の暦をつくり、敬んでこの暦によって、人々に四時の早晩を知らしめた。尚書堯典・中国上代の最古の文献」に書かれていて、この堯は神話の皇帝のこと。暦は中国では2世紀どころか神話時代に・・。
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古代中国はすごい!でも、“天地のあるがままに”の日本のスタイルもクール!だよな。と負け惜しみ。

日本の記録では聖徳太子の時代より半世紀前(553)に半島から医、易、暦の専門家を招聘した記録があって、後の603年に暦本、天文地理書などが渡来し、暦が公的なものになっている。のちの862年に唐から新しい暦が伝播されそれが採用されている。
これから江戸時代に暦が改暦されるまでの850年ほど使い続けられた。「日食のおこる年は、暦博士が前もって測り、その正月朔日、申し出て日食にさきだつ八日前に上申する。当日には政務は廃され、僧をもって修法せしめられた。・・しかるに暦官の日食の予報は往々にして誤った。・・朔日(正月)冬至は・・祥瑞の意味でも上申されるものであったが、日月食と同様であった。能田 忠亮・暦」
平安中期から江戸初期までは、この国に科学的な暦は存在してなかった。曜日などは、この国に広がったのは、たかだか明治以降のことになる。曜日の感覚が身につかないはず。土日と祝日がわかればいいのだ。

仁保島の南海岸の日宇那とその東の淵崎の集落を結ぶ道路は岸壁がその間にあって、つながるのは昭和30年代になる。そこに、いまは埋立と住宅地造成によって消えてしまった岩礁があって、その跡に仁保郷土史会の案内板が設置されている。「・・大きな岩があり、絶好の月見場所であったので、藩の侍たちがここにきて観月を楽しんでいました。・・」と書かれている。
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京都・桂離宮も観月のための別荘だという。ここにもそんな施設があったのだろうか。猿侯川の対岸の向洋に今は水道水タンクが頭に乗っている小山があって、そこが月見山とよばれていた。いまは月見町の地名で残っている。
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「“天地のあるがままにて有りける”わが古代の人々の暦は、日の長短、月の満ちかけ、自然現象などの自然のこよみから、一日の“時”を考えはじめ、水平な地面に垂直な2mほどの棒をたて=之を表ともいい、これを中心として日の出、日没の影を記録し、昼は東西南北をきめ、夜は北極星・北辰を参考に正しい方角を知り、朝夕を正しく知るようになり、一日の長さを知りえた。そののち牧畜の家畜の成長の期間や、農耕による作物の生育期間を一日で計算すると、日数が大きくなり、記憶が負担になった。
月の満ちかけはとても目立つ天然現象で、海の潮汐もまた月の相・スガタと一致することで、一日から一月に暦の成立へすすんだ。能田 忠亮・暦」

黄金山の観音寺六つ時詣は相変わらずいっているのだが、鐘突きおばあさんとリリーが現れなくなった。6時の墓所の有り様に慣れてきたが、リリーがこないのはさびしい、暗い。鐘もならない。空を見上げると月が輝いている。やっと上弦、下弦の月の違いがわかった。そして10月になってからカシオペアが日の出前まで輝いていることもみつけた。

「日の出前、日の入後の夜空にかがやく星象の見え方によって、季節の早晩を知り、日月の運行に春夏秋冬の別があることが分り、北斗七星の斗柄の位置をみて季節を正しくしり、日中の影の消長によって一年をただすという風にして、次第にその正確さをますように暦はなってきた。能田 忠亮・暦」

向洋の古い地名に“妙見”がみえる。北極星のことで、向洋の図をいまの地図に重ねられないので、場所はわからないが、この漁業の集落に妙見という仏教用語だが、星の地名があったことに妄想する。
対馬まで航海する人々が必要な「航海暦」は月の位置と潮汐にくわしい。彼らは、朝廷など相手にできないことを知っていた。すべて自己責任の航海生活。潮汐に精通しなければ、明日からの天候、風、気温までも自分で見つけなければならなかった。
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たとえば、蒲刈下島の三ノ瀬と仁方の間の海峡が猫の瀬戸とよばれる。三ノ瀬の地名はこの瀬戸に東西と南との三つの潮流が満潮でぶつかり盛り上がることによる。この盛り上がる様を猫の背中のたとえたといわれる。
「仁保島と向洋の月見の地名」はこのような潮流を見張り図るところに付けられたのではなかろうか?と、日宇那と向洋にあらわれる“月見”関係の伝承や地名が妄想させる。妙見の地名がその妄想の後押しをする。

朝の時間、黄金山の道そばから、海に目をこらしてみる。空に浮かぶ月を見上げる。海と月との関係とは?
マツダの工場から立ち上る水蒸気しか、目につかない。現代の潮目は株価と為替レートなんだよ!と思うしかないか。そういえば何時ごろからTVのニュースに株価と為替レートが必ず告知されるように、なったのだっけ。
「お前も経済の潮目みろ!」「無理です!こんなブログ書いてるようでは・・・なぁ、ダメでしょう」てな訳ないぞ!
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by forumhiroshima | 2014-11-19 18:45

引越し勧告

丹那の集落を東西にとおる旧道の信号のある交差点は点滅でいつも赤点滅信号無視だ。
楠那小学校のちびっこたちは、必ずスイッチを押して青信号まで、旧道と交差して南北に走るやっと二車線幅の狭い車道の脇でオシャベリしながら、まったく車の通らない時間なのだが楽しそうにまっている。こちらは、その時ばかりは、こちらもいつもおとなしく正しい横断を心がけるフリをする。
そこで町内会長さんとバッタリ。道の脇に手招きされた。「いまの家賃はいくらか?」そして知り合いのアパートで2LDKがあいているから、引っ越さないか?と言われる。丹那・穴神社の秋祭り・早朝の獅子舞の乱入祭りの丹那の一週間のちにある、東隣の楠那の祭りは獅子舞はなくて、神主さんの祝詞とカラフルな御幣の配布の東隣の日宇那との合同の祭り。この両集落ははっきりと区分されている。まるでライバル会社のように。
楠那の住民ともいえない自分だが、楠那が丹那の祭りで丹那のハッピ着ていることが、どうも丹那の皆さんには“のどの小骨”らしい。“正規”な住民になれよ!とのサインだった。

朝5時の黄金山のぼりで必ず出会う丹那の祭りの役員さんがおられる。“JR西日本”とあだ名、密かにつけていた。彼はゼッタイに自宅5時スタート。山道で出会う場所で自分のスタート時間がわかる。今日は遅かったかな、と。職場では時刻表さん、と呼ばれるといって“JR”とつけたことを笑っている。そのJRさんは、丹那・穴神社の神紋(厳島神社と同じ)がこの島の総鎮守の仁保姫神社(八幡巴紋)と違っていて、仁保姫神社の神主さんから同じしてほしいと要望されていることに、とても怒っているのだ。穴神社は仁保姫神社とはまったく関係ない!が彼の持論だ。べつに根拠はないようだけど。
彼はあの信号では必ず点滅スイッチを押して青信号を待つ!らしい。酔って、どこで見ていたか、土井さんは信号無視すると、ぐちった。子供達がみていたらよくない!ってこと。決め事は、守れ!。時間もまもれ。穴神社の神紋は伝承してきた決め事だから、変更はできない!ってことらしい。

仁保島の秋祭りは東の柞木の住吉神社から始まって、淵崎の竈神社、丹那・穴神社、日宇那/楠那の新宮神社、そして本浦の仁保姫神社と、それぞれ一週間違いで島を一周する日程で行われる。すべての祭りに“よごろ”と呼ばれる前夜祭がある。丁寧に祭りが行われる。どこの集落にも“田舎”が漂っている。伝承を守ることで、なにかが伝わってくる。それを田舎の住民は知っている。知っているから、つづけている。そして伝承される。そうにちがいない。でも、伝わってくる、それは”どんなこと”なんだろう。

JRさんが、穴神社はとても高い場所に本殿が鎮座していたが、移転があって、山が削られて、低くなって威厳がなくなったのが残念だと話していた。
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どれほどの高さだったのだろうか。ある日、神社の石段を登って、本殿の後ろの養護ホームのその裏の崖の斜面までいってみると、すっかり蔦で覆われたなかに、まだあたらしいコンクリートの階段がつづらにのぼっていた。
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その先の崖の上に小さいが一塊の高い枝が張っている繁みが見れる。見上げたそのすぐそばには新しい住宅地の家屋がのりだしている。繁みまでは蔦がすっかり覆っていて近づけない。神社からぐるりと回って車道を住宅地まで登ってみた。崖の端は駐車場になっていて、フェンスで囲まれている。が、フェンスに小さな扉がついていて、鍵がかかっている。その先にその繁みがあった。当然フェンスをよじ登って繁みにはいってみたが、すぐにブッシュの崖で撤退だった。あのコンクリートの階段はなんだ?

「アナというのは、近江の地名を見る上で非常に大切なもので、すこしずつ転訛しながら、あちこちに広がっている。草津市の穴とか、例えば大津市坂本の穴太・アノウ、石工で有名な穴太衆の穴太もそれで・・いま神社になっている高穴穂宮の穴穂・アノウもそうで、 金達寿・地名の古代史/近江」「琵琶湖湖畔の坂田郡近江町にあった古代阿那郷が古代の豪族の息長氏の根拠で、息長帯比売命・オキナガタラシヒメ(神功皇后)の故郷。アナは半島からの渡来の地名に関わる 金達寿・地名の古代史/近江」とある。地名としてみれば、穴門であった山口県の長門。備後・府中と神辺が古代海の底に沈んでいた海も、岡山・倉敷が海底だった古代の海も“穴海”と呼ばれていた。しかし、だからといって丹那の穴神社の影はうかんでこない。

仁保姫神社の参道石段下横に、「神功皇后が三韓征伐の帰途に当地で一泊し、霊験のあった爾保都比売神を鎮祭した。翌日出発する際に邪気祓いとして放った矢が現在地の山に当たったので、その矢を神体として仁保島の鎮守とした」と掲示してある。この神社は元の名「正八幡神社」とあって仁保都姫神が祭神だけではなく、神功皇后と夫の仲哀天皇、子供の応神天皇の三神との四神で、ご神体が“矢”になるのだろうか。仁保姫様は神社の掲示に御祭神の一番手にあげられている。それで、正八幡神社でなく仁保姫神社なのだ。

穴神社の神紋は三つ亀甲で、厳島神社とおなじ。神社の祭神は大国主で出雲大社の祭神で大社の神紋は一つ亀甲。大国主の嫁は厳島神社の祭神のタギツヒメで関係深い。だから、八幡宮関連ではない!このままでいい!というJR氏の主張はまっとうなものだ。

仁保姫神のニホは丹生の丹で水銀の神様。仁保島で水銀もしくは酸化した朱砂が採取されていたことになる。しかし神功皇后の息長氏一族の名の“息が長い”は本貫の地、琵琶湖の「ニホ鳥」つまりカイツブリ・息長鳥がトーテム・Life・Indexであるからという。ニホは「丹」でなく「ニホ鳥・カイツブリ」だと。
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また、ニホは「香・ニオイ」とかかれて仁保島は「香島」ともいわれる。“ニホ”も混乱している。歴史が古い。

宇佐八幡宮の八幡大神・比売大神・神功皇后が、建造中だった東大寺の大仏造営を成功させると託宣し、大仏鋳造完成直後に上京し境内の向山で寺の鎮守となった道すがら、奈良・西ノ京の薬師寺のほとりで神與が休まった場所を休岡と名づけ、そこに休岡八幡宮か建立された。そこの祭神はなぜか、八幡大神、神功皇后そして仲津姫に変わっている。仲津姫は厳島神社の祭神で九州・宗像大社の神でもある。中世につくられた、その神々の神像が残っている。神像は“いい”ですね。
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休岡八幡宮の祭神が比売大神でなく仲津姫神(仲日売命・ナカツヒメミコとも書かれる)となったのかは、きっと不思議な話があるにちがいない。奈良の西では八幡も厳島も並んで鎮座しておられる。その訳でも探してJR氏といっぱい、やっか!丹那と楠那にあるように、神々もそれぞれが、それぞれで、面白い、と。
引越ししなくていいですか?

JR氏が話した穴神社の元の鎮座場所は住宅地造成で削られてしまったのだろうが、そこの足元に神社の拝殿を見下ろす場所から振り返ると、正面にNTTの電波施設のある飯盛山の山頂がみえる。振り返って南の広島湾の向うに宮島の弥山がみえた。弥山=穴神社=飯盛山のラインが成立しそう。神社はとても高い場所にあったというから、海上から見通せたにちがいない。飯盛山は各地にあるが、どれも神の鎮座の伝承がつきまとう。なんだか、新しい妄想の種ができた。
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仁保姫神社に飯盛山を仰ぐあたらしい拝殿が造られている。どんな神様が鎮座するのだろうか。神々のレジェンドは今も続いているのだ。
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by forumhiroshima | 2014-11-14 11:21

安芸の江の内

広島城が太田川河口を島普請とよばれる干拓で創建されて町が形成される前のこの湾の地名が知りたいとおもっていた。比治山が島だったころその西の太田川の河口の砂洲が五箇庄とよばれていて海が干満する浅瀬の海域が己斐浦とよばれていたらしい。
比治山から東の仁保島に囲まれる猿侯川の河口も干潟だったようで、ニホの海であった。
江波や皿山、元宇品が島で浮かび、南の宮島から周防大島まで、いまは広島湾といわれるのだろうが、その海域は“安芸の江の内”と呼ばれていた(日本の海賊・長沼賢海)との記述をみつけた。やはり、広島出現以前の海域に固有の呼び名があったことの発見がうれしい。そこには、コウノトリも鶴も飛来していたらしい。
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広島湾は太田川を初めとして瀬野川、府中大川、八幡川、錦川などをあつめた、江の内。海水と淡水とが混ざり合う、豊な海域が浮かんでくる。

<余談>石見へ備北の山地から流れ出る江川に可部の北の上根峠から流れこむ可愛川、大朝からやはり流れ込む可愛川はどちらも“エノカワ”とよばれる。上根峠から南へ流れ可部で太田川に合流する根谷川も、エノカワと呼ばれていた。これらに江の内の海の地名が共鳴する。瀬戸内海と日本海はエノカワで連続する。
安芸国の国府があった府中の中心が“埃・エの宮”と呼ばれる。“埃・チリ、ダスト”はないよね。この“埃”は“江”だともいわれる。江の宮!がふさわしい。

砂洲の上に泊り屋をつくって、生活できる手段は、漁民しかない。この五箇庄を毛利元就が進出したころにここを支配していたのは、漁民たちの頭であった、それは、牛田の寺-東林坊の願通という坊さんで、仁保島の城の守将でもあった。砂洲はまだ土地としては、見られてなかったのだろう。国家の正規な土地の区分ができてない使用自由な場所だったのだろう。
このころの五箇庄の漁民は牛田組とよばれていた。そして組の最大の人口は仁保島にあった。
仁保島の城は15世紀に府中の地頭であった白井氏が本拠をここに移し、安芸国守護の武田氏の支配下にはいった。武田氏は銀山城。その銀山に、山中の白い南天の木の下に銀が埋まっている伝承があるという。仁保島にもおなじ白い南天のしたに黄金がある伝承がある。仁保島の山が古く馬耳山とよばれていたのが、黄金山と代わったのは、このあたりに訳があるかも。
武田氏が滅亡してからは、毛利氏の配下の香川氏が願通のお目付け役になることで牛田組・願通を監視していたといわれる。牛田組は強力な集団であった。のちに毛利の河内衆とよばれる。

黄金山麓の楠那町のお祭りが先日あって、その日は留守をしていたのだが、帰ってみると、アパートの入口の電気のメーターのボックスに、お祭りで配られる御幣がテープで止めてあった。ここにも神主さんのお払い一行がおいでになったようだ。昨年は神主さんにご挨拶した。御幣はイタリア国旗のようで、おしゃれだ。お宮は楠那の東隣の日宇那の熊野新宮神社で、御幣はこの宮から下される。残念にも楠那には守り神の鎮座はない。
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「農村とちがって、漁村には浦々に特有の漁法があって、これが分類可能であって、その技術の伝播ないし漁民の移動---ある場合にはその分村がはっきりする。 海の民・河岡武春」
「瀬戸内海に面した、広島県豊田郡幸崎町字能地は一年の大部分を、家族共々小船に乗って、海上に過ごす純漁業者の部落である。長い一生を小網船をして暮した。と云うこの村の鎗野寅吉氏はこう語ってきかせた。小網というものは、藻の上を曳くので、日和は少々悪くてもよい。・・一夜に十ぺんはひかれぬ。朝方一眠りする事もあるが眠らないでも、船を岸に寄せて、家内が魚をハンボウ(桶)に入れてカベッテ(頭上運搬)陸の村々に売りに行く。瀬川清子・販女/ヒサギメ より」

家船の漁民とも、漂海民ともよばれる漂流する漁民を研究していた宮本常一が、河岡武春にこの漁民たちをテーマとするようにすすめた。河岡は「海の民」が出版される一年前に死去されて、出版以外の研究の発表もなく、その著書名も不明で、さがしてきたのが、先日、書名がやっとわかって、それをさっそくアマゾンした。キャンピングシップで漂浪する人々の痕跡が瀬戸内のどの場所にあるのか?仁保島にもそれがあるのか?瀬戸内の島々の集落は決して一様でない。島々をこれから訪れるとして、その各々の生活の一端にふれるための資料として、とても知りたかった。

家船の漁民たちは「海岸の三角州のような一角に百四十戸の瓦屋根の家が押し合ってたち、家と家との間の幅三尺の迷路は紆余曲折して、迷い込んだが最後、部落内の小路の凡てをぐるぐるめぐり歩くばかりで方角も解らなければ見当もつかない。家々には小庭というものは殆どない。瀬川清子・販女/ヒサギメ」
この描写された風景はここではないが、江の内の五箇庄の砂洲の家々はこの景色だったのでは?とおもわせる。ちがうのは、中世に家々は藁葺きであったろう、ことぐらいか。

この家船の人々は出先の集落の外れや、集落から離れた島陰に定着することがあった。そこは枝村とよばれる。しかし檀家寺(過去帳をおいてある)を能地にあり、そのため死去しても故郷の能地に遺骸をはこんだ。この過去帳を河岡武春が400年分の分析している。
枝村のリストに隣の集落の日宇那があった。日宇那の集落の路地は“家と家との間の幅三尺の迷路は紆余曲折して”いまもある。

能地の枝村は九州にも広がっていて、大分の臼杵市都留がリストに揚がっている。
「“シャア”都留の漁民を呼ぶ俗称。1605年に当時の安芸国能地から移住した平家の舎人の車者の子孫であるという伝承がある。“シャア”という呼称も車者に由来するとされる。中世文書の“関秘録”に、車捨は豊後の辺に居す。さかななど商いしけるものなり。百姓の交もならず、また縁もむすばず。さかななど売るに、“しゃあよしゃあよ”と呼ぶ」

わが自転車もこれから“シャア”と呼ぼう。自力走行車捨・シャア!

「能地の人々は、紀州からの中世末の移住であった。これは能地の佐江崎神社の浦神職からその由をうかがった・・さて、紀州の何処であったかとなると、確実な見通しをもつことができないのは残念なことである。紀州雑賀崎出自説を早くから唱えていたのは宮本常一であったが、強く主張していたのでなく、膨大な著作のなかにもそのことに触れられたものはない。・・おそらく紀州漁民の漁法伝播と雑賀崎漁民の特異な性格から直感したのであろうが、その可能性はあると思っている。 海の民・河岡武春」

日宇那の集落は仁保島海岸周回道路が最後まで貫通しなかった場所だという。赤壁と呼ばれる岸壁がその周回を止めていた。山が岸壁となって海に落ち込む場所は水深が深い。南向の日宇那の港はその岸壁そばにあって、風もおだやかで、人里から舟でしか訪れることはかなわなかった辺地だった。家船の漁民たちには格好の場所だと、ちょっと直感?。その日宇那の鎮守が新宮神社。和歌山の熊野新宮神社が勧請されている。
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新宮神社の由緒「祭礼11月3日 創建1633年、漁業者早くより居を構え熊野新宮神社を勧請し・・」
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日宇那の路地はそれは細くて、せまい。
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宮本常一は細い路地は漁村は平地がないから成立した集落で、漁業作業は浜で行われ、また留守が多い。特に家船の漁業者の家庭では子供を老人が養育するために、近隣の家に生活の声が聞こえ、なにかに近所が駆けつけるような佇まいだといっている。
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都会で新しく作られる保育所がうるさい!と反対をさけんでいる住人は原野に行け!とここでは追い出されるだろう。漂流する漁民たちの小さな陸地の生活の佇まいは、”絆”が設計されていたのだ。日宇那の路地に入り込む日差しがえらくまぶしかった。
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by forumhiroshima | 2014-11-10 20:25


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