こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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400年の墓守

660年朝鮮半島に唐と新羅国との戦いの百済国救済のために、中大兄皇子が半島へ出兵させた員数は11万数千、22万余、31万余だという。吉備国風土記に今の倉敷から総社あたりで兵士を募集すると2万が集まったとある。このことから地名を邇摩・ニマとした、話がある。古代瀬戸内海の海人たちの数はすさまじい程に感じる。奈良時代の瀬戸内の推計人口は60万ほどともいわれる (鬼頭宏 人口からよむ歴史)のだから。

毛利元就が大阪・石山寺へ送り出した兵糧船600余、警固船300余であったから900艘の船が動いた。この派兵の中の大半に川内衆とよばれる牛田と仁保海の海人たちがいた。1艘やく十数名の乗員というから、それほどの彼らの基地となる港はどこにあったのだろう。

府中町の石井城の豆腐屋さんがとても気になって寝られない。細い側溝にも透明な水がながれ、暗渠からも水音がこぼれる。旧榎川川道の上にある豆腐屋の豆腐がうまくないはずがない。豆腐は水をつつんでいる食品なのだから。と、朝走った。木綿は売り切れで絹しかなかった。

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JR線そばのマツダスタジアム横を東へむかい、JR線をくぐって抜けている、人と自転車専用のトンネル、通称“ヘビトンネル”を出るて、広島駅-府中土橋の幹線車道をこえる高架橋で尾長の細い旧道に入れる。準?自転車道である。中山の踏み切りまで信号ナシ。

この古道におおきな石造りの灯篭がある。神社近くにもノッポの石灯籠が鎮座する。“ヨッテラッシャイ、ヨッテラッシャイ、お兄さん!”と夜になるとさそったのだろうか、ナゼニ、ここにあるのか。

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府中の町の豆腐をゲット!ウエストバックにスーパーの刺身パックにつく小袋の醤油とちいさなスプーンをしのばせて、10時のおやつ用である。豆腐屋からとってかえす路地角に下久禰の石灯籠よ説明版のある灯篭を見つけた。この火が矢賀から見えたとある。

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そばに巨木のむくの木もみえる。
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このあたりは鎌倉時代の図では早馬立とある。古代山陽道の駅・早馬館ハヤウマダテではないかと言われる。今は鶴江だが、“つる”は連なる・ツララの仲間で鶴江は平な土地にながれる川の意味がある。この北側に江戸期に船隠・フナカクシとよばれる場所があったといい、川湊、船の碇泊地だろうか。古代山陽道が海と接するのは備後・府中から西ではここが最初の場所。

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明治35年の地図で鶴江の北に磯合の地名が見える。海と川が合う場所のことで、このあたりは貝塚が見つかっている。鎌倉時代地図では府中本町あたりが“浜”と表記されていた。“浜”は当然砂浜であるが、塩田をおこなったことで“浜”と現すことがある。船着場ではない。磯は岩礁の海岸だ。ここは船着場になれる地形になる。

鶴江の郵便局の前から温品バイパスの高架がみえる尾根方向へ登ると、一つ目の尾根が切れて小さな谷間に出逢う。そこの石段の上に金碇明神が鎮座している。

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拝殿に由来が掲げてある。「AC360年ごろ、神功皇后が百済国の要請で半島に出兵され大勝された帰りにこの地に碇泊された。出航しようとしたが、碇が揚がらない。そのとき白髪の老人が現れ、“竜宮の怒りに触れたようだから、さっそくに碇を切って出航されよ、私は海岸の大楠の根元の石である”といって消えた。皇后は感謝し家臣をこの地に残し、老人のご神体を祀ってきた。この地は底なしの沼で、いつも赤錆が浮き出た。」とある。これでもけっこう意味をつないだのだが、由来にかかれている意味が通じてこない。揚がらなきゃ、綱切ること考えるよな。普通ジャン!それに、石からサビ?

神社の上の尾根をはしっている温品バイパスの入口は間所と標示されている。由来の底なし沼を“沼どころ”といっていたが、いつかマドコロ・間所にいわれだしたと教育委員会の古代山陽道の解説にあった。この湿地の温品川が水尾川とよばれたことがある。水尾は“ミオ・澪“、豪雨で氾濫した川の水量が収まってからつくられた流れ。これを船の航行のラインに使う。淀川ではこの澪を整備して標識を立てることがあって、これを澪つくしと呼んだ。この”つくし“は春のつくしとおなじく、立てた棒のこと。NHKの朝ドラの”澪つくし“が出世作のヒロインは、いま”科捜研の女“マリコさんになっている。科学捜査の方向性をきめる澪ツクシの女神って役が、イイネ!

神社の横の尾根を岩屋観音に登るルートがあったが、バイパスができて、今どうなったか、わからない。岩屋観音はずっと前に消失して再建されていない。このごろの地図から消えている。聞いた話だが、消えず火があって、その始末で消失したとあった。南にある黄金山の観音寺からの北正面に岩屋観音の尾根があって、秋になって温品の上手の馬木から朝霧が下りてきて、岩屋の尾根に朝陽があたると、霧がうごめきだす。うつくしい。観音様が降臨したようで、祠がなくても岩屋観音の存在が感じられる。

金碇神社の拝殿から石段を降りると、境内奥に民家がある。社家とよばれる神主さんの家だろうか。檜山の表札がでている。すぐ“火山”を連想した。火山は祇園にも、倉橋の本浦にもある。のろし山だという。私は海人のアテ山ではなかろうか、と思っている。景色のなかで判別しやすいランドマークだ。夜、篝火を焚けば、すぐに位置が知れる。岩屋観音の消えずの火はこの篝火で、宮島・弥山の消えずの火も夜のランドマークであったのかも。岩屋観音の火を、この金碇明神が管理していたのでは?などと表札から妄想する。観音のある高尾山全体が石灯籠だったりして。この神社から尾根道を小一時間で往復できるのだから。・・のぞいてみたが、留守だった。由来にあった神功皇后が置いていった家臣の末裔なんて、伝承があったりしてないか?聞いてみたかった。

そろそろ、豆腐試食タイムだと、戸坂へぬける中山峠へ向う古代山陽道(といっても、すっかり車の幹線)のもっと山へ入るルートに向った。本屋で立ち読みした都市図に山中に“帆立不動”の名があって、この名はグーグルやマピオンなどのネット地図では見つからなかった。さがしに走るしかない!と。

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白島の碇神社が広島城の外堀の排水をする平田屋川の設計基点ではないか、と妄想していたが、碇を碇泊の留まると考えなくてはと、この金碇神社でおもった。そして可部に帆立の地名があって、そこが古い碇泊地である。太田川と温品川(府中大川)との類似に引かれた。

帆立不動の位置には祠すら見つからない。ちょうど旧家とおもえる大きな農家の前庭の草むしりされているおばあさんをみつけて、尋ねてみた。まったく、知らないし、見当たらない、と返事されてガッカリ。すると、墓へ行けとおっしゃる。ご主人が後ろの森にある古い墓所の暮れの掃除に行っている。すぐだから、そこへいってみろ、といきなり先導されだした。あわてて、自転車そばに置いて畔道をついて歩く。いよいよ細くなったふみ跡ほどの道が森にはいいって暗くなった。しばらくして眼が明るさになれると、木立のなかに老人と奇妙な石造物がいくつも規則正しくならんであった。おばあさんはそこで、くるり、と反転して、黙って引き返して、残された自分がなぜここにきたか、を説明しはじめた。

その説明を聞く間もなく、老人がこの正方形の石造物が武田氏滅亡のとき、城内に招かれていた信州の高僧たちのもので、それは落城したあとここに毛利輝元が庵をたてて、高僧たちの暮らしを支えたのだと、とぎれとぎれに話される。銀山城の麓に安芸国の最初の浄土真宗の寺の仏護寺を武田氏が造ったといわれている。そこらとの関係を聞くと、中山町史を読め、とおっしゃる。そこからこの中山の歴史の話がだんだん広がってくる。もうおじいさんをだれも止めることはできない。おばあさんにやられた!主人の歴史好きの話にうんざりしているが、でも聞いてくれる人がいると主人がうれしがるから、自分もうれしい、ってことか。責任逃れですよ、おばあさん。でもそんな景色はいつも自分のそばにあるのです。反省!

話は毛利元就の妾の子の二宮太郎左衛門がこの高僧たちのお守り役で、となったとき、もしや広島城普請奉行の二宮さんですか、そうだ、その二宮家は萩へのお国替えの際に温品の奥の馬木で帰農して、その一族が、ジャジャン「私です」ジャーン。

おじいさんの目線が木立の間からみえる温品川河畔の商業施設の向うの黄金山の方向へ代わった。そのころ(ここに庵があったころ)この向うは海じゃったのよ。坊さんたちは帰れんかったのかの。

そのときおばあさんが現れた。しめた!帰れる。お茶を用意したけえ、うちへきんさい。帰れん。

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豆腐はわがストーブのうえで湯豆腐にその日の夕餉なりました。とってもうまかった。


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by forumhiroshima | 2014-12-26 10:07

ニホ海のから見える、府中のむくの木-2

神社そばの榎川を西に渡るとすぐ右に安芸国国衙の四方守護の祠・辻の道祖神が見つかった。祠の先日の雪の名残を子供たちがあつめていた。

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道の西正面のずっと向こうになにやら尾根がみえる。中山峠の尾根のピークか?。そこから500
mも走ると鶴江2丁目の交差点にで、直進するとすぐの交差点に薬師の祠が見つかる。
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大きな石が祠に鎮座する。基石を置いた測定ポイントらしいと、ひとり喜ぶ。京都なら四方守護のこの位置には秦氏由来の松尾大社になる。お酒の神様。ちかくに居酒屋は・・?なかった。祠から古代山陽道を離れ、のぼりの細い古道を登る。このあたりの今の地名になった石井城の跡へ。ここも四方守護のポイントだという。

城址には石碑と数本の木立が広場にあるだけだった。

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京都の四方守護に将軍塚があてられる。石井城址から景色が、なにか将軍塚に似ている。広い展望がおおきな木の向うに広がった。甍の波の家々が眼下にひろがって、どこか、なつかしい風景。とても気に入った。しばらく木のそばに座り込んだ。なぜか、今年もくれるなぁ、とふとつぶやいていた。

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ここから残った四方守護の祠、南山大歳の祠を探しに向うか?と予定していたが、甍の民家の混雑の中に巨木がすっくりと聳えているのに気付いた。府中の“旧市街地”とでもいうのか、手元の地図の、とても路地が入り組でいる町並みにはいって、安芸国国衙設計図にある湧水や神社をどう探すか、作戦なしだった。がしかし、路地に入ってもこの巨木はランドマークになる、と考えた。

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やはり路地が混乱していた備後・府中では廃墟のような無人のNTTのビルのアンテナタワーをランドマークに走ったことを思い出した。巨木を見上げながら込み合う路地にいる自分の位置を決めるのはとてもスリリングな楽しい冒険だ、面白そう!。コンクリートの背伸びして空を支配している建物もない。備後・府中の旧市街地では路地発見の面白さを堪能した。

巨木に向った。教育委員会の標示板は設置してあって、樹高27.5mのむくの木とある。「その昔、船が沖から帰ってくるとき、猿侯川の河口に近づくと北方にこのむくの木が見えたと伝えられます」。昔からランドマークだったのだ。

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先日の降雪が残っていて、ひんやりとした空気に路地の暗渠を走る雪解けの勢いのある水音が響いている。静かな家並みの間の路は、より静寂感を増してくる。土壁に小さな木製の出合清水⇒の標識。その後に表示は見つからない。でもむくの木が頭上にある。近くらしいと迷路を左回り。すぐにみつけた。このごろの水質検査で合格する都市の湧き水はないといわれるように、澄み切った流水の井戸に生活のにおいはなかった。検査で必ず大腸菌は発見される。そして不合格になる。人の大腸にいつも存在するから、大腸菌なのだけど。

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またむくの木を、今度は大きく旋回する路地ツアーを始めた。すると厚化粧の、霊験あらたかと自己宣伝する神社にであう。

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田所明神、古代の国庁の場所だという伝承地で、神主の田所氏は、中世からの古文書を持っている。明治の廃棄騒動を切り抜けたこの町唯一の文献で歴史資料館にくわしく展示されている。神社横に作られた駐車場の壁面にも概要の説明が並べてあった。田所氏は厳島神社の古代神主で佐伯郡の地名ともなった佐伯氏の流れで、古代の豪族からつづく家系をもっているとあった。

宮司の田所恒之輔氏の講演記録をみたことがある。経歴に防衛大学卒、元自衛隊レンジャー部隊教官とあって、それだけで自分の頭はシャターを下ろしている。神主さんは郷土史家になるのだけど、ウイングは左右どちらにもあるようだ。この明神の神は人間くさい。それもそれだ。

むくの木を中心に旋回していると、酒屋さんの店先の井戸の跡をみつけた。この井戸にも神武天皇のような論争があった。出合清水とあった湧水井戸を環境庁の名水百選に届ける際に“出合”としたのだが、今出川清水と取り違えていた。その取り違えた先の井戸が出合清水で酒屋さんの店先の埋められた井戸跡だという。だから、出合清水と標示された井戸が今出川清水なのだそうだ。だがどちらの井戸にも今出川清水の標識はない。地元の皆さん関心ないようだ。酒屋さんの井戸は大変おおきかった記録は厳島の絵図にあるそうだ。幾度も水害にあって、そのつど掘り起こしたと古代山陽道の案内にあった。酒屋さんはむかし造り酒屋でこの井戸水を使っていたのだろう。このあたりは古代の榎川の川筋で、氾濫で今の貴船神社横にかわったという。貴船は水の神様。秦氏たちはここなら、いつも安全地帯と誰曾迺森に鎮座させたのか。さすが本物のディベロパーたち。いや神の霊験がそうさせるのか。

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榎川河畔にでて大歳という地名をさがして南山大歳の祠らしきものを見つけて、四方守護神にお会いした。

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引き返すルートを旧市街地へ。すぐに豆腐屋さんを見つけた。水よさそう。

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古代の国衙が方形に計画されていたとしても今の古道・路地はその痕跡を残していない。古代条里制による方形の計画はどこも無理な水路設計で破綻し、水害を多発させている。個人の土地所有がはっきりしない古代、水害の跡には新しい通りやすいルートが道になったのだろう。管理される官道の山陽道をのぞいて、は。カオスの古道とストレートに管理にされた官道がいまに残された。


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by forumhiroshima | 2014-12-23 03:55

ニホ海のから見える、府中のむくの木-1

千年の歴史があるという、水分神社からの線香水の道を使った灌漑水の配分がされる古代給水システムの条里制の土地区分を安芸式と学者たちはいっている。安芸式がどんなものか知らないが、注目されるものらしい。府中の地名が示す古代安芸国の国府の国衙の設計図が町の歴史資料館にあった。その設計図の四隅にそれぞれ祠が置かれて、古代の国衙の守りの神々の鎮座だという。
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多家神社の境内下の貴船神社に、なんだか不思議な不動な存在感を感じた。神社の神々は、人間が作ったが、その鎮座には神々を祀った人の「訳」が必ずある。たとえその訳が、鎮座の場所を“サイコロ転がし”できめたとしてもだ。その「訳」が時間を越えてこちらの心に伝わるから、神社をリスペクトできるのだと思う。神社には神もそれを祀った人々も鎮座する。

多家神社に初代天皇の神武天皇の東遠征途中に滞在の伝承が“記紀”にあって、滞在場所が江戸時代から問われてきたという。府中で二ヶ所、厳島も候補だし安佐南区祇園もそうだ。府中では二ヶ所の論争がはげしくて、明治に入って、広島県庁と旧浅野藩主が調停にのりだし、新しくこの多家神社を論争地の中間点にあった“誰曾迺森(ダレソノモリ)”に創設し伝承の地とされた。本殿には広島城の稲荷神社を移設したという。このとき論争に関わる古文書を焼却したという。今では威風堂々、誰も疑えない、文字どおり誰曾の森になった、神武天皇御滞在伝承地だ。境内下の貴船神社は争論以前から鎮座していた神様ではないだろうか。森はこの神の鎮守の森であったのだは。しかしそんな、なにか、争論を笑っていそうなゆるやかな存在感を感じる。貴船神社の狛犬は国津系の頭を下げる出雲狛犬で、天津系神武天皇の拝殿に置かれるものではない。このあたりに、争論のとばっちりをやり過ごし、新しい神の境内を見上げる位置にある貴船神社の氏子の人たちにひかれる。貴船の神々を祀る人々は湿地帯に京都の都を作り上げた秦氏の人々だといわれる。古代のディベロパーたちの影がみえる。京都は四方に守り神や仏が置かれているといわれる。府中の四方の神々の鎮座を探しにでかけた。
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貴船神社横の榎川を西に渡る直線の道が古代の山陽道であり、ここが府中と呼ばれる古代国府の国衙の南の端の設計基準線になるようだ。この基準線は古代の海岸線に張られた堤防を使用したと、広島県の古代街道の紹介HPにある。
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中世の文献にこの道を“大道”と書かれたものがあるとそのHPにあった。古代幹線道路は直線を基本の設計思想で貫かれる。そこに“大道、大通”の地名が残ることが多い。その設計の基点ポイントが山のピークに置かれ測定基準点とされる、と地図をみると戸坂の松笠山の南尾根のピークと町営青少年センターの丘の三角点を結んだラインと重なった。戸坂のピークの麓に、土地の設計に使用した張り縄を納めて信仰する稲荷神社がちゃんと鎮座している。海岸線が単純に大道になったのではない。確かな古代人の設計意思が感じられる。もう現地を走って確かめるしかない!。
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江戸期に山陽道が広島城創建により戸坂経由から城下へ付け替えられて、府中“大通り”に土橋が架けられ城下への道から分岐して、榎川沿いに街道がつくられた。松並木がその証として残っている。並木が道路標識だった記憶だ。その川上の松の林に貴船神社が鎮座している。
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貴船の神は豊前・宇佐に鎮座し、長門から播磨に痕跡を残し、秦氏の業績が記憶され、摂津・尼崎から淀川を遡行し京都・山城の奥、鞍馬の麓に鎮座するまでの東進があったという。府中の鎮座がそのなごりなら、京都の貴船とつながって楽しい。(川床料理、いいね。)神武の東征にも関わるのだろうか。
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by forumhiroshima | 2014-12-21 10:10

水分神社 府中

府中町郷土資料館は入館無料。そこに戦国時代の府中町推定地図があった。古代の山陽道は町の北面の甲越峠をぬけている。江戸時代の西国街道にある神武天皇伝承地の船越峠の標示はそこになかった。いつごろ神武伝承はできたのだろうか。
その地図に府中湾と地名が記載されていている。府中湾??
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「日本書紀」に“夜の虹”がある。伊勢神宮の斎宮・タクハタ姫とその警固人・武彦との間に「武彦、皇女を姧し・ケガシまつりて任身・ハラましめたり」との噂がたった。皇女は神に使いする人で人とまじわることは許されない。皇女は神の象徴の鏡をもって、姿をくらませた。天皇は皇女を探させた。皇女は五十鈴川をさかのぼり河上で鏡を埋め、自殺した。夜になり、地面から虹がでている場所をみつけ、そこを掘ると皇女が持ち去った鏡がみつかった。噂は真実でないことを身を持って姫はしめしたから夜の虹があったと。武彦の父はそれでも、息子を叱責し殺してしまった。夜の虹がゆれる。
またこの父・イオリ部キコユに災いが起こる。娘のハタ媛が宮中で首輪を盗み、その事が発覚しハタ媛は奴隷に落され、父は自分が所有する安芸国の過戸・アマルベを天皇に屯倉として奉った。

夜の虹の話に印象が深くて。実はいいたのは、“安芸の過戸”とあることだ。過戸はいまの宮の町付近だという。
府中戦国時代の地図がこの虹を思い出させた。過戸と書かれるが、天皇の屯倉になった過去の余戸という意味だろうか。余戸は海人・アマの、戸・集落だ。戦国時代までも、府中は海の民の集落、海岸にある集落が暮らしがあったということだ。仁保の海はとても広かった。夜の虹の事件は533年のことと日本書記は記載している。

古代山陽道は府中から戸坂へ抜けている。船越からの西国街道は古代山陽道と分岐する。西国街道は岩鼻から市中へむかう。この分岐は、この町は開発が激しくて手がかりもないのだろう、資料を探してもみつからない。が、宮の町は路地がとても楽しい。懐かしい。
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府中町内から北へ抜けた。みくまれ峡では砂防工事がおこなわれていた。工事フェンスのむこうに埃まみれで水分神社が鎮座している。
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神社横から登ると、今は消失した岩屋観音の鎮座所へでる。この観音の遥拝所ではないか、とおもったりするが、ここは“ミクマレ”と呼ばれる水分様だ。いらんこと、いわないことです。川筋にそって上る。紅葉がまだ盛りだ。川上にため池がある。
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神社脇の川下から分水されて、府中の西端まで流れでる疎水がある。案内版にこの疎水は1000年まえからとある。「線香水」とよばれている。線香が燃え尽きる時間で水の分配をしたといわれる。
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まさに“水分”である。正確に流す時間を決定するシステムが夜刀の神と争って、刀を使う力技であったことより、平和的である。
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線香水とよばれた疎水は流れにいくつかの取水口があって、その堰を空ける時間が指定されたのかもしれない。「古墳はその土地の領主の墓所としてつくられるが、それには労力のほか鉄製の作業道具、鋤、鍬、モッコなどが用意されす。その力がため池をつくり水路が引かれて古墳の前面が水田化する。土地に刻まれた歴史・古島敏雄」
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線香水のそばに古墳がある。いまもそばに墓所がひろがっている。古墳はすっかり住宅の中でけずられてやせ細っている。6世紀につくられたというこの古墳にはきっと回りに環濠があったにちがいないと想像する。疎水の水をためて、より多くの灌漑手段にすることができる。7世紀にこの疎水の下方に条里制の田がつくられている。夜の虹にある不幸な父親イオリ部キコユが献上した屯倉はこのあたりにもあったかも知れない。8世紀の記憶だ。
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線香水にそってある細い道の景色はとても美しい。好きな数キロのサイクリングロードだ。そしてルートの後半に出くわすひろい畑とそばの田園の風景、そのむこうに広がる景色、古代海であった景色、は奈良の盆地の東の麓に南北にある「山辺の道」を思い出す。いや、ここの道そばにコンコンと流れる疎水の湿気と水音は奈良のそれを凌駕していると思っている。が、新しい住宅がつくられている。
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奈良の山辺の道に自転車持ち込んだのは、いいとしてもルートは人の離合がむつかしいほどの細さのところもあって、単に自転車は押して歩く荷物になってしまった。ルートをはずれて、見通しのよい場所で大和三山の霞む景色をボーっと見ていた。そのとき線香水から見た比治山や黄金山の景色がだぶって思い出された。
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いつもどこでも、自転車ではしると、目の前から今の景色が消えて、きっと人が住む前の原始はこうなんじゃないか?と想像して思う。もつろん疑問なく妄想というのだろう。
だが、その妄想もこの線香水の道では必要ないようだ。海辺からすこし高い葦の原の山際に川の流れから水流を引き込み、畦道をつくり葦を刈り込んで田に変えていった景色がそこに見えるのだから。歴史がはじまる景色が。古墳時代と学者たちが区分した時代がいま、今につながるのだ。
そしてまたまた妄想が湧き出てくる。開発のその工事のスポンサーは古代の府中の豪族・田所氏たち。彼らは宮島の神官でもあり宮島では佐伯氏と呼ばれていた。彼らの一族は安芸国の国造であり、海の領主でその領地を“江の内”とよんでいた。・・・のだ!。?。田所明神社の神主はいまも田所氏だ。

線香水が住宅の間で暗渠になって、どこかで府中大川に入ったようだ。もう、夜の虹は見られないだろうか。
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by forumhiroshima | 2014-12-08 20:13

水分神社・船越

船越で船にかかわる海人たちの神社をさがしてみた。地図に北の谷奥に鳥居マークをみつけて走ってみた。
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谷筋からの流れに沿って登ればと、クネクネと細い急坂に気を取られていたら、行き止まりのブッシュにつかまった。そこから下って、やっと暗渠になっていた分流をみつけた。そばの畑で作業されているおじいさんに声をかけて、川筋をたどれば神社にでるかと、もう間違いたくなくて聞いてみた。「山神さんはおられるが、このごろはだれも参っておらん」と返事帰ってきた。神はいた。

小川の幅がひろくなって、岸のコンクリート舗装の道がビニールや竹でごちゃごちゃとしたフェンスに囲まれた畑のそばで終わった。
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そこから地道が雑木林にはいって、水の流れの音が大きくなった。流れが勾配がついた川底を流れて、速くなったようだ。
池の堤防が連続して三つ現れ、その奥のすこし小高い場所へ石段が登っていて、鳥居と祠が現れた。
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神額に「水分神社」とある。そばに採石のバラ石を積み上げたような壁から地下水が押し出されて、滴り落ちて、すこしモヤがかかっている。森には鳥の声もない。
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“水分”を“ミクマリ、ミクマレ”と読む神社は大和の四つの神社、葛木・宇陀・都祁・吉野が、7世紀の古代の資料から解っていて印象深い。以前に吉野水分神社のほかは、以前に訪ねていた。
尋ねていない吉野水分神社は雨水をわける尾根の分水嶺に鎮座しているように、地図ではそう見受けられる。葛木・宇陀の神社は葛城川(大和川水系)と宇陀川(木津川水系)の流れの沿った場所にあった。都祁水分神社は布目川(木津川水系)の水源鎮座にはならないようだ。水源はそのすこし上流の都祁山口神社にあって、そこが古代の水分神社だという。この国の神々の系列にある“ミクマレ”とよばれる大和の水分神社が、自然の分水嶺にすべて存在しているということではないようで水源でも、流域にもあるようだ。

九州の湯布院からヤマナミに入ると最初の峠の水分はたしかミズワケだった。船越の水分神社ははたして、どう読むのだろうか。ミクマレとミズワケ、どう、なん?

『常陸国風土記』行方・ナメカタ郡の条「古老のいわく、・・ヤハズウジ麻多智という、西の谷の葦原を切り開き、開きて新たに田をつくりき。この時、夜刀・ヤトの神、相群れて、ことごとに来たり、左に右に防ぎ邪魔をして、田の耕作しらしむことなし。・・その形、蛇の身にして頭に角あり、・・・ここに麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧をつけて、自ら鉾をとり、討ち殺し、駆逐しようと、すなわち、山口に至り、標・シルシの杭を堺の堀におきて、夜刀の神に告げていわく、之より上は神の地たるをゆるさむ、此れより下は人の田となすべし。今より後、吾、神の祝・ハフリ(神主)となりて、永久に祭らむ、」
おなじく常陸風土記に「壬生・ミブノ連麿・ムラジマロ、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき、時に、夜刀の神、池の辺の椎の木にのぼり集まり、時を経れども去らず」もある。

夜刀の神たちのこの話はとても印象が深い。ジブリの“真っ黒クロスケ”、“コダマ”や今回のローニャの“灰色小人”などのキャラクターを連想する。屋根裏や森の薄暗くて湿気た空間にいかにも居そうな連中が夜刀の神にオーバーラップする。
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「この話がナメカタ郡の話であることに注目したい。ナメカタのカタは“潟”に相違ない。潟と葦とのかかわりは“若の浦 潮満ちくれば、潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴きわたる”という著名な歌からもうかがえる。・・天然の湧水地を大きなため池に造り替え、干潟を干拓してできた田地をも潤そうとするものであったと・・、この話には葦原中国が豊葦原水穂国へ変貌してゆく過程のような・・西郷信綱」

「分」を考えてみた。といっても、漢字なら白川静の「字源」を引くだけ。そこには「分」は“八”(左右に)+刀(わける道具)、とある。「宰相」この国では総理大臣だろうが、この仕事は王の指導により獲得した獲物を均等にわける仕事からきた言葉だという。不公平だと、組織が分解する。宰相も腰に帯刀する。

大正16年“マツダ”の創設者の松田重二郎が大阪で成功し郷里に松田製作所を設立しようと、船越の土地を購入しようとした。その土地付近は狐が出たり、兔狩りができ、また鶴が二羽降りてきたから吉兆だと、新聞に載ったような土地であった。後日この土地は日本製鋼に売られた。松田は大阪市の水道部長に依頼してこの土地の水の事情を視察している。「大池をご覧にいただくと、それで十分とのことだった。 海田町町長千葉利之介」この池が水分神社の池かどうかは、わからないが、大正17年の地図には、大池といわれる程のものは見かけられない。どうだろう。
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夜刀の神の活躍が7~8世紀ごろのことだから、千年の後の松田製作所設立の鶴の舞う土地を潤す水がめは、変わらず湧く水を湛えていたのだろう。

船越の水分の神は水源にあって、夜刀の神の領域との境をさししめしている。水を土地神と人とに「分ける」神になろうか。でも、ミクマレとミズワケ、どう、なん?

船越の北の府中町には“ミクマレ”と呼ばれる水分神社がある。
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by forumhiroshima | 2014-12-07 14:03

船越・クシ/串

向洋の東は船越になる。この地名には古代・神武天皇が九州・宮崎を出航して九州を経由し大和へ向う途中に安芸国へ立ち寄ったと記紀にある。そのうちの古事記では7年も滞在したことになっている。その滞在場所といわれる府中町の埃宮に向う船を陸上にあげて通り越したのが船越の峠だと伝承がある。
船越峠は標高38m。船ははたして、越えたのか?なんて。
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「“コス”というのは朝鮮語では、岬とか海岸を言うのです。・・そのコスがどうなるかというと、『海東諸国記・韓国で1471年に発行された』を見ますと、対馬では船越という名に変っている。いわゆる船を担いで越えるという・・・。朝鮮語のコスが、今度は船を担いでコス・越すというふうに変化するんですね。 地名の古代史・谷川健一」この中で谷川は“クシ・串”がコスに変ったといっている。長い岬の海岸を“串”と呼び、クジラはクシ+ラで盛り上がった長い岬のことだともいう。その表現から鯨の名が生まれたとも。

「対馬の・・地形が糸鋸のようになりながら、ちぎれてそれぞれが島になってしまうことがない。このためむかし朝鮮からきた船は対馬の中どころで北西へ口をあけている浅芽湾へ入るが、南東海岸の厳原の港に入るにはよほど迂回しなければならない。---どこか、細いくびれを掘り割ってしまえば、という考えは、ふるくからあったであろう。・・対馬には大船越、小船越がある。・・陸地のほうは大船越のほうが、小船越より狭隘で、いわば頸部がほそい。このため・・1672年に開墾してしまった。 司馬遼太郎・街道を行く13 壱岐対馬の道」
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神武天皇が宮崎から北上して佐田岬まで来たとき、そこで出会った漁師の椎根津彦の案内をうけて、海峡をようやくに通りぬけられた。その佐田岬の付け根の三机を開削する計画が江戸時代にあった。工事は結局開削できなかった。これを始めた宇和島のお殿様の城主富田を揶揄して、三机を馬鹿富田と地名として呼ばれる。三机には宇佐八幡宮が勧請された三机八幡が鎮座する土地でもある。岬の横断開削事業は誰しも考える。
が、ここ安芸の国の船越は開削を思いつくような場所には見えないのだが。平清盛の音戸の開削を思うと、清盛のここ堀越開削を思うと。ここが伝承の船越だったのだろうか。と気持ちが迷う。

岬を開削しようと考え始めるのは、そこに低くなった鞍部があってこそ、だろう。谷川の語る古代朝鮮語のクシがコシで船と結びつくことで船・串が船越になったとしたら、そのクシを強調する“クシ・フル”は古語で“奇シフル・パワーはあふれる”を連想させる。岬に鞍部・キレットがあってそこを船を引きずって、また担いで通り過ごせる場所は、とても“奇跡な場所”と思われた。そこに神は存在する、と古代人は思ったにちがいない。そう思うとポリナシアやハワイのビーチが浮かんでくる、のだ。クシは団子を刺した隙間のある文字「串」になる。

対馬の小船越に阿麻テ留神社という古社がある。「船を越させるというのは、土地の賑わいになる。土地の者がやとわれて船荷をおろし、はこび、さらに船をひっぱって山路を越すため、小船越などはその労働で衣食しているものが多かった。 司馬遼太郎・街道をゆく13」“船クシ”の地形は仕事をもたらす神の所在と、古代思ったのかもしれない。
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九州・糸島半島の西海岸に志摩船越の集落がある。ここに綿積神社というワダツミ・海神の神社と引津神社という、船引きの港を思い起こさせる神社が鎮座する。そのそばに若宮神社(桜宮神社)がある。その祭神は苔牟須売・コミムスメ神で、君が代の“こけをムスウマァデ”の神だという説がある(古田武彦・君が代の源流)。君が代は海人たちの歌であったという説だ。ここあたりは3世紀に記述された魏志倭人伝の記載されたイト国だという。船越の地名は古い。
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忠臣蔵の季節になった。播磨の赤穂の東の海岸、坂越を思い出した。京都・太秦の弥勒菩薩半伽思惟像の広隆寺開山の秦河勝が蘇我氏におわれ、うつぼ舟にのり漂って着岸した場所の大避神社の祭神になっている。能の発祥の地だといわれる。
坂越はサゴシとよばれ、ただのなだらかな坂だった。人生で坂を越えることは、困難な、悲しい、そんなことで、歓喜を坂を越すとは言わない。大避は信州・諏訪湖が避けて天竜川が流れ出し、その地を佐久と呼んだ“サク”に思える。坂越をせずに坂を避けさせて、通り抜けさせる神力を祈る場所なのだろうか。「コシ」は神がおわす場所なのかもしれない。

向洋の船越であったが、清盛によって開削・避けさされた堀越の神の鎮座はあるのか?
そこには、延命神社と今宮神社が鎮座する。どちらも新しい。
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いろいろ妄想したけど・・・ 。堀越に海人の神がみつからない。
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by forumhiroshima | 2014-12-04 21:17


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