こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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原出雲国びとの慟哭をきく

昭和59年から60年、出雲・神庭荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見され、その解明に、いくつかのシンポジウムが開催された。その中に松本清張を主幹とした「古代出雲に王権は存在したか」が開催され、そのレジメがNHKから「銅剣・銅鐸・銅矛と出雲大国の時代」として出版された。シンポではこの青銅器群についての考察が多方面から検討されたのだが、歴史学た考古学の巨峰たちの中に地元の出雲古代史家の速水保孝が参加していた。彼は元島根県図書館長の経歴の人で、古代出雲王国の存在を提唱している郷土古代歴史家だ。


日本の青銅器の材料はどれも中国華北と朝鮮半島からの産出の原材料がまざったもので、青銅の生産は日本では7世紀以降だといわれる。神庭荒神谷の出土青銅の化学的分析でやはり華北の銅で、内一本に半島の銅が使用されていたことが、シンポの後に発表されている。(神庭荒神谷出土青銅器の化学的調査・馬渕、江本等)


シンポジウムで速水は、「中国では銅山があまりなく、いかにわが国がのぞむからといって、原材料をすべて輸出してくれるのは、余りに気前良すぎる。古来、出雲はわが国有数の銅の生産地であり、いまも島根半島の銅山廃坑跡から自然銅の結晶が拾える。・・・」と訴える。

シンポでも神庭荒神谷出土の銅剣は、畿内鋳造センタ-で製作され出雲に持ち込まれたという意見が有力であった。速水は「出雲はせいぜい黒猫ヤマトの銅剣配布の宅急便センターなのか」と発言し会場から万雷の拍手をもらった。そうなのだ!古代史にはエンターテイメントの側面があって、楽しいのだ。


出雲古代の解明が盛んな頃自分も、木の宗山の銅鐸が福田でつくられたのでは?と考えた。というのは三篠川の河畔にも、その北の白木山の北面にも銅山の廃坑跡があって、明治以降の廃坑なんだが、そのあたりをウロウロ走っていた。こんなこと誰も理解してくれないので、話しもできないが、白木山の東の正木から尾根を登って栃原の集落へ尾根越えで道そばに自生のミズバショウを見つけた。このことは誰にも話したくなかったネ。妄想世界探しもいいことある。ここの登りは、谷向うの白木山の南の尾根が徐々に眼下に落ちてきて、栃原のあけっぴろげの農家の軒先をかすめて空が拡大してゆく、森閑とした、登りの実感が良いルートだ。中国山地の山村はどこでもあけっぴろげの縁側が道に開いている。山村の空の具合もいい。海の広い空は湿気でどこか柔らかい感じ、山はキッリと面がたっている。どちらも結構なんです。

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出雲の速水元図書館長は、シンポで銅剣鋳造・製作はスサノオが半島の新羅からの出雲への渡来伝説のように半島からの青銅器工人の渡来である、と口角泡を飛ばす。

このことは、化学的調査で「溶融した湯は一本毎に鋳造され、その順で現地に並べられ、一列90本余りをならべ、次に上に列にとつづき、3列目は原料がつきたため途中で終わっている。原材料は中国製で既存の青銅器のスクラップや鋳造過程の余り屑も使用している。鋳造型をつくった基のモデルも最終の列にいれている」との報告で現地製造が立証されている。

そして、雪国の雪の下の野菜保管倉庫の大根のように埋められている。


出雲・簸川町の築地松の中に息づいている農家の藁屋根が中奥に少し窪んだ弓線で曇りがちの空を区分する景色は、このごろTVで放映される韓国歴史ドラマのセットの農家に、似ている。速水元館長だけでなく、出雲の人々の心情は深くは半島に近いのだろう。


木の宗山の銅鐸が地元産でないことを、出雲・神庭荒神谷の発見の15年後の1999年、同じ鋳型でつくられた銅鐸が佐賀の吉野ヶ里遺跡で発見されたことでやはり九州産だろうと決定された。九州での銅鐸の発見はこれまでの未確認の事例をのぞいて、確実にはこの銅鐸が始めてであるという。ビックな新発見だった。木の宗山の銅鐸は九州から運ばれてきたことになる。だが、原材料は中国産なのである。


出雲の銅剣も佐賀の銅鐸もこれまでの学説では予見できなかった世紀の発見といわれた。元図書館長はシンポの講演に「原出雲国びとの慟哭をきく」との題をつけている。出雲人の心意気なのだろう、か。出雲は神話の国でしかないとしてしまって、古代史の世紀の発見といわれる事態を予見できない、原出雲の存在を否定する学者たちの学説への叛旗とでも思えなくはない。オレは予見できる!!。元館長にエール!!ついでに、古代安芸国福田の工人もきっと賛同・・?


元館長は原材料も出雲地元産出説だが、化学分析で中国産出だとも決定された。だが、インゴットをだれが運んできたのだろうか。

木の宗の銅鐸がつくられたころ(弥生時代中期)の後の弥生後期AC239年、卑弥呼は難升米・ナシメを朝鮮半島の帯方郡にあった中国・魏の役人の仲介で魏の都へ謁見させている。半島に中国の植民地の楽浪郡もつくられ、半島を縦断する交易路が要塞を拠点として造られた。その交易路が卑弥呼の魏の皇帝への拝謁のルートになった。


このあたりの事情は、中公新書に古代の朝鮮半島との流通について書いた岡田英弘の「倭国」から引用。けっこう面白い。

「日本列島に中国の商船が来航するようになって、交易のために山から下りてきた人々や、浦々から集まってきた人々が、商船が到来した河口の船着場に近い、ちょっと小高くなって増水期にも水没の心配のない所に聚落を作る。人々への食料供給のためにすこし離れた山の谷間が開墾されて農場ができる。頭のよくて中国語を話せる住民が出現し、渡来した中国商人との仲介を行いだし、商品を借り内陸へ延びた交通路をたどって行商を始める。行商は物々交換で行われ、入手した商品、例えば毛皮や織物などを運んで船着場へかえる。その間港で待っている商人は、下宿したり、あるいは現地妻をもらって生活する。行商する人々を束ねる首長があらわれ、商人と商権の契約を行い独占化する。小さな都市国家の成立がはじまる」古代の唐人お吉物語があったのか?蝶々婦人?

奈良・正倉院の宝物の搬入ルートもこの様であるのだろうか。

ここで書かれた河口の港とその後背地の農場は中山と温品の弥生時代の遺跡とオーバーラップする。


卑弥呼は銅鐸でなく銅鏡を運んだといわれる。銅鐸は各地で破壊され、また埋められ忘れられた。祭器は銅鏡だけになったようだ。


明治24年、福田の造酒家・光町尽三郎が神のお告げにより木の宗山山中の青銅祭器を発見したといわれる。福田で光町酒店なんぞと、探してみたが見つからなかった。

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by forumhiroshima | 2015-01-28 12:55

中山から中山へ

奥出雲の大呂のたたら製鉄が始まったニュース。一度だけだが、見学させてもらった。忘れられない景色だった。播磨の岩鍋からかんな製鉄の神様が白い鳥にのって出雲の比田の桂の木に舞い降りた。そこから出雲の製鉄が始まったと伝承が伝えられる。大呂はその桂の木から南へ中国山地奥にある。


中山のそば矢賀の中世に石風呂の地名があったという(宝 子丸・中世の風爐)。風爐(イロリ)とも書かれる。鍛冶屋や製鉄の関連をいわれる。たたらの炉から流れ出る溶解した鉄を「湯」といい、炉は呂とも、爐とも書かれる。あったかい湯がたまった釜を風呂という所以だともいう。


中山の地名は大野と地御前の間のごみ焼却場そばに四郎峠の南にもある。西国街道が通過していて、中山の地名に街道が通るケースが多いことといわれることにも一致している。

中山が“山の名”では東区福田にある。福田の福は“吹く”だという。そこに三篠川にむかって開ける谷間から北風が駈け抜ける三田峠がある。古代のたたら場は風の強い場所に設置され、風の方向に炉をむけると、送風作業が楽になる。風が吹けば桶屋がもうかる、よりたたら師が楽できる。風呂の“風がつくこと”はここにつながっているのだろうか。

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古代に伊福部と呼ばれる一族が全国に広がって福の地名を残している、とは谷川健一・青銅の神の足跡で記述している。この福田も伊福部の存在を指摘している。


風の地名か、一族の記憶なのか。


福田の木の宗山の南の尾根、三田峠のそばに二世紀ごろ埋葬された銅鐸、銅剣、銅戈(ドウカ、鉾とも)が明治24年に発掘されている。卑弥呼の時代のものだ。県下では此処以外に銅鐸発掘は世羅西町ほかない。

そしてこの3点のセットは全国でここでしか発掘されてなく、福田の他地域との交流の広さが指摘される。福田の青銅器は他所から、もたらされたと考えられているからだ。

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中山の稲荷神社の東南に「中山貝塚」が発掘されている。縄文・弥生の長い時代に使用されていて、貝塚は貝の廃棄所でなく墓所で再生復活の祈りの場でもあったといわれる。発掘品の中から沖縄の特産の貝を加工した腕輪が見つかっている。お付き合いの広さにおどろく。卑弥呼の時代にここに市場があって、沖縄の歌もきかれたかもしれない。


古代集落の痕跡は温品をぬけて馬木峠へ登る県道のそばの温品川にかかる丸子橋をわったて東の安芸高校のグランド地下にもあって、弥生時代の集落が発掘されている。県道はバスの離合もむつかしい幅で自転車のヒルクライムはバスには追われて、とにかく前進!と集中させてくれる。このルートは古代からの道で、弘法大師伝説をたどってみると、このルートが浮かんでくるという報告があった。後ろから追われるバス路線となっても、長い時間が積み重なって勾配が一定に踏み固められた、どこか人懐っこい道だと思う。そして、中山の貝塚を守った人々のこの道は山上の祭祀場への祈りの道ではなかったか。福田の青銅の祭器がそう思わせる。


ニホの海を渡り到来した海の人は祭祀の山へ向う。すでに到来し山へむかって人生を切り開いた祭祀を司る人々は海へ通ってくる。その道は塩の道、そして祖先たちのレジェンド。それを弘法大師到来の言い伝えが、コースをなぞっている。祖先の伝承が弘法大師に委託される。


県道は高速道路のジャンクションをくぐる。すぐ左手に木の宗山が表れる。左へ深川にぬける三田峠への標識もあって、そこで川ぞいの峠道が向う尾根の右の中腹に目をこらしてほしい。茶色い板が見えそばに岩が見えるだろう。そこが銅鐸の出土地。

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出土地には峠道の右に木の宗山登山口の標識から登山になる。自転車用のビンディングシューズは、やくに立たない。

でも登った。


出土地の岩に坐る。ここが古代の祭礼の場所なのだろうと眼下に広がる福田をみていると、・・いきなり眼下の民家群が消えて、藁屋根の農家が点在する景色にかわった。広い谷間の向うは馬木と呼ばれる牧場で、ひろい草原になって石垣でかこんである。牧から数人の馬上の集団が北へむけて砂煙をあげて駈けぬけていった。かれらは吉爾候部・キニコベの一族で東国から移され、ここに定住した。彼らには製鉄技能があり、開墾の道具作成などで富を蓄積している。彼らは最初は府中・石井城に置かれたというが、・・ふと、後ろに気配を感じた。振り向くとそこに・・。陽だまりの暖かさがこころよくて、ウトウト寝ていました。

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このごろ黄金山への早朝ランニングで、年寄り冷や水で膝をいためてしまっていた。一ヶ月、やっと自転車にのったのだが、のぼりは大変なもんで・・トホ。おつかれでした。

一眠りで、すっかり、すっきり。


近くの黄幡神社へ向った。背景の山の雑木林と区分できるほどの鎮守の木々が茂っている。木々の繁み目指して走ると、そこに鎮座されていた。黄幡神社は南区の大河にもあり、また比治山神社は元は黄幡神社と呼ばれた。大河の神社の祭神に金屋子神が由来にあげられている。たたら製鉄の神だ。

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境内に由来が掲示してある。祭神は泉津道守神・ヨモツノミチモリとも武将守護の八将神とも、と書かれる。金屋子神は鎮座されてないようだ。泉津道守神の神紋は五亡星とされることが多いようだ。ダビテの星、この国では魔よけの印だという。由来も泉津道守神は「悪霊や疫病が村に入らぬように・・」ともある。青銅埋葬地を守るようにも思えた。


黄幡神社が鎮座する木の宗山の東、県道をはさんで中山がそびえている。中山の山頂へむかってある参道の石段から丘にのぼると八幡神社が鎮座している。中山を右回りに伸びる急坂は鍋土峠ととばれ、峠の先は湯坂になる。鍋、湯と伊福部一族との関連を妄想させてくれる。

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by forumhiroshima | 2015-01-26 05:53

中山、茗荷、妙高

山根町から東へ大内越で中山町に入る。住宅地が拡がる町に中山の地名、どうなん?

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備後国国府・府中から神石郡へ北上するルートの甘南備神社あたりが、「茗荷」という地名で道はここで峠に登りだす。ここにはスサノオの到来の伝承があって古い雲州街道だという。この道の左右に神社参道の石段が正面に対峙する二つの大きな神社があった。神社本殿の向きも対峙している。そびえる杉の森がさらに印象深い不思議さを漂わせる。まさに森閑。

この「茗荷」といは「中・ナカ」を「名香・ミョウカ」と読み替えた呼び名で「妙高・ミョウコウ」もおなじ中山の読み方の変換地名だという。

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“茗荷”の地名はけっこう各地にあって、出逢うたびにミョウガな気分(サムイ!)。美作と伯耆の国境にも茗荷峠がある。「三日月の中山」と呼ばれる。いまは廃道古代伯耆街道になっている。中山を茗荷と変換してまで表す信仰の強さ、なのだろうか。“中山”の地名に特別に込められた“なにか?”があるのだろうか。


TVでコメンテーターであったタレントさんに、いつの間にか大学教授の肩書きが加わっていたりするが、TV創成期にタレント大学教授の走りだった慶応の国文学の池田弥三郎というコメントが面白い先生がおられた。その先生が「中山」について「天と地との神の居処の中継ぎの山で平地の小高い山。そこに神が降臨する。 かむなび考」と書いているのを見つけた。その中継ぎとは。


“中山”をとりあげたよき知られた歌がある。西行法師の“年たけてまた越ゆべしと思いきやいのちなりけり小夜の中山”と年老いて越える静岡県掛川、大井川の西の小夜の中山峠での歌。ここは古代東海道のルートになっている。この歌を本歌取りして芭蕉は“中山や越路も月はまた命”がある。この越路は越える道ではなく、越中・妙高市!の“越の中山”だとも、福井の越の中山ともいう。


歌は中山と呼ばれる“峠”を越すのでなく、ここは特別であるのだよ!と区分された“中山”、越の国の“越の中山”の月で、それは「神が降臨する中継地、中山」なのだろうか。旅の巨人たちが、“中山”峠を越えることに、強い感慨をもったことは伝わってくるのだが、巨人達の感傷をわきあげる“訳”はなにだろう。

月夜の越路を詠んだのは芭蕉だが、雪の越路を芸名にしたのはコーチャン・越路吹雪、新潟に赴任していたお父さんの命名だとウイキは書いている。この“越路”は、中山なのだろう。愛の賛歌を歌うコーチャンには神がたしかに降臨していた。「中山」は“歌”でもあるようだ。


だが、彼ら、旅人たちの“中山”を歌うことで現す心情をさがすのでなく、彼らを歌わせる土地神を探したい。大地が人を動かすのだ、と人のフィジカルとのかかわりを考える。


これまで自転車で走った中山を思い出してみる。「真金ふく吉備の中山帯にせる細谷川のおとのさやけさ」古今集の歌がある。905年に編集されている。吉備の中山は一周8kmほど、標高170mの独立峰。麓の東に備前国一ノ宮の吉備津神社、西の麓に備中国一ノ宮の吉備津彦神社が鎮座し山頂から両方の神社に流れがあって、両方とも細谷川とよばれる。山を帯に結んでいると表される所以。

古代に吉備国がまず三分割され備前、備中、備後に、のちに美作に四分割されている。吉備の中山という甘南備があって、分割で東西からの遥拝所ができたのだろう、とは吉備津神社神主の藤井駿さんの話がある。

中山の神は強力な神力があって、真金、つまり金属精錬の神ともいわれる。神社近くに「赤銅・アカガネ」という地名があった(谷川健一)。

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岡山県の北部、美作国津山に一ノ宮中山神社がある。ここは峠ではない。「美作が備前から分かれたとき、強い国魂の信仰から分霊したのではないか。今は鏡作りの神・イシゴリドメを祀っている。谷川」ここで中山の神は神社におしこめられる。中山神社には鵜羽川が流れていて、鵜羽はウバで神の乳母をいう。若宮であったことで、この名がのこっているのでは。

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古代、金属精錬の場所が播磨から備前、そして美作と移り、備後では米納税を止めて鉄の納税を願い出た。砂鉄の枯渇と森の伐採により山地が西へ動いたのではといわれる。備後の東城町と庄原の間に中山峠がある。麓に鎮座するのは蘇羅比古神社で祭神は海彦、山彦の山彦といわれる。でかい杉のあるお宮で中山神社とは関係ないか。あの兄・海彦のハリが金属製品だとしたら。ここから鹿児島へ供給されていたりして、ナンテ。イザナミの墓所がすぐ北の比婆山にあるのだから、ナンテ。


広島市の中山の神はとなると、峠南にある小山に中山稲荷神社がある。幾つかの神社が明治に集められて合祀され、中山稲荷神社とされたと由来書が境内にあった。のち大正14年に合祀はいやだといわれる神様がでてきて、元の鎮座地に復活した神社がそば西にある大原神社だとやはり由来にある。そばで僧侶の墓の管理をされている二宮さんからは稲荷神社もそばの寺院の近くにあって、そこから今の境内に移っているとも聞いた。さて中山神は幾つかのうちの、どの柱なのか。

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中山の書き換えに“茗荷”は仏教では、両手を合わせた合掌の形だというらしい。1979年に発行された「茗荷村見聞記・田村一二」という本があって、障害者も健常者も同じ家で生活する村を紹介され、1982年に映画化された。その村の茗荷の意味を見聞記で知ったことがあった。とてもやさしい言葉だと記憶にあって、地名で見かけると映画の茗荷村の風景をさがしていた。戦国期に中山でなくなった僧侶の墓所とこの茗荷とが重なった。

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この墓の主を調べてみていて、広島別院の安芸教区の機関紙「見真」にみつけた。甲斐武田の一族で天台宗の僧侶であった正信、俗名原田政信が、甲斐「中山」からここに来、庵をむすんだ。のち1459年武田城の麓の龍原に寺院を建立。それが仏護寺とよばれ、当初は天台宗であったが、二世円誓のとき転宗、浄土真宗となった。この転宗にエピソードがある。「1498年円誓が読経中に黒衣の老僧が現れ、交流の念珠を交換して分れた。後日京都の寺院にある親鸞聖人の木像に円誓が老僧と交換した念珠を持っているを見つけて、転宗した」マジカルは奇跡談話だ。仏護寺は1541年に銀山城落城とともに炎上、消失。三世の超順が発祥の地中山に撤退。1459年は大内氏の銀山城の攻撃があり、武田氏も落ち着いた状況ではないようにおもえる時期なのだが。


甲斐の中山は武田信玄の有力な金山で、武田藩は金貨(金の粒)を流通させていた。その金の産出鉱山は二十をこえるといわれ、信玄時代には日本一の金の産出量であったともいわれる。安芸・武田氏の居城が当初金山城とよばれていたのも、甲斐の記憶だろうか。その金山採掘は金山衆とよばれた武田家とは別個の独立した集団だった。武田信玄とは、金の採掘量の半々の分配だったという。そのころ、中国からの知識はすべて仏典によっていたのだから、金山衆は僧侶で山師や医師もいただろう。だから、転宗することはストレスにはならなかったのではないだろうか。彼らは戦いでは武田家に雇用された傭兵の記録もある。

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どうもどこも“中山”には金属精錬がつきまとう。


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by forumhiroshima | 2015-01-19 01:14

神々の眷族たち

尾長天神の参道石段の日差しが翳ってきた。まだ中華屋さんの開店には時間がありそうだ。

石段のしたに広がる光町が古川とよばれた猿侯川の広い流れに沈んでいるように思える。

自転車で走っていると、とても広い視野が前面に広がっているのだが、動き出すと路面にしか焦点があわない。流れる景色などの観賞なぞできはしない。止めると視野はひろがるが、すぐには焦点をあわせられない。止まった景色をフォーカスするまで、これまで感じた、ながれる不確かな景色が眼前にひろがっている。景色は重層している。景色がにじんでいる。

止まっていても、不確かな景色しかつかめない時間が多い。

この上流の土石流災害があった「八木」は、礫地を意味し農耕の人たちにとってはただの荒地のことで、だから海人たちは居留地として使った。「八木蛇落地悪谷」の地名が過去にあったという報道をみた。悪谷の地名は各地にある。利用しにくい場所ほどの意味だときいている。やはりあの日、土石流のあった可部・三入は三つの川(太田川・三篠川・根の谷川)が入る場所の地名で、水害地帯をしめすという見解もみられる。だが、災害のあとの地名解析は後つけで、あやしい。が、それでも地名はもともとその土地を表すものでもあるから、過去の災害の記憶であることを強く印象つける。

勾配を登り下りしてきた自転車の走行は、フォーカスの不確かな景色の中で、ひろく土地をとらえる地名に感応やすいのだ。

八木には広島西縁断層が走っているし、断層をおしつける水圧をもつ高瀬貯水池ができているのだから、科学的には危険地帯とされていたのではないだろうか。地名分析なぞ古過ぎ、な騒ぎです。地名、それは自力でヘタヘタと走る人のたのしい妄想のエネルギーです。

「尾長」でなく、「長尾」の地名があった伝承がある。

古代山陽道が府中・国府をぬけて、榎川の上流の呼び名の御衣尾川あたりを抜けるあたりに「長尾」という幅1町ほどの平地が表からかくれるようにあった。そこは「へっか城」と呼ばれて、里人は「“平家”が“へっか”に変った。そこは源平の戦いののち、平家の落人約60名が身を隠してひそんでいた場所だ」という。彼らは一時期、府中の平家と名乗っていた田代氏をたよってやってきた。しかし平家追討の令がだされ追討史が迫る事態に田代氏は保護を放棄、「事之れ迄なりと隠れる平家一族を月明かりの夜に乗じて、・・西に逃れしまた。この間数ケ月の平家落人の隠城たりしも、里人はその消息を伝えて平家城とよべり」故に長尾の地名がひっくり返して尾長と呼ばれた?。

猿侯川はカッパの川だ。河童の名は東日本で中四国では猿侯が多いのだそうだ。というより。想像の動物は地名のように、それを使う人々のイメージを持っている。四国では「シバテン」山口では「タキワロ」などの呼び名があるとウイキは書いている。広島では金玉を抜くとか、生き胆をとるとか、教えてもらった。川の淵に引き込むとも。引き抜くのがお得意らしい。

「河童」の呼び名を全国レベルにしたのは柳田國男の「遠野物語」だろう。その「河童」をやはり民俗学者の折口信夫は河童は水の神のとんでもない姿で、水界の富をにぎっているから、河童を駆役できれば、大金持ちになれる、富の元の水を頭の上のお皿にためている。といっている。あまりお金のことだけ考えてると、水中に引き込まれるよ!といっているようだ。

そう考えていると、尾長天満宮の奥にある天神川の細い流れのそばにあった清盛公建立の社跡の石柱を想い出した。猿侯を駆使した彼のお皿は?。

平家物語に平家が瀬戸内海を下関に落ちてゆく場面に厳島神社への復活の祈願の場面が、自分が知るでは限りない。神社の神官は源平終戦後、朝廷に命じられて、海中の没した「天皇の刀」を探す命令をうけている。見つけた!という。

諸行無常の鐘がなる。

日差しが影って寒い!石段を立ち上がった。ふと、中華屋さんでしようと思う注文を考えた。所持金ではたりないよ。中途半端だな。河童のお皿がオレのはこわれているから、な。諸行無常・・・

石段をおりて、ふと「お狐」さんに逢おうかと、西へむかった。

坂の石段のすぐそばの東照宮へむかった。長い参道の石段からは、いま再開発の駅北一帯が一望できる。ここは明治23年に陸軍広島東練兵場と整備され、明治31年の地図に騎兵第五大隊と記入されている。

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司馬さんの“坂雲”の主人公の一人、秋山好古はここに居たかもしれない。古代の伊予の海賊の藤原純友を小野好古が平定した。秋山のお父さんはこの故事によっての命名かもしれない。(だから、なんなん・・でした)

東照宮の参道が南に延びてJRの路線にかかるところを桜馬場とよばれる。江戸時代の地図では参道は猿侯川まで直線にのびている。練兵場は浅野藩の馬場であった。

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東照宮の真後ろの双葉山をのぼった尾根にお稲荷さんがある。

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金光稲荷という。車道から狭い石段が延々と双葉山の尾根まで続いていて、お稲荷さんの祠がそこかしこに点在している。
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この石段の参道に狐火がでるという噂が以前にいわれた。己斐峠の幽霊に合わせて広島都市伝説だといっていた。もうはるか昔。このあたりにマンションはないころのこと。そのころ夜に来たけど、・・。
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ここを思いついたのは、先日TVで鬼平SPで“狐火の勇五郎”を見たことの影響だ。“狐火”だ。大フャンのおまさの恋人の右手を平蔵がぶった切る、あの嫉妬感は不条理で・・・。それともう一つ、お稲荷さん詣での最終地点に、粋なお狐さんの石像があって、再会したいなぁと。

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トップまでけっこうお時間かかります。ここに戦時の高射砲陣地が残っている。向うにお友達の黄金山がすっくり、お世話になってます。眼下の東照宮の参道のラインをさがすと、その真正面に似島の安芸の小冨士です。もしかすると、東照宮の設計者のコスモスラインは・・?これか?

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地図で設計ラインには見当をつけていた。参道のラインに二つの稲荷神社、ひとつは的場の稲生神社、

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そして川岸の秀玉稲荷神社があって、
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この尾根に鎮座する金光稲荷に、狐火を・・おっと灯篭なんぞを点けて、二つの平地の稲荷にも点火した灯篭をおいて、そのラインを合わせる。それが設計ラインだと。

しかし、秀玉稲荷は広島城開城以前にこのあたりにいた川内衆(元武田家水軍)たちの為に毛利輝元が開発領地をつくる祈願の稲荷だと由来がある。予想していた設計ライン思想は、はかなくも崩壊。

的場の地名は土地の開発基本設計ラインのあて先、稲荷はその設計道具の縄張の縄を作業終了後に納めて安全祈願の倉庫だとおもっている。その想いははずれた。ここの的場は文字どうりに馬場での鍛錬と弓道の練習場のセットの記憶であったのだ。

稲荷神社の発生伝承に、山城・京都の草深で京都開発の秦氏一族の伊侶巨秦公・イロコノハタキミが餅を的にして矢を放つと、的の餅が白鳥になった。その白鳥が稲に生まれかわり神になったとある。意味が伝わらない伝承で、なにかありそうだが、それはさておき、弓、矢、的、稲荷の連想で弓道場の守護神に。だからここのイナリは稲生となるのか・・な。

狐はこの稲荷の神の眷族になったことも、解明されていない。いや、そこらは狐につつまれてください、ってこと。


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by forumhiroshima | 2015-01-14 01:10

天神さんに初詣

府中の豆腐屋さんに黄金山麓からゆくにJRをくぐる天神川駅のトンネルを使った。駅前に駅名となった“天神川”の散歩のルートの案内板を見つけた。川は暗渠になっている。源流は長尾天満宮とあった。

小学生の頃には、広島の川は七つであったが、中学生のころに六つに変った。太田川放水路が開削されたとき、山手川が拡がり福島川が埋め立てられて六つに変った。ここの天神川で、広島の川は実は八つであったことになるのかと思ったりする。そして今が七つ。

天満宮神社は地域の境界線に建立されることが多い、とは宮本常一の指摘で、悪霊防御の神様。天を雨雲で覆い、その割れ目から光こぼれる現れる雷の神様で、祭神の左遷された高級官僚の菅原道真の怨念が遮る魂を祀るともいう。雷にクワバ,ラクワバラというのは道真公の住居が京都のいまの御所の南の桑原町にあったからだと、面白い。旱には天を覆い雨を遮る悪霊を祈ることで、遮る力が失せて、雷が雨をともなって降り出す。境界御守の神としてではなく、天空の水の神様であることが、この天神川の源流に鎮座させたのだろうか。今、その霊力を恐れて、埋め立てることなく広島の八つ目の影の川の存在に覆いをかけ、それでもそれを散策する案内板までできるとは・・・。隠れながら現す“カオス・隈”の道真公の威力が現代に利いている、か。

まだ秀吉存命時、毛利の広島城の造営のころ、城が島普請とよばれる埋立地に建設された。そのころの古地図に、双葉山の山麓に「古川」がいまの猿侯川の北側、ちょうどJRの路線付近にそって記載されていた。太田川の二葉里・常盤橋あたりからの分流であるかの様子だ。

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天神川散策の標識では府中大河に天神川河口が大洲・マツダ体育館そばに流れ込み、JR天神川駅からの上流は、路線にそって暗渠で西へ向っている。

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暗渠は路線の下から、このあたりの荒神町の名の元となった三宝大荒神の東で路線を離れ北上している。「慶安の頃 洪水にて神体川上より流れ来たりしを 挙て里庄源ノ征門が境内に置きした 武田家の人 後に来たり 求めれど あたえず ・・・」と荒神の由来の石碑に刻んである。ここにご神体がながれくる川があった。

天神川の暗渠はコンクリートでふたをされて、道路からの区分の車止めが置かれている。暗渠には家々の裏ばかり。さびしい蓋をされた景色、荒涼感も漂う。

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すこしの先でコンンクリートの蓋が消えて、暗渠は車道の下になったようで、判別できない。また案内板があってから双葉山への登りを示している。すぐに尾長天満宮の鳥居と石段が坂の上に現れる。

石段の上に随身門・ズイシンモンがドッシリ鎮座している。笹と松とで正月の飾りをまとった鳥居のそばに坐って、すこしだけの登りのある、はば広い坂を眺める。

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この小さな距離の坂が、なぜか好き!だ。坂のそばにとてもおいしいマーボー豆腐やフワフワの餃子の中華のお店があって、たま、だけどくる。マンションなどのビルが林立するこのあたりの街のアーバンな景色だが、とても昔っぽい古風な生活感がどこかにある。ここは夕暮れがいい。

神社の門の横に「・・・当時安芸の守であった平清盛がこの峰にさしかかり、大豪雨と激しい落雷にあい絶体絶命に追いこめられ、そのとき菅原道真に加護を祈ったところ九死に一生を得ました」と由来書き。

広島湾・江の口の海の歴史は、歴史上の著名人の伝承で埋まっている。東征の途中数年を過ごしたという神武天皇、朝鮮半島遠征の帰りに立ち寄った神功皇后、厳島の海戦で勝利し西国の王者となった毛利輝元、その厳島神社社殿造営の平清盛。メジャーなラインアップ。

その清盛が安芸守となったのが29歳のとき、このころすでに厳島神社の造営に着手していたといわれる。菅原道真の大宰府赴任の250年後のこと。

神社境内に入ると、拝殿から祈祷の太鼓が聞こえてくる。正月の参拝客も多い。境内の東に小さな流れがあって、その奥が天神川の水源だとのカンバン。

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山道を登ると枯れかかったほどの水流のそばに、平清盛公・社殿建設の地のちいさな標示があって、石柱があった。
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清盛は厳島神社造営、京都・東山千一体観音三十三間堂、神戸・福原の港湾と市街地建設、熊野本宮造営等の大建築家で巨大投資家だ。それにしては、ここの社殿は淋しい、です。

音戸開削、向洋・堀越開削と水路の整備も清盛の伝承。その中でこの尾長に清盛伝説とは、いかな訳が?

鳥居のそばにすわっている。ゆっくりの時間が心地よい。目の前の景色の東の尾根は天神川を遡ったルートの出発点のJR駅へ、尾長山からの尾根が落ち込んでいる。尾根というより高層マンションの林のようだ。そこに大内越と呼ばれる峠があって、九州の北部と山口を領地とした大内氏が安芸へ進出した際に通過したから大内越の伝承からの地名だという。このオオウチは入りくんだ谷のことだと地名研究家はいう。府中・国府を通る古代山陽道が中山で分岐して太田川河口へはいるルートがここにあった。

大内越の尾根の南への、その端に以前岩山があって「岩鼻」と呼ばれていた。この岩鼻の東に府中大河がながれ、西から流れてくる猿侯川が落ち合ってそこに砂洲を仁保の海に伸ばした。いまの大洲町、マツダ体育館がその先っぽに造られている。

この砂洲が成長すると、対岸の府中大河の左岸、東側に砂が堆積し古代山陽道の太田川河口への分岐が川を渡るルートに変わりだす。ここに橋がわたされ、いま土橋の地名でのこり、旧府中市街へ向っていたルートが岩鼻へ、府中大通りという官道の名で直線にかわったと思われる。古代山陽道は西国街道と名を換え、広島城下へ引き込まれた。毛利氏のあと福島氏の時代のこと。温品、中山という古代の船舶碇泊地は泥の湿地になり、いまはJRの車両基地となっている。

平清盛が、尾長天神を訪ねていることがあったとしたら。そんな妄想をもつのは、この坂の下辺りが太宰原とよばれていたからだ。平清盛は41歳ごろに大宰府の長官に就任している。

清盛のお父さんの忠盛は白河法皇の側近であって、法皇の愛人の懐妊した祇園の女御を娶り清盛を生んだ(平家物語)といわれて、清盛は法皇の子になるという伝承がある。先般の大河ドラマでご承知だろう。忠盛は瀬戸内海を地盤とし、朝廷から海賊鎮撫の役目を利用して海上商業の利権もにぎっていた。さらに中国・宋の商人との取引のために九州・大宰府の承認を得ず、許可書類を偽造して大宰府長官から訴えられている。その大宰府の許認可の権利を清盛は握ったことになる。巨大プロジェクトの資金はいくらでも生み出せそうだ。

海外渡航の外洋船が日本にはなかった。宋との海外貿易は中国本土や朝鮮半島に拠点を置く中国人が行うのだが、国内への渡来の許可や航路の通行については大宰府がおこなっている。また九州地域すべての納税物はいったん大宰府に集められ、そこから門司で指示されて都へ船で運搬された。門司は指示する関門だった。たとえ日向・宮崎での作物も大宰府へいったん送られた。その官の資材・物資にかかわる各地の作業所に勧請されたのが天満宮ではないか?。だから、ここに太宰原の地名があった、のでは?。古代山陽道にも府中大河の奥の船溜りにも近い。

大宰府から門司をとおり瀬戸内海の北岸を航行するルートが官の物資の正規指定運搬ルートで、だからそこに海賊が待ちかまえていた。荷物は動かなきゃ、山賊も海賊もあらわれない。その海賊たちを取り締まる役目と朝廷の物資の上前をはねることよりも、もっと巨大な海外貿易の利権を握った清盛は、その下請けの土地、土地の豪族たちには分け前を配ってくれる神様であっただろう。でも、長官が胡散臭くても国府や大宰府の官僚たちは監視し指導したろう。うるさい存在であった。その人たちの目に付かない場所さがしを清盛に指示された地元の豪族はたやすいことで、たとえばこの太宰原は平安時代には、太田川の氾濫の水は引いて現れた水面上にでた土地、海岸段丘とよばれる場所、いまの松原町や荒神町が少しの高地に家屋が建てられ、そこに道やのちに近代には鉄道の路線が設置される。その裏側の水溜りや、河道は洪水ごとに変化する定住しにくい場所だが、表の仁保の海からは隠れている。それが今の光町、太宰原ではなかったか。大宰府の公的な作業場だとされれば地元の官僚たちには手も出せない。

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などと、坂の上の石段で思ったりした。太宰原はのちに埋まったり、埋められたりした湿地帯であったにちがいない。不毛と土地は、明治に陸軍の演習場になって、終戦を迎えている。陽の当たり方で水分を含んだ路面は薄っすらと光を反射する。光町の命名理由をそんな妄想の中で思ったりした。

江の口の海を支配した平清盛の影を、うろうろして、捕まえてみたいものだ。坂の石段から、立ち上がって、ウッシッシ、マーボ豆腐屋へ、。


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by forumhiroshima | 2015-01-11 20:17


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