こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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招来する神々

小瀬川の河口へ下っている。河畔にせまっている尾根の中腹に点在するいくつかの祠がみえる。その位置の高さが小瀬川の荒れる川だといっているように見えた。この川は周防と安芸の国境になる。国境の川には橋は江戸時代架けられなかった。大正に架かられた橋には「栄」と付けられる。栄は境、ダムには弥栄と強調された「サカエ」が使われている。国境は強い印象を残した。
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閉鎖された遊園地跡のような奇妙と印象した、地蔵が並び、小さな門わきに薬師とかかれた寺、それを囲む舞台のような長い石段が現れた。
吉田松陰が歌った「・・かえらぬ関を 打ち越えて」の関は国境の関所。「・・今をかぎりと・・」が私の耳元で繰り返される。続いて「死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語」という寺山修司の「青森県のせむし男」の口上がおっかけて聞こえてきた。この戯曲は、天井桟敷旗揚公演で演じられた。1967年早稲田に行っていた友人から教えられた、その時代の先駆けと後にいわれたが、私はとてもとんでもない印象をもったことを覚えている。だが、”天井桟敷”のネーミングは、メジャーでなく、またアングラでもインディーズでもない、天井の舞台だという。その精神の鮮烈さに心をつらぬかれた。徹底したフジカルな演出だった。「体を使え、書を捨てよ、町へ出よう」のアジテイトに酔っていた。「麻薬中毒重婚浮浪不法所持サイコロ賭博われのブルース」掴まれて激しく揺さぶられるほど激しかった。東京へあこがれた。舞台では賽の河原は東京だった。

この薬師寺は厳島神社創設伝承にある佐伯鞍職の流刑地・紗々羅浜にあったことになるのだろうか。松陰がここにきて「・・かえらぬ関を 打ち越えて」と咏む心情を引き出したのは、この「境」を「栄」とすり替える場所、故国と他国の境、生と死の境。
また対岸へ渡れば、他国へ罪人は逃げられるアジール。土地も川の氾濫で常に再生される。人間の秩序は常に自然の秩序に跪く。支配者には安定はゆるされない。その自由さが人々を集め、市が開かれ、都市が砂州の上に形成されはじめる。神業が大地を海に形成する。聖なる場所、そして「麻薬中毒重婚浮浪・・」。

「都市の出来る場所は無所有の自然、聖なる世界と、人間の生活可能な場所、世俗の世界とのちょうど接点にあたる場所なのです。河原、中州は川と海の接点、浦、浜は海との接点です。山の根や境も同じ意味をもっています。そういう場所は、聖なる場所、神仏のちからの及ぶ場であると、人々は見ていたようで、おのずと人間の住む住居の集まっている集落とは、人々の捉え方がかなり違っていたのです。・・そこは”道々の者”とよばれた人々が行き来していたわけです。武士道という言葉がありますけど、これは”兵の道”からきた言葉です。もともと兵も一種の芸能者(剣・槍・弓使い)だったので、それなりの”道”があり、手工業者も大工も博徒にも、それぞれに”道”をもっていました。この”道々の者”には呪術的な宗教民(たとえば山伏や陰陽師ら)、芸能民を含んで、この人々が市に集まってきます。都市としての概形が現れてきたのです。 網野善彦」。道々の人は”道の人”、道を移動して生活している人、自転車でその道を走っているってことだ。

「急流の川は河川敷―河原をつくります。そういう場所が川の神の支配地たる聖なる場所と思われ、人間世界との接点と考えられています。そういう場所には住居のある集落とは異なるいろいろな機能が与えられており、ある場合にはそこが墓所となります。
墓所に市がたちます。寺社にも市がたちます。市は物を交換する場所ですが、贈り物のような日常的な交換・やりとりは、気持ちの交換の側面があって、人々の結びつきは密接になります。それが、神仏の支配する場所では、世俗世界から距離をおく、人と人との関係は結びつかない物と物の交換ができる。交易は心の値踏みではなく、物のただただ交換ができる。世俗世界から、物や人が切れるという状態―「無縁」、そういう状態に物や人がなった場合に初めて、物の商品としての交換が可能になる。奴隷とか浮浪農民とか言われる人が、寺社にはいることで自由になれる。その人々は神人や僧兵といわれる。
人の力の及ばぬ自然、神仏の世界と世俗の世界との境には墓が設定されるし、宿もできる。さらにそこには関所が設けられることが多いのです。 網野善彦」

木野川とも小瀬川ともよばれた川は河口に氾濫原を拡げた。左岸の浜の集落の大竹、右岸の和木とこの浜の利用の権利でながく争いがあったという。地形が動く河口の砂州と、国境であることとが、争いを複雑にしたのだろう。死者もでる騒動だったという。和木が大竹の“脇”と認識されていたなら、その差別意識は地名にも現れていたことになる。そうでは仲良くなれない。

昭和43年に行政判断によって川の名称は右岸河口の集落の名をもって決める、とされたが、そのころでも河口は小瀬あたりと認識されていたことになる。18世紀初頭でもいまの大竹は波をかぶっていた。
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佐伯鞍職が厳島の神を招請、鎮座させた推古天皇の時代、古墳時代末期といわれるころで、聖徳太子が斑鳩の里の法隆寺から馬で飛鳥の里へ通勤していた時代。ここはどんな景色だったのだろうか。

薬師寺の境内から隣の神社へ通路がある。通路は神社の境内を横切る。寺と神社の通路
ではなく道に思える。それは境内をぬけて、路地となって遠くの海へと伸びていっている。車道から鳥居下の石段で、くだって入ることが、車道が堤防であること。やはり通路は古い参拝道だと思う。鳥居下そばに、女神が鎮座してこちらを見ていた。美人です。
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路地から入る一段上の境内に二つの祠と幹に洞穴のある古い楠、しめ縄が巻かれる。二つの祠は大きさも違い、パラレルには並んでいない。その雑然さが、ここの、昔の賑わいと喧騒の熱気を伝えるようにおもったが、どうなん、かな。
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祠に一つは疫神社・ヤクジンジャ。港には多い。防疫が期待される。祭神はスイサノオといわれる。隣の大治社、オオジとフリガナされた由来がかかげてある。祭神はタゴリヒメとあった。宗像三女神の長女、次女は厳島神社で、三女は大瀧神社に祀られる。大瀧神社はJRおおたけ駅近くの丘にある。
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大治社の横から石段で一つ上へ道が見えた。石垣でかこまれた平地に古木の桜が枝を拡げ、自然石の墓標らしき石が苔むしている。「史跡 所塚  この塚は推古天皇の御代、所翁の形代を納めたところといわれる。所翁は佐伯鞍職で、もと大宮人(都人)であった。厳島明神御鎮座のみぎりより神職を務めており、子孫は代々当地より厳島へ通って社務を勤めていたが慶長年間に所左衛門の長男久太郎神職をもって厳島に居住した。その後家本はやはり厳島づきで当社神主並びに氏神守護を務めていた。この塚は推古桜の木(推古天皇の御代に植えられた)のそばにあったことから別名桜塚とも言われている。 大竹市教育委員会」
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神社境内から海へ向かう路地は尾根から流れてきた小川で行止まる。この道を通って二度の転座で大瀧神社へ移されたのだろう。大瀧は大竹、大竹の鎮守となっている。大瀧神社の神主家は所家だという。
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所翁が佐伯鞍職と明確にされているようだ。佐伯が所と呼ばれた訳の資料は見つけられなかった。5世紀後半の話とすれば、と、白川静・常用字解をひっぱりだす。漢字は亀甲占いの鍵、古代の形象文字(漢字)を読み取ること。

その字解いわく、「所」は戸と斤との組み合わせ。戸は肩開きの神棚の戸。両開きでは門。その戸を斤・手斧でつくることを所という。所は神の所在をいう。聖なる所だ。用例に、所見・みるところ、所存・心に思うところ、所得・得るもの、とあった。この用例から、所得を考えてみた。佐伯鞍職は得るもの、大金持ちって所ではどうか。

北九州から宗像の三人女神を招聘するってことをした佐伯鞍敷の子孫と平清盛とで、厳島を内海屈指の都会とした。
古代支配者は都市を造ることから権力を把握してきた。「平清盛は日本史上の権力者として最初にあらわれる商業感覚のもちぬしで、対中国貿易を考え、港のある場所こそ首都であらねばならぬとおもった。 司馬遼太郎。歴史を紀行する」
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by forumhiroshima | 2015-02-24 13:58

所の翁

厳島神社と烏の関係は、三翁、でも翁の一柱の平清盛は清盛神社に新しく祀られて、のこった内侍(神社の巫女)は寂しかろう。岩木の翁と所の翁の二翁になっている。岩木の翁は速谷神社本殿脇に祠を設けられ、鎮座はそばの権現山山頂にある。(速谷神社広報より)

「神話・伝承の空間はボロを着ているといわれる。つまり単一性や連続性もなく、それは穴だらけなわけで、非ユークリッド的空間と呼んでもいい。 西郷信綱・古代人と死」
「幻想を外在する物で保証していく想像の往路は、外在する物づくりで、逆に想像の伝承性を確立させる復路を開いている。益田勝実・秘儀の島」
えらく難しい話を引用したのだが、たとえば毎年更新されるNHKの大河ドラマは舞台の場所が探され、由来が掲げられ、時には資料センターなどもつくられる。古事記で語られる神話すべてが、どこかの場所に、時には複数の場所に再生され実現される。速谷神社本殿脇の岩木神社は、江戸時代にさかのぼる伝承の再生なのだ。この国では、神話は常に再生されている。

HPで“厳島神社の祭神伝承”を発見。
「七つの美声で鳴く鹿がいるとの評判がたち、天皇が「誰か、あの鹿を捕らえて見せてくれないか」と仰せになりました。宮廷警固の役人であった佐伯鞍職が、この役を買って出ました。鹿は素早く、なかなか捕らえられません。そこで鞍職は「見たいとの仰せなのだから、生きたままでなくても良いのではないか」と考え、弓矢で射て捕らえました。この行動を、妬みもあってか、公卿たちは、「この鹿は黄金の鹿で、神の使いである。重罪にすべきだ」と申し上げ、天皇も鞍職を重罪人として、安芸国の沙々羅浜(広島県大竹市)に流しました。
 
 それから2ヶ月あまり経った頃、黒松島(厳島)の西方より、紅の帆を張った船が3人の姫を乗せてやってきました。鞍職は、姫から、「我々は元々西国にいたが、思うことあって遥るばるやって来た。この地に住もうと思う故、これより我が住むべき適地に案内してくれ」と頼まれたので、黒松島(厳島)の七浦をめぐって案内したところ、三笠の浜に来たとき「あらうつくし」といわれた。」
 
 鞍職は、姫から本殿を造営し、自分を厳島大神として祭るようにいわれましたが、重罪人である上、朝廷に申し上げて許可をもらうためには、相当の理由、霊験などがないと不可能である事を述べました。
姫は、「汝が宮廷に奏上申し上げる時刻、宮廷の艮の空に客星の奇妙な光が出現し、宮廷の公卿たちを驚かすであろう。その時多くの烏が集まり、宮廷の榊(さかき)の枝をくわえるであろう。その事を証拠とするよう約束して、奏上せよ」といわれ、鞍職はこのことを天皇にに奏上しました。
その時、まさに姫の言ったとおりのことが起こり、天皇は感激せられ正しい神託と判断されました。この事で、この地方の郡名が佐伯郡と定められ、鞍職は厳島神社の神主に命ぜられました。(HP厳島神社と御祭神より)

大竹市元町に「所の翁」の伝承のある“桜塚”がある。そこが佐伯鞍職の流罪地の沙々羅浜になろうか。そこへ西国街道を走る。再生された伝承の地にその主人公たちの移動した道筋
を自分の身体を使って走ることは、非ユークリッドな伝承を実感できる抜け目ない手段なのだ。

広島から山口との境までの街道には”山坂五ヶ所”といわれる山中の難所がある。井口の自動車学校の南にある小山、宮内から大野へぬける四郎峠、大野の南の四十八坂、玖波のトンエルの上をぬける馬ためし峠、そして小方から高速道路下へ西に向かって入る苦の坂。四郎峠は車道に拡張されているが、その他は踏み跡で残っている。西国街道は江戸時代の慶長12年(1607)の定められた道幅2間約3.9mが山坂五ヶ所では消えてしまっている。西国街道のコースガイドが信じられなくなるほどの山道になっている。そして自転車はご主人様に昇格し、我が肩に担がれることになる。

小方の2号線の旧道の一つ西の路地のお寺横を入るといきなり神社の石段の参道にでる。密かに物陰にたたずんでいる。石段を登ると正面に宮島が現れる。「厳神社」とあった。”厳島”を連想した。安芸・佐伯・小方は豊後・大分の安岐、佐伯、緒方の地名を連想してしまう。烏のマジックが効いている、ようだ。幻想を外在する物・ここでは地名、で保証していく想像の中に引き込まれる。
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小方の西国街道も旧2号線に吸収され西へ向かうルートも山路ではないが、道路拡張工事で消えようとしている。それでも小さな祠が残されている。
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ルートは高速道路脇につくられた側道から山道にはいることになるが、そこにパイプを組み上げた階段が現れた。ここから”苦の坂”。階段には土砂くずれで通行禁止のカンバン。側道が出来るずっと以前にこの坂をチャレンジしたのだが、側道がもう坂のトップあたりまで連れてくれている。道には崖などは、たしかなかった。侵入。
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旧道愛好家で人気の郵便マークのついたコンクリートの小屋が、健在だったのは嬉しかった。土砂くずれも想像どおり、行政の安全策からの禁止でしかない。通行は自己責任なのだ。でも事故ると、行政の責任問題などの騒ぎがおきかねない。迷惑かけられないが、この程度なら、”禁止”は不安感をもつ、こちらに迷惑ともいえるかも。だが、なにかあると、マスコミはうるさいからね。気をつけなくては。
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坂が終わって小瀬川河畔の県道に出る場所の右に小さな神社への参道があらわれる。神社はチキリ池神社とよばれ、チキリは機織りの道具。神社の由来書がある。「推古天皇の御世、市杵
島姫命が厳島へむけて、九州筑紫からはるばると二歳の嬰児をつれて中国路へのぼってこられ、ここにこられたとき、長旅の疲れから、苦しいからと、それまで大切にもってきた”金のチキリ”をそばの池に投げ込まれた。それゆえこの坂を苦の坂とよんだ。後にその池を埋め立て、社を建立しチキリ神社と名付けた。いつのころからか、社の石垣の穴から厳島神社の管絃祭の夜に,汐水が湧き出る」
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小瀬川沿いに下流へ向かうと、両国橋が工事中だった。小瀬川は安芸と周防との国境になったのは奈良時代だという。山口県側の小瀬に吉田松陰の歌碑がある。揮毫は岸信介。革新も保守も山口県。なにかがなにかにとりこまれる。「夢路にもかえらぬ関を打ち越えて 今をかぎりと渡る小瀬川」
松陰は唐丸籠で苦の坂を越え江戸へ送られている。カゴメの童謡、鶴も亀もすっべった。目による公開処刑の道。苦の坂、チキリ神社と松陰神社。なにかがなにかにとりこまれる。
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松陰は小瀬川と咏むが、広島藩は木野川とよんでいた。昭和43年に川の名称を河口の右岸
の地名とする行政上の原則が決定されてしまった。大竹側の集落は木野なのだ。沢山の地元発信の川の名称が失われた。
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木野の後背の尾根にりっぱな厳島神社が鎮座している。木野の路地は静寂に沈んでいる。目的の大竹、元町はまだ先になるのに、厳島神社がらみがあらわれる。この先になにか期待がふくらむ。
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by forumhiroshima | 2015-02-21 21:22

「佐伯」ということころ

広島から西へ向かう西国街道。海岸沿いに進んでいた街道は廿日市で明石峠から流れ出る御手洗川にそって峠へ向けて直角に方向を変える。その右手、宮園団地の高台の下に巨木が幾本も遠望できる境内の山王神社がある。
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南斜面のこざっぱりとした境内の巨木の根元にしめ縄が結ばれた岩がある。”神烏岩”と由来が標識にしてある。境内の神社由緒書に「古来厳島神社兼帯の一社・・社殿の建築資材など厳島神社から給されて・・神官がきて祭を行った」とある。ここに宮島のカラスの足跡。
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1km北の速谷神社境内をカラス探してウロウロしてきた。明治12年に新政府は各地の神社から由来社伝、祭神、宮司等の調査をおこない「神社明細書」をのこしている。速谷神社からの報告に、祭神を五烏神・ゴガラスとし、厳島神社よりも古くからこの地にあり、厳島の神が鎮座するとき、烏となって先導したとある。境内の倉庫らしい建物にあった神輿に厳島神社の神紋、境内には菊の御紋。「五カラス」は不在の様子です。
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速谷神社のHPには、神主さんとスタッフのブログがあって、神社のHPではとてもめずらしい。とても身近におもえる。交通安全のお祓いに他県からもこられるという。安全祈願のお祓いは広電御用達でもあるそうだ。

そのブログに、禰宜の櫻井氏は、”祭神は「飽速玉命・アキハヤタマノミコト」で成務天皇(131~190)の時代に「阿岐国造・アキクニノミヤッコ」を賜り・・”とある。出仕とある小野さんのブログも掲載されている。出仕は見習いらしい(ウイキ)。”阿岐国造の同祖が愛媛、山口ほか福島、宮城、佐渡を支配していたことが「国造本紀・9世紀ごろ」に記載され、・・これらがいずれも朝廷を守る最前線の地・・”とかかれます。
櫻井禰宜の別のブログでは”「飽速玉命」は阿岐氏一族の祖先神で、朝廷から国司が派遣される時代になると、郡や里の役人となり、各地に配置され、佐伯郡に配置された阿岐氏一族の佐伯氏が厳島神社の神主を務めた”と述べる。
ややこしい、祭神の由来。どんな神様でも交通安全していただけば!  ですが。

「佐伯」は、十世紀の辞典”和名抄”に”昔、国巣・クズ(ツチクモ)また(ヤツカハギ)という 山の
佐伯、野の佐伯ありき。あまねく土窟・ツチムロを掘り置きて常に穴に居み、人くれば穴にはいりて隠れ、その人さればまた野にでて遊ぶ。狼の性・サガ、フクロウの情・ココロにして、鼠に・ヒソカニうかがい、かすめて盗みて・・。山の佐伯、野の佐伯、自ら賊の長となり、徒衆・トモガラを率いて、国中をよこしまに行き、おおいにかすめ、殺しき”など記載される。まるでISIS。
ツチグモは竪穴住居を住居としていた弥生人たち・先住民を渡来してきた人々の印象なのだろう。この人々を蝦夷・エミシとも呼んだ。

日本書紀に「日本武尊・ヤマトタケルが伊勢神宮にたてまつった蝦夷たちが昼となく夜となく騒ぎ立てた。そこで大和の三輪山のふもとに移したが、三輪山の木を切り、里人をおびやかすなどの手におえない行為があったので、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に移した。」日本武尊は櫻井禰宜のブログにあった阿岐国造を付与した成務天皇の兄にあたる。「仁徳38年の条に猪名県(兵庫・尼崎)の佐伯部を安芸の沼田・ヌタに移したとある。いまの竹原付近とみられる。さらに佐伯部がさらに西にうつされつくられたものが佐伯郡であろうと”大日本地名辞典 吉田東伍”にある。 佐伯国造はヤマト朝廷の側の人間と蝦夷の豪族との混血の系譜のものが国造に任ぜられた可能性があると・・  谷川健一 白鳥伝説”

速谷神社の創建伝承に佐伯氏は阿岐氏一族でその末裔が厳島神社の神主をつとめたとある。

宮島・厳島神社の創建伝承(広島県のむかし話より)
安芸国を管理していた佐伯鞍職・サエキノクラモトが大野瀬戸で釣りをしていて、西から紅の帆をあげた船が市杵島姫・イチキシマヒメをのせてやってきて、この島、厳島に御殿をたてるといった。そこで鞍職は建立許可をもらいに都へたつことにした。姫は「都の空に不思議な星が現れ、ササの枝をくわえたカラスが帝の御殿に入るであろう。それが証・アカシになろう」といい、予言どおりにカラスが現れた。それで帝は許可した。島に帰着すると、弥山からカラスが舞い降り建立場所を指し示した。そのカラスを神鴉とよぶ

厳島神社本殿の東に三翁社がある。清盛が琵琶湖湖畔、大津の日吉神社から勧請したと伝えられる。三王社であった。廿日市の宮内山王社のカラスを思い出してほしい。厳島・山王社は三翁社と変わり、中央に所翁、右の左殿に岩木翁、左の右殿に徳寿内侍、竹林内侍(厳島神社の巫女)。祭神はこれ以外にも挙げられる。これまでたくさん加祭されてきたという。平清盛も祀られていたが、別けられ本殿西の清盛神社を創建しそこに祀られている。府中町にも三王社が鎮座している。
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翁は歳月をくぐった神を表し、翁、媼は能などで演じられる。中央の所翁は佐伯鞍職のことで、岩木翁は市杵島姫が鎮座したとき、五烏が廿日市・上平良、速谷神社所在に現れ、岩に留まり、この烏を岩木翁が祀ったという。

速谷神社と烏の関係がやっと現れた。速谷神社の境内のそば右に巨木にだかれて岩木神社の祠が鎮座している。速谷神社は岩木神社を鎮座以前からの土地神とされている。五烏伝承は岩木翁に関わることであるとされているようだ。
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平安時代の「延喜式」神名帳には”安芸国一座”とあるように、厳島神社の格より上であった。このプライドはおおきなモチベーションをもっているだろう。日々、神と対面されている生活を支えている信仰は伝承では測れないのだ。

もう一つの翁の所翁は、どのような神なのか。佐伯杵職には、大竹の小瀬川のそばが住居だったという。さぁて。

速谷神社HPのブログで速谷神社の位置を厳島神社の真北だろうとあって、地図でやってみた。この作業は得意です。残念でしたが、真北は地御前神社になる。管絃祭で御座船が向かう社。ふと大頭神社の位置を調べると、真西になる。これって、どうなん!
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三翁神社の隣の荒胡子神社がとてもきれいになった。宮本常一はこのエビスが瀬戸内で一番古いエビスだといっている。宮島の賑わいはこの神様の鎮座によるのか、な。
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by forumhiroshima | 2015-02-19 22:12

烏は「ガァ」と啼く

”かごめかごめ”で思い出したことがある。奈良盆地の東、笠置山地の柳生そばを走っていたとき、農家の庭に高々と竿の上にザルがあげてあった。おかしな乾し方だと、通り過ぎた。奈良では集落の境界におおきな、しめ縄のような飾りがつるしてある。ここらはこうなのだから、このザルの意味に気づけば写真でもとっておいただろうが。その反省はこの写真を見たときはじまった。残念!今も悔しい。
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写真を掲載していた本に、ザルは出来るだけ目のつまったもので、一つ目妖怪退散おおまじないだとある。「目」が怖い。”かご目”を掲げて退散を願うことらしい。箱では目がない。魑魅魍魎の目力にはカゴ目を詰めることで撃退できる、のだろう。沖縄、糸満の漁師たちの船・サバニの船首に“目”が書き込まれている。魔除けだという。
「烏」の文字は「鳥」から一つ横棒が抜けている。まっ黒いカラスは黒目が判別できないから、ともいう。カラスの目は怖かった、からだろうか。
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こんな写真がある。同じような、竿の上のおまじないで、木製の鳥が止まっている。それを集落の境界に置く。神社の鳥居の原型だという。朝鮮半島にも中国の南部にも東南アジアあるらしい。
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九州・筑後の珍敷塚・メズラシツカ古墳・6世紀に天鳥船の図が残されている。古墳はあばかれているが、この図の岩だけが珍しいことで残された。だから珍しい塚と呼ばれる。描かれた船の舳先に鳥が止まっている。この塚のそばに鳥船塚がありそこにも図が残っており、描かれた船の前後に鳥が止まっている。鳥船は神の降臨するときの乗り物であるとか、人の魂が冥界にゆく時の乗り物とか言われる。二重丸は目だろうか。
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「考古学者の意見によると三つ足のカラスとヒキガエルとによる日月を表す図文は漢(中国)の図像石や高句麗(朝鮮半島)の壁画古墳に見られるものであり、この九州古墳の図柄もその余韻を受けたものと‥ 日本の神話 松本信広」
カラスとガマの図柄は天皇即位に着用される衣装のも使われる。古代のかの国々はいまのパリのオートクチュールなかな。
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カラスは朝早くから騒ぐ。「三千世界のカラスを殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」とは高杉晋作だが、早朝のから騒ぎの連想だろうか、カラスは太陽を象徴したという。黒点がカラスだとも。カラスの足跡!美女黒点、なんて。余談。
ガマはヒキガエル、夕方活動しはじめる。太陽を西の空に引きこめ、月を輝かす。月を象徴するという。「ヒク」から吹き出物、傷の出血、風邪の熱が「ヒク」。ガマの油だ。

今のNHKも烏好き、だ。先日の時代劇、宮部みゆきの「ぼんくら」では”あほうがらす”、教育番組では「考えるからす」とおいでなさっている。

象形文字学者の白川静は「烏」について、「烏は悪い鳥とされ、烏は死んだ形に書かれている。また「鴉」は隹・スイ(トリ)に牙・ガという鳴き声をそえたものである。鳩は鳥に「ク」雉・キジは「チ」という鳴き声を写した字である。常用字解」
”からす”はガァと鳴くという。「カワイ・可愛」ではない、となります、野口雨情様!

様々に「烏」はマジカルな存在だと考えられたらしい。そして、そのマジカルさは、今も身の回りにいくつも存在している。

己斐から西国街道を、大野浦へ走った。妹背の滝にある大頭神社は鴉の神社だという。この街道を知ったのはかなり前、30年はたっているだろうか、三原のお医者さんが資料から踏破されて小さな冊子をつくられた中国新聞の記事をみて、送っていただいた。そのころの西国街道は五日市にも廿日市も街道松が元気な場所がいくつもあって、威厳がただよっていた。一里塚の跡がまぶしかった。

今、西国街道はどこも景色が普通の生活道路になっていて、あの栄光の時間が思い出せない。ルートが廿日市で高速道路そばに入ると、古道は拡張された車道に変わったのに、なぜか、昔の街道の景色が浮かんできた。まったく面影がなくなったからだろう。昔の幻想をたどっていると、それでも大野では古道として管理されて、幻想が現実の景色にオーバーラップしてきて、いい感じだったのが、高架下で街道は無残に由緒経歴案内の資料的存在になって、やっと妹背の滝、大頭神社参道にでる。歩道に鳥居が居座っているよ。孤立無援の鳥居は興味の目にさらされている。参道は海に向かってのびていたのだろうがJR路線の下へ消えてしまっている。

「妹背」の地名は和歌山の紀の川の中流にあって、そこが飛鳥朝廷の時代の国の領域・畿内の南の境とされ、訪ねたことがある。紀の川へ山稜がせり出し、川の中州の島とで川幅を狭めていて、ゆったりと流れる紀の川では印象深い場所だった。妹背は男女とか夫婦とかの意味だが、畿内がここで終わりここから近畿になるのかと、どこか「涯て」「終わり」「別れ」の感じがした。大野の大頭神社の頭は人形の頭を”カシラ”と呼ぶように、お面のことだと思う。お面は災いを払うもの、でそれは境界に置かれる。神社HPではイザナギ誕生伝承を記載している。熊野三社の祭神にオーバーラップする。

境内は清潔にされて、そばの雌雄二本の滝とが異界を感じさせる。
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奉納御札にもお守りにも烏マーク、参道の橋も鴉がついている。
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別鴉橋という名は、やはり妹背の別れか?など妄想させる。
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「花に嵐の・・」ひっつめた髪の高校生らしいお嬢さんが緋色の袴姿で対応してくれる。ここの川の名を尋ねると、尋ねてきますと、引っ込まれ、お兄さんなのか若い男性が、「毛保川・ケホ」でしょう、と。エノカワではなかった。ケホケホ!!。

神社HPに「旧暦9月28日厳島から神鴉・コガラス4羽が飛来。御烏喰式・オトグイ:神烏にお供えする儀式、を行ったあと、親鳥二羽は熊野へ帰り、子烏二羽は弥山にのこる。これによりここを別鴉・ベツアの里といった」とある。

厳島神社での御烏喰神事はよく知られている。3月と9月島の7浦に祀られる末社を船で巡神る御島廻式の神事に合わせておこなわれる。3月から9月のあいだに5月の宮島講・講社大祭の時にも、一般の願主の希望にもおこなわれると資料にある。御烏喰神事は島の南東の養父崎神社沖で団子を三方のにせ小さなで流すと山から烏が降りてきてついばむ。

この神事は周防大島の神領の志度石神社(今は記録だけ)、因島中庄 熊箇原八幡神社(熊野大権現)・八重子島祭などが知られる。全国各地でおこなわれており、鳥船神話から冥界への案内人として鳥葬を考えることも言われる。

宮本常一は大島の住人の葬儀には、広島へタバコをあの人は買いに行った、といわれると話し、この広島は厳島の弥山ではないかともいう。宮島の埋葬忌諱はしられているが、カラスの故郷とされる熊野は冥界とされる。志度石神社へは神領の集落をぬけて、四百数十段の石段が常緑広葉樹林のながの登っていて尾根のピークに鎮座している。
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弥山への大聖院・白糸滝ルートは大半の登山道は石段になっている。因島・熊箇八幡神社も長い石段を持っている。
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参道は上昇する鳥船の航跡のようだ。参道の長い石段の寺社への参拝の時間、踏み出したからには上り切らなきゃいけん!と必ず思う。どこからか、「目」に見入られているようだ。

西国街道は大野浦の集落から山へ入ってゆく。そこに石畳道が保存されている。そこから先玖波までは消えてしまったように踏み跡しかない。ルートの判定は予想でしかない。境が道にもあらわれる。
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厳島神社で社務所に御烏喰神事は一般の申出でで行われるか、と尋ねると「まずないです。あっても信者さんだけです」と素っ気ない。先程、参拝して投げ込んだお賽銭‥信者って、神社奉賛会の人だけ!なんだろうな。参拝入口に置かれる二基の石灯籠に青銅の烏はけっこう有名なカラスです。
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可愛川探して、いつか、すっかりカラスに引き込まれた。ベランダの餌台のトーストが今日は少ししかなくならなかった。そうだ!バター塗ってなかった。そうなの?
ここ楠那はとてもゴミだしのお行儀がいい。カラスもつつけない。でもカラスの餌付けには、配慮いるだろうな。しかし、隣のおばあさんは面白がってる。
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by forumhiroshima | 2015-02-15 10:16

カァカァ カラスのカンザブロウー

雀がやってくる。そこでご一同さま御歓迎!と、ちいさなベランダに鳥の餌台を置いた。たまに賞味期限の切れたパンのトーストをちいさく切って置いておく。すると、アッとの間にカラスが食べてしまう。それもご夫婦で、なのだ。そばの公民館の屋根にとまっていたりして、よく目が合う。お知り合いになっている、ようだ。



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公民館に保育園が併設されていて、朝と夕刻はとてもにぎやかな声でいっぱいになる。「ドンがドンがドンガラガッタ」と漫画・国松さまのお通りだい!カァカァカラスのカンザブローの賑やかさが三階に入り込んでくる。そして五時にカラスが鳴くから帰ろの童謡が大音響で流される。あとにとても静かな、そしてぬくもりのある静寂な時間がやってくる。


童謡をここに住んで聴くことになった。童謡ってどこかこわい。“かごめかごめ”夜明けの晩に 鶴と亀がすべった。夜明けの晩って、いつなん?鶴と亀がどうしていっしょにすべるん?不気味さがただよう。“かごめ”ってなんだ?

このマカ不気味さが、子供達の頭脳にとてもたまらない刺激なのだろう。彼らは普通に受け止める。きっと歌詞の意味の不気味さがないと童謡として残らないのだ。


野口雨情の“七つの子” 

烏なぜ鳴くの 烏は山に 

可愛 七つの子があるからよ 

可愛 可愛と烏は啼くの 

可愛可愛と 啼くんだよ


老化し幼年化した頭なら不気味さを保育園のチビたちの世界を共有できるか、なぁ。カラスは通常産む卵は3から5だとある(参照ウイキィ)。七つの根拠は?カーァ カァと啼く。可愛・カワイとは啼かない。これくらいの不思議では、童謡のランクは高くないだろう。などと、理屈っぽいことしか浮かばない。


“国松さま”のカラスのカンザブローの勘三郎は神を呼ぶために、その使いであるカラスを勧請するカンジョウが勘三郎と現されたのだろう、は「柳田國男の烏勧請の事」にある推理だが、勧請する呼び声も紹介されている。北秋田ではポーポー、青森シナイシナイ、もしくはコーロコロ、八戸ロウロウ、越後カッカラカッカラ、福島カラスカラス。呼び声の訳を求めると、童謡と同様!なのだ。遠野物語の世界でもある。


烏勧請といえば、紀伊半島熊野の大社、山城・京都の下賀茂神社のヤタガラス。天皇即位に着けられる衣装・袞竜衣・コンリョウイにもヤタガラスが刺繍されているという。

とてつもなく、高貴なお鳥さまなのです。鴉様は。

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広島湾は広島城普請の後の呼び名。城以前は“江のち、江の口”と呼ばれていたようだ。確証はない。伊予の武将の河野氏の勢力がここ内海に伸びたときに、ここを“江のうち”と書かれている資料だけだ。“江戸”も江の口だろう。江の内となったのは川が幾つも流れ込む場所からだろうか。川を江と呼ぶのは中国や韓国、江の内は古代、国際的な場所だったのだろうか。


可部で太田川に合流する根の谷川が古名は“可愛川”だという。上根が源流の古くは可愛川だったといわれる簸川は土師ダムで可愛川に合流し三次の巴橋で馬洗川、西城川と合流。そこから江の川になる。可愛川はエノカワと読まれる。江の川もエノカワと読める。

童謡に負けない不思議で太田川も可愛川なら瀬戸内海と日本海が川の名でつながる。


府中の町に水分峡からながれる川が榎川。えーエノカワ。でも可愛川とは書かない。まだあるか?と“江の口”に流れこむ川の名をしらみつぶしてみた。あった!古代は安芸国の一ノ宮の速谷神社のそばを可愛川が、な・が・れ・て・る。ここはカワイ川と呼ばれる。

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江戸時代まで速田神社とよばれた速谷神社のそばを流れる可愛川は尾根上の中段を流れる。

広々とした尾根中央に流れる川は神社あたりで標高70mほどあって、海からの展望を遮る物はない。陽光をうける川面は神々しいものではなかったか。源流は泉峠、断崖に九十九に切り込んだ廃道がある。


御神体は岩との伝承があるが、「祭神は五烏神とし、厳島神社よりふるくこの地にあり、厳島の神が鎮座するとき、烏と化して先導した神とする。 日本の神々2


烏なぜ鳴くの 烏は山に 

可愛 七つの子があるからよ 

可愛 可愛と烏は啼くの 

可愛可愛と 啼くんだよ

野口雨情の直感が、烏の可愛の呼び声が、キラキラと輝く流れに乗り拡がる景色を浮かび上がせる。このマカ不思議さを受け止めることは、子供達の感性に近づいたのだろうか。老化からなのか。答えは〇〇、わかってますよ。


速谷神社を訪れた。境内から神輿収蔵庫まで、くまなく探したのだが、五烏は現れなかった。岩国から西へ、欽明路道路そばの柱野に鎮座する速田神社は速谷神社を勧請した伝承の宮だ。そこでは烏神事の御喰神事が行われた。摂社に烏の陰が残っている。地名の柱野の柱は岩国沖合いの柱島と共鳴する。柱は船の帆柱。海人の記憶だという地名。「広島県史」では烏神事は熊野からの伝来の説を紹介している。


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11世紀に関東平野・坂東平家と呼ばれた武士団が東国を去って近江や伊勢方面に居住しはじめた。平清盛の五代前に伊勢に定住したといわれる。1137年ごろに熊野本宮造進により異例の栄進をはじめ、1146年に安芸守にすすんだという。1160年代に厳島神社造営といわれるようだ。

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などと年代を繰ってみても、平清盛と烏の関係、ましてや烏と可愛とは・・。童謡の不気味さに漂うのが面白かろう。


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by forumhiroshima | 2015-02-11 12:25

小五郎のこと

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東区福田から深川へぬける峠が木の宗山の青銅祭器埋葬地の丁度、真下にある。三田ガ峠。福田の地名が青銅や鉄を“吹く”人々の記憶なら、深川も吹く川であったかもしれない。地名で使われる「田」は田んぼのことだけでなく、有効な場所のことだという。それは金属精錬の人たちの所在をしめすことだろうか。「田」に三を加えた、三田は「御田」で神へささげ物のことだろうか。その神の所在が木の宗山なのだろうか。土と火だけで生み出す鉄や青銅の製作者は恐ろしいほどの神の手の使い手たちが住む「御田」だろうか。


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峠を三篠川河畔の深川へ下る。すぐに分岐があらわれ、その中央にある老人養護施設の横をぬけ、正面を俯瞰すると小山とその奥、またその奥にと三角にピークが階段に現れる。ちょっと神々しい景色。一番手前の小山に神社マークが地図に記載されている。まるでピークへの拝殿の場所だ。丸子神社と地図にあるが、小山を回る路地を数回回ってもみつからない。鳥居も参道もない。クンクンとまるで餌をさがす鼻のきかない老犬だ。老人養護施設そばにもどって、(老犬だからといって、中には入らないよ!)再チャレンジ。小山の山頂の繁みになにやら国旗掲揚のポールらしき棒がみえる。やはり、あそこに神はおられるようだ。そこへちょうど老婆が現れた。神社をたずねると「クック、そこのふみ跡を行けばいいの、チョッとズルじゃけんど」「神さんは黄幡さんよ、丸子?そりゃ丸子さんちが守しとるからじゃろうか、そうは呼ばん」ボロボロになった墓標が点在する繁みの中につづく踏み跡ほどの道を登る。小屋が木陰に埋もれて現れた。鍵がかけられた小屋の中に本殿が鎮座しているのだろうか、狛犬も鳥居も参道の石段も・・ない!。

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小屋の正面に小路がある。そこを螺旋にくだって、先ほどまで旋回していた小山周囲の道にでる。下ってきた小路を振り返る。どう見ても、ただの空き地にしか道はみえない。わからないはず、だ。老犬だからじゃない。


そばに奥迫と地名標示がある。そうか!と、この小山の存在理由が見えた。地図にある、すぐそばの池にむかい、そこから引き返して小山へ。池から樋を小山へのばして、山頂から螺旋に水を放って、比重の差で砂鉄をあつめた場所へのルートなのだろう、と想像したのだ。小山、うねった大地、小高いため池、ここは、だからどうも稲作の場所ではない様子、「稲田」ではないのだ。小山は水流を加速するターボ装置なのだ。勢いよく運び込んだ土砂を流すシステムなのだ。カンナ流しで砂鉄を採取が終了しても、小山がのこった。

・・など妄想的断定したのは、「迫」がつく谷はたしかに山が迫った谷間が多いが、また「迫」はカンナ流しの記憶でもある。東城の小奴可はカンナ流し場の集積地、ここはそこに似ている。「迫」の地名はカンナ流し採取跡の記憶、と思ってきた。小山を離れ、すこし北上して、幹線道路ぞいのパチンコ店の裏ちかくの「隠地神社」へむかった。

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岡山・高梁市HPより

「吉備高原や中国山地などの起伏の多い地形のところでは、日照りが山の高さや斜面によって差があり、古くから農業生産に影響するために、山間では特に意識され、日当たりのよい場所が「日名」( 日向・日南)の地名となり、反対に日陰になる場所に「陰地」「隠地」などの地名となって表現されています。どちらも地域の集落の立地条件を示すもので「日名」は「日当たりのよい場所」(土地)、「南向き斜面」「日に向かう地」という意味でつけられている地名で、自然地名(気象地名)の一つで、地形も想像ができるような分かりやすい地名なのです。」と紹介される、


可部奥の上根の峠を上り中国山地へと向うと「日名・隠地」のセットの地名が次々と現れる。そのあたりに「迫」とつく谷間、そして鍛冶屋、梶などの地名が見られる。思いつくだけでも、いっぱい、ある。


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芸北の八幡に小さなお年よりの鍛冶屋さんを、父の商売の手伝いで初冬に尋ねたことがある。古くのタタラ場集積地だった所以を続ける鍛冶屋さんで、自転車修理もされていた。鍛冶場のコークスの残り火のそばで、昔話を聞いていた。タタラの話に、雪に埋もれるなかで千数百度に炉を炊けることが不思議で、聞いてみると「炉へむけた顔が焼けるほどのとき、頭の後ろ側は凍るほど寒い。空気が乾燥すると熱が炉に集中する。雪の壁が炉の室の湿度を結露させる。湿気がなくなるほど炉の炎はオレンジ色に輝く。室内の湿気は炉の熱を取り込んで拡散させる。だから、日陰が炉にはいい」と少年のころを話した。それからは、「隠地」地名にその思い出が引き出される。丸い急須で緑茶をすすめてくれたおじいさんの手も。

中国山地の農耕機械屋、自動車整備工場、自転車、バイク販売店などに鍛冶屋だった伝承がほとんどに残っている。


「日名・隠地」の地名のセットに「迫」の地名がからむ。「迫」という漢字について、白川静・常用字解で“両手を相接すること・差し迫ること・強い力でせまる”などを述べる。強力な水流が土砂にせまる、ともおもえる。字解に「白」は白骨化した頭蓋骨とある。


木の宗山麓の黄幡神社の由来に金屋子神は記載されてなかったが、広島・南区大河の黄幡神社はこの神様を祀るとある。丸子神社も金屋子神を祀っていたのでは、とだた“子”とつくからだけなのだけど。三田から向原の三篠川河畔に9世紀に吉彌子部サツフル、吉彌子部ムラマルが朝廷から位を与えられている。吉彌子部・キニコベは俘囚とよばれた人々で古代にエミシと呼ばれた人々で東北から移住させられた人々一団を吉彌子部という説がいわれる。日本刀の原型とされる蕨形の取手のある蕨刀はこの人々の製作による。ここの吉彌子部たちは定住し成功した人々で、位が与えられ、安芸国の政策に参加していたともいわれる。古代の多額納税者なのだ。その妄想は、丸子と吉彌子、それだけなんだが。
8世紀東北の蝦夷の反乱が起こった。アザマロの反乱780年。アザマロはその反乱一名称だが、アザはアサ(砂鉄)マロはタタラの親方だという。(鉄と俘囚の古代史・柴田弘武)どうかな?彼らはシベリアか渡来した製鉄技術者。古代朝廷から派遣された坂上田村麻呂の領地がいまの志和で、三田の隣の盆地だ。志和に坂上神社が鎮座する。田村麻呂は蝦夷へ鉄と刀と弓矢と馬を求めに行ったといわれる。蝦夷の民は稲作を知らない。


金屋子神は差配するタタラ製鉄を播磨の山奥から出雲へ白鳥に乗り渡ってきて桂の木に降臨し、そこで犬に吼えられ、足が麻にからまってころび、従者のムラゲを押し倒しムラゲは死んだ。その遺骸をタタラ場に立てかけておくと、大いに鉄が産出するという。白川静の「白」から連想させられた。


産鉄の世界はマジカルだ。タタラにもっとも必要な炭にも遺骸伝承がある。

夫婦別れがあって、妻は追い出され流浪し、山中の若い炭焼きの小五郎と結婚する。ある朝米を買うために小粒の金を小五郎にわたし行かせるが、小五郎は池に浮かぶ鳥にその金粒をぶつける遊びをして手ぶらでかえってくる。それを妻がなじると、金粒が宝なら、自分の炭窯のそばにいくらもころがっているという。

あんな小石が宝になれば

わしが炭焼く谷々に

およそ小ザルで山ほど御座る

といって拾ってくる。夫婦は大金持ちになる。妻を追い出した先の夫がそこに零落して流れてきて、台所の窓から豊な暮らしの元妻をみつけ、妻は福分をもっていたのだと、恥じて死んでしまう。こまった妻はその遺骸を竈の後ろに埋めて葬る。すると、米びつにいつも米があふれるようにあって、減らなくなる、いっそう豊になる。夫婦は炭焼き長者とよばれた。


炭焼き、カンナ流し、タタラ製鉄と、その適地が見出され、そこでの営みが地名としてクリップされたのだろう。そして村の鍛冶屋からトンテンカンと

暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
ふゐごの風さへ息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋

稼ぐにおひつく貧乏なくて
名物鍛冶屋は日日に繁昌
あたりに類なき仕事のほまれ
槌うつ響にまして高し

「日名・隠地」がそれらの適地の記憶だとは言えないのだが・・それ、ラシイよなぁ。

それにしても小五郎と小七郎かぁ・・・。


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by forumhiroshima | 2015-02-08 20:09


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