こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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平家・都落ち、そして厳島参拝

平家物語は都落ちした平家が、厳島神社を素通りしたかのように、壇ノ浦へと物語はすすんでいる。平家一門と氏神、厳島神社の関係からは神社通過の記述には不思議を感じる。

吉川英治の「新平家物語」は参拝を記述する。「この平家の人々と、厳島の関係である。長門へ下るには、いやでも、海上、厳島のすぐそばを通るのだ。---立ち寄らないはずがない。・・・ 果たして。
九条兼実の日記”玉葉”の元歴2年・1184年3月16日の項に、・・・平家ソノ時、ワズカニ百余船。安芸国厳島ヘ着キタハント・・・と見える。」
摂関家の九条家の主、兼実は生涯のうちの四十数年間の日記をのこしている。日付は厳島参拝の日の十日あまり後に情報が都の兼実の元に聞こえてきていることになる。
「屋島落ちの平家が、壇ノ浦に亡ぶ前、その途中、厳島へ立ち寄ったにちがいないということは、初めはぼくの想像だけで書いていたのだが、ふと”玉葉”の中にその確かな史料を見出して、密かにうれしかった。・・・ひとり平家にかぎらず、人の末路を描くのは胸痛むことである。 吉川英治」

宮本常一は故郷・周防大島を舞台の「大島源平盛衰記」を書いている。そこに「平氏は源氏勢力を何とかして中国路のどこかで、くい止めたいと思い、平知盛をして周防大島のうち島末荘に城を築かせました。四方に見通しのきくところであり、南北に海をひかえて作戦には便利なところにありました。・・・これが今は瀬戸内海における平家の唯一の根拠地でした。宮本常一」
この城は大島中央部の白木山の北西尾根にあって、北海岸に”サザンセトとうわ”がある場所で、南へ向かえば船越の集落にでる。この船越から平家は島の南海岸をまわって、柳井の西の田布施で源範頼の軍と小競り合いがあり、敗北している。この城はこののち放棄された。

大島の島末城放棄のすぐ後に、北の海を義経の先導する500隻を超える軍団が1184年3月21日西へくだっていくのが見られている。平家厳島参拝の2週間後のことになるのか。
白木山は片添ケ浜の西にある。この山頂へは車道が整備されて、自転車で登れる。眼下の下田、西方は古代の荘園からの有史の歴史もあって、ここの沖を通過する義経というヒーローを思うと、景色が一挙にグレードアップする。「ここに義経がいた!」伝承はこうして肥大してゆく。

清盛が死去した1181年から約2年半ののち1183年、平家一族はそろって都から逃亡する。それから2年後、壇ノ浦で滅亡してしまう。この間瀬戸内海を一族での博多、太宰府へ往復を、一族一団でそれも船旅でおこなっている。平家物語の後半は集団自殺の様相をもってきて、脱落者をあげつらっている。マスコミってこの習性があるのかもしれない。
神戸・福原も博多・袖の湊も厳島神社も清盛の事業だ。それが、火を放ち放棄した福原、留まる事も出来なかった厳島、源氏勢力に抑えられた博多・太宰府。いまも清盛の遺骨は所在不明である。無常。

海戦の記録の少ないこの国の海の戦史に特筆されるとされているのが源平の合戦と毛利と陶との厳島合戦。厳島合戦では神社は大きな火災被害を受けていないともいわれる。厳島を信仰した平家が厳島に陣地造ることは可能であったのではないか。
その平家の陣についての史料がある。「平家は摂津国生田の森を一の木戸口として、堀をほり、逆茂木を引き、東には堀に橋を引き渡して、口一つ開けたり。北の山より際までは垣楯をかいて、矢間を開けて待ち侍りけり。延慶本平家物語」この一の谷に仮設の施設の中に幕でかこまれた陣屋があったのだろう。そこは義経にけ散らかされた。
城が石垣の上に建設されるのは信長の安土城以後のことで、源平の城はヨーロッパーの中世の城郭都市を仮設にしたように思える。

宮島・要害山・宮の尾城
宮島へフェリーでわたり船着場を出ると車道の向こうに小さなトンネルがみえる。昔このあたりは有ノ浦とよばれた。宮島には有本の姓がある。魚の棚の町名が残っていて、魚屋さんの町だったようだ。この岬のそば、元に居住していた人々このあたりの漁民であったろうか。トンネルをくぐって次に出会う三叉路を山側へ入るとまたトンネルに出会う。トンネルの入口の手前の民家の横の細い坂道の路地を登ると、頭上の橋をくぐって尾根にでる。
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右へ松原の山道を海側へたどると今伊勢神社という小さな神社の境内になる。標識があって「要害山」と書かれている。
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ここ有ノ浦の岬に毛利輝元は城を築いた。”堀に橋を引渡して”造られている。

要害山の北側の町は港町、南は浜之町と呼ばれるようだ。今は、トンネルで繋がれているように、要害山は海へ突き出た岬で、両側は海に囲まれていた。ここにフリーが着くように、このあたりは水深がある場所で、宮島ではここが最も港として適していた場所であった。厳島姫鎮座伝承のカラスもその役をきっと、になったことだろう。
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ここのように本港と脇港とが岬で区分できる場所は古来重要な拠点であった。中央の岬を押さえておけば、両側の船溜りの様子が一目瞭然。
先日の博物館テロがあったチェニスの港は地中海の古代国家カルタゴの海運の拠点で規模の大きな二つの港をもっている。フエキア人はこの港で古代地中海を支配した。
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瀬戸内海の海賊たちも、この形式の港に拠点をつくる。このような岬は魚付き保安林に指定される。釣りのポイントは海人たちが育てた。
 
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三瀬・多賀谷城
呉の安芸灘大橋を渡り、広い埋立地をぬけ、車道が新旧に分岐して、旧道のトンネルでぬける天神鼻を出るとまた埋立地にでる。この二つの埋立地は埋め立て以前は船溜りで、ここを支配した海賊の多賀谷氏の拠点だった。城は天神鼻の尾根を切り通した新道の山側にある。
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安芸灘大橋のかかる海は猫ノ瀬といわれる。船溜りのある集落は三乃瀬とよばれるが、安芸灘へ東西と南から同時に潮が集まることから付けられた地名で、この三つの潮がぶつかると猫の背のように盛り上がる。それを猫ノ瀬と呼び、風もないのに白波がたったという。いまは海砂の採取で海底が変わってしまっている。
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潮町の港であり、猫ノ瀬は航行の難所で、多賀谷氏活躍の拠点になった。彼らは音戸の瀬戸でも城を築いている。宮島参拝の船から通行税を徴収していた。

忠海・乃美氏・賀儀城
OSさんからのメールで“村上海賊の娘・和田竜”が面白いよ!ときた。さっそく、購入。巻頭の景色にでてくる和歌山・雑賀党の首領、鈴木孫市は司馬遼太郎“尻くらえ孫市”の主人公で、彼の家紋が八咫烏。この二つを並行して読んでいて、混乱した。司馬、雑賀がおもしろい、とおもった。
”娘”にでてくる乃美宗勝の賀儀城(忠海)は河口と浜との間の岬の先端にあり、突き出た岬であったのではなかろうか。鍵の形の岬だったようだ。
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この城の西にある床浦神社は乃美宗勝建立伝承があるが、この神社には疱瘡伝承がある。疱瘡など伝染業の伝承は尾根の切落しと同じように、”近づけないうわさ”の防御壁になる。
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ここに昔様式の岩穴の塩蒸し風呂がある。それに、とても落ち着いた海岸で海賊たちの夢のカケラもない。
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そばの山並みに烏ケ城を持っていて、これは気になる。

堀越・向洋・平家
向洋の丘を開削し堀越の伝承の平清盛の安芸守就任では、現地に駐在することはなかったのだろうが、厳島神社建立や音戸の瀬戸開削などのほかに、堀越伝承と、とても目立つ清盛なのだから、なにか痕跡を見つけたくなる。堀越の疱瘡姫伝承と、堀越開削と合わさって、なにやら、重大な場所が向洋であるような、それも対馬まででかける向洋の海洋漁民の有り様が、追い打ちをかけて、謎に思えてくる。ここに清盛の倉庫なんぞあれば、どうか?。
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清盛の最初の安芸国の領地は江田島・大柿・倉橋・矢野の古代の安芸郡安満郷と呼ばれた地域だった。清盛は後に安芸国全体の領主となる。佐伯郡海郷の宮島の厳島神社は演舞の神殿で、砦ではなかったのだろうか。などと、海人たちの城は平家の時代を彷彿とさせる。
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by forumhiroshima | 2015-03-31 08:45

おごる者か、清盛

宮本常一の宮島
 旧暦6月17日のこの島では管絃際がおこなわれ、・・また、この祭りにまいることのできない浦々の人びとは、夕方、浜辺に出てムギワラをたいて祈りをささげた。いまはそういうこともおこなわれなくなったが、30年前までは、夕方になると、どこの浦にもあかあかと火がもえ、それが海に映えて美しかった。(1963年発刊)今から80年有余前の景色。
今住まいしている楠那は南の海に面して、西も東も岬で遮断された陸の孤島だった。その浜でも、きっとムギワラが炎高く燃えさせられただろう。海の人々との連帯の叫びだったに違いない。ビバ、イツキシマヒメ。

宮島、厳島神社を参拝し出口から水族館方向へ向かうと、岡の上り坂になるところの右に石段がある。それを登ると、清盛塚にでる。この岡と神社向うの五重塔のある塔の丘を結んだラインに松明を掲げ、火を焚いて千僧(燈)供養が平安時代に行われたという。

回廊にもたくさんの灯篭がさげてあり、「宝物館の中に古い釣り灯籠がある。1366年3月、筑前の商人が奉納したものである。博多の商人たちは、この神社をあつく信仰していた。宮本常一」夜の闇を照らす灯篭は、航海の守り神だ。
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清盛塚は音戸の瀬戸にもある。経塚ともいわれ、宮島の清盛塚のある岡は“経の尾”と呼ばれる。経典を埋めた場所は経塚と呼ばれる。

1180年娘婿になる高倉上皇が宮島に二度参詣している。この案内をした清盛は「唐船・宋船」を回航させて、上皇一行を神戸・福原に迎えている。船には厳島神社の内侍が乗っており、その踊りは天女のようだと一行にいた貴族の感想が残っている。上皇は姫路から乗船している。天皇、皇族は外国人との対面は御簾を下げて行われた。宋人の船に、上皇が乗船することは、当時貴族にはカルチャーッショックで、ありえないことと、清盛は非難された。清盛は当然無視している。
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宗像大社
「宗像の海岸は名だたる日本海の難所玄海に臨んでおり、・・およそ十里、その東の端に鐘崎あり、東北の風を避けるべき鐘崎泊あり、その海岸の西の端の宗像宮のある神湊は西北の風を避ける。両湊相まって十数里の荒浜に船を泊めることを可能ならしめる。神湊が本港・モトミナトで鐘崎泊は補助湊・ワキミナトである。・・鐘崎泊は西北の風にさらされることから、・・古来築港工事がおこなわれていきた。767年京泊の古波止がつくられた。京泊は経泊の転化で、経島とも言われた。島は波止としてつくられ、経塚をその上にたてて除難の為の供養塔としたことから起こった名である。 長沼賢海」宗像の海岸の防波堤(経島)の建設は東大寺建立の時代には行われていた。宮島に先行する400年以前になる。
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宗像大社の本殿の後ろに回ると、沖津、中津の両女神がまつられている。その横から石段が登っている。登るとしめ縄で結界された空間がある。神社HPにこの空間が8世紀末までの祀りの場であるといっている。ここが祀りの庭であった。今ここに松明の夜祭が復活している。厳島神社の千燈会をこの写真に想像した。
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宗像の海人
司馬遼太郎、街道をゆく13・壱岐対馬の道「筑前国宗像郡に宗形部の津麿というものが住んでいた。津麿は船乗りで、もはや老いていたらしい。  対馬の糧を送る船 
 舵取りに充てる、徴用令がくだる。命令がくだる  この齢では、とても。と津麿はおもい  滋賀島へ行った。そこに、旧知の滋賀の白水郎(海人)の荒雄がいる。ちょっと話がある。聞いてもらえないだろうか。  二人は“船を同じくすること 日久し”と荒雄はいう。  司(府官)が私に対馬まで糧を送る舵取りをせよといってきているが、しかしこのように老い、衰え、海路に堪えることができない。ねがわくは、かわってくれないか。荒雄はただちに引き受けて・・」

宗像・鐘ガ崎の漁民は日常には素潜りを漁法とする人々で、ここから日本海を北上し、能登半島から佐渡まで夏の期間に出稼ぎし、のちそこに定住したことを宮本常一が報告している。宗像は胸の像でイレズミを胸にいれた人々をさすという。宮本常一がピックアップした宗像ほ民の出稼ぎ先の中国地方の漁村はどこも岩に波がかむ白波の打ち付ける断崖にある小さな岬をまわりこんだ場所に崖にしがみついて、海風にさらされていた。人々が太陽も月も、潮風も潮流も海流も、きっとすべてがいつものこと、の生活なのだろうと、強風ですすまない自転車の上で、降参した。彼ら、顎うことなき海人だと思う。

博多・袖の津
志賀の荒雄が津麿にかわって航海にでたころから350年のちの1161年、志賀島で玄界灘と区分される二つの潟にあった湊の、東側の住吉の神が祀られていた湊の冷泉湊があったが、さらに、そのそばに日本初の人工港「袖の湊」が清盛により建設された。
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「楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝としてかけることなし 平家物語 」宋貿易の絢爛さが語られる。このとき清盛は大宰府の長官(太宰大弐)で宋貿易の中心の湊を博多の袖の湊にした。その湊には宋人・謝国明によって創建された承天寺などがあるように、チャイナタウンだったといわれる。
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清盛の父の忠盛は、弥生遺跡の吉野ケ里がある肥前の神埼を平家の荘園としていた。有明海から宋船を入れ、密貿易もやっていた。神埼の南の八女の山門が卑弥呼の邪馬台国伝承があるように、弥生時代からの豊かな土地で、清盛は神埼荘の産物の積出しの湊として、袖の湊をつくり、そこへ神崎荘の鎮守の櫛田宮を勧請している。博多の祇園山笠の出発点の櫛田神社からの、舁山・カイヤマのコースは、博多の古代国際都市エリア・チャイナタウンの中を渦巻くようにして収まる。まるで湊への荷物の出入りを行う沖仲士たちの痕跡なのか、古代の黒ネコヤマト宅配便なのか。そう見えた。
東西770m~872m、南北1254mの小さな碁盤の目の町、いまはビルと車道の下にうずまっている。以前、コースを走ってみた。車道を走っている車の運転がとても怖かった。広島と違う。
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神戸・福原の大輪田泊
袖の湊の建設のころの1162年清盛は摂津、神戸・福原のある八部荘という荘園を手に入れ、湊の前面に人工島を築きだした。この島は経の島とよばれた。難工事といわれているが、1168年清盛はここに別荘をかまえ、1170年に宋船を迎え入れた。現在この島の位置は不明とされているが、経島山来迎寺があって、そのあたりではないかと思われている。経の島に厳島神社が建立されていた。
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清盛、出生のこと
「清盛の父は忠盛とされている。しかし“平家物語”によれば、白河法皇が寵愛する祇園女御を忠盛に賜った時、女御は胎内に清盛を宿していたという。この種の御落胤説は信用できないことが多いのだが、滋賀県の胡宮・コノミヤ神社に伝わる”仏舎利相承系図“などの確実な資料によって、清盛の実父は白河法皇、そして母は祇園女御の妹、清盛三歳の時、母は死去し、その後清盛を養育したのが祇園女御ということらしい。上横手 雅敬/源平争乱と平家物語」

神戸・大輪田泊の経の島(のちに築島とも)に清盛が母の霊を配祀した。のちに姉の祇園女御が著名なため、祭神にしたといわれる。この神社の鳥居は唐破風鳥居とよばれる珍しいもので、いつか京都の九条家の邸宅の庭に移され、九条家が明治維新で東京に移転したときに、のこされ、京都御苑の中にとりこまれていまも存在している。
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貴族最高峰の家柄の五摂関家のひとつ九条家の祖、九条兼実は清盛と同じ時期の人で、アンチ平家だといわれ、清盛とも源頼朝とも対面している。鎌倉幕府時代に活躍しのち失脚した。失脚後、浄土宗の法然の元で出家をしている。娘の玉日姫を法然の弟子であった親鸞に嫁がせている。

宗像の女神たちに母も神として、湊と航海の守護とした清盛の実像は。お「おごれるもの」だろうか。
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by forumhiroshima | 2015-03-17 20:04

宮島ステージ

宮島へ、怖い親父の元旦の初詣と1月15日、2回参拝につれだされた。戦前には宮島の遊郭に居続けしたとかの親父の武勇伝を聞いたことがある。くまなく町の神社と寺をまわったあと、弥山への白糸の滝登山道の落ち葉掃除で、ヘトヘトになった。本業の酒店の端っこにあった上野食堂で買っておいた国鉄宮島口駅のアナゴ駅弁を開ける山頂が嬉しかった。それにしても、あれは行者修行だったにちがいない。

宮島へ初詣は満員すし詰めの広電の電車でゆき、乗合船の松大船からガンギの波止場に渡された渡り板で上陸だった。大正期に建設された広電は地御前までで、そこから船で宮島へ、だったと親父が話していた。そのコースは管絃祭の御座船の渡海コースをたどっている。航海の軌跡が海の参道を出現させる。

港町の名のフェリ―の船着場の正面、車道わきの小さなトンネルがあってそこをぬけると食堂よこに三叉路があらわれる。表商店街参道を避けて右に入るとトンエルがまたあわわれる。ぬけると「町家通り」と灯篭が軒先に掲げられた静かな町並みへはいるのだが、途中の路地を尾根側へ入ると、旅館そばの小道に「山辺の道」のプレートをみつける。これまでと、これからが地御前から上陸した人々の昔道、古参道だと聞いた。
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「山辺の道」は奈良の東の山麓にのびる最古の街道だと言われる道で、親父が古参道だといったころにはここに「山辺の道」のプレートはなかった。『奈良の古道の北の端になる石上神社・イソノカミの名から「石上のイソは、やはり海岸の磯の意味のように思うがなぁ、と」「山辺の道は古代に奈良盆地が湿地であったころの海岸線」司馬遼太郎・街道をゆく1』
宮島での山辺の道では、パクリっぽいけど、道は斜面にとりついて棟の岡の五重塔へ向かうあたりが、いかにも打ち寄せる波頭を避けた様子に思えたりする。塔そばを下ると厳島神社の入口にでる。
地図に潮の干満を考慮して標高7mほどの等高線を記入してみた。道沿いにラインが引かれる。古参道はラインの奥になる様子。波頭のしぶきはかからないほどの奥だったのだろう。7mラインは昔の防波堤だったのだろうか。
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厳島の神の鎮座の伝承では、佐伯鞍職・サエキノクラモトが大野瀬戸で釣りをしていると、西から紅の船にお姫様がやってきた。その姫は、都へいって帝にここへ御殿をつくる許可をもらって来い。会見場で、そのときササを咥えたカラスが宮廷にあらわれる。それで帝は御殿建築を許されるであろう。といった。都でそのことが実際におこったことで、許可され、島に帰ると、カラスが現れ、島を巡って、御殿の建築場所を三笠浜と定めた。

1168年神社宮司の佐伯景弘の朝廷提出の書類が残っている。そこには、「大野瀬戸をはさんで地御前(神領とよばれた)に外宮・19棟(宇)、鳥居1基がおかれ、本宮に37棟(宇)、門、鳥居4基が記されている。回廊113間とかかれ、今の社殿と同規模で海上社殿であったことと考えられる。宮島町史」

平清盛は1146年から1156年まで安芸守護職にあり、宮島参拝の記録は1160年、1164年法華経(平家納恭・国宝)奉納などが記録されていて、生涯の参拝は6回(源氏と平家 渡辺保)10回(宮島の歴史 宮島学テキスト)11回(源平争乱 上横手雅敬)などがいわれて定かではない。神社造営といっても清盛のポケットマネーでおこなわれたのではない。これまで獲得した領地の権益をつかった。1164年に北広島町志路原が平清盛から神社に寄進されている。

佐伯鞍職の営造申請から一世紀のち1287年ごろ神社参詣した一遍上人を描いた絵図が残っている。中央に舞台が設えられ、回廊が周囲を巡っている。これって、屋外コンサート・アリーナじゃないのか!
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3/10読売新聞に宝塚歌劇団のトップスターのサヨナラ公演記事がでていた。劇場周辺は1万人のファンで埋まったとある。関西にいるとき、宝塚は六甲、有馬、三田、北摂への分岐点でよく走った。だから劇場周囲に1万のファンの人ごみの凄さは伝わってくる。歌劇団のファンクラブは統制のとれた親衛隊だ。そのファンがあの狭い車道にあふれて・・・すごい。すごすぎる。そして、今自分の頭を占領している厳島神社の巫女たち、内侍を連想した。彼女たちもアーティストだった。
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厳島神降臨の主役たちは神社の東の三翁社に鎮座しており、佐伯祖先の所翁、神烏の岩木翁、それに平清盛の三柱に寿徳、竹林の内侍がそばに仕えている。「厳島神社内侍は女性神職・巫女。参籠した貴人に今様朗詠、舞樂などを奉仕した。ウイキ」
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そして怪しい話、「清盛の第七女で後白河院に召された御子姫君は、清盛と厳島内侍との間の子だという。ウイキ」清盛さんはこんなこと、していたのだ。

祭りや神事は神々の魂の台本をこの世に再現させるイベントで、たとえば出雲のスサノオは秋祭に神楽で必ず出現させられる。その台本がいつか失われその訳も不明になっても、幾度も再現されえ、神事自体が失われる事を人々みな恐れる、といわれ持続されるエネルギーが生み出される。

平清盛が、都人が行う“管絃遊”をここに移しておこなったミュージックコンサート管絃の祭は同時に潮流の祭りで、夏の大潮の夜に執り行われる。厳島神社の大鳥居の真西に妹背の滝の大頭神社が祭りの最西端として置かれ、本宮が最東端になる。真北に地御前神社と極楽寺が置かれて祭りの庭の四方が定められる。西の清盛塚のある小山を西崎、塔の岡の千畳敷の宮崎をむすんで、千燈(僧)供養にはこのラインに松明を設置したという。夜の闇の海にうかぶ神社の炎の結界ラインだ。神社回廊の鳥居への先端が火焼前・ヒタサキと呼ばれる。薪能がうかんでくる。現在のそれは花火大会になるのか。

潮流は月と太陽と地球とのコスモスワールドから、神業、地球の南北の軸を基線に引力の活動があらわれる。海流と違って潮流はすべての海が膨らみ、又しぼむ。南北ラインは北辰・北極星のラインだけではない。海人は汐とたわむれる。
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平家滅亡のち、鎌倉幕府は厳島神社の佐伯鞍職に海に沈んだ神器の刀剣を探すよう命令している。佐伯は平家を名乗ったこともある。幕府は海人が、船釘がさびることを嫌うこと、それ故に鉄その存在に鋭く反応することを知っていた。佐伯鞍職が海人だと幕府は見ていたようだ。壇の浦に沈んだ刀剣は発見されたことになっている。

管絃祭の御座船往来の軸が南北線になっている。この潮流の動きは神社本宮鎮座の三笠浜(三笠山の春日神社の鹿を連想してしまう。)の広い干潟の出現で実感できる。神社下の干潟を埋める神社本殿への土砂流出は度々起こった様子で神社裏へ流れ込む紅葉谷川・御手洗川と白糸川を神社西へ誘導する河川工事が毛利氏によっておこなわれている。川が運ぶ土砂を海へ誘導し、神社が海に洗われ、また引いてゆく舞台装置の保全になっているようだ。
潮流を差配する神として厳島の神はおられたのではないだろうか。
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今年の管絃祭は8/1に行われる。午後4時から神事がはじまる。17:40に鳥居から出立、19:30に地御前神社前到着。20:20出立、23:10神社回廊・火焼前、24:00本殿に帰還ノスケジュールで行われる。18:50すぎに月がのぼりはじめる。24:00ごろ天頂に月齢1.0の満月が輝いている、晴天ならば。潮汐カレンダーでは、8/1は昼前から引き始め、17時ごろから満ちてくる。24時前に汐が引き出す。
御座船は満潮の境内から引潮に導かれ、鳥居へすすむ。ゆっくりとすぎる時間を船はただよい、潮目を待つ。そのあと夏の午後の陽ざし輝く海へ満ちてくる潮流につき動かされ、北へすすみ、またおなじく汐に動かされて、満潮の本宮に帰還する。
こう言うと御座船の引き船担当の江波と阿賀の船頭さんたちに申し訳ないのだが。引き船は御座船のハンドルなのですよね。

水面と砂の庭が舞台装置になっている。ドライアイスの雲が流れる舞台の原型が平安のころには完成していたのだ。古代の神々のレジェンドは神事として再現された。仏の世界は寺院本堂の須弥壇として再現されているのではないだろうか。
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by forumhiroshima | 2015-03-13 06:22


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