こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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音戸開削伝承の証拠

能美島の大原をでて早瀬大橋を渡り、倉橋島へ渡った。

倉橋島は万葉集に長門島と詠まれている。歌に詠まれた時代がすぎ、島の名は倉橋とかわった。倉橋は古代の朝廷の支配地の部民の名称だという。古代に江田島と対岸の矢野を含めて安満郡、能美島と対岸の地御前を含めて海郷と記録されて、このあたりは、飛鳥時代に中央支配の重要な地域であったようだ。瀬戸内海でこのように朝廷直結の地域は多くない。

江田島市は東、西、能美島と江田島と呼ばれた島の集合体だ。倉橋島も北部は音戸島と渡子島に東西に分割して呼ばれ、南部が倉橋島だ。
国々が九州は九つの国の集まりとして、四国も四つの国の集まりと時間の經過があって認識されて全体の島の地名ができてきたのだろうか。それまでは、九州は西海といわれ、四国は南海であったようだ。ぼんやりとした集合地帯の呼び名におもえる。中国・道教の影響による呼び名だといわれる。中央の認識でおおきな地域が区分されて呼び名が発生するのだろう。国土地理院の古代版役所があったにちがいない。
アメリカが合衆国とよばれるのは、Stateを中国語の州と翻訳したのが後に”衆”にかわったからという。明治ごろは、合州国であったという。例としては日本、本州の州が示している。

しかしこの地域のおおきな能美、江田、倉橋の島が部分で呼ばれることが今にのこり、島の全体としての地名を持たないことはなぜだろう。
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四国の伊予から江田島や能美、倉橋などこの島々一帯を古代支配していたのは、中世の河野氏、その祖先になる古代の越智氏といわれる。越智は8世紀に一字を好字の二字で表す流行があって、もとは「越」であったという。「古代の越智氏のながれをくむ河野家の家伝“予章記”には、当主の越智守興が、朝鮮半島であった白村江の戦い663年に派兵されて中国・唐の捕虜になり抑留されているとき、現地妻を娶ったという。守興の子の玉興が“常に唐船なども着く”海で唐船の主と問答をした。“我ハ唐土越ノ国ノ者也”で話は始まり、昔中国へ渡ってきた伊予の大領守興の子供が私だと話になり、我が弟なり、ということになった。 森 浩一」

倉橋といわれる古代氏族は倉椅、椋橋、椋椅と漢字表記は違うが各地にあって、朝廷が支配した地域の豪族といわれる。これは、平安時代初期につくられた「新撰姓氏録」という古代氏名名鑑の資料から導かれている。このめんどうな史料整理作業をする人がいることが不思議なのだけど。

その倉橋に摂津の椋橋部連氏という一族が記載されていて、物部氏の同族とある。その記述を丹念に調べ上げ、物部氏が大和に入るまでの道筋をしらべたのが、大阪教育大教授であった鳥越 憲三郎で、物部氏一族が卑弥呼の邪馬台国であると発表している。邪馬台国は九州で発生し、東征して大和へ入ったとしている。その移動の過程で、伊予に残留した人々を伊予物部、越智氏という。古代卑弥呼の国の御一行がこの海の沖を航海したと、彼は新しい神話を語っている。そしてその一派・河野氏の古代氏名の越智の「越」の、この列島への拡がりも注目されている。

同志社大学教授の故、森浩一は、「越」は日本海沿岸の福井・石川・新潟・富山と同じ広い地域の人々の暮らしが中国や半島との繋がりを濃くもっている場所だという。「越」をオチか、エツかだが、森は福井県丹生の越智山をオチと読むことなどに関連して、古代の日本海と瀬戸内海の海人たちを連想している。

古代は越智、のちの河野氏の伝承を伝える「予章記」に、中国に抑留された越智守興は、帰国してから、それまで使い捨てされた土器(素焼き土器)から、唐土茶碗を使うようになった。中国・越から越の陶器(釉薬使用の陶器)を使いだしたことで、彼らの磁器輸入と流通への関わりが、いまの我々の日常の磁器食器の使用の習慣の発生だといわれる。国産で奈良三彩が後につくられる要因の一つが河野氏の海上運輸業にかかわっている。

瀬戸内海で暮らし、航海する人々は、海からの展望によって海岸の山や岬、浜などの区別で地名が付けられた。のち陸上がりし、海の暮らしと離れた人々の陸地に情報の地名が優勢になり、そこが島か陸地か、とを区分され、「島」として発見され認識された、となるのだろうか。「島であること」の発見者は、ヒマな旅人、ちょっとおかしい冒険家、支配者の都合で派遣されたお役人か。その発見の經過がこの海域にはなかったから、切れ切れに一つの島が区分されて、いまに続いているのだろうか。海上から判別できる地形の理解さえあれば、それでいい海人たちの領域であることが、いまも続いているからか。

音戸大橋がみえると、そのむこうに新しい車専用橋が空を渡っている。出来たこと、知らなかった。陸の車がなだれ込んでいる。瀬戸を渡る渡船はまだあるのだろうか、と心配になった。すっかり瀬戸内の渡船はすがたを消してしまっているから。海岸に出ると、海面に浮いている船着場が波にゆれていた。
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渡船乗場のそばを松山航路のファリーがとおりすぎた。
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乗場が震えるように大きく揺れている。詰襟の学生服の高校生が、ひとり揺れている乗り場で向う岸を眺めていた。
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フェリーの波がまだ静まらないうちに、海上自衛隊のキャチャーボートが波を切り開いていった。海の匂いがたちのぼってきて、空気をこくしているようだ。

清盛の音戸の瀬戸の開削伝説は、とかく、事実でないといわれる。昭和26年に運輸省による開削工事が行われていて、航路の拡張と堀削-5mがおこなわれた。運輸省のお役人でこの工事関係者の長野正孝は、著作・広島湾発展史で、この工事の困難さから、古代の開削伝承に疑問を投げかけている。
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瀬戸の西にある航海安全の納経の清盛塚に客船がH14年衝突事故をおこした。音戸の瀬戸の北と南の入口に浮き灯台があって、それを目印に航路ができているようだ。清盛塚は瀬戸の一番狭い位置につくられている。清盛はこの難所の航路の要点に塚をいたのだろう。彼らは、とても海に近い人々なのだから。
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渡船を降りると、そこは警固屋の家並みが現れる。
音戸の本土側の三津峰山半島の警固屋の地名は開削伝説からの発生だという。警固屋は開削工事の人夫小屋を食小屋・ケゴヤを置いた場所がのち、毛利氏が音戸の瀬戸の警固の武士をここに置いてから警固屋に変わったという。いまも作業小屋を飯場という。

宮本常一は「日本残酷物語2」禁じられた海“瀬戸をひらく”
「海人が海面近くの岩を割り、そこに穴を掘り、火薬をつめて割る。その岩をロープで括り
引き潮をまって、その岩の真上に舟を置き、丸太を二本舟に並べロープをこの丸太にひっかけ、潮が満ちてくると、舟はしだいに浮き上がる。すると岩が海の底からはなれ釣りあげられる。それをソロリソロリと海の深いところまでもっていって落とす。」と仁保の向洋から対馬に漁にいった橋本米松老人が語った話を残している。向島の集落に橋本の表札をさがしたことがある。その向島の漁師たちが、個人で対馬の入江を開削した話があるほど、ならば、清盛の土木力をもってすれば、できないはずない。
ただ食小屋の人夫を使ったのは清盛の異母弟の平頼盛ではないかと、角川・地名辞典はいっている。

音戸の警固屋で作業した海人たちは、中国系渡来の経歴を匂わす河野氏たちより、もっと古くこの海で漁労生活をしていた、海人の人たち、縄文時代にまで遡れる時間を生きてきた人々だろう。それは、彼らが、その痕跡として今に伝承させる「カラス」が、警固屋の東、高烏山の山頂に八咫烏として鎮座しているからだ。
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by forumhiroshima | 2015-04-30 11:20

戦後処理

1555年の厳島合戦ののちの1561年に厳島神社の大鳥居が毛利元就によって再建されている。平清盛が1168年の創建とされていて、この再建が5代目だという。いまの大鳥居は明治維新から7年ほど後の1875年再建になる。今年で140年続く海水浴。頑張っている。
宮島町歴史資料館の史料をみると、大鳥居が存在していない時間があるようだ。大鳥居がない景色は想像してなかった。
1546年に大内氏が再建用の用材を倉橋島に探していて、この事業を元就がひきつづいたのだろう。厳島合戦で大鳥居が失われたのではないようで、記録では1371年に造られてのち、2世紀の經過があって毛利元就の再建になる。元就は大内氏同様その用材のクスを倉橋島にもとめている。

「毛利元就と陶晴賢が厳島で戦ったときの、この海戦に両軍合して約1100隻の軍船が参加するが、その多くは10人以下しか乗り込のできぬ小船であり、武器として金突き、藻刈鎌を用いている。金突きというのはヤスのことで魚をつく漁具であり、藻刈鎌は海藻を刈り取るときに用いる。ともに漁具であり、この海戦にかりだされた者が、どういう性格の人々であったかを知ることができる。 宮本常一 海に生きる人々」

「もともと海上の漂流物はこれをみつけた者がとってよかったし、筑前・宗像神社ではその漂流物を神社の修復料にあてていたほどであり、海から流れてくるものは海岸住民にとっては得がたい宝物の一つであったが、それだけでなく、すすんで沖ゆく船の積荷までとるようになってきた。 宮本常一 海に生きる人々」

「16世紀、戦国時代の中部瀬戸内海に活躍した海賊たちの多くは陸地に領土をほとんど持っていなかった。彼らの根拠地はいずれも耕地を開く余地のない小島で、日頃に何十隻もの船を停泊させることが困難で、船は絶えず集まりまた散じていたものであろう。  ただ昔、海部、安満と呼ばれるような郷が成立するところは、陸に上がり、塩焼きなど稼ぎがあったと思われる。宮本常一 海に生きる人々」
江田島の安満郷、倉橋島の海郷としての史料になる”和名妙”は9世紀初頭のものだ。そのころ、この島は朝廷とつながりをもっていた。彼らは、「漁労や海運、製塩、農耕などの半農半漁の形態の生活を営初めていたとおもわれる 宮本常一」。

人々が陸上がりして、定住しだした場所を「国」といったのだそうだ。「国」は海から見たという言葉だという。国がこの列島にたくさん生まれ、その国ごとの領主を庭に集めて朝の会議を主催するところが、朝廷とよばれた。そして各々の国を統率する人々を朝廷は現地の役人として任命する。地元の、そういった人々に、江田島は衣田氏、久枝氏などが、大原の山野井氏文書(14世紀ごろ)にみえる。能美では中村氏(いまの中町)、能美氏とも文書に現れる。この人々は山野井氏の別れの分家と文書にある。その宗家の山野井氏の本宗家がある。それは伊予の河野氏で、この家は神代からの伝承をもっている。

伝承は、大和朝廷の歴史より古い。大阪・河内に降臨した神様がいる。彼はニギハヤヒといわれ、古代豪族の物部氏の祖になる。大和・生駒山中の領主ナガスネヒコと同盟し、後に渡来した神武天皇を生駒で撃退した。神武天皇一行は紀伊半島を大回りして大和に現れる。そのときニヒハヤヒはナガスネヒコに離反し神武天皇に従う。物部はナガスネヒコが持つ大和の土地の”御魂”を抜き、神武へ移送したとは、折口信夫がいっている。物部は”もののふの”マジカルな宗族だという。古代社会を生き抜く力は、ここらにあるのかもしれない。

「ニギハヤヒは北九州に最初に降臨し、瀬戸内海を東進した。その時、伊予にも一族を残している。その伊予物部氏はニギハヤヒの後裔となり越智氏とよばれ、伊予国風早郡の河野郷の居住し、のち河野氏と称した。」と歴史学者の鳥越憲三郎はいう。彼らの守護神が大三島の大山祇神社、その所在の地名が越智郡とよばれるのは、この伝承による。

山幸彦の孫になる神武天皇一行は日向の美々津を出航し、九州・豊国を西に周り、筑紫国へ立ち寄り、のち安芸国へ寄港する。ニギハヤヒは、また海幸彦でもあると、天橋立の籠神社にある系図にある。神武が訪ねた西の国すべてに海人が存在している。

その海人たちは。
「河野氏の系図である”予章記”によると、河野氏の中興の祖・河野通清は大蛇と人間の女との間に生まれ、身長八尺もある大男で、顔面と両脇に鱗があった。
伊予の対岸になる豊国佐伯にいる緒方一族の緒方三郎惟栄・コレヨシは河野通清と同時代の源平合戦で活躍している。緒方三郎には背中に蛇の尾の形と鱗の形があった。このことから、緒方は尾形からといわれる。
筑紫国の宗像海人も胸形、つまり胸に入墨をしていたから、そう呼ばれたのでは、と金関丈夫は言っている。
筑紫国・志賀島の安曇海人が、眼のふちに入墨をしていて、安曇目とよばれたことが“日本書紀・履中紀”に出ている。安曇氏は鱗のまつわる伝承の保持者でもあった。安曇の神を祀る対馬・わだつみ神社の宮司の長岡家には代々鱗のあるものが生まれる。安曇氏の祖の磯良の墓がこの、わだつみ神社にあってうろこ状の亀裂でおおわれている。 谷川健一・青銅の神の足跡」
出雲大社の神有祭は渡来するウミヘビを祀るものだった。列島での国起こりの伝承は、海水でびしょ濡れ。そして、その世界に自分は憧れる。見てみたい!

びしょ濡れの伝承の一派である河野氏の分派の大柿・大原の山野井氏の分家能美氏は、1522年山口から大内氏が芸州に出陣してきたおり、これに水軍として参戦している。大内氏が家臣の陶晴賢により滅せられたのちも、これに従っている。(大柿町史)厳島合戦にも陶方で参戦し、戦後能美島で残党狩りがおこなわれている。飛渡瀬で戦いがあったといわれる。このことで能美氏は滅亡した。江田島・能美島はこののち伊予の来島・村上氏に毛利輝元から与えられた。能美氏の幼児の能美卿丸が生存し、のちに来島氏から領地安堵され存続した。毛利輝元が指示した厳島神社大鳥居債権の楠はこの島からきりだされた。この作業は能美左馬充が指揮したと大柿町史にある。
「山野井氏とその一派は大内氏に属して戦功をたてたり、陶氏に属して滅ぼされ、あるいは毛利氏に仕えて(※能美卿丸のことか)御船手組に属して今日に至っている。その本家は旧地にとどまって動かなかった。 宮本常一・瀬戸内海の研究」大柿・大原の大古小学校と灘尾記念文庫・大柿地区歴史資料館の間にいまも山野井家が存在すると聞いた。まだ訪ねてはいない。ニギハヤヒ伝説からすると上古からの家系となるのだけど。
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津久茂半島から海上自衛隊、術科学校から小用へぬけて、海岸線から秋月弾薬庫を抜けるルートにでた。このルート、海上自衛隊貯油所までの車道沿いに桜並木があって、散った花びら絨毯ロードを満喫した。
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路面をひたすらににらんで走る事になるサイクリングは、花が散る季節には、京都・嵯峨野の祇王寺の桜見状態、と言っておこう。清盛さんには心キッリと傷んだ花見か。
峠越えで西の飛渡瀬におりた。
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島一番のロードサイド商業施設は賑やかで、避けて旧道を選択です。
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巨木伐採の場所探しなのに、今ある巨木をさがしてキョロキョロ。ここが古戦場となるのだと、お寺へ寄ってみた。境内の銀杏の大木が芽吹きはじめていた。だが古戦場の案内はどこにもなかった。
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厳島神社鳥居用の大楠は中村村いまの中町から、もう一本は大柿・大原の新宮八幡神社からといわれている。中町には神社が二つ、二宮神社と八幡宮。まず学校そばと地図にある二宮神社をさがした。

神社拝殿が保育園の向こうにみえるが、到達する道が見つからなかった。扉の閉まっている園内に侵入。窓から事務所に会釈とヒヤ汗で通り抜けた。なんと駐車場の奥だった。保育園そばと駐車場に大木あるが、どこか存在主張がない神社だ。神樹を刈り取られたからか?
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中町の役場から南下して峠の取り掛かりに鳥居が八幡の森の入口に鎮座している。でかい楠木があるある。さて、ドッチ?から楠がひきだされたのだろう。
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大柿の新宮八幡神社は長い石段と広い境内と、背景は鎮守の深い森。ここは山野井氏の氏神であったという。
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大原は南から北へ緩やかに広く傾斜して、そこに南から流れ込む流れが神社で直角に西へ方向を変える。豊かな流れで、島とはおもえない。
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はじめてここに上陸した一団は、迷うことなくここを定住ときめただろう。なにが起こってもその人々はここから離れることはなかった、物部の末裔たちは、この土地の御魂を守り通す。そこ、この土地に水がくばられる、そこに彼らの鎮守を置くことから、人々の営みがはじまった、と、思えた。
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by forumhiroshima | 2015-04-13 11:24

さくら花の絨毯の島へ

雨模様とあった天気予報が、外れた様子で、曇り空が明るくなって、自転車に空気を目一杯。
なんだか海へ、の気分に連れられて、宇品港のフェリー乗り場で切串ゆきへ。
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切串港から西へ、すぐの幸の浦集落の家々を縫う細い古道へ入った。
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「幸」の地名の小さな集落の中心に、大きな岩が幾つか並んでいて、その一つを大木の根が抱きしめている、ちいさな境内の荒神社がある。道途中にある桜は、すっかり昨日のサクラチラシの雨で、路面を山茶花と山吹も加わって大地の“散らし寿司”になっている。
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ちいさな瀬戸内の集落の多くは、ちいさな社とそして説教所と呼ばれる無住の寺、
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そして頑張って小学校の分校を造ってきた。行政が教育環境だとかライフラインだとかに関われる実力を持つ前の、自分たちの力で解決したころの佇まいが、朽ちかけている。

幸せな地名、「サイ」は賽の神の連想で、”区分する”場所とからと思っていた。今は江田島市としてくくられた、能美島と江田島との区分が、古くはこのあたり江田島にあったといわれる。この集落に車道が造られて、島の中心部の鷲部とつながったのは1986年で、その年にこの道路でトライアスロン大会が開催されていることで覚えている。その30年前、それまでは、”孤島”だった。孤立していた集落へ市内から運搬船が通っていた。

高校生の時、家業の手伝いで島へ送る荷物運びをさせられて、よくこの運搬船の接岸している本川沿いの舟入町のガンギにいった。夏休み、和ケ丸という運搬船の親父さんに頼んで、自転車を乗せて、江田島の自衛隊術科学校そばの鷲部・矢の浦まで乗せてもらった。そのとき、幸の浦と西隣の大須に寄港した。尾根まで耕された段々畑のある景色は”写真で見たような景色”で印象が深くて、また、ここに来るには自転車は役立たない、と妙な無力感があった。
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運搬船和ヶ丸の親父さんが港で話し込んでいる間に集落の路地を歩いた。そして岩座の神々しい荒神さんをみつけて、神々と人々との空間の近さがそこにあって、とても新鮮だった。
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あのころと変わらない荒神さん、境内でふと、ここの「幸」は海幸彦の「幸」でも、それは、話としては面白いと。
「天」から降臨したというお父さんを持つ兄弟で、兄の海幸彦の釣針を借りていた弟の山幸彦が、海でその針を無くし探しに入った海中の海神・ワダツミの宮でお姫様の豊玉姫と美味しい生活のあと、探していて発見した針と、お土産の魔法の玉を持ち帰り、魔法で兄をいじめて懲らしめるお話。豊玉姫の海の勢力が、山の王子様に味方し、なにも悪くない海の王子様を懲らしめるとは、納得いかない。そして「幸」は山幸彦の専用の力となり、以後この子孫たちは「幸」の御霊を持つといわれる。それゆえにか、明治期の宇品港完成の視察にこられた天皇の足跡に“御幸”と付けることになる。「幸」は天皇から配られるものになる。

江田島・倉橋島と矢野の一帯を古代の安満郡・アマゴウと呼ばれていて、1146年に安芸守として平清盛がこの地との関わる最初の土地である。この荒神は海・アマの集落らしく、海幸彦の「幸」を守る人々の神の所在で、ゆえに「幸の浦」と呼ばれる。ナンテ!

「宮廷を中心とした祖先の一族が、この土地(列島)にすみつく前から渡っており、また後から渡って来たもののなかで、最も目に付くものはすなわち、海部であった。これは、はじめは海人部・アマヒトベ、しだいにこれを略して海部・アマベ、または「アマ」という。平安期には「カイフ」と音読するようになった。諸国に「アマ」、または「カイフ」という地名が散布しているが、海部が歩いた跡に残したものである。海部は蛮人で、我々の祖先と非常に関係が深かった。それは邑落の生活において、互いに交渉が深かったのである。すなわち、宮廷と隣接して生活していたからである。日本の伝えのうえに現れてくる蕃人で、もっと適切にいえば、われわれの祖先の古い物語にいちばん交渉の深い蕃人である。海部のほうからいえば、われわれの祖先のほうを蕃人と見ていたかもしれない。 折口信夫・全集2」

幸の浦の西の大須へ。宮本常一はここ大須について「江田島北端の大須・オオズなども、まったくおきわすれられたように、ひっそりとしていた。わずかばかりの家がよりあって生活をたてていた。すぐ目のまえによい漁場をひかえていたことで、周囲の村ともたいしてつきあいもせず生きてきた。  集落の中に車の通れる道はないし、この集落と他の集落をつなぐ車の通る道もない。広島とむかいあった島に、こんな孤立した浦がのこされている。 私の日本地図4」  ※ここを尋ねたのはS26ごろのことだと、巻末の解説にある。
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大須の集落の中央、廃校になった大須小学校の校門前に“吉和鮮魚店”のカンバンを見つけた。
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魚屋・吉和とあれば、尾道の西端、JRおのみちから旧2号線を西行し尾道商業高校の交差点あたりのJR路線の北側あたりの集落が吉和の町で、戦前の地図には、そのもの・ズバリの漁師町とあるところ。夫婦で小さな船で瀬戸内から九州の西海岸までを航行し漁労していた漂海民と呼ばれた人々の故郷である。ここの阿弥陀寺そばの墓所隣に長四角の広場があって、弓練習場との名がのこっていて海の武士(海賊)の伝承を持っている。仁保・淵崎のカキ養殖発祥に関わったのは吉和屋平次郎で、“吉和”関係者では、と自分は思っている。漂海民の彼らがそれぞれの新天地で定住をはじめていた、と。
その“吉和”鮮魚店が大須の集落で営業されていたとあれば、大須の人々は魚を買っていたのだから、漁師ではなかったのだろう、と思う。吉和のおっさんがつくる刺身、まかしとけば美味いこと間違いないと。でも島で魚屋があるところ、って普通にない。大半が町になった場所で仕出し屋さん、という形しかないようだ。吉和鮮魚店は残念にも閉店されていた。もし開いていたら、ここで停滞、刺身で一杯、海はきれいだ1だったろう。残念です。そばの小学校も廃校だった。どこも、立ち枯れて、いっている。
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集落の東の尾根の小さな神社へ上がってみた。祭り用だろうか太鼓が拝殿に二つ滑車をつかって吊り下げてある。帆柱用の滑車が、すごく気になった。神社の名はわからない。海の神様だろうか。滑車にきいてみようか。大太鼓での祭りがある様子。
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地図にあつた大須港の錨マークは地方港の指定マークで漁港よりひとランク上。港の好適地ってことだろう。海運の集落であったのだろうか。もしや、この集落は隠里であったのでは。

大須の港から尾根を切って西へ下ると、大須の分かれの集落に降りる。ここに港らしき海岸もあって、船溜まりの好適地になるWトラックの地形。江田島湾の出入りがここで押さえられる。

江田島で尾根が海に出っ張ったところは、みな「鼻」と呼ばれるようだ。大須の中央の鼻は“鼻グリ”と地図にある。ある人いわく。「陸地からみて海に出っ張るから“岬”、海からみて出っ張った陸地は“鼻”。陸地にいない漁師の言葉だ。」そうです。「鼻」には秘密がある。「鼻」では見えない海底を見なきゃ一人前の漁師ではない。山から延びる尾根の末端が海中に入る。そこを「根」といい、これが高い場所から見える海底で、魚の群れがこの上を通過するときに魚影がわかる。そしてここで潮の流れが変わる。魚が回遊する場所を探す目標物でもある。大須の「鼻グリ」の“クリ”とか“グリ”は石コロをいうから、ここは石コロが集まっている場所なのかもしれない。潮の流れにどんな影響があるのだろうか。漁師でなくてはわからないだろう。「根」には、大体呼び名がつけられているそうで、海図には記載されるそうで、海の底にも地名がある。

大須から海岸道路は南下しはじめる。カキ養殖の作業場は、忙しくコンベアの音がしていた。そこから小さな峠をこえると、青少年交流の家の施設が現れる。この峠越のラインが古代の江田島と能美島の境界だという話がある。道路の左は津久茂半島と呼ばれる「鼻」ではなくて、ダンゴだ。

しまなみ海道の伊予大島の南海岸に九十九島がある。九十九はツクモと読まれる。しまなみ海道サイクリングロードはこの集落の後ろ、北の尾根を越えた場所を通っている。
九十九島の大島側に鹿老渡の集落があるが、この地名は倉橋島の最南端にある。朝鮮半島のあった「古代のカラ韓国」という国への渡航基地の港であったという。カラへ渡る意味になるのか。
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「九十九・津久茂」や「鹿老渡」は、伊予の人が運んだ地名か、安芸から運んだのか。この地域はとても近い関係であった。
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by forumhiroshima | 2015-04-10 05:40

厳島の合戦・余話

清盛から約4世紀のち、毛利元就は宮島の有ノ浦に砦を築き、敵対する陶晴賢の大軍を宮島に集中させる戦略を取ったといわれる。「陶晴賢 騎卒(兵)二万、戦艦千余艘を統べて・・」と江戸時代の歴史学者・頼山陽は記述している。菊池寛は陶晴賢軍の船団は7百余と書いている。

合戦の五日前に、元就が息子の小早川隆景に送った書状では「厳島到来に途中で逗留など笑止千万、(いそいで早く来ないか!)こちらの川の内・エノウチ警固船五六十程も仕立て候申し越し候、小早川御警固六十、七十そうも御着候、来島警固及ばず候、(村上・来島海賊)御方、川の内、多く警固候て、敵舟の事は充分ちらし候て見るべくとの申し事候、いかに来島けいごと申候ても、宮の城落城候て以後は、いらざる事候、(もし到来が遅くて城が落城していまえば、来島氏が来たとしても、どうしようもない)まずます御方(小早川)の御けいごを夜を日についで有るべく候(早ヨ、こんかい)」
川の内衆と小早川との合計で110から130隻。来島の村上から応援の連絡があったが、開戦には間に合わない。能島、因島の村上は応援助太刀の返事はきていない。この時期に村上水軍が陶方からも応援申し込まれていたようで、日和見であった。そうなると、これはこれまでいわれていた厳島合戦の陣営は”毛利+村上連合”の図式がなかったことになる。

決断の毛利輝元が川の内の海人たちを信頼していたのは、伝わってくる。この川の内と呼ばれた人々は、牛田の浄土真宗派東林坊本願寺の願通和尚の率いる人々で、そのころの仁保島城主は願通であった。東林坊願通は太田川河口の扇形のデルタ地帯・五箇荘の支配権を有していて、周防の大内氏の反浄土真宗へ抵抗しており、大内氏に対抗した安芸武田氏に加勢していた。後に安芸門徒とよばれた人々が、この一団の海人だった。陶晴賢も大内氏の親族である。安芸武田氏滅亡ののち彼らは毛利輝元を加勢する。

毛利元就と安芸門徒・川の内衆との関係を「門徒が毛利氏の領民でありながら集団では独自の姿勢をとっているかのような気配があるのは、当時の世間からみて尋常なことではない。・・・毛利氏が支配者として持ちがちな嫌悪感をすこしも表にださず、絹のような手触りで接触し、門徒のエネルギーを自家の利益にひきつけて行ったあたりは、さりげないことながら・・・司馬遼太郎 街道をゆく21」
そのころ、真宗門徒は一向宗ともよばれ、封建領主支配へ各地で氾濫、抵抗をしていた。

安芸真宗門徒は「在郷の地侍の子が真宗僧になり、郎党がその門徒になるというぐあいで、兵農不分離時代の武装者であった。・・・”主従はたかだか一世だけの・この世だけの・契りではないか。阿弥陀如来は未来永劫”・・・ 司馬遼太郎」

彼らは強かった。後の信長との石山寺合戦で、頼山陽は「何ぞ図らん右府(織田信長)千軍力、拔きがたし南無六文字の城」といっている。

毛利輝元は厳島神社の東の丘、いまの塔の岡に陣取った陶晴賢の陣屋の裏尾根・バクチ尾に、鼓ケ浦とそのころいわれた、包ケ浦から上陸して、尾根を越え奇襲をかけている。これが合戦のキーポイントだという。この軍団の移送に川の内衆がかかわっている。包ケ浦のキャンプ場の松林横の小川をたどって、ツヅラ折の山道で尾根をぬけるルートは同じではないだろうが、今もある。宮島ロープウエーにMTBは子供料金で載せてもらえた。包ケ浦へ弥山からのMTBのダウンヒルコースにして下った。そこは脆い花崗岩のすべる路面と、とても怖い勾配だった。おもしろいよ。
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毛利一軍がこの坂に取り付いたころ、表の有ノ浦へ、乃美宗勝が”応援に参じた宗像侍”と虚偽をさけんで、船団の中央突破をはかっている、とは頼山陽が書いている。乃美宗勝も”南無六文字”の侍だった。

二つの船留を分ける岬の城と正面突破、そしてひそかに裏面からの総攻撃。勝利に余裕を持った毛利軍は逃げる陶晴賢をいったん追わずに、火災の恐れの神社の保全をしていたという。

鼓ケ浦(包ケ浦)ルートは輝元に、厳島神社の神官から密かに使えられたという。源平合戦ののち佐伯氏は没落し厳島神社は鎌倉幕府の支配となって、派遣された藤原親宣氏が神職になっている。藤原親宣の死去ののち、毛利家は一族から藤原家へ養子をおくりこんでいる。この関係は藤原親宣の祖先が平安京を開いた恒武天皇で、毛利家祖先は貴族大江家であるから、やはり恒武天皇が祖先になるということらしい。平安京建都は794年のこと。この悠久の出来事が理由になるとは。重いですね、日本って。
毛利家からの養子の系統は輝元の厳島合戦には神主家当主ではないようだが、この人脈から、漏れ聞こえた鼓ケ浦間道ルートだったのでは?

いま、仁保島の黄金山は全山桜。昨日の雨の後の晴れは、いっそう深い白桃色を景色に覆いかけていた。明日から散り始めるのか。「花に嵐に中島みゆき 別れはいつもついてくる」。
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この仁保城の城主であった東林坊・願通和尚が支配した”五箇荘”は、段原・長尾・白島・広瀬・打越の五ケ村だとも、葦島(吉島)も平塚も・・?と輪郭が定まらないようだ。
毛利輝元は五箇荘の開発を含め、東林坊の支配権を認め、検地にも”これ ゆるさるべきよう 申すべきこと”と令している。毛利輝元が頼りにした五箇荘の警固船は、東林坊が支配する船で、輝元自前の警固船(戦船)ではないことになる。

いまの広島湾は広島城が五個荘の中州にできてからの名称で、毛利輝元はこの海を川の内(エノウチ)と呼んでいる。牛田に本拠を置き、仁保島の城も支配していた”川ノ内衆”の領域が海の支配領域として吉田から進出してきた毛利輝元様御認定!としてそのころ存在していた、と考えられる。

五箇荘の名は全国各地にあり、その地名については、柳田国男は五個所の村や五個所の荘園でよく説明されるが、うまく説明つけられていない、という。
「原野を区分するのに、野と原とがあるが、どちらも樹林や潅木の林をもっている。その他に草生地があって、これを芝と書いてコウゲと読んでいた。カーカとよんだ地域もあって、草生地に生える烏のエンドウのお茶を出雲弁でカーカジャ(浜茶・豆茶)といったりする。北陸ではカーカを加賀と書いている。この地名が広がって、カガのある場所の国が加賀となった。またコガとも言われ、五箇は“コガ”の漢字表記になる。五個の地名は未開の水不足の草生土で、所有が公的な、国有などになっていない場所をいう。柳田国男」
淀川河口は砂の流入が激しく砂州が現れる場所で、その土地を管理したのが、「摂津」港を司る役人で、初代和気清麿は、出現した中州が満潮時に20cmだったか、その高さになると国有地と決めている。

「拔きがたし南無六文字の城」を最初に一向宗信者が出現させたのは北陸・加賀国。ここ川ノ内の砂州、五個荘に、加賀国のような、安芸門徒の南無六文字の城が出現していたのでは、ないだろうか、などと、芸予諸島のどこの集落でもであった真宗寺院の大屋根の青い海と白い雲との間で鈍色にひかっていた光景をおもいだした。

もう一つ、毛利輝元がきっと気にかけていたことに、瀬戸内の海人たちは紀伊半島の熊野海賊の流れにあったということだろうか。宮崎・高千穂荘は熊野神社の神領で、高千穂神社に、そばの五個瀬川で日向灘に下り、瀬戸内を抜けて熊野新宮で熊野川を遡り熊野本宮にいたる”水手”の存在の古文書があるという。筑紫の宗像の海人との流れにもあることは、厳島神社の宗像神の加古が”川ノ内”衆であることも、輝元は認めていただろう。神武天皇をヤタ烏が先導し、毛利輝元には、川ノ内衆の熊野烏が助勢をした。

我が家系を天皇スメラミコトにつなげる人々と、我が海人の神々の中に生きる人々がこの国にあったのだ。その両サイドとも、「仏は人を導く、その導かれる人を神は守る」と、ある禅僧がTVで話していた。
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by forumhiroshima | 2015-04-02 10:33

海人たちの痕跡

海賊たちの痕跡ののこる場所はどこも静かに瀬戸内のどこでもある景色にとけこんでしまっている。彼らはどこにいってしまったのだろうか。

例えば、伝説の神功皇后の半島遠征に従った九州・玄界灘の海人、安曇たちは、敗戦後、陸上がりを開始している。その痕跡をアズミ・アド・アツミ・アタミなどに残している。彼らの故郷、志賀島のシガも滋賀県などの地名の記憶とされる。
宮本常一は彼らの陸上がりの手がかりは、彼らが生産していた塩を運んだ塩の道の存在を上げている。海と山は塩を媒介として塩の道でつながっている。

663年半島で唐と新羅の連合軍に敗北した白村江の戦いに出兵さされた海人たちは2万人ともいわれるが、彼らは帰国してどこへ。都の河原になだれ込んだ人々は、そのような人々であったかもしれない。

平家の残党は隠れ里とされる山中に潜んで暮らしたという。自転車で走るフィールドで平家伝説の村々は、どこも美しい。でもけっこう厳しい登りがまっていますが。

落人・隠れ里という言葉にはどこか、敗北した武士たちの辛苦が漂ってくる。武士の世界では、都で流浪することは、追手からの逃亡の危険を増すものだった。が、山中に逃れ、世間から距離をおく生活も、しかし、いつしか、そこが人の噂にのぼり、そこを示す地名が付けられる。

江田島市大柿にそびえる陀峯山のテレビ塔へ大原から登ると、山頂のテレビ塔の展望台にでるがその北側のピーク、Google地図では高清水山とある。ここは可部ケ辻と呼ばれていたと思うが、ここにずっと以前小さな沼があった。その以前のころにテレビ塔開設でできた道路の、そばだった。この沼が瀬戸内海の島では最も高い水田跡だと大柿町史は指摘してる。標高は360mを超える。自転車で尋ねて、登坂の厳しさが病みつきになったとしても、初春から初冬までの毎日の田作りの登坂は想像できないだろう。この田への水源は充分にみえた。高清水山の地名は、そのとおりだ。
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昔の名前では、「忍、渚、いや、ひろみ」ではないのだけど、可部ケ辻の“可部”の地名は、安佐北区可部ではここの古代地名の漢弁綾織部の漢弁からと説明される。がしかし、ですよ、宮島の南海岸そばに可部島がある。九州・呼子湾に宗像神社の古社が鎮座する島も可部島という。この島は中国や半島からやってくる商人たちの隠れた港だったといわれる。厳島神社の女神たちは宗像からおいでになっている。なにか、臭ってきませんか。
”可部”は神部で宗像神社の神人たちが、神聖な島として守り世間の目から遮断されて、密貿易もあったやにと、海賊研究・九州大学教授の長沼賢海先生が語っている。

「芋粟の類を栽培し、命つなぐとしても、神祭には、神も人も何とかして白い米を食わねばならない。町にでて換えようとすれば、すなわち山中に通路の跡を生じ、永く桃源郷の静穏を保つことができぬ。隠れ田切石積みもほどなく領主の発見するところとなり、悲しい制裁を甘受せなばならなかったのは、主としてこの弱点から起こる。石を積み畔を張って水を引き、稲を植えようとするがゆえに、人の目に立つのである。 柳田国男」

神の田として山頂に涌く水によって開墾した人が、そこを可部の辻、つまり神の饗の山と見つけられた。そう思うほかないほどの標高とそこへの登り下りがある。このごろは皆さんロードでヒルクライムされるが、ここの下りでロードはお役御免でしょ。皆さんすごい、です。ここを走ると、きっと神部に加えられる資格になる、よ。
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by forumhiroshima | 2015-04-01 21:11


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