こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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シルクロードの小オワシ

呉・宮原町の宮は亀山神社だとおもっていた。グーグルの地図に宮原村と山中に記載があり、そこに若宮がある。八咫烏が宮原の主人だったのか。それにしては、佇まい、寂しすぎる。

急傾斜地の人家の間をぬう、細い唯一の車道が下りはじめ、亀山神社が現れる。明治に呉鎮守府の建設で鎮座地の入船山を海軍の長官宿舎として渡し、ここに移転した。移転以前は八幡神社とよばれ、祭神は神功皇后だ。ただ、皇后だけだはないようで、境内の由来によれば、「神社創建の703年、そのころ、大屋津日売・オオヤツヒメを祭神とする。日売は木の神でこの地域の中心が木に関わる産業であったことの表れと言えよう。また“日売島神社”大分・姫島の神は北の栃原村に天降り、のちここにご遷座」とある。
ここの海には宗像三姉妹をはじめ、女神たちが往来している。さすがシルクロードの最終地点の地域である。

日売島神社の神は「あかる姫」と呼ばれ、姫は半島の新羅から亭主からのがれて、北九州に上陸、次に東進し、姫島に鎮座し次にこの呉に渡来し、のち大阪の西淀川区姫島町、東成区の比売許曾神社・ヒメコソ。東住吉区の赤留比売神社・アカルヒメがある。亭主の名はツヌガノアラヒト(日本書紀)といい、天日槍・アマノヒホコ(古事記)ともいう。日売は追っかけてきた亭主を最後まで受け入れず、亭主は傷心して放浪し丹波に鎮座した。瓦そばの出石・イズジにある、出石神社がその鎮座所だ。冒険家・植村直己の墓所がちかい。コウノトリも飛んでいる。そんな場所だ。

ツヌガノアラヒトは敦賀に渡来して地名に残ったといわれるが、ツノは角で「額に角有ひたる人で、古代中国の兵器の生産神として登場する蚩尤・シユウで、鉄額で、鉄石を食うとあり、頭に角があって、それで戦うとされている。 谷川健一・青銅の神の足跡」

「神武天皇の東征の船のパイロットであったという姿で現れる“ウズヒコ”を祖先とする「紀」族の分かれに木角宿禰・キノツヌノクスネ一派があって、この「ツヌ」は周防国都郡・ツヌグンにあった紀村の人々で、隣の佐波郡にも居住していたと続日本記にある。彼らは半島から渡来した、鉄製造の技術者で「韓鍛冶」とよばれた。岸 俊男。」この地に古代の鉄の専門家の姫君が降臨されていた。その女神をお送りしたのが、木の国の人々だとなる。亀山神社の祭神のあかる姫は造船に使用する鉄の神様になろうか。都濃群はいまの新南陽、周南市あたりだといわれる。伊予・越智氏と隣接して存在している。紀氏と越智氏との婚姻も続日本記にみられる。

「きい、紀伊は、もと木国と書きたるを、和同年間に好字を選び、二字を用いさせられしより書也。・・・とくに楠が若葉をふきあげる季節・・・いのちの旺盛さを感じるのではないか。クスというのは“奇し”からきたことばであろう。・・・古代人にとって、丸木舟の材だったのである。そういうことがあって、古代、楠の老木は崇められ、いまもそうだが、シマナワがめぐらせて神木になっている場合が多い。・・・古代祝い、ここに海部群がおかれてきたことでもわかる。かれらにとって、舟の材になる楠の森への尊敬心も篤かったはずである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」「“紀”という家系の祖ははるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州紀氏であるといわれる。・・・紀氏の祖先は、・・紀ノ川下流平野を総ていた古代首長であったことはまぎれもない。司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」

4~6世紀の古墳時代を記紀は朝鮮半島への計略・派兵の記事で溢れている。その派兵はそれが渡海作戦であった以上、水軍という条件がその基幹となったのではなかろうか(岸 俊男)。紀氏およびその同族は、応神3年紀、仁徳41年紀、雄略9年紀、顕宗3年紀、欽明23年紀等々に現れ、活躍する。彼らの紀国が外洋に面しており、彼らの航海術をもって海峡をわたることができたといわれる。

日本書紀・続日本記にある安芸国のよる造船の記録では、遣唐使用に746年から778年の間に5度計16艘がある。古代の造船地である舟木郷と呼ばれる地域は安芸国では沼田郡(三原市)、安芸郡(呉・倉橋・江田島・矢野)高田郡(高宮・吉田)がみられる。呉は船の材料を呉木と呼ぶことからの地名だと。亀山神社の祭神の大屋津姫のことを考える。伊予国風土記に、越智氏の里の野間郡で熊野という船を造った伝承を記載している。熊野の名が紀国を連想させる。
4世紀から20世紀の建造当時世界一の戦艦大和建造につづく歴史は、三津峰山の急傾斜地にさばりつく住宅に生きる人々が担ってきた。仕事場で付いた鉄の匂いを風呂で洗い流すそんな生活の音が道にこぼれてくるようだ。

広へ向かって呉越えの峠へR174をあがり、トップの呉越の信号の手前で右へ入る住宅の間の道へはいる。下ると休山トンネルの東出口の交差点にでる。渡ると阿賀神田神社横を通り、呉越え旧道ではないかと。旧道に由緒ある寺社の参道が必ず設けられる。
JR高架を潜って、南へ向かう。左に橋が見える四つ角で、路地の登りにとりついて、丘に祠のみえる三叉路で左へ向かう。阿賀の町を俯瞰して、ここも丘をトラバースして細い車道が南へのびている。
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広島駅の南口、再開発されている新しいビルのそばに、源蔵本店という居酒屋がある。二代目に代わって、清潔な店内につくりかえられたが、居酒屋でもっとも大切な酔客の喧騒がいつもある、魚の新しいお店がある。店内のショーケイスの小イワシの刺身がお望みで、覗き込むと、ありますよ!と声をかけてくれるお姉さんが、この刺身を作っている本人である。
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源蔵の前の車道に軽四トラックを止めて、午前中だけ小イワシだけをうっている。そこの刺身がこれか?と尋ねたら、自分がつくっていると教えてくれた。おかしいのは、軽四のおとうさんが、このお姉さんの義父なのだそうで、ライバル?ってこと。源蔵本店のイワサシは新しくて、ぐちゃとしていない。お姉さんの実力がみえる。
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3月にはいってすぐの2週間の午後になると阪神沿線の魚屋さんの店頭に、キビナゴ1kgパックが積み上げられる。クギ煮という佃煮用で各家庭でつくられ、親類縁者に配られる。小魚は干しても煮ても腹を下に「く」の字になるのが新しい。はらわたの新鮮さが形をそうさせる。クギ煮の名は木材から抜いた古い錆びたクギの形とも、煮るとき古クギを入れるからともいう。郵便局はクギ煮用のパッケジを売り出すほど。風物詩である。
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和歌山の港では、早春からシラスが市場に箱でならぶ。朝の漁の成果をその日の内に売り切る。またシラス干し作りには、煮あげる時間が5~6段階もあって、時間差で煮あげられた商品がずらり並んでいる。シラス丼はほとんど生だが、生臭くない。シラス丼にカツオの刺身(タタキではない)定食、たまらんわい。

イワシ漁も瀬戸内で始まる。浜で採りたてを煮て干すと煮干し。生で干すと干鰯・ホシカ。このホシカが木綿や稲作の肥料とされ、大量消費がはじまったのが戦国時代初期といわれる。この需要に対応した漁は、それまで浜で地引網を曳いていた形を、二艘の船で網を引っ張り、イワシの群れを一網打尽にする形に変えたのが、紀国の漁師たちだ。特に綿花生産には大量にホシカが必要とされ、北海道のニシンも肥料にされ、巨大なマーケットが出現した。大阪の南の和泉地方は木綿の大生産地で、和歌山の漁師たちは忙しく、古代紀氏の時代からの勝手知ったる瀬戸内海へもこの船曳網が進出した。東京オリンピックの東洋の魔女は和泉の貝塚市の大日本紡績・貝塚工場の実業団チームだ。(世界のナデシコ、沢がんば!!)
東能美の大君にあった紡績工場はさきごろ廃業されたが、この島で綿花とホシカとの生産があって生まれた。

紀州網とよばれた漁法は広島湾でも無敵の成果をあげ、地元のクレームに技術移転という方法で共存をさがした。広島湾は緑井の阿武山のキレットと本川沖を結んだラインで上下の漁場と区分されたが、すべてが入会という自由さがあったようで、争論が頻発した。なかでも暴れん坊が阿賀のおっさんたちで、自由に漁を玖波・小方・地御前の漁師たちがさせないと訴えている。浅野藩が仲介し落着したが、のちの1694年にまた阿賀浦が地御前の漁師が邪魔すると争論になった。

この争論が決着したのちに1710年から厳島神社の管絃際の御座船曳航を阿賀浦の網船2艘で担当を始めている。江波の漕伝馬船も参加するが、江波は浅野藩の三ノ瀬の藩役所などへの飛脚担当だという。宮島から30kmほどもある距離で、広島湾内でもない阿賀浦の管絃際参加が、不思議におもえる。公式発表は御座船の暴風雨時の救助によるというが、どうかな。

阿賀浦の管絃際お漕船(とんてこんと)の艇庫をぐるりとまわってみた。
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そして祭り前日に安全祈願する住吉社と小さな祠の延崎神社は、ひっそりと人影のない街角に鎮座していた。
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阿賀浦の鎮守の神田神社には朝鮮半島出征の神功皇后の帰途、この沖で暴風雨にあい、ここに滞在した伝承があり、また平清盛の音戸の瀬戸開削とのかかわりの伝承とを残している。
浅野藩のお姫様の対馬への婚儀での輸送を担当した向洋の漁師たちの外洋での活躍など、シルクロードを航行する海人たちと紀国とのかかわりを思ったりした。

呉港からフェリーで宇品港へ。夜の海の闇の濃さが久しぶりです。
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by forumhiroshima | 2015-05-06 10:25

海軍さんのカラス

警固屋の町並みが途切れて、頭上に高架を見ると分岐があらわれる。ふと左の平坦な海岸へのルートを選択したくなったが、目指す八咫烏神社は正面の坂の上にある。弱気になるときが、バテて、きたとき。そばを小学生の女の子の自転車がスィと抜いていった。自分にガンバ!
だらだら坂の上りが落ち着いたところに、分岐がでてきて、ここを山側へ入って小学校を探せば、その裏が目指す八咫烏様。

八咫烏の京都・下賀茂神社の鳥居はまっすぐの二本の横木の神明造りだが、ここは普通の少し上にそった横木のよく見る形の鳥居をくぐると長い石段がすこし右に丘をまいて登っていた。
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長い石段が境内に入る横に由来があった。「神武天皇がこの里にいともあやしき夷等の騒ぎありと聞き、天照大御神を祭り、鎮めたまえと祈りたまえば、八咫烏現れ夷等おそれ国土平穏になるをもって、この山の頂に祠をたて、尊崇しけるとぞ」なんと、八咫烏が主人公なのだ。
またこの社はもともとは荒神であったとある。参道の鳥居のわけがわかった。
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八咫烏が記紀に登場するのは、紀伊・熊野で行軍ままならないとき、天照大御神が派遣した案内としてだ。スタッフエイジェンシー天照社の派遣社員さんが、呉に、どうして?。八咫烏神社は奈良2社と和歌山2社、そしてここと熊本に1社。この貴重な神社から長い石段をくだると、眼下に自衛隊の巡洋艦(?)と潜水艦の基地が見える。ここに大正時代に小さな「からす小島」があったっという。いまは埋め立てられて、「アレイ(路地)からすこじま」と名をのこしている。海軍言葉だからハイカラに英語なのか、米軍接収施設であったからか。

停泊している巡洋艦の姿と造船所をみていると、胸を覆う、なにかが生まれてくる。戦後すぐに、“子供を二度と戦場に送らない”母から“戦争を知らない子供たち”として出生した自分には、反戦があたりまえのことだ。青春時代にはベトナム戦争が勃発していた。今も変わってないのだ。心にいまも織り込まれている。
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神武天皇は、日向の旅立ちの訳を「東に青い山が四周にある、美しい土地がある。その地には天からニニギノミコト(物部氏祖先)が降臨しているという。そこは天下を治めるにふさわしい土地であろう。」と言っている。この海を神武天皇より前に、物部一行は北九州をでて東征している。この列島の数多の国を集合させる国造り神話の主人公たちはこの目の前の海を航行している。

神武天皇は東征の途中この海に入ってきて、古事記では多祀宮・タケリミヤ、日本書紀では埃宮・エノミヤに滞在している。宮の候補地は安芸郡府中町と安芸高田市吉田町だという。神武天皇が弥生時代の出来事の記憶の集合体としての”モデル“だといわれるが、その即位を日本書紀の記述から紀元前660年の元旦とされた。元旦を新暦に換算して2月11日が建国記念日とされた。国の誕生日はこの列島の長い歴史では決めかねることだろう。そうであっても、どこか重いのです。だってBC660って縄文時代ですから、決定は無理してまいす。それとも、神武は縄文の人?

広島城が島普請で造成地に建設されて以後は広島湾と呼ばれた海は“江の内”と呼ばれていたらしい。比治山の西が己斐浦、東が仁保の海。南を含めて、この三つの海を江の内だったようだ。府中町の榎川、可部の根の谷川が可愛川の別名をもつ。上根の峠を上がって、三次へ流れる簸川の別名は可愛川で、土師ダム下流で本流の可愛川・エノカワに合流する。その可愛川が江の川へ。そして神武天皇の宮殿が、「埃の宮・エノミヤ」それが府中も吉田でも、エノカワに接している。ウーン、謎と感じるのですが。

日清戦争の始まるM27年の5年前に呉鎮守府が設置され、M36年に呉工廠ができて翌年のM37年に日露戦争が始まる。広島に国会が開設されたのがM27年、唯一東京以外で開かれた国会である。明治天皇の行宮は大本営(広島城)につくられた。名称はエノミヤかどうか?
戦艦大和の建造は1941年建造。そんな時間がこの景色にながれてきた。

宮本常一 私の日本地図4広島湾付近
「おまえは広島の橋の下でたらいにのせられて流れていたのを拾った子だから、かえしにいくぞ、と言ってたしなめたものであった。
広島の橋の下から拾ってきた子というのは一人にかぎらなかった。
そこでわたしの子供心には、広島に大きな川があって、その川の川上の方から、子供をのせたたらいがつぎつぎに流されて来、川口付近にいる船が、その子を拾いあげてはかえってゆく。どの船にも生まれたばかりの子供がつまれている情景が心の底にやきついていた。」

宮本常一の「エノカワ」のイメージは、すごい。
続けて「その広島というところは、死んだ人のゆくところでもあった。
人が死ぬと、
“あの爺さんも広島へたばこを買いにいったげな”とうわさするものがあった。とにかく、広島という土地は、一つの幻想の世界だったのである」

戦争をしらない子供たちは、戦争という言葉に反応した。宮本常一の「広島という土地は」周防大島の宮本の故郷では、そんな土地であったのか!幻想もかなりゲンナリの幻想である。宮本のいう幻想の地・広島は原爆投下以前の土地のことである。そして、原爆。である。この宮本の“広島へタバコ”にはわが故郷のイメージへのダメージがある。参ってしまうのです。が、ところが、・・・

柳田国男の「神隠し・隠里」
「“ヒロシマ”という言葉は東北、会津の狩りの言葉で、人里のことであったようだ。山の谷の小屋から見ればどこだって広かろうが、なお静かな落ちついた小さな群の空気とかけ離れた境涯(狩り人)だから、そういって差別を立てやすかったのであろう。・・・“ヒロシマヘユク”という言葉を、壱岐では死ぬの隠語に代用している。隠語と言っても、単にいわゆる広島という語が、前からこの小さな島にはあったのを使ったまでであったろうが、・・・”ヒロシマ”という語に、もしもこういう感覚が伴うことを知っていたら、芸州の殿様もこれを御城下の名にはしなかったかも知れない。つまりは人が忘れるほどのの古語でもあり、・・・わずかに覚えていて何か特殊の用途に、充てたくなるようななつかしい言葉でもあったのである。
“広島へタバコ買いにゆく”というのは、伊予の内海側では死ぬという変わりに、折々使われる気の利いた忌み言葉になっている。
“タバコ”は関西地方はほとんど一般に、休憩の同義語に用いられている。そのタバコを広島へ買いにゆくという文句が、たとえ戯れにせよどのくらい安らかな、しかも悠々とした印象を聴き手に与えていた・・・。

などと民俗学の大家がいっています。“広島”ちょっと、よかった。

さえない八咫烏の社から休山山麓に段々畑のように伸びあがった住宅に間に、トラバースする、カニの横歩きルートの細い車道は谷と尾根とを結ぶUカーブを連続させて、尾根ごとの開かれた海への展望に断続して自転車は飛び込んでいる。昔々見た地中海の小島の映画の場面を思い出した。“禁じられた恋の島”だったか、どうだったか。“トトト トトト トテュト トテュト トトト・・・”

北上する蟹の横歩き道は呉と広町を結ぶトンネルの上にでて終わった。広町へ向かった。
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by forumhiroshima | 2015-05-03 19:40


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