こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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FM 日々是よき日・降っても晴れても

年よりには苦にならない早朝の5時、FMから歌謡曲が流れてくる。JFMの番組“日々是よき日”を聞きながら黄金山北面の観音寺へ走ることが1年を超えた。年齢相応のラジオの番組との相性がよかった。ひざを痛めたりもするが、その時間が結構気に入っている。番組のサブタイトルは“降っても晴れても”。でも降ったら走らない。

山の東を回って、日宇那の集落にでて、楠那小学校の通学路になっている道にでる。この道に春にはランドセルが歩いていて、新学期の季節を目撃できる。その通学路に小さな男の子がピュコピョコ、ウロウロ、グルグル。7時前、まだ校門は閉じている時間だ。よく出会うので、話はしたことないが、眼があってもそらさない。互いになじんでいる。彼はとても学校が楽しいのだろう。踊りながら、彼は楽園に通学している。彼も朝のこの時間がとても気に入っている、と共感する。彼は“降っても晴れても”踊っている。
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観音寺詣に加えて、“よき日”が突然やってきた。“よき日”が能美島通いを数回にさせた。大柿町大原の路地巡りに取り付かれたようだ。フェリーに乗船すると、ピョコピョコ気分は飛び跳ねている。自転車が島に上陸する。
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自転車のホイールは、今の路面をグリップしている。その進行方向には、昔の時間の空間・景色がまっている。大原の昔が待っている、と妄想の中にドロップできる。
その事の起こりは、島の古道を地図に探して、大原から大君への峠越えの途中に、河内という地名を見つけてからだ。島の川に中洲があったのか?でかい川があるのか、と、強く惹かれて、走った。
川は小さかった。でもそこは路地が交錯していた。自転車は昔、道を通った人たちの気分をダイレクトに伝えてくる。たとえば、登りはつらい!を共有できる。田畑はひろく、道は畦でいい、を理解できる。食べる為の生き方がある。田畑を潰して、道にはできなかった。

河内に9世紀からの歴史が残る寺が1999年6月29日にあった豪雨による土石流で壊滅した。古代からの寺の場所が災害に会うことは少ない。古代人は立地には繊細だとおもう。なのに!。のち寺は2012年に場所を移して移築され、落慶法要が営まれたと、HP“江田島ッテ・・・どんなとこ”にあった。
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イツモですが、地名の話です。「人が拓きに入った以前には、地名はなく、地名は土着ののちの仕事」と柳田国男が語っている。地名を考えるって、人々の営みを探すファンタジーな時間なのです。自転車上で感じた感覚を加えれば、妄想を駆り立てる無敵なエネルギーが生まれます。オレだけ、かな?

「河内という地名は、下流の方から命名したものらしい。谷水がしばしば淀んで幾分の平地を作る場処があれば、いつかは登って来て、下流からあふれた人だけが住む。 柳田国男」
河内は災害発生危険地帯な為に、耕地開発の技術の革新をまって、田畑に拓かれた。
能見・高田の高下の大山祇神社再興の責任者は「梅河内 隆義」と標識に刻まれていた。梅は大阪・梅田の梅で「埋る」のウメ、河内は今の話題。梅河内氏は能美島の古族の山野井家の流れの能美氏であったのなら、鹿川で帰農した山野井家の一派は、そこで土名を取り、曽根田と名乗るが、曽根は川床の荒れ地、という名をつけている。河内開発を思わせる。
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「地理測量のまだおぼつかない時代、原野を拓こうとする人にとって、「原・ハラ」と呼ぶ場所は、木の茂みが広がっていなくても、湿地で、歩くことにも障害であった。人は近世になるまで、降りてこれに就くことを好まず、依然として水の音を慕とうて川上にさかのぼった。柳田国男」

大原の東は陀峯山を頂点とする南北への尾根があり、尾根の西向きの緩やかな斜面の底に八幡川が北進して、新宮八幡神社のある亀山で遮られた、直角に西向きに流れをかえる。川が方向を変えると、そこに水の淀みがうまれる。水流が停滞する。含んでいた砂が吐き出され沈殿し、河内が形成される。水の流れを変える場所に八幡神が鎮座する。

古代人たちはこの河内につくられる湿地に取り付いた営みから出発したようでで、発掘されたのではないが、古墳の存在が二ついわれている。押谷古墳と呼ばれる古墳は流された宝持寺ではないのか。埋蔵された宝の存在が匂う。出雲の加茂町のオオキニヌシの御宝を埋めたと伝承のあった神原神社遺跡で発掘された鏡を連想する。また「押」の地名は土砂や水が“押す”記憶の災害地名ともいわれる。河内での水害の記憶か。
もう一つは薬師古墳で、所在はわからない。が、再建の宝持寺から西へ流れる枝尾根の先に薬師堂がある。宝持寺住職がここに経塚をつくったことから、薬師が祀られた伝承が境内にある。ここに薬師古墳があったのだろうか。境内から大原を見渡せる高台の地形はここの領主の領地を俯瞰できる場所で、古墳の存在がにおってくる。
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尾根の水流をたよりに土地を拓き、のちに古墳をつくった人々から、ここ大原は途切れることなく今に続いている、のでは。そんな予感がはじめて河内に走った時、身体のなかにうまれてきた。

古墳の王たちの後裔たちが、ここに能美氏として中世に名をのこしている、としたら、と能美城址をさがした。
国土地理院の1/25000ではこの集落は走れない。地元にそんな地図はみあたらない。そこでグーウルMAPをプリントして使った。軽四トラックでの離合は舗装面だけではむつかしい道が尾根に向けて数本登り、そこから根っこのように路地が枝分かれする。道は谷にあり枝根が尾根にのぼりくだり。グーグルMAPでグルグル。大原グルグル迷宮。迷宮、OK!
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1364年ここに500騎の軍団が現れた。(山野井家・探索、探訪HP)約7000名ほどともいう。伊予・河野氏の河野通堯が細川軍との戦いに破れ、芸州能美に走るという記事があって、安芸能美の山野井家にかくまわれた。また、芸藩通史に山野井家、伊予国河野秀清が子なり、などの記録から、大原の能美城城主の山野井家は伊予・河野家との因縁の関係だったといわれる。
伊予・河野家は古代の小千・オチ国造で物部連大新川命の孫・小千命からの家で、越智郡にいた。伊予の風早には物部連伊香色雄命の4世孫・阿佐利命も記録される伊予・物部氏一族。古代の豪族につながる。

尾根上の道と谷路とそれをつなぐ路地とが交錯している。家々は大きな木々に埋もれて、黒い甍が点々と浮かんでいる。
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その迷宮からやっと、能美城址カンバンを見つけた。こんもりと繁った小山で、登るとベンチがおいてある公園で、木々に覆われて展望も遮られている。城址とは・・。
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城址そばから尾根へ登る道がある。そこに取り付いてみた。道沿いの家々の佇まいがいいのだ。路地は迷宮の様子だが、いつかどこかに出て、そこで出会った景色の記憶が重なってゆく。集落になじんでゆく。さっき見た景色が新しい。なにかが新しく発見される。感覚が小さな発見に集中してくる。そして、これまで見てきた漁村や山村と違うということ、がどこかで見た景色・デジャブにとらわれた。
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道に対して、斜めにむくれているように立っている大日堂。そこに鎮座する二体の鎌倉時代製作と由来があるが、風雨が吹きこんでいる様子。阿弥陀堂を押しつぶそうかとの勢いのクロガネモチの古木。正面の参道の石段へ畑がとうせんぼする畑。こぶしほどの小石を積んだ石垣。みごとな職人技の隙間のない石垣。どっかで、見た。

市天然記念物指定にしてしまうと、となりからも、あそこからも、我も我もと名乗りがあがりそうな、巨木たち。
どっかで、見た。どっかで・・・。
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by forumhiroshima | 2015-06-30 09:36

神々の雑踏

能美島・高田の港から見上げる尾根の高下の大山祇神社から、南へ尾根を下る。
大山祇神社の草取りをされていた婦人が、「とても簡単にはできない話がこの神社の鎮座の訳にはあるのだ」と力がこもって語っていたことが、心残りだった。聞きたかったナ!

海からこの列島に到来し、上陸して「山中に住居を求め、山に馴れて一代、二代となりと、その存在は忘れられて、もとから山に住んでいたように、里人には考えられてくる。同時に神と神に仕える人とを同じにしてしまう。神が山の神で、われわれ里人の使える神とは違う神、一種のストレンジャー・異邦人の神と山人の神のことを考える。 折口信夫」
山の名がつく大山祇神が島に鎮座し、渡の神と呼ばれる訳について、このように書いている。続けて、山神につかえる人が里に下りて、門口で祝いを述べる“ほかいびと”になったといい、この国の芸能の始めを説く。あの婦人の語り口の一生懸命さが、歴史好きのおじいさんの思いからだけで、大山祇の神が再興鎮座したのではない、のだろうと。
“あしびきの 山に行きけむ山人の心も知らず。山人や。たれ”  「田中陽希!??」

大山祇の神が薩摩半島の南端・笠沙の岬の現れ、高千穂の峰に降臨し、そこから岬に渡来したアマテラスの孫のニニギを迎える。そのときそばにいた娘のコノハナサクヤヒメが彼に嫁ぎ、その子孫・神武天皇が天皇家を起こす。大山祇一族はこの国で、天皇家を“ことほぐ”最初の神になる。この物語が宮中の伝誦となる。(折口信夫・山部と山人)

高いところから下ったと思わせる高下の地名から、あのご婦人のお父さんのDNAに、古代山人の影を見たようにおもえてならなかった。振り返って見た尾根の頂あたりに、山の社が、あの高みに高下の人々の先祖は暮らしていたのだろうか、などと・・。

その高下の山の神が大山祇の神であることは、その神を大三島に祀ったという伊予の古代からの豪族の河野氏に関係ある、と考えるのが自然だろう。高下の住人は河野関係者である、はずである。

毛利氏と大内氏一族の陶晴賢との厳島の決戦が毛利勝利におわったあとすぐの1556年にこの島は敗残兵の掃討作戦がおこなわれたという。合戦場所はすぐ東の飛渡瀬であった、らしい。掃討の対象となったのが大内氏に島支配を安堵されていた、能美氏とよばれた、山野井氏の一派だという。山野井氏は河野氏の一族といわれる。
毛利は能美氏討伐ののち、その子息を家の世継ぎとし、支配下においた。能美島は小早川隆景の領地となり、厳島合戦に助勢した来島村上氏に支配を任せた。(大柿町史)

高下から尾根を降りた場所にこんもりと木々が盛り上がった小さなポツンと小山がみえた。そのあたりは、麓と地図にある。「士族の居住する区域を必ず“麓”と呼ぶのは鹿児島県の各村である。 柳田国男・地名の研究」ここは広島の能美島の中町だが、小さな小山の繁みは、麓城址であると、HPの江田島市の城址・古墳に記載があった。
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大柿町史(S29)に、1518年大内氏と武田氏との合戦に大内側で奮戦したのが能美仲次と書かれている。仲次さんは、あの麓城にいたのだろうかな。高田と中町には城址が6か所とHPにあった。海賊たちの記憶の森。そこを後にした。

能美島で気に入っている場所の一つに大附がある。
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大原の西海岸の西端の行き止まりの小さな集落で、海岸は静か。県指定の自然海浜保全地区で、“いつまでも海水浴などができるように・・・自然保護する”と表示してあるが、駐車場ももちろんシャワーもなくて、自然保護は行き届いている。自分は「いまは もう秋 海岸」と命名している。ミヤザワ ケンジの真ねですネ。ここ、四季通して“誰もいない海”なんです。
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海岸から宮島の東海岸が正面にリン!と、そびえる。宮島口から見る宮島が、宮島(アタリマエダロ)だ。大附からみリンとした、裏面が“厳島”ではないか、な。
宮島は北に530mの弥山、南の岩船山467mの背骨で構成され、弥山は大聖院の奥宮が鎮座する仏教の香が強い。岩船山に伝承もないようだけど、”イワフネ”は、古代豪族で天皇家より前にこの列島に到来したという物部氏の神ニギハヤヒは降臨した山で、大阪・生駒山にはニギハヤヒ降臨伝説の山が三座あり、そこに天磐船にのって降臨した。伊予・河野氏の彼等の伝承の祖先の小千・オチ氏は、古代伊予の国造で物部国造という。

大阪・生駒山の峠で先住民のナガスネヒコと、すでに到来していた物部のニギハヤヒは、あとから到来してきた神武天皇を撃退。神武は紀伊半島を迂回して、東から上陸し、熊野の山中をヤタガラスの先導で大和へ侵入する。そこでニギハヤヒはナガスネヒコから離反し、神武側にたつ。神武は大和の南、葛城の東の畝傍山で政権を樹立する。この神武の東征で用船した海人たちは、誰であったのか。とても興味ある。
この島の海人たちは、飛鳥、藤原京朝廷への納税の荷を運搬していた。その為の造船も行っていた。遣唐使船も請け負っている。このルートは紀ノ川をさかのぼっている。熊野水軍は新宮と紀ノ川河口の海人たちで、彼等もこの海運に従事していた。海人たちのカラスが瀬戸内海を飛び回る。

宮島のカラスの神事・御烏喰式・オトグイシキの記事をHPなどで見ると、いつも岩船山の裾の東の海岸・養父崎神社の前あたりの海で行われているようだ。丁度大附の海岸の西に正面に当たる場所。人目につく、宮島の西海岸でなく、誰もいない、東海岸で神事が行われている。なにか、きっと、なにか、ある。厳島神社の神がこの島に鎮座する場所をさがしたことの神事だと神社発行の「伊都岐島」に記載されている。なのに、今の鎮座場所でなく、裏側になる養父浦なのだろうか。まあ、大人の事情があるのだろう、ナ。

大附は海運の集落であったようで、海運業の古びたカンバンを二つみつけた。胡の表札がかかっていた。
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小さな家の集まりの間に、いや、家々は小さな祠の間にあるようだ。どこからここに運ばれて来た神々なのだろうか。
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埋めたてに残された潮だまりに石橋がかかっている。もうわすれられた埋め立ての工法だ。残された景色が美しい。
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この島に大附という場所が二つある。どちらかが、本家なんだろうが・・。
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大附の地名がある三高へも走ってみた。その海岸に貴船神社が鎮座する。貴船の神は京都・賀茂川上流の貴船の神。都の水源の神。この神に摂津の尼崎で出会った。大きな境内の神社と古い住宅地の片隅にある神社と近くの二社あって、記憶にのこった。伝承で瀬戸内海を西からやってきて、この尼崎から神崎川から淀川を上って、京都に鎮座したとある。川の名の神は貴船の神だともいう。豊前から国東に、この神社は密集している。
三高の貴船の神は都から下ってきたのか。
能美島の海人たちも、このルートで京との海運を行っていたにちがいない。なにせ、平清盛配下にもなった人たちなのだから。京・山城の淀川上流の賀茂の神もカラスをとばしている。

といっても、この貴船神社の由来がカラスより、すごかった。「この神社は竜宮、龍神社と称されていた。ジュンゴの宮ともいわれた。」と境内の由来書にある。

「宮古島にはジュンゴをヨナタマといい、宮古あたりでヨナは海、タマは玉の意味。海を差配する神だという。ある夜、ある小さな島の漁師が捕えたジュンゴを食べようとしたら、どこからか、声がして、ヨナタマ!ヨナタマ!どうしたのか、今食べられようとしている、そうか!いまサイ(津波)をやって助けるぞ、と声がした。この声を聴いた隣の住人はすぐに飛び出して、島を離れた。そのあとすぐに、津波がやってきて、その島は何も跡形なくなっていた。 谷川健一・小田人のコスモロジー」

貴船の神は南の島から渡来したのだろうか。だれが、運んできた、この伝承を。ジュンゴとカラスは、仲がいいのか!そこが知りたい。など、おかしくなってきた。神々がわんさか、現れる。

三高の南の谷奥の大附の集落は数軒で道路から離れて尾根中腹に静かにあった。
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道からの入り口に、菊栽培発祥地の石碑がある。
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温室が作業をつづけていた。静か、だった。
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by forumhiroshima | 2015-06-28 22:46

山上の神 山を降りた神

「江田島・能美島は小さな島であるが、海から離れた集落が幾つかある。宗崎も山麓に発達した村で、農業を主にして暮らしをたてている。そうした村が発展していくためには、山林をひらき、海岸を埋め立てたものである。 宮本常一 私の日本地図4 瀬戸内海1」

宇品港から三高へのフェリーが、小雨で海面に出来た小さなあばたの中を進んでいる。景色は薄い靄と鈍色の海とが境をなくして、音が吸い込まれとても静かだ。少し寒い湿気の中のデッキの風は、ゆっくりと深呼吸させてくれる。

「三高」の地名は能美島のフリーの港が三吉と高祖からつくられている。その高祖は北九州にあった古代・伊都国の糸島半島の付け根にある、スサノオ伝説の背振山の一つのピークの高祖山を連想させる。糸島半島は、西の宮島の神のふるさと宗像にちかい。

宗崎は三高の港から東へ回った最初の集落で、今は埋め立てられただ小方の南の端に宇品との高速艇高田港乗り場が出来ている。宗崎+小方で、宗方で宗像と、北九州の高祖・・・。アホな妄想がぐるぐる頭の中を回転する。

地図で尾根の上の集落までの直登の車道をさけ、そばの古道らしいルートを見つけてきたのだけど、直登と変わらなかった。
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数軒の民家が集まった尾根上の宗崎の集落すぐ下に田植の済んだばかりの田んぼがあった。ここで稲作が続いている!。
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「秋」に金偏をつけると鍬、秋に稔るイネ。鍬は畦もつくり、田起こしもする。稔りをつくる金属の道具が鍬。その稔りを創造する神が、春、鎮座する山から田へ降臨し、山の神から田の神に替る。秋の実りのあと、田の神は、カカシの案内で山へ。カカシは案山子と漢字される。山の神の鎮座が、集落の背景の尾根の上にある。
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宗崎の集落の集会所のある小さな広場から車道がストレートにコンクリートの舗装で山へ登る。小雨でウエットなコンクリートの路面では、帰りのブレーキングがすべてスリップ!、と正しい弱気を選択して、徒歩で登り出す。
いきなり横からイノシシの子供のウリ坊が、ウギューンと唸って現れ、横ぎって草むらへ飛び込んだ。お母さんが出てこないか?と、身構えたが、音なし。よかった、イノシシと出会うと、よく、あの奇妙な苦しそうな唸り声を聞く、と思うほど落ち着くまで、時間がかかった。
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コンクリートの道が海が背景の広場にでる。展望すこぶる良好。東南向きに鳥居と石段の参道、その奥に拝殿のある祠。「岩風呂神社」と神額がかかっている。拝殿の正面に由来が長い板に書かれている。由来の最後にこの板は境内にあった古松が枯れて伐採したものに記載したとある。オシャレである。ここに書き留めた人の存在がうかんでくる。この神社の祭祀に関わる家があるのだろう。が、由緒は墨がかすんで、読みにくい。写真とったけど、手ぶれしてしまって読めない。興奮していた。ただ祭神は大山祇の神とは読めた。由緒の隣にある拝殿、本殿再建の費用の奉加名簿にはここから見渡せる中町や高田すべてから集められている。北部東能美島総鎮守である。
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境内の鳥居から車道とは別方向に狭い石段が草むらへ入っていた。この参道の方向が海岸の高田・中町でむかっている。この参道はきっと海岸へストレートにのびているだろう。それが、カカシがご案内する山の神の往来ルートだ。ここの展望はすばらしい。ここでキャプすると、正面から朝日が昇る。キャンプとは不謹慎かな。清浄のためのおこもり、といっておこう。
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江田島・能美島には尾根中腹に農道がつけられている。海岸からこれに取り付くには、少々ウンザリの急坂だが、登った農道は水平ぎみな展望がよいところが多い。昭和60年代の整備だったが、きっと柑橘類栽培のための作業道として作られたのだろうが、いまはイノシシ・ロードだといわれる。

宗崎の小さな広場にある集会所へもどって、そこからの農道を南下。最初の四つにあるビニールハウスで作業されているお婆さんをみつけた。四つ角に神社で見つけた狭い石段が出てきている。これが、岩風呂神社参道でしょうか?そうだが、今はイノシシでるよ。海から登ってくるこの道が町からの参道になりますか。そうよ!。そこでもイノシシでるよ。今日の朝、ハウスがやられた!。どうも御立腹な様子で、退散です。おばあさんの本音は、イノシイに注意しんさい!と伝えてくれていたと思う。この島はとてもどこでも親切なのです。

ビニールハウスからの軽四一台幅の道がそばに沢を従えて下ってゆく。海岸の旧車道にでると、右に郵便局、左へは、高田港。ここの中心街であったのか、錆びついて閉まった商店が点在する。活気の熱は消えてしまっている。地図に地名が間所とある。「沼・所」のイメージで、湿地帯であった地名になる。昔、河口のこのあたりは干潟がひろがっていたのか。広い干潟に鳥たちが舞い降りる、そんな景色がもどってきているのだろうか。
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ルートを引き返す形にとって、集落の後背地の尾根傾斜へ川沿いに登る。分岐に地蔵堂が現れる。お地蔵様は境界をしめすことが多いようだ、墓地の六地蔵は冥界との境界だろう。川上に大きな寺院があるので、寺境か、寺への案内地蔵なのか。ただこのあたりは、空と地名にとある。ソラは焼畑地帯とおわれるが、豊かな水流の川をみると、どうも地名案内は当たってないようです。

高田の集落は黒瓦の甍が木々の間に点在して、とても豊かな地域に思える。
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その家々の間の広い車道から、川を離れて尾根にのぼりだした細くなった道幅を上がってゆく。切石のきっちりと組み上げられた石垣から、野積の石垣の石が細かくなって、道をかこみだして、畑の跡らしい空地の間をいくつか縫うと、隣の声が聞こえる程の狭い込み合った間隔の数軒の家々の集落に入った。地図に高下と記載され、その集落の裏に池があるようで、果樹栽培と田んぼのマークがつけられている。あたりに無住の廃屋もない。
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「水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に住居し得られた場所に上代の土着計画者が、まずこれに注目したのは自然である。いっぽう、天然の水溜りの沼地は地味も肥え、取り付く際には相当の誘惑であるが、わずかに水位が下がればすぐに乾いて、一旦の開発の耕地を荒らさねばならない。人は近代になるまで、山中から降ってこれに就くことを好まず、依然として、水の音を慕って川上にさかのぼった。 柳田国男」

道が分岐して、すぐにまた分岐して、今の自分の位置が混乱してきた。深呼吸して、あたりを見回す。
尾根に上って道が集まっている場所が、道幅からみて広くなっている古道がある。通路としては必要以上の幅、見方を変えれば、小さな広場、古代的には「庭・ニワ」とおもえる。古い景色に思える。そこに古木の茂みと神の存在があれば、ずっと昔に時間がクリップされ、フリーズされて、タイムトンネルが手招きする。
これまで、出会った、「庭・ニワ」にここが似ている。
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やはり、柿の木の茂みの向うに祠を見つけた。回り込んで、鳥居のある参道が現れた。拝殿はなく本殿の祠がある。そこから人影があらわれた。虫よけのネットのある帽子と長袖に手袋のご婦人。不審者と思われては、と、参拝させていただきます、声をかける。
ネットの帽子をとられると、上品な老女があらわれた。草取りをされている。手に草がにぎられている。神社好きなもんで、と非不審者です、のアリバイ作り。
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参道の石柱に大山祇神社とある。「とても長い長いわけが、あるので、説明しきれません。」
「この神社は父が昭和62年に建立した神社で、御神体は伊予・大三島の大山祇神社から勧請。ここ高下の古文書に、後背地の山に大山祇神社が以前あったとあり、それによっているのです」と、早口で話される。神社は新しいのですが、Googleの地図に載っているのですよ。自分もその地図で発見しました。国土地理院の地図に記載はないですね。この会話で、不審者の垣根がとれたようで、昨年の秋の大三島の大山祇神社参拝の話もされた。お父さんへの気持ちが、小雨の中の草取り作業のようだ。

実は、先ほど宗崎の岩風呂神社に参拝してきたのですが。大山祇の神様が祀られていましたけど、このあたりに、ほかにも大山祇神社があるのですか?
ここで空気が変わった。あそこの神様は大山積と書きます。ここは大山祇の神様です。オレ、いつもの、一言多かったラシイ。

“大山祇”は日本書紀の記載で、“大山積”は古事記の記載で同じオオヤマヅミの神だとはいわれるが、また別だとも。大三島神社は大山祇神社といわれ、その祭神は大山積とされている。
そのあたりが、高下の古文書にあるのかもしれない。興味ある。

座り込んでの話になりそうで、神様由来話は好きなのだけど、しょせん自己満足の世界だから、酒でも飲んで、あやふやな頭でヨタ話だと面白いけど、上品な女性とでは。また一言多くなりどうだし で、あいさつして、自転車に帰った。そして山を下りてこられた神様にお別れした。
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by forumhiroshima | 2015-06-20 11:44

海霧

能美島へフェリーで宇品から三高へ。

島の集落は尾根にあったものが江戸時代の中期、長い戦乱が終わって、新田開発が盛んになり、海岸線へ降りてきたといわれる。それは今から300年ほど前のことになる。今の田舎の田んぼの景色の年齢は300歳。里山のある日本の原風景も新田開発にともなった、尾根と田んぼとの境界に作られた居住地の景色なのだろう。長いこの国の歴史のなかでは、まだ新しい景色に含まれるものかもしれない。

江戸時代の新田開発も古代の居住地開拓も必須な条件は自然の水流の利用だった。
「水田に変えられる沼地、湿地を意味する地形語が一度境を超えると変化している。東日本の谷を示す「ヤチ」は箱根を超えて使用されなくなる。九州で使われる、谷をしめす「ムダ」は東へ進むと、長門では「ウダ」土佐でも「ウダ」京都近くにも「宇多」という語は古くから多く、武蔵と甲斐の一部ではそれがヌタともノタともいう。おれを九州でニタという。開けば田になる湿地をいい、クテともいい鍬の字をあてる。島根では、シノトと呼び、特異である。 柳田国男」
「我々の祖先の農業は当初自然の水流を利用するために好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠る(立てこもる)所のある最少の盆地を求めた故に、上代の開拓は常に川上にむかって進む傾向をもっていた。それが人多く智巧が進み、のちに平和の保障が得られるようになって、始めて立ち戻って低湿広漠の地を経営することになったので、今日の農地の主要部分をもって目せられるものは、どこへいっても皆300年この方の新田であった。 柳田国男・地名の研究」
新田開発対象地の呼び方が各地で異なっていることが、新田開発好適地を人々が探し始めた時期が新しいことを示していると、柳田が語るところだ。「ウタ」は尾道、向島の歌、「ニタ」は島根の仁多がそうなのだろう。

一方で埋め立てできる海岸や、技術力で困難であった荒野伐採などの開発対象地帯をもたなかった地帯では、いまだに尾根の上部にある集落も残っている。焼山農業地帯だった地名だと云われる、ソラ、ソヤ、ソイ、ソリ、サス、キナを見つけると、尾根中腹に小さな民家の固まりが点在する広い空の下の景色が浮かんでくる。小さな水の流れを囲んで抱きしめるようにつづらに誘導し、ため池も配置して、その間に家々が隣接する。
小さな家々の固まりを、自動車道が何とか路地を拡張して、たどっている。

能美島の西海岸の尾根の中腹をトラバースしてバス道が伸びている。沖美バス通りと自分は呼んでいる。
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小石の野積みの石垣のみかんの畑が山側に続き、海へ邪魔者なしの展望。宮島の北海岸との間の奈佐美瀬戸に昼前なのに霧が流れている。
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気温30度を超すだろうが朝にお天気予報だったが、風が冷たくなってきた。少々寒い。

宮島の神様の使いは鹿になるのだろう。カラスではないようだ。青空色の海面に白い霧が海岸へ向かってきている。バス通りの下の海岸は入鹿の浜と呼ばれていた。鹿川という地名の鹿との連想で気になる。今サンビーチというレジャー施設に代わって、ソテツも植えられてすっかりビーチ気分。ここに入鹿神社が鎮座して、神社裏から湧水が出ている。ビーチが出来る前は砂浜と神社と流れ出る疎水の流れだけの、いかにも神聖な場所だった。海霧がビーチの景色を崇高なものに変えないか?と、帰りが辛い急坂をおりた。

季節外れの海水浴場は、ただそれだけ。誰もいない海、の情緒もながれていない。神社拝殿もベタと油っぽく雑然として、昨夏の喧騒の疲れが漂っている。霧も沖へ流れてしまった。
ふと、鳥居に“山野井 忠八”と彫り込んである。墨も入れてある。ここにも“山野井”ですか。
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由来が掲示してある。祭神はワダツミの神。福岡の海の中道の突端の志賀島、志賀海神社に鎮座する。広島、白島の碇神社にも祀られている。志賀が鹿なのか、志賀海神社には大量の鹿の角が納められている。“太占・フトマニ”骨を焼いての占い用なのか。
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古代の朝廷から任命された海人の統率者集団の安曇族は、7世紀朝鮮半島への出兵の将軍の族だ。出兵を命じた中大兄皇子は瀬戸内海で三か月の滞在中に海民の徴兵をしたという。この徴兵に伊予の越智一族も徴兵されている。
朝鮮半島で敗北したのち、安曇たちは陸上がりしたのでは、と云われる。琵琶湖畔の高島市安曇の開拓者、その西の大津の地名から県名になった滋賀も彼等に由来する。信州の安曇野の名も彼等の移住開拓による。

入鹿浜から、情けなくも、自転車押し上でバス通りへ。通りは、時々軽四トラック、そして郵便屋さんが日曜日のような時間の中を走ってゆく。遠くの海霧が沖で踊り出して宮島の裾をゆっくり隠しだした。

バス通りがサエギル・コス・トウゲの才越峠で二車線の車道に替って終わり、鹿川の交差点にでた。
旧道に入る横のJAの前の銅像がある。プレートに曽根田弥太郎翁とある。
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曽根田の名に記憶があった。HP“山野井家・探索、探訪”に、「祖先は山野井氏よりでて、小字・曽根田の地を受けて現在の地に居住すること15代農家なり。寛永15年(1640年)の地主名簿に記載あり。ある夜井戸に光るもの在り。御神体なり。上の山に神社作り祭る。天将軍社という。」を思い出した。鹿川の開拓者として記録にのこる最初の人々を祖先とする方からの投稿だった。  ボケてないぞ。!

広島藩の歴史書「芸藩通史」に「鹿川村に同族あり。その祖八太夫、朝鮮の役に従い、帰朝ののち別家す。その家、朝鮮飯器を蔵す。」とある。「山野井の系図は曽根田家にあるのでは?曾根田も蔵など解体し、いまでは分かりません。“山野井家・探索、探訪”より抜粋。

ソネは表土の下に岩、礫、砂のあるところ。旧河床なり。との説明もある。河床は地下水が地表に現れた場所のこと。日照りが続いても川は枯れないのは、地下水が流れるからだ。
井戸を掘れば水は入手できるが、山崩れの危険地帯でもある。それがソネという地名の意味。。

旧道から細い路地を抜け、勝善寺の山門の前から将軍社へぬける。神社横から軽四の幅の道路が現れ、空地に新しい墓所にでる。そばの民家の表札を探すけど、表示していない。神社横に自転車を置いて、曽根田の表札を探しながら、道を歩く。

小石を野面に積んだ石垣の角が新しい切石で補修され家が石垣の上におおいかぶさって、、道の反対側の石垣の野面の間に花が咲いている。
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そこに突き出す軒先の瓦屋根は傾いて、鍬などの農具がさびて投げ出されている。

とても懐かしい景色に思えた。納屋の奥に小さな川が流れている。道をもう少し登ると、空地の墨に墓所があった。墓所はその地域でもっとも風通しの良い、災害の少ない、できれば住居を見守ってくれる場所が選ばれた。出雲では墓所を朝にニワトリを離して、トキの声をあげた場所にしたとデンショウされる。朝日のあたる見通しのよい場所が墓所となった証に思える。

見渡せる鹿川の海上とその向うの才越峠の鞍部に海霧が流れ込んでいく。正午前の日差しに白い霧が青い海と空とに際立つ。寛永15年と記録される彼等のここからのスタートは、浅野藩が島嶼部の検地をはじめて、この島の支配者の地位から、浅野藩への納税者に転落した年だ。そうであっても、この曽根田はきっと満足できる、未来への勇気をもたらした土地だったのだろう。ここを本貫として、家名を曽根田としたのだから。
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by forumhiroshima | 2015-06-13 21:13

能美島・鹿川 海側 デラシネたち

「豊かではないが、簡素な、魚がほしいときに、海にでて魚をとるという気安さの生活があった。船を家として、海を漂流しながらの小さな網での収穫は交換価値の低いものであった。だから交換できる野菜、穀物はささやかなものであった。水を村人に乞い、薪は岬の松の茂みでとってくる有様だから、苦しい生活の繰り返しである。しかしこの家船の民とよばれた人びとは、傍目にうつるほど苦におもわなかったのかもしれない。納税もしないし、社会的制約もうけない、一種の隔離された気安さがあり、その簡素な生活から、親村の人口をあふれさせ、外に向かう力となって、瀬戸内や九州の無人の浜辺や孤立した岬の岩陰に枝村をつくったとみられる。 羽原又吉・漂海民」

「瀬戸内海に面した広島県三原市の西、幸崎町能地は、一年の大部分を家族共々小船に乗って海上で暮らす漁業の集落で、人々はその一生を小網漁で暮らした。
小網は藻の上を曳くので、日和は少々悪くても漁ができる。朝船を岸に寄せて、家内が魚をハンボウ(木桶)に入れて、カベッテ(頭上運搬)村々に売ったり、米とカエコトしたりした。 河岡武春/海の民・漁村の歴史と民俗」
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頭上運搬は、昭和30年代までは見られたという。沖縄・糸満アンマーたちの魚のカミカキネーなど、南太平洋や中国南海岸伝い、東南アジアなどの風俗との共通性を見出す民族学者もおおい。
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柳田国男の弟子の瀬川清子「販女」がこのカッテベを取り上げ、貧しい漁民だからと思われていたが、民族的風俗ではないかと注目された。

広島・大河の小イワシ売りのおばさんたちは、リヤカーを使用して市内へでかけていた。吉右衛門の鬼平の密偵、おまさは箱背負って行商している。関係ない、か!イイノ。

「鹿川の南に漁業部落がある。三原市幸崎町能地の善行寺の過去帳を見ると、幕末のころ、海上漂泊生活をつづけている数人の能地漁民がここにおちついて、ささやかな村をつくったことが、知られる。それはほんとにささやかな部落であった。能地漁民が住みついたことによって、地元の零細な生活をしているものが次第に漁業をいとなむようになり、海岸へ密集集落をつくりあげていった。 宮本常一 私の日本地図4」
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小船で年中海上で暮らす人々も、江戸時代におこなわれた毎年の宗門届けの義務があり、その届けを記録した宗門人別帳が残っている。宮本常一の弟子の河岡武春は、三原・能地の善行寺の過去帳などを子細に調べ、この人たちの動向を明らかにした。その移住先は福岡・山口・広島・岡山・愛媛・香川の六県のほか大分、長崎までも拡がっていた。

瀬戸内の海上漂泊生活者を家船・エブネとよんだりするが、その拠点とされる親村は能地だけでなく、忠海の二窓、尾道の吉和も数えられる。瀬戸内に、このほかはない。
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吉和は尾道の西端、JRと旧R2が並走しはじめるところの山側で、小魚加工の阿藻珍味の工場がある場所の北側の小さな住居密集地帯。そこに艮神社、八幡神社、胡神社が鎮座し、阿弥陀寺と墓所と弓練習場という小さな広場を囲んでいる。家船に乗って出かける両親の留守に子供たちが寄宿する学校も置いてあった。

三原からR2をはなれJR呉線にそってR185を西へ向かい、以前は幸陽船渠、今は今治造船・広島工場の巨大クレーンを通り過ぎて、川を渡ると能地に入る。集落西の小山の下の常盤神社が家船の漁師たちの鎮守になる。

R185を西へ走り、並走するJR呉線を高架で横切り、登りになる。JRは海岸へ抜けていて、峠から下ってまたJRと並走になる時点が忠海・二窓。JRの踏切を海側へこえる場所が家船の本拠地になる。密集する民家中央に胡神社が鎮座、ここらが昔の海岸線であったのだろう。

吉和・能地・二窓どれも西側に小山を持ち、冬の北西の風よけの港を思わせる。能地は小さな網を曳くテグリ網漁、二窓は延縄漁。能地の漁師がとる小魚を二窓の延縄のエサとして、この二つは関連して漁を行ったという。吉和は一本釣りで、周防大島・大畠の鯛、佐賀関のアジの一本釣り技術をつくったという。

羽原又吉は、家船の形態での漁民を「漂海民」と呼んだ。この名称に引き込まれた。“海のデラシネ”、いいね。能地から二窓への移動は能地の常盤神社から東へ旧道をはしる。川のでて遡ると分岐点は右へ向かうと、正面の小山へ上る長い石段の寺門がみえる。ここが善行寺。石段のしばの墓石は漁師たちの墓標でなく、かれらは、遠方で死去しても塩漬けに処置され、この砂浜に埋葬されたという。古代海人たちは、砂浜に産所を置き、砂を広げた。産土をウブスナと読むのはこのためだと、谷川健一が語るが、浜辺にズラッと並ぶ墓標のある集落は瀬戸内の島々に多いこととの関係を思ったりする。

寺から分岐にもどり、西へ走ると広い谷間から小さな峠で二窓へくだる。この谷はきっと海であったのだとおもう。善行寺は小早川氏の家臣の浦氏の菩提寺で、臨済宗だという。このことから、沖浦和光は家船の人々は小早川氏配下浦氏所属の水軍であったのだろうと、いう。(瀬戸内の被差別部落)。

瀬戸内の島々で農村と漁村とが隣接しているところでは、必ずその境界が道や水路、川などで分割される。鹿川では貯水池からながれる川がその境界になるのだろうか。貯水池までのぼって、旧道とおもえたコースを下る。川沿いの三叉路の分岐点に独立した木が目立っている。妄想すると、これがシメナワならぬ標木・シメキ、ではなどと、楽しい、ぞ。道に桜並木が現れる。土手だったのだろう。土手の桜は、この国の定番景色。そばに斜面から石段だ降りてくる。海辺の雰囲気が濃くなる。このあたりで、昔のデラシネたちが桜の下で一服していたのか。
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古い造船所のカンバンの奥の景色にシャターを開いた倉庫があらわれた。数人の男どもが網を修理している。ながい浮き輪の列が奥におさめられているのか、ユルユルと動いている。昼前の日差しが、室内を暗くして、浮き輪が空中を踊っている。
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港へでてみた。ここにチョッと知られた寿司の食堂がある。昼定食があるようだが、まだ支度中の札がゆれている。料金はいくらなのか、書いてない、きになる。何せ低予算なもので。
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港は一人おじいさんが撒き餌して、釣り糸を係留された船横へなげこんでいる。船は巻き網用の漁船だろうか。網を両方から曳く二艘に群れ探索船などの船団のようだ。倉庫で網作業の男たちの船なのだろう。
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防波堤の突端まで歩いてみた。振り返って見上げる山が立山だった。見立山だろうか。富山湾の立山のスケールはないけど、海の人々の海からのマーキングが、この山つけられたのは、ここに能地からの移住の人々の大きな仕事の結果だっただろう。

寿司の食堂の札が返されて営業中。のれんを分けて首突っ込んだ。誰もいない店内は厚い白木のカウンターに、石鯛がうごめく水槽のポンプ音。すぐに亀さんして、首ひっこめたよ。
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by forumhiroshima | 2015-06-09 10:53

能美島・鹿川集落の山側

先日の江田島市訪問で、鹿川の集落に入り込んで、跳ね返された。急坂もその理由なのだが、込み合った家の間を縫う路地が行き止まりの連続で、それにも疲れてしまった。
でも、路地の途切れたところの民家の小さな庭ごしから見えた、谷の向うの尾根に並ぶ家々のところまで行きたい未練が残っていた。あの尾根にこの集落の始まりの中世からの歴史があるはずなのだ。
その気分が、再度宇品からのフェリーへ向かわせた。

「あの。谷の奥にずっと目をやると、休耕田に植えた若い杉林は途中で終わって、その先は雑木林になっているよね。あの道は谷の田をつくりに行く道で、外に抜ける道じゃないだろうな。外に抜ける道なら途中から尾根筋にのぼって、尾根伝いに続いて、山の鞍部を通って向うに行っているだろう。ここからの視線の角度なら道の通り具合は、木々の間から途切れ途切れでもあらかた見えるだろう。 
尾根伝いに外へ抜ける道ってのは、古いんよ。尾根と言ってもそれほど高い山の尾根じゃない。さらにその上、山の七合目あたりのところは二十くらいにきちんと分割されているよね。あのあたりがもとの共有林で、それを分割したんだろうな。共有の草刈山か茅場だったのかなか。区画の境のあちこちに山桜らしい木が見えるけど、あれ、境木かもしれんよ。 宮本常一」宮本がフィールドワークの時語った景色の読み方を弟子の香月洋一郎が記載している。(景観写真論ノートより)

「鹿川付近の畑は、軍用地の払下げをうけたとき均分されたためか、段畑が、たてに区切られているのが美しかったが、それが昭和41年12月、ヘリコプターで飛んだとき、早く植えたところは畑をミカンのみどりでうずめ、おそいものも、畑の中に点々とみどりが絣模様のようにならんで、イモ・ムギ畑とはちがったはつらつとした美しさをつくりだしていた。
こうして、島が次第にイモ・ムギからミカンにかわりはじめたのである。そしてそのことが、島の生活を大きくかえていくことになるであろうとおもわれる。  宮本常一、私の日本地図4」
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鹿川の周囲はすっかり濃い緑色のミカンに囲まれて、ところどころに黄緑色の竹林がみえる。とても綺麗だ。竹は早春の灰色の雑木林でいち早く緑色を濃くし、タケノコの季節を終えると、黄緑色の葉を落としだしすっかり枯れたように夏の日差に萎れてしまう。季節のうつろいとこの国で呼ばれる言葉を逆展開させてあがなっている。山際に拡がる若草色の繁みは以前には草刈の場だった。“草肥”にされたり、飼われていた牛馬の飼料であった。その役目が終わり、畑もミカン山となって、草場は竹林にかわり、“みどりの絣模様”も消えてしまう。
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鹿川の集落は宮本の残した昭和の写真より増加した多くの民家が段畑だった場所に出来ている。前回の失敗にこりて、今回はGoogle MAPをプリントしを継ぎ接ぎさせて不恰好な地図にして用意してきた。出来るかぎりに路地をウロウロしながら、Google MAPにある郷土資料館を探した。それだけ用意しても、Googleでは目印にしやすい、お寺がわからない。国土地理院の地図とちがってGoogleでは道の幅も忠実に区分されている。石段も記載される。すばらしいのだが、等高線が集落では消えてしまう。高低差がつかみにくい。などブツブツ。
ランドマークになる、でかい寺院の屋根が見つからない。自転車のハンドルの幅ほどの道幅の路地で、通行の邪魔をしてしまったお婆さんに道をきくはめになった。「この道を進んで出会う四つ角を左に、すぐ右の路地を登ると大きな木の後ろがお寺だよ、尾根の向う側だよ、ここから見えん」

みつけたお寺の正面の民家に江田島カヌークラブのカンバンが掲げてある。海までは遠いのだが?。
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丁度お寺さんのご夫婦が山門におられ、探している「郷土資料館」を聞くと、南面している寺門正面向うの尾根の上のこんもりとした繁みを指して、あそこの神社の境内にあるけど閉まっているよ。Googleには神社マークはない。神社も探していた。

そこの広場をぬけて、民家の横をすり抜けると早い!と、お教えてくれたのは、お寺の大黒様だ。このあたり、通り抜けるのに、個人の庭と広場と路地の区別はないようだ。解放区・カルチェラタン!!  たどり着いた神社は鹿川将軍社。
境内の神社改修記念碑 「瀬戸内海に於いて海賊との戦いに武勲をたて武人として祭る」とある。勇ましい!これってこの島に海軍さんの学校があったから、同調したのではないようだ。
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HPに伊予の歴史をブログしているサイト・「湯築城への招待」があって、大変詳しくて、“伊予・河野氏”から派生したといわれる、能美氏、山野井家についても語られている。そこには、「能美の鹿川将軍社浦少し登と墓地あり中央に山野井の大きな墓石・・」と投稿掲載されていた。その墓所と神社・将軍社との関係にひかれて、ウロウロしてきた。

広島・浅野藩の歴史書「芸藩通誌」に、「大原の山野井氏、先祖河野清景、伊予の河野秀清の子、この国に来たり能美島を開き松尾城に居す。十世河野景重 朝鮮役より帰り十一世重久より農間に降り里正となる。鹿川村に同族あり、その祖八太夫、朝鮮役に従い帰朝ののち別家す。その家朝鮮飯器を蔵す。」とあるから、伊予・越智氏、大三島の大山祇神社の神官家、古代の伊予・物部氏と長い経歴を幾重にも語られる人々の痕跡がここにあることになる。神社の急な石段の参道から海が見える。彼等もみた景色が見える。
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神社をでてからの登りは尾根上に伸びていて、寺のあった谷間から少しつづらに神社に登って背後の真道山の南の鞍部へのルートには、広い林道から鹿川貯水池を経由して山越えて、東の海岸の飛渡瀬へ、南の古古江にと走れる。宮本の語る“外へ抜ける道”はこの感じなのだろう。

「田んぼや畑のなかからいきなり立ち上がっているような家は、視線から消して。大体新しくでた分家だろう。それから新しい車道沿いの家も車道こと消して無いものとして見ると、少し前のむらがイメージできる。 宮本常一」
なかなか技がいる宮本流、景観観察方法だが、路地を区切る石垣は、ダイレクトに“すこし前”を感じさせる。
「中国地方だと、宮座のある地域の旧家の石組みはよく見ておけ。(神社維持継承の取り組みの集団で、集落の管理支配組織にもなることが多い、といわれる。鹿川将軍社はここの開拓パイオニアの信仰の中心であろうから、ここに宮座があったかもしれない。土井)石組みそれがそこのひとつの基準になる。石積みの石は、自然石そのままの野面石・ノズライシ、割石、切石となり、もっとも加工されたのが切石ということになる。その組み合わせが歴史でもあり、他との比較資料にもなる。墓地も歴史そのものだ。宮本常一」

路地にお石組みにセメントを差し込んでいる老人のそばに、ベコニアの花壇があった。傾斜地に家を作る、田んぼをつくる、その為に石垣をつく。それが土地も区分の境界になる。それが基準となって、動かせないものとなる。だから残る。時間がそこに溜まる。
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ここ鹿川の傾斜地の石垣に区切られた路地はむき出しの時間の重層、時間のミルフィーユケーキだ。石垣と石垣との間隔が狭くなる場所は、石垣が支えきれる圧力を小さくさせるため。地下水がその下で溜まって、重い土壌が石垣を内側からメリメリと押している場所。この崩壊しやすいところが、辛うじて支えられている場所こそが、パワースポット。微妙なバランスが、人の体に信号を送ってくる場所。寺社や墓地は置かれなかった場所だ。寺社は観光パワースポットとされるが、そこが面白くない訳は、このあたりにあると、思う。石垣はあやうさをせき止めている、とても頼れるヤツでなきゃいけない、ヤツなのだ。
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by forumhiroshima | 2015-06-06 10:32


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