こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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大三島、三島明神の正体

大三島の大山祇神社への参拝を思い立ったのは、能美島の中町山中の梅河内氏勧請の大山祇神社との出会いからでもあるが、もう一つは、しまなみ海道サイクリングコースの開通が契機なのだろうが、自転車神社が大山祇神社にあると、どこかで聞いて、新しい社でも建立されたのか?とおもったからでもある。
もみのきレースのチビッコレースに参加賞のミサンガをプレゼントしているのだが、そのミサンガを持って、“自転車神社”に参拝し、御利益をただでいただこうと、魂胆したからでも、なのです。

境内に自転車神社は見当たらなくて、どうも山門の古代兵像の兜がヘルメットに、にているから、ってことらしい、と後で知った。いっておきたいが、ツールドフランスでのヘルメット着用は近年のことで、それまでは、サイクルキャップとカスク、NHK番組のこころ旅の日野さんの着用しているヤツだ、と古いファンはそう思っている。古代兵の兜との関連なんぞ?。噂の自転車神社に、ツールドフランスでコースになるギザッロ峠のサイクリストの守護女神キザッロ教会を連想していて、それとの落差にがっくり。

古代ヘルメットの古代兵像のブーツに神紋が刻まれている。
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折敷・縮三文字。拝殿もこの縮三文字の神紋でかざられている。
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大山祇神なら神紋は「大」がふさわしかろうに。どこもここも縮三文字だらけ。
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大三島だから、なのか。三文字の神紋の本拠はここではない。
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三文字の神紋は静岡県三島市、三島大社の神紋とされている。三が縮れていない神紋の静岡・三島市の三島大社は大山祇神と事代主の2柱を祭神とし、大山祇神の娘、コノハナサクヤヒメの鎮座する富士山を仰ぎ見る。
神話世界では神武天皇の5代後、歴史的には卑弥呼の時代の2世紀前、天竺・インドの王子が渡来してきた。住居を探し伊豆の海中から島を噴出させ、七日七夜続けて、10の島を出現させそこに鎮座した。初めて現れたのが初島、次の島に王子や龍神雷神が集まり、神集島(神津島)とし、大島、新島、三宅島(御焼島)、御蔵島、八丈島、小島などを出現させた。「日本後記」は伊豆諸島がこの順番で出来たと語るが、地図上でみられる本州から近い順の順番でなないようだ。火山島として出現したその経緯を、長い地球時間での記憶がそこにあったかのように語られる。石器時代から縄文時代の刃物された黒曜石で神集島産出の石は関東一円から信州までのエリアで見つかっている。旧石器時代からの交流の遺物だという。島の中央の天上山噴火口跡に神々は集まり、島々への水の配分を決めようとした。この島に豊富な水源があるからという。我々のDNAに3万年前の旧跡時代の記憶があっても不思議ではない。

「古代人は自然の激烈な変動を神の仕業と見、そこから一つの神話空間を作り出した。 谷川健一・日本の神々」三島神は三宅島(三は御ヤケは焼く・噴火)から、伊豆半島先端の賀茂郡大社郷白浜の長田神明・ナガタカミアケの地に移された。カミアケは神焼だという。ここでは伊古奈比咩神社と名を替え、いまも10月29日には焚火を焚き、伊豆諸島の島々も巨大かがり火をたいたといわれる。神社の浜からこの60km先のかがり火が見えたという。(谷川健一・日本の神々)このイコナヒメは大山祇神の妻でコノハナサクヤヒメの母だ。

白浜から、三島市の三島大社に移され、その址が伊古奈比咩神社となった。源頼朝は平家追討の挙兵をこの神社で行っている。いまの三島大社の祭神は大山祇神と事代主になっている。事代主は奈良・葛城の高鴨神社の祭神で、出雲、美保関の美保神社の神でもある。

摂津・大阪府高槻市の淀川河畔に少し離れて広い明るい境内の古びた三島鴨神社がある。ここも古代賀茂社領になる。祭神は大山祇神と事代主で、三島大社と同じ。が、ここの大山祇神は仁徳天皇在位の4世紀ごろ、朝鮮半島の百濟から渡来してきた“渡り”の神とされ、ここから伊予・大三島の大山祇神社へ遷座した(伊予国風土記・逸文)といわれている。
伊豆・摂津・伊予(大山祇神社)の三社を3三島とよばれたりする。

宮本常一は、大山祇神社の所在が、古代の賀茂社領であったから、大三島と呼ばれ葛城賀茂社が鎮座する、という。島の本土側の竹原に賀茂川の流れがあり賀茂社領で、上流に西條の町がある。四国側に伊予の西条市があり、そこに加茂川の流れがあり賀茂社領だ。竹原に賀茂神社があり、西条市に喜母神社、加茂神社が鎮座している。その両神社を結ぶラインに大山祇神社が鎮座している。どちらのサイジョウも水がいい。自噴泉・うちぬきが西条市一円に散在している。そこで地下水が噴出している。

大三島・大山祇神社の境内中央の古代楠の右に葛城神社が鎮座している。
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古代に小千・オチ、越智・オチ氏とよばれた河野氏の祖先の小千玉興が8世紀初頭の奈良で朝廷に逮捕された。それは友人で葛城鴨社の神官の役小角・エンノオズヌが呪術で民を惑わしたとされ、それとの共謀関係を疑われた。「役小角、その素姓は賀茂役公・今の高賀茂の朝臣という筋間のよい出身であろう。司馬遼太郎・街道をゆく 1」
玉興は解放されたが、役小角は伊豆に流されることになった。が、玉興はなぜか、役小角を連れて難波の港から中国人の船を見つけ出航した。乗り込んだ船は途中の吉備の水島沖で水を失った。役小角と玉興は海面をかき回し、澄んだ真水を海中から取り上げた。
玉興の父、守興が日本と唐、新羅と戦った白村江の戦いで捕虜になり、抑留されていた中国で越人との間にできた子供がその船長だとわかり、彼を弟として玉澄と日本名を付けた。玉興は三島鴨社から勧請していた三島神を大三島に鎮座させ、その神職となった。真水を海中から取り出した奇禍は伊予の高縄山からの水とされ、三島神からの御神託「水上の河にある野に住むべし」により、玉澄は「河野」と名乗り松山で河野氏の祖となった。今も高縄山山中に河野家菩提寺の高縄寺がある。中国・越人との混血の玉澄は、小千・オトを越智(越を知る)と変えた。高縄山が道後温泉の水源になる。

大三島が古代賀茂社領であるから、境内に葛城神社があると宮本常一さんはおっしゃる。異をとなえるなんてできないが、葛城山で修行した役小角が伊豆に流される前に大三島のやってきたという伝承がこの神社の鎮座の訳とすると、楽しいでしょう。役小角はここから伊豆へいったという。
民俗学者の沖浦和光が、小千氏創建伝承を紹介している(瀬戸内海の民俗誌)。二世紀ごろ大和朝廷の男とワダツミの女が結ばれ、三つ子が誕生した。三つ子は親元をそれぞれ離されて、伊豆へ、吉備へ、伊予へ、と流した。伊予の三津浦(松山港)へ流された子供が小千の御子と呼ばれ、小千氏の祖となった、とされている。伊豆と河野氏とのつながりは深い。

役小角が50歳のころの684年10月14日 伊予、土佐で大地震が発生、伊豆諸島の北西が隆起し新しい島が出現した。伊豆諸島は太平洋プレートにのっかり、本州に衝突する力を常に秘めている。伊予松山平野の重信川、西条市の加茂川は中央構造線活断層地帯そのもので、フィリピンプレートの圧力で右にずれるように四国は引きずられている。
九州から東へ伸びた中央構造線は高縄山で北方向に湾曲し今治市から西条市へとながれる。
高縄山塊は中央構造線ラインをクリップして南西方向から東方向への変更点になる。パワーがここにある、ってことかな。
この中央構造線上に、湧水が点在する。西条市はもとより、松山市東部に龍沢泉、三か村泉、お吉泉(このほか130か所)などがある。また砥部焼の土もこの構造線周辺から掘られている。古代の人々は、神々の神威におののきながらも、ちゃっかり、おいしい水や硅石、長石、カオリンなどを含み、焼いて成型できる粘土を受け取っていた。土器で米がたける。彼らは大地の鼓動の産物を見つけ受け取っていた。道後温泉のそばに弥生時代の巨大倉庫の遺跡がみつかっている。
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大三島の船折瀬戸の浜に出現した大山祇神は大火山地帯の南九州の笠沙浜からの渡来で、三島神は伊豆諸島からの渡来になるのか。838年の伊豆諸島・上津島(神集島)の島周辺の海中が焼炎して野火のようになった。朝廷はこの事態を占わせ、神々に神位を授け、これから各島々へ位階を授ける。沈静化をひたすら祈願させている。

大三島海岸の砂浜の湧水の出現は神威であったと感じられたように思えてならない。
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それを感じた人々の神が南九州の大山祇神であったのだろう。そこで大山祇の神の祀りが行われた。船は真っ二つに折れる激流の瀬戸を背景にして。
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中央構造線が九州の中央を分断するように東にのびて、佐田岬の北側をなぞって四国の瀬戸内川へ入っている。その上陸地点に伊方原発がある。いま科学の安全を神話として、古代の人々のように、我々は受け止めている。変わらん、ね。
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by forumhiroshima | 2015-08-27 00:12

赤い啄木鳥・アカゲラ

私は戦争を知らない、“むかし”子供たちの二期生です。同時に墨をヌラレタ歴史教科書の塗られた部分も知らない、“むかし”子供たちです。「紀元節、神武天皇東征、神功皇后半島征伐、・・・ETC」なにやら、不可触なもの、がどこかとても「イヤ」だった。

修学旅行は京都・奈良。土門拳、入江泰吉の写真、亀井勝一郎の奈良、宮大工棟梁・吉岡常一の薬師寺。子供から中学生になったころ、墨をヌラレタ日本がむくむく現れたように思えた。そのころに、和辻哲郎の「古寺巡礼」にであった。この中に法隆寺・薬師寺・・に日本があった。

戦前、在庫切れになった古寺巡礼の出版社へ再版要望があった。「著者(和辻)は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。・・近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。」「社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。」古寺巡礼の戦後の改訂版出版に際しての和辻の“改定序”です。

大正9年出版、和辻哲郎「日本古代文化」
「弥生時代の北九州の墓から銅剣や鏡、勾玉などが発掘される。また4世紀に出現したとおもわれる初期大和朝廷の古墳からも剣、勾玉などがでる。しかし、銅鐸はでない。これにたいして弥生時代の近畿地方の墓からは逆に剣も鏡もでない。弥生時代と古墳時代は近畿では連続していない。弥生時代の北九州と古墳時代の近畿地方が連続している。」このことから、北九州に海を渡り到来し定住していた人々が、あるとき東へ移動し、近畿へ到来定住した証だという。

この移動した人々の集団が、物部氏とよばれた大和朝廷の部民(配下)の人たちで、彼らは元「オチ」とよばれるひとびとであった、と考古学者の鳥越憲三郎が「女王卑弥呼の国 2002年出版」で語る。このなかでは、むかし日本が詳しく語られる。

物部氏という古代の豪族が、古代伊予の越智氏でのちの河野氏だといわれる。河野氏が祭祀した大三島の大山祇神社に物部氏の痕跡はない。伝承がただようのみだ。ただ古代の伊予の国造にこのオチの名があり、彼らが物部であると記録されることが、証拠とされる。

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(大山祇神社の神饌)

弥生時代の始まりは、稲の種・籾を壺にあふれるほど詰め込み、稲作の道具も船に詰めもめて、この列島に漂着した人々の稲作成功の情報が九州から列島の最北端に伝えられたのは、北九州に最初に到来した人々からわずか200年といわれる。生きてゆける優れた技術・稲作が時代をつくりはじめた。紀元前400年とのいわれるころ、大和朝廷の成立の800年以上の昔のことだ。

「籾」を「早苗」にそだて、田植して「稲」の実りをつくり、籾を杵でうち「玄米」をつくる。それを「米」とよび壺に水といれ火をたく。弥生時代の壺と縄文の壺がちがうのは、弥生の壺に蓋をおけることだという。蓋つきの土器で、蒸し煮され、米が「飯」になる。飯はモチモチにたきあがらなくてはならない。この好みが、インディカ種でなくジャポニカ種を種として選んだ。これが日本のカルチャーだ。

「オチ」、のちの物部たちは、自分たちのつくる壺に木の葉模様をつけた。この模様の壺・土器が見つかると、そこは物部の所在と言われる、のだそうだ。北九州の遠賀川流域の弥生の集落からこの模様の土器がみつかる。そして瀬戸内から太平洋岸に拡散している。木の葉の土器は、伊予では今治の北部の近見山南麓や道後・湯築城(道後公園)から出土している。
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物部氏のことは9世紀に製作された「旧事本紀」にその部族構成資料があり、それをもとに鳥越憲三郎の「女王卑弥呼の国」では、遠賀川流域の物部が転進し、また定住した、同じ名の場所に遠賀川時代の地名をその場所に付けた。瀬戸内、摂津、大和と、そういった物部関連の地名が、彼らの移動の痕跡だという。

以前古代豪族の物部氏が今に出現した。そう思った。「四天王寺の鷹 谷川健一」を読んだ時だ。
物部氏と曾我氏との尊仏論争からといわれる戦いが587年の大阪の河内で勃発し、物部氏の領主・物部守屋が殺害された。「守屋は仏法に背き、太子はこれをお輿し給う。守屋遂に討たれけり。太子仏法最初の天王寺を建立し給いけるに、守屋が怨霊、伽藍を滅さんが為に、数千万羽の赤の啄木鳥となりて、堂舎をつつき亡ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給いけり。 源平盛衰記」「今も寺に異相のあるとき、太子の鷹来たり、あるいは、御塔上、あるいは金堂上に居り、あるいは講堂の長押に夜々宿するという。寺住のヒト、一度に非ず、二度ならず、悉くこれを見るといふ」

谷川は寺の太子堂の東、ひっそりと守屋祠があるといい、“参拝の者、守屋の名を悪むや、礫を投げて祠を破壊す”から参拝者の入れない場所に置かれたという。
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四天王寺へ走った。寺の宝物館のパンフにも、太子堂の西になる金堂の屋根に鷹の止まり木が設置してある、とあった。それも見つけた。
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谷川は、ついで、「守屋に仕えた者たちで、守屋の敗死後、四天王寺の奴婢になった人々の末裔が、いまも公人と呼ばれて、いろいろな仕事についている」と書いている。境内の、地下の池の流れでお札を洗う亀井堂のおじいさんに、あなたは守屋からの末裔ですか?と、尋ねたかったが、可笑しいヤツと思われそうで、まだ、公人そのことを信じきれなかった。     戦争の空襲で焼失し戦後再建された寺はコンクリート製である。
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大阪湾に渡来した「オチ・物部」の一行が上陸した場所の伝承がある。物部の祖のニギハヤヒは生駒の山に降臨したことになっているが、人間さまは海を船で渡ってきた。
鳥越憲三郎が大阪・河内での物部氏の本拠という恩智神社の神事・大祓の祭りが、旧暦6月に神社から18km先の堺の大浜まで二日がかりの行程で行われることを紹介している。堺の大浜での神輿の禊神事には住吉神社の神官のお迎えがされる。これは住吉の浜が陸地化したことで、南の堺の海岸に移行したのだろうと、鳥越憲三郎は考えている。住吉の浜が物部氏の上陸地点だと。恩智神社と住吉神社は北緯34.36の東西線上にあり、この線にある古街道で結ばれる。
石見・太田の物部神社にも海からの上陸伝承があって、その地点に鳥居という集落がある。いまも鳥居の海岸に出る大祓の神事が行われている。

恩智神社のある生駒山系の麓の北側、難波と奈良とを結んだ暗峠の大阪側に牧岡神社がある。この神社の神官が恩智神社の大祓いの神事の間の神様の留守を守るために来ることになっているという。奈良の春日大社は藤原氏一族の主神を祭るが、この牧岡神社の祭神のタケイカズチとフツヌシは牧岡神社から分霊された。牧岡神社と恩智神社は東経135.38の南北線上にある。ここの古街道の高野街道がこの南北線にそってある。直線の古街道は古代官道だといわれる。古代人たちにとってのランキング上位の“なにか”がそこにある?。

つまり、恩智神社は春日大社、住吉神社よりも、その発生が予想されるというのだ。どうだ、と守屋は、いや鳥越憲三郎は言っている訳だ。
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この牧岡神社の地元ひは、春日大社の創建に手伝いに行った伝法が残っていた。神社近くの小さな神社の社務所にその説明の表示があり、大社からの帰還の祭りがあるとあった。近畿ではこんな伝承てんこ盛りでのこっていた。歴史では伊予・瀬戸内は負けてないのだが・・・。

能美島の鹿川の将軍社の由来に、タケイカズチ・フツヌシのコンビが祭神だとあった。牧岡神社、春日大社の祭神たちだ。大国主に国譲りせまった稲佐浜の「否!諾!」の神様たち。それが、物部の末裔たちの鹿川の神社になぜ?祭られるのか。でもあまりにも、でかいナゾでした。物部と春日とのグチャグチャが、能美島にあるのですね。鳥越憲三郎は藤原氏の出身母体の中臣氏は物部であるといっているんですが。
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すっかり、お疲れの伊予の物部探し、です。
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by forumhiroshima | 2015-08-07 10:04

日本国総鎮守

大三島・大山祇神社の境内入口の鳥居に「日本総鎮守」と掛かっている。
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掛っているのはレプリカで、本物は国の重要文化財だそうだ。鳥居の横の奥に、神社名の石柱がたっている。揮毫は伊藤博文。
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「河野の勢力はその部下又は同族と称するもの、忽那諸島を経て安芸の江の内の島々に達して、安芸国の懐ふかく食い込んでいる。能美島の山野井氏、江田島の土肥氏、もと沼田郡の属する海岸地帯の林氏等はみな河野氏の分族といわれ、これらの諸氏は後には多く毛利氏の家臣となった。伊藤博文は長州藩のこの林氏の出、同藩の伊藤家の養子になった人であるから、河野の海賊党の子孫であるといわれる。 長沼賢海」
林という地名は生口島瀬戸田林だろうか。梅でなく、桜並木の参道の天神さんが古道にある。そばに桃の木の畑もあって、遅い瀬戸内の春がある。林はそんな所だ。
大山祇神社の石柱を博文が揮毫した縁は、河野氏の栄華の昔からかの縁からかも知れない、などと考えた。

大三島から伯方島へ渡る大三島大橋へ入る最初にあった鼻栗瀬戸の海岸にそった、しまなみ海道サイクリングコースそば、車道が入江を横切っている。
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海を渡る車道は欄干がなくて、橋であることが、わかりづらい車道下の浜辺の波打際に円形の井戸がある。
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以前はごみが詰まっていたが、新しく「みたらしの水」表示もつくられて、満潮に囲まれる井戸の不思議さが、保存されている。この井戸に「水神大山積大明神横祓の井戸」と刻まれた小さな石柱がある。
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この井戸のある浜辺の岬の繁みにそって回ると、大きな楠が林立し小さな祠を囲み、また大きな楠に飲み込まれた鳥居のある広場が見つかる。
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道路に標示のカンバン「横殿宮跡」が立っている。
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楠の森と、その前の海の鼻栗瀬戸には干満には激しい潮流が現れ、なぎさの井戸の不思議さで、そこに神を降臨させた人々の思いに共感する。

伝承がここにある。「仁徳天皇(四世紀ごろ)のころに、乎知命・オチノミコト(小千命)が「迫戸浦セトウラ遠土宮オトノミヤ」に大山祇神を移祭したとあり(大三島記文)、(大三島神社大祝家記)によれば、景行、仲哀、欽明、孝徳。斉明、天智ら天皇が道後温泉への途上に参拝した。
のち聖徳太子の勅命によってここに大営造が行われ、新たに“迫戸浦ヨコ殿宮”と呼ばれた。こののちの大宝年間(701-704)ごろ越智(小千)玉純が神託によって、ここから、現在地の榊山に遷宮したと伝えられる。日本の神々2」
楠の林立が法隆寺の回廊の柱のだ。太子も道後温泉へ入浴されている伝承を思い出す。
大山祇神はここのなぎさの井戸へ降臨した、と激しく妄想する。林立する楠の羅列が法隆寺回廊のエンタシスの柱を連想させる。
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古代の天皇や太子たちが、この島を経由して道後温泉へ向かっている。温泉は大地のパワーを噴出する場所とされ、有馬温泉にも古代の天皇が訪れており、貴族たちの温泉入浴には朝廷の許可がいるほど、大地のパワーの独占がおこなわれたという。
道後温泉への天皇たちの旅が安全に行われるために、朝廷は各地の豪族を平定し、国造として任命し、そのそばに朝廷直属の国造も置いたといわれる。

「伊予国には五つの国造に支配地を分割し、そのうちの地元豪族系統は、小市国造、風早国造があり、朝廷系統から伊予国造、久味国造、怒麻国造が置かれた。怒麻国造は安芸国の阿岐国造と同祖で東北の陸奥国の国造たちとも同祖になる。一方小市国造、風早国造は物部連の祖、イカガシコオからの系統とされている。道後温泉のある松山平野の中央の温泉郷を支配地としていた風早国造は、そこを追われ今治市菊間あたりを領地とされた。阿岐国造は佐伯氏で、この一族は安芸国のほか豊後国の安岐(国東)、佐伯(佐伯市)にも見える。 鳥越憲三郎」この朝廷派遣のそれも東北の蝦夷から任命した国造たちが、天皇や太子の道後入浴の快適な環境をつくったのだろう。蝦夷からここに派遣された佐伯氏はまさに遮る・サエギル人なのだ。古代朝廷のウルトラマンたちのエネルギー補給基地が道後温泉ってことだ。

大山祇神社境内中央に樹齢2600年とされ、乎知命のお手植えの楠がある。
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この乎知命が小市国造だという。鼻栗瀬戸のヨコ宮からいまの榊山の遷宮されたのは8世紀初頭といわれる(日本の神々2)。
古代の国造家が現在まで続くのは古代出雲族の出雲大社と和歌山の古代紀氏の日前国懸神社ほかはない。古代からの継続を血族をもっておこなうということが、奇異なことだと思う。がこの国では、特別ではあるが変じゃないのだ。疑いもない検証する必要のない事実とされることが、今おもしろい。大山祇神社の境内の北側に社家とおもえる注連縄をかけた門の屋敷がある。表札には三島とあった。

大山祇神社の神主家は古代の物部氏からの継続とはならなかった。河野氏は戦国末期秀吉の四国征伐で竹原の小早川隆景と戦い、降伏ののち竹原で病死し、ここで河野家は断絶している。小早川隆景はのち博多を領地としたが、病死。家来一党は博多を離れ竹原に帰郷。のち一部は毛利家に召し抱えられ、山口へ。秀吉が朝鮮進出に九州へ向かったとき、河野氏の残党が三原で襲ったという。
村上氏も秀吉の海賊征伐令により毛利家に。芸予の海賊たちは、毛利家に吸い込まれている。幕末を演出するエネルギーがここらにあったのだろういか。伊藤博文は物部氏であった、のだろうか。歴史舞台への再登場のエネルギーは道後温泉?高杉晋作も道後に長逗留してたっけ。

古代物部氏はナガスネヒコとの連合で、神武天皇の大和侵入を一度は阻止、のち神武側に寝返る。はるかのちに、聖徳太子と曽我氏の連合に大阪・河内で戦い滅亡。一部が大和・天理市の石上布留神社の神官となっている。朝廷側の物部として「内物部」と呼ばれた。滅亡したとされる逃亡した物部は天武天皇・大海皇子の戦いに参加して、再度、歴史舞台の表に浮上している。
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by forumhiroshima | 2015-08-04 09:12


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