こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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神の島

大三島の東隣の伯方島の小さな港町の木浦で島の神と呼ばれるところに、三島神社が鎮座している。拝殿の天井にびっしりとすきまなく提灯が吊り下げて、祭りが日常のような景色だ。そばにおいしい寿司屋さんが昼間も開いていて、島の生活の豊かさが望ましい。朝漁の真鯛持ち込み、昼から一杯、二杯・・・。それが生活!!なんて夢。

大三島の大山祇神社が三島神社と呼ばないを、考えている。
福山市蔵王町惣戸神社は江戸期には三島大明神と呼ばれていた。この“三島”がサントウと読まれ、サントウがソウトになった。読みに後付で漢字がつけられる。

京都・比叡山の西の山麓の岩倉に平安初期に不遇の最期を迎えた早良親王、死後、崇道天皇・スドウテンノウを祀った御霊神社がある。御所の南にも下御霊神社があって、不遇の死を迎えた菅原道真などが祀られることと同じ信仰が、スドウをソウトウ・惣戸、サントウ・三島、などを創り出したといわれる。柳田国男は「わずかに遺る土地の信仰の中から、各地に共通の点が見いだされる」といい、松童・マツドウ権現をあげて、「何か恐ろしい天災地妖又は其予覚があった場合に、地方に最も勢力のある神が此の名に於いて祭られるのが自然・・」といっている。甲奴町今は三次市に小童・ヒチもショウドウと読める場所がある。ここに須佐神社がある。祇園社と同じ。南の府中市の素戔嗚神社も祇園社と呼ばれる。

大三島の大山祇神社の祭神は大山積命で、「祇」「積」を使い分ける。三島大明神と合わせれば、三つの名が使われる神となる。強力である。「祇」に祇園のスサノオの力を、「積」に薩摩隼人の守護神の、「三島」に崇道天皇の御霊の力を。

伊予・河野通信は源平合戦で源氏側につき壇ノ浦へは大船30隻で乗り込んでいる。源平合戦の出陣に源頼朝は伊豆・三島大明神に戦勝祈願して出立している。ここの大山祇神社の宝物に源氏関係が多い。

大山祇神社の本殿の奥へ向かう道がある。「生樹の御門」と呼ばれる樹齢二千年の巨樹があって、根本に空洞があり、ここをくぐって道は奥へ。
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そこに阿弥陀寺とよばれる小さな寺があり、奥ノ院といわれる。三つの神力の大山祇神社に仏法の仏力が加えられた。
中世に一万数千石、四国にも領地のある一大荘園だったといわれるほど、ここは繁栄していた。

大楠周囲は路地が石垣の間に伸びているが、一大荘園の名残、24以上あったという、たくさんの僧房の跡の形跡なども、想像できなかった。
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それでも、中世の古代都市の名残りのだったのだろう路地を抜けると、人影のまばらな道の駅の前の車道にでた。阿弥陀寺と生樹楠に漂っていた重い時間の層が消えていた。

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大三島へ上がると、必ず、最初に尋ねる集落がある。西海岸の「肥海・ヒガイ」。
二つの岬が西の海に伸びて、正面の大崎上島の北端の山並みとの間に浮かぶ神殿島を抱きしめようとしている。
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その景色は毛細血管のように路地をめぐらせた集落の山麓にある曹洞宗海蔵寺金剛寺のから見つけた。
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神殿島の東の柵林島に地図に神社マークが見える。神殿島の参拝の場所におもえた。
肥海の集落は直径500mばかりの円で、ちょうど囲まれる。集落に漁師はいない農業専業の集落だと、宮本常一はいっている。
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瀬戸内では対面する島へ海を渡って開墾してきた。対岸に人々が舟で渡り畑を拓き、そこは対岸の行政区分に入る。そんな飛地があった。神殿島のむこう大崎上島の鰆崎は漁師の集落で、農業の出仕事はないだろう。と、想像する。海岸に田園がつくられる。そこに小さな水のたまり場がつくられて、九州の南の水不足の島々でみられる風景がある。”肥”にはその意味があるのか。
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円にかたまる集落の北の尾根に二つの神社があって、八幡社と相殿神社が鎮座している。

島とこれらの配置は、なんらかの関連があるのでは。と、しても相殿社から神殿社は尾根に遮られて見えない。妄想はそこを破れない。

緑の少ない集落はすこし埃っぽい。背景の尾根の向うに砕石採取場あるからでもないようだ。その採石場へ出入りするダンプの影も薄い。そして集落はいつも沈黙している。

現代の今がダンプにのって入り込んでも、集落はただただ沈黙して、日の出には輝くだろう神の島を望むことで、時間を積み重ねられている、と感じる。いつか、お寺の駐車場を借りて、その朝日を見てみたい。
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大山祇神社の神の有り様の中の時間よりも、ここ肥海の神々の配置の中をうろうろ巡る時間がすきだ。何かが、海を渡ってくる。
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by forumhiroshima | 2015-09-16 16:00

柳と幽霊

大三島の領主であり、越智郡の地名に名を遺すのちの河野氏が、古代、物部氏で大和朝廷が奈良に入ることを阻止した人々であったと主張する鳥越憲三郎のロマンに引きこまれてしまったのだが、彼らの祖神と信仰するニギハヤヒ命の神社はこの島では見つけられない。
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ふと、「饒田津に舟のりせむと月待てば汐もかないぬ今は漕ぎいでな 額田王」この歌を思い出し、です。饒田はニギハヤヒ命のニギ、ニギ??

この饒田の津の地は松山、西条と候補地がある。折口信夫は「饒田津は古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りというのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊・フナユウギョと言ってもよいでしょうが、宮廷の聖なる行事の一つで、舟を浮かべて行われる神事なのです。」

古代三古湯は播磨・有間の湯(有馬温泉)紀国・牟婁の湯(白浜)伊予・伊予の湯(道後温泉)だそうで、どこも神事が古代行われた。大地のエネルギーの噴出が、神業だったのだろう、その業を取り込みたくて朝廷からの来訪が絶えなかった。貴族たちは朝廷の許可なくして入浴できなかった。家臣たちの力の増強を恐れたのだといわれる。
額田王が道後にやってきたのは天智天皇(中大兄皇子)が半島に出兵した662年白村江の戦いのときだといわれる(異論があるが、取りあえず)。半島出兵の戦勝祈願の神事であったのだろか。神業を希求したのだろうか。

それから30年後、大三島に当代随一の祈祷師が現れた。
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「役小角は、尊称されて役行者、役の優婆塞などと呼ばれる。七世紀から八世紀にかけて活躍する怪人物だが、実存の人物であることはまちがいない。  葛城の鴨族という神霊のことをつかさどるグループのなかでも筋目のいい出身であろう。  鴨族の貴種の生まれながら  かれは神に仕えるよりも仏の世界に入った。  役小角は葛城の山の洞窟に住み
葛・カズラをたたいてそれを衣服にし、草の根木の皮を食って暮らすうち“孔雀の呪法”を習得した。  孔雀は毒草も毒蛇も食ってしまうらしく、それに驚嘆したインド人がつくりだしたのが孔雀明王である。  人間のもつ精神的障害を食い業障罪悪を消してくれる。  葛城のふもとに住む鴨族の小角の観念に一大威力をあたえた。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

「葛城の神霊である一言主神を脅し、葛城山から吉野山まで石の橋をかけることを命じ、夜も昼も働かそうとした。  一言主神はたまりかね、藤原ノ京にいる天皇に訴えて、“小角は謀叛をたくらんでいる”と讒言した。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

この讒言があって役小角は伊豆にながされることになる。「日本霊異記」で669年になる。讒言は一言主命の神主であろうと司馬遼太郎はいっているが、「続日本記」にはこの讒言は弟子の韓国連広足・カラクニノヒロタリだという。韓国連広足は韓国に派遣され帰国後その功績のより賜った姓で、元はニオギハヤヒ6世の孫のイカガシコオの孫で、物部氏の父系になるという。谷川健一 役の優婆塞」

河野氏の家の歴史書・伊章記よる、河野家の祖先の小千玉興が役小角と難波から大三島に連れだってきたのは役小角が65歳のころになる。藤原ノ京が出来上がってきたころだという。小千玉興の父守興は662年白村江戦いに参戦している。そのころ役小角が29歳。額田王が道後温泉で神事したときに小千玉興は船出したのか。10年ののち額田王は壬申の乱672年で死亡したといわれる。
大変動の時代の波が大三島や道後に押し寄せていた。
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千小氏は大和で物部と呼ばれた(鳥越憲三郎)。その物部といわれる韓国連広足が讒言したことと、小千玉興が讒言された役小角と伊予にゆくのと、どうなっているのだろう、な。大人の都合の話でしょうか。マアイイカ!

谷川健一「役の優婆塞」には、「役小角の祖父・事葛城君は子供に男子がなく、娘の白専女・シラタウメと呼ぶ一人娘にあとを継がせた。また出雲国加茂の富登江の子の大角を養子にした。大角はのち高賀茂真影麻呂・マカゲマロを名乗り、さらに十十寸麻呂と改名した。十十寸麻呂は白専女の婿となり役小角をもうけたが、のち大角は出雲国へかえったという」京都・下賀茂神社の祭神は賀茂建角身命で、カモ族には“角”がつくのか。ならば、田中角栄はカモ族か?。
額田王は琵琶湖出身とされるが、出雲国意宇郡(松江)出身とも。

役小角は山伏の元祖とされる。空海の山岳修行の先行すること約130年、まさに元祖だ。修験者のという強度な精神力の姿を思わせる。
が、父親の帰郷ということが、彼の人として感傷を感じる。幼年期のことだろうか、青年期の出来事なのだろうか。

出雲国の大角の故郷は、赤川が斐伊川に合流する加茂神社あたりだろうか、と感じる。この神社の西北の山中で銅鐸が発見されている。神社から西へR45にそった地方道が谷を北へ登っている。谷奥に駐車場が現れ、すぐに高架になって道路をまたぐ資料館が現れる。発見現場にレプリカで当時の様子が再現されていた。この谷は神社のある場所からは見えない。が、古代の祭壇の磐座が資料館そばに鎮座する。
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加茂神社は小さな丘に囲まれて、その間を赤川にながれこむ支流がいくつもある。北の宍道湖畔へと北上するR45は赤川を“柳橋”で渡る。平地へいくつもの尾根が張り出しそばに流れを従えて、赤川へ迫り、流れを合流させる。この尾根の先、よく山崎と名付けられる場所は出水の際、水流がせき止められ、ダム化し、水が引いた後に土砂の堆積が残る。なんだか、古代エジプトのナイルの叛乱ににている。
そこに豊かな土地が出現した。そのおいしい場所に古代に現れた人々が古代からの氏神を残す。全国各地で鴨、賀茂、加茂となぜか表記がかわるが、カモ族がここのパイオニアであろう。彼らの祭祀に銅鐸が打ち鳴らされたのだろうか。

京都、山城の賀茂族の祖神を祀る下賀茂の社のそばで賀茂川と高野川とが合流する河合の場所あたり、“柳”と地名される場所がある。そこに京阪電車の出町柳駅がある。ここも氾濫原で出町の地名の場所は古代出雲族の村あとともいう。いまそのあたりに出雲路橋がある。
なぜか、カモ神と柳との関連を妄想してしまう。
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「黄楊は“ツゲ”と書かれる。枝が遠くの一方を指すことから、あたかも何事かを告げんとする形であったために、“告げ”るとされた。 松の枝も広がりの力が顕著で、神降臨の説が起こる。一本松、三本松、五本松は神の所在だ。柳のごとき垂れるを性とするものは、生きた枝の伸び方で神意をうかがおうとしたものである。柳田国男」
陸前高田の奇跡の一本松に、だれもが神の降臨をみたはずだ。

「枝低く垂れて地に臨むものには、笠を連想させるものがある。笠は手を労することなく陰を供するもので、その下に立つ者の尊貴を表徴した。従ってこの名称はその地のかっての霊場であったことを昔の人に感じせしめたのである。 柳田国男」
柳も笠のように丸く放物線に枝を拡げる。枝の有り様で、神の神意をうかがおうとし、笠の形から霊場を思い霊の出現となって、幽霊の出現となったか。

花柳界も神社に隣接する。そこの神々は夜目遠目笠の内の美貌を誇り化けもする。

「花が垂れる藤は、藤原京と古代の城郭に名付けらえた。藤原は禊をする場所のことをいったらしい。“祓え“は水を使わないが、”禊ぎ“は水によって祓うことをいう。飛鳥の北部端で水時計などの施設がみつかっているが、水の流れが古代都の建設要件だった」と折口信夫がいう。額田王の道後訪問もこの禊ぎのためなのだろう。よほど道後は強力であったようだ。
のち”藤原“は禊ぎをする家の名として中臣鎌足だけに与えられた。その家の女子は禊ぎのために、天皇家に嫁いだ。

広島市内にも柳橋がある。そのそばに流川・薬研堀の繁華街があります。そこには、古代の祓い、禊ぎ、占いの空間が夜に立ち上がっている。
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by forumhiroshima | 2015-09-03 10:56


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