こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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小声で神紋論争

丹那の穴神社の幟には、厳島神社と同じ“三盛亀甲剣花菱”の神紋が使われている。
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町内会の面々はどうも納得していない。祭神に厳島姫神はおられないという。では、となると確信はないが、とマクラがついて小声で“山姥のマサカリ”じゃろう、と。子供神輿はこの神紋が掲げられる。
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子供神輿の後に手作りの子供獅子が踊っていた。
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山姥は中国山地でよく出会うオババだ。芸北の才乙、天狗石山西尾根、阿佐山南尾根、大暮の山中にはともに平家伝説の姥御前が鎮座し、石見町原山には山姥の祠がある。ここ海の島の仁保島に山姥が徘徊していた伝承があるのだそうだ。この伝承からの“山姥のマサカリ”が数年前に出現したらしい。まだ新しい神紋だ。

丹那の隣町の楠那や日宇那の鎮守は公園の中にある新宮神社。祭りは丹那より二週間遅く、本浦の仁保姫神社の祭礼と同じ日に行われる。小さな神社は荒廃していたのを戦後直ぐの昭和21年に再建されたという掲示板が本浦の仁保姫神社の倉庫に置かれている。
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熊野新宮神社からの勧請だが、神紋はここも厳島神社と同じ“三盛亀甲剣花菱”。
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ネットで調べると、熊野新宮神社は三つ巴だとあった。ネット社会ではすぐに調べられるが、戦後直ぐの時代に、それも神国荒廃の混乱時に神紋に興味があったかどうか、わからない。

天皇家の“十六八重表菊紋”は鎌倉幕府が成立した時代の後鳥羽上皇が奈良時代に中国から渡来した菊をめでられたことから、という。明治2年の政令で定められた。家紋・神紋は鎌倉時代に武士団の判別の要請からひろく作られたという。みなさん、勝手に作ったのだ。その際、いろいろ伝承がつくられる。もう昔だが自転車のフレームのエンブレムを家紋にすることがはやった事がある。エンブレムを作ってくれるメーカーがあった。我家紋はおやじからの伝承がなくて、おふくろ方の家紋を使っていた。曾祖父のとき、養子に出ていて、土井家は断絶、家紋の記憶は失われたらしいと、おふくろがこっそり話してくれた。

家紋消失のケースもあるが、家紋成立伝承は多種多様にある。たとえば、毛利家の一品家紋は家系に皇室につながるとする伝承のもので、ほかにも天皇家から拝領の五七桐家紋も持っている。

伊予・河野家の家紋は折敷という神饌を乗せる容器に三の字。この紋を付けた幕を船に張って蒙古襲来の合戦に出陣し活躍した。三の字が海面に移って波打ってみえた。終戦を祝う宴会が鎌倉でひらかれたおり、河野家は並み居る関東武士をしり目に、源頼朝、北条氏の次席、三番目に席を与えられた。このこともあって、折敷に波打つ三の字を縮み三字に変えた。河野家は源平合戦に義経に従い壇ノ浦に出陣している。戦果も挙げた。いま大山祇神社の神紋はこの河野氏の“折敷縮み三文字”になっている。
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河野氏の武運の印としてだろうか。とても人間臭い感じがする。

日宇那の新宮神社。の祭礼は簡素なものに見えた。紅白の幕もなく、神社は素のままで、祭礼の日を迎えている。神社の東側の尾根上に新しく開発された住宅街は仁保南町に分類される。ここは仁保姫神社の氏子の領域で、新宮神社ではない。

新宮神社横に流れこむ小さな流れにそっている細い登り道を走っている。だれにも会わない。へたっているのを見られないから・・選んだのではないが。神社そばの流れは幅3mに足らない水路に入っている。
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水路は海が埋め立てで取り残された。黄金山の南斜面にふった雨がいくつもの溝で入ってくる海への排水路で両端が海へつながっている。だから、潮の干満が水路に現れる。夕べの満月が朝の満ち潮って関係がたのしい。
その干満の海水に出入りの流れがこの神社で東西に分かれているのを、発見した。大発見だった。そうして、この神社そばの流れの流入口がこの干満の分岐点だとも発見した。
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なぜか、ここに小さな神社を昭和21年(自分の生まれた年)に地元が再建したとき、その場所の選定に、ここが埋め立てられる前にも汐道、つまり、ここで海の干満の流れが分岐していて、その場所が神聖な場所であったからではないか。

瀬戸内海に南の豊後水道、東の紀伊水道を通って外洋から流入した海水は備讃瀬戸西部で会合する。備讃瀬戸大橋の西側あたりになる。塩飽諸島あたりといわれる。
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この会合ラインに金刀比羅山・琴平山が北・南にあり、南に金毘羅宮、北に由加山に由加神社本宮があり、古来両参りするといわれる。海の会合のラインはこの両神が加護していると思える。塩飽の漁師たちは人名とよばれる幕府直属の船乗りたちとされた。海の干満という営みの中心点の立地が彼らの時代を創った。
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黄金山とよばれる仁保山の“仁保”は澪・ミオではないかと考えだした。この島は西の京橋川と北から東へ流れる猿猴川に挟まれる。島の南でこの二つは合流する、としたら。合流する流れは水流の早い流れが底を深くえぐる。このラインが船の航行に使われる。これを示す杭が打ち込まれるとミオのツクシ、あの春のツクシで澪土筆と呼ばれる。広島湾に入った船は仁保山を当て山とし、古代の国府府中への進路をとった。仁保はミオの目印だった。坂の鯛尾の地名は急流に回遊する鯛の記憶、金輪島との間に澪があったのではないか。この海峡の正面に、日宇那の集落があり、そこに真水が流れ込んでいた。
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(ここまで妄想を拡げる自分がコワイ)

その麓に熊野の新宮神社が勧請された。この神を勧請した人々は、瀬戸内一帯に舟による大網漁法を広げた熊野漁民だったろう。

日宇那の小さな流れよりも、丹那の本浦へ抜ける峠道中ごろに清水さまと呼ばれるりっぱないまも湧いている泉と、祠がある。「姥神は子安様・コヤスサマともいって、最初から子供のお好きな、路傍の神様でありました。それがだんだんに変わって来て、後には乳母を神に祀ったものと思うようになり・・・姥神はたいてい水の畔に祀ってありました。 柳田国男 咳のおば様」
題名の「咳」は、これを拝めば咳がとれるとされていたが、もとは“関”だったという。境界を示している。山姥と呼ばれる所以になるのか。芸北の姥神は、そばをぬけると峠道だった。

丹那の穴神社の早朝の獅子舞の舞手は中学生だった。子供が子供を守る、そんな時代がこの町にはあったのだろう。

ブログの更新ができなくて、どうした!死んだか!とあったかいお言葉がいくつも飛んできた。自転車に乗って、書くぞ!を守ってきたつもりだが、(時には??)その自転車のフレームの接着のエンドが抜けて、そのメンテの接着剤の選択と硬化させる環境調べが出来なくて、はしれない、です。
十数年付き合ったカーボン+アルミのフレームで、パーツは4世代です。よく走る!なんてわからないのが本音ですが、ホリゾンタルでノーマルサイズのチューブの姿がお気に入りです。プラモデルっぽいデザインも悪くないとは思っていますが、自転車に走っていただくスタイルで、走らされるスタイルには、恐れ多いのです。フレームはその内、治せるでしょう。それまではブログは飛び飛びです。付き合っていただくのに、すみません。

追伸です。新宮神社の由来掲示ボードが本浦の仁保姫神社に倉庫に投げ込んであるので写真採りにいったのですが、神社本殿横に伊勢神宮の式年遷宮ででてきた材木が置いてありました。ちょっと触りました。
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追伸2です
広島市の紋章が、縮み三文字なんだけど、川なら6本だよな。
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追伸3です
宮本常一の風土記日本・中四国に金毘羅樽の話がある。瀬戸内の海や流れ込む川に金毘羅神へのお供えを樽にいれ、材木に括り付け流す。このお供えが丸亀や多度津の海岸に必ず流れ着く。と拾った人は神社へ、流し主に代わってお供えをした。瀬戸内の漂流物がこの海域に集まることが神威として感じたのだろう。この海峡に汐が湧き、そして引く。金毘羅神の意のままに。この神がおられてこその歌舞伎の上演が貫徹する。
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by forumhiroshima | 2015-10-26 21:58

小七郎という名の発生

黄金山の南の山麓に住み始めて、三度目の秋になった。秋祭りの手伝いの依頼が世話人さんからの連絡があって、一週間前の幟立てから、
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前日早朝の餅つき、当日早朝の獅子舞、
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片付けに出かけた。手伝っている町内会の面々の名前と顔とが三年目でやっと重なった。

祭りをする丹那町の穴神社の境内に大正9年(1920)に神社が改築された記念碑があって、多数の寄進者氏名が刻まれている。町内会の面々の名があるかと、覗いてみた。
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幾人か同じ名がある。大正のころに寄進できる世代のリストだから、刻まれた人々は江戸末期か明治に生まれた人たちなのだろう。町内会の人々もここがながい。
サイクリングで立ち寄った村の社の境内の記念碑など、よく眺めてみる。その神社の氏子たちの集落での家々の昔が浮かんで来たりする。同じ名の並ぶリストに出会うと、いまも集落の人々は同じ名の人たちだろうと、固定された長い時間を感じさせる。
そんな集落の家々の戸口には表札はなく、屋号だけがあったりする。なぜか、ここにきてよかったなどと、わけわからない感傷が生まれる。「古いなぁ」「頑張って!」そして写真を撮る。が、後で何を写したかを忘れている。ただの玄関の写真だから。自分の頭ではすぐに時は消えてしまう。

この国のすべての人の「氏」を定め記録する戸籍が作られたのは、大化の改新で646年のこと。これ以後許可なく改めることはできなくなった。最初は、もちろん奈良の盆地周辺のことだ。が徐々にひろがっていった。1360年を経て名前が数字にかわりそうだ。“決めていただく”ことになった。

大化の改新で戸籍を定めることができたのは、ずっと以前のある時代に一つの氏族があるところに、どこからか、移ってきて定住し、次第に繁殖していた。その一族への口分田の配分、納税額の決定ができるようになったからだろう。最小単位の一戸は戸主によって束ねられた5親等までの親族や親せき、および奴隷で、十数人以上百人もいたといわれる。この戸を50戸集めて里として、行政単位となった。いまの村や町の規模にあたる。この一戸は同じ「氏」を持っていた。この集団が歴史上に記憶されれば、豪族と呼ばれる。
戸を5つでくくったのが「保」とよばれ、いわゆる五人組制度で、連帯責任を負わされていた。この構成員は同じ血族であった。彼らは農民であるから移動は困難で、長く血族で構成される集落の形態は変わらなかった。「氏名」が地形・地名に由来することは、このことによるといわれる。たとえば、伊予の物部氏と記憶される人々を連想する。この連想が妄想に昇格する。彼らが近場で最も古いと記憶された集団だからだ。

このごろでは考えられないが、名前には昔には、①祖先の集団である「氏」源氏とか藤原とかからの一字を使う、②祖先が就いていた官職、左衛門・兵衛・助・佐内・監物など③太郎、次郎などの父子兄弟の順位、という習慣があった。

とても興味があるのは、①の祖先の集団の「氏」を名前に流し込むという習慣のことだ。官兵衛・勘兵衛さんの「カン」は菅原氏の「菅」から、安兵衛さんは安倍氏の「安」、喜兵衛さん、記内さんは紀氏の「紀(木・喜・記)」、野太郎さんは小野氏の「野」、吉右衛門の「吉」は橘氏から、等々。男の子が生まれたお父さんは、ハタ!と我が家の伝承を思い出して、大古の血族の匂いをフト嗅ぎ出したのかもしれない。まるで落語の登場人物たちのようだが。

「多くの家系は大抵立派な人からでていることになっている。一見おかしいように思えるが、それには大きな理由が存している。親が二人、祖父母が四人、曽祖父母が八人、その前が三十二人、二十一代前で百万をこえ、二十九代前には一億を超えるものとなる。またく代々系統を異にした人との婚姻と仮定されればであるが、おびただしい数に達する。そのなかのおびただしい祖先のなかには、一人ぐらいの有名な人があるであろう。だからだれでもその後裔だといいうるし、また四海同朋で一切が皇室の赤子であり分家であるといえよう。太田亮 日本古代社会組織の研究・1967」
太田亮は立命館大学の先生で古代氏族研究の専門家だ。ここでの理論は同じ氏族内での婚姻という前提で語られているので、系図をレトリックで話している。島国の単一民族であることがその背景にある。彼はいわゆる右翼論者ではない。
が、この論法で“神国日本”は、天皇家の祖先が天から降臨した神の子であることにより、日本人が神の子になったことによる。いま、流入する難民を受け入れる人々には想像できないだろうな。

丹那の穴神社の石碑に、市太郎、為四郎、小太郎など、わが名前“小七郎”に近い名がある。我が名はよく“カッコイイ”などいわれてきたが、うれしくなかった。珍しさで言われることがわかっていた。
この名は③太郎、次郎などの父子兄弟の順位による。サミーデイビス ジュニアのジュニアと同じだ。おやじが七番目の男の子で七郎と名付けられた。その子が七郎の息子で小七郎になる。七郎・ジュニアにしてくれたら、よかったのに。
太田亮はこれを輩行の世襲と呼ぶ。太郎の子が、又太郎、小太郎、余太郎、後太郎、新太郎、余太郎などが挙げられている。
男の子に一郎、二郎、三郎となずけた親の最初は中国の唐の大宗で、日本では9世紀の光孝天皇だそうだ。7世紀の大化の改新で暗殺された蘇我入鹿は君太郎とよばれ、最初の仏像崇拝と、かなり中国かぶれだったようだ。そのころ“小七郎”は最先端のファッションネーミングであったのだ。としておく。

小七郎は実在の人物で明治初期の人、曽祖父にあたる。高祖父・ヒヒオヤジが太田亮がいうところでは、七郎となる。江戸時代に人だ。ちょっと会いたくなった。
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by forumhiroshima | 2015-10-25 20:51


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