こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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五箇荘

眼前の景色のなかから、何かにフォーカスし、それから連想が始まりだす。妄想の発生!。そんな場所に出会うとそのサイクリングが一段と印象深くなる。印象が残る“そんな場所”がまた別のサイクリングで出会う、と重なった“そんな場所”の意味を探したくなる。

黄金山にブルドーザーが出現させた住宅地、猿猴川に沿ってのびる高架道路、国道2号線に囲まれた42-2のエリア。広島の町の小さな古びたパズルのピースの仁保町。そこに“渡部”と表札のかかる立派な門構えの邸宅の中にそのイチョウがあり、門の前で道は小さくL字に回っている。“遠見遮断”とよばれる侵入する敵の防衛ラインの名残にみえる場所。
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“渡部”の名は黄金山周辺の鎮守・爾保姫神社の神官と同名で、このあたりの古くの名門一族では?。古代の神官と豪族の領主との関係を連想する。イチョウの下をすぎると交差する路地が東の猿猴川へ伸びている。そこの県道をまたぐと川からの引き込みの水面があって、いまそこにR2の国道の橋が架かっている。橋はどこも、昔の渡し場のあった場所にかけられてきた。“渡部”の字がここにあったろう渡し場を思わせる。大阪の天満宮と大阪城下の八軒屋浜との渡りを差配したのが「渡部氏」で、“渡し”からの名称だろう。天満橋の川下に渡辺橋がある。彼らはのちの瀬戸内から長崎・五島列島にまでその勢力を拡げた人々で、倭寇と恐れられた、という。仁保、向洋の外洋漁民たちとの関係も深いといわれる。大阪・五島そして仁保の渡部さん、そして大陸や半島との交流への関連を連想してしまう。

渡部邸から少しの上りで西福寺と竈神社が隣接して路地が交差するエリアにでる。
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振り返ると二本のイチョウが道奥にみえる。ここの幾つかある路地は猿猴川へと向いているが、各々を横につなぐ路地がなくて、ただ川岸へ押し出される。神社を中心に扇形に放射線に設計されている。神社そばから黄金山の山頂へ階段になって道は伸びてゆく。神社の拝殿は山頂を望んで建てられている。路地は扇型の場所を囲むようにある。

1555年の厳島合戦で、毛利元就の軍勢にこの仁保黄金山城の城主で、牛田の東林坊の住職・願通が毛利方で参戦している。お坊さんがここの領主であった。この毛利氏と陶氏との合戦は戦国時代最大の海戦といわれるが、毛利方の構成員は竹原の小早川の六七十程と願通を首領とした江の内の水軍五六十程の構成であったという。来島村上氏は開戦に遅れたといわれ、能島村上は参戦していない。厳島合戦の前に陶氏が黄金島に到来し、撃退されている。だから江の内の水軍の拠点がここ仁保になろうか。渡部邸のまえのL路地の防御ラインが、匂ってくる。ここに水軍の兵站基地が・・・。

「宇品も比治山も江波も島だったころ、この海一帯を江の内とよんで、その西側の海に太田川の砂州ができていた。いまの段原・尾長・白島・広瀬・打越になるこの砂州の地は五箇荘とよばれ、この支配権は東林坊にあると毛利元就が認めていた。
厳島合戦ののち、大阪石山寺の織田信長との合戦に江の内水軍は参戦している。厳島合戦で毛利氏へ味方したのは、敵の陶氏が願通たちの信仰する一向宗を禁止していたことも理由だという(長沼賢海)。」
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「浄土真宗の開祖の親鸞の墓を京都で守っていた子孫の中から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで一向宗とよばれ爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を呈した。・・・諸国で開墾地主がふえ、それらが戦闘力をもち、横に連繁し旧勢力(守護・地頭)からの自衛をつよめ、その連繁する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。
たとえば加賀では、守護の富樫氏をたおし、地侍との協議制のもとで加賀一揆として自治を行うことが二十数年も続いた。紀州いまの和歌山の雑賀の土地もいそうであった。司馬遼太郎・街道をゆく7」

府中町の出張城の北東にある囲む中世武家屋敷エリアといわれる路地に囲まれた路地に入ったとき、仁保の路地を思い出し、“仁保”そこが“そんな場所”になった。府中の出張城の城主が願通和尚の前の仁保城の城主だった。

毛利元就が厳島合戦ののちすぐの1557年に「塩硝熱させ候、然らば其の方馬屋の土然るべき之由に候聞、所望すべく候」と馬屋の土、寺院の床下の土を集めた。この塩硝熱は黒色火薬のことで、厳島合戦1555年で江の内水軍が使用した焙烙火矢(黒色火薬を詰めたつぼの導火線をつけて飛ばす)の威力(伝えられた陶方の負傷・戦死者リストでイズは石疵ばかりで、この石は焙烙火矢の壺にいれた小石といわれる)を見知ったことだろうか。火薬の原料は木炭(柳の若木、麻の茎)硫黄、そして硝石だが、硝石はこの国には存在しない。馬屋の土を所望する元就は、その威力の所有を望んだのだろう。信長の火器への理解に遅れていたのでは。

「○○街道」というタイトルの本を見つけると、欲しくなる。先日本屋で「幻の街道をゆく 七尾和晃」を見つけた。そのなかに“塩硝の道”の章とあって、富山・五箇荘から金沢への塩硝を運んだルートが紹介されている。アマゾンして中古を入手した。
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毛利元就のみた江の内水軍の塩硝は、越中の白山山麓の五箇荘とすこし南の白川郷の生産が特別な培養法という方法で生産されていた。“塩硝道”の中継点の刀利の集落の宇野家には、蓮如の直筆が残っているという。五箇荘の利賀の西勝寺が塩硝の集荷場でここから大阪・石山本願寺へ白山の硫黄とともに送られた。
この生産方法は湿気のないホロホロの手触りの土を囲炉下の土間に2間四方-深さ7尺の穴に詰め、蚕の糞と稗の殻やヨモギやヤマウドの乾いたものをまぜ4年まぜながら置いて乾燥させ、硝化細菌が働きアンモニアが酸化され硝酸塩にかわる。5年目をすぎてから灰とまぜ煮込み上澄みをとり、煮詰める作業から溶液が冷めると結晶化する。これが塩硝。生産の最盛期の幕末には五箇荘1300戸総出の生産で40,500kgになっていたという。(金沢大・板垣英治)

五箇荘の住民はすべて浄土真宗信徒で、石山寺合戦1570~80年に大量の塩硝と硫黄、木炭が送り込まれている。仁保城の願通たちもこの製法も威力も知っていただろう。

1545年鉄砲伝来に同じく到来した火薬は鉱石の硝石から造られたものだ。イギリスの東インド会社の主要な目的がそのころ世界最大に産出していた東インドの硝石の入手であり、この火薬が大英帝国の戦力だった。彼らが囲炉下の土間で塩硝をつくるなんて、ないだろう。信長はこの入手に堺の豪商をつかったのでは。造るより輸入が速い。秀吉、利休の後ろに硝石と鉄の姿がありはしないか。

一向宗徒たちの一揆の勢力の装備に黒色火薬があったことが、多くの大名たちの脅威であったろう。毛利元就は一向宗徒弾圧に動かなかった。願通たちの火薬がそうさせたのか、その火薬の保管は“そんな場所”に・・・。

金沢大出版「加賀藩の火薬・板垣英治」に、安芸国でも塩硝の生産があったと書かれる。
越中五箇荘、飛騨白川郷の合掌つくりの民家は広い囲炉、蚕生産、そして湿気から土台の土地を離す高い屋根と厚いかやぶきをもって塩硝生産の量産を図ったのだと思えないか。合掌造りの民家の群は塩硝の生産工場群だったのでは。その姿は、出雲・吉田のたたら製鉄の高屋根の高殿を連想する。中国山地のどこかに、“そんな場所”を見つけられるかもしれない。

追伸
イチョウの雄雌にメールを頂いた。ありがとうございます。
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あのおっあんに、出会ったら教えておきます。イチョウといえば、ヨコオの1968年の東大駒場祭のポスターを思います。サービスでケンさんのヨコオ・番外地ポスターも。
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柳田国男はゴカノショウの地名は、だれも所有していない、税金かかるなら欲しくない平たい土地だという。番外地もそうですね。“河原ものたち”の河原も。
いまTVで都はるみのファイナルコンサートをやっています。ビックリしています。1968年は東大・安田講堂占拠が医学部学生によってなされた年でイチョウ並木の向うのジャングルといわれていました。その夏にアルバイトでいた東京でイチョウのジャングルをチョット見てから、都はるみの歌舞伎座公演いっていました。TVにとても痩せて傷んだ表情が映りだされています。ちょっと、泣きました。元気でいてください。「ミヤコ!ミヤコ!」
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by forumhiroshima | 2015-12-07 21:35

四十二条二項

建築基準法の条項で家屋などの建築には4m以上の道路に面している必要があると規定されて、4m未満の道に面している場所の新しく建築されるには、行政にある道路が「みなし道路」と認定されてから、建築許可される。そのためにか4m未満の道に面している古い建築の建て替えが滞る。
そんな町並みを、ひそかに“42-2”と私はいっている。時間がコウティングされている魅力をもっていて、その「みなし道路」と失礼は名称をつけられた道へいつも入り込んでしまう。そこは、“懐かしい”場所だ。自分が生まれる以前にできた町であっても。“小京都”とよばれる景観がそんな代表だろうか。
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道路中央線から図って4mひっこめた設計なら新築の許可はあるそうで、このごろデザイナー○○といわれるおしゃれな四角い家も建築され、瓦屋根のなかに散見される。新鮮な風も吹きこんでいる。がそれでもまだ、古い時間は、渋く失われてはいない。

イギリス人の建築家バリー・シェルトン「高架道路、工場、農地、パチンコ店、公民館、ガタガタの木造住宅、新しいアパート、その他いかにも不調和に見える近隣建築が踵を接して建っている。都市の大半は、明確なパターン、形態、ラインを示すことのない“コラージュ”のような光景を呈する。 日本の都市から学ぶこと・西洋から見た日本の都市デザイン」
“コラージュ・collage”はバラバラば素材を組み合わせ貼り付ける造形美術の創作技法(ウイキ)とある。ピカソやブラックという抽象画の創設者たちの創作になる技法だという。日本の景観もすてたものじゃない。アルファベットで表現されると、路地の町並みもオシャレになる。
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シェルトンは続けて「多様な自然や人工の形態が様々に不揃いに散らばった景観として現れるのは、大きなもの、小さなもの、有形なもの、形ないものにも表れる日本の神々が、様々な信者の優先順位の違いに応じて祀られ、崇拝されることに由来する。」という。西洋の建築家シェルトンは、「キリスト教世界全般は至高で唯一普遍の神が統括する世界で、人は神の意志を遂行するために、神のイメージに似せてつくられている。だから神に似せられる“人”は厳密に階層的で支配的なやり方で神に捧げるモニュメンをつくり都市に配置した。」という。
“シティ・CITY”の名称をもてる都市は大聖堂をもっていなくてはならないという。日本の都市の景観のコラージュ性は、古代からのこの国の神々への信仰のありかたと強い関連性があると力説している。持ち上げすぎだと、思うけど。

11月のNHKのEテレの番組「100分で名著」の「サルトル」のパンフレットに、サルトルとボーボワールとが、パリを歩き回り、都市の“不可思議・メルベイユ”を探したとあった。不可思議・メルベイユ=コラージュなのだろうか? などと、めくってみただ、詳しくはわからなかった。42-2のエリアが、哲学の巨人たちの探し物と同じだとしたら、42-2のエリアも捨てたものでもない、様子である。まぁ、ただの思い込みにすぎなかろうが。

黄金山の山麓には42-2の濃いエリアが本浦、大河と点在しているのだが、そのうちの一つ東の山麓、中腹の新興住宅地の裾の仁保の町並みに、イチョウの二本の巨木が青い空に黄色の紅葉であたりを睥睨してみあげる新しい住宅街と背比べしている。クロサワの「天国と地獄」のロケーションだ。秋の終盤の景色は、この木があたり一帯を支配している。四季の移ろいはいまこの巨木にスポットしている。
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スポットされたイチョウの姿を、立ち止まって見上げてしまう。そこへ昨年の秋に続いて、近所のおじいさんが、また同じことを話しかけてきた。「あんた、どちらがメスか分かるか?昔はギンナンができていたそうだが、この頃は見ていない。二本立っとるから、どちらかがメスなんじゃろうが」こちらも昨年と同じ答え。「わかりません」。通行している人それぞれに聞いている様子だ。一年の時間が回って、元にもどったようだ。
数百年の樹齢ともいわれるイチョウの大木が民家の庭に鎮座して今にあることが、なにか訴えかけてくる。その雄雌もたしかに気になろうと、思う。たしかに神々がそこの鎮座し、そして、この屋敷の広い庭の東側一部はコンビニにつくりかえられている。その駐車場にもイチョウの落ち葉は落ちてくる。“コラージュ”とされる景色。だろう。
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浮世絵の研究をしている歴史家のヘンリーDスミス・米国人は、“歌川広重の金杉橋”の浮世絵では、橋そのものは描かれず、金杉橋を渡ってその先の池上本門寺へ参拝する日蓮宗の信者たちの行列を宗派の紋章の旗で描いているとい、旗の下に描かれた太鼓や傘は旗と反対側へ動いていると表現され、行列は行き帰りが表現されているという。橋の欄干は一本が小さく描かれる。小さなパーツがに積み重ねが全体の景色の空気を描く。
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奥行と広がりという相対的な焦点で表現された景観を額縁で囲い込む西洋的な表現、額縁のなかで完結する風景を当たり前のこととする表現に比べ、しばしば全体を犠牲にして部分を強調する「不完全さ」の秩序が、“日本”的な秩序だといっている。

徳島県祖谷の古民家で暮らす東洋文化研究者のアレックス カーは「一つまたはそれ以上の断片に景色を切り離し」、その小さな断片にフォーカスする。世界を締め出して小さな“コト”に集中する“日本的”能力に言及し、この国最大の桜の名所の吉野の空を占拠した高圧電線鉄塔と電線の醜さがあろうとも、桜の咲く美しさに集中し、美しさは抽出され、電線たちに邪魔されない視点がこの国の人々にはあるのだという。

西洋に人たちは、細部を組み立て、重ね、見たくないパーツは捨てることができる感覚がとても印象的なのだろう。
この国でも、古代、田園は条理という四角形に区分され、都は朱雀大路が南北に貫き、交差する道は北から一、二と条によばれていた。が、造られてまもなく、この区分は崩壊する。
それは、この国の農業が米作りであったことで、水面を基準に土地が区分されるほかなかったからだと思う。均一の平面を広大につくる土木技術もなかったし、広い水面に吹き付ける風は波をおこし植えられた苗を泥から引っこ抜くこともあり、一反という自然に適応した広さを基準とされ、その大きさが手に余るもののでなかったからだろう。その一反は縦×横からの広さでなく、人ひとりが一年で食べる一石の生産ができる広さをいう。数式で極められたのではない。その広さは変幻自在なのだ。

おもちゃのレゴのように小さなパーツを組み替えられながら、ある時代の景色をつくり、また壊し、また組み付けてきたのだろう。そこに、くみ上げられる時間の変化が“コラージュ”と西洋の人々には思えるのかもしれない。

パリの画家たちが額縁をもたない版画に興味をもっていたころ、倉敷・大原美術館にあるエル・グレコの受胎告知が完成したころ、宇宙の運動を数式に表すことに1905年アインシュタインは特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動原子・分子証明という大発見をしたという。もちろん私に内容はわからない。宇宙の創造神の業績の数式による解明であるといわれる。のち数式では宇宙の運動の解明ができなく、量子論の確率的存在でしかないという理論が勃興してきたことにに、「神はサイコロ遊びなどなさらない」とアインシュタイン言った。科学者は神のしもべでなければならない。すべてを子細に見通さなければならない、のが彼らの景色なのだろう。

西洋の創造神のおぼろげなイメージが、なんとなく、うかんでくる。そしてコンピュターは神の計算機なのだと、思い知る。数式の世界は進化しつづける。

司馬遼太郎は「あぜ道から、おっさんは建売り屋か、ときいたことがある。・・・お前ゼイムショか、と凄んでみせた。・・・ブルドーザーが赤松林を根こそぎならし、古墳をこそぎとってそのあとの剥げ地にセメントに赤青の塗料を吹き付けた瓦屋根のむれがはりついていて、戦後の政治が理想をうしない、利権エネルギーの調整機構だけになりはててしまったこと」と街道をゆくの第一巻で叫んでいる。司馬さんのなにも見逃さない知性が叫んでいる。司馬遼太郎の世界の緻密さは厳しい。

だから、赤青屋根の派手さ、気色から浮いた存在を自分の印象の中から取り除く技で、懐かしい景色のDNAを継続してきた、とは思えないだろうな。
自転車の走行スピードは、景色の捨象・抽象の感覚の引き出しに都合良いようで、流れる景色に子細にこだわらなくなる。ゆるくって・・・司馬さんすみません。
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by forumhiroshima | 2015-12-05 09:27


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