こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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藻汐汲み・竜蛇・ミサキ

松江市内の大内谷の住吉神社の氏子たちが、島根半島の出雲七浦参拝で訪れる集落を宮本常一が昭和14年にフィールドワークしたレポートがある。冬12月の訪問だった。
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宮本は七浦の東の笠浦で松江からのバスを降り、北の野波へむけて歩き始める。宮本は野波から西の加賀を通り、江角、古浦へぬける途中の片句、手結の集落をめざした。今は島根原発にならんである漁村だ。
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このコースを150年前、江戸時代1866年に歩いた小村和四郎ののこした紀行文に、「野波より加賀に超えるには、御坂という大なる山あり。船路が宜し」といわれ、船で加賀へむかっている。今は旧車道のチェリーロードか、新しく造られた詰坂トンナルをぬけている。

「野波の村で日が暮れた。宿をとりたかったが、少しでも先へ行っておきたくて、それからまた次の加賀村まであるくことを決めた。野波から加賀へは詰坂という峠を越える。相当な急坂で、さすがにリュックサックの重みを感じた。峠の上で月が光始めた。眼下に加賀の港が見える。いくつもの島が黄昏のうつろう海に黒く見える。峠を下りて谷にでるとハザにかけた稲の匂いがなつかしい。行きずりの女が「おしまいんされたの」と挨拶してくれる。
途中で旅館を一つ見つけたが、この先にもまだあるだろうとおもって歩いていると村はずれになった。道端にいる人に宿を聞くと、すぐ隣が宿であった。障子をあけて、泊めてくれと頼むと、支度ができぬという。しかたないので他の宿をきくと、さきほど見かけたほかにこの村にはないとのこと、ひきかえすのも無駄に思えて、次の村まで歩くことにした。どこか近くで風呂を焚いているらしい、煙の匂い、湯の匂い、人の笑い声がきこえる。道は海岸の上についている。月に青い海のかなたに鯛をつる船の火が美しい。潮騒がゆるやかにきこえる。 宮本常一・出雲八束郡片句浦民俗聞書。」
今もこの風景はかわらず見られる。そこらが島根半島だ。

宮本常一の旅はいつも前のめりだ。宿は民家を狙っている。旅館はフィールドワークとは相いれない、と考えているようだ。観光にきてない。
漁火と潮騒の夕刻のあと、加賀の村でなんとか民家に泊めてもらっている。“さすが!”というほかない。昼夜続けて200~300kmいやもっと走るツーリングイベントの参加者にも似て、常一さんはアスリートだと思える。こちらは宿舎に予約どおりに入る脚力はいつもなく、到着遅れますの言い訳電話のツーリングばかり。到着して風呂もらってビールやっている。常一さんの旅は、いつも理想なのだ。そう遠い“理想”なのだ。心がいつも萎れてしまう常一さんには
、やはり惹かれる。時短を作る、走力という武器を磨く、しかないのだが、な?

宮本常一は西へ向かい、御津からさらに西の片句の集落へ向かう。「御津から片句までの近道は山の尾根を通る。・・・尾根へあがると松原で、左手には宍道湖がけぶるように光っているのが見える。右は日本海、今日も隠岐の島が見える。途中で弁当を食べた。」
今この道の宍道湖側はゴルフ場になり日本海側は島根原発になっている。この道は原発に建設で作られたとおもっていたが昭和初期にあったことが不思議な道で、古道にある急坂直登の道はなく、ゆったりと高度をあげる。下りにある、民家もない深い谷に大師堂と四国巡礼の地蔵たちがある。

尾根であった老婆に片句で聞ける昔話の語り手を教えてもらい探す。そこで魯迅全集を翻訳した増田渉氏の岳父に出会い集落の歴史から暮らしを聞き出して、翌日も滞在し問聞きを続けている。

「室町時代ここの岬に奥州白石から片倉という武士一族が現れ城を築いたことから、カタクラからカタクになったと聞く。一説にはまた尼子氏滅亡の時、その武将の一人が逃れ来てここに住んだのではなかろうか、といわれる。当時は戦いに敗北した武士たちが、深い山中ばかりでなく、海岸の辺鄙なところに逃げた者が相当多かった。 宮本常一」

村の八幡神社の修復や災害時の造立は棟札によってだいたい20年ごとに修復がったことが知られ、それは「屋根をたぶん茅で葺いたためと思われる」。伊勢神宮の式年遷宮もこのあたりにその理由がありそうだ。この列島の気候では20年が建物修理の一つの節目になるのかもしれない。宮本常一らしく、遷宮を由来や伝承からその訳を語らない。だから納得する。

出雲半島で舟屋が見える集落が幾つかある。丹後半島の伊根の景色ほどの特徴はないが、それでも瀬戸内にはないので印象深い。日本海の干満の差は最大20cmで、集落も海岸そばに連なっている。片句では舟屋を作る場所がないため、石畳を海岸に傾斜につくりそこへ船を引き上げる。ここを“フナチ”と呼ぶ。瀬戸内では石段のガンギになり船は海に係留される。このフナチに採取した海藻を干したりしている。片句のフナチは半島の多くの集落に新しく作られた広い車道も狭い集落には入り込めなかった。懐かしい景色がまだ息づいている。
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それにくらべ墓地の家々の祖先の墓石はすべて新しい。大師堂でであった宮本常一が訪問した時代を知っていた老人は、墓石は原発の建設以後、地域に下されたお金で、各家で争って行われたとはなしていた。

「“リュージャサマ・竜蛇様”海が荒れるとき沖から竜蛇が漂うてくる。竜宮からのお使いだという。それを見つけると、これを社務所に持ってゆく。昔は非常に歓待して米一俵を下げわたしたといい、見つけた人や船は運が良いといって喜んだ。竜蛇の上るのは佐太神社だけでなく、日御碕神社・出雲大社でもあがる。大社のは大きく、日御碕のは白いのを特長とする。ただし日御碕にはたいした祭はない。宮本常一」
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ウミヘビを竜蛇様とよび、神社に奉献する人々を、運がいいネ!と笑っている宮本常一。宮本常一を雑誌・太陽の編集長として世にしらしめた民俗学者・谷川健一は「佐太神社の朝山神主の話では、夜に海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉にみえるので、漁師たちはその火の玉を網ですくって捕えるという。この南方産の海蛇は背が黒く、それによってセグロウミヘビの名を持つが平べったい尾には黄色の地に黒の斑点があって、人目を引く。」といい、「御祖のカミムスビの子キサカヒメが“くらき岩屋なるかも”といって金の矢で射たとき、光輝いたから、カカ(加賀)というとある。」と金の矢と金色の海蛇とをだぶらせて考えているようだ。漁火の海に輝くセグロウミヘビが神と到来を告げる景色が浮かんでくる。谷川健一は小説も書いている。ロマンチックな評論がすきだ。

竜蛇が海から奉献されるころ、出雲のいくつかの神社で神在祭か執り行われる。出雲大社の稲佐浜の荘厳な祭典にくらべ、佐太神社では本殿を注連縄で結界され立ち寄れなくなる。そして「最終日の夜の十一月二十五日に、神社から二キロはなれた神目の山の頂にある小さな池に小舟をうかべて、それを西北方の海にむかって送り出す儀式をする。佐太神社はこのように海とのむすびつきが大きかった。そしてそれは極めて古くからであったことが推定される。谷川健一」

この神事は深夜行われ、神目山もそこにある池も探すことをあきらめていた。が、
2010から2011年に通算10か月をかけて国内の各地の祭りに参列されたブログ“お祭り日記” (http://blog.livedoorjp/nadia420-travel)を見つけ、佐太神社の春、昼に行われる“裏神在祭神事”の記事に場所と貴重な写真がありました。
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神目山は恵曇へ入る運河を見下ろす尾根の先端ことで、古代栄えた場所を見下ろす位置にある。恵曇の古浦の浜で発掘された人たちは、大陸か半島からの渡来した人々と、その骨の分析から言われる。この人々は加賀の潜戸の伝承の角の弓矢を持った人々なのか、金色の弓矢の人々なのか。

佐太神社の祭神が、佐太御子神でなく、猿田彦(神武天皇を伊勢から道案内した神)とされてきた。明治政府は佐太御子神でなく猿田彦を祭れといってきたが、神社は拒否したという。

「猿田はミサキと同じ言葉ではないかと思う。佐太神社は現在島根半島の中央部にあり、ミサキではないが半島は狭田の国とよばれ、西の日御碕、東の美保ミ岬とミサキがある。
ミサキをサダという場所は伊予の佐田岬、九州・大隅の佐多岬があり、土佐の足摺岬も元は蹉陀岬であったが、船人が大隅と区別のためにアシズリといった。
渡来した人々にとってミサキは初めてこの列島に入る道しるべ・嚮導キョウドウであり、列島に鎮まりしのちにはすなわち境、外域、外側との区分をさしてミサキとなった。 柳田国男」
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by forumhiroshima | 2016-08-30 18:36

イカの海

ずっと以前の夏、日本海海岸の民宿に夕刻、予定時間を過ぎてとうちゃくした。宿のお母さんがえらく無愛想で、ここまで公衆電話も見当たらず遅れる連絡も入れられなかったことが原因かと。


熱気のこもった二階の小部屋の窓をあけると、下の空地はイカが干されて、ヒラヒラしていた。お母さんが上がってきて、てんこ盛りの一夜干しのするめを短冊に切って醤油がかかった一皿に、これもてんこ盛りの丼ご飯がお盆にあって、夕食だ、と言われた。ビールを頼むと、返事がない一瞬がながれて、息子が船でケガして、病院にいくから、とことわられた。すぐに宿賃を用意して、ビール代金をたずねると、いきなり、冷蔵庫にある、!。

留守に客を置いておく不安と息子の容態の不安が彼女を混乱させ、遅れてきた客へのいきどおりもあったのだろう。

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風呂に水を張ってあるから、沸かしてはいれ、と言い残して飛び出していった。風呂を焚きつけて、ぬるく沸かして、飯はむすびにして、風呂上りに畳の上のお盆の前に座った。冷蔵庫にあった漬物に冷えたビール、柔らかいするめ、いや 少し風があぶったイカ刺し、がまたうまかった。リラックス、リラックスで、もう我が家気分。食い足りない分は空地のヒラヒラをとってきて、勝手な追加をして、翌朝話すと、サービス!。息子さんもかえってきていた。


鳥取・境港の出身のノンヒィクション作家・足立倫行の「日本海のイカ」はイカ漁を十一回漁船に船員として乗り込んで書かれている。

夏の日本海の漁火は水平線に浮かぶ。水平線までの距離はたかだか45kmだそうだ。

「西日本近海から東シナ海にかけての広い海域で生まれたスルメイカは、水温の上昇とともに対馬海流に乗って北上し、北海道沖からサハリン沖(一部は黒潮にのって太平洋)へ向かう。グループごとに時期をずらして北の海に到達すると、今度は反転して産卵のために南下を開始する。成長のためのエサ取りの北上、産卵のための南下、このことで沖合の潮境や離島周辺にいくつもの漁場が形成される。 日本海のイカ」


対馬周辺と隠岐周辺が北上するイカの最大の漁場で、南下は本土よりのコースをとるため、夏には海岸からイカ釣りの漁火がみられる。イカの反転と、サンマ漁の始まりが、季語の「初汐」なのだろう。毎朝に海藻を海岸から引き揚げ、神への奉納とすることは、海へ伸ばした手のひらが感じる海温や海藻の鮮度の手触り、引き揚げた海藻の種類で感じること、かもしれない。海人たちの海の変化への気遣いを感じる。


「古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐の島の存在がかくされている。千酌から隠岐へは通い船がいたことは出雲国風土記にもみえているが、隠岐は沖であり、また身を隠すところでもある。   谷川健一 出雲の神々」


“河船の もそろもそろに 国来・クニコ、国来・クニコと引きすえ 縫える国は、”と国引きを歌ったヤツカミヅオミヅノ命を祭る神社、富神社や長浜神社などに海藻が供えられることを、出雲人がずっと昔、地球規模の温暖化による海進で離れてしまった国々への記憶の確認のようにも思う。

「クニコ、クニコ」、離別した恋人への叫びにかんじるのは、演歌すぎようか、クニコ!。


海の季節の冬への移ろいを「出雲は、“お忌み荒れ”といいならわしてきている。この烈風吹き荒ぶことを、サダンサン風、サダンサン荒れ(佐太様)とも呼んでいる。対馬海流に運ばれてきた南方産のセグロウミヘビが岸に打ち上げられる。そのヘビを玉藻・ホンダワラの上にのせ、神におさめる。 谷川健一」


千酌の海岸の四角な小屋ほどの巨石が座って、そばに爾佐神社(出雲風土記社)が海の正面真東の円錐形の麻仁曾山と対峙している。ここに都久豆美命が祀られる。クツズミじゃない、ツクツミからチクミという地名が発生ともいえなくはない。が、「沖縄言葉がわかりにくいのは、母音のエとオがかけてしまって、星をフシ、馬をンマ、夏をナチ、月をチチといったりする。街道をゆく 6」この祭神・ツクツミの「ツク」は月のことだといわれる。チチクミがチクミに。月が黒潮に乗って沖縄からやってきたような。隠岐の島も対馬海流に囲まれている。

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隠岐の島からの船が月夜千酌湾へ入ってくる。船は登ってきた月と麻仁曾山を合わせた方向に船首を向けて、右岸の月明りに照らされた鳥居へむけて、船首をターンする。・・・・。

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千酌から北上すると野井の集落にでるが、そこに風土記では「戌・マモリ」沿岸警備施設があったと記述している。弥佐加志能為神社そばに巨石があり、後の世に、隠岐に流された後醍醐天皇

が島を脱出した際にここに接岸した伝承があつたりする。メインの港、千酌をさけたのだろうか、それとも兵舎へなぐりこんだか?


西へむかうと野波の集落へ入る。整備された二車線の車道は「まっすぐな 道で さみしい 山頭火」がぴったり。集落にも山影にも、かかえきれない時間の思い出がうずくまっているだろうが、車道はただただ急がせる。


それでも走ることが、喜びになる道が現れる。野波の集落から峠越えにはいるとすぐに、チェリーロードの標識のある分岐にであう。きっと旧県道の道が、桜の並木で整備されていたのをリメイクして売り込みを図っている。その姿勢、買った!。

新しく隣の町との連絡道ができると、桜でかざられる時代があったようで、道幅の拡張はのがれたが、どこも静かな、車の往来も少ない「桜が散って さみしいが 車こなくてうれしい コヒチ」。すぐに新しいトンネルのある道に合流する。トオンネルを避ける旧道がない道は新しいはず。集落の連絡は船でしかなかったのだろう、か、海岸の波打ちぎわと高みをはい登る道なのか、そのころを想像する。日本海海岸で岬に遊歩道がたくさん整備されているが、集落の連絡道でなかったか、とおもっている。


加賀の潜戸のある瀬戸の鼻に灯台があり、そこへメンテナンスの道が伸びている。ここで生まれた佐太の大神が鎮座した佐太神社のある朝日山の尾根が見える。屏風のように横長な、当て山でもなさそうな山に鎮座させようとした古代の人々の思いには近づけなかった。

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by forumhiroshima | 2016-08-05 10:10

海藻・汐汲み・産土

佐太神社本殿への石段の右に海藻をかける竹棒の棚がある。海藻だけでなく竹筒がさがっていることがある。

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周防大島の久賀町の八田八幡宮の鳥居に小さな汐汲みタゴがくくられてあったのが、最初の出会いだった。澄んだ海のきらめきの朝に潮をくみ、参拝するその時間の豊かさが、望ましかったし、この町のそんな時間を見つけられたことがうれしかった。


「千年もまえにほろんだかもしれない古代が、このあたりでは民俗のなかにいきいきと息づいて、神々がなお暮らしの文化のなかで舞い立ったり舞いおりたりしているような----

現実なのかロマンなのか、空と海の境のようにびょうびょうとしてさだかでない----感じがある。 司馬遼太郎 街道をゆく6 沖縄・先島への道」

司馬さんが琉球文化について、こう語っている。自分に、”出雲”に同じ思いをもって走ったことがある。


松江市内の東の岡のふもと、島根大学そばの朝酌川の対岸の小さな谷にある集落大内谷へ走った。朝酌の多賀神社から島根半島の千酌へ、「朝酒を酌んで、海でしっかりまた酒を酌む」などと風土記時代の道を想像しながら、むかっている途中の寄り道だった。


出雲国府そばに古代山陰道に佰阡・チマタと呼ばれた十字交差点があり、山陰道は正西道とよばれ、石見へ向かい、北へは枉北道・キタエマガレルミチと呼ばれ、北へ正面の風土記では女岳山とある和久羅山へ向かっている。古代道は郡家とよばれる役所を連絡する道で、役所はだいたい神社の場所に想定されていて、地図にその間を今の道に落とし込むしか想像できない。この予想と現実に、走ってそこで発生する落差がいつも混乱を運んでくる。その落差はとんでもなく勾配にある道に入ったとき発生する。古代の人たちはとんでもなく強健な脚をもち、目的地へは基本ストレートに向かう。その理解を忘れて彼らのルートに入ると、自動車走行に馴れきった自分の道に対する認識が、混乱をもってくる。オレは古代には対応できてない。そしてそのシンプルでストレートさが、古代道だという確信をひきだす。

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大内谷の集落は古代の幹線道からはずれて、三方を尾根囲まれて、朝酌川にむかって西向きに家々がかたまって、北側の尾根に住吉神社と薬師堂が路地の奥にある。家々の玄関先の木立に汐汲みの竹筒がぶら下がってないか、キョロキョロと路地をまわってみた。

「この集落には江戸時代から、春3月に潜戸の加賀へゆき大芦、御津、片句、手結、恵曇、古浦の出雲七浦を汐を酌みながら回り、秋9月は、この逆にまわり汐を汲み、手結・タユで海藻をとって持ち帰り、住吉神社に塩草を奉納する。竹筒は庭の立ち木に下げる。」との記事があった。大内谷の庭先の竹筒は見つからなかった。

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出雲では奉納する海藻を“塩草”とか“ジンバ”といって、島根半島の四十二浦の汐汲み遍路の神社でもみられる。特に海藻を掛ける棚を“出雲掛け”といって特別に「出」のデザインも長浜神社に設置してあるし、斐川町の富神社では出雲注連縄に掛けられる。

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海藻の奉納を考えてしまう。潮による穢れの洗浄ということだろうが、潮は神様にならないが宮本常一の言葉だが、店先のしろい円錐形の盛塩は魔除けの神々しさだと思う。


俳句の世界で、”初汐”は仲秋の名月の季語だと聞いた。秋に”初汐”って、どうなん?だろう。

海藻は秋に海水温がさがると、胞子が放出され(遊走子)岩に着床する。生命の交代がはじまる。海水温の低下は外気の季節変化によるより、寒流の南下によっての影響が大きい。この列島に南下してくる寒流を親潮というのは、海の生物の基本の食糧の海藻の着床やプランクトンの成長が寒流の南下によるからだ、といわれる。”親潮”たる所以。


海の人々のサイクルのスタートが秋に始まるということ、それも仲秋の名月の夜の大潮からということが、俳句の季語になったのだろうか。稲作の人々の山の神の水に匹敵すること、かもしれない。


枉北道・キタエマガレルミチは、島根半島の稜線の山々にとりつく。すぐそばに”折絶”とよばれた地溝帯があっても、ストレートに千酌へ向かいたい様子。半島の南北の連絡でもっとも短い手角から北浦--千酌の5km標高30mよりも、4km標高160m忠山(風土記では墓野山)が枉北道・キタエマガレルミチになる。今は林道と整備されて勾配が蛇行ルートで軽減されている。目の前のピークに迂回しながら登る歩行者はいないだろう。昔は直登が基本だ。移動することが、まるで無駄のように、急いでいる。彼らに「旅」は感じられない。


バリアフリーのスロープの斜度は1/12もしくは1/18に設計される。手角からコースはこの斜度に近い。昔、大先生から、緩やかな斜面を、ペダルを踏まない感覚で走行することができれば、登りを体得できると教わった。そんな昔をこの坂で思い出したが、今もって体得できていない。むろんMTBの世界の話ではないが。


多くの島根半島にある小さな岬は断崖と岩場で上から覗き込むこともできない。灯台のある岬へ灯台のメンテナンス用のルートで突端にでることでやっと海にあえる。

ラクチンルートで着く北浦・稲積は半島の中でトップクラスの景観があり、岬と浜に神が、穏やかにひそやかに鎮座しておられる。幾度か訪れたのだが、集落の景色の記憶はない。海しか見ていたい。


出雲大社の本殿奥の曾我社には砂を参拝に持参する。福岡の海ノ中道の先っぽの志賀島の海神社もこの砂を持参する。古代の最大の海人集団の中核の神社。なぜ、砂なのか?

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よく分からない、といったのは柳田国男。総合雑誌「太陽」の初代編集長だった民俗学者、谷川健一が敦賀湾の西側、立石半島の海岸に西浦七浦と呼ばれる部落がある。集落の海岸に産屋が以前はあった。その産屋に砂がひかれているのと土間になっているのがあった。集落の老人の話として、お産が終わった母親は新しい砂をひいて小屋を去らねばならない。その砂を「ウブスナ」と呼んだという。

ウブスナは、「産土」と書かれる。それは砂から三和土にかわって「産砂」が「産土」になったからだという。


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by forumhiroshima | 2016-08-03 21:53


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