こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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旭山

大内氏の内紛ののちクーデターを成功させた陶晴賢との厳島での対決が迫った15559月 毛利元就は先に滅亡させた武田氏の居城であった銀山城にいた。そして兵士たちの待つ草津へ向かった。(新編広島市)その途中、己斐の八幡社で早朝に昇る朝日に戦勝祈願をしている。後に神社の名に旭山が付けられた。と、言われる。

厳島の合戦は101日早朝始まった。旧暦の晦日、929日夜の月は月齢0.3の新月、大潮の夜を元就は、はやる戦士に待つようにと抑えていた。その夜は闇夜の暴風であった。のち合戦の勝利を己斐八幡社は旭山八幡社と名をかえて元就参拝祈願を記憶した、という。

この合戦は陶軍を島に引き付ける作戦がすでに始動しており、決戦の日を元就は決定していた。

しかし、です。朝日への祈願、戦勝としても、旭山と記憶させる強い何かがあるように感じる。

己斐には、古代港であったこの地に伝承の人、神功皇后が立ち寄った伝説があって、その際に鯉を献上したことも地名由来といわれる。古代この辺りは己斐氏が起こっており、また厳島神社の祭神の宗像三神が鎮座する九州筑前・宗像の宗像氏一族・許斐氏のここへの到来も考えており、「鯉・カープ」の陰が薄くなる話もある。

元就が兵站基地とした草津はこの戦いの軍港であったことから、イクサツからの地名だといわれるが、九州国東豊後の宇佐神宮が、古くは宗像三神を祀っており、のちこの女神が厳島に現われ、ここにも渡ってきたことがあって宇佐津と呼ばれたこと、ともいう。宇佐の女神はのちに神功皇后にかえられて、宇佐八幡とよばれる。

宗像の神々に由来する神社が厳島だけにかかわらず、この海一帯に繁栄している。宗像「海人」のざわめきが聞こえてくる。

古代の己斐津に淡水魚の鯉の神話が見られることが、すでに港の機能は失われていた、のではと思わす。元就は朝日参拝に、砂州に太田川、そのころの佐東川が幾筋にも流れる景色をみたのではなかろうか。

924日には陶軍はすでに厳島に上陸し展開している。朝日にきらめく流れの先に厳島をを見ていた元就の姿が浮かんでくる。

この神社に孫の輝元36才が現れたのは、厳島合戦ののちの34年後、元就の死去から18年後だった。広がる砂州と干潟の海に城を築く場所を決めるためにやって来た。

古代の朝鮮半島では、「百済の始祖である温祖王が漢山に登り、地勢を観望し、天剣地利の形局であるので首都に定め、また高句麗の流瑠王は、周囲が険しく土地が肥えていることで、尉那城を置いた。風水地理入門・崔昌祚」などと風水の術で調べる大地の活力の如何が国家、国土に重大な影響を及ぼすという考え方を大切した。風水の調査指定の手順の中に、朝日山(旭山)がその起点になるという記述がある。

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織田信長が長良・木曽・揖斐川が集まる井之口であった集落を城下町に再編成する際、風水により求められた中国・周王朝・発祥の地の岐山を引き、岐阜(阜は丘の意味)と新しい地名にした(風水講義 三浦國雄)。風水は深く武将たちに支持されていたのではないか?。毛利輝元にも。

旭山八幡神社を毛利輝元が物見・国見のスタート地点にしたのは、祖父毛利元就の故事によるばかりか、風水の影響があったのではないか?だから城下設計の主軸が東へ傾いでいることの訳ではない、などと、思い始めた。が、風水はとてもとても理解できるような頭がない事ぐらいしかいくつかの解説書をみたが、サッパリわからなかった。手に負えない。そこで、広島城天守閣の位置決定のラインの一つを地図に落としてライン上から天守閣とそのラインを点々でしかないが、走ってみた。

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毛利元就が隠居所は祇園の銀山城にするといったが、新しく作るつもりもあったともいわれる。決戦の前にみた景色に中にその場所があったとしたら、その景色は砂州と干潟とそこに突き出た岩礁や砂山ではなかったか?。楠や松がまばらにその土地に枝を拡げていたのではないか?。岩礁や砂山が神社として残っているのではなか?

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まずは、岩礁の上に鎮座する白神神社へ向かった。お参りの多いお宮さんで、拝殿左の奥の常盤稲荷にも参拝者は切れない。その祠の右横の拝殿の下、奥の暗い岩礁の岩がこぼれ出ているその一つに翁が座っておられる。それはいつのころからか、参拝の機会にお会いするのが楽しい。竿があれば、まるで釣り姿。ここが城建設当時の波打ち際、渚であることは、神社横の由来説明にもある。

真西にある、己斐の社の尾根のすそもそのころの渚にあらわれていたのだろう。

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旭山神社から踏切をぬけ西国街道をとって東へ、己斐橋を渡り西郵便局の裏へ左へ。ここが昔のことだが、福島川が埋められてできた道。少しくねった道筋でも川の姿の痕跡は感じられない。大通り(相生通り)を東へ広瀬橋を渡って川土手の遊歩道から広瀬小学校の南側へ。広瀬神社の大きな楠の境内があらわれる。己斐の社から天守閣の直線ラインにこの神社がある。

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大楠の木は神社のHPによると樹齢300年以上とある。小山の端にへばりつくようにして、繁っている。400年前ここに毛利輝元が廣瀬市杵島大明神として社領を寄進したとある。

毛利元就の郡山の墓所の場所に吉田時代の洞春寺が元就によって建立されていた。築城に際して吉田・郡山からここへ毛利家菩提寺の洞春寺が移された歴史があって、毛利氏が萩へ移った時、洞春寺は萩からそして山口へと移転している。旭山から天守閣へのライン上に毛利家菩提寺が置かれたことに、感慨がわいた。

このラインに元就の菩提の寺を置いたことには、旭山で祈願した元就の夢は戦勝だけでなく、城の建立もあったのかもしれない。輝元にはその思いが深くあったのだろう。

奈良・山辺の道が通る崇神天皇陵(行燈山古墳)の中心線が大和川が奈良盆地から大阪へ流れ出るところに鎮座する広瀬神社を指している。飛鳥時代に天武天皇が厚く信仰した「広瀬」の名と、ここの広瀬神社とが、どこか気分の中で交差した。

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「前方後円墳の並び方は乱雑に見える。主軸の方向が揃ってなく、はなはだしいのは隣どうしで逆方向になったりしている。これは風水思想によって築造されたからだと思う。 松本清張・日本書紀を読む」

広島城築城の主軸が風水によっているのでは?、の思いに力強い意見だ。が、続いて「主軸のブレについて、直線で結ぶ方位論を見かけるが、図上の遊戯でしかないと思う。」

ガッツン!です。・・・・でも、でも・・・。


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by forumhiroshima | 2017-05-27 10:33

広島城普請・測量道具の行方

出雲国風土記(733年)に「神名火山、郡家の東北のかた九里四十歩なり。高さ二百三十丈、周り十四里なり」などやまの高さが記載されている。古代の測量技術のプロは行基だけではないようだ。出雲生まれの開拓地普請のプロ、平田屋惣右衛門(日本人物風土誌)には出雲の歴史織り込まれている。

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602年半島の百済から観勒・カンロクが天文学、陰陽道の経典をもって渡来、聖徳太子が604年に彼のよった歴が採用されている。測量技術の伝播は古い。

納税金額を決める検地測量は武士にとって重要で、毛利氏も厳島合戦ののち獲得した大内氏の領地を検地している。毛利氏にとって測量技術は生存条件だったはず。

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としても、最も効率の良い南北ラインを広島普請に導入せずに、東へ傾けた複雑な設計基準線を採用したのだろうか。

広島普請以前に毛利氏の重鎮、元就の三男の小早川隆景はその領地の三原の海に砦を築いていた。1580年から始まっており、1590年ごろには広島城より早く、三原城は完成していたといわれる。三原城の基本線をさがすと、やはり東にかしいでいると見える。

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毛利家の祖・大江広元は下級貴族であっても都をのがれ鎌倉幕府の重鎮となった由来から、鎌倉の町の傾きも見てみた。鶴岡八幡神社の参道は海へむかって直線だった。若宮大路とよばれ京の朱雀大路をまねたという。が、東に傾いでいる。広島・三原と共通する何か秘密が?

八丁堀、福屋の西から今の金座街となった埋められた平田屋川。北へ向かう広電白島線が広島城の東堀のラインは、城普請のころ既に集落があり寺院があった白島(そのころ箱島)の、この海でもっとも古い歴史といわれる碇神社に延びる。そばにある宝勝院は城普請奉行の二宮就辰の子孫が広島城の鬼門守護として開基された。城に深い縁があるようだ。

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広島城完成時に測量につかった縄をここに集め、大繩に編んで大綱引き大会を開催したらしい。碇神社に大太鼓の祭りが開催されるが、その由来かもしれない。縄はここに収められたという。

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ビルや寺社、埋立地の突端、開削された掘割などに稲荷神社が勧請される。建築を縄張りいう。湿地に土盛りしてつくる道を畷(縄て)という。それらの守護の神として招来された神に収める縄張りにつかった縄を収めた倉庫が稲荷社となる。小さな道端の真っ赤な鳥居に出会うと、周りを見渡して、この土地の“きしかた”を思う。碇神社のクスの林に小さな祠が丹後だったか丹波か、〇〇稲荷社があった。

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碇神社の境内に箱島だったころの地図が掲示されていて、五箇ノ庄と周囲の地名が書かれて、その地名は所有者不明の湿地などの場所の一般名詞だという。広島はこの上にかぶさった地名で、城の南の海岸線の砂州はどんどん成長していたことだろう。曖昧な広さを言っているようにおもえる。広がる島!。

江戸時代・北斎の富嶽三十六景が売り出されたころ、江波島の漁師と仁保島の大河の漁師の海苔ヒビを置き栽培する干潟の領域争いが勃発。浅野藩が調停し、本川河口の“西袖の鼻”(砂州の突端だろうか)から真っ直ぐに見通し、“向こう沼田郡八木村の内 あぶ山を目標に”を境界線と決め、またこのラインが安芸郡と佐伯郡の新しい境とされた。(新修広島市史)

千田町は生まれていたが、吉島町は拘置所までが埋め立てられて先は海だった。宇品も出島も出現してはいない。のちに安芸・佐伯を合わせて、安佐郡が生まれ、のちのちに広島とかわる。

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海の新しいラインの基点の“西袖の鼻”は所在が分からないが、吉島の広島市環境局中工場へ向かうバス通りのラインは、広島城南の大手通りを北上しエディオン広島の西側から広島城天守閣を抜け阿武山へ到達する。天守閣と阿武山とのラインで漁場の境界を見分ける。見立ては漁師の重要なわざだ。違反は申し訳できない。

これが広島城の普請の基本線だろうか。厳島合戦を勝利した毛利元就は、水軍として戦ってくれたここの住人たちに、堤を築いて土地をつくれ!といい造った土地の所有を認めている。

今も広島市街地を東西に抜けるには時間か高速料金がかかる。城普請は海へ開かれて、上流から下流への縦にされ、横には直線で抜けるルートはない。城は海だけをみているようだ。

毛利元就は厳島合戦ののち、銀山城を隠居とし、地域の年貢の約二分の一を所有したいといい、代々の隠居所にするといっている。(新修広島市史)元就が水軍たちに土地を造らせる。それは、褒賞なのか、隠居所の守りの固めのための方便か。

戦国時代の屈指の武将の毛利元就の、その心がここに設計されて、それは道としていまに、ほとんど変わらず、ある。その上を自転車は走る。道の表情を伺い、走る。元就を伺う。


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by forumhiroshima | 2017-05-18 08:19

広島、本川開削運河説

八丁堀、福屋の西、中の棚の入口の地面に平田屋川のここに流れていたという証のプレートが埋め込まれている。

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「平田屋」は広島城とその城下の普請に関わった人物で出雲の商人・平田屋惣右衛門の屋号をいう。広島城普請に雲州から招かれたという重要人物。彼が主軸を東に傾げる町の設計者なのだろうか。

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中公新書で2005年に「古代出雲への旅・関和彦」が出版され、出雲国風土記の世界に引き込まれた。江戸末期に風土記をもって記載される神社を訪ねる旅した平田の商家の主人の日記を今にトレースする旅が紹介するルートを自転車でトレースした。とても楽しかった。

日記をのこした小村和四郎の祖先・小村長政(近江商人)が近江・米原から1313年に出雲大社に参詣したおり「沢沼荒野の開墾を決意し、一族で開拓した。 古代出雲への旅」と伝わる。(石川 良一島根建築士会)

和四郎は旅立ちに袋町にあった自宅をでて氏神の熊野神社に参拝し出立した。和四郎の祖先が和歌山・熊野から1394年に勧請したと伝えられている和四郎の日記にある。が、風土記を調べる風潮が江戸末期に盛んになり、明治5年政府によって、出雲風土記記載の“宇美神社”とされた。神社創建の歴史は650年以上も古くなった。

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1588年にこの神社は改築されている。その棟札が残っていて、小村氏の名と共に平田屋惣右衛門が掲げられている。

惣右衛門は尼子氏がここを支配した時代に佐渡と名乗っていた。この開発・開拓により新田を“平田”と名付け「平田」を名乗った。(県立広島大学・神山伸隆)

「斐伊川河口部に発達した平田では“平田衆”と呼ばれた町衆がその町づくりを担ったこともあって、その筆頭の平田屋佐渡守は・・・中世の港町・浜田市教育委員会」

尼子氏滅亡ののち、平田は毛利氏吉川広家の所領となり1588年佐渡守は惣右衛門と名を改め平田の代官を務める。惣右衛門は毛利氏の“御蔵本・年貢米の管理をする特権商人”となっており、吉川広家は広島城の普請には広島堀川普請の責任者となっている。吉川氏に請われた惣右衛門は城普請・町割などに工・タクミであったからで、このことにもっぱらに従事させられた。(秋山 伸隆)。


平田の町は複雑に川と道が交差している。古い町並みに新しい道路が侵入している。平田は「市制」であったがいま出雲市に編入し平田町になった。道には動脈と静脈があって、酸素を運んでくれるか、取り去ってしまうか。が山陰の曇りがちな重い空でなく、それに負けない空が広い。川は澱んでしまったが、嫌いじゃない。それに広い開放してくれる湯船の温泉がある。

宇美神社が鎮座し木綿街道のある川に囲まれた船泊そばに木綿の集積地をつくり、平田の古い町並みを囲む川の流れの島になった。おなじ景色が広島にもあった?ような。

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「建築に際して、西搭川、平田屋川の2本の水路が開削され、その後流川などの水路も開削された。城の南西に位置する本川は毛利期の絵図では直線で描かれ、水路として掘削され、流量が多いため現在では河川となったと考えられる。 水路に見る近世都市 広島大学、工学部、山田辰猪・杉本俊多・2009年」

「これらの水路は、船を城下まで引き込むためにすべて城下町の長辺(海へ)方向に掘削されており、それらを結ぶ短辺方向の水路は掘削されていない。」

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子供の頃、こんな都市伝説を聞いていた。“繁華街は中島(いまの平和公園)から東へ移って行って、広島駅までゆくのだ。”だれが言っていたか、わからないが、本通りそばの袋町小学校に通っていたから、強い印象で残っている。

広島城の建築資材の多くは中島に筏で運ばれたという。集荷場としてスタートした場はのち材木町とよばれた。この周辺に商人町が生まれ、賑わいが産業奨励館・原爆ドームが、だからここに造られた???です。戦前中島がこの町一番の賑わいの町であったようだ。

そのころ物資は人か船で運ばれた。この条件が船の係留地・中島に城普請で出来上がった中心地として、太田川を西瀬戸内海を幹線ラインの焦点に成長させ、五ケ庄の寒村を“広島”に成長させた。


築城から十数年のち、堀川の流れが中島の南の海岸線の西端に砂州を伸ばした場所がうまれ、その内側にできた内海・ウチウミが船泊に利用されだし、砂州に住吉の神が勧請された。堀川は岸を削り、川幅を広げた。堀川からほんとの川、本川へ呼び名もかわった、というのはオレの妄想です。本川が幹線ラインであったころ、そのころを捕まえて住吉神社が今踏ん張っているようです。

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ところで、平田屋惣右衛門さんの設計プランの主軸線は東へ傾いでいるのだろうか。

宇美神社の真北に極楽寺、その北の小山に消防神社とラインが引ける。消防、火消しは愛宕神社だったのでは。愛宕は鎮火の神様ですから。平田の町の主軸は真南北です。

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相生橋南詰から平和大道までキッチリ500mの大型バスの駐車場にされるほこりっぽい直線道は、ダタモノではないのかも。なのか言いたげなのだが。


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by forumhiroshima | 2017-05-07 15:04

広島、都城の設計

8世紀、今の大阪は淀川と大和川の氾濫原で、幾つもの三角州がみられる湿地帯だったという。梅田は埋め田で干拓地の名残の地名という。この氾濫原に古代二つの国名、河内国と摂津国がある。その国の境は税金を取る場所かどうか、で決められていた。

三角州が海の干満に現れたり、沈んだりする場所を汀線・渚というが、そこに生える芦の地帯の上部になる乾いた砂場に農耕が行われだすと、納税の対象となり河内国に併合される。摂津は港のことである津を摂・執り行うエリアを示すこと。洪水の度に新しい土地が誕生していた氾濫原は、神の創造の地と人々は感じていたのか、大阪城の南にある生国魂神社は生國足國イククニタルクニ、八十島ヤソシマの神で難波総社といわれる。生まれたばかりの土地、芦・アシの生える土地を創造する神に思える。自然の営みへの敬意がみえる。この神社は神武天皇の上陸地だとの国家創設の基点の伝承をもっている。太田川河口の景色もおなじような八十島の地であった。

納税地ではないが、なかなか使えない所有不明な場所を五家荘と呼んだと柳田国男は語っている。広島城はそのような、五家荘(五ケ浦)の地に設計された。

五家荘と呼ばれていた三角州に、広島の町を造る設計作業の基点が広島城天守閣の位置にある、と思える。

古代最初の国家は大阪の氾濫原を離れて、東の奈良盆地の南隅の飛鳥に藤原京として作られた。その都城はのち北上して平城京や平安京などになる。

京都の三条から東へR143で峠越しに込み合った住宅地の山科へ入ると天智天皇御陵の石柱を見つけた。4車線の込み合った国道と御陵参道の緑との対比が印象深い。もっと印象深いのはここから約60km南になる兄弟といわれる天武・持統天皇御陵と135.80分の子午線上にあるのだということだった。この1/100分の誤差もないラインは聖なるラインと呼ばれることもあるようだ。

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真北と真南を結ぶ子午線を古代の都城の設計者たちは重要視していて飛鳥から平安まで作られた都は真北を中心線にしている。磁石で測る磁北は各地で幾分か西へかたむく。広島では約7°西へかしいでいる。子午線は太陽と星、宇宙の運行により計測されたという。

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広島の都市構想は太田川の砂州の上にされた、その分自由な設計図が描かれただろう。その設計基準は天守閣の位置に向かってそのころの汀線であったいまの平和大道から引かれた、そのころの白神通り。紙屋町そごう前の紙屋町西電停からエディオン広島本店側へ延びる道、いまはホテルで視線は遮断されるが、天守閣がランドマークだった。西紙屋町電停の位置あたりに大手門への門が置かれていた。このラインは東へ15°程も傾いている。真北を設計ラインにしないことは、どうしたことだろうか。天守閣のポイントと何かを結ぶことで地表にラインが現れる。そのもう一つの基点をさがしてみる。

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広島の都市設計に三本のパラレルなラインがあったようで、西から広島城天守閣の南の大手町通りとよばれた道、紙屋町交差点から白神社前電停への電車道、西搭川であった道、そして東に広島城東堀だった八丁堀の南詰めの八丁堀福屋の西にある金座街の西側から並木通りへあった平田屋川を埋めた道になる。

浅野藩時代広島古図に挿絵で書かれた神社が三つあって、白神神社ともう一つは白島の碇神社、そして浅野藩のよって創建された二葉山の東照宮。白神社は西搭川の設計基点とすれば岩に張った白紙伝承も航行の目印というより、都市計画のマークとかんがえたほうが、汀線の内側になってそばには平地が出現していただろう岩礁の使い方にそうのじゃないだろうか。が、神社と天守閣のラインは基本ラインにならない。聖なるラインがあらわれてこない。設計図を現実に建設するとなると、極北を基準にすることは測定技術があれば進めやすいのではないのか?とおもったりする。

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古代都城の聖ラインは西へ0.4°傾く。150歩真北へ歩いて1歩横にすすむほど、(tan23‘≒1/500)の誤差。磁石では針が短いことで西偏を計算しても精度はでない。北極星は真北から古代には10°ちかく振れる。

その為太陽が最も短い日、夕刻・酉の時刻(午後6)、明け方・卯の時刻(午前6自)に垂直に立てた棒によってできる影をはかる。この測定を数か月後にまた観察し極北を導いた。(日本古代の位置と方位 宮原健吾、臼井正)

古代遺跡・ストーンサークルから導かれる冬至の日、手のひらの線が薄明りに浮かぶことで時が見つけられた「たそがれ」「かわたれ」時。古代人の時間が自分を包みだす。

子午線ラインが広島にもある。

厳島神社大鳥居の極北に極楽寺があり、南に大聖院が鎮座する。厳島神社の本殿の真南に弥山山頂がある。極楽寺は東大寺建立大僧正・行基創建と千手観音像制作の伝承がある。後日弥山で唐から帰国して弥山で修行した空海は行基の刻んだ観音の開眼法要をとりおこなったという。

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牛田・不動院も行基創建伝承があるが、行儀が制作した伝承の毘沙門天を祀っている毘沙門堂のある緑井・権現山が極北にあたる。初虎祭はとても賑やかですね。

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行基は和泉の国いまの堺市の生まれ、仁徳天皇陵古墳のそば、計測設計はお手の物の古墳建造者たちの子孫かもしれない。

子午線を山からを基点に、土地からに浮かび上がらせ神仏を、また祖先をそこに置く。変わることのない不滅の宇宙から引き込むライン。このラインをなぜ、新しい都城に毛利の人々は置かなかったのだろう。白神大手町東リ、西搭川、平田屋川、流川、薬研掘、美しくパラレルに海へ向かって開削されている。これほどの土木技術をもってして、何故に子午線を無視したのか。

聖なるラインなどと人々が語りだすと、正に「聖」なる行いとしてレジェントとなる。この人々の心を動かす宗教的な、また政治的なエネルギーを必要としない毛利という一族のそのわけをしりたい。


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by forumhiroshima | 2017-05-02 18:25


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