こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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ストリートストーリィ W・アーケイド

毛利の広島城下町は京橋川、流川、平田屋川、西搭川、と縦断する川や掘割の運河で南北に区分され、それらを東西に連結する道は設置されていない。築城に材料置き場だったといわれるいまの平和公園あたりの中島から城への元安橋が猿猴橋・京橋とならんで築城当時の橋だといわれる。戦国末期に活発化した船の運輸をとりこむ基地としての機能以外に毛利のお殿様は必要としていなかったようで、「縦(立)町」都市ともいわれる。いまならメイン滑走路の二本の掘割を完備した飛行場のようだ。

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この飛行場を横断する道を福島正則が設置した。これが、市内のいまの「江戸期西国街道」にあたるルートは江戸時代に幕府による指図で整備されこの時期に一里塚があらわれてくる。

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猿猴橋から西国街道はホテルのビルの敷地に消えて、南へ次の交差点を西に渡ると京橋商店街の道で現れる。西の京橋を渡って、「西国街道」のルートは幟町交番で左折し南下、電車道を渡って二つ目の交差点を右、三越デパートの南の胡通りから金座街に入るルートが多くのガイダンスにある。幟町交番の道が薬研堀という運河だったから、これに道が遮られて南下したのかなどと、想像する。

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胡神社はこの街道設置の際に十日市交差点の西の榎町にある恵比寿神を、この界隈の賑わいの核として街道に面した胡神を拝むには都合よい場所に勧請した。と思えるが、浅野藩広島入城の後1644年の城下地図には赤いラインがひかれて、さもこれが街道です、とある。ルートでは、京橋を渡って交番まで行かずに、二つ目の信号で左折。電車道を越え弥生通りを南下し徳栄寺角を右折し中央通りを渡って広島パルコ横から金座街に入る。

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本通りそばの袋町小学校の2年生だった昭和29年(1954)に通学路に天井ができた。アーケイドといって、びっくりしたし、見物客が通学時間にもたくさんおられた。金座街のアーケイドは遅れて1961年だそうだ。

本通りと金座街とのL字の連結部にはアーケイドな設置されてない。軒先の雨よけほどの構造物がある。思えば奇妙な空間が空に開いている。空間から東へ、パルコの北側にアーケイドが設置されて、天井に「KINZAGAI」と透かし文字が見える。

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福屋デパート南のアーケイドは金座街のデザインとは違っている。ここは胡通りで金座街ではないのだ。天井のアーケイドのデザインを比べて見なきゃ区分できない。中央道りを越えて神社まえに同じデザインのアーケイドが設置されてこの道が胡通りなんだと分る。

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「地霊」という言葉がある。ゲートのファウストの冒頭にあるという。もちろん読んでいないのだが。都市の変貌、都市の変化の話などといわれても、あのあたりのことだとイメージ出来るときと、できない時がある。できると、その変貌・変化がああ、あの土地辺りのことだとイメージでき、その話が理解できる。それが「地霊」の存在が現れるときだという。

その「地霊」が自分に現れるのがここだ。三つの商店街が巴に重なり合うなかで、ポッカリと空に突き抜けた空間は、ここにキリンビールのビアレストタンがあり、府中のイオンはキリンビールの工場跡で、西国街道に面していた、などイネージすると直ちにカンビールに手が行くのも、ここに「ビールの地霊」がいるから。

だから、アサヒビール館の信号を渡って入る金座街アーケイドが16440年城下地図の西国街道だろう、と決めた。アーケイドがこの商店街の境界の空間の地霊が現れた。

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もう一つ・奇妙な、と感じる場所がある。京橋の西から2ツ目の信号から弥生通りへ入るあたりにそれを感じる。京橋川河畔の厳島神社の土手の石垣の内側につけられた道への小さな坂道と、えらく明るいが雑多な空気が漂う橋本公園がある。河畔のレストランも雑多さに風を送り込む。この辺りは京橋川雁木群と呼ばれる雁木の集合地帯で厳島神社ばかりか、金毘羅さんも鎮座して海の神様も集合する船の港だった。

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「橋本」と橋のたもとにつくここらの地名は橋の存が大きかったことなのだろう。川岸の土手内側につけられた道のある場所は岸が川へせり出した痕跡で、その工事でできた干拓地の特徴を残す。景色に段差が横たわって、これが、妙な明るさを感じさせるのだろうか。「地霊」といえよう。

埋立地にはこの土手内の道はつくられない。その区分が景色で見分け出来る。堤を造り中の水を抜くのが干拓で、土を運んで埋めるのが埋立地。干拓は後で作る水路から水が取れ農地が生まれるが、埋めると高くなって、水路は地表より深くなって灌漑出来にくい。客土と呼ばれる土砂運搬作業には多人数が必要になる。コストパフォーマンスは干拓にあるのだろう。古くからの土地づくりの伝統が見える。

空鞘神社の前も公園と土手内道路がある。もとは船溜まりの川湊だろうか。公園は船溜まりの痕跡か。遥か昔の賑わいが漂っている。「サヤ」は溝の意味もある。サヤマメには溝があって筋を抜くと、豆がでてくる、そのサヤだ。「空」は「上」ほどの意味と考えれば、上流の掘割となろうか。

弥生通りから金座街へ右折する交差点の徳栄寺は戦国の石山寺合戦で毛利方水軍の水先案内人・休信のいた光明坊が前身だという。広島城下に引き込まれた海の匂いがしてくる。


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by forumhiroshima | 2017-10-15 15:19

ストリート ストーリー 福島正則の西国街道

平和公園の慰霊碑と原爆ドームを結ぶ聖ラインを横切る道を公園の設計図には記載されてなかったといわれ、西国街道という歴史が考慮され残されたと聞いている。元安橋から公園に入ると道が屈折する。

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公園ができる前の町の図を中国新聞が掲載していた。これにはかぎ型に道が作られていた道が、いまの公園では緩やかな曲線にかえられているが、痕跡としてのこったことがわかる。西から侵入する敵を待ち構える「遠見遮断」という。「道」は武力の舞台。

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この街道を毛利氏退去の城下に設置したのは福島正則で、東の府中町にあった古代西国街道から城下に引き込こんでいる。

福島正則の痕跡は白島から牛田へ渡る神田橋のそばに小さな祠の八剣神社がそうだといわれる。

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「福島正則公のこの地に残る唯一の治世の史跡である」と掲示されているが、この祠だけとは、ちょっと正則公がかわいそう、だ。この神社は正則公の故郷尾張の荒神さんを勧請したのだろう。
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ここは天守閣と牛田山を結ぶラインにあり、城下の平田屋川ラインの最北部基部にもなる。神田山は広島築城の基線・阿武山の真南に位置している。祠は結構マジカルなポイントに鎮座されている。天守閣はキリスト教の天守からの名だというから、マジカルな気分があふれ出すのも仕方ない。正則公所属の信長・秀吉系列の施策はいまでも新さを感じる。

「愛知の神社」(愛知県郷土資料刊行会)という本を図書館で読んだのですが、その本によれば、
八剣社の御本宮は熱田神宮の別宮、八剣宮(草薙剣の模剣を祀ったのが起源)であり
そのことから、八剣社とは草薙剣と草薙剣にまつわる神々をお祭りする神社→日本武尊を祭神とする神社が多い
…ということになるようです。
八剣社は尾張に60社(そのうち40社は日本武尊を祀る)三河に21社もあるそうで、
尾張地域では実に、分社数が上から5番目…通りで多いわけです。  http://yutu.blog43.fc2.com/blog-entry-335.htmlより引用

毛利輝元の築城の際に行った吉田からの引越しのルートは吉田町の東の峠を越え向原へ出て三篠川沿いに下り、狩留家から馬木の峠越で温品に降りるといわれる。府中の南には海が迫っていた。西に横たわる尾長の尾根の先端は岩鼻と呼ばれる岩礁が海に洗われていた。温品からの毛利の引越便のルートと思われる大内越の峠道は大正のころまでただの小道だったと、矢賀郷土誌・山田隆夫にある。引越荷物はどう運ばれたのだろうか。

大内越に入らず南下する矢賀の尾根の麓の道周辺は毛利時代に直轄領となり、城の東の守護の目代が置かれていたという。引越のルートは大内越ではないようだ。では、尾根をどこで越えたのだろう。

福島正則の広島での末期の地図がある。

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府中から三つの橋を渡り矢賀で尾根を越え、今の光町にある我羅我羅橋跡、二葉の里に流れ込んでいた古川が地図では片河橋と記載されて、ガラガラはカタカワの読みが変わったのかと思われるが、そこを渡り、猿猴橋へのルートが記載されている。正則公設置の西国街道かと、思われる。

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となると福島正則の西国街道のルートは西から進むと猿猴橋から直線に尾根に登り、家臣であった可児才蔵の伝承がある才蔵寺・味噌地蔵が名高い前寺をすぎ、トップから急坂を下ると矢賀の古道に恵比寿の祠よこにでる。これが正則の西国街道なのだろうか。この峠を矢賀峠とも才蔵峠ともいうのだそうだ。

恵比寿からの急坂は旧市内屈指だろう。ヒルクライムでは、とても達成感のあるルートだけど、岩鼻の岩礁も細粉・撤去されマンションが林立してから、車が走ってることが多くて、車に尻に付かれると、こちらは遅すぎて申し訳なくなって、やめてしまうことになった。久しくいってない。市内屈指なのに、なぁ。

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正則公時代の地図から40年のち、浅野藩の時代になっていた1653年に洪水の災害が尾長、矢賀などで発生し、そのときの堤を修復した地図がある。

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古川(片河)は埋め立てられ、海に一斉に新開という干拓地が生まれている。岩鼻はまだ海で、岬の先端に岩礁が書かれる。まだ岩鼻、いま矢賀のJR芸備線をアンダーパスで道がぬける場所に堤の記載がみえる。

尾長の尾根を回ることができるようになっている。この堤が峠下の恵比寿の祠へと結ぶ。矢賀土手道と呼ばれた。

修復された矢賀土手道は1663年に作成された浅野藩の地誌・芸藩通史の矢賀村の地図に記載され、岩鼻から府中の土橋(いまの府中大橋のすこし上流にあった)へ直線の道が記載されている。1633年に幕府が各藩に幹線道の整備が命じられ検分使が派遣されている。この整備で作られたといわれるが、街道松が見える。コウノトリがこの街道の松に営巣したとの記事が残っている。兵庫・豊岡のコウノトリたちは三次市三良坂のダムに現われている。広島に現われるのを待っている。早よ、こいヨ!。

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江戸期1825年改訂版の芸藩通史にある城北の図は広島駅周辺地図。そこに古川村が書き込まれている。今の天神川は古川と大須新開の干拓の排水路をいっているのかもしれない。府中大川への排水口の水たまりあたりに南蛮樋門の記載がある。

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これらの堤防道を推定でだが、たどってみた。「オタク、だなー」が感想でした。


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by forumhiroshima | 2017-10-03 10:20


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