こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

ストリートストーリィ 土手内の神道の木

平和公園から南下1.5km。吉島のおおきなゴルフ練習場や住宅展示場を囲む弓形の道があって、元安川西河畔からすこし下る弓の弦になる道に入った。直線に西へむかって信号のあるその向こう角に店中が洗われたように瑞々しい、店の戸は十分に風を入れるように畳まれて隅っこに、ステンレスのショウケースが光っている、そんな魚屋さんがある。裏の路地に評判の酒屋、もっと奥の路地にお酒のディスカウント店。そばに銭湯。この町に住むってことは、横文字で、ラッキー!。
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店をすぎての向こうの西空に大きく広がる緑が頭を出しているのを見つけた。ドキドキしだした。府中町本町の路地の向こうにそびえるクスの巨木に出会った時もそうだった。あの町の路地に泉が湧き出て、板塀下の疎水が音を立てて流れて、「暮らし」という言葉が浮かんできた。
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どこかの町中で出会う巨木からは、ひどく目立つのに、やさしい、何かが降りてくる。おおきな緑で町を包み込んでいるようなハーブな気分が降りてくた。ここ吉島にも、巨木がある。街角を回れば、もう旅(永六輔)。

緑の下の石組みに赤い鳥居がある。緑の正体の大きなクスの木、そのそばにエノ木が並んで冬枯れのエノ木は枝だけの頭が背伸びしている。吉島稲荷神社の神木たちで被爆樹木に指定されている。先日ここにNHKのこころ旅で火野正平さんが現れていた。
この境内で読まれた手紙はこの町に数年赴任した青年の思いでの木々だとあった。彼の心にのこる暮らしが木々の下にあった。
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吉島町・西、東吉島町は江戸期から明治までに干拓された(図説広島市史)。海の干拓地は堤防で囲まれて、中に塩抜き用の排水路が造られて後に農地にされる。市街地化すると堤防上に家が建てられ、水路は暗渠か埋められて道路に。
そこに堤防の石組みがその景色に残され、水路は直線に道になっている。干拓事業の区分も道として残されて、ここの弓型の土手道にも街並みの歴史が埋め込まれている。時間の影のスライドショー。なかでも、その景色の変遷を3Dとして稲荷社の木々が、自分をドキドキさせる。
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そんなドキドキが干拓されてこの町に生まれた、元の海の呼び名が知りたかった。広島築城まえに広島湾はないだろう。“築城まえの海”などとは、いいたくない。
「もしもし中途などにも、少し逗留も候ては、笑止千万、興あるべからず候。川の内(エノウチ)警護船五六十ほども仕立て候申し越し候、小早川・御方警護、六十艘七十艘も御着候はば、・・・・」毛利元就が小早川隆景に厳島合戦まえにおくった書状だ。
「川の内はまた江の内ともある。江と川とは同意に通用した。江の内は広島湾頭、今の広島を中心とする海浜地帯であろう。神武天皇東征のここでの行在所は埃宮・エノミヤといった。埃宮・エノミヤは江の宮の意で・・・  長沼賢海・海賊」
どうも、元の海はエノウチと呼ばれたらしい。

安芸国の古代の一の宮(厳島神社はのちの昇格)だったという速谷神社(HPによれば)のそばに流れるのが、可愛川・エノカワ。安芸国国府在所といわれる府中町の埃宮・エノミヤ(ただしこの宮は明治時代建立)そばの川は榎の川・エノカワと「エ」が現れる。こじつけっぽいけどね、矢野町絵山や宮島のそばの絵の島はどうなん!中区の榎町は?。等々。
そうなると「エノ木」は、とても気になる。

民俗学者の柳田国男は、神を勧請する木があったという。それを「タタイの木」という。“タタエ”る木かもしれない。諏訪神社の御柱のモミの木も、京都・上賀茂神社の御神木・椎の木も「タタイの木」だという。またタタイはタタリに通じ、
神をまつり神意を伺う場所に生えている神が降臨してくる木をいう。神が降臨する場所は木だけだなく、岩だとか、立てた竿でも良かったようだ。神は必要に応じて一時それらに鎮座し、神域を巡回している。のちに、この巡回道に岩や巨木の代わりの祠がおかれる。

エノ木が祟ることのエピソードに幕末宮家から徳川家に嫁入り(降嫁という)された和宮の行列が京都からの道中、嫁入りの行列はこの前を横切ると祟りがあるとされる中山道にあったエノ木を避けたという。この木には神威がやどる。
福山市の西の郊外の山手町の西国街道の交差点に一里塚だったという表示があるそんなに大きくないエノ木がある。松じゃない、のが不思議だった。どこか元気なくて、地元の皆さんに避けられているのか!と木にむかってたずねた。県内唯一の一里塚エノ木さまだ!と返事が・・・。
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エノ木は巡回する神のルートを示す「タタイの木」であったことが忘れられてしまったが、かろうじて微かに一里塚の木とされて、記憶をのこしたのだろう?と、は、おもえないだろうか。歴史の記録が残されていないころ、人と植物との交流とは今では考えられないほど深いつながりが、植物の生態のあり方をもってあっただろう、と誰も理解している。
柳田国男はエノ木に寄生木(ヤドリギ)が付きやすく落葉した高木を注目したのでは?という。またこの木は枝を落としたり、伐採したりしても、盛んに「ひこばえ・孫生え」する。この萌芽更新の生態は被爆し根本から伐採され、再生した白神神社の前にあるエノ木に見られる。この再生能力も「タタイの木」の要因かもしれない。モミの木は、独立樹木としては一世紀は超えないという。諏訪神社御柱の七年更新はそこらを感じさせる。
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エノ木の「榎」の漢字は国字(日本でつくられた漢字)で大陸では「朴・エ」と書かれる(日本人と植物・岩波新書)。この字が木偏に卜(占い)で「エノキ」と読まれるという。古くは占いに使われた信仰に関わる木ではなかったか?とある。なんとか「エ」が現れた。

明治20年の地図に吉島につくられた干拓地の荒野にポツネンと稲荷社が記載されている。社の横に「天明七年(1718) 空鞘稲荷神社の分祠としてこの地に建立す」と由来が建てられている。
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以前江戸期の一揆を以前に調べたことを思い出した。天明三年浅間山大爆発以後の関東地方飢饉で米が江戸へ価格高騰をねらって米が集中し、江戸ばかりか地方各地で一揆発生、広島では天明七年五月に発生している。エノ木もここへ嫁にきたのだろうか。丁度300年前の混乱の時、干拓地の荒野の原っぱ中央に祠が海を背景に置かれた景色は夏の青空の白い雲の中に浮かんできた。その景色は神々しい。
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神社から西へ細い路地を抜けると変形の四つ角にでる。
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右への路地へ入ると道なりに弓型の道の弓の部分で幹線道を横切るとゴルフ練習場にでる。河川土手道を引き返し南へ直進し信号をぬけるつ道が古い土手。次の信号の右の老人ホームの路地へ入ると、湾曲しながら道なりに西へぬける。これも土手道。家々は土手に囲まれて沈んでいる。土手は防音壁なのだろう。
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元は土手だった道は吉島小学校にでる。ここは大正期にはまだ海だった。学校の北の五角の小さな交差点に小さな祠が二つおかれている。ここを神の所在としたのは人間である。
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空鞘神社から吉島稲荷神社に勧請しまた新しくエノウチの海へのばされた干拓地の先端にかみを勧請した人がいた。その人、人達は人々に神を動かせる人だとされていた。地元の人々に神の人だと認識されていた。神勧請のルートの訳がきっとあったはず、それが古地図に残された一本の道。それは今羽衣町交番前の交差点から
南へ入る路地だろうか。その神の巡回道がここまで延びて、吉島の鎮守の神のエリアがひろがったということなのだろう。

吉島は葦が生えていた島の地名。今島であった痕跡はない。ただ吉島町というシンプルな地名と、地域の中心地だったことが多い郵便局と、地域にとって共同の場所で人が住み始めてから必ずつくられる墓地を探す。墓地が道奥に見えるお寺そばに、萬象園と浅野藩時代の領主一族の別荘の名のつくマンションがあった。Google Mapで細かいゾーンで標高がわかる。すごい!。マンションエリアが周囲より幾分高い標高に出てくる。きっと、ここなのだろう。
しかし、走ってみて傾斜はないような??MAP計測では2mもの標高差があったのだけど。どうなん!
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# by forumhiroshima | 2018-01-17 11:39

フジバカマ

黄金山の周回の古道沿いの民家の塀越しに山茶花が開きだした。

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朝の通学前の旧道はまだ静かでアスリート気分で走っているときに「アッ、サザンカ、ツバキ?ドッチ」とやり過ごした花が、スタミナが足れてツーリスト気分にかわってくると、写真でもとろうか!と足を止める口実になってくれる。普通に老いてきてますね。
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数年前に、もみの木公園のサイクリングコースがトップからワインディング始めたポントの夏の陽だまりに、白い小さな花が密集した手のひら程の扇形になっていて、その扇の塊にヒラヒラと動くものたちを見つけた。いい気分の下りコースでも、でも、ブレーキレバーをひいた。あのシーンかもしれない。

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ずっと以前、芸北の臥龍山から掛頭への縦走路の緑の森の木漏れ日をスポットライトにした蝶の群れにつつまれたことがあった。そこに木漏れ日をかき回すように白い虫取り網が振り回されて、そして老人があらわれ、それはギョッとする仙人と、のような出会いだった。

蝶の名は、を聞くと、アサキマダラだと教えられた。すこし地味ですね、蝶は派手な、例えば夜の蝶なんて・・・と軽口がいけなかった。この蝶は、フジバカマに集い、台湾へと半島へと海を渡るのだ!とすこし怒った、いや屈辱されたかの熱い感情が降りかかってきた。MTBで下ってきたことも、御不満だった様子。少々の説教の時間があって、また網が振られ、採った蝶を確認して放す作業が目の前で始まった。

何処かで採取されて、羽に場所と日付がマーキングされているか、を確認しているのだと、まだすこし青みがかった、わからんだろう!の拒絶のまなざしで見据えられた。忘れられない。白いフジバカマの花にMTBが寄りかかっていることにヤット気づいた。

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八ヶ岳の谷にフジバカマを畑に栽培し、アサギマダラを待っている、いや旅立ちへの応援をしている夫婦をTVが放映していたのを見たことがある。夏の終わりに、もみの木公園のフジバカマの花が終わって、薄毛にまとわれた種たちをコースのそこかしこに振って歩いている。この蝶、“なにかもって、なにかを変化させる”。

もみの木公園にもアサグマダラが現われている、ヨ!あの芸北の青いまなざしの老人に伝えたいと思った。

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先の戦争に出兵した学徒が前線で博士論文を完成し理学博士となったとの話題をもつ植物学者・前川文夫が、大陸で見た人里の様々な観察から日本に古代に渡来した稲作に伴ってやってきた植物を「史前帰化植物」と区分した。

「九州・佐賀県、唐津平野の菜畑水田縄文晩期遺跡、福岡県、福岡市博多区の板付水田晩期遺跡は水田造成、農具は高度な技術水準であるといわれる。稲作農業は中国大陸ではすでに4000年という長い実績を経てきて、すでにあらゆる条件に適応できるレベルで紀元前400年前後に横滑り的にわが国へ入ってきた結果によるのである。 水田の考古学・工楽善通」

稲作農業を新天地で展開できた人々、この国のパイオニアたちの痕跡は九州だけでなく、岡山市・松山市・高松市・姫路市・松江市・井波氏・茨木市・東大阪市など挙げられている。何処にもある「ワダ」の地名もこのパイオニアたちに関わるそれは、、というロマンもある。「ワダ」へと、走りたくなる。

「史前帰化植物」には稲作に伴って渡来した、“水田雑草”、畑に伴った“畑雑草(人里植物)”、そして畔などに成長する“田畑共通雑草”に区分されている。前川文夫はこの三種を約120の植物としてリストアップしている。

“水田雑草”は田植えに合わせて芽生え、稲刈り前に実をつけ種子を散布させ冬には土に潜む。秋の七草のなかに挙げられるものが多い。“畑雑草”は稲刈りのあと日差しをうけた田に芽生える。春を彩る花々で、それらの中で、春の七草にもあげられている。麦作伝来に伴われたとも、いう。

稲作が始まってからの景色に、稲作以前の縄文時代の植物たち・日本原産の花々は人々の生活圏にはほとんどみられないのではないか、といわれる。七草の選択基準の意味は今誰も説明しきってはいなようだ。だが、その草々に稲作の景色を感じることは、だれも同じではないだろうか。

「九州の菜畑遺跡、板付遺跡の開発期の水田土壌には申しわせたようにツツジ類の種子がかなり多くみつかっている。この灌木は縄文時代以来の自然林を切り開き、水田となった周辺の閑地には、春になるとツツジが咲き誇っていたのだろう。弥生人はこんな景色を眺めながら、田植のための田ごしらえをしていたにちがいない。水田の考古学」

いまは住宅地になるのか、新しい開墾地が放棄されて野に帰るところにツツジは最初に繁茂する。おなじ景色が生まれる。稲作伝来の開発最初の景色がいまも昔も同様にこの国の大地に生まれている。開墾地に田作りされた里山の景色は2000年以上も繰り返され、自分のDNAに、いや魂にインプットされているといえるのかもしれない。田園のあぜ道や棚田のトレッキングから生まれるなつかしさで確かめられる。

秋の七草にライアップされているフジバカマは“水田雑草・畑雑草・田畑共通雑草”の中には挙げられていない。だが「中国から有用植物として持ち込まれたもの、或いは、古里を思い出させるもの」としてもたらされた、と前川文夫はいう。フイバカマは薬草で利尿作用があるという。

パイオニアが伴ってきたフジバカマの花が咲くころ、アサギマダラは海を越えて、パイオニアたちを訪ねてきたのだろう。そしてまた海を渡るのだろう。

あの青い目の老人は、そう考えていたのかもしれない。彼の魂は蝶たちと海峡を超える旅へ出ようとしていたのだろ。拒絶の眼差しは、これからの冒険への勇気があふれ、こぼれていたからだろう、と。


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# by forumhiroshima | 2017-12-13 08:17

ストリート・ストーリィ 俺は権現

福島正則の広島は1601年から1619年広島在住とされているが、彼は留守がちだった。「1607年江戸城修築、1611年丹波篠山築城、1612年から名古屋城築城の直接参着、工事督励を勤め、1612年から1616年江戸参勤滞在を余儀なく」と 図説広島市史にはある。

名古屋築城では海からの導入線の堀を開設し、その堀は福島左衛門太夫正則の名から“太夫堀”とよばれている。

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先般のNHKブラタモリ・名古屋で正則さん、見直され来年銅像ができるという。

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その正則は広島では東西に横断する西国街道を導入し、北への雲石(出雲・石見)街道を整備した(広島県史)。広島でも忙しい。浅野藩となっての江戸期1633年に幕府から国々へ巡見使という観察役が派遣され、それによって道が整備。

雲石街道の道幅は7尺の2.12mほど。道は馬と牛と人とが使えればよかった。ちなみに古代飛鳥の西国街道の幅は二十数mという。奈良・平城京の中央の朱雀大路は70m、道じゃない、まるで天安門広場や金日成広場とイメージです。

古代西国街道の痕跡は一番近くて西条町の東・土与丸交差点辺りにその痕跡があるときいて、その気配を嗅ぎに走ったことがある。十数メートルの道幅の痕跡ぐらい匂うだろうと。そこは古西国街道でもあって山中に一里塚の痕跡が残っている。古代街道は直線に建設されたというのだが。交差点東の広い谷間と直線の道路はそれなのだろうか。大変な工事だろう。でも巨大古墳造った時代なのだ。古今、為政者にとって道の建設は最重要事項なのだ。

広島築城の毛利輝元の元城下・吉田―広島のルートは「慶長以後往還土橋通り五竜山南麓下小原往還筋広島より三次へ本海道に相成 高田郡村々由来記」に書かれたのが最初とされている。関ケ原の合戦のころの記録とされている。往還と呼ばれるのはいまの国道とか県道とかのように役所に指定された公用道だという。たしかに江戸期の街道とされたコースがそう呼ばれる。また、各地の御坂とよばれる峠は京へのルート上にあること、とも言われる。古代に税は個人で運んだころがあったという。故郷へ帰れなくなった、イヤ帰りたくなくなった人々が奈良一体に国別に町をつくり、古里の名で今も呼ばれる。故郷へのルートはのちのちまでも記憶されただろう。

正則によって整備されたとされる雲石街道は可部の町で分岐して石見へは西へ南原ダムを登る。登り口に一里塚遺跡が整備されている。出雲へは北の上根峠へむかう。

「村々由来記」にある五竜山はJR甲立駅前からR54へ向かった道路が江の川を渡ったところで、小原の地名がこのあたりにある。JR芸備線とR54が広島をでて初めて出会いそこに江の川がある、という交通の要所だ。東へ世羅台地、西へ高宮との交差点でもある。安芸高田市の古代からの郡名の高田はこのあたり高田原をいう。中世の領主・宍戸氏の名が五竜山ふもとの宍戸神社とのこされていて、領主の屋敷をいう「館・ヤカタ、タチ・タテ」が甲立の地名の由来か、と妄想している。

戦国の道のスタートが土橋とある。安芸府中の町から尾長へ府中大川を渡る橋は少し前まで府中土橋と呼ばれていた。「村々由来記」のルートはR54でなく旧高田郡の交通の要所-甲立へのJR芸備線ルートではないか?との疑問があった。可部の奥の崖を登る上根峠、吉田の入口になる土師ダムからの流れの可愛川と南からの斐川が合流する地点の入江・石原・久保などの氾濫原の地名が思わせる湿原の通行困難さ(ここはR54ほか通過ルートがない。明治政府の木戸孝行充・またの名・桂小五郎の祖先はここに城を築き通行監視と通行料徴収)などが疑問だった。

だが福島正則の雲石街道整備伝承ルートと「村々由来記」ルートとの関係は浅野藩広島入城時の地図を見ていて、「これか!」と気付いた。西国街道から分岐する地点は堺町になるがそばに土橋町がある。そのあたりに地図に堀がみえた。そこを渡る土橋が地名で今にのこっている。

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堺町から街道は寺町をぬけ、天満川は渡し舟での渡りだったという。分岐から渡し場まで直線に延びている。いかにも計画されたルートに見える。道に連なるお寺は正則が武田氏城下の祇園にあった寺や牛田からも移設さしている。直線のルートを地図で伸ばし、北上すると、阿武山の南の双耳峰の権現山山頂へぶつかった。権現の地名はそこら中にころがっている。神も仏も習合して権現と呼ぶ。どこにもある名だが、ここでは道先の案内で道の鎮守の権現さま。ではと、南へと直線を伸ばすと、残念にも舟入南で本川へ落ちた。

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この直線ルートを見ていて、平安京の西の風水といわれる、都の西にわざにおかれたという木嶋大路(現・周山街道)を思い出した。この大路の北の基点の双ケ岡と権現山・阿武山のありようが似ている。

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この権現山に毘沙門天を鎮座させた武田氏の一派、甲斐武田氏が支配していた長野・飯田市の飯田城が広島城築城のころの豊臣時代に、あたらしく城下の都市計画がすすめられた。飯田市美術館の発刊した飯田と京都の風水・四神相応概念図に、飯田城下の中央主軸に権現山がおかれている。この設計者の京都の儒学者・光増右衛門は飯田を「京都にならいて之を正す」といい木嶋大路が西の白虎だといっている。
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そして小京都が誕生している。「小京都」が各地に増産された訳に“風水”があるのかも。福島正則にとっても、無視できなかったし、採用したのがこの雲石街道ではないか。

正則が「直接参着」したという名古屋城はその中心軸を磁石の極北線を採用していて、西に街道が北上している。都市設計に風水は戦国大名のトレンドなのか、などと、おもってしまう。

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正則が整備した西国街道の東は尾長の才蔵寺の才蔵峠からだろう。その道も愛宕明神前から猿猴橋までの直線をもっている。

「芸州福島左衛門太夫正則の家中で、七百石可児才蔵吉良・カジサイゾウヨシナガといえば、太閤存生のころから世に知られた豪族だったが、奇癖があった。この男はしんぞこから自分は人間ではない、と思いこんでいるようであった。山城愛宕の勝軍地蔵が、かりに人間の姿に現じてこの世にあらわれているのが、とりもなおさず可児才蔵である、と信じているらしい。勝軍地蔵とは、愛宕権現ともいい、軍神として諸国の武士から尊崇をうけている仏霊である。「うそではない」と才蔵はいうのだ。「わしは愛宕の勝軍地蔵の縁日である二十四日にしぬるぞ」その予言が証拠だという。愚にもつかない。 司馬遼太郎 “おれは権現”」

「元和5年(1619年)、福島正則の広島藩は些細な落ち度が発端で改易処分となる。その幕府のやり方を理不尽として、可児才蔵は数十名の同士と共に小城に立て籠もって抵抗を始めた。新たに広島藩主となった浅野家は城を攻めるが、石垣を登る兵に煮えたぎる味噌汁を掛けて撃退するなどして降伏しない。ついに浅野家は兵糧攻めを始めるが、ここで才蔵は対抗策を立てた。城山にあった地蔵さんに笹の葉を供え、さらにその上に米と味噌を乗せて祈ると願いが叶うという噂を広めた。多くの者はそれを信じて多くの米と味噌が集まった。これによって兵糧を確保した才蔵らは存分に抵抗を続け、いつの間にか小城から姿をくらましてしまったという。日本伝承大監」

日本伝承大監は解説で、才蔵は1613年に死去、福島正則の改易は1619年と史実と違うとある。この道も権現を守護神としている。

※司馬さんは才蔵が広島城南の猿楽町に屋敷を持っていたと書く。その町で自分は生まれた。コバイイ。

福島の名の川は埋め立てられたが、町名で残っている。「明治39年、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年323日ついに福島町となった。 新広島市史」

「八助は正則の夭折した嫡男の正友か、養子の正之か、ともいわれる。家康の養女が妻の正之は正則から「乱行だ」とされて幽閉、餓死」ウイキペディア。

幽閉・餓死の記述に驚いた。

1619年改易となり信州・川中島へ498千石から45千石まで減転封となったが、ここにも堀をつくり太夫堀の名をのこしている。

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# by forumhiroshima | 2017-10-31 09:54

ストリートストーリィ W・アーケイド

毛利の広島城下町は京橋川、流川、平田屋川、西搭川、と縦断する川や掘割の運河で南北に区分され、それらを東西に連結する道は設置されていない。築城に材料置き場だったといわれるいまの平和公園あたりの中島から城への元安橋が猿猴橋・京橋とならんで築城当時の橋だといわれる。戦国末期に活発化した船の運輸をとりこむ基地としての機能以外に毛利のお殿様は必要としていなかったようで、「縦(立)町」都市ともいわれる。いまならメイン滑走路の二本の掘割を完備した飛行場のようだ。

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この飛行場を横断する道を福島正則が設置した。これが、市内のいまの「江戸期西国街道」にあたるルートは江戸時代に幕府による指図で整備されこの時期に一里塚があらわれてくる。

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猿猴橋から西国街道はホテルのビルの敷地に消えて、南へ次の交差点を西に渡ると京橋商店街の道で現れる。西の京橋を渡って、「西国街道」のルートは幟町交番で左折し南下、電車道を渡って二つ目の交差点を右、三越デパートの南の胡通りから金座街に入るルートが多くのガイダンスにある。幟町交番の道が薬研堀という運河だったから、これに道が遮られて南下したのかなどと、想像する。

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胡神社はこの街道設置の際に十日市交差点の西の榎町にある恵比寿神を、この界隈の賑わいの核として街道に面した胡神を拝むには都合よい場所に勧請した。と思えるが、浅野藩広島入城の後1644年の城下地図には赤いラインがひかれて、さもこれが街道です、とある。ルートでは、京橋を渡って交番まで行かずに、二つ目の信号で左折。電車道を越え弥生通りを南下し徳栄寺角を右折し中央通りを渡って広島パルコ横から金座街に入る。

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本通りそばの袋町小学校の2年生だった昭和29年(1954)に通学路に天井ができた。アーケイドといって、びっくりしたし、見物客が通学時間にもたくさんおられた。金座街のアーケイドは遅れて1961年だそうだ。

本通りと金座街とのL字の連結部にはアーケイドな設置されてない。軒先の雨よけほどの構造物がある。思えば奇妙な空間が空に開いている。空間から東へ、パルコの北側にアーケイドが設置されて、天井に「KINZAGAI」と透かし文字が見える。

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福屋デパート南のアーケイドは金座街のデザインとは違っている。ここは胡通りで金座街ではないのだ。天井のアーケイドのデザインを比べて見なきゃ区分できない。中央道りを越えて神社まえに同じデザインのアーケイドが設置されてこの道が胡通りなんだと分る。

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「地霊」という言葉がある。ゲートのファウストの冒頭にあるという。もちろん読んでいないのだが。都市の変貌、都市の変化の話などといわれても、あのあたりのことだとイメージ出来るときと、できない時がある。できると、その変貌・変化がああ、あの土地辺りのことだとイメージでき、その話が理解できる。それが「地霊」の存在が現れるときだという。

その「地霊」が自分に現れるのがここだ。三つの商店街が巴に重なり合うなかで、ポッカリと空に突き抜けた空間は、ここにキリンビールのビアレストタンがあり、府中のイオンはキリンビールの工場跡で、西国街道に面していた、などイネージすると直ちにカンビールに手が行くのも、ここに「ビールの地霊」がいるから。

だから、アサヒビール館の信号を渡って入る金座街アーケイドが16440年城下地図の西国街道だろう、と決めた。アーケイドがこの商店街の境界の空間の地霊が現れた。

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もう一つ・奇妙な、と感じる場所がある。京橋の西から2ツ目の信号から弥生通りへ入るあたりにそれを感じる。京橋川河畔の厳島神社の土手の石垣の内側につけられた道への小さな坂道と、えらく明るいが雑多な空気が漂う橋本公園がある。河畔のレストランも雑多さに風を送り込む。この辺りは京橋川雁木群と呼ばれる雁木の集合地帯で厳島神社ばかりか、金毘羅さんも鎮座して海の神様も集合する船の港だった。

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「橋本」と橋のたもとにつくここらの地名は橋の存が大きかったことなのだろう。川岸の土手内側につけられた道のある場所は岸が川へせり出した痕跡で、その工事でできた干拓地の特徴を残す。景色に段差が横たわって、これが、妙な明るさを感じさせるのだろうか。「地霊」といえよう。

埋立地にはこの土手内の道はつくられない。その区分が景色で見分け出来る。堤を造り中の水を抜くのが干拓で、土を運んで埋めるのが埋立地。干拓は後で作る水路から水が取れ農地が生まれるが、埋めると高くなって、水路は地表より深くなって灌漑出来にくい。客土と呼ばれる土砂運搬作業には多人数が必要になる。コストパフォーマンスは干拓にあるのだろう。古くからの土地づくりの伝統が見える。

空鞘神社の前も公園と土手内道路がある。もとは船溜まりの川湊だろうか。公園は船溜まりの痕跡か。遥か昔の賑わいが漂っている。「サヤ」は溝の意味もある。サヤマメには溝があって筋を抜くと、豆がでてくる、そのサヤだ。「空」は「上」ほどの意味と考えれば、上流の掘割となろうか。

弥生通りから金座街へ右折する交差点の徳栄寺は戦国の石山寺合戦で毛利方水軍の水先案内人・休信のいた光明坊が前身だという。広島城下に引き込まれた海の匂いがしてくる。


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# by forumhiroshima | 2017-10-15 15:19

ストリート ストーリー 福島正則の西国街道

平和公園の慰霊碑と原爆ドームを結ぶ聖ラインを横切る道を公園の設計図には記載されてなかったといわれ、西国街道という歴史が考慮され残されたと聞いている。元安橋から公園に入ると道が屈折する。

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公園ができる前の町の図を中国新聞が掲載していた。これにはかぎ型に道が作られていた道が、いまの公園では緩やかな曲線にかえられているが、痕跡としてのこったことがわかる。西から侵入する敵を待ち構える「遠見遮断」という。「道」は武力の舞台。

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この街道を毛利氏退去の城下に設置したのは福島正則で、東の府中町にあった古代西国街道から城下に引き込こんでいる。

福島正則の痕跡は白島から牛田へ渡る神田橋のそばに小さな祠の八剣神社がそうだといわれる。

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「福島正則公のこの地に残る唯一の治世の史跡である」と掲示されているが、この祠だけとは、ちょっと正則公がかわいそう、だ。この神社は正則公の故郷尾張の荒神さんを勧請したのだろう。
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ここは天守閣と牛田山を結ぶラインにあり、城下の平田屋川ラインの最北部基部にもなる。神田山は広島築城の基線・阿武山の真南に位置している。祠は結構マジカルなポイントに鎮座されている。天守閣はキリスト教の天守からの名だというから、マジカルな気分があふれ出すのも仕方ない。正則公所属の信長・秀吉系列の施策はいまでも新さを感じる。

「愛知の神社」(愛知県郷土資料刊行会)という本を図書館で読んだのですが、その本によれば、
八剣社の御本宮は熱田神宮の別宮、八剣宮(草薙剣の模剣を祀ったのが起源)であり
そのことから、八剣社とは草薙剣と草薙剣にまつわる神々をお祭りする神社→日本武尊を祭神とする神社が多い
…ということになるようです。
八剣社は尾張に60社(そのうち40社は日本武尊を祀る)三河に21社もあるそうで、
尾張地域では実に、分社数が上から5番目…通りで多いわけです。  http://yutu.blog43.fc2.com/blog-entry-335.htmlより引用

毛利輝元の築城の際に行った吉田からの引越しのルートは吉田町の東の峠を越え向原へ出て三篠川沿いに下り、狩留家から馬木の峠越で温品に降りるといわれる。府中の南には海が迫っていた。西に横たわる尾長の尾根の先端は岩鼻と呼ばれる岩礁が海に洗われていた。温品からの毛利の引越便のルートと思われる大内越の峠道は大正のころまでただの小道だったと、矢賀郷土誌・山田隆夫にある。引越荷物はどう運ばれたのだろうか。

大内越に入らず南下する矢賀の尾根の麓の道周辺は毛利時代に直轄領となり、城の東の守護の目代が置かれていたという。引越のルートは大内越ではないようだ。では、尾根をどこで越えたのだろう。

福島正則の広島での末期の地図がある。

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府中から三つの橋を渡り矢賀で尾根を越え、今の光町にある我羅我羅橋跡、二葉の里に流れ込んでいた古川が地図では片河橋と記載されて、ガラガラはカタカワの読みが変わったのかと思われるが、そこを渡り、猿猴橋へのルートが記載されている。正則公設置の西国街道かと、思われる。

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となると福島正則の西国街道のルートは西から進むと猿猴橋から直線に尾根に登り、家臣であった可児才蔵の伝承がある才蔵寺・味噌地蔵が名高い前寺をすぎ、トップから急坂を下ると矢賀の古道に恵比寿の祠よこにでる。これが正則の西国街道なのだろうか。この峠を矢賀峠とも才蔵峠ともいうのだそうだ。

恵比寿からの急坂は旧市内屈指だろう。ヒルクライムでは、とても達成感のあるルートだけど、岩鼻の岩礁も細粉・撤去されマンションが林立してから、車が走ってることが多くて、車に尻に付かれると、こちらは遅すぎて申し訳なくなって、やめてしまうことになった。久しくいってない。市内屈指なのに、なぁ。

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正則公時代の地図から40年のち、浅野藩の時代になっていた1653年に洪水の災害が尾長、矢賀などで発生し、そのときの堤を修復した地図がある。

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古川(片河)は埋め立てられ、海に一斉に新開という干拓地が生まれている。岩鼻はまだ海で、岬の先端に岩礁が書かれる。まだ岩鼻、いま矢賀のJR芸備線をアンダーパスで道がぬける場所に堤の記載がみえる。

尾長の尾根を回ることができるようになっている。この堤が峠下の恵比寿の祠へと結ぶ。矢賀土手道と呼ばれた。

修復された矢賀土手道は1663年に作成された浅野藩の地誌・芸藩通史の矢賀村の地図に記載され、岩鼻から府中の土橋(いまの府中大橋のすこし上流にあった)へ直線の道が記載されている。1633年に幕府が各藩に幹線道の整備が命じられ検分使が派遣されている。この整備で作られたといわれるが、街道松が見える。コウノトリがこの街道の松に営巣したとの記事が残っている。兵庫・豊岡のコウノトリたちは三次市三良坂のダムに現われている。広島に現われるのを待っている。早よ、こいヨ!。

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江戸期1825年改訂版の芸藩通史にある城北の図は広島駅周辺地図。そこに古川村が書き込まれている。今の天神川は古川と大須新開の干拓の排水路をいっているのかもしれない。府中大川への排水口の水たまりあたりに南蛮樋門の記載がある。

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これらの堤防道を推定でだが、たどってみた。「オタク、だなー」が感想でした。


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# by forumhiroshima | 2017-10-03 10:20

ストリートストーリィ 二葉山・牛田山あたり

ストリート・ストーリー  二葉山・牛田山あたり

「関ヶ原の敗北で一朝にして没落した。幕府によってわずか防長ニ州に閉じ込められ、・・・“城も山陽道は好ましくない”といわれ日本海岸へ追いやられた。・・・持ち高を四分の一に減らされたため、家臣の員数を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についてゆくと泣き叫び・・・広島から萩へとつづく街道は、家財道具を運ぶも人のむれで混雑し、・・・どの家臣も、食えぬほどにまで家禄をへらされた。 歴史を紀行する・司馬遼太郎」

広島へ入城してきた福島正則は尾張・清州の20万石、毛利輝元は120万石、その家臣の数の違いもその石高ほどちがっていただろう。福島家家臣数は14766人と詳しく広島市史にあったが、毛利家の家臣数は分からない。毛利が去った城下はひどく殺風景なまばらな街並みではなかったのではないだろうか。寺院や屋敷は解体され運び去られていただろう。

宮本常一が古里・周防大島の実家付近の庄屋で毛利家元家臣で帯刀を許されていた家の老人が、竹光の刀を腰にさして畑で鍬をふっていたと書き残している。広島退城から400年の景色があった。

「江戸時代の武士たちは拝領屋敷というのに住み、諸国の江戸詰めの藩士たちはそれぞれ各藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷などに住んでいた。こうした屋敷は幕府によって与えられたものだからいわば官舎のようなものである。 東京の地霊 鈴木博之

幕府の滅亡とともに、武士たちはその屋敷を出て国元へ帰されたのであり、旗本たちの多くも、将軍が新しく一大名となって住むことになった静岡へと下っていった。

こうして主を失った武家屋敷は明治政府によって没収されてゆく。これが“上地・ジョウチ”である。これらの土地が新しく再配分されてゆくことになるが、それまでそこら中が“原っぱ”であった。 鈴木博之 東京の地霊」

関ケ原ののち、広島城下そこら中が“原っぱ”の地に福島正則は「家中侍町を縮小させ、町人町の占める割合を拡大する方向をとり、二葉山・牛田山の山麓を通っていたルートを城下町に引き入れ東西に貫通させた。図説広島市史」

福島正則は尾張・清州から船で入城している。ここでは軍を陸路で動かせない!とでも先ずおもったのだろうか。毛利氏の水軍たちは防府へ集結して、福島正則の海の制覇の手段はなかった。

「二葉山・牛田山の山麓を通っていたルート」とは?

古代官道は都から長い道のりで西条町、府中町と安芸の国に入る。古代平安以降の国府があったといわれる古代の安芸国の首都・府中町から中山峠越えで戸坂へ抜け、沼田川河畔を上り五日市へ抜けていた。府中町でその官道から分岐して二葉山や牛田へ、つながる道があり毛利築城以前にこの海岸線を支配していた武田氏へ山口から大内氏がこの道で東から侵入している。府中町の武田氏家臣の白井氏支配のための進軍ルートに尾長の尾根を越える大内越と大内の名を残した峠がある。「戦い」「越え」の地名に源義経のヒヨドリ越を連想していた。厳しい登りか?と。

大内越の西側からの登りは 瀬戸内高校を右にすぎて、左にフェンスでかこまれた山根町第二公園の北の三叉路を左にはいる。どこか古道の趣に引き込まれる。進むと三叉路の分岐に、中央の細い路地へ入る。この道は表道のバスやこの峠にある斎場への車の車列を避けられる。「越え」とは言えない緩やかな登り道だ。斎場のある場所は元の旧陸軍演習場だった。

東からの登り中間でフラットになる。ここに池があった。埋め立てられ住宅が建て込んできている。「ここは沼だったのですよ 虫しぐれ」先日のNHK俳句で聞いた歌。そうそう数年前までは草っぱらで、きっと“虫時雨”が聞こえただろう。

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「道」という漢字は敗者の首を掲げ行進し、邪霊を払う場所のことという。「路」は邪霊が払われ清められた場所だという。古代から幹線道路は軍が移動し、支配するためにあった。大内進軍の馬の蹄鉄の音や明治帝国陸軍の軍靴の足音が響いた「ころ」を思う。が、ここの路地には狭い、がかくれんぼの遊びのような興奮があって、うれしい。

大正14年版の地図に大内越の西に東練兵場が広がり、その中央に尾長天満宮の長い参道がみえる。練兵場を別けるような立派なその参道に驚く。二葉山に参道がかかるとそばに谷沿いに破線で示されたルートがある。ルートが尾根を越えると九十九に下る。

今、破線が車道になった道で尾根を越える住宅地をぬけて市民農園の畑にでる。ここに掲げられた標識でこの道が「天神通」と呼ぶことをしった。この市民菜園は菅原道真宿舎地伝承の清水屋敷跡でここの石清水井戸から川向うの縮景園にパイプで水を送ったと説明板がある。小さなポンプがその井戸だとある。ここに古山陽道で通ったと掲示されている。 菅原道真と弘法大師の伝承は古道とどこも結びつく。都の風、新しい文化も道を流れくる。

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この天神通は天神さまには申し訳ないが、走るにはあまり面白くない!。細い急坂の車道を住宅が覆い被る暗さと湿気が体を固くする。尾長から牛田と古集落を結び、府中と祇園という古い中心地に延びる古道が二葉山を割って超えるのは、二葉山の西端の饒津神社の先は猿猴川に洗われて通るには安定していなかったからだろうか。今も饒津神社の東の小道を登るとグラウンドのフェンス横から下りに入り桜土手にでる。川沿いを避ける小さな地元の抜け道の様子だ。

猿猴川はここ饒津神社で分流し、二葉山南山麓に古川という分流をつくっていたといわれる。明治には古川村という集落もあった。広島駅になったあたりになる。二葉山の南山麓の古風景は砂州を示す大須賀、大洲、その上に生える松原などの地名でしか知り得ないのだが、これら川原に関わる地名たちが、その地が埋め立てられ今フラットな地面に変貌したのだと自転車は教えてくる。

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「信長の苦心などは、こんにちの交通条件の上を走っているかぎりは、まことに実感をうしなう。 街道をゆく9」とは播州攻略に苦心した信長に贈られた司馬遼太郎の言葉だが、今の道々にも、どこかに自転車のハンドルから伝わってくる、昔の苦心を見つけることがある。

砂州が広がり芦原であったろう東西3kmは、元寇以来のロシアのアジア進出、外来勢力の襲来の恐怖の時に、海と山に守られ北方から首都から遠くなる穏やかな土地に兵士が集められ、大急ぎで首都からの鉄道が引き込まれ仮の首都となった。

今、高速道路の連結道路トンネルが掘られ、高速鉄道、列車、市電、バスを集結させようとしている。交通の要所とは、大阪梅田がそうであるように、埋立(ウメタ)された場所にうまれるのだろう、と二葉山山麓の歴史の道をながしてみた。大内越の西の取りつきから瀬戸内高校を左にみて江戸期西国街道・大内越通りで愛宕の踏切へむかった。

福島正則の西国街道は、尾長の尾根の西端から砂州に土盛して畷とよばれる直線道としてつくられている。それを府中と牛田とをつなぐ天神道に連結させて城下へ引きこまれた。その直線の人工さが、信号や踏切や新しい幹線道路に分断されていても、ハンドルから伝わってくる。

司馬さんに自転車乗らせたかった、なぁ。福島正則の苦心が路面から伝わってきます。


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# by forumhiroshima | 2017-09-22 09:39

8.6 2017

原爆ドームと慰霊碑のラインを地図に落としてみた。広島城築城のおける町割りのライン、天守閣と阿武山の連結線に平行に北へ延びると、阿武山に至ることに気づいた。天守閣からのラインは国土地理院1/25000の示す山頂よりわずかに北東へずれている。ドームからのラインは正に山頂に到達する。阿武山のピークの400年前は違っているかもしれない。だからこの二つのラインはパラレルにある。と決める。つまり、天守閣の建築の南北-東西の設計線は平和記念公園の慰霊碑、資料館及び東館、会議場とまったくパラレルだということになる。

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この結果にはすこし引いてしまった。そして笑った。参った。ありえん。いや、まさに広島を背負っているラインだ!(極北をいだかない基本ラインがあっても、いいか!。と妥協したくなる)丹下健三が認定した基軸ラインなのだから、と。

丹下神が降臨する。すると公園の道路が気になりだす。

ドームのラインの基点の資料館ピロティから、左右へ二本のラインが中心線に対象に北上する。ラインは慰霊碑よこから道となって現れ、左は相生橋の連結部に届かず手前の道路に。右は元安橋の西端に届かず、手前の川岸道に合流する。道路としては、すこしおかしいと思う。設計としては、道は橋へ直接連結する、その合理性が見られない。何か?ある。この設計では人々は必ず直接に連結する踏み跡をつくろうとする。

左のラインは南北に設計されていて、東経132.4522の子午線となっている。右のラインが広島城の陸軍大本営跡へ向かっている。

ドーム中心軸ラインに左右対称に引かれたラインが一つは南北の子午線で、一つは明治の広島の中核へと通る。その起点は資料館の中心にある。

設計に子午線、ドーム、広島城を左右対称にした意図ではできない。基点を通る子午線と原爆ドームラインはたやすく決められる。が、原爆ドームのライン中心に子午線と左右対称に引かれるラインが広島城の中心点に通るのは偶然でしかない。三つの要素は公園の設計以前にある要素だからだ。なのに一つの秩序で完成させられている。宇宙の調和を形成している。無理なのにできてしまう。奇跡とよぼうか。

資料館のピロティから慰霊碑に向かって狭まる台形に彫り込まれた芝生が美しい広場は小さな傾斜をもって慰霊碑へのまるで瀬戸内のガンギのような石段にむかって沈んでゆく。まるで海で沐浴潔斎しているようだ。その思いを慰霊碑を囲む水が強調する。

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慰霊碑の向こうのドームとの間に、厳島の弥山の消えず火をうつした炎が立ち上がりドームを陽炎のなかに揺らす。鈴木博之のいう厳島が再現される。


今資料館は工事の白いフェンスにかこまれて、そのピロティの眺望は遮られている。

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慰霊碑前の台形の広場の東西の道を地図上で南方向へ伸ばしてみた。

東は広島湾に円錐形に浮かぶ似島へ、西は江波山の元気象台へ到達する。

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1959年江波山の東の皿山のあった火薬庫の爆発事故があった。中学生だった。すぐに相生橋へ走った。まだ木々もまばらな平和公園の向こうに黒煙が上がっていた。そのころ広島の町は見通し良かった。

黒煙の景色を思い出して、丹下健三が公園設計の着想にこの地に立って眺めまわした風景に見通しできる山々へ、それもドーム中心線に左右対称に南下するラインが現れたのだろうか。


1949年(昭和24年)に制定された平和都市建設法による平和記念公園のエリアに原爆ドームは入っていなかった。


そのころ原爆ドームは台風が襲来の度ごとに、特に南のラセン階段あたりが崩れ落ちていた。子供たちの遊び場だったドームを囲んでいた、さびて切れている鉄条網の柵を撤去し鉄製フェンスが設置されたのは1960年代の初頭ではなかったか。それでも子供たちはフェンスをよじ登っていた。そののちの1966年に市議会が決議し原爆ドーム保全の寄付金募集がはじまった。被爆の記憶のドームの保存か否か、広島の人々の思いは揺れていたのだろう。


広島平和記念公園完成式のあった1954年昭和30年から11年目の保全決定。丹下健三の設計基本線のポイントの原爆ドームはすこしずつ崩れながら、それでも爆風に耐えたように被爆から21年を耐えていたことになる。丹下健三もドーム保全決定まで耐えていたのだろうか。イヤ、ドームは“ヒロシマ”を背負って立ち尽くすと予見していたのだろう。あの宇宙秩序を呼び込む北上するVライン、山を走る龍の風水の知恵を思い起こす南下する∧ライン、この奇跡とも思える着想は、のち、宮島とセットされた世界遺産として実現した、と美しく語るほかナイのだろうな。


ふと、丹下健三はドームが失われても、平和記念公園の基軸ラインは原爆ドームを人々にいつでも再現させるだろうと、確信していたのかもしれない、と思いだした。うしなわれたものほど、大きいのだと。


※この基軸ラインを平和道りとの直角になる交差で求めたといわれる。が米軍の原爆投下直前のS45.7の航空写真ではまだ百メートル道路とよばれた軍による強制立退きで計画された平和大道の基本線は現れてはいない。この道は空襲に際の防火帯として考えられたものだという。軍は平和道路などつくらない。防火効果のある広さはいるが、直線として管理するほどではないのだから。帯であって道ではない。いまも幾分曲線をもっていて、広島城下基軸ライン(大手通り)に直角に交差してはいない。自転車で東から西の山を目印に走ってみればわかる。

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この国は、中心の広場から同心円にまた放射線状に道が広がる町はお好きでないようだ。この円心状の道は町を囲み、放射状の道はその囲みの外の異界・周縁に切り込む。町は城壁で内向きに固定される。このような壁の区分は造られてすぐに伏見城へ解体された京都・聚楽第の土手のほかまだ見ていない。

部屋を障子やドアで区分していても開けば一体化する生活のように、いくつもの多様なものがつらなって、それらの一つ一つの障子をあけて尋ねるように、道は開放されて家と道との区別を失い“庭”となってしまう。路地は花壇となる。

この国の旅の一つに三十三か所、八十八か所、百景、と個別だが連なりとして括ってしまう事がある。東海道五十三次のように「次ぎながら」旅は直線状につらなっている。聖地の巡礼が輪になって連結する旅となるのは、そこが辺地・ヘチ・遍路、この世と冥界との境界を回ることのためで、それゆえ無限に連結させる。地の果て“偏、辺”であるから直線は境界を越えられず、戻されるから連結するのだと、認識するからだろう。死をもってしか越えられない。円は空である。

広島と長崎の平和記念公園は平和都市建設法によって、その成立はつながっている、が個別である。この間を走ればそれは平和行進や巡礼とよばれるだろう。その旅は連なる町の障子を一つ一つ開きながら訪ねるものにしたい。その道は車に占有されず、人の道路であった江戸期山陽道や小倉からの長崎街道の古道を走るものになるほかないだろう。そこには、きっとその町の障子があるのだから。その旅の中で広島の基軸と尋ねた町の基軸との違いに広島を自分の中に再現出来るかもしれない。

201786の朝の公園は早朝から人の群れで埋まっていた。皆カジュアルな軽装で集まってくる。いつも、この日に、ここに、平和への一体感が生まれる。だれも平和を守ろうとしている。公園の木陰に置かれたTVのモニターからの黒い正装の声はいつものようにその人々の遥かに上をすべってきえる。ボーイスカウトの少年と、彼が配る片手いっぱいの献花用の束が朝日の中で輝いて、アットの間に人々に渡され、受け取る外国人たちに、仏たちのような微笑が口元にこぼれた。

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広島城天守閣の位置を見立てしたという己斐旭山と尾長山とのラインの中央公園に一つの慰霊碑がある。8.6早朝に訪れた。

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「爆心地から、南に向かってまっすぐ二里の海上にある島にいた挺身隊の少女が、放射能の閃光の一瞬後、ガラスの破片で片方の乳房をえぐり取られたという話を作品の中に描こうとしても、容易には描き得ない。」原爆にかかわる作品を残した大田洋子の碑だ。

悲惨さの繰り返しはもうたくさんだ!との自分の思いに、だからもっと伝えなきゃいけないのよ!との大田の声がかぶってくる。だから、あなたは・・・、ドームは立ちつくしているのよ。

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# by forumhiroshima | 2017-08-06 17:29

聖地創造

2世紀ごろに大陸からもたらされた鏡に刻まれた銘文は、紀元前2世紀ごろに成立した「淮南子」から引用されたものが多いという。(鏡が語る古代史・岡村 秀典)

「円なる天を頭に戴き、方なる地を踏み、正しく東西南北の方向を体すれば、内は身を治め、外には人を得、天下に号令してみなその風に従わせることができる。淮南子・本経訓」の

意味が銘文される。卑弥呼由来の渡来の百の鏡にもこの言葉の意味が刻まれている。

この国の古代からの統治者たちが従った、極北方位への理解が広島城築城における町割りの都市設計にそぐわないこと。それ故に、この町に正しく東西する、春分・秋分の冥土信仰が土地に刻まれてないこと。が不思議だった。西国の王者の毛利輝元が望み、下って明治の緊急であったとしても首都とされたこの町に、・・・である。

「広島というところは、死んだ人のゆくところであったようだ。人が死ぬと“あの爺さんは広島へたばこを買いにいったげな”と噂するものがあった。広島という土地は一つの幻想の世界だったのである。宮本常一・私の日本地図」宮本の故郷・周防大島での話。

「広島へ煙草買ひに行くというのは、伊予の内海側では“死ぬ”という代わりに使われる忌み言葉になっている 柳田国男・夏山雑談」

伊予の内海側の町・今治の旧制中学を1930年に卒業し、広島の旧制高校・広島高校(現広島大学)の図書館で閲覧した海外建築雑誌に掲載されていた、ル・コルビュジェに傾倒し建築家を志望すると決めた青年がいた。東京帝国大学の工学部建築学科大学院を1946年卒業ののち、平和記念都市建設法の1949年成立に際して行われた広島平和記念公園設計コンペでル・コルビュジェが提唱したピロティ(独立柱)で二階に持ち上げられた広島平和記念資料館の設計などに評価をうけ、入賞し1954年にその設計による公園は完成した。

(ドームの北側そばに暮らしていて、小学二年生のころの1954年、公園の北の位置に大きな木製の卒塔婆なのか、建ててあり、そこはいつも線香の煙が立ち昇っている場所だった。たしか、そのころの8/6の慰霊祭の会場だった。慈仙寺という寺があった場所で、いまは無縁の遺骨が収められた原爆供養塔になった。細い立木がバラバラと植えられている周囲の町並みとは別格の景色の公園だった。むき出しのコンクリート壁の建物はどこか廃墟におもえた。)

このコンペの作品は1951年のNO8近代建築国際会議・CIAMで発表され、日本建築学会の戦後世界へのデビュー作品となり、戦後の日本建築設計の世界への出発点となった。(鈴木博之)

こう紹介する鈴木博之は1945年生まれ、東大建築科の教授(2014年歿)。かれの著作・日本の地霊・聖地創造で「丹下健三の広島」と題して“彼の平和記念公園”を紹介している。

「平和記念公園の中心である原爆慰霊碑は、HPシェルという数学的な曲線でできている。HPシェルとは放物線を双曲線に沿って移動してできるカーブである。・・・考えてみればこうしたかたちの碑というのも変なものである。屋根のようなかたちを採用しているから中空のトンネル型をしている。向こう側にぬけるような記念碑というのは、あまり例がない。意図的にこうしたかたちを選んだとしか考えられない形態なのだ。・・・祈りのために集まった人々は、このHPシェルのトンネルを通してその先に建っている原爆ドームを見ることになる。すべての焦点は原爆ドームなのであり、そこに向かって計画は周到に練り上げられている。 日本の地霊・聖地創造」

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「広島平和記念公園の計画は原爆ドームをすべての中心に置き、この一種聖性を帯びた廃墟に捧げられた場所を造り出すための計画なのである。日本の地霊・聖地創造」

※ドームの聖性(原爆ドームとよばれる廃墟は、鉄骨の骨組みの上に銅板で葺かれたドームが原爆の熱線で溶け、鉄骨がむき出しになり、続いて襲った原爆の衝撃波は、隙間だらけになった鉄骨の間を通り抜けて、下の床や窓を吹き飛ばした。この理由で衝撃波に破壊され跡かたなく消え去ることを免れた)この存在の奇跡を“聖性”といっている。

「原爆ドームをピロティの反対側からも印象的に眺められるようにし、原爆ドームと慰霊碑を結ぶ軸線を建物に遮られることなく延長させ、通過させる。こうした場所のデザインは、ただちに厳島神社の境内配置を想起させる。日本の地霊・聖地創造」

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「神社が島を避けて海上に設けられたため、その構成は地形によって制約されることがなく、じつに整然としたものになった。基本的に左右対称の構成をもつ建築物配置がなされ、中央に海上の鳥居から神の山にいたる軸線がまっすぐに通る

こうした構成が広島平和記念公園の計画に影を落としていることは明らかであろう。原爆ドームから慰霊碑を経て平和記念資料館のピロティの間を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線とまったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島全体を背負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い そのドームはさらに広島の町全体を負っているのである。日本の地霊・聖地創造」「慰霊碑のモニュメントは水を張った掘割のようなものによって囲われている。・・・厳島神社の大鳥居が海上に立てられていることを想起させるものでもあるのだ。日本の地霊・聖地創造」


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# by forumhiroshima | 2017-08-05 18:12

広島・阿武山の貴船の神

広島城下の町の風水による設計基本ラインは太田川の河畔の山・阿武山を基点としている。(曽我 とも子)

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広島城天守閣に登ってみた。最上階の北方面の景色の写真が掲げてあった。

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天守閣から阿武山への設計基本ラインが河畔に出る場所を地図で確認すると北大橋東詰。ここなら阿武山が展望できる。ここへ走った。広い河の岸辺の向こうに円錐形に天守閣の写真と同じ阿武山あった。GoogleMap、地理院地図よりも裸眼の景色は、なにかに誘ってくれる。阿武山、この山になにか特別な何かがある、 。

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阿武山の南の尾根のピーク・権現山山麓に武田信玄の守護神・毘沙門天が祀られている。銀山城の武田氏の鬼門の神としても置かれたという。甲斐の武田には金山衆とよばれる山師集団があった。“風林火山”の騎馬軍団を支えたのが「武田の金山」という。軍隊には金がかかる。甲斐の武田にはそのための特別な技術者集団・金山衆とよばれる山師たちがいた。江戸幕府は彼らを佐渡金山、石見銀山開発に携わせている。採掘量は飛躍的に増大した。(山師 松本清張)。

ここ阿武山には金ならぬ銅鉱山があった。毘沙門天が鎮座するもう一つの訳か?しれない。

阿武山頂には貴船神社が鎮座している。京都、三原、広島と都市設計の基本ライン上に貴船神が現れる。阿武山の貴船神社は巨石を組んでつくられた祠で、古墳の石棺を思わせる。

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阿武山の土石流災害のあと、祠の上部の巨石が落ちていることが知られた。20148月の土石流災害の雨量の凄さは8月に入って災害発生の18日まで平年の3倍といわれることが、実態の恐ろしさを写真で実感できる。(以前の祠はGoogleMapでみられるが、落ちた写真はMy Fabarite HobbyさんのHPにあった。)

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「鳴」の地名が阿武山の北の山麓、河畔の太田川漁協のレンガの事務所の対岸にある。そこそばの谷を登った頂上のピークの小山が犬戻鳴山と呼ばれる。この谷が20148月に大崩落をおこした。ほかに66か所、全山の谷が崩壊している。犬戻鳴山の崩壊現場のピークから阿武山頂にかけて鉱山採掘が行われた廃坑道が残されている。この災害の調査報告に、これらの廃坑にたまった水を豪雨がさらに押し込んで、地下水を圧迫して谷斜面に噴出させ崩壊の発生原因の引き金であったと報告している。

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犬戻の名は、急坂をいう「戻り」(出雲に駒戻峠がある)。「鳴」は、貴船神社の祭神は高龗神・タカオカミはカミナリ様だ。鳴神もカミナリ様。和歌山の紀ノ川河口にこの名がある。「八木」には地名は海人の匂いがあるという。

では「犬」とは?

空海の高野山に道場開設を許した土地神の狩場明神は白黒の犬を連れてあらわれている。山伏たちは鉱山師でもある。黄銅鉱の結晶に銅牙石があって、小さな双六のサイコロに似ている。この石を子犬丸とも呼び、武石ともいう。(谷川健一)。

「犬とは、鉄を求めて山野を跋渉する一群の人々の呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。 真弓常忠 古代の鉄と神々」

極めつけは、“花咲か爺さん”の裏の畑のポチが発見した小判の話がある。

この山に大蛇伝承がある。龍がまるで狂ったように暴れた山に、大蛇が潜んでいると人々は昔から話していた。

大蛇が人里に下り害を与える。その大蛇を祇園・銀山城の武田氏の家臣、香川勝男が退治した。切り刻まれた頭が山頂に胴体は中腹に尾っぽは地元の池に葬られた。山頂の貴船神社の岩の祠のような祠が中腹にもあった。今も池は残されている。「蛇王池物語」といわれる1。土石流の災害を、“谷抜け”とか“蛇抜け”という。

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龍がいた伝承はお城の南の白神神社横の愛宕池にもあった。

自分は神社の近くの袋町小学校へ通っていた。原爆ドームの北にあった家からの通学路は本通り商店街を抜けていたので、白神社へは、神社のお祭りにやってくる芝居小屋の昼間の建設作業を見に行ったりするぐらいで、あまり近寄らなかった。というのは、ここの池に蛇がいると、子供たちは噂していて、軟弱な自分には怖い処だった。

今、空になっている池のそばに教育委員会の説明板には、池の岩に彫られた龍が満潮時に遊泳とある。この彫られた龍を探したが、見つけてはいない。ちょっと怖いからか。

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「聚水」水の流れが集まれば、そこで龍の勢いがしっかり止まり、気がもれることはない。また潮水の来し方により波頭が高く白くなるのは龍勢がつよい (風水講義 三浦圀雄)

阿武山は太田川、根の谷川、三篠川を集めとどめる「聚水」の場所。白神社は城下建設時の渚だった。岩に白い紙をはって海難事故を防ぐという神社の所在が、霧の海ではどうなん?って思ってました。

太田川河口への築城の“安心・安全”に“龍”を機嫌よくすごして頂く、主人公の位置に置くということで、阿武山-天守閣を基本線としたのだろうか。


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# by forumhiroshima | 2017-07-24 14:25

貴船の神も、鍛冶の神も

「宮廷を中心とした祖先の一族がこの土地に住みつく前から、この土地すんでいたもの、また後に渡ってきたものであろう、すなわち、海部であった。彼らは蕃人(先住民)で、祖先(大和人)たちと非常に関係が深かった。宮廷と隣接して生活していたからである。 折口信夫 」

「海部は、安曇連の支配のもとで朝廷に海産物を貢能した集団で、・・・ 河岡武春 海の民」

“貢”はみつぎで三原の土地の郡名、御調になる。御調の名は朝廷に奉仕した古代の人たちにつながる。

自転車で訪れた地に、ここに最初に現れたパイオニアの人々の痕跡を探がそうとする。自分の足でここまでたどってきたという高揚感を、きっとパオイオニアたちに重ねて「大変だったね」と彼らにも、そして自分にも語り掛けるナルシストでしかないのだろうが。精神科医は“ナルシズム”をパーソナリティー障害と呼ぶらしい。ホット、イ、て。


三原の海に「浮鯛妙」という古文書を持ち歩く漁民らがいた。その古文書は、八幡宮の祭神・神功皇后がこの海を通過中に多くの鯛が船そばに寄ってきて、そこへ皇后が酒を注ぐと鯛は酔って浮いてしまった。その魚を漁民が網で上げて献上した。皇后は喜ばれて“この浦の海人に永く日本中の漁場を許す”と文書にして下され古代から伝えられた「浮鯛妙」。国の境を超えられる通行手形を彼らはいつも船に置いていた。瀬戸内海ばかりか、長崎・大分・対馬まで枝村をつくった。そんな彼ら自身の出目は紀伊の国と伝承している(河岡武春 海の民)。

奈良時代末期ここ御調八幡宮そばに流された和気広虫姫が斎戒沐浴した清流の源流の谷を詰めて龍王山へ登るコースは、中国自然歩道として整備されている。

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このルートに御調八幡宮の奥宮として貴船神社がある。あの京都の水を差配する神、風水の神がここに鎮座している。
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よしだっち.com HPにその写真が掲載されている。筆影山遠望でしっかり見えている写真もある。

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貴船神社は木船とか紀船と書く神社もある。この神社に最も強い印象があったのは、九州の豊前から豊後・宇佐の中津平野でだった。田園に多数点在する小さいが立派なとても古びた本殿の神社の多くに貴船の神額が掲げられていた。行くとこ、ゆくとこが“貴船”さん、だった。


古代に西九州からの租税を積んだ船はいったん瀬戸内海を西へ向かい、大宰府にあつめられた租税とも合わせて瀬戸内海を東進し、飛鳥の朝廷へ紀ノ川をさかのぼって運ばれた。三原の市街地の東端の糸崎神社あたりが古代の重要な港であった長井の浦があった。海人たちが古く集う港だった。


古代の摂津・川尻湊(尼崎)に貴船の神がここに上陸したという貴布禰神社が二つある。第二阪神国道高架下のほこりっぽい分家とその北の旧市街の民家の間に沈んで建っている本家。分家の社殿のほうが立派でお殿様が建てたとあった。


貴船(貴布禰)神は豊前から瀬戸内海を東へここにいったん上陸。和気清麻呂が摂津国の長官時代、長岡京遷都に際して開削した神崎川(三国川)を上ったという。のち京都・鴨川をのぼり鞍馬山の西、貴船山の東の谷に鎮座した。京・貴船神社の神は“黄船”に乗ってきたと由緒にある。神を運んだ海人たちは、紀の人だったろうか。貴船の神は船に祭る船玉の神にもなる。


瀬戸内海の古代航路は本州沿岸よりの北航路と四国沿岸の南航路があった。二つの航路は周防の祝島のある熊毛浦で合流する。ここから西の航路には「島が少なく、逆風漲浪に遭遇する。・・・紀氏たちは周防・玖珂、佐波と豊前・上毛、下毛に濃く分布する。 古代政治研究・岸俊男」・・・だから中津平野の貴船神社群なのか?ただ周防は賀茂社が多い様子。

歴史はまあ、いろいろあるし・・・。と、シまらないな。


備後・府中からほぼ直線に西へ。御調八幡から、急坂を下ると現れる仏通寺(今も若い修行僧が掃除している)に出会う。吉備台地の西端を下り終えた沼田川河畔の本郷へと古代西国道ルートが走っている(西国道は西の高坂パーキンエリアから下るともいう)。この西国とは九州のこと、鎮西・大宰府への道。本郷の町で沼田川にでる。この辺りを舟木という。小早川氏の山城が新旧小高い山にある。小早川在城のころは海岸線だという。のち小早川氏はここをでて、三原城にうつる。

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「 クスというのは“奇し・クシ”からきたことばだろう。この常緑樹は、何百年の苔にまみれた老樹であっても、季節になればさかんに若葉を吹きだす。それも、あふれるようにである。その若葉がまことに奇しい。・・・さらには、根と幹や枝、葉にいたるまで樟脳をふくみ、それが木にとって虫よけになっているのも奇しい。古代人にとって、丸木舟の財だったのである。 司馬遼太郎 紀ノ川流域・街道をゆく32

司馬遼太郎が和歌山市の日前神社の森を訪れた時の情景。


舟木の入手場所が造船所だろう。

三原・糸崎の長井浦を出て東へ進むと古代の港は鞆の浦になる。ここにある天目一箇神社の神は鍛冶屋の神・製鉄の神という。それも砂鉄でなく岩鉄・鉄鉱石の溶解製鉄の神だという。この神は三原からやってきたと由来にあった。

御調八幡宮から西へ進んで右手に垣内郵便局を見る田園の左の山陽道の高架の工事の調査から、弥生とも(確定されていない)いわれる小丸製鉄遺跡が見つかっている。古墳時代以前の製鉄遺跡はまだなく、朝鮮半島からの鉄の輸入以外の国産の鉄はないとされているから“弥生とも?”になる。

半島からの技術者の渡来は、外洋の航海を経験している紀ノ國の海人の関わり他、考えにくい、という。

「船を作るには道具としての金属製の斧の類が必要であり、また釘も要求される。船材を切り出す仕事をつかさどる舟木氏と船大工たちの鉄の神である天目一箇神社は密接な関係をもっている。 谷川健一」


ここが、古代 最先端技術を持ち、古代西国道の水陸どちらにもコミットでいた、といえないだろうか。和気清麻呂の姉の逃亡先は、この最先端技術をもち豪族の家でなかったか。この豪族の財力が和気清麻呂の摂津の長官、平安京建設主任の要職についている。

御調八幡は”宮”で神社であるこのステータスの謎は、ここらに。


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# by forumhiroshima | 2017-07-15 12:10


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