こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

広島、本川開削運河説

八丁堀、福屋の西、中の棚の入口の地面に平田屋川のここに流れていたという証のプレートが埋め込まれている。

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「平田屋」は広島城とその城下の普請に関わった人物で出雲の商人・平田屋惣右衛門の屋号をいう。広島城普請に雲州から招かれたという重要人物。彼が主軸を東に傾げる町の設計者なのだろうか。

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中公新書で2005年に「古代出雲への旅・関和彦」が出版され、出雲国風土記の世界に引き込まれた。江戸末期に風土記をもって記載される神社を訪ねる旅した平田の商家の主人の日記を今にトレースする旅が紹介するルートを自転車でトレースした。とても楽しかった。

日記をのこした小村和四郎の祖先・小村長政(近江商人)が近江・米原から1313年に出雲大社に参詣したおり「沢沼荒野の開墾を決意し、一族で開拓した。 古代出雲への旅」と伝わる。(石川 良一島根建築士会)

和四郎は旅立ちに袋町にあった自宅をでて氏神の熊野神社に参拝し出立した。和四郎の祖先が和歌山・熊野から1394年に勧請したと伝えられている和四郎の日記にある。が、風土記を調べる風潮が江戸末期に盛んになり、明治5年政府によって、出雲風土記記載の“宇美神社”とされた。神社創建の歴史は650年以上も古くなった。

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1588年にこの神社は改築されている。その棟札が残っていて、小村氏の名と共に平田屋惣右衛門が掲げられている。

惣右衛門は尼子氏がここを支配した時代に佐渡と名乗っていた。この開発・開拓により新田を“平田”と名付け「平田」を名乗った。(県立広島大学・神山伸隆)

「斐伊川河口部に発達した平田では“平田衆”と呼ばれた町衆がその町づくりを担ったこともあって、その筆頭の平田屋佐渡守は・・・中世の港町・浜田市教育委員会」

尼子氏滅亡ののち、平田は毛利氏吉川広家の所領となり1588年佐渡守は惣右衛門と名を改め平田の代官を務める。惣右衛門は毛利氏の“御蔵本・年貢米の管理をする特権商人”となっており、吉川広家は広島城の普請には広島堀川普請の責任者となっている。吉川氏に請われた惣右衛門は城普請・町割などに工・タクミであったからで、このことにもっぱらに従事させられた。(秋山 伸隆)。


平田の町は複雑に川と道が交差している。古い町並みに新しい道路が侵入している。平田は「市制」であったがいま出雲市に編入し平田町になった。道には動脈と静脈があって、酸素を運んでくれるか、取り去ってしまうか。が山陰の曇りがちな重い空でなく、それに負けない空が広い。川は澱んでしまったが、嫌いじゃない。それに広い開放してくれる湯船の温泉がある。

宇美神社が鎮座し木綿街道のある川に囲まれた船泊そばに木綿の集積地をつくり、平田の古い町並みを囲む川の流れの島になった。おなじ景色が広島にもあった?ような。

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「建築に際して、西搭川、平田屋川の2本の水路が開削され、その後流川などの水路も開削された。城の南西に位置する本川は毛利期の絵図では直線で描かれ、水路として掘削され、流量が多いため現在では河川となったと考えられる。 水路に見る近世都市 広島大学、工学部、山田辰猪・杉本俊多・2009年」

「これらの水路は、船を城下まで引き込むためにすべて城下町の長辺(海へ)方向に掘削されており、それらを結ぶ短辺方向の水路は掘削されていない。」

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子供の頃、こんな都市伝説を聞いていた。“繁華街は中島(いまの平和公園)から東へ移って行って、広島駅までゆくのだ。”だれが言っていたか、わからないが、本通りそばの袋町小学校に通っていたから、強い印象で残っている。

広島城の建築資材の多くは中島に筏で運ばれたという。集荷場としてスタートした場はのち材木町とよばれた。この周辺に商人町が生まれ、賑わいが産業奨励館・原爆ドームが、だからここに造られた???です。戦前中島がこの町一番の賑わいの町であったようだ。

そのころ物資は人か船で運ばれた。この条件が船の係留地・中島に城普請で出来上がった中心地として、太田川を西瀬戸内海を幹線ラインの焦点に成長させ、五ケ庄の寒村を“広島”に成長させた。


築城から十数年のち、堀川の流れが中島の南の海岸線の西端に砂州を伸ばした場所がうまれ、その内側にできた内海・ウチウミが船泊に利用されだし、砂州に住吉の神が勧請された。堀川は岸を削り、川幅を広げた。堀川からほんとの川、本川へ呼び名もかわった、というのはオレの妄想です。本川が幹線ラインであったころ、そのころを捕まえて住吉神社が今踏ん張っているようです。

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ところで、平田屋惣右衛門さんの設計プランの主軸線は東へ傾いでいるのだろうか。

宇美神社の真北に極楽寺、その北の小山に消防神社とラインが引ける。消防、火消しは愛宕神社だったのでは。愛宕は鎮火の神様ですから。平田の町の主軸は真南北です。

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相生橋南詰から平和大道までキッチリ500mの大型バスの駐車場にされるほこりっぽい直線道は、ダタモノではないのかも。なのか言いたげなのだが。


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# by forumhiroshima | 2017-05-07 15:04

広島、都城の設計

8世紀、今の大阪は淀川と大和川の氾濫原で、幾つもの三角州がみられる湿地帯だったという。梅田は埋め田で干拓地の名残の地名という。この氾濫原に古代二つの国名、河内国と摂津国がある。その国の境は税金を取る場所かどうか、で決められていた。

三角州が海の干満に現れたり、沈んだりする場所を汀線・渚というが、そこに生える芦の地帯の上部になる乾いた砂場に農耕が行われだすと、納税の対象となり河内国に併合される。摂津は港のことである津を摂・執り行うエリアを示すこと。洪水の度に新しい土地が誕生していた氾濫原は、神の創造の地と人々は感じていたのか、大阪城の南にある生国魂神社は生國足國イククニタルクニ、八十島ヤソシマの神で難波総社といわれる。生まれたばかりの土地、芦・アシの生える土地を創造する神に思える。自然の営みへの敬意がみえる。この神社は神武天皇の上陸地だとの国家創設の基点の伝承をもっている。太田川河口の景色もおなじような八十島の地であった。

納税地ではないが、なかなか使えない所有不明な場所を五家荘と呼んだと柳田国男は語っている。広島城はそのような、五家荘(五ケ浦)の地に設計された。

五家荘と呼ばれていた三角州に、広島の町を造る設計作業の基点が広島城天守閣の位置にある、と思える。

古代最初の国家は大阪の氾濫原を離れて、東の奈良盆地の南隅の飛鳥に藤原京として作られた。その都城はのち北上して平城京や平安京などになる。

京都の三条から東へR143で峠越しに込み合った住宅地の山科へ入ると天智天皇御陵の石柱を見つけた。4車線の込み合った国道と御陵参道の緑との対比が印象深い。もっと印象深いのはここから約60km南になる兄弟といわれる天武・持統天皇御陵と135.80分の子午線上にあるのだということだった。この1/100分の誤差もないラインは聖なるラインと呼ばれることもあるようだ。

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真北と真南を結ぶ子午線を古代の都城の設計者たちは重要視していて飛鳥から平安まで作られた都は真北を中心線にしている。磁石で測る磁北は各地で幾分か西へかたむく。広島では約7°西へかしいでいる。子午線は太陽と星、宇宙の運行により計測されたという。

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広島の都市構想は太田川の砂州の上にされた、その分自由な設計図が描かれただろう。その設計基準は天守閣の位置に向かってそのころの汀線であったいまの平和大道から引かれた、そのころの白神通り。紙屋町そごう前の紙屋町西電停からエディオン広島本店側へ延びる道、いまはホテルで視線は遮断されるが、天守閣がランドマークだった。西紙屋町電停の位置あたりに大手門への門が置かれていた。このラインは東へ15°程も傾いている。真北を設計ラインにしないことは、どうしたことだろうか。天守閣のポイントと何かを結ぶことで地表にラインが現れる。そのもう一つの基点をさがしてみる。

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広島の都市設計に三本のパラレルなラインがあったようで、西から広島城天守閣の南の大手町通りとよばれた道、紙屋町交差点から白神社前電停への電車道、西搭川であった道、そして東に広島城東堀だった八丁堀の南詰めの八丁堀福屋の西にある金座街の西側から並木通りへあった平田屋川を埋めた道になる。

浅野藩時代広島古図に挿絵で書かれた神社が三つあって、白神神社ともう一つは白島の碇神社、そして浅野藩のよって創建された二葉山の東照宮。白神社は西搭川の設計基点とすれば岩に張った白紙伝承も航行の目印というより、都市計画のマークとかんがえたほうが、汀線の内側になってそばには平地が出現していただろう岩礁の使い方にそうのじゃないだろうか。が、神社と天守閣のラインは基本ラインにならない。聖なるラインがあらわれてこない。設計図を現実に建設するとなると、極北を基準にすることは測定技術があれば進めやすいのではないのか?とおもったりする。

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古代都城の聖ラインは西へ0.4°傾く。150歩真北へ歩いて1歩横にすすむほど、(tan23‘≒1/500)の誤差。磁石では針が短いことで西偏を計算しても精度はでない。北極星は真北から古代には10°ちかく振れる。

その為太陽が最も短い日、夕刻・酉の時刻(午後6)、明け方・卯の時刻(午前6自)に垂直に立てた棒によってできる影をはかる。この測定を数か月後にまた観察し極北を導いた。(日本古代の位置と方位 宮原健吾、臼井正)

古代遺跡・ストーンサークルから導かれる冬至の日、手のひらの線が薄明りに浮かぶことで時が見つけられた「たそがれ」「かわたれ」時。古代人の時間が自分を包みだす。

子午線ラインが広島にもある。

厳島神社大鳥居の極北に極楽寺があり、南に大聖院が鎮座する。厳島神社の本殿の真南に弥山山頂がある。極楽寺は東大寺建立大僧正・行基創建と千手観音像制作の伝承がある。後日弥山で唐から帰国して弥山で修行した空海は行基の刻んだ観音の開眼法要をとりおこなったという。

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牛田・不動院も行基創建伝承があるが、行儀が制作した伝承の毘沙門天を祀っている毘沙門堂のある緑井・権現山が極北にあたる。初虎祭はとても賑やかですね。

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行基は和泉の国いまの堺市の生まれ、仁徳天皇陵古墳のそば、計測設計はお手の物の古墳建造者たちの子孫かもしれない。

子午線を山からを基点に、土地からに浮かび上がらせ神仏を、また祖先をそこに置く。変わることのない不滅の宇宙から引き込むライン。このラインをなぜ、新しい都城に毛利の人々は置かなかったのだろう。白神大手町東リ、西搭川、平田屋川、流川、薬研掘、美しくパラレルに海へ向かって開削されている。これほどの土木技術をもってして、何故に子午線を無視したのか。

聖なるラインなどと人々が語りだすと、正に「聖」なる行いとしてレジェントとなる。この人々の心を動かす宗教的な、また政治的なエネルギーを必要としない毛利という一族のそのわけをしりたい。


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# by forumhiroshima | 2017-05-02 18:25

コヒチロウの走り方-1 広島”の起点

桜ってほんとうに凄い。満開に、すっかり気分変わって、なんだか、オ、オレにも春がきた。

花は桜木、人は武士。それも悪くないが、素直に散りたくないナ。花は桜木、ウバ桜。ソメイヨシノは古木がいい。並木の桜より森がいい。それも姥たちがあつまってカシマシイのがすきだ。白島九軒町の河川敷の桜の森には姥たちが林立、お喋りに夢中に飛び込んだ。
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地面はホワイトピンクに染まっていた。ホワイトピンクの中に小さな祠が川にむかって鎮座している。1613年太田川氾濫で広島城に被害がうまれたその年にここに鎮座したとある。川面へ桜吹雪が乱れ散っている。
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神田橋を渡り西へ向かうとすぐに川を渡る水道管がある。水道管から車道の反対側に路地が牛田山へ向かっている。水道管が設置された小路のようだ。大きな交差点のスーパーの横に小路は伸びている。道が行き詰まると住宅の屋根の向こうにおおきな寺院がみつかる。そこ左に入って路地と石段にかわった路面から山肌の雑木林へ取りついた。右へは水道局貯水池へ向かっている。Google Mapで寺院奥に登山路の跡のようなラインがあったが、現地はブッシュで見つけられなかった。寺にもどって麓の住宅の道を西にとって、牛田総合公園へ向かった。そこに広島城誕生の神話の山がある。そこには寺院奥から取りつきたかった。寺と神話とが山でつながっていたりしても、解ることはないのだが。車道は車のための道。人はきつくても最短な距離のルートをさがす。

公園のおおきなトイレそばに小道が登っている。すぐに見立山記念碑が金網フェンスに囲まれてあらわれる。その奥に踏み跡程の登山道をたどると尾根のトップの展望所・といってもそこに景色の写真がおかれている、それだけ。展望はすばらしく、ビルの隙間に県立体育館前にチョコッと天守閣の頭がでている。その奥むこうに宮島がかすんでいる。海に小さな三角帽子がチョコット。津久根島らしい。ここへ天守閣の頭を通る視線がむかっている。弥山とはずれている、なぁ。
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中央公園の芝生のマウントが地図では天守閣と旭山八幡社とを結ぶラインが端を通っている。二葉山のトップのすこし下の金光稲荷社の奥宮とも結んでいる。
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毛利元就の孫、輝元は1589年2月20日地元の福島元長を案内に二葉山、新山(神田山尾根 見立山)、己斐松山(旭山八幡神社)に登り、築城を決し、4月15日築城鍬入れを行った(新修広島市史)。
己斐松山と二葉山、見立山と宮島・弥山をの二つのラインの交差点が広島城の設立地点とされた。実際に地図では、このラインの交点がピッタリ天守閣の位置になる。驚きました。神話を確認した。
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1555年の厳島合戦に勝利した翌年、毛利元就は太田川河口の五固村の砂州に堤を築いて開拓すれば、その地を納税や使役なしに所有できると、合戦に加わった家臣にいっている(新編広島市史)。合戦の前、毛利元就は己斐松山の八幡社に戦勝祈願におとずれている。朝の陽のなかの参拝であった事からそれからそこを旭山八幡社という。ここに古代の神話で神功皇后が半島への出征の前にここに立ち寄った時、地元の人から鯉を献上されたことを喜んだことで鯉村とされたが、のちに二字に代わり己斐となったという。広島城が鯉城なのはこの逸話によっている。城の縄張りの見極めの起点に元就との関係のある厳島と己斐松山の旭山八幡社が選ばれている。この神社は急坂でたどる小さな平地に鎮座している。元就が早朝戦勝祈願し、眼前にひろがる砂州の浮かぶ海を感じると、毛利元就の後ろに並んでいるような、じかんがある。船の代わりに自転車でその海へ漕ぎ出すとき、そう妄想する。

毛利元就は1557年隠居宣言をしている。隠居所は武田氏の銀山城と希望していたといわれ、吉田・郡山城の西にあった幼年時代に過ごした多治比城からの家臣と、安芸武田氏滅亡により残された五箇村の河内警護衆とよばれる人々に、ここの給地を与え元就の親衛隊としていた。かれらには元就の名の元が就の一字が与えられている。この地への元就の思いは強いようだ。1571年元就75歳で吉田・郡山城で死去。そのとき、まだ広島は出現していない。

輝元案内の福島元長は古代安芸国の在庁官人の家系、武田家家臣になり滅亡ののち毛利家に臣従した福島親長の娘婿で養子。五箇村の村長さんの様に思える。土地に詳しい人選だ。彼はわが土地に城が現れる!ことをどう受け止めていたのだろうか。マツダスタジアム30個分の建築物が出現するのだ。

輝元にも祖父元就の思いはしっかりと伝えられていたとおもえる。築城の奉行職に元就の四男の穂井田元清、妊娠している母とともに家臣に払い下げられたが、実子と元就も認めた二宮就辰が指名されている。元就の思いはこのあ二人には届いていたと感じる。毛利元就はここが好きだった、と。両人とも側室の子である。(三矢の教えの三兄弟は正室の子供である。)

神田橋から東へ川土手をゆき信号の三叉路を左に。ちいさな川がある。ここは桜土手とよばれてずっと昔に桜の並木があった。女学院大学へ向かう桜並木を伐採してできたバス通りをゆき、道が二股に別れたあたり、右の川向うに公園がある分岐へ入って東園団地へ向かう車道そばの市民菜園に出会う。ちいさな案内板がある。「天神石清水、またの名清水谷井戸」とあり手押しポンプがその清水らしい。1807年この清水は竹樋を通して縮景園まで引かれていた。猿猴川には木造の潜り樋がそこに埋設されていた。
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この水には鶴の傷口伝説があるという。江戸期京橋町にあった平野屋がこの水で醸造し藩へ酒を納めた。石清水に天神とついてよばれるのは菅原道真がここにたちより、この水を愛でた故事による。えらばれた水は神の存在を証明していた。
日清戦争に宇品に入る船への水の供給にこまった軍部はここに水道の施設をつくり、軍事施設への給水をはじめている。

浅野藩は二葉山中央に東照宮をつくり、西端に浅野藩主が祭神になる饒津神社、牛田山の西尾根に浅野藩墓所をつくっている。墓所のある新山の南麓、いまの水道局の中に神田神社を武田氏が勧請している。この神社は水道設置の際に宇品に移転された。
新山・シンヤマは神山であったと、考えたくもなる。神田神社も神の所在という神社だろう。神々があふれているようだ。命の水を生み出してくれる山々は神の所在地なのだ。

武田、毛利、浅野と日本史にラインナップされる武士たちの神へ、仏への加護の希求は細部に至っている。そんな景色がここにあるように思えた。
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# by forumhiroshima | 2017-04-18 11:45

庚申堂

先日、海田町から西国街道をたどって船越へはいった。狭い車道で、車に追われる。海田から府中へぬけるにはこの県道151をだれも選択する。狭くてもここが早いし、車には怖いものない。

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ずっと昔この県道は国道2号で、渋滞はすごかった。カープのプレーボールをラジオで聞いて、ゲームセットになっても、まだ広島駅には届いていない、そんな道だった。だから、自分の拒否反応がここにある。ここを走るとき、いそいで通り抜けようとして、疲れる。船越郵便局をすぎて、石灯籠が手招きする路地の次を右折して県道から離脱した。この先に路地の交差点があって、そこに、ちいさな空間があった。

飛鳥時代の奈良に八街と呼ばれ、いまもそう呼ばれる交差点は集まってくる道の幅より広い小さな空間があって、あと道が分散する。

「ヤチマタ」の響きが心に残っていて、入り込んだ路地に似た空間があると、古代の響きがそこにある、ようにおもってしまう。黄金山西麓の大河にもこの空間があって、そこで盆踊りが開催される。神と人の舞台に変貌する空間だ、と妄想する。

右折した古道が二股に分岐、そこに保育園のちびっ子たちがお散歩している。かれらの保育園は正専寺が運営するめぐみ園、船越の「ヤチマタ」のちょっと先にある。

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寺の保育園の門の向こうの石垣の間の路地から、いきなり原チャリがおばさんをのせて飛び出てきた。代わりにそこへ飛び込む。細い!バイク、ギリの幅の道。

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薄暗い空間に目がなれると、路地奥に祠がみえる。庚申堂とある。いろいろ路地にはいりこむが、この辺りでは初めてのお目見え。いや、広島周辺ではお目にかかってない。お堂の向こうにも古びた白壁の納屋らしき建物が歪んで、たっている。昭和を通り越して、明治いや江戸へ景色の時間がワープしてしまった。

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「自転車にのると、絶妙な距離で。地上からフワッと浮き上がることができる。ペダルをひと漕ぎすると、軽快に走り出し、まわりの景色は、どんどん後ろに流れてゆく。こうして自転車に乗った人は、歩いている人々の生態やまわりの景色を地上からすこし浮き上がった場所から、フワフワと浮遊する状態を保って、空中から傍観することができる。人は地上の生活から遊離した感覚を味わうことができる。完全に地上から離脱してしまうと、本物の死者になってしまう。ところが自転車にのることで、人は生きたまま「プチ離脱」を果たす快感を味わうのである。 中沢新一 大阪アースダイバー」

チベットで仏教修行してきた中沢先生は東京も自転車で走って、「アースダイバイー」を書き上げている。

ベトイナム戦で指揮をとったベトイナム・ホーチミンは、戦車や装甲車で現れる敵に、重機が入り込めない路地やトンネルで戦いを進めた。路地には、「アジール・現世からの待避所」に変貌する能力がある。アジールは、通常の距離感・支配を霧散させる、そんな場所。

納屋のマダラな灰色の壁の向こうからおばあさんの自転車が現れた。路地、けっこう繁栄している。おばあさん一瞬立ち止まった。が狭くて自転車の方向転換が面倒で、しかたなく向かってきた。そばまでくると、お互い知り合いのように、会釈し挨拶ができた。狭いってことは、何かを心に起こす。お互いを認めないことには、進めない。例え、誤解であっても。

大阪のミナミではこの距離感を「愛隣」と呼んでいた。

天王寺、地下鉄の谷町線駅そばの居酒屋の並ぶ路地をぬけ、緩やかな坂道が下り終え上りに変わる場所にある清水井戸地蔵の祠をみつけると、北側の道の奥に四天王寺の五重塔が現れる。そこに右手白壁に囲まれた庚申堂に出会う。このコース大好き。

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門柱に「本邦最初庚申尊」。(京都、八坂庚申堂では「日本最初庚申まいり」ののぼりがひらめいている)

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「人の体中に「三尸・サンシ」の虫が住んでいる。姿は見えない。霊魂、鬼神のたぐいという。宿主がなくなると、死者へのお供えを食べることができる。そのため宿主が亡くなることを願って、宿主を抜け出す機会である庚申の夜を待っていて、宿主の命をつかさどる神に告げ口に出かける。宿主が目を覚ましていると抜け出れない。そこで、宿主は庚申の夜にはごちそうお堂に籠っておしゃべりしてすごす。   日本の道教遺跡を歩く 福永光司」

桂三枝さんのいらっしゃい!がきこえるような、楽しい言い訳のあるお祭りである。庚申堂におかれる三猿、(見ざる、言わざる、聞かざる)の像が三尸へのインパクト、そうしておけ!の怒号に思える。

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清少納言・枕草子に夜うちふくる程に、・・・歌読詠ませ給うとあったりして、その歴史古いようだ。

四天王寺の庚申堂南門の石段に地位小さな祠があって、この祠は閉門されても外にある。そこには小さなお供えが置かれていて、“のっぴきならない事情おもちなら 堂守へ相談だ!”とお供えをかっさらった誰かへの連絡のメモが張り付けてある。

このお供え泥棒は、宿主がなくなると、そのお供えを食べたがっている【三尸】にちがいない。

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四天王寺の庚申祭りのお札が全国に散らばって、庚申堂が造られた。夜には「爪を切るな」「髪をきるな」のように、「夜更かししろ」という解放感のあるお祭りはすぐに受け入れられたのだろう。

船越の庚申堂の建設もけっこうな歴史をもっているのではないだろうか。

古道に出会う祠にかんじる親しみやすさは、そのままでいてほしいとの思いを重なってまた訪れたくなる。

四天王寺庚申堂の住所が天王寺区堀越であることに、持ち帰った庚申まいりのスケジュールのビラを見ていて、いま気づいた。


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# by forumhiroshima | 2017-02-22 14:27

腰当・クサテの森

はや1月8日。 松の内は7日までか?15日までなのか。
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2016年の大晦日の午後、京都の東寺にいた。境内に西側の土塀に囲まれた小子房と案内のある門がしめ縄で囲まれている。小子房は天皇家の勅使を迎える施設で正月に行事が予定されているのだろうか。交通整理指示で使われるフェンスより、強く遮断されて、拒絶とも感じる。
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神在祭の島根・佐太神社では拝殿が囲まれてよりつけない。
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しめ縄にはその示した結界を越させない厳しさがある。

東寺のしめ縄は、先日の島根半島に尋ねた坂浦の南につらなる半島の脊梁の中腹にある石神のしめ縄を連想させた。
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木々と竹藪にかこまれた山中に巨大な岩が堂々と鎮座している。そのエリアが石神として信仰されている。そこには拝殿も勿論本殿も、賽銭箱もない。

この「石神」の存在は1995年に中国新聞・出版物の広告にあった「出雲風土記の旅・田川美穂」の“拝殿なく広場で祭りする立岩神社”のページだった。
“何でも、縄文時代に名残のあるお祭りをする神社だそうな、と坂浦の海岸に鎮座する鞆前神社の宮司さんの奥さんの紹介で、・・・場所をしっているという古老の農家の曽田さんの家をさがして、そのおじいさんに案内されて・・・”。
神主の妻、古老、そして出雲。出かける理由が揃っている。

島根半島美保関の女神の名をおもわせる、田川美穂さん、その著書を読んで早速に出かけて、長屋門の曽田家をやっと見つけた。なんと、案内をしていただいた。
「なにごとの おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」は西行法師だが、神にも仏にも 「かたじけなさ」を感じることが誰にもあるのではないだろうか。そんな発見がそこにあった。

それから数度ほど「石神」をたずねてから長くご無沙汰していた。先日出版された岩波新書「NO1612古代出雲を歩く 平野芳英」に、第三章狭田の国を歩く・立石さんが掲載されていた。著者は銅剣の荒神谷博物館副館長。2012年にこの「石神」を測量・発掘調査された報告をかねた案内が書かれていた。「かたじけなさ」をあたたかさと感じる自分と、“調査”という言葉にどうしてもすり合わせできないが、そこに書かれた報告には「石神は昭和30年代までは、陽がいっぱいに当たり、海を見渡せ、人々の往来する生活道路に面した鎮守の森の自然の神様であった」とある。古道の痕跡に興味があって再会に向かった。

長屋門の曽田さん家も新しく作り替えられていたが、「石神」さんへの道は変わってはいなかった。「石神」さんに以前より竹藪が拡がってきて、竹林と照葉樹とのせめぎあいの中に鎮座して、どこか明るくなっていた。竹林のキラメキがそうさせたのか、それとも往来に鎮座し、人々がそこでひざまずいた「温かさ」がここにあったのか!。最初にであった森の記憶とは違っているようだった。
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通り道の大きな岩の塊への礼拝、そんな景色を想像していたのだけど、前に立ったとき、入口の小さなしめ縄が目に入った。のんびりしていた気分が急に緊張してきて周囲が神々しくなったのに驚いた。しめ縄が記号化して、結界、侵すことのできない領域、を出現させた、と思えた。東寺のしめ縄が連想させたのは、この結界だ。
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「ケオサレル・気圧レル」何となく圧倒される(岩波・国語辞典)
しめ縄が造る結界から送られる・“何となく”さを自分は聖域と感じているのだろうか。

自転車を道連れに、愛犬でもいいのだけど、境内へ入る、が気にならない神社とそうでない神社があることに、ある日気づいた。自転車境内持ち込み禁止があればむろん、無くても持ち込みできないな!と思う神社と、境内でそばに置いて写真とっている神社があることに気づいた。

朱色が鮮やかで、大きな社殿を、あるとき厚化粧に思えたりする。綺麗だが、なじめない持ち込めない、ことがある。社殿は心よりも眼に訴えかける。神が鎮座しているはずなのに神がこない。そんな場所は、お気楽には自転車乗り入れには、ならない場所。
「涙こぼれる」眼は、ある意味見ることを必要としない、心が見ること、なのだから。

自転車と入るような、のびやかな境内の神社は、境内の景色に溶け込んだ大きな木々、巨大な神木がある、と、どうもそうするらしい。いつだったか?そのことに気づいた。小さくても木々がつややかに密生して木漏れ日がある森でも、自分は、そうするようだ。そこの写真は多くが手ぶれしていて、我が興奮が記録されたりする。記録しなくていい、らしい。記憶に置けばいい、らしい。

江戸時代初頭に薩摩藩が奄美大島を占領、直轄地したとき、奄美の信仰の中心地、神山の木々の伐採を命じ、サトウキビ畑にした。森のない神山への奄美の信仰は失われた(岡谷 公一)。神社の“社”はモリと読まれる。
“ざわわ ざわわ”さとうきび畑にうずもれた沖縄の戦争の記憶というが、南の島々でのサトウキビ畑の記憶は暗いものがあるのか。そこが基地に変わったのか。

お正月はしめ飾りでもって、我が家を結界の内側へ入れる。その結界を守護してくれる神とは・・・。初詣はその神へ出向く。が松がとれると、結界の外へと置かれる。しめ縄は外される。この面倒なやり取りは、どうなん?。われらを結界のそとに送り出す神とは。

「立石さんの前の広場へ9月1日村人があつまり、杜の中でお祭りが行われるのです。重箱にごちそうをたくさん詰めて、その杜に集まってきます。杜の中ではかがり火がたかれ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。拝殿もテントもない自然の中で、立石さんお前で行われるおまつりです。祝詞が樹々にこだまして、鼓の音が響き渡ります。田川美穂」

「立石さん」への参道は40数年前にできた舗装車道から谷を下ってゆく。
「この頃の立石さんへの参拝者は、いまの参道となっている山道が生活道路であったなどと夢にも思わず、古くからの参道であり、その奥に荘厳な立石さんが鎮座していたと理解してここを離れるだろう。だが、それは違う。日常生活の中に溶け込んだ“山に坐す・マシマス巨岩の神様”であった。これこそ古代にあったと考えられる、自然信仰の姿そのものではないか。いま日常の神から非日常の神へとかわってしまっている。 平野芳英」

Googl Mapで出雲市坂浦を探すと石神神社がマークされて、写真がアップされている。荘厳な神聖な場所と受け止められている様子がみえる。ここで笛を吹く人もあるという。

「樹木は、その深い茂りによって、人の心を敬虔にする一方で、その優しい、繊細な緑や、高い香気でもって、人を落ち着かせ、なごませ、周囲に、つまり神に向かって心開かせる。 神の森 森の神 岡谷公二」
沖縄に腰当森・クサテと呼ばれる聖地がある。「“くさて”とは幼児が親の膝に座っている状態と同じく、神に抱かれ、膝に坐って腰を当て、なんの不安も感ぜずに安心しきって拠りかかっている状態 神と村 仲松弥秀」

しめ縄はアマテラスが岩戸へまた隠れないように戸を塞ぐためが発祥起源だそうだが、縄とくれば縄文人ではないか!。神が人をクサテする結界の発祥はきっとそうだよ。
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# by forumhiroshima | 2017-01-08 11:02

銅矛と大根

『司馬遼太郎が質問した。「あなたのご先祖は、なんという名のミコトですか。」「私ですか」とW氏はすこし微笑み、ながい時間、私を見つめていたが、やがて「大国主です」といった。(生きている出雲王朝 街道をゆく夜話より)』続けて、
『W氏によれば、神代以来、出雲大社に奉斎する社家のうちで、大国主系、つまり出雲の国ツ神系の社家は、W家一軒ということになるのである。それではまるで敵中にいるようなものではありませんか、というと、W氏は「出雲は簒奪・サンダツされているのです」といった。つまり高天ガ原から来た天穂日命の第二次出雲王国の子孫が国造・クニノミヤッコとしていまの出雲を形而上学的に支配しているが、W氏にとっては「簒奪」ということになるのである。(中央公論 1961.3)』

簒奪・サンダツ・・・君主を滅ぼして権力を奪うこと。※Kanji Pedia

その“簒奪”があったことを表すことに、W氏の家紋の変更がいわれる。いまW家の家紋は大根である。
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が本来は「矛」であったという。矛が交差するその家紋をデホルメして簡素に現わすと、1983年の発掘された銅剣358本に刻まれた「×」になるという。
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荒神谷の銅剣は司馬さん流では、第一次出雲王国の遺品になる。ただ、家紋が使用されたのは鎌倉後期だという。源平の戦いも赤白の旗だった。

古代のことではないのだけど、簒奪のいわくの古い家紋を見たくて探してみた。
『家系をつたええるものがすでに幼少のころにえらばれ、長い歳月をかけ一家の旧辞伝承を細かく伝えられるというのである。W氏はすでにその子息のうち一人を選んで、伝え始めているという。(生きている出雲王朝)』
「出雲と蘇我王国」斉木雲州というペンネームがこの子息であろうか、その著作という本の挿絵にその家紋を見つけた。
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出雲のどこでもと言っていいと思うが、神社境内そばにしめ縄を掲げた神主の家があり、社家と呼ばれる。小さな神社の集落では宮座という神社に奉斎する組があって、順番などで神主を務める家にも、しめ縄が張られるようだ。神社と社家との名の関連の歴史を考えたりする。出雲国風土記にでる役人の名があったりすると、とても得した気分になれる。神社と社家のセットがいくつも現れるルートをたどると、第一次出雲王国に住民登録した気分。上古から文字の記録のない神代へ、景色の舞台が回りだすというゆっくり景色の流れにおられる自転車の旅の不思議そして魅力。

神代からの伝承を“簒奪”とはせず、プライドとした人々があった。明治維新の時、地方の名門にその系図の提出を命じた。その中に天孫降臨以前に神武天皇と戦い敗死したナガスネヒコの兄・安日・アビを始祖とする系図が東北・旧陸奥国にあった秋田家が提出している。宮内庁からは、始祖を大和朝廷の大比古命にしたらと指導したが、はねつけたという。

明治に華族の階級がつくられ、そこに位することで、旧家の人々にその血統のプライドが保たれたのだろう。戦後GHQによる華族階級の崩壊からも、そのプライドが社会に現われることが、出雲という古代神話の地であったということだろうか。司馬遼太郎の「夜話」から話題となった昭和35年は終戦から高度成長へ世相が変わったあたり、旧家のプライドの終焉の時代だったのかもしれない。

大根の家紋とされた紋章は丁子・クローブの家紋としてたくさんに使われている。
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大根だとしても、真言の教えに聖天・十一面観音菩薩の好物が大根であるとされている。決して大根の家紋はおかしいものではないようだ。
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天皇の退位のことで、「神に退位はない」、とでも語る人をTVでみていて、古代出雲の断片を探しているような、古い家紋の話をしているような、自分の足元に怪しさがあるのではと、ふと感じてしまった。

古事記や万葉集の研究者の西郷信綱は、古事記や日本書紀の知識が庶民までひろがってきた江戸期には、例えば、村の鎮守の由来に、すっごく昔のことだがね!と語るとき、イザナミ・イザナギの神様のころって語ったといっている。災害を起こす荒神の神様はスサノオでとしたというし、季節の神さまをアマテラスとしたという。のびやかで微笑ましい。こころに落ち着く見解だ。それでいいのだと思う。
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# by forumhiroshima | 2017-01-04 13:03

「出雲」の発生

平田にある小さな宿屋をたずねたかった。数年前にツーリングのブログで出雲・平田に素泊まりの古い宿の記事に出会って、行きたい気持ちがチクチク刺激していて、やっと出雲へ向かった。

一畑電鉄の平田駅そば路地奥にその宿があった。素泊まりの宿をツーリングで選択することは、宿の夕食を頼んでないことで“遅れてすみません、”のストレスがない。が、飯は用意されてない。そのハザマは微妙である。

翌朝、宿から南へ斐川町の築地松の景色に入ってゆく。東へ向かえば斐伊川の河口とその沖の宍道湖にでる。有名な湖畔の東の松江から西へ見る夕日の宍道湖より、湖の西の斐川町から東へ見る朝日の上る宍道湖の景色を朝日の時間に見たかった。松江でなく平田にいるのだから。

斐伊川土手に上がると南の尾根の切れ間から雲が湧き出ている。モクモク、モクモク。押し出されて白い長い流れが朝日に照り返されていっそう白さを増している。宍道湖面の朝日を忘れて、這うように伸びる姿にひきつけられた。この季節にどこでも見る朝霧よりも、もっと濃い白。宍道湖の朝の景色のことを忘れていた。
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翌朝の平田の町並みが白に沈んでしまった。
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「きり」と「もや」の違いを考えたことがある。どうでもいいのに!と思いながら。正規、気象庁によれば、1km以下の視程(視界)が「きり」それ以上の視界があれば「もや」、なんだそうでした。
視程は100mもないホワイトアウト。正規「きり」。いきなりに対面して自転車は現われる。
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「きり」を抜けて宍道湖の北河岸へ。高く上った日差しの中の湖面は水鳥が一面に浮かんで静か。その先の松江の海岸から、湖面を滑るように白い霧が走ってくる。西からも東からも、湖面を舞台に「きり」が登場してくる。
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「出雲とはどういう意味か。風土記には出雲郡に出雲郷の名がみえる。斐川町の西部、斐伊川が大きく湾曲するところがそこに相当する。八束郡の東出雲町にも出雲郷があるが、これは出雲国府がそこにできてから、余部・アマルベ(古代行政区分)を郷(古代行政区分)にして平安時代以後につけた名前で、本来の出雲郷はやはり斐伊川の下流を指した。古代の国名というのは、もともと一国内の小地域の名であったものが、しだいに大きくなって国名になるという経過をたどってできたものである。出雲の場合もそうである。 谷川健一・出雲の神々」

どうしてそこの地名が「出雲」になったのか、は語られない。

記紀は“立ち上る雲の国”とされ、またイズクモ、イデクモから、厳雲・イツモではないとか、吾妻・アズマに対して“夕つ方・ユウツマ”由来とかがある。厳藻・イツモ、イツという美称を付けた藻だという説も出てきて、かしましい。

地元郷土史家で出雲国風土記研究の第一人者の加藤義成の説がある。
斐伊川が出雲平野へ山中からでるところの西河畔に三谷と呼ばれるちいさな谷筋があり、そこは特異に霧が沸きやすい所で、地元では三谷霧とよばれる。この場所あたりから斐伊川右岸が古代出雲郷で、この谷から霧が広がって、雲になることで、八雲立つ出雲となったという。雲の湧くことが印象的な国だという。三谷には出雲型といわれる四隅突出型古墳の上に三谷神社が鎮座している。古代の聖地だろう。古代出雲人はここから生まれる雲に聖なるもの、かれらの国土のプライドを感じたのかもしれない。加藤氏は三谷の斐伊川の対岸の加茂の人で、幼年期からこの景色を見ておられたのではないだろうか。
いま、ホワイトアウトの中にいると、彼の確信を感じる。

霧をふきだしていた古代出雲郷の中心に鎮座する神は、出雲国風土記で“国引き”を歌った“八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコト”という。「出雲と名づくる所以・ユエは、八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコト 詔・ノ りたまひしく“八雲立つ”と詔・ノ りたまひき。故に 八雲立つ出雲という 出雲国風土記」
鎮座する社・ヤシロは出雲国風土記にある「出雲社」、現在の斐川の富村の富(トビ)神社とされる。
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が、この神社は加藤義成・出雲風土記校注で、風土記には記載ないとしている。江戸時代の国学者、本居宣長の古事記伝では、八束水臣津野命・ヤツカミズオミノミコトは「いたく功績ありし神なのに、その御社の見えぬは、如何なるにか、」という。ゆれる富神社の祭神。

司馬遼太郎の「街道をゆく、夜話、1961中央公論」に“生きている出雲王朝”がある。
新聞記者時代の同僚のW氏が、ある日、司馬さんに自分は出雲の語り部だと打ち明ける。出雲の国譲りをオオクニヌシに迫ったのが“進駐軍司令官・アメノホヒノ命”。大和朝廷は大国主命を断罪し天日隅宮へ送った。「おそらく、大国主命は殺されたという意味であろう。朝廷はアメノホヒ命とその子孫に永久に宮司になることを命じた。W氏が当主であるW家は出雲大社の社家である。と言った。あなたのご祖先はなんという名のミコトですか。大国主の一族はすでに神代の時代に出雲から一掃されたはずではないか。ある事情により一系列だけが残った。私の祖先の神がそうです。 司馬遼太郎」
司馬遼太郎らしくないスキャンダラスな一遍だが、それだけに司馬さんだからこそ、引き込まれる。

週刊誌・女性自身のシリーズ人間に「4000年のタイムトンネルに生きる男」が掲載された。その雑誌は探せなかったが、1980年に発刊された「謎の出雲帝国・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 吉田大洋」がその概要を伝えている。そこには司馬さんの「夜話」に書かれた内容がもっと詳しく記載されている。W氏の氏名が明かされていて、富富雄・トミマサオとされている。W氏が富氏、司馬随筆との違いの説明はそこになかった。

富家の祖先を祀った神社が富神社だという。

富富雄は16才のとき、富家の本家である叔父 富曉若・トミニギワカの養子に入りその冬、出雲大社の東、天平古道沿いにある出雲井神社へ身を清め、白い服にはだしで向かい、語り部となるスタートを切ったと語る。さくらに囲まれ数段に作られた土地の上に小さな祠が鎮座する出雲井神社は岐神(久那土・クナド)を祀る。クナドはここにくるな!来な処、と叫ぶ神だといい、フツヌシノ神(国譲りを迫った神)に従い、逆命者・シタガワヌモノを切り殺した。その帰順・マツロワヌ者の首領がオオクニヌシとコトシロヌシで、彼らは八十万・ヤオヨロズの神々をつれ天に上ったという(日本書紀第二巻)。
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出雲大社の北の海岸の鷺浦から日御碕へぬけるルートの峠にも岐神の小さな祠に道に向かわず西の海に向いて鎮座してあった。出雲の在所の大社を守っているのだろうか。
オオクニヌシの子孫が進駐軍の側に付き従うという役割は、ドラマですね。出雲井神社は昨年出雲大社によって、屋根などが修復されている。いまもその役割が期待されているのだろう。

富神社の今は斐伊川から離れて鎮座している。過去に移転があったともいう。その境内は斐川町の神々と同じく砂地に松の間にある。鎮守の森は持っていない。川の砂州にあるからだろう。斐川町の古道は以前の川の流れに従っているようで、たとえば出雲空港は以前の放水路に建設されている。
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富神社そばからR9国道と富村信号の交差点を越え斐川町中央をはしる古道は、緩やかに斐伊川に沿って走り、昔堤防をおもわせる。富神社は川の氾濫を遮る神が鎮座していたのではなかろうか、と思ったりする。または、出雲大社の防御の神か、とも。

出雲国造出雲治郎の三男出雲信俊が715年出雲郷に分家された。713年、古事記の出来た翌年、各国に風土記編纂の指令があったころ、なにかが連動したか。「我が御祖神合祀祭神をもってこの里人氏神として富大明神といい・・・」信俊はここに我が神アメノホヒを勧請している。
富神社の周囲に神氷、神立などの地名を囲むように出雲大社の社家の千家、北島両家の名の地名がみえる。ここに両家の別邸があったという。
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富富雄は富神社の神紋は「矛」を交差させていたが、ある時「矛」から「大根」に替える圧力があったと語る。神社の東の荒神谷で発掘された銅剣に「×」が刻まれていた。このバツ印が神社神紋だともいう。
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今、神社の由来は「きり」の中。神紋の大根は可愛いくて、オシャレにおもえるのだが。

1300年の時間の累積の「きり」は深い。

 “答えは風に吹かれている   Bob Dylan” 。
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# by forumhiroshima | 2016-11-28 04:56

ダブル ブッキンク

古麻原の谷奥の寛田家の墓所から、谷間の底の川沿いにある車道とパラレルにすこし高い位置を尾根の斜面でたどる細い道がゆっくりと高度を落として下っている。数軒の民家玄関をぬう集落内のその道そばにミツバチ巣箱が置かれていた。庭先にいくつもの巣箱が行儀よく並んで、昼前の太陽の光を待っている。
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みつばちは太陽を基準に尻振りダンスで花の密の在場を仲間に教えるという。だからか、巣箱は必ず陽当りの良い場所に置かれる。「どんな花の蜜を蜂たちは集めているのだろうか?」と、巣箱を見るたびに思う。周辺に花園をさがしてしまう。これまでに出会った巣箱の辺りはいつも日差しがあふれていた。

部屋に紛れ込んだ一匹のハチを殺虫剤のスプレーを持って追い回している生活と、蜂たちと共存する生活のその差は計り知れない。すっかり遠くへきたものだ。

下りの先に鳥居が尾根に溶け込んでいる鎮守の深い森の端っこに現われた。
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長くて細くて、幅のせまい石段が鳥居から見上げるほどの傾斜で登っている。鳥居の神額は八幡社。
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けっこう怖い石段を上がると、そこにも鳥居がある。心細い足元から視線を上げると、その神額には厳島神社とある。鳥居が下より新しい様に見えなくもない。
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14世紀初頭に厳島神社社領から毛利氏に横領されたと広島県史にある時間の流れが逆になっているように、二つの鳥居に思えた。どちらが、どうなん?。ダブルブッキング??

石段の参道が建物にさえぎられていて、脇へ導かれる。本殿とこの建物の間の空間へ入る。
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建物は本殿へ向かって開かれていて、舞台に見える。
広場は「神の庭」と呼ばれるのだろうか?神々はここで舞ったのだろうか。建物は人々が神をまねた神楽の舞台だろうか?杉の巨木の周囲は苔むして、午後の日差しが差し込んで、神々しい雰囲気も漂う。
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石垣はこの谷間どこも古びていて、境内も負けず古びている。
ほの暗い境内横の明るい谷間の奥に墓所がみえる。尾根の斜面に小さく開かれて、墓標が肩をよせている。

「「も・う・い・い・カ— い」
「ま・ア・だ・だ・よ— オ」
坂口安吾の“高麗神社の祭の笛”にある古代の半島からの渡来人・高麗の人たちは後世に“高倉”と呼ばれ、駒井、新井、高麗井、新、などに分かれたという(古代日本と渡来文化・金任仲)。高倉健さんを連想してしまう。健さんは九州出身で、妄想にちがいないのだが。健さんはどこかこの国に侵入したインベーダーに思える。”高倉“と名を替えたこの一族の家紋は根笹という。
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家紋が墓に刻まれていたりしてないかと、とほのかに期待。

その墓所へむかった。「高倉、だったら・・・」‘と。墓所は「宮脇家」累代の墓所だった。お宮の下の民家の表札には宮脇とあった。
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お宮のそばで“宮脇”はわかりやすすぎる。宮本常一はお宮の下の家が実家だから“宮本”だと書いている。明治になって苗字を付けた家だともいっている。この谷じゅう“高倉”を探してみようか?と思ったりしたが、大体、表札がないのが普通だ。それに、脚力、大丈夫???。
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神社の西に肘屋谷の地名がある。ヒジ・ヒビなどは湿地、水場などを示す地名といわれ広島では比治山、東京では日比谷などが該当するといわれる。丹後半島、峰山の南にある比治の山には天女伝説が残っていて、この言葉に古代の夢のような雰囲気を感じる。水場が水の女神の所在であることは、水場のある土地を古代のパイオニア達が見つけた歓喜のモニュメントだとおもう。その記憶をなくしてしまったように思える広島の比治山の古代の姿への手がかりがこの小山の肘屋谷で感じることができるかも、などと期待もあった。比治山も昔、墓標にうずもれていた。

肘屋谷は数軒の民家が尾根の麓に点在していた景色だった。湿地のなごりのため池も神社もなくて静かなというより無音の谷間が広がっていた。ただ、車道の側溝の流れは、たゆみなく強い水量が下っていた。

この国の多くの神社の祭神は中世には不明になったといい、江戸期になって世の中が落ち着いてから、神社が再建され、祭りが復活したといわれる。どの神様でも、有難いのがこの国だろうか。神社リストのある出雲国風土記の出雲でも祭神が動いている。ダブルブッキングされてきた。

Google MAPは凄い。神社が名前で写真付き。すごい、です。ありがたい、です。が、ここ小山の砂田八幡神社とグーグルが表示する境内が厳島神社エリアとは、・・・。複雑すぎ、でしょうね。官製・国土地理院の地図にもあるんです。

出雲・朝山神社の神在月は旧暦の10月10日まで、ですからこのごろですね。祭神はマタマツクタマノムラヒメ命、由緒正しい出雲国風土記記載の神社。が、この神社が国土地理院の1/25000地図には、朝山八幡神社と記入されている。この間違いはけっこう話題になる。間違いで、いつか訂正されるのだろうが、じつは国土地理院にも間違いと申し立てられない歴史がある。

源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮の建立時に“一国八社八幡宮”勧請を指令した。1192年あのイイクニの年のことらしい。その指令にある出雲八幡八社の一つに朝山神社が指定されている。

朝山神社の神主の朝山氏は佐太神社のいまの神主の朝山氏だという。9世紀に朝山一帯を領土とした一族で、大和朝廷から下向したとも、地元の豪族からともいわれる。ヤマト朝廷との関係が深かったのだろうか。

後になって、朝山八幡宮として出雲大社の参道の南端に鎮座する神社ができる。松林の広い境内に静かにポツネンと鎮座している。出雲大社のご威光にどこか意義あり!と言っているような・・・。だからか、出雲人はご機嫌良くなくて、参拝する人が少ないような、が訪れるといつも静かで、いい感じの境内なのだが。

風土記でスサノオがサセのシイの木の葉を髪に止めて踊ったという記述の大東町の佐世神社の境内にも白神八幡宮が建立された。尾根の北にある石の祠が風土記社佐世神社で、南に八幡宮の社殿があった。この二社は200Mほどもあろうか、尾根道で結ばれて、流鏑馬の神事でも行われたのかとおもうほど、まっすぐで印象深かった。シイの木の葉かんざしのスサノオの社が広い土台中央にここでは風土記社がポツネンと鎮座していた。参道の石段は崩れかかっていて、怖かった、な。
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都に鎮守する八坂神社のスサノオと祇園の舞子の髪飾り、そんな連想をさせる出雲・佐世のスサノオは八幡の神々にむかって、かくれんぼ、していない。時代でまわる、回り舞台で踊っているだけ、ですよね、古麻原の宮島さん。

谷を出ると、また鹿にであった。今この谷の神は厳島の神様ですよ。
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# by forumhiroshima | 2016-11-15 05:42

古麻原のこと

宮本常一「私の日本地図」、司馬遼太郎」街道をゆく」、そして坂口安吾の「安吾の新日本地図」これらの紀行文をテクストに、そこにある気分をいつもトレースして走っています。古麻原のコマに反応したのは、坂口安吾の気分を思い出したからです。

『「明日がお祭りだそうです。今日はその練習だそうです。」
社殿の下に人が群れている。笛の音だ、太鼓の音だ、ああ、獅子が舞いみだれている。
笛本来の音のせいか、音律のせいか、遠くはるばるとハラワタにしみるような悲しさ切なさである。日本の音律に一番これによく似たものが、ただ一ツだけあるようだ。それは子供たちの
「も・う・い・い・カ— い」
「ま・ア・だ・だ・よ— オ」    という隠れんぼの声だ。それを遠く木魂にしてきくと、この単調な繰り返しに、かなり似るようである。すぐ耳もとで笛をききながら、タソガレの山中はるかにカナカナをきくような遠さを覚えた。』

坂口安吾の新日本地理 高麗神社の祭の笛、からの抜粋です。安吾って音楽の才能があったのでしょうね。彼の歴史への視点が特異です。モウイイカイ、マーダダヨ、がすごく印象深い。歴史書では語られない、人々の情景が浮かんでくる自分に、すごく驚いた。自分にとって、安吾のNO1です。読んでから以後、“コマ”にひどく反応してしまう。抜粋を続けます。

『続日本紀元正天皇霊亀2年(716)5月の条に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置くとある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官選国史の記事なのである。この高麗は新羅滅亡後に半島の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。高句麗は扶余族という。
扶余族の発祥地はハッキリしないが満州から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、列島の諸方に住み着いていたとかんがえられます
もとより、新羅人や百済人の来朝移住も多かった。南朝鮮と九州もしくは中国地方の裏日本側とを結ぶ航海が千周百年に於いても易々たるものであったことは想像にかたくない』

高麗の人々の痕跡が、吉田の古麻原(小山とも呼ばれた)にあるとする話をどこかにあるか、つたない努力をしてみた。室町幕府が成立したのが1336年、毛利氏が吉田に入ったのが1338年。南北朝の戦乱のなか、厳島神社荘園の横領があいついでいた。1350年ごろ古麻原を小山といい毛利氏の押領によって厳島神社荘園から毛利氏の領土となった、調べられたのはこのことぐらい、でした。でも、コマハラとコヤマとが、シンクしているような。コヤマの後ろにコマが“かくれんぼ”していそうな・・・。

江の川河畔を離れて山中へのルートに入ると、一直線に広い谷間が南に伸びて田園が広がっていた。
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700年も前、室町幕府成立のころの景色が目の前に広がっている、と妄想が湧き上がってくる。京都の室町幕府発祥の地とある石碑より、なんだか実感もある。勘違いだと、おもっていても。この谷中央を流れる小川のそばに何かが動いた。バンビがこちらを見ている、とピョッコンとおしりをあげて走って、また振り返った。
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山裾から真北に向かって開かれて、江の川でその出口を密閉されたような谷間を、“宮本常一”なら、この谷がいかほどの米の収量があり、よって幾人の人々が飢えずに暮らせて、尚且つ余剰があれば、人々のなかからリーダーが生まれ、集落が継続される時間があればあるほど、支配する家は成長し、屋敷が作られた、と一見して見積もるだろう。それは自分の妄想とはかけ離れたものだろうが、できれば、それを知りたいと登りに入った。

真北に開かれた土地はもっとも均等に永い時間の日照の力を受け止められる土地で、水があれば、それは豊かな田園に変えられる未来がある。土地の未来へ差配した家はその水をコントロールできる谷間の水口に根をはる。水の配分が権力を生む。豊かさがそこに主の屋敷を造る。

尾根の麓に民家が点在してある。川沿いに道は緩やかで、久しぶりの谷間に、明るい日差しにも、まずトップへ、と気分が浮きだって、神社の鎮守の森を横目に、そんな選択をしてしまった。宮本常一先生!はまず高みから谷を眺め、墓所を覗けとおっしゃる。フィールドワークなどといったものじゃなく、せっかくの時間、そこの成り立ちにつながる時間をさがせば、そこの人たちの生業・ナリワイを感じることができる、という。暖かい眼差しがある。宮本常一は主の屋敷ではなく、土地に格闘してきた人々のすべてを見ようとしている。「自分だったら、ここで、どう生きただろうか?」などと思ったりもする。

田んぼの畦も家の敷地も美しく積み上げられた石垣で覆っている。その石垣の裾に細いテーブル状にまた石垣の袴が回っている。どっしりとしていて、それでも軽やかなのは一つ一つの積石が割り石のままで、手仕事を感じさせるから。
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トップの屋敷のまえに小高い背丈の橙とも八朔ともわからないが黄色く色づいた実がたわわにぶらさがって、その下の玄関の前のネットで囲まれた畑の中に老婆が見えた。
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道の先は尾根に向かっていて、標高差は100m程か、このままで越えられるか?と尋ねようと声をかけた。
振り向かれたが、無口にネットの出口にむかって歩かれる。しばし待たれぃ!なのか。
出てこられると細身の背がたかい、きれいなおばあさん、どこか法隆寺の百済観音ににていなくもない。百済じゃなくて、・・・高句麗なのですが??。
「耳が遠いのよ、その道は行けませんよ、戦後にはそこを通ってヤミ米買いに沢山来られたものですがね。今もう通れませんよ。その先から左に道があって下へ帰れます」「あのみかんは高くて採れないですよ。鳥さんのえさですよ」と、くっると背中を向けられて、ネットに入られた。
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先の道に高く切り残した切り株のある墓所があって、きっとあのおばあさんの家の墓所だろうと、のぞき込んだ。「寛田家」と刻まれた墓標がいくつもあって、その中に自然石の墓標、そして玉の石があった。
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「玉」は古代朝鮮半島の国家創成伝説に出てくる。女が日光を受けて卵を産む“卵生神話”は、高句麗の始祖・東明聖王、新羅の始祖・赫居世、金官国の始祖・首露王など多い。
新羅で女が虹によって妊娠し生んだ赤い玉から生まれた阿加流姫が日本に逃走した。その姫神は北九州・鹿春神社、国東半島の姫島・比売許曽神社、呉の亀山神社、大阪・比売許曽神社や赤留比売神社など瀬戸内海を北上する伝承もある。

「玉」子の石は見つけるとドッキとし触りたくなる。生命の誕生を玉に象徴させ国家創成伝説神話にするという人々は、民族という一つの塊・カタマリの証明ではないか。墓所に玉を置くことに、海峡を越えた人々を感じないでもないのだが。妄想に過ぎないのだけど。

おがあさんが行けないと話した道のほかに、もう一つ尾根奥に向かう道が地図のあったけど、おばあさんの足元にそこへの分岐があって、行きづらく、通り過ごした神社へ下り始めた。
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# by forumhiroshima | 2016-11-11 11:47

渡来の人の里?

出雲街道も国道R-54も南から土師ダムを見たあたりから合流して河畔の道になる。上根の峠から北上してきた簸川にダムからの可愛川と合流する氾濫原になる。この辺りが佐々井から桂と呼ばれる。佐々井のササは川の堤で井はここでは川。早くから堤防があったことになるのか。そうなら、堤の上に道が造られた。それがR54になっている。

「桂」は明治維新の桂小五郎のち木戸の祖先がその地の名を名乗った場所で、それだけで何か特別に思ってしまうから、可笑しい。「カツラ」地名は小五郎活躍の京都の桂川と同じで「“徒歩渡り・カチ渡り”の浦」で“カツウラ”からだと言われる。浦は裏とおなじことで、表と裏の境界をいい、山では平地と山場とか集落と尾根の境界をいう。歩いて渡れる湿地。都の桂川は浅い。土佐・桂浜は遠浅か?。古代には田園開発の好適地だったかもしれない。が、洪水もやって来る。

この湿地はけっこう大きかったのだろ、今の平地を北上して出会う小山の上のある埃の宮・エノミヤまでR54しかルートがないことがそう思わせる。不安定な土地にはいくつものルートは存在できない。やっと足が前に運べるこの場所であった昔からのルートにあたるのだろうか、国道は狭くて東側の歩道しか自転車・歩行者に安心安全はない。ドロップハンドルに付けて後ろをケヤーするバックミラーは鏡面が小さくて、それをのぞき込むときが不安定になる。自分は使ってないのだが、年からか振り向く幅が小さくなってきたなぁ。

埃の宮・エノミヤは安芸郡府中町にもあって、神武天皇東征伝承があり、ここにもその伝承がある。神社が鎮座するこの辺りから川名が江の川・エノカワになるのだろうか。不安定な場所、故に神が鎮座したのか。
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毛利氏はここに桂城を築城し、南からの侵入を監視した。川もが湿原も守ってくれる。

今、川は同じ名でよばれるように誰かに決められた。昔、川の名は場所、場所でちがって呼ばれてきた。その名の区分に神が鎮座する。“誰か”は神を見ていない。
ここは人々の記憶に“難所”として残る場所になろうか。埃の宮の神がいかに水抑えの神威を期待されたかが、実感で、つたわってきた。「エノミヤ」は江、の神と、どこからか伝わってくる。そう!神の声。

江の川の堤防も兼ねている小山に鎮座する埃の宮の参道の脇に川への細い未舗装の場所が川側へあった。空いているけど、誰も使えない場所。未所有な空間、不可侵な空間、神の所有地。神の境内。たどると水門があってここも氾濫原の跡だ。その先に堤防の上の道が吉田の市街地へ伸びている。川面は広々とした展望に拡がる。毛利氏の里の大きさに驚いた。

桂の氾濫原は吉田の南の守りには最適でここに桂氏の居城がおかれていた。城と吉田とのルートの痕跡がないか、と国土地理院のそれも1:25000でもっとも古い版を求めた。が戦後の版がもっとも古いものだった。そこに、この氾濫原の西端だったろうルートをみつけたが、やはり埃の宮に吸い込まれた。
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地図を覗いていて、視線を東へむけると、山中に不思議!と、感動した(オオゲサ?)地名を発見。ここへ走らずして、オレではない。

江の川の右岸、山中に南北に直線に開けた谷の奥まったところに、古麻原の地名が見えた。

出雲街道が太田川を離れるところを可部と呼ぶ。古代安芸郡漢弁郷・カラベと呼ばれそのこらカベの呼び名が生まれた。この郷のほか、祇園西原・東原、戸坂は古代の幡良郷・ハタラは古代に半島にあった新羅からの渡来の人々の居住地だったという。新羅から白木山の名を連想する。

江の川の右岸、吉田の町の対岸にみつけた地名、古麻原は高句麗(コマとも読む)古代半島の国家の名が残っているのではないか?この地名は現在の地図からは消えているが。
古代の渡来の人々への幻想に浸れる場所って、そんなに出会っていない。いいね!いいね!
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# by forumhiroshima | 2016-11-05 17:49


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