こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

渡来の人の里?

出雲街道も国道R-54も南から土師ダムを見たあたりから合流して河畔の道になる。上根の峠から北上してきた簸川にダムからの可愛川と合流する氾濫原になる。この辺りが佐々井から桂と呼ばれる。佐々井のササは川の堤で井はここでは川。早くから堤防があったことになるのか。そうなら、堤の上に道が造られた。それがR54になっている。

「桂」は明治維新の桂小五郎のち木戸の祖先がその地の名を名乗った場所で、それだけで何か特別に思ってしまうから、可笑しい。「カツラ」地名は小五郎活躍の京都の桂川と同じで「“徒歩渡り・カチ渡り”の浦」で“カツウラ”からだと言われる。浦は裏とおなじことで、表と裏の境界をいい、山では平地と山場とか集落と尾根の境界をいう。歩いて渡れる湿地。都の桂川は浅い。土佐・桂浜は遠浅か?。古代には田園開発の好適地だったかもしれない。が、洪水もやって来る。

この湿地はけっこう大きかったのだろ、今の平地を北上して出会う小山の上のある埃の宮・エノミヤまでR54しかルートがないことがそう思わせる。不安定な土地にはいくつものルートは存在できない。やっと足が前に運べるこの場所であった昔からのルートにあたるのだろうか、国道は狭くて東側の歩道しか自転車・歩行者に安心安全はない。ドロップハンドルに付けて後ろをケヤーするバックミラーは鏡面が小さくて、それをのぞき込むときが不安定になる。自分は使ってないのだが、年からか振り向く幅が小さくなってきたなぁ。

埃の宮・エノミヤは安芸郡府中町にもあって、神武天皇東征伝承があり、ここにもその伝承がある。神社が鎮座するこの辺りから川名が江の川・エノカワになるのだろうか。不安定な場所、故に神が鎮座したのか。
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毛利氏はここに桂城を築城し、南からの侵入を監視した。川もが湿原も守ってくれる。

今、川は同じ名でよばれるように誰かに決められた。昔、川の名は場所、場所でちがって呼ばれてきた。その名の区分に神が鎮座する。“誰か”は神を見ていない。
ここは人々の記憶に“難所”として残る場所になろうか。埃の宮の神がいかに水抑えの神威を期待されたかが、実感で、つたわってきた。「エノミヤ」は江、の神と、どこからか伝わってくる。そう!神の声。

江の川の堤防も兼ねている小山に鎮座する埃の宮の参道の脇に川への細い未舗装の場所が川側へあった。空いているけど、誰も使えない場所。未所有な空間、不可侵な空間、神の所有地。神の境内。たどると水門があってここも氾濫原の跡だ。その先に堤防の上の道が吉田の市街地へ伸びている。川面は広々とした展望に拡がる。毛利氏の里の大きさに驚いた。

桂の氾濫原は吉田の南の守りには最適でここに桂氏の居城がおかれていた。城と吉田とのルートの痕跡がないか、と国土地理院のそれも1:25000でもっとも古い版を求めた。が戦後の版がもっとも古いものだった。そこに、この氾濫原の西端だったろうルートをみつけたが、やはり埃の宮に吸い込まれた。
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地図を覗いていて、視線を東へむけると、山中に不思議!と、感動した(オオゲサ?)地名を発見。ここへ走らずして、オレではない。

江の川の右岸、山中に南北に直線に開けた谷の奥まったところに、古麻原の地名が見えた。

出雲街道が太田川を離れるところを可部と呼ぶ。古代安芸郡漢弁郷・カラベと呼ばれそのこらカベの呼び名が生まれた。この郷のほか、祇園西原・東原、戸坂は古代の幡良郷・ハタラは古代に半島にあった新羅からの渡来の人々の居住地だったという。新羅から白木山の名を連想する。

江の川の右岸、吉田の町の対岸にみつけた地名、古麻原は高句麗(コマとも読む)古代半島の国家の名が残っているのではないか?この地名は現在の地図からは消えているが。
古代の渡来の人々への幻想に浸れる場所って、そんなに出会っていない。いいね!いいね!
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# by forumhiroshima | 2016-11-05 17:49

えびす

11月20日の広島胡子祭りはとても寒かった記憶が小学生のころにある。本通りだけが参道になり、路地はロープ規制され、人々は革屋町の電停(いま本通り)を越えて西へ伸びていた。みなオーバイの襟を狭めて小さく足踏みして寒さをやり過ごした。このころ、出雲の佐太神社で後半の神在祭りが開始されている。広島の胡子神には出雲行きのスケジュールはないようだ。
この胡子神は県中央部の安芸高田市吉田から毛利の広島築城のおり移って来られたという『urban legend・都市伝説』を持っている。旅を嫌っておられる訳ではない。
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エビス神の最も古い記録は、「厳島古文書」の1168年に“江比須”社の存在が記載されており、兵庫の西宮神社の記載の1172年よりも古い。ギネスに申請できそうだ。朱色に漆で仕上げられた美しい江比須の社が塔の岡下に鎮座している。
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大晦日の紅白が終わると直ぐに身支度して満員すし詰めの広電宮島口行路面電車にもぐりこむ初詣の光景もこのごろは見られなくなった。

ヤマトタケルは景行紀43年に虜にした蝦夷等を伊勢神宮に献上したとされ、景行紀51年には蝦夷等は昼夜喧嘩をして、出入りに礼を欠いたので三諸山のほとりに置いたが神山の木をことごとく伐ってしまう。里に出ては大声で叫び人民を脅かすので景行天皇はその本のところに獣心があって、中国(うちつくに)には住まわせがたい。それゆえに邦畿之国(とつくに畿外)に分かち住まわせよとして、これが今、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国にいる佐伯部の祖である。と日本書紀にいわれている。仮定すれば?だが景行時代は4世紀の事になる。蝦夷はまず西宮神社の播磨にうつされ、後に安芸などに分散配置されている。今、ヨーロッパでおきている出来事を思ってしまう。

871年の文書に”キニコベノ佐津古、キニコベノ軍麻呂”などの蝦夷ともわれる人々が朝廷から位を授与された記録は安芸国にある。この人々を祖先とするのは、アナタかもしれない。

「厳島古文書」にある1168年ころ厳島神社の神主佐伯景弘はこれら蝦夷を管理した一族と考えられる。エビス神は古代蝦夷の神であるとする考え方もある(日本古代の精神・横田健一)。
吉田の胡神社から出雲街道を南下すると、可愛川を渡る手前の桂に桂恵比寿神社、土師ダムとの分岐の南の下佐々井に勝田恵比寿神社、可部に胡神社、古市橋の北に中須・胡子神社、祇園のは恵比寿、胡子社と二つ、十日市交差点の西路地に榎町・恵比寿神社と連なっている。その流れが厳島へ、いや厳島から吉田へ、なのだろうか。

出雲街道は出雲大社への参拝だけでなく、一畑薬師への巡礼道であったという。
「一畑薬師は眼病に霊験ありとして、庶民のあいだに広く尊崇されているが、貧しいものをしてきわめて親しみやすからしめるようなつつしみ深さをもっている。そして今もなお、すでに盲いたもので、汽車やバスに乗らないで、30里、50里の道を歩き続けてこの寺に参るものが多い。このような信仰の底にはいかにも民衆の哀愁がこもっているが、その哀愁をきいてくれるものは、宿をこえば、こころよくとめてくれる道ばたの百姓であり、安い宿賃で迎える寺、静かな思いにひたらせてきれる、うすぐらい本堂の中でものいわぬ御仏であった。このような信仰は出雲臣が政治からはなれ、ただひたすらに祖神に仕えた日から民衆全体のものになっていった。宮本常一・風土記日本2」昭和20~30年代までの景色になろうか。

吉田から出雲街道を北上すると、三次から県境をこえて斐伊川に出会う三刀屋、木次までエビスと名のつく神社には出会ってない。この出雲街道の不思議におもえる。
もちろん島根半島東端の美保神社の事代主神もエビス神とされる土地柄で沢山鎮座されている。

出雲街道に比定して走っている旧道は旧国道であったり、県・町道であったりして、民衆の哀愁”がふと転がっていたりする。このかすかな古出雲街道での出会うとは走り続けるゲンキがでてくる。

それら古道が、どうしてもいまの車の幹線道に吸い込まれるポイントがある。そこは河川との出会いで通り抜けるには狭い場所や橋、河川の合流地点で歴史的に災害の発生ポイントであることを思うと、その共通性に対応してきたこれまでの歴史を感じる。八木・中島・佐々井・桂・吉田・青河・三次・頓原・掛合等々。すべて災害の記憶をもっている。

広島~一畑薬師 約170km・43里を二泊三日、もう町に一軒しかない宿をねぐらに「しずかな思い」でも味わいながら走ってみたいものだ。
吉田・いろは家、
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頓原・南天、
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木次・畑旅館、
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など、古びた宿が待っている。どこも、汗だらけ、を気にしなくていい感じです。一泊二食7500円以下でOK。

行き届いたホテルや高級旅館は、自分を委ねる宿であろうが、ただ今夜の宿をお願いする感覚も持てる商人宿とよばれるカテゴリーは、自転車の旅に気持ちを集中させられる。明日も自分で何があっても切り開く、のです。
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# by forumhiroshima | 2016-11-03 06:46

神の表札

10月の第二の土曜日曜の広島、南区丹那町の穴神社秋祭を手伝っていた。
神輿が、東の町はずれにある、御旅所の恵比須神社への巡行が始まって、人影も少なくなった境内にいると、お婆さんに声をかけられた。
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この町で生まれ、四十数年ぶりに祭りにきたと話されて、神社には100段の石段があったが?とその顛末を尋ねられた。人聞きに以前に整備されて広場がつくられたようだと答えると、南の高架の自動車道で遮られ見えなくなった海の景色が高台からよく見えたと懐かしがっておられた。

神社拝殿の背後のその海の景色正面に円錐形にとんがった山が小さくのぞいて見えた。これって、この神社と正対面しているのじゃないか?。海にむかって本殿がある神社は背後の山の神でなく、対面する島に関連しているように思えることがある。そして“円錐形”は賀茂の神、八咫烏の神の表札で、この穴神社となにか関係があるのか?と妄想が湧き出てきた。
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広島湾の南部、呉・休山、宮島、大野と烏伝承が点在し、山口の室津半島の賀茂神社、周防大島の三蒲は“御賀茂”からの地名だといわれ、大島大橋のそばの飯の山の容姿、
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岩国沖の柱島の賀茂神社と柱が神を数える単位であることやその島影
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、呉・休山の東の広から竹原、西条のある旧賀茂郡と賀茂神の痕跡が濃い。

穴神社の妄想は日本海へ走り出た。島根半島の北浦にある麻仁曾山は円錐形の秀麗な独立峰で古代の外港とされた千酌港へ目標の当山だといわれる。
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その麓の伊奈頭美神社の正月三日の祭礼、御的神事は海岸に緑豊かな枝を立て、そこに三本足の八咫烏がかかれた的を置き、矢を射るもので、ここにはるかな昔の賀茂神の到来を思わせる。
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穴神社にも賀茂の神がのぞいたことがあって、穴の神との饗宴でもあったのだろう、か。

麻仁曾山を囲む菅浦、稲積、北浦、千酌、の海岸は出雲国風土記の時代そのままの景色を残しているように思える美しいルートで、海岸のどこを覗いても、石神や祠が松に守られて鎮まってある。それらは、とても懐かしい者たちだ。これらの海岸の西の加賀からうまれた佐太の御子神の鎮座する佐太神社のすぐ南に風土記記載の加茂志神社があるが、祭神はイザナミ・イザナギとされていて、賀茂神ではないようだ。無念!なぜ、加茂なの。

京都・上賀茂神社の“立砂”はもっともシンプルに、都で上等にデザインされた象徴だろう。自分には都会のセンスでも“立砂”は砂山、いろいろな場所をうろついて見る円錐形の山に神々を見る。へそがまがってるから?
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円錐形の発見その都度、その傍へと引き込まれる。神社を探して、賀茂神を探す。賀茂は“神”だと語られることがあるが、円錐形って心の奥底までしみとおる「ナニカ」がある。それが “賀茂神”の正体だ。ただ、まだ不明さの中のナニカなのだけど。

出雲に出現した賀茂神はアジスキタカヒコネとよばれ、その名はアジ・すごい、スキ・鍬/農具という農耕の神とも鉄器の神ともいわれる。奥出雲の三沢に鎮座している。その妻、アメノミカジヒメの名」にあるカジ・梶も鍛冶がちらつく。この二人の間にタキツヒコノミコトができた、と風土記は語っている。このタキツヒコノミコトは島根半島中央部の神名樋山・カンナビとされる大船山にある石神とされる。烏帽子岩とも呼ばれる。円錐形がここにも表れる。
“カンナ”ビは、神隠び、つまり神が隠り鎮座します・ヨリチンザの意味、森林をさすことが多い。また出雲系といわれる神々の鎮座所に限るともいわれる(横田健一 飛鳥の神々)。

烏帽子岩の麓の多久谷あたりは、東に一幡薬師の谷、鹿園寺谷と北海岸へぬける道筋に田園風景がひろがっていて、稲刈りあとの田の野焼きに出会ったことがあった。谷、谷が煙に巻かれて車はヘッドライトしていた。集落そばの野火はとても珍しくどこか自然な営みに思えてか、懐かしい景色だった。自転車を置いて登った石神への尾根から見た、たなびく野焼きの煙が、野火をまだ許されるこの地を幻想に中で神々しいものだった。
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先日発刊された岩波新書“古代出雲を歩く”に「アメノミカジヒメは出雲市塩谷町に鎮座されていたアジスキタカヒコネに向かった位置で出産した、それを“向位・ムカイグラ”という。」とあった。
著者は出雲荒神谷博物館にお勤め。「ムカイグラ」は初めて聞く言葉だった。
生まれたタキツヒコノミコトのタキは多伎都比古と漢字されるが、タキは瀧だろうか。石神そばに滝がある。

アジスキタカヒコネがいたという塩谷の町で賀茂の神は出会っていないが、そのあたりはとても古い場所で、風土記時代の地図では出雲国の西の最も大きな平地。
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そこに流れ込む神戸川河畔には不連続だが、河畔に伸びるR184の対岸にスサノオの須佐神社方面に古道が残っている。一部は中国自然歩道にも指定されて須佐の上流から三瓶山の東側へ回り込み、またその支流にそれぞれに古道が残っている。ここの面白さは深い尾根底の道は午後には早くから暗くなり、民家も目印になる施設もなくて、自分の位置を失うことがあって、ホワイトアウトならぬブルーアウトしそう。日本海を背負う中国山地の山々や三瓶山、大山などの東側や南側には豊かな水流が多く、大きな滝もこの斜面に発達している。冷たい湿気のある風は夏走るにはもってこいだ。神戸川中流域に縄文の遺跡がみつかっている。その時代といまも渓谷の景色は同じではと、思うほど森が濃い。

神戸川河畔の古道の一つが出雲市塩冶で神戸川が平地にでる場所にある。その朝山には風土記記載の朝山郷庁舎のあったと推定される場所を通る道で、ホールドする時間が滲む出色の出来栄えコース。風土記時代の道だといえないか、いえる。この辺りは朝山郷六神山と呼ばれる山があると風土記に記載されているが、その場所の比定ができていない。このなかに稲積山の名があり、麻仁曾山のある島根半島の稲積をおもいだし、周防大島の飯の山をも、思った。

この古道から六神山の一つといわれる朝山神社の鎮座する宇比多伎山への登坂の途中に、風土記時代の古道のあった山が円錐形に見える。
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いきなりビックリ、ブレーキした。姉山と地図にあるが、六神山にある“稲積”ではないのか?イヤ、コレ、コレ、オレ見つけたゾ!と勝手に喜んだ。
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# by forumhiroshima | 2016-10-13 10:19

砂の器

「昨夜の雨で、うずたかく積まれた鉄の切り屑は、一夜のうちに赤錆びていて、なま暖かい風が窓から工場の中に躍り込むと、久しく忘れていた匂いを嗅いだように、深い息をした。春は鉄までが匂った。 小関智弘・錆色の町」
エッセイストで旋盤工の作者の語る“鉄の匂い”。芸北の鍛冶屋、のちに自転車店であった老人が、砂鉄には匂いがあると話していた。

「今西栄太郎は、署長の好意で出してくれたジープに乗って亀嵩に向かった。道は絶えず線路に沿っている。両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった。そのせいか、ところどころに見かける部落は貧しそうだった。
・・・仁多の町はこの地方の中心らしく、商店街も並んでいた。・・・眠ったような商店街の店先には、電気器具や、雑貨や、呉服物などがあった。「銘酒、八千代」の看板が目に付くのは、たぶん、この辺りで醸造される酒なのであろう。」
『松本清張“砂の器”』 亀高の巡査であった殺人事件の被害者を調べに奥出雲の仁多から亀高にむかった情景。栄太郎は刑事、映画では丹波哲郎が演じた。
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ここで書かれた鉄道、いまのJR木次線は出雲大川と古代呼ばれた斐伊川沿いではなく、まるで八岐大蛇のように大きく蛇行して、斐伊川に接するとすぐに山中へ向きをかえる。路線に沿って備後落合から宍道まで、太い、細い様々な道を走った。オロチルートと密かに命名している。
亀高の駅に東、横田から入った路線は反転して南下し仁多へ向かう。銘酒・八千代の醸造元の八千代酒造は廃業されて、奥出雲町出資の第三セクター・奥出雲酒造に変わり、銘酒・仁多米と名を替え、会社は亀高の町はずれで道の駅を併設し、以前TVドラマとして放映された「砂の器」のセットが店内に置いてあった。いまはどうなっているのだろうか。

JR亀高の駅は町はずれで、集落は駅の北3kmにあって“貧しそう”な町ではない。“道の駅”も駅から離れて集落そばにある。
亀高の南の仁多、東の横田、西の八代、北の比田と小さい盆地や川沿いの平地が点在して、どこも田園で静かで奥出雲の穀倉といわれる。

亀高の北になる比田に伝説がある。「播磨の北西部、伯耆の国(鳥取県)と県境に近い岩鍋、今の千草町岩野辺から金屋子神が白鷺になって、西へ向かい、出雲の黒田の比田のカツラの木に止まった。白鷺を見つけたアベ氏に『金屋子神である、ここで鉄を沸かす、鉄を吹く』と神託があり、地元の朝日長者といわれる者がアベ氏を神主として鉄生産を始めた。
それは、天明4年の“鉄山秘書”に書かれている。 谷川健一・地名と民俗学そして日本」
比田・黒田には金屋子神社が鎮座している。この神社が出雲のたたら製鉄の神・金屋子神の本拠だという。谷奥で民家も途切れた高い杉の森に流れが淀む池を配置した、重厚な雰囲気の境内奥に金屋子の神が鎮座している。カツラの古木も点在している。

奥出雲にはたくさんのたたら製鉄の遺構が残っていて、それどころか横田の大呂では、今もたたらの炉が稼働している。大“ろ”と呼ばれる所以かもしれない。遺構の羽内谷鉄穴流が山の神神社そばに残されている。広島・県民の森比婆山の鉄穴流遺構よりも大きい。
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砂鉄は花崗岩の砂を水流で強く流し、もっとも重い比重の砂鉄が残ることで採取される。この砂を流すとき、石垣で囲った水流の受け皿を用意し、後にここを田として作り替える“流し込み田”がつくられ、奥出雲の棚田の景色を出現させた。
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これらの田で作られる米は美味しいとの評判がある。「土壌がアルカリ性である場合、鉄がほとんど溶けていないため、植物は鉄を吸収できずに鉄欠乏になります。土壌中の溶けにくい鉄を吸収するために、イネ、ムギ、トウモロコシなど主要な穀物が属するイネ科の植物は、キレート物質の「ムギネ酸類」を根から分泌し、土壌中の鉄を溶かして「ムギネ酸類・鉄」として吸収しますが、これはキレート戦略と呼ばれます。 東京大学 農学生命科学研究科 プレスリリース」

砂鉄を含む酸性土壌では、この戦略を起こすことなく稲は必要な鉄分を吸収できる生育条件に恵まれて、鉄分のつくるうまみを多く感じられるといわれる。亀高の銘酒・仁多米にもそのうまみが詰まっているというのが、ここの戦略なのだろう。
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低い尾根に囲まれた小さな谷あいの盆地の棚田の底の川そばの車道から見上げる尾根の森と田との境界線に鎮守の森がポツンとみられる。どんな神様がおられるのか?と思っても、圃場整備された直線の急坂は敬遠しがちだった。ある時、広島の備北・庄原の中山峠脇の集落に登って、さらに見上げた尾根に神社の森が見えた。そこにおられた老人に神社の名を聞いてみた。「神社はこの谷の最初に造られた田そばに鎮座されたもので、そばからこの村で使う谷水がながれ出る。この村創設の場所だ。」と話してくれた。その時から、尾根に見つけた神社へ登り、その尾根を越えて、向うの斜面の村へと、ルートをつくることにした。草深い山村の創設神話に出会える気分が、きつい上りにあっても、ゲンキがでる。

そんな尾根を超える峠の道はどこも走る車もたまであるように、落ち葉や枯れ枝におおわれている。そのとき“砂鉄の匂い”を、効けない臭覚を目いっぱい活動しようとする。また、砂鉄のある場所に群生するという“ヘビノネゴザ”と呼ばれる金山草・カナヤマシダを探したりする。
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今も残る流し込み用の水路跡(例えば芸北・雲月山)の記憶から、そこの斜面にカンナ流しの水路を空想する。まるで鉄山師気分。いや、金屋子神気分。奥出雲や備北の道沿いに、箒を逆さに植えたようなカツラの高さ十数mもある大木にであったりすると、鉄山師たちの亡霊が現れる。もう空想は確信にかわり、「よぉ!」。ご機嫌さま、になれる。
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古代出雲の中心地の国府所在の大庭に鎮座する神魂神社の参道は黒田畦にある。黒田は鉄のクロガネの黒にかかわっているのだろうか。祭神はイザナミ・イザナギで、神社そばにこの神を納めたという神納に剣神社がある。

古代出雲神話には、この国創設場面に登場する「三大神剣」がすべて揃っている。
一にスサノオが八岐大蛇を切り刻んだ天羽々斬剣・アメニハバキリ。大蛇の尾から出てきた天叢雲剣・アメノムラクモ。この剣は伊勢神宮に置かれ、ヤマトヒメからヤマトタケルに渡され、草薙剣・クサナギケンと名を替えいまは熱田神宮の神宝になっている。
オオクニヌシに国譲りを迫ったタケミカズチが稲佐浜で突き立てた剣先に空中に座った剣布都御魂剣・フツミタマは高天原に帰り、神武天皇が熊野で苦戦しているとき、高倉下・タカクラジの倉庫に投げ込まれ、神武天皇にわたり、戦勝した。この剣は奈良・天理の布留神社の神宝になっている。ヤマト朝廷創建の神話は、古代出雲を経由してしか存在出来なかったのか、と。華麗なる古代出雲の剣の軌跡を見る。
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イザナミは火の神カグツチを産み、火傷で苦しむなか嘔吐を繰り返す。その嘔吐物・タグリから金山比古神・金山比売神が出現している。奥出雲の金屋子の神も金山比古神だとされる。イザナミは火の神を産む神としても記憶されていたのだろう。

「古代の製鉄は、古代規模においては信じがたいほどに大きな自然破壊をした。一山を丸裸にして木炭をつくり、その火で砂鉄を溶かす。そのため地球の半乾燥地帯で興った文明の多くがほろんだ。樹木をうしない、再生できず、それまでの盛大な冶金が衰退してしまう。
その点、日本は多雨な地帯であるため、森林の復元力がつよい。大陸の古代文明からみるとはるかに遅れていた日本列島が、いったん製鉄がつたわると、数世紀後には鉄器が豊富になり、他のアジアとはちがった社会が構成され、歴史の発展形態もべつな形をとった。その底には、その問題があるのではないか。そう思いたつと、出雲へいってしまう。そんなのが、私の旅である。 司馬遼太郎 1983・11 街道をゆく 西日本編」

出雲は山を削り、砂を流して、国を創った。その国を「砂の器」と
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# by forumhiroshima | 2016-10-02 11:47

信長の苦心

「今日の交通条件のうえを走っているかぎりは、信長の苦心などは、まことに実感をうしなう 司馬遼太郎 街道をゆく 1」
信長が37歳、越前の朝倉氏を攻略したとき、琵琶湖、信長の妹・お市を嫁にやっていた湖北の浅井氏が背後から攻撃を仕掛けてきた。慌てた信長は主従数駒で戦場から脱出した。このときの脱出ルートは朽木渓谷を南下し京都大原へ逃げ込んだ。小浜から都への鯖街道にあたる。この道の険しさを“信長の苦心”と司馬さんは表現している。

“今日の交通条件のうえ”を自転車で移動していて、それだけで、この国の最初の開拓者・パイオニアの気分を探そうなどと、考えている “妄想持ち”には、反論もできそうにない、司馬さんの言葉。だが、人の生活は地球を離れて暮らせない、その地球は長い時間を抱いて車輪の下にあると、ふと、自分の人生よりも遠い遠い過ぎ去った時間を感じることがあって、老体を転がしてしまう。こんなの○○って言うね。

出雲・熊野大社の谷は南北に開いていて、日陰がない好地で、家々が散らばってあって、明るくて、そして緩やかなのびやかに時間に包まれている。この谷から分け入る尾根への道は九十九で古い景色の中を高さをかせぐ。八雲山の山村の峠を越えての下りも九十九にあるが、そこはいきなりのガードレールの幹線道路で“自動車の空間”にぶつかる。そこで、「我に」かえされる。

熊野大社から、川沿いに下り、右からの来た幹線道路にのって、川を渡ると出会う登りに「神納・カンナ峠」との表示があった。そばに、宮内庁「岩坂陵墓参考地」の森がある。明治33年宮内庁指定陵墓参考地、イザナミの陵墓だという。神納!の名に妄想が反応して、急ブレーキ!。“カンナ”は神無月のカンナと頭の中で共鳴する。ナゼ?ここに神はいるのか、いないのか。と、

神はいます。峠を下るとそこは大草町“有”です。そこの神魂神社の神紋が「有」なんです。
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松江藩が江戸時代 上巻・1653年と下巻・1661年に編纂した地誌「雲陽誌」に「古事記いわく、イザナミ神は母里郷日波村(比婆)に葬と書く。後に大庭に遷し祭て、神魂大明神という。故に日波村に社なし・・・」と書かれて、遷して神を納めたことで、神納峠となったという。が、今その母里・比婆山に久米神社があり奥宮はいまも御陵とされている。ま、問題ない!

熊野大神のいます谷へ幾度か走ってきた。谷の西の大東には海潮温泉、熊野大社の境内にも温泉がある。温泉からスタートしそこかしこへ、夕刻のフィニッシュの温泉三昧出来る出雲を楽しんできた。そして古道を探して。幾つか古道の鼓動にであえた。

熊野大社から国府の大庭へ幹線道をさけてウロウロとさまよっていて、いつも振り返り止まって、ナゼ?とおもう場所があった。なぜか、そこに四次元にワープするドアーがある、と。

大社前を緩やかに流れてきた意宇川にそって下ると、川底が一枚の凹凸の岩になり、流れが白く落ちて渦巻いている。ここまでの穏やかな川面が、荒々しい流れの特異な景色に変わり、轟いて、また穏やかな川面に戻ってゆく。
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ここ、江戸初期の1650年にそれまで西から神納山の尾根が伸びて、川の流れは大きく蛇行していた場所が幾度も洪水をおこすことの対策で、この地の一軒の農家・周藤家の三代が50年にわたって、幅30m高さ20mを槌とノミで開削した跡だという。日吉切通しと呼ばれる。
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神納山から切り離された尾根の残りの上に剣神社が鎮座している。由来はイザナミとイザナギの黄泉の国の出来事でイザナギが剣を振るって窮地を脱出したことだという説明が「雲陽誌」にあるが、意味不明です。祭神はイザナミ・イザナギ。屋根の千木が縦と横に切られ男神、女神の二柱が鎮座することを示す珍しい形式だという。(千木のENDを男神は垂直に、女神は水平に切られる)
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すぐそばの神魂神社の参道が東西を女坂、境内への石段を男坂と特別に言われることと、共鳴してくる。なにか一つ気になっていることが、解けたようだ。神魂神社も祭神はイザナミ・イザナギとされている。
北の大橋川を越えて松江城の北に孫の佐太の御子神、叔母のキサカイヒメ、母のウムカイヒメが鎮座し、その親がカミムスビと風土記はいっているのだが、カミムスビを漢字では神魂と書く、神魂神社の祭神ではない。さみしいね。

日吉の切通しが完成する以前の景色は、出雲東部の八雲・天狗・星上山の山塊からの豊かな水流が尾根に受け止められ、留まり、谷奥へと広がり、そこは淀んで、鳥が飛び交い、幾つもの池に舞い降りて、行き止まりになる谷は、そそり立った尾根で、閉じられていた。

古代、川に阻まれた谷に入りこんだパイオニアがいた。それまで入れなかった谷に神の降臨を感じ、結界を造り、膝まづいた。この空間は神の庭で、出雲の国の支配者はその川下に遥拝場所を置き、後に国府をつくり、大庭と呼んで彼らの御祖のパイオノアを伝承のページにいれた。その歴史を祝詞としてかたり継いだ。
“四次元にワープするドアー”から見えた景色です。

谷の西に八雲山の山塊があり、尾根のヒダにいくつもの山村があり、その幾つかに風土記時代からの神社がある。その中心は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに・・・」の須賀神社。スサノオの新婚新居だ。宇留布神社、ウルフですよ、祭神はイザナミ。坂本神社はスサノオ。除川神社の祭神もスサノオ、河原神社はイザナギ・イザナミ。志多備神社はイザナミ・イザナギ。須賀神社の陪神は新妻のイナダヒメと、ファミリーでかこんでいる。大元の熊野大社の祭神はイザナギノヒマナゴで「イザナギが可愛がる御子=スサノオ」の意味だとウイクペディアは書いている。オヤジ・イザナギの海の神になれという言いつけを聞かずに、スサノオはイザナミを髭が胸まで伸びるほどの時間をすぎても、恋しがって泣き続けたというマザコン野郎だ。

だが、お姉さん・アマテラスが鎮まっている伊勢神宮には、スサノオの居場所はない。イザナギ・イザナミと兄弟の月読とがいっしょの摂社があるだけ。ファミリーは崩壊している。さみしいね。

ところで、ラッカディオ ハーンが国籍を取得した名、小泉八雲の「八雲」はどんな動機からなのだろうか。

八雲山の北山麓の熊野大社の谷に続く尾根に、日本一小さな公立劇場の「しいの実シアター」がある。車道からは、見逃しそうに、森の中にこの劇場はしずんでいる。
「108席しかない日本で一番小さなこの劇場は、演じている人のエネルギーを日本で一番に感じることのできる劇場です。しいの実シアターは、運営を行う劇団あしぶえの夢「100人劇場の建設」に、旧八雲村長が賛同したことで、あしぶえの預金、そして、全国のファンからの寄付が元手となって建てられました。しずかな森の中に佇む小さな木づくりの劇場は、訪れた人が“こころの食べもの”に出会える空間です。」劇団HPより
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古代から人々の心を刺激しつづけるこの森の“空間”には、いまも神々が鎮座している。神は森がつくる、と修正しなくては、ならないだろう。

「信長の苦心」を今も感じられる、そんな場所だとこの谷を思っとるのですが、司馬さん。
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# by forumhiroshima | 2016-09-21 03:46

神々の変遷

島根半島・佐太の御子神を祭る佐太神社には三つの本殿があって、中央・正殿にイザナミ・イザナ、北殿アマテラスとツキヨミ、南殿にスサノオと江戸時代初期の記録にある。いつのまにか、御子神がきえてしまった。そうなったのは中世からだろうと言われる(日本の神々7)。明治になって維新政府から正殿にサルタヒコとせよ、と命令が下ったが、神社は抵抗して佐太御子神としたが、このことで社格は低くきめられた。出雲二の宮に昇格したのは50年後だった。現在の祭神は13柱もおられる。神々が時代に洗われる。

余談。明治のこのころ、博物館の所蔵品は国の宝とされ宝物館に名称変更され、多くの宝の所有は皇室となった。以後国宝は宝物館に運び込まれたという。そんなこともあったようだ。昔話としても、忘れたい話です。

佐太神社裏山の「萩の一本・ハジノヒトモト」の社はイザナミの御陵といわれ、佐太神社のHPによると、中世・陰陽道の卜部家の説によって、八百万の神々は陰暦の10月になると、「当社にお集まりになり、母神を偲ばれるのだとされ、この祭りを「お忌祭」と呼び、」とある。海蛇との関係は分からない。
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平清盛が太政大臣になった1167年ごろ、京都の賀茂神社の賀茂明神が都から遁走する事件が起きる。朝廷は大騒ぎになる。その事件よりずっと前の944年に奈良・長谷寺で長谷観音が女人の身に変じ、京都・広隆寺の薬師如来に、当分不在になるから、あとは宜しくと願にきたという。(“未来記”より。)遁走する神もあるから、集まる神もある?ってことか。

出雲大社の神在祭11月11-17日は荘厳な絵巻物としておこなわれる。佐太神社では5月20-25日に裏神在祭11月20-25日に神在祭と二重に行われる。このほか朝山神社(旧暦10/1-10)、万九千神社(11/17-26)、神原神社(11/10-26)、神魂神社(11/11)、朝酌下神社(11/25)、日御碕神社(旧暦10/11-17)熊野大社(旧暦10/11)に行われている。調べた限りで一応参拝してみたが、出雲大社、佐太神社のほかは、“お忌み”どおりに、しずかな境内であった。来訪する神々は客殿に鎮まって、各々の神名も見せない。
出雲大社
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佐太神社
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だからといって、過ぎ去った中世の名残香をもたのしまない手はないよ。神在り、神去る、季節がもう出雲にやってくる。神魂神社の神紋の「有」がカッコいい。

佐太神社の御子神のお母さんのキサカイヒメ(キサカヒメ・風土記での名)の御祖カミムスビは「神魂」とかかれるが、この名の神社、神魂神社は今、イザナミ、イザナギを祭神としていて、なぜか、カミムスビ神ではない。イザナミ・イザナギの神々は神在祭に松江JR駅から南正面に直線でのびる道の行き当たりに鎮座する売豆紀・メヅキ神社を経由して佐太神社へ巡行したといわれる。
このルートを探して走ったことがある。売豆紀神社横は石段で参った。ただこの神社は昔に東からの移設だという。風土記時代のルート探しを中断していて、今も気がかりなのだ。
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ルート予想を伸ばすと、大橋川を渡れば、風土記時代の法吉郷の庁舎であった摩利支神社を通り佐太神社へゆく古道がある。法吉郷の「法吉」は風土記にウミカイヒメが法吉鳥・ウグイスとなってここに来たとある。法吉・ホウキは伯耆の国のことだろうか。法吉神社そばにうぐいす団地があるのは、出雲らしい、オシャレだ。伯耆の国が鳥取県と呼ばれる一つのその訳かも。
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ウミカイヒメは佐太の御子神の母・キサカイヒメと、オオクニヌシが八十神に騙されて坂道を転げ落ちてきた真っ赤に焼けた大岩を抱きとめで瀕死の怪我をしたとき、オオクニヌシの母親に頼まれて治療し、完治させた。この姫神二柱はカモスの神の子供たちだ。この治療した場所は伯耆の国の今の鳥取県南部町の赤猪岩神社で、焼けた大岩は赤い猪とされ、きっと「もののけ姫」の腐れ神となった巨大猪のモデルだろう、と思っている。
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その赤猪岩神社が麓にある母塚山はイザナミの陵墓がある場所の伝承がある。出雲と伯耆の国境になる山、出雲の東部の母里の東にあって、「母里」という地名にひかれて訪れたとき、地図の母塚山の名を見つけて、面白いとむかったことがある。米子と母里とに昭和初期に結んだ電車道が残っていて、雰囲気がいいのだが、峠にトンネルがある。暗くて怖くて入っていない。そこからは丘は連なり国境らしい景色もない田園地帯が続いて、自転車に走らされる景色のなかで、米子の市街地に引き込まれた。地名のことはどこかに忘れてしまっていた。そして国境も気づかなかった。あのトンネルが国境だった。

イザナミもイザナギも神様だから死去するなんてことが、不思議なんだが、この兄妹は夫婦でもある、アマテラスもツキヨミもそしてスサノオもその子供たちだ。神様だけに許される関係という不思議さだから、不思議なんだろう。

「かれその神避りしイザナミの神は、出雲の国と伯耆の国の境、比婆の山に葬りき 古事記」とあり、明治33年に政府内務省は「出雲母里郷日波山の比婆山は、古事記所載の出雲伯耆の堺、比婆山にして即ちイザナミ命の神陵なり」としている。
赤猪岩神社から10km南の伯太町横屋の久米神社の所在する比婆山は母里の町から5kmほど。伯耆の国境からすこし離れている。中国山地へ南下する高度をあげる道は尾根に撥ね返され北上するルートをいつの間にか走っている。そのうち今の位置を失った感覚に覆われる。松本清張の「砂の器」で放浪する親子が現れるシーンがそのうち自分にダブッてきた。これからは“力走り”になるぞ!。ダイジョウブ?

備後の国から出雲の国へ山地の峠を越える。西城からイザナミの神陵遥拝所の比婆山山麓の熊野神社を通り、西の吾妻山の西へ回り出雲へ下る。“大峠”と呼ばれる。下り終えた大馬木は牧・マキで、夏に出雲各地から集まってくる牛、馬を吾妻山山麓へ放牧させる牛馬道を車道に拡張された道路で、標高991mからの坂とは思えないほど緩やかさを持っている。大馬木の入口の背の高い一本のポプラがここから出雲とトウセンボするようだ。

広い田園の景色に道は山麓に沿って伸びて緩やかにくだる快適さに、ゴキゲンさんだったとき、プスッときた。パンク修理に田んぼ向うにある鳥居の神社の手洗い水をめざして、歩いた。雨模様で南の空を振り返ると、ポプラのような比婆山の烏帽子が起立して雲を分けていた。
イザナミの神陵の所在にふさわしい景色だった。
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明治政府は比婆山御陵を認めなかった。その御陵は烏帽子の向うになる。備後の国と出雲の国との国境ではあるが、古事記のいう伯耆の国との国境はもっと東の三国山になる。那智の滝まで用意されて、「日本書紀」の紀伊の熊野の有馬の花窟とよく似た設定も、維新政府を動かせなかった。
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# by forumhiroshima | 2016-09-17 09:57

藻汐汲み・竜蛇・ミサキ

松江市内の大内谷の住吉神社の氏子たちが、島根半島の出雲七浦参拝で訪れる集落を宮本常一が昭和14年にフィールドワークしたレポートがある。冬12月の訪問だった。
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宮本は七浦の東の笠浦で松江からのバスを降り、北の野波へむけて歩き始める。宮本は野波から西の加賀を通り、江角、古浦へぬける途中の片句、手結の集落をめざした。今は島根原発にならんである漁村だ。
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このコースを150年前、江戸時代1866年に歩いた小村和四郎ののこした紀行文に、「野波より加賀に超えるには、御坂という大なる山あり。船路が宜し」といわれ、船で加賀へむかっている。今は旧車道のチェリーロードか、新しく造られた詰坂トンナルをぬけている。

「野波の村で日が暮れた。宿をとりたかったが、少しでも先へ行っておきたくて、それからまた次の加賀村まであるくことを決めた。野波から加賀へは詰坂という峠を越える。相当な急坂で、さすがにリュックサックの重みを感じた。峠の上で月が光始めた。眼下に加賀の港が見える。いくつもの島が黄昏のうつろう海に黒く見える。峠を下りて谷にでるとハザにかけた稲の匂いがなつかしい。行きずりの女が「おしまいんされたの」と挨拶してくれる。
途中で旅館を一つ見つけたが、この先にもまだあるだろうとおもって歩いていると村はずれになった。道端にいる人に宿を聞くと、すぐ隣が宿であった。障子をあけて、泊めてくれと頼むと、支度ができぬという。しかたないので他の宿をきくと、さきほど見かけたほかにこの村にはないとのこと、ひきかえすのも無駄に思えて、次の村まで歩くことにした。どこか近くで風呂を焚いているらしい、煙の匂い、湯の匂い、人の笑い声がきこえる。道は海岸の上についている。月に青い海のかなたに鯛をつる船の火が美しい。潮騒がゆるやかにきこえる。 宮本常一・出雲八束郡片句浦民俗聞書。」
今もこの風景はかわらず見られる。そこらが島根半島だ。

宮本常一の旅はいつも前のめりだ。宿は民家を狙っている。旅館はフィールドワークとは相いれない、と考えているようだ。観光にきてない。
漁火と潮騒の夕刻のあと、加賀の村でなんとか民家に泊めてもらっている。“さすが!”というほかない。昼夜続けて200~300kmいやもっと走るツーリングイベントの参加者にも似て、常一さんはアスリートだと思える。こちらは宿舎に予約どおりに入る脚力はいつもなく、到着遅れますの言い訳電話のツーリングばかり。到着して風呂もらってビールやっている。常一さんの旅は、いつも理想なのだ。そう遠い“理想”なのだ。心がいつも萎れてしまう常一さんには
、やはり惹かれる。時短を作る、走力という武器を磨く、しかないのだが、な?

宮本常一は西へ向かい、御津からさらに西の片句の集落へ向かう。「御津から片句までの近道は山の尾根を通る。・・・尾根へあがると松原で、左手には宍道湖がけぶるように光っているのが見える。右は日本海、今日も隠岐の島が見える。途中で弁当を食べた。」
今この道の宍道湖側はゴルフ場になり日本海側は島根原発になっている。この道は原発に建設で作られたとおもっていたが昭和初期にあったことが不思議な道で、古道にある急坂直登の道はなく、ゆったりと高度をあげる。下りにある、民家もない深い谷に大師堂と四国巡礼の地蔵たちがある。

尾根であった老婆に片句で聞ける昔話の語り手を教えてもらい探す。そこで魯迅全集を翻訳した増田渉氏の岳父に出会い集落の歴史から暮らしを聞き出して、翌日も滞在し問聞きを続けている。

「室町時代ここの岬に奥州白石から片倉という武士一族が現れ城を築いたことから、カタクラからカタクになったと聞く。一説にはまた尼子氏滅亡の時、その武将の一人が逃れ来てここに住んだのではなかろうか、といわれる。当時は戦いに敗北した武士たちが、深い山中ばかりでなく、海岸の辺鄙なところに逃げた者が相当多かった。 宮本常一」

村の八幡神社の修復や災害時の造立は棟札によってだいたい20年ごとに修復がったことが知られ、それは「屋根をたぶん茅で葺いたためと思われる」。伊勢神宮の式年遷宮もこのあたりにその理由がありそうだ。この列島の気候では20年が建物修理の一つの節目になるのかもしれない。宮本常一らしく、遷宮を由来や伝承からその訳を語らない。だから納得する。

出雲半島で舟屋が見える集落が幾つかある。丹後半島の伊根の景色ほどの特徴はないが、それでも瀬戸内にはないので印象深い。日本海の干満の差は最大20cmで、集落も海岸そばに連なっている。片句では舟屋を作る場所がないため、石畳を海岸に傾斜につくりそこへ船を引き上げる。ここを“フナチ”と呼ぶ。瀬戸内では石段のガンギになり船は海に係留される。このフナチに採取した海藻を干したりしている。片句のフナチは半島の多くの集落に新しく作られた広い車道も狭い集落には入り込めなかった。懐かしい景色がまだ息づいている。
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それにくらべ墓地の家々の祖先の墓石はすべて新しい。大師堂でであった宮本常一が訪問した時代を知っていた老人は、墓石は原発の建設以後、地域に下されたお金で、各家で争って行われたとはなしていた。

「“リュージャサマ・竜蛇様”海が荒れるとき沖から竜蛇が漂うてくる。竜宮からのお使いだという。それを見つけると、これを社務所に持ってゆく。昔は非常に歓待して米一俵を下げわたしたといい、見つけた人や船は運が良いといって喜んだ。竜蛇の上るのは佐太神社だけでなく、日御碕神社・出雲大社でもあがる。大社のは大きく、日御碕のは白いのを特長とする。ただし日御碕にはたいした祭はない。宮本常一」
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ウミヘビを竜蛇様とよび、神社に奉献する人々を、運がいいネ!と笑っている宮本常一。宮本常一を雑誌・太陽の編集長として世にしらしめた民俗学者・谷川健一は「佐太神社の朝山神主の話では、夜に海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉にみえるので、漁師たちはその火の玉を網ですくって捕えるという。この南方産の海蛇は背が黒く、それによってセグロウミヘビの名を持つが平べったい尾には黄色の地に黒の斑点があって、人目を引く。」といい、「御祖のカミムスビの子キサカヒメが“くらき岩屋なるかも”といって金の矢で射たとき、光輝いたから、カカ(加賀)というとある。」と金の矢と金色の海蛇とをだぶらせて考えているようだ。漁火の海に輝くセグロウミヘビが神と到来を告げる景色が浮かんでくる。谷川健一は小説も書いている。ロマンチックな評論がすきだ。

竜蛇が海から奉献されるころ、出雲のいくつかの神社で神在祭か執り行われる。出雲大社の稲佐浜の荘厳な祭典にくらべ、佐太神社では本殿を注連縄で結界され立ち寄れなくなる。そして「最終日の夜の十一月二十五日に、神社から二キロはなれた神目の山の頂にある小さな池に小舟をうかべて、それを西北方の海にむかって送り出す儀式をする。佐太神社はこのように海とのむすびつきが大きかった。そしてそれは極めて古くからであったことが推定される。谷川健一」

この神事は深夜行われ、神目山もそこにある池も探すことをあきらめていた。が、
2010から2011年に通算10か月をかけて国内の各地の祭りに参列されたブログ“お祭り日記” (http://blog.livedoorjp/nadia420-travel)を見つけ、佐太神社の春、昼に行われる“裏神在祭神事”の記事に場所と貴重な写真がありました。
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神目山は恵曇へ入る運河を見下ろす尾根の先端ことで、古代栄えた場所を見下ろす位置にある。恵曇の古浦の浜で発掘された人たちは、大陸か半島からの渡来した人々と、その骨の分析から言われる。この人々は加賀の潜戸の伝承の角の弓矢を持った人々なのか、金色の弓矢の人々なのか。

佐太神社の祭神が、佐太御子神でなく、猿田彦(神武天皇を伊勢から道案内した神)とされてきた。明治政府は佐太御子神でなく猿田彦を祭れといってきたが、神社は拒否したという。

「猿田はミサキと同じ言葉ではないかと思う。佐太神社は現在島根半島の中央部にあり、ミサキではないが半島は狭田の国とよばれ、西の日御碕、東の美保ミ岬とミサキがある。
ミサキをサダという場所は伊予の佐田岬、九州・大隅の佐多岬があり、土佐の足摺岬も元は蹉陀岬であったが、船人が大隅と区別のためにアシズリといった。
渡来した人々にとってミサキは初めてこの列島に入る道しるべ・嚮導キョウドウであり、列島に鎮まりしのちにはすなわち境、外域、外側との区分をさしてミサキとなった。 柳田国男」
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# by forumhiroshima | 2016-08-30 18:36

イカの海

ずっと以前の夏、日本海海岸の民宿に夕刻、予定時間を過ぎてとうちゃくした。宿のお母さんがえらく無愛想で、ここまで公衆電話も見当たらず遅れる連絡も入れられなかったことが原因かと。


熱気のこもった二階の小部屋の窓をあけると、下の空地はイカが干されて、ヒラヒラしていた。お母さんが上がってきて、てんこ盛りの一夜干しのするめを短冊に切って醤油がかかった一皿に、これもてんこ盛りの丼ご飯がお盆にあって、夕食だ、と言われた。ビールを頼むと、返事がない一瞬がながれて、息子が船でケガして、病院にいくから、とことわられた。すぐに宿賃を用意して、ビール代金をたずねると、いきなり、冷蔵庫にある、!。

留守に客を置いておく不安と息子の容態の不安が彼女を混乱させ、遅れてきた客へのいきどおりもあったのだろう。

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風呂に水を張ってあるから、沸かしてはいれ、と言い残して飛び出していった。風呂を焚きつけて、ぬるく沸かして、飯はむすびにして、風呂上りに畳の上のお盆の前に座った。冷蔵庫にあった漬物に冷えたビール、柔らかいするめ、いや 少し風があぶったイカ刺し、がまたうまかった。リラックス、リラックスで、もう我が家気分。食い足りない分は空地のヒラヒラをとってきて、勝手な追加をして、翌朝話すと、サービス!。息子さんもかえってきていた。


鳥取・境港の出身のノンヒィクション作家・足立倫行の「日本海のイカ」はイカ漁を十一回漁船に船員として乗り込んで書かれている。

夏の日本海の漁火は水平線に浮かぶ。水平線までの距離はたかだか45kmだそうだ。

「西日本近海から東シナ海にかけての広い海域で生まれたスルメイカは、水温の上昇とともに対馬海流に乗って北上し、北海道沖からサハリン沖(一部は黒潮にのって太平洋)へ向かう。グループごとに時期をずらして北の海に到達すると、今度は反転して産卵のために南下を開始する。成長のためのエサ取りの北上、産卵のための南下、このことで沖合の潮境や離島周辺にいくつもの漁場が形成される。 日本海のイカ」


対馬周辺と隠岐周辺が北上するイカの最大の漁場で、南下は本土よりのコースをとるため、夏には海岸からイカ釣りの漁火がみられる。イカの反転と、サンマ漁の始まりが、季語の「初汐」なのだろう。毎朝に海藻を海岸から引き揚げ、神への奉納とすることは、海へ伸ばした手のひらが感じる海温や海藻の鮮度の手触り、引き揚げた海藻の種類で感じること、かもしれない。海人たちの海の変化への気遣いを感じる。


「古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐の島の存在がかくされている。千酌から隠岐へは通い船がいたことは出雲国風土記にもみえているが、隠岐は沖であり、また身を隠すところでもある。   谷川健一 出雲の神々」


“河船の もそろもそろに 国来・クニコ、国来・クニコと引きすえ 縫える国は、”と国引きを歌ったヤツカミヅオミヅノ命を祭る神社、富神社や長浜神社などに海藻が供えられることを、出雲人がずっと昔、地球規模の温暖化による海進で離れてしまった国々への記憶の確認のようにも思う。

「クニコ、クニコ」、離別した恋人への叫びにかんじるのは、演歌すぎようか、クニコ!。


海の季節の冬への移ろいを「出雲は、“お忌み荒れ”といいならわしてきている。この烈風吹き荒ぶことを、サダンサン風、サダンサン荒れ(佐太様)とも呼んでいる。対馬海流に運ばれてきた南方産のセグロウミヘビが岸に打ち上げられる。そのヘビを玉藻・ホンダワラの上にのせ、神におさめる。 谷川健一」


千酌の海岸の四角な小屋ほどの巨石が座って、そばに爾佐神社(出雲風土記社)が海の正面真東の円錐形の麻仁曾山と対峙している。ここに都久豆美命が祀られる。クツズミじゃない、ツクツミからチクミという地名が発生ともいえなくはない。が、「沖縄言葉がわかりにくいのは、母音のエとオがかけてしまって、星をフシ、馬をンマ、夏をナチ、月をチチといったりする。街道をゆく 6」この祭神・ツクツミの「ツク」は月のことだといわれる。チチクミがチクミに。月が黒潮に乗って沖縄からやってきたような。隠岐の島も対馬海流に囲まれている。

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隠岐の島からの船が月夜千酌湾へ入ってくる。船は登ってきた月と麻仁曾山を合わせた方向に船首を向けて、右岸の月明りに照らされた鳥居へむけて、船首をターンする。・・・・。

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千酌から北上すると野井の集落にでるが、そこに風土記では「戌・マモリ」沿岸警備施設があったと記述している。弥佐加志能為神社そばに巨石があり、後の世に、隠岐に流された後醍醐天皇

が島を脱出した際にここに接岸した伝承があつたりする。メインの港、千酌をさけたのだろうか、それとも兵舎へなぐりこんだか?


西へむかうと野波の集落へ入る。整備された二車線の車道は「まっすぐな 道で さみしい 山頭火」がぴったり。集落にも山影にも、かかえきれない時間の思い出がうずくまっているだろうが、車道はただただ急がせる。


それでも走ることが、喜びになる道が現れる。野波の集落から峠越えにはいるとすぐに、チェリーロードの標識のある分岐にであう。きっと旧県道の道が、桜の並木で整備されていたのをリメイクして売り込みを図っている。その姿勢、買った!。

新しく隣の町との連絡道ができると、桜でかざられる時代があったようで、道幅の拡張はのがれたが、どこも静かな、車の往来も少ない「桜が散って さみしいが 車こなくてうれしい コヒチ」。すぐに新しいトンネルのある道に合流する。トオンネルを避ける旧道がない道は新しいはず。集落の連絡は船でしかなかったのだろう、か、海岸の波打ちぎわと高みをはい登る道なのか、そのころを想像する。日本海海岸で岬に遊歩道がたくさん整備されているが、集落の連絡道でなかったか、とおもっている。


加賀の潜戸のある瀬戸の鼻に灯台があり、そこへメンテナンスの道が伸びている。ここで生まれた佐太の大神が鎮座した佐太神社のある朝日山の尾根が見える。屏風のように横長な、当て山でもなさそうな山に鎮座させようとした古代の人々の思いには近づけなかった。

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# by forumhiroshima | 2016-08-05 10:10

海藻・汐汲み・産土

佐太神社本殿への石段の右に海藻をかける竹棒の棚がある。海藻だけでなく竹筒がさがっていることがある。

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周防大島の久賀町の八田八幡宮の鳥居に小さな汐汲みタゴがくくられてあったのが、最初の出会いだった。澄んだ海のきらめきの朝に潮をくみ、参拝するその時間の豊かさが、望ましかったし、この町のそんな時間を見つけられたことがうれしかった。


「千年もまえにほろんだかもしれない古代が、このあたりでは民俗のなかにいきいきと息づいて、神々がなお暮らしの文化のなかで舞い立ったり舞いおりたりしているような----

現実なのかロマンなのか、空と海の境のようにびょうびょうとしてさだかでない----感じがある。 司馬遼太郎 街道をゆく6 沖縄・先島への道」

司馬さんが琉球文化について、こう語っている。自分に、”出雲”に同じ思いをもって走ったことがある。


松江市内の東の岡のふもと、島根大学そばの朝酌川の対岸の小さな谷にある集落大内谷へ走った。朝酌の多賀神社から島根半島の千酌へ、「朝酒を酌んで、海でしっかりまた酒を酌む」などと風土記時代の道を想像しながら、むかっている途中の寄り道だった。


出雲国府そばに古代山陰道に佰阡・チマタと呼ばれた十字交差点があり、山陰道は正西道とよばれ、石見へ向かい、北へは枉北道・キタエマガレルミチと呼ばれ、北へ正面の風土記では女岳山とある和久羅山へ向かっている。古代道は郡家とよばれる役所を連絡する道で、役所はだいたい神社の場所に想定されていて、地図にその間を今の道に落とし込むしか想像できない。この予想と現実に、走ってそこで発生する落差がいつも混乱を運んでくる。その落差はとんでもなく勾配にある道に入ったとき発生する。古代の人たちはとんでもなく強健な脚をもち、目的地へは基本ストレートに向かう。その理解を忘れて彼らのルートに入ると、自動車走行に馴れきった自分の道に対する認識が、混乱をもってくる。オレは古代には対応できてない。そしてそのシンプルでストレートさが、古代道だという確信をひきだす。

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大内谷の集落は古代の幹線道からはずれて、三方を尾根囲まれて、朝酌川にむかって西向きに家々がかたまって、北側の尾根に住吉神社と薬師堂が路地の奥にある。家々の玄関先の木立に汐汲みの竹筒がぶら下がってないか、キョロキョロと路地をまわってみた。

「この集落には江戸時代から、春3月に潜戸の加賀へゆき大芦、御津、片句、手結、恵曇、古浦の出雲七浦を汐を酌みながら回り、秋9月は、この逆にまわり汐を汲み、手結・タユで海藻をとって持ち帰り、住吉神社に塩草を奉納する。竹筒は庭の立ち木に下げる。」との記事があった。大内谷の庭先の竹筒は見つからなかった。

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出雲では奉納する海藻を“塩草”とか“ジンバ”といって、島根半島の四十二浦の汐汲み遍路の神社でもみられる。特に海藻を掛ける棚を“出雲掛け”といって特別に「出」のデザインも長浜神社に設置してあるし、斐川町の富神社では出雲注連縄に掛けられる。

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海藻の奉納を考えてしまう。潮による穢れの洗浄ということだろうが、潮は神様にならないが宮本常一の言葉だが、店先のしろい円錐形の盛塩は魔除けの神々しさだと思う。


俳句の世界で、”初汐”は仲秋の名月の季語だと聞いた。秋に”初汐”って、どうなん?だろう。

海藻は秋に海水温がさがると、胞子が放出され(遊走子)岩に着床する。生命の交代がはじまる。海水温の低下は外気の季節変化によるより、寒流の南下によっての影響が大きい。この列島に南下してくる寒流を親潮というのは、海の生物の基本の食糧の海藻の着床やプランクトンの成長が寒流の南下によるからだ、といわれる。”親潮”たる所以。


海の人々のサイクルのスタートが秋に始まるということ、それも仲秋の名月の夜の大潮からということが、俳句の季語になったのだろうか。稲作の人々の山の神の水に匹敵すること、かもしれない。


枉北道・キタエマガレルミチは、島根半島の稜線の山々にとりつく。すぐそばに”折絶”とよばれた地溝帯があっても、ストレートに千酌へ向かいたい様子。半島の南北の連絡でもっとも短い手角から北浦--千酌の5km標高30mよりも、4km標高160m忠山(風土記では墓野山)が枉北道・キタエマガレルミチになる。今は林道と整備されて勾配が蛇行ルートで軽減されている。目の前のピークに迂回しながら登る歩行者はいないだろう。昔は直登が基本だ。移動することが、まるで無駄のように、急いでいる。彼らに「旅」は感じられない。


バリアフリーのスロープの斜度は1/12もしくは1/18に設計される。手角からコースはこの斜度に近い。昔、大先生から、緩やかな斜面を、ペダルを踏まない感覚で走行することができれば、登りを体得できると教わった。そんな昔をこの坂で思い出したが、今もって体得できていない。むろんMTBの世界の話ではないが。


多くの島根半島にある小さな岬は断崖と岩場で上から覗き込むこともできない。灯台のある岬へ灯台のメンテナンス用のルートで突端にでることでやっと海にあえる。

ラクチンルートで着く北浦・稲積は半島の中でトップクラスの景観があり、岬と浜に神が、穏やかにひそやかに鎮座しておられる。幾度か訪れたのだが、集落の景色の記憶はない。海しか見ていたい。


出雲大社の本殿奥の曾我社には砂を参拝に持参する。福岡の海ノ中道の先っぽの志賀島の海神社もこの砂を持参する。古代の最大の海人集団の中核の神社。なぜ、砂なのか?

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よく分からない、といったのは柳田国男。総合雑誌「太陽」の初代編集長だった民俗学者、谷川健一が敦賀湾の西側、立石半島の海岸に西浦七浦と呼ばれる部落がある。集落の海岸に産屋が以前はあった。その産屋に砂がひかれているのと土間になっているのがあった。集落の老人の話として、お産が終わった母親は新しい砂をひいて小屋を去らねばならない。その砂を「ウブスナ」と呼んだという。

ウブスナは、「産土」と書かれる。それは砂から三和土にかわって「産砂」が「産土」になったからだという。


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# by forumhiroshima | 2016-08-03 21:53

破魔矢-5 出雲の黄金の弓矢

くにびき神話が歌う“童女の胸鉏ムナスキ取らして、”が気になっていた。まだ膨らんで・・・

NHKスペシャル 日本人はるかな旅4

4500年前に中国で稲作を始めた人々は、あるとき、イネは湿地でうまく育てると、米粒が飛躍的に大きくなっていることに気づいた。そして、自分たちでコントロールできる人工的な湿地、つまり“水田”を作るという発想にいたった。

農具ひとつ見てもすごい。これまでの動物の骨でできた申し訳程度の鍬に比べ、100倍以上の威力があると思われる「石犁・セキリ」(鍬)。一辺が50cm以上もある三角形をした巨大な石の農具である。周辺部が切れんばかりに研かれている。水牛に引かせて田起こし作業に使ったものらしい。」

この「石犁・セキリ」(鍬)が、鉄製に代わって、くにびき神話のある“鉏”となったのではないかと。童女は早乙女たちではなかろか?と“胸」”の高尚な結論らしいものを見つけた。幻想、だろうか。水流を導くのが「畝」で田を区分するのが「畔」、これらの文字が水田の発生を感じさせる。4500年前、この列島では縄文時代、土偶を彼らは造っていた。縄文の匠たちの作品。国宝製作中です!。

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くにびき神話の島根半島に「矢」の神話が語られる。

出雲国風土記の加賀郷の項目、「加賀・カカの郷、佐田の大神、生まれししなり。御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメ、“闇き・クラキ 岩屋なるかも”と詔りたまひて、金弓もて射給ふ時に、光かかやきぬ。かれ、加加と云う。(島根郡の項)」

後のページ、加賀神埼・カカカムサキでさらにわしく追加説明される。「佐太の大神が加賀の潜戸の岩屋で生まれようとしたとき、御祖のカミムスビの弓矢がなくなった。キサカヒメ命はこの子の父親が麻須羅夫マスラオなら失った弓矢出てこい、と祈願。すると角の弓矢が流れてきた。キサカヒメがこれは違うと投げ捨てると、こんどは金の弓矢がながれついたので、矢をつがえて洞穴を射通した。」

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キサカヒムは古事記にも登場している。オオナムチ(大国主・オオクニヌシの別称)が八十神に焼けた大石を抱かされ瀕死の際に、オオナムチの御祖・ミオヤ(母親)がカミムスビに救助を懇願し派遣されたのが

古事記ではキサカイヒメ、とウムカイヒメの2女神。女神たちが体から生み出した乳汁で完治させる。

キサカイは赤貝、ウムガイは蛤で“浜栗”。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの娘の子、カミムスビの孫になる。おやじさんがマスラオというショザイ不明で、山城の賀茂神社の祭神の設定ににている。が、佐太の大神誕生説話では、角の弓矢、黄金の弓矢と二重の矢が登場する。この複数の矢の登場が佐太の大神誕生の舞台の複雑さを感じさせる。

地球温暖化による縄文時代の海進は現在より24mほども高い海面だった。それが、人々に貝塚をつくらせるほど、豊富なたんぱく質を提供した。

御祖神魂命、ミオヤカミムスビの御子、支佐加比売命キサカヒメの子・佐太の大神が鎮座した、そのそばに佐太講武貝塚かある。ここを江戸期に割って佐太運河が宍道湖から日本海へ通された。

運河の河口、恵曇の集落から佐太神社周辺は九州で水田耕作をはじまた人々が使用した遠賀川土器が縄文土器とともに発掘され、古墳も点在している。神社前まで佐陀水海があったと、風土記に記載されている。湖水に点在する農民たちの小屋のかたまりはわらぶきで、赤い蟹ではなかったろうが、きっと美しい景色だったろう。

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松江のアウトダアーショップの
HPに出雲各地の水彩画がアップされる。恵曇へ宍道湖から流れ出す佐太運河のスケッチから古代の景色の音色が漂っているようにおもえた。出雲のそこかしこの、あの音色が。

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出雲の音色のひとつ、いや異音の一つに、佐太神社の境内南奥からのぼる母儀人基社がある。磐座があり、そこに広島県との県境の比婆山から神陵を移したとの伝説がある。佐太神社の江戸期の祭神は正面にイザナミ、イオザナギ、右側にアマテラス、ツキヨミ、左側にスサノオと秘説4座という。風土記にあらわれた佐太の大神は鎮座していない。現在の神社のHPでは猿田彦と同神とあった。一方この磐座は「萩の一本・社」と江戸期にはいわれ、ここが元宮でいまの社殿は物置であったという。土地神に渡来の神が覆いかぶさる異音が響いている。

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風土記では聖地・甘南備山の神社北西の朝日山麓とかかれており、いまの社地とはかけ離れている。朝日山山麓から銅剣・銅鐸が発掘されていている。恵曇の佐太運河の西側の尾根の谷の古墳時代の木工所が発掘され、丸木舟の船べりにつける舷側板が発掘されている。海岸の砂浜と運河にかこまれた古浦は古道そばに祠のような小さな神社が海を見ている。浜辺で発掘された頭蓋骨には銅製の鉢巻きが食い込んでいた。シャーマンだといわれる。海士の岩戸でアマノウズメは天の日影と呼ばれたタスキをかけ、天の眞折・マサキというハチマキをして踊った。これが発祥だという。この国のわからない飾りは古代の神話・伝承からが多い。

恵曇の海岸の町は砂丘の上にできた縄文時代からの古風が埋まっている、などと思うと、砂で埃っぽい古道も、出雲のそこかしこのあの音色の音響装置にかわってくる。松風に波音、係留された船の軋み、と、どこかに引きずり込まれるシャーマンの祈りにも思える。

佐太運河そばに恵曇神社が二社ある。風土記では三社が見える。神々の庭で人々が暮らしている、そう見える。祭神の磐坂日子命は神社奥の磐座イワクラに座って(だから磐座)「ここは国雅くうるわし」とのたまいわが宮をここにつくることになったと風土記にある。神々の庭は寿ぎされていたのか、監視されていたのか。地名をつけたりする神々は侵入してきた人々の神だ、との話も聞く。夏の日本海は穏やかに波を送ってくる。ここを過ぎ去った喧騒の時間の波動もやってくる。濃い時間に包まれてしまいそうだ。こうなると、

駆け込む先は海岸通りのみなと食堂。ガラーと戸を引くと、一斉に視線があつまり、一瞬の間があって、男たちはビール瓶へと興味がかわって、解放される。ビールと煮魚ください!。もうエスケープルートを走るしかない。ならば、とはりだされたメニューを丹念に読むことになる。次の注文はドッチ!

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# by forumhiroshima | 2016-07-30 19:07


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