こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

破魔矢ー2 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

奈良・三輪の神、大物主・オオモノヌシ

奈良盆地の東の出雲郷に拝殿がある三輪山の神、オオモノヌシ(出雲・オオクニヌシの別名)が大阪・茨木のセヤダタタラヒメに惚れ込んで、彼女が厠に入っているとき、「丹塗矢」となって陰・ホトをついた。その矢はオオモノヌシが変身したイケメンになって、ヒメはすっかりまいってしまって、生まれた娘はホトタタライススキヒメという。のち神武天皇の妻となる。初代天皇は大物主の孫となた。

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天照大神の孫で九州に降臨したニニギ尊から3代目の神武天皇は九州から東征にでる。安芸国埃宮に7年滞在したという。大物主は出雲の神、国津系の嫁から天孫系の天皇が生まれている。

地方の支配者がヤマト朝廷の支配下に入ることになって、ヤマト朝廷を守る兵力となる。神々しい武器「矢」を受け取るのは、その承諾の証だ。天皇を寿ぐ歌・君が代を聞き、氏神の神社で破魔矢をうけとる現代の正月の景色は、古代の再生の演劇でもある。「安心・安全」も「ゆだねる混迷」もそこにある・・・。


「矢の神話」の大物主だが、「蛇」の神話もある。「矢」の神話より古い、らしい。

大阪・河内のイクタマヨリヒメという美女の寝室に真夜中フッとイケメンがあらわれ、“相見るやすなわち”契りをかわし、美女は身籠った。父母がその正体を心配するので、その素性を知ろうとした姫は、赤土・ハニを床周辺にまき、針に麻糸をつけイクメンの袖に縫い付けた。その糸は戸の小さな鍵穴をぬけ三輪山に到っていた。糸巻きに残った糸は三回りほど(ミワ・とシャレてます)。小さな鍵穴をぬけることができるのは小さな蛇しかいない。


ヤマトトトビモモソヒメはオオモノヌシの妻となったが、昼は見えず夜にだけ姿をみせた。暗くて見えないので、朝の明るさの中であいたいと頼むと、そうなら、朝に小さな櫛の箱に入っているから驚かないように、といった。朝、櫛の箱を開けるとそこに小さな蛇がいて、驚いて腰をおとしたはずみで、そこにあった箸で陰・ホトを突いて他界した。彼女を埋葬したのが箸墓。生まれた子がオオタタネコで、宇佐神宮の神主に朝廷から派遣された大神氏の祖とされる。


三輪山の南を流れる初瀬川をさかのぼる道は狭い谷間を鉄道の路線と平行して東へむかう。旧道も新道と交差しながら残されている。出雲という名の集落をぬけて、路線は峠へ右に登りだすところから初瀬川は峠をつくる尾根から分岐して、くだってきて小さな尾根が北側に道を分ける。そこで江戸期の伊勢街道、いまの国道から外れる。初瀬の流れが鋭角に変わる正面に興喜天満神社、その川向うに長谷寺の有名な登り回廊が現れる。

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長谷寺の本殿は舞台造りで、観音さんのお寺は京都・清水寺もそうだけど、観音霊場には、この建築様式が多い。
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舞台造りであれば、どこも観音さんがおられ、そこは必ず景色がいい。観音と舞台造りの取り合わせ、なぜだろうか?崖に木組みして、鎮座の場をつくろうとする人々に、思いをめぐらすことになる。自転車の登りに入る時のあのため息が、この人々にはなかったのだろうか。鳥取・投げ入れ堂が究極の舞台造りで、究極の“登り”かもしれないか?と山陰最強の登坂コースをおもった。

長谷寺をでてからの上流はダムを越え急坂になって、谷間の壁を縫うようにのぼってゆき、やっとの平地で数戸の集落にでる。その集落の小道をたどると「出雲の大国主の娘、下照姫」を祭るという瀧蔵神社が尾根の先っぽに高い石組みの上に鎮座している。

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出雲神話によると、天照大神から派遣された天稚彦・アメノワカヒコは大国主命の娘・下照姫・シタテルヒメとの恋に溺れて報告をしなかった。天照大神はその訳を尋ねさすために、“雉の泣女”を派遣した。この雉の泣女を稚彦は、天から持参してきた天鹿児矢アマノカゴヤで打ち抜いた。その矢が高天原にとどき、そこで神々に投げ返された矢が天稚彦にあたり死んだ、と神話がある。(天稚彦は恋に溺れる男、俳優の津川雅彦の雅彦はここから、などと・・・アホ!)


ここに出雲神話舞台に出演するオオクニヌシの娘シタテルヒメが鎮座するという。三輪山の主人・オオモノヌシにはシタテルヒメの話はない。大国主・オオクニヌシと、大物主・オオモノヌシは同一の神だという。不思議が包む神話たち。その不思議へ走りこむこと。「今」のすべてがマスキングされて、夢の時間に突入する。神話世界にのぞき込む。


大物主鎮座の三輪山の奈良盆地からみれば背後、高い尾根に囲まれた地、ここは隠り国とよばれる。出雲では大国主がこもった幽冥界は西の海の果てといわれるが、奈良の幽冥界を走りたかった。出雲の海では走れない。瀧蔵神社から数kmの初瀬川の源流域に伊勢神宮の斎宮となった大来皇女が旅立ちの前の禊をしたという滝つぼの伝承地がある。

大来皇女は673年拍瀬斎宮入宮の記録があり、その禊の伝承地近くはすっかり開発されて広い農地に整備されていた。初瀬川へ落ち込むいくつもの尾根の背にある道は古代伊勢街道になるのだが、その道がぬう小さな集落は過疎の景色もなくて古びている。7世紀にはあったのだろうと、古道を思った。宮本常一は最初に開かれた道は尾根をぬう道だといっているが、それを確信した。ここを大来皇女が旅した!。そこを走っている、のだ。

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隠り国にオオクニヌシの娘の鎮座しているということ、そのことが、隠り国の証なのかもしれない。JRの列車が長谷寺そばから、峠を抜けて下りだすところに名張川の流れが現れ、列車はそれにそって走り出す。この峠は墨坂と呼ばれ、”隅っこ”でやまとの東端にあたり、そこから始まる隠り国の”隠”は“なばり”と読むという。名張をぬけると川は左にU字に大きく迂回する。そこから、古くは“泉川”いまは木津川とよばれるように名を変える。迂回するポイントが隠り国の国境なのだろうか。迂回ポイントを川からはなれて東へ向かうと伊勢神宮への道になる。このルートが“太陽の道”。

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名張は奈良・東大寺のお水取りの松明の奉納の地。水は北の日本海・小浜から。火は伊勢を背景とする隠り国から。その山中に女高野・室生寺がある。ここも、舞台造りに、観音さまがおられ、隠り国の盟主のようだ。

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# by forumhiroshima | 2016-07-14 09:38

破魔矢-1 正八幡社

爾保姫神社の石段横の由来書きに、9世紀「正八幡神社」になった、という由来が気になった。八幡神に由来する人々が仁保島に到来して、爾保姫信仰に覆いかぶさった。となってとしても、「正」が八幡神になぜ、つけられるたか?と。

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以前に周防大島の東端、北海岸・伊保田から南海岸・由宇へ尾根越えをたどっていて、坂の戸口に「正八幡神社」のカンバンがあった。初めて出会った「正」が気になって、伊保田郵便局の局員さんに“伊保田八幡神社”ではないのか、と配達先情報を聞き出そうとした。自分の神社フェチの魂が確かめろと!うるさくて尋ねてみた。返事は“イヤ、正八幡ですよ”。


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8世紀初頭に九州南部大隅郡で隼人の叛乱が連続して勃発した。朝廷は大伴旅人を将軍として鎮圧に派遣し、宇佐八幡神を辛島氏が巫女としても付帯派遣され、ゆえに神軍といわれた。この企ては、大和からきた大神氏がおこなった。(大和 岩雄)

(余談・お父さんが旅人、息子は家持、ユーモアある一族ですネ!)

辛島氏は大隅に八幡神を鹿児島とよばれた場所に勧請した。その場所には隼人の守護神の「石体宮・シャクタイグウ」があり、その上に社殿が建立された。708年和同元年といわれる。そこは記憶を残して、今も隼人町とよばれる。

この討伐戦の前、隼人の居住地の大隅に、新羅から豊前国に渡来していた「秦氏」を約5000人を強制移住させていた。討伐される側の隼人、移住さされて、征服する側の泰・辛島氏、(韓島を連想?)そのプロデューサーが大神氏、の構図。大神氏は奈良・三輪山の大物主の祭祀権を新しく(といっても紀元前2世紀ごろ、神代の時代の話)獲得したといわれる。

辛島氏はいつのまにか、宇佐八幡の神の祭祀権を大神氏にのっとられ、それなら、と大隅の八幡神こそ本物「正」と付けた。大隅正八幡宮が創建された。まさに、本家、宗家争い。

「正」家側は祭神を「震旦国・中国の陳大王の娘が、夢の中で朝日を受けて身籠った。王は空船・ウツボフネにのせ、海にながした。漂着したのが大隅で太子を八幡といったと由来を語った。宇佐のウもでてこない。この伝承が鹿児島という地名をうみだした、という

出雲の国譲りに最初に降臨したアメノホヒ・出雲千家の祖先が報告しないので、その偵察に下されたアメノワカヒコも大国主の娘シタテルヒメに溺れてしまった。そのアメノワカヒコにあたえられたのが「真鹿兒・マカゴ矢」、銅製矢じりの矢という。時代は銅鐸、銅剣、銅矛、の銅、アカガネは神聖なものとされていた。った。伊保田の正八幡神社があるそばに日向泊がある。南九州からの波動の軌跡を感じる。

爾保姫神社が正八幡社であったこと・・・、本家でなく宗家がやってきたこと・・・、ここに白い羽根の神話があるということ・・・。

やはり、謎は謎で・・・。

所用で福山へ車で行くことになって、帰りに忠海の岩風呂へ寄ることにした。海岸の岩肌をくりぬいて、海藻を敷き詰め、枯れ木を焼いて洞内をものすごく熱い空気で満たしたところへもぐりこむ。大きなピザの竈みたい。

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この岩風呂は以前瀬戸内の島々には見られたといわれるが、知っている限りではこの忠海の風呂だけになっていると思ていた。その風呂が8月末で廃業と聞いていて、尋ねたかった。アツアツの体を海辺に投げ出して、潮風ってこれか!と感動する。その時間の確認だった。

沖の船の速度のように、進まないが、その時間がいとおしい。その時間の在処の廃業、残念です。

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# by forumhiroshima | 2016-07-12 14:22

ついたちまいり

月初め、1日の爾保姫神社の早朝からの参拝者の数におどろく。この朝、拝殿では参拝者に御幣でのお祓いが行われ、神様へのお供えが下りものとされ参拝者に配られる。

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宮司さんも挨拶される。いつもは10円のさい銭を100円にした。朝日にシルバー色にキラリひかって、さびしそう。1/2キリンラガーカンビール円、さよなら!!

不審火で全焼した本殿は伊勢神宮の外幣殿を移設して再建された。立て替えても、変わらず本殿は北の空にむかっている。常陸国・茨城の鹿島神宮も北面している。神社は普通南面し、神の指南をうけとる。その中で、不思議な配置だが、国東・宇佐神宮も聖なる山を本殿は対面し参拝はその間で行われる。

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熊本地震でひどい被害をうけた阿蘇神社の横参道がよく知られている。参道は阿蘇の中岳に向かって拝殿は横になる。これらには、きっと、なにか“訳”がある?

(自転車の余談)横参道を抜けて阿蘇山中岳へ入る仙酔峡道路をとらず、東に移動して九州自然歩道で日ノ尾峠、外輪山の九十九曲と凄い景色に沈められるのは幸せです。外輪山の尾根ピークそれぞれに、神が鎮座され、へたり走りを覗いています。

境内に、黄金山へ向かう場所に小さな神社がつくられだして、かなりの時間がたった。拝殿で御幣振る老人に、まだ未完成の神社にはどんな神さまが鎮まれるのか?ときいてみたら、おられません、とキッパリ。   空き家? きっと、なにかある。

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おさがりの小さな羊羹は、地元の和菓子店の製造者ステッカー、氏子優先!当たり前、が気分を晴れやかにしてくれた。

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爾保姫神社がここに鎮座したのは、神功皇后が半島へ出兵し、戦勝した帰りに立ち寄って、戦勝を爾保姫神に報告し、邪気払いの白羽の矢を放ったところここに止まったことによるのが由来。今神社参道と拝殿前に白羽の矢のモニュメントがあるのは、この為だろう。京都の石清水八幡宮にもあった。それは黄金色の羽だった。

神功皇后は占い・神懸かりで半島によき国があるから遠征しろという神託を得た。夫の仲哀天皇はそんな国はどこにも見えないと反対したが、天罰からか死去してしまった。皇后は妊娠していたが、石を抱いて出産を遅らせ遠征し、成功したという。九州にはこの石が御神体の神社がいくつかある。      一部で夫殺しの嫌疑が語られる。


「コメというのは、妙なものである。

コメの生産技術(弥生式農耕)を身につけた生産集団が、北九州の一角に出現したのは、いまからどれほど古い時代にさかのぼるかについては、ここでは触れない。彼らは、神々と巫女と巫人・カンナギとをもっていることによって集団の精神を形成し、さらにはそれによって共通の文化をもっていた。 司馬遼太郎/街道をゆく3


「八幡の比売神は女性の中の最も尊い方で、天つ神の霊をうけて神の子を生みたまい、その御子を伴いて此の国に臨み降りられ、共に神として祭られたまう御方である。即ち巫女の開祖である。 柳田国男 妹の力」と神功皇后に語られる。

八幡神は半島から渡来し、この列島の守護となると宣言して鎮座したといわれる。古代の安保条約みたい。北九州の香春町で宇佐神宮の神宝の鏡を製作納品している古宮八幡神社の祭神に辛国息長大姫大目命があり、辛国は韓国、大姫は神と人をとりもつ巫女のことで、息長は金属精錬につかう“ふいご”をいい、神功皇后の別名だという(谷川健一・四天王寺の鷹)。

神功皇后の半島遠征も実家のもめごとでもあって、里帰りかもしれない(これジョーク)。

神功皇后の懐妊は、不倫か!と疑惑も語られる。


天つ神の霊をうけて生む神の子が、神功皇后の息子・ホムダワケで、八幡神の霊をうけて懐妊したと。八幡神宮は初期には王、王子と姫との三柱を祀っていた。応神・オウシンと王子・オウジの発音から、王子が応神とされ、それゆえ応神の母親の神功皇后が姫神となったという。

「古代宮廷の采女・ウネメのことにもふれておく。采女とは地方豪族のもとから宮廷に貢上された女のことだが、郡少領以上、つまり地方豪族の姉妹および子女の顔のよきものを貢すと規定されている。

地方豪族のいくつかの固有な神々との伝統的紐帯の中で生きている女を宮廷信仰に同化しようとするものであった。それだけにとどまらない。采女は王の妻でもあった。かくして王は制度的に、地方豪族、つまり敵たちの「普遍的な義理の兄弟」になったのである。 西郷信綱 古事記研究」     義理は重たい・・・


爾保姫神社の急な石段を下るとき、年を感じる。ゆっくりの下りになる。鳥居につけられた白い羽の矢のモミュメントの羽が眼にはいってくる。羽、すこし肥えてないかい?

上古、爾保姫神をお祭りしていた巫女は、ある時、朝廷に召し上げられる命令が白い羽の矢とともに届けられた。武力的な脅しがそこにあった。その白い羽は、速くて強いデザインだった、だろう、か。


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# by forumhiroshima | 2016-07-05 08:49

オックスフォード

英国の首相のデービット・キャメロンはオックスフォード州を選挙区にして、オックスフォード大学の出身。オックスフォードの地名はoxen・雄牛が渡るford・浅瀬の意味だという。キャメロンは連れている牛の半数にみたない数しかこの浅瀬を渡らすことができなかった、ことになった。

古代、狩猟者であった我々の遠い祖先は、だんだんに狩猟者が増え、衝突し狩場が少なくなってくると、新しい稲作という革新技術の伝播もあって、定住して農耕にいよいよ従事することになる。生きるための選択がそこにあった。が、彷徨の自由な生活を続けようとする男たちもいた。それは今も変わらないだろう。

出歩きたい彼らは、働かない代わりに、他人の労働によって生産されたものを遠くに運びその対価を受け取り生活の糧をえようとした。かれらが、農耕の始まった世界の旅人になった。

商品を担いだ旅人たちの経験が積み上げられ、クチコミで伝えられ、同じ峠をぬけ、同じ川の徒渉地点で渡った。そこは馬、牛の動物たちの徒渉地点だった。この国ではイノシシの獣道だといわれる。ウジ道とよばれた。鹿は岸壁を直登できるし、猿は木立をブランコするから。道の交点、古代大和人たちのいう衢・チマタという道と道の交点、川の徒渉地点と道の交点に、人々があつまってきた。

「ボスポロスは牛の徒渉地点のこと。オックスフォード、クラーゲンフルト、ハーフホード、ストラトフォード、ティーフルトすべて徒渉地点をあらわしている。ユーフラテスは立派な橋のかかった河、という名である。(道の文化史・シュライバー)」


古代中国・唐の首都・西安は黄河を渡川するもっとも安全な場所であった。中国はいつも西にむかっている国だという。シルクロードはこの西安をスタートフィニッシュポイントになる。正倉院までのルートは、中国ではシルクロードとはおもっていないのじゃないか。首都は西安!なのだから。


“橋”は端をつなぐこと、をいう。キャメロンさんはオックスフォードの橋の真ん中にひっかえして、座り込んでこれからを思案しているのだろうか。・・・・長崎・思案橋ブルース。

城を築き、広島と命名し戦闘基地を作った毛利一党が去って、変わって入城してきた福島一党は広島を徒渉地点と海への連絡地点として、商業都市に生まれ変わらせると信長の着眼点を模倣し、道でディベロップしようとし、それまで東の府中からは温品へ、戸坂へと抜けていて、広島に入っていなかった西国街道の引き込みを計り、城北にそのルートをつくった。信長の楽市楽座トレンドの導入だったか。いまのJR山陽線の南側にそれが生まれた。いま最も城北通りという。

この道と川との交点、城の西側の本川を渡るいまの空鞘橋はロープを渡した渡船だったのではという(確実な資料は見ていない)。東側、猿猴川を渡るに、常磐橋が造られた。

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土木事業において計測・くい打ちに使用される縄を作業終了ののち稲荷神へ奉納する。上古の書には、設計と書いて縄張り・ナワバリとルビをふっている。(893と書いてナワバリ、もあるかもしれない。)  縄は“稲”の穂がないもの“ワラ”から作られる。

古代渡来してきて、池を造り溝を切って水流をコントロールし、また堀で排水する田園の土木工事をした「秦」と名乗った集団の創建の守護神が稲荷神でもある。縄張りは建物にもおよび、そこに稲荷社を併設した。

島普請といわれた、湿地に広島城と町を建設する設計図に堅い地盤を探して、置かれいくつもの起点、その起点に稲荷社が置かれたのではないか?と思っている。白神社境内の稲荷社に築城時に六つの常盤稲荷が勧請されたという掲示が以前あった。ここもその起点になった稲荷社なのだろう。白神社を含めこの六稲荷社の場所はどこか?と探している。市内の多くの独立した祠の稲荷社に走ったが、まだ確信はもてていない。

ズバリ「常磐」は、力強いポイントを示している?とその場所の発見を期待している。島普請の設計のアイデアが伝わってくるかもしれない。そうして、広島の設計者がこの地に立ったときの、景色が見えるだろう。彼のファイトが伝わってくるかもしれない。

探している常磐の名がつく常盤橋に、その常盤稲荷社の一つが、橋そばの二葉の里の鶴羽神社にあるかと、訪ねた。

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境内の稲荷社の額(額束とも書かれる)に「椎木稲荷社」とある。神社のパンフレットに鶴羽神社は、古名ハ椎木八幡神社であったとある。

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椎木はシイノンキと読むのだろうか。播磨国風土記の尓保都比売命の記述の中で神功皇后が攻め込む半島の国、新羅を“比々良木”と書いている。椎木・シイノキとヒイラキと似てる、よな!と妄想がわき出す。八幡宮だったというし、ここに新羅の神の到来があった痕跡がこれになるのだろうか、上流の白木山を連想する。。

常磐橋の地点には今はない川の分岐があった。明治初期の古地図に古川村と記載される地域がそれで、いま天神川とその下流地域を含んで流れていた。ニギ津神社右よこに入り光町へ続くみちが、そのなごりだ。

このあたりに、植樹林での堤防補強の地名の「松原」、砂洲のあった「大洲」「大須賀」、氾濫原の鎮守神鎮座の「荒神」など、川の地形からの地名がちらばっている。

一方、常磐橋の西側には白島、中島、吉島(葦島)と、河口の堆積による微高地・三角州の地名が散らばっている。馬をも引き込むカッパの住む激しい流れを予想させる猿猴川の特異さとの大きな違いがみえる。

ここを南北に分岐させ、東の佐伯郡、西の安芸郡の境界ラインがひかれていた。のち川の氾濫原はずっと南下し沖に伸び続け、城ができ町が広がって、この二郡を合わせて、安佐となる。

太田川の古い河口で、違った二つの景色を分岐する地点に鎮座するこの鶴羽の神は八幡神だというが、・・・稲荷神であっても??いいかもしれない。川と道の交差点になり、そこの鎮守が望まれただろうから。

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ここにもう一つの姫神の伝承がある。

東広島市・八本松、原の自衛隊演習地の奥にMTB華やかりしころ、迷いに込んだ。姫池という美しい池、また松原に囲まれている七つの池が階段状にならぶ、ナナツ池と、里山の景色が広がっている所から西の尾根に向けて林道がはいっている。演習地を抜け登りの道がすっかり森にかこまれたころ、正面に幽霊屋敷のような立派な造りの神社が現れた。夕方の暗さがしのびよってくるころで、不気味な印象だった。そこに、広島市内の鶴羽神社との関係が掲示されて、この神社の名が小倉ということがわかった。その印象はとても深くて、それから他所の山中の森に囲まれた神社に出会うと、この小倉神社が浮かんでくる。

伝承によれば、源頼政(平安末期の武将)の側室、菖蒲ノ前の領地が西条にあった。頼政が戦いに敗れ自害したのち菖蒲ノ前は西条に住み始めたが、地元の豪族に追われ八本松の姫池でいよいよ捕えられるとなったとき、侍女の鶴姫が身代わりとなって菖蒲ノ前を逃がすことができた。菖蒲ノ前はこの地で生涯を終え、小倉神社の祭神となった。

鶴羽神社のHPでは菖蒲ノ前の遺言によって1204~1206年ごろに勧請されたとなっている。1192年鎌倉幕府開幕ののちになる。祭神は菖蒲ノ前となるのだろうか。HPでは八幡三神とイザナギ、イザナミで鶴羽根皇大神という。鶴羽は背景の双葉山が鶴が羽を広げた形ゆえ、それまでの椎木山から変更されたと。侍女の鶴姫の名が気になります。そのころは小倉神社だったかもしれない。

神社に併設されている結婚式場が騒めいて、歌が聞こえてきた。

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# by forumhiroshima | 2016-06-30 16:44

女神の所在地

作詞家星野哲郎は、強風にみだれた髪を押さえために、それまで押さえていた手が離れた赤い蹴出しの裾の乱れを構うでもなく、「暗ヤ、涯ナヤ、塩屋の岬」に起立する女の姿に「神」を見た、のではないだろうか。

“ひばり”は星野にも作曲の船村にとっても、「神」だった、のでは。

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ニホの海の神のニホツヒメを白い矢で征服した赤づくりの鎧のオキナガタラシヒメは、半島の国・新羅へ渡り、戦勝ののちに立ち寄った対馬に「矢立山、神女ここにすみ、この国の母神といわれる。人この神女を見るとき、狂者となる。日ならずして死す。故に人恐れて山頂に登らず。この山の鹿を獲ろうとする狗・イヌが神女の霊場に到ると、耳を垂れ尾を丸くして帰る  出口米吉・原始母神論」の神話を残す。

爾保姫神社の広くて長い石段をあがる。右手の拝殿は北に向いて、“ヤマ”は、はるかな山並みにあり、その空間に祈りの願いが拡散する。ここ、古代ニホの海にむかって突き出ていた岬の先端にあたる場所に女神は起立していたのだろう、が。岬は「御先」神の所在をにおわす、のだが。

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女神の視線を探して本殿の横に向かった。普通拝殿は神の所在である、山に向かう。ここでは、はるかな尾根に二つ並んだ岩のコブが、雨模様の濁った空気に浮かんでいる。

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神社の石段を降りて、市立工業高校の西壁にそってR2へ出て、信号をぬけて、北上しマツダスタジアム東のJR操車場下の長いヘビトンネルを抜けて岩鼻のガードから尾長の旧道と府中の本町へはいるには、信号も3ツ、約5kmのポタリングコース。ニホの海を泳いだり、潜ったり、スイスイ。だって、ここ海でしたから。

走って猿猴川の右岸道路にでる。クランクロスタワー、シティタワー広島とまだ建設中の二本の高層建築が空に突き出している。広島の新しいランドマークの出現。

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三原山の噴煙が関東空襲のB29の侵入目標となったといわれる。広島の原爆投下のポイントは相生橋のT字の形態だったという。

二つのコブはこのあたりでは、いつも確認できる。古代からのニホ海のランドマークだったろう。

ニホの海の漁師たちは古代に海部に所属した朝廷の海兵だった(日本古代漁業経済史 羽原又吉)。半島出兵の記憶がオキナガタラシヒメ伝説であるという(日本漁業史論考 木島甚久)。

彼らの日々の漁獲のために、漁場の見極めがあった。

「漁場の見方 “バ”は“ヤマ”を立ててきめる。“ヤマ“といってもそれは山に限らない。陸にあって目標となるものすべて“ヤマ”という。“ヤマ”の立て方は陸の目標となる2点を一直線に見通し、さらにこれと交わる別の2点を同じように見通し、その二つの直線が交わる点を、その目標となったものの名をつけて漁場名とする。 (海鳥のなげき 内海 延吉)」

コブはニホ海の漁師たちの“ヤマ”だっただろうか。今は火災で焼失した岩屋観音の祠がコブ下にあった。いまもその土台の石組みと石段が残っている。Google地図ではその石段が記載されている。航空写真から地図を起こすGoogle地図ならでは。

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岩屋観音への尾根道の参拝道の起点は道隆寺という平安時代の薬師仏のある古寺からだろう。

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尾根にひろがる墓所は道隆寺四国八十八か所霊場と案内がある墓所で、古地蔵が点在している。
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山道を尾根の祠へと導く導入部の舞台の八十八か所の石仏は霊地いや聖地として出現する。
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木漏れ日の時間には、仏も神も出現しそうだ。

ここは中国自然歩道と広島県健康への道百選とに指定されている。沢山の人々はこの聖地を忘れてはいなかったのだろう。

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帰宅して爾保姫神社と岩屋観音跡を地図上で結んでみた。

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国土地理院地図は三角点とあと二つの三角点でつくる三角形の集合体としてつくられる。

三角点の名の由来がそこにある。その三角点の記号がそのラインにある。府中町1号とそこに書かれている。

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そればかりか道隆寺もライン上にある。寺すぐそばに
6~7世紀の古墳が住宅の中で洗濯物にかこまれてある
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。寺の敷地から
7~8世紀の瓦が発掘されている。ふるい!。三角点は周囲のなかでもっとも見出せるポイントを選ばれている。

「寺で行われる施餓鬼会・セガキエを祖霊を祀るものと思われてるが、本来、祀られない仏、即ち祀ってくれる子孫を持たない死者の霊をまた死体のあがらない遭難者をナガレヤマといい、その霊も供養することであった。(海鳥のなげき 内海 延吉)」

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長い永い時間、「叶えたい 夢も 変わりたい 自分も 今は ただ懐かしい」

HPのページ GANREFのmaounetさんの写真見つけました。岩屋観音からの朝日に広島湾の写真です。

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ふと、岩屋観音と爾保姫神社とを結ぶラインの目線をあげてみた。似の島の山のトップにそのラインが伸びているようにおもってしまった。

地図はそのラインが岩屋観音爾保姫似の島につながった!。途中の黄金山の西の山塊で展望できないのだが。が、そこ見通しのない地点に神社マーク、これもそうなん、これなん。

マジカルな破綻がここにあるような。

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広島、NEWランドマークのツインタワーの写真採りによってついでに??居酒屋・源蔵に。610日広島湾小イワシ漁・解禁です。醤油もショウガもいらない!甘い!

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# by forumhiroshima | 2016-06-27 17:17

赤い蹴出しが 風にまう

星野哲郎作詞・美空ひばり・「みだれ髪」。      風が髪も裾も乱れさせる。


星野さんのふるさとの周防大島では八幡宮が海に向かって鎮座する。“神は海から来迎された”風情がある。筏、・下田・海に浮かぶ鳥居のある白鳥・長尾・八田・砂浜の参道の志駄岸と、島を一周し点在する八幡宮はどこも結構の広さの境内に古びて鎮座して、その境内に数百万円・星野哲郎・寄進と刻まれた石碑があった。「沖の瀬をゆく 底引き網の 舟にのせたい この片情け」大島人のふるさとおもいが伝わってくる。この歌詞、瀬戸内の景色ですよね。東北じゃない!?。

雨の日曜日の朝、テントのうどん屋で海に向かってのテーブルに座っている。青鷺・ソフィアはみえない。あの未熟な若い「ニホ鳥・息長鳥」も雨でお休みの様子。潜ると暫し浮上してこないこの鳥の大きな肺活量を名にした琵琶湖の滋賀県・県鳥の名は、湖畔にあった息長邑(今の米原)という古代の神話の主人公たちのふるさとの名でもあった。
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うどん屋から約2kmほど走ると爾保都比売神社の石段前。そこに由来が掲示されている。
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「祭神 爾保都比売姫 相殿神 帯中津日子神 息長帯比売神 品陀和気神」
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                    ”帯”から、だらりの帯と陳腐な連想しました。
                  昔から、帯って、女性にマジカルさ、演出しますね。
    写真の帯の文様は、蛇のウロコ。災い封じの文様だという。災いの○○は、??
その息長帯比売・オキナガタラシヒメはここで生まれ、米原・伊吹山の神より死病をうけたヤマトタケルの息子の帯中津彦・タラシナカツヒコと結ばれて、大阪・羽曳野市の応神陵に埋葬されている応神天皇・ホムダワケをもうけている。仁保島の総鎮守として鎮座している。

霧雨にかわった。今日、いつもより辛いうどんが、微妙に熱燗のあてになる。もう一杯、・・・はダメか。
雨に、すこし酔った気分がゆっくり沈んでゆく。妄想モードへと落ち込んでゆく。

息長帯比売の母・タカヌカヒメの祖先・アメノヒビコ、は半島の古代国家・新羅から北九州に渡来し、瀬戸内海を東進、まず、上陸をはかった播磨の国ではそこの神に追い返され、難波に上陸し北上。琵琶湖そばの、吾名邑・アナムラに暫し滞在し、敦賀から丹後へ。円山川をのぼり豊岡の南、いま、出石に鎮座している。この吾名邑が息長邑である。古事記が語る古代の神話である。
そう、だから、仁保島南海岸、丹那の鎮守・穴神社のアナの“アナ”が薄い酔いに共鳴してくる。“アナ”と息長帯比売がハモッている。

 爾保都比売神社の石段前の由来の掲示に「オキナガタラシヒメ(神功皇后と呼ばれる)は半島の新羅へ出兵し勝利した。その戦いの前に、途中立ち寄った土地の神に戦勝を祈願していた。帰路にこれらの神々に礼・鎮護綏撫の神祐をお祈りなさった。この地で、翌朝出発のおり、邪気祓いのため白羽の矢を放し突き刺さった場所に矢を納めここを鎮守とした。」

「古老の相伝ふる旧聞異事は、史籍にしるして言上せよ。」
713年、機内および7道の諸国に、風土記作成の命令がでた。安芸国にもその令はでている。が、安芸国風土記は残っていないようだ。常陸・播磨・豊後・肥前・出雲国風土記はまとまった形で残っている。

出雲国風土記はほぼ残されたという。今、島根県の人々は、風土記の記載の神々の記述を疑うことない。それは大きな誇りであり、古里が上古の時から、今につながるという長い長い時間を、「今」のなかに、はっきりと確認し確信している。神社横の社家は注連縄を玄関にさげ、神主は朝、精進潔斎される。境内はいきとどいた清浄にたもたれる。訪れるととても気分が安らぐ。それら出雲国風土記に記載される神々の社を、「今」に比定した「加藤義成」の業績を疑うことは、ないだろう。その“いさぎよさ”が“神国日本のスローガンの時代”を乗り切って、トラウマになることなく、古代と今の切れ目を生じさせない。

そこが戦後、神国日本は怖いことだとされた時代に生まれた自分には、神とか神話とかを素直にうけとめて神々との友情ともおもえる親しさをもつ人々が、とてもうらやましい。マンガで日本史を受け入れない不器用さが持ち味なんです。

出雲を走ることは、彼等の日常の営みに入り込み、切れ切れに時代としてくくられ、教えられた歴史観を持っている自分には、普通に歴史を連続した日々の営みと受け止める、夢の時間がある。風土記の記述が今、眼前にある。

もっと、その夢に、酔いしれたければ!走ればいいのだ。そこは、古代からの道の上を走っている!と思えるのだから。それは、神をいただいて、歩んだ土地開拓のパイオノアたちの軌跡、そのラインをたどっていると確信できるのだから。      
ガイダンスブックには加藤義成校正注・出雲国風土記が用意されている。

先日、播磨国風土記に”爾保都比売神”が登場していることを知った。
「息長帯日女の命が、新羅の国を平定しようと思って西行なさった時、多くの神々に祈願なさった。その時、国土を生成された大神の御子である尓保都比売命が、国の造・クニノミヤッコの石坂比売の命に寄り託き神がかりし、教えて「私を手厚く斎奉ったなら、私はよい効験を出して、『比々良木の八尋鉾根の底付かぬ国』『嬢子の眉引きの国』『玉匣かが益す国苫枕宝有る国』『白衾新羅の国』(いずれも新羅のこと)を赤い浪の威力でもって平定なさろう。」とおっしゃった。このようにお教えになって、ここに魔除けの赤土をお出しになった。そこで息長帯日女の命は、その土を天の逆鉾にお塗りになり、船尾と船首にお建てになられた。また船の舷側と兵隊の鎧をこの赤でお染めになった。こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。」          小学館日本古典文学全集『風土記』より、上垣節也の現代語訳

やっと、ひばりの「赤い」蹴出しが登場した。ナガカッタ!!

赤はマジカルなカラーだということだ。神功皇后の赤は丹だろうか?。これが、ニホは丹生と書かれ、硫化水銀になるのだろうか?。仁保山南岸の丹那がピクピク匂う(ニュオウ・・・)。ウイクペディアはそういっている。

仁保浦を香浦と書かれることがある。ニオウ港、どんな匂いだったのだろう。ベニバナ・末摘花も赤い染料。塩屋岬の女の蹴出しはベニハナ染だろうか。ベニバナの匂いは良い香なんだろうか。

爾保都比売神は、のち紀伊の国の菅川の藤代に鎮座させ、祀られた。時が経て、空海・弘法大師は高野山の道場開設を、この神の領域に創建させている。いまも大師の高野山の廟そばに、爾保都比売神がまつられているという。仁保島の姫神も、スッゴイ!!もんだ。失われた安芸国風土記の記述の一端がこの姫神神話であったかも、しれない。と、うれしかった。
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# by forumhiroshima | 2016-06-21 15:32

オバマの折り鶴

「時を追い越し 駆け抜けた日々 時と共に 生きた時代・キセツ 急がずに ゆるやかに 人生はまだつづく あぁあぁ・・・ 時の旅人」          この歌に嵌っている。

2016年5月27日午後4時 平和公園の南側でオバマ大統領の到着を待っていた。西日が熱い。肩越しに隣のスマホのTV中継を見ながら、ここにいるって?ドウナン、TVみてればイイジャン。

1968年、昭和43年1月17日 佐世保駅前広場の群衆に押されるように歩いていた。広島からのこみあった列車に、ほとんど教室で、みることがなくなっていたN君がいた。目が合うとニコッとわらった。彼はヘルメットをかぶっていて、とてもその姿が奇異に感じたことが、強い印象だった。こころ揺さぶられるなにかが、あの時あった。逃げてはいけない、というなにかが、が。
米海軍原子力航空母艦エンタープライズ・CNN-65がベトナムの戦線に派遣される途中、佐世保に寄港することを阻止する数万人の集会がこの町で開催されていた。海岸では学生たちが警察と衝突したとのウワサが波のようにつたわってくる。N君はどうしているだろうか、気になった。地元の人々も道にでてきて、町全体が反戦の政治集会の様相だった。高台からみた沖に停泊する巨艦にたかるようなタクボートたちの日本語のプレートが心をチカチカとさした。

あの巨艦の指揮官がやってくる。

2016年5月27日午後5時半 オバマのキャデラック・リムジンが通過していった。演説になっても聞こえない場所なので、変わらずスマホをのぞき見していた。「ヒバクシャ、って言ったよね、日本語だよね」スマホのオーナーが叫んだ。聞きづらいスマホの音声なのに、周囲になにかフッツと、資料館の改装工事の白い塀の向うの“今”が流れてきて、見物人から違った生物に、自分も周囲も変わった。白い壁をなにかが突き抜けてきた。

公園を離れて、近くのなじみの焼き鳥屋さんへ。浮かれてしまったような体の熱気を“生”で鎮める口実ですっかり酔って、夕刻の慰霊碑へむかった。そこの暗闇に長い列が伸びていた。慰霊碑に近づくと、すぐに追い払われて、芝広場からまだ成長している列の最後に回った。「何か?」「皆さんオバマの献花の写真を撮られるのですよ」 

TVのNEWSでオバマの折り鶴が放送された、が映像はない。見たい!。数日のち、9日に折り鶴が公開されるとのNEWS。オバマの折り鶴、オウ、オウと韻で繰り返し、しみてくる。
2016年6月9日朝、自転車で公園に向かった。公開される資料館の開館は8:30。7:40に到着。公園の朝の朝日は美しい。入口には一人だけ待っておられる。多いかと思ってけど?と先日参拝できなかった慰霊碑へ。メジャーになったね!。核のボタンはこのセンチュリーの結界を乱さなかったですか?と小声で。両親の名があの中にある。

開館された廊下を急いでオバマの折り鶴へ。たくさんの報道関係で、えらく居心地がわるい。折り鶴がなにかを伝えてくれるのか、ゆっくりの時間の中で、自分に何か生まれるもの、をしりたかったのに。・・・・また、落ち着いてから、こようか。
 
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1955年、昭和30年末、小学校、先生から放課後に集会にでるから職員室に来るように、といわれた。自分が児童会の役員だったからだろう。原爆病(そのころはみなこの病名だった)でなくなった女子の慰霊碑をつくるための集会で、彼女が回復をいのって折った千羽鶴の像になると車の中で伝えられて、ハトの折り紙じゃないのですか?と聞いた。「ハトの折り紙はない!」だったが、今調べるとあった。つくると、「モスラ」になった。
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意味がよくわからないままに集会への参加だった。後日学校での募金活動があって参加したか、よく覚えていない。
小学2年で亡くなった同級生のS君は鶴をおったのだろうか?、と髪が抜けてしまって、毛糸の帽子を被って登校していた彼を集会の会場で思った。亡くなってお母さんがその帽子をもって教室であいさつされて、みんな泣いた。折り鶴の少女のクラスもきっと泣いただろう。

8.6が近づくといつも原爆ドーム北側にあった実家周囲には日焼けした汗まみれの人々が、黄色い仏衣の僧侶たちのうちわ太鼓のバンバンの音と一緒にやってきた。埃っぽい中に「お前だけがヒバクシャじゃない」との陰口もやってくる。

佐世保の町の混雑した食堂でとなりで飲んでいた兵隊だったというおっさんが握手もとめてきた。お前たちはアメリカに勝て!反戦叫ぶなら、兵隊になってアメリカからこの国を取り戻して、家族をまもれ、と。おれたちは家族のために戦わなかった。過激さは負けていました。テーブルのトイメンの九大の学生だという、そしてそのころ言いづらかった創価学会の学会員だとスッキリという彼は、今の政府では兵隊になれません、と熱かった。おっさん、ようワカランな、負けるなよ!と負けた様子で出て行った。それからは、公明党のTVのニュースの中で、いつも彼をさがしている。

アメリカの最高軍司令官は水爆のスイッチ、そして折り鶴をもってグランドゼロにやってきて語った。They ask us to look inward,to take stock of who we are and what we might become.
東の海の向こうの国から一瞬の風にのって壁を突き抜け飛ぶ、折り鶴を持ってきたオバマは語っている。「私たちがなにものなのか、どのような存在になるのか、考えよう。」
その手がかりは、We see these stories in hibakusha, と。

この町にはありあまるhibakusha storiesがある。

鶴は携帯の待ち受けに閉じ込めました。

艶やかに 燃え尽きず ひたすら 夢を追い 移り行く ひとの世に 変わらぬ 愛を願う 仰ぐ夜空に 流れる星も 時を越えて 今宵光る 心のままに 明日へ向かおう 歌をうたいながら 急がずに ゆるやかに 人生はまだつづく あぁあぁ・・・ 時の旅人
           NHK 2016ラジオ深夜便の歌 小林旭

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# by forumhiroshima | 2016-06-12 05:47

朝6時半の熱燗

猿猴川の河口の日宇那の高架の下、日宇那漁港と呼ばれる小さな舟泊、そのそばに四角のテントの小屋の小さなオレンジの回転灯が回っている。
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テントはうどんやである。時々沸騰している鍋で踊っているおでん、セブンの二個分はあるおむすび、そして熱燗がある。

もう数週間開店を知らせる回転灯が止まっていた。朝6:30から朝8:30までの変則の営業時間。80円のオデンが60円になる日曜日の朝の自分の日課となっていた熱燗にありつけなかったのだが、回転灯が回っていた。

朝陽が広い川面をシルバー色に染め、一筋のオレンジのラインが中央を割って舟泊へながれこみ、テントに到達する。オレンジ色に包まれた時間の幸せを二乗する、湯呑一杯にこぼれそうな熱燗が置かれ光った。
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その向うの防波堤に、“ソフィー”とよんでいるアオサギが、やっぱり、いつものように置かれたように立っている。お久しぶりです。まるで翁、いや媼・オウナか、老鷺の落ちつきが見える。
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永く長くこの河口の防波堤から時を見ていた、と湯呑を置いたままでこぼさないように、すすった目線をソフーへ向けた。幸せがオレンジにつつまれて、まとわりつく“感情”か消えてゆく。

“0”になった頭に大好きな文章が浮かんできた。
「蓋つきの壺に納められらた稲の霊を舟の底に置いた、いく艘の船隊の先頭の舳先の主人は遥かに原始林の続く海岸を臨みながら、幾度となく水を舐めては、塩味が抜け変わりだす場所を待っていた。そうして、選んだ、豊かな水のたゆとう川を、次第に上流へ、上流へと遡行していった。
行っても行っても、アシ・ハギの繁った低湿地がつづいた。そして両岸には見渡す限りの原始林がつづいた。ちょきには草むらからカワウソが水中に飛び込み、その音に驚いた小鳥が一斉に羽ばたき、我ことのように、枝のような牡鹿の角が揺らぐのも見えた。
やがて、川の蛇行部に、新しい泥の干潟が見えた。稲霊が、あたらしい精霊の芽をだす場所である  。藤森栄一 古道」      (藤森は在野の考古学者。)

ソフィーは、この川に現れた幾つもの船隊たちを見送ってきた、だろうか。

「俄に海上騒がしく、浦の者共に怪しみて、遥かに沖を見てあれば、舟急ぎ八の帆を上げ・・・かの舟の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に登り声をあげ、われらは邪慳な国を逃れ来て、この地の守護となり、子孫繁昌と守るべし」
相模の国の大磯の高来・タカク神社の夏祭りの祝い唄で、半島の古代の高麗国からの渡来した人々から今にまで歌い継がれている。

海から渡来した記憶は人々に今ものこされている。自分たちの親の祖先・高祖、それは途方もなく長い時間を持った翁や媼であるとされ、近江から遠江にひろがる白髪神社の祭神は翁の形だといい、半島の古代国家・新羅からの渡来だという。この地の白神神社もこの白髪であったかな?とおもったりする。猿猴川をさかのぼり、太田川から三篠川へ入ると、古代の稲作適地の乾いた湿地跡がひろがる。干潟だ。ここに白木山があり昭和31年の合併にこの山の名を町名とされたのは、深慮、いや新羅の神の神慮では。

酔ってしまった、か!。妄想の発生!。

白木の三田には平地の真ん中に太田川と江の川の分水嶺がある。ちゃんと神様も鎮座されている。これほどの水の豊かさのある処を稲霊を運んできた人々がみのがすことはないだろう。ここは御田であった。豊かな土地の実りを権力はみのがさない。
ここは、またいつか走りに行くつもりだ。

人びとは海から来航した翁の知恵や経験をあがめることのほかに、幼い神が海のかなたの常世の国から、海岸に漂い寄ることもあった。これを拾い上げた人の娘が、養育して成人させた後、その嫁となって生んだのが、村の元祖で、若い神には御子が生まれ、常世の母神には孫だと考えられたりする。皇室の成立神話は天からアマテラスの孫を地上にこうりんさせる。天孫降臨である。
白島の碇神社の祭神はワダツミで「童子」と現される。この神社はこの湾の最古の神だという。

稲霊をやっと植え次の秋を待つ人々の中に、旅の杖を折ってしまいたくなかった、自由な彷徨の生活を持ち続けたかった男たちは少なくはなかった。出歩きたいと思う者は他の人の労働の成果の品をもって遠くへ行くことになる。新しい土地を探す旅にでる糧を道々で交換・調達できる人たちだけにできることだった。
だが、思いだけでは旅はできない。道の情報を得なければならない。

熱燗がすっかり少なくなってきた。舟泊の船の間に小さな鳥が海面から現れた。ニホ鳥またの名が息長鳥。成鳥はとても長く潜っている。息が長い鳥なのだ。が、こいつ潜るがすぐに浮上してくる。まだまだ幼いのだろうか。対岸に見える桜の木の下の浜でつがいがよく羽を広げている。このヘッタピーの親たちだろうか。干潮時に覗いてみた。
黄金山が仁保島でたったころ、猿猴川河口は広島駅ちかくにあって、段原や東雲の町は浅い海で、「ニホの海」と呼ばれた。
“ニホ”には水流が海中につくる溝を示す「ミオ」「ミホ」など航路を示す言葉ともいわれる。死出雲・島根半島東端の美保神社の祭神はコトシロヌシとミホススミ。ミホススミのススは能登半島の珠洲・ススで
珠洲神社の祭神であったという。(門脇禎二)“ミホ発スス行”ってことらしい。同時にミホは航路をいう。

湯呑が空になった。うどんやさんはお母さんと娘さんの交代制らしい。今日はお母さんだった。ぬるかんででてくる。娘さんはとても熱燗である。熱燗は腹にたまらない。もっといける!。が今日はぬるかんで、深みに入らないで帰れそうだ。まだ酔っていない。ニホ道は大丈夫!大丈夫。
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# by forumhiroshima | 2016-06-10 19:50

琥珀のみち

中東シリア・ダマスカス郊外ドゥマーの戦禍の町の自転車の写真があった。(newsweek)
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都市の喧騒が消えた静寂の車道に不発のクラスター爆弾、と不穏な景色なのだけど、自転車が写真に入ると、どこかその不穏さが自分の気分の中では薄くなる。自転車でできること、は戦場から逃げることだけ、だからだろうか。

イラン、イラクが中東・middle eastよばれるのは、日本が極東とよばれることと同じイギリスをセンターとした位置情報の命名で、それはイギリスの植民地が地球を覆っていた時代の記憶。

いまこの地域から発信しているフリーランスジャーナリストの川上奏徳のブログ“中東ウオッチ”もこの地名が使われている。過去のヨーロッパの植民地をウオッチ!からだろう。

“中東”を拒否し「IS・イスラムステイツ」という主張が渦巻く地域の川上泰徳の“ウオッチ”の2015.8.2付ブログ、「ドイツまで歩いたシリア難民の証言」に難民の歩いたコースの地図が添付されていた。イランからドイツへ。そのコース地図から連想した地図があった。
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古代に北欧バルチック海からドイツを抜けアルプスを越え中東イランへ琥珀が運ばれた地図だった。
紀元前3200年ごろの古代エジプトの古墳から多数のバルチック・アンバー(バルチック海原産琥珀)が多数発掘されている。
トロイを発掘したシューリマンは紀元前1850ごろの地層から400個ほどのバルチック・アンバーを掘り出している。それはマッシリア(マルセイユ・仏)から運ばれている。

琥珀は樹液の樹脂が水分によって、ある条件で歳月を重ねるうちに硬化するものがある。その生成の年月は3000~9000万年といわれる。その奇跡の個体はバルチック海から採取され、それを布で磨くと火花をちらし、羽や木片がくっつく。その不思議な力を古代ギリシャ人はギリシャ語の“琥珀・elektron”にちなんで“electricity(電気)”と名付けている。また“霊魂”ともいわれた。磁石の磁鉄鉱は鉄を引き付けるだけで、木片や羽は引き付けない。琥珀の引力とされた“霊魂”の不思議には磁鉄鉱は昇格できなかった。バルチック・アンバーはただものの宝石ではなかったのだ。特別なのだ。
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バルチック・アンバーはバルチック海の住民たちが、オーストリアの岩塩抗のあるハッシュタルトに運び、そこで岩塩のほかに、イタリアやギリシャから人々の運んできた金属装飾のされた杯などと交換された。それら金属装飾品は地中海沿岸からきた人々よってもたらされ、琥珀を入手して、彼らは小さくて軽く持ち帰って交換価値の大きなバルチック・アンバーをロバの背中に積み込んでかえっていった。その彼らから海の商人とよって地中海を越えエジプトへもたらされた。「道の文化史・シュラバー」
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この本に掲載されていた、古代のバルティク・アンバーの運ばれた道の地図から信州・和田峠で採掘された黒曜石の東日本に広く運ばれたルート地図も距離こそ比べものにならないが、連想した。琥珀も黒曜石も、美しい!。そして、その世界は消えてしまっている。から思いが深くなる。

「東から西から南からも、長い脚のラクダは何年ものあいだシリアへ向っていた。そこへゆくには比較的困難な道を通らなければならなかったが、それだからといってこの国の魅力が減るわけではなかった。シリアの町々は何度も、ヒッタイト人、エジプト人、ウラルトゥ人、アッシリア人、メディア人その他の争いの種となった。何度も争奪戦が繰り返され、占領され破壊されてはまた新たに建設された。道の文化史」

「BC500年ごろ琥珀の道はかなり頻繁な商業交通のすこし改修された自然の道であった。そのそばに、ペルシャ王の道が建設された。
それはまったく明らかにはっきりした考えからできたものである。それはペルシャ帝国の道、帝国の力の、帝国の制度の道となるべきで、けっして他の道のかわりとなるべきものではなかった。古い商路と小道、都市やオアシスに通ずる商人の山路や出入路にはいっさい手がつけられず、そのまま利用されつづけた。現代の高速道路が出発地点と最終地点を最短の距離に設計され、途中の都市にはそこから連絡道がつけられている設計思想を紀元前5世紀に実現されていた。この道は紀元前4世紀のアレキサンドロスの遠征にも、シリアが古代ローマへ遠征した紀元前2世紀にも忘れられたように使用されなかった。 道の文化史・シュラバー」

この王の道は25kmごとに宿舎と馬が置かれていた。ここを使い王へ伝令を届けた使者の速度をアンガレイオンと呼ばれ中世には速度はあらわす最高の単位だった。2500kmの行程を10日で走破していた。この制度が古代中国でも我が国でも早馬飛脚の駅伝制度として幹線道に整備され、いま、人が走って人気の競技になっている。
ギリシャ・アテネで戦勝の使者の走った距離がオリンピックのマラソンになり、王の道の一日250km走破が自転車ロードレス世界選手権の距離であること、を合わせて考えてしまう。

道を高速で走りたい!思った人々がいた。自転車をゆっくり転がして楽しもうとした人々がいた。自転車が現在の形態、チェーン駆動になったのは1879年イギリスでローソンが開発し、1885年になるとやはりイギリスのスタンレーが開発したローバータイプ・セイフティと命名された現在の形が誕生している。
それまでのダルマ型オーディナリーは走行不安定であったから、セイフティ・安全と命名されたのか、それでなくても転倒の多い自転車の操縦で歩行者が安全になったから?。
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1890年代にガソリン自動車は14km/hほどの走行ができるように開発され、1901年にはニースでメルセデスは86km/hで走り出した。だたエンジントラブルの続出で、イギリスでは路面が悪いことにもあって、自動車走行にはその前を赤い旗の人が歩いて先行しなければならない法律があった。自動車に自由な道はなかった。

イギリスでのスポーツクラブの活動に自転車ライディング取り上げられ、それに没頭する愛好家たちが、サイクリスト・ツーリング・クラブとナショナル・サイクリスト・ユニオン (後、数か国の連合によるUCIに発展する) とを創設し、またこの二つの組織が強力な共同体を創っていた。それが「道路改良協会・The Roads improvement Association」で既存道路改良を推し進めた。クラブはイギリスの上流社会で構成されていた。彼らが乗った自転車はクラブモデルとよばれる。彼らは“最高高速・アンガレイオンを実現しようとしていた。彼らはペルシャ王になりたかった。
しかし、この道路改良の恩恵は1896年にクラブの貴族の御曹司たちは自転車から自動車に興味を移し、テムズ河の堤防で自動車のデモを敢行するという“ヤンチャ”で、一般道路走行許可を勝ち取ることになりこの地球に自動車世界誕生を生み出すきっかけとなった。
ペルシャ王の高速道路が、イギリスの“御曹司”たちの国ではなく、自動車社会のアメリカで再生された。

「古い商路と小道、都市やオアシスに通ずる商人の山路や出入路にはいっさい手がつけられず、そのまま利用されつづけた。道の文化史・シュラバー」
この自動車社会のすき間な、ニッチな空間がとても、いとおしい。決して、イギリス上流社会の御曹司たちの、自転車から自動車への心変わりも糾弾しませんね。彼らがおっぽり出した、いまも進化しないクラブモデルに郷愁を感じますね。あのシンプルさに、道具の妖精がいますね。もっと走りたくさせる、ふるい、変わらず利用されつづけた道と自転車なのです。

追伸
北欧の琥珀、バルティク・アンバーがここに陸揚げされた港とおぼしき都市「ラス・シャラムを発掘したシェファー(仏)は紀元前2千年紀の商業地区を発見し、その当時六つの民族が各々別の地区に居住して、死者を家の下に葬った。それは民族の違う人々の間での永遠の休息をしたくない意志だった。この町の役人たちはギリシャ語を加えた7か国語の辞典を製作し、準備していた。そのある時、町の荒廃が起こり輝かしい光が消え失せても、長い道をたどってここに流れ込んだものは残っていた。それは生命の多様さであり、多様な言語であり、多様な種族のすがたであった。道の文化史・シュラバー」

「何度も争奪戦が繰り返され、占領され破壊されてはまた新たに建設された。」
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# by forumhiroshima | 2016-03-02 21:07

春の竹やぶ

日曜日の朝、昨夜の雨もすっかり上がって、朝日が金属ぽっい輝きになって、くっきりしている。黄金山の麓の竹やぶが若やいで、森の木々の濃い緑から浮き上がって、くっきりと森から切り取られている。
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これからタケノコの季節が到来する予告のように現れた若緑が、タケノコ出産、そののちには白っぽくかわる。それから竹林の落葉の季節にながれこむと、夏がそばにきている。竹やぶの舞台のいそがしい季節の始まりの朝。郊外には竹の季節を楽しむサイクリングが待っている。

「出雲国風土記」大原郡阿用の郷の条の、“目一鬼”の話。農家に息子が一人山田で耕作に出ていたとき、一つ目の鬼が現れ襲いかかった。それに気づいた両親は助けるでなく、そばの竹原にひそんだ。鬼にくわえられた息子に両親の潜むそばの竹がそよそよとうごくのが見えた。息子の口から「動動・あよあよ」と言葉が漏れた。このことで、この地が阿欲・アヨとよばれ後に阿用に改められた。
息子は両親に動くな!アブナイ!と言いたかったのか、自分たちだけが助かろうとした親たちが悲しかったのか。両親を気遣った言葉に違いないと確信している。出雲だもの。

今も阿用川が流れる阿用と呼ばれる土地がある。川は南北に開けた広い谷をながれている。そこに竹林をさがしてウロウロしたことがある。出雲の早春に空は輝きに恵まれてはいなくて、鮮やかに森から際立つような竹林の輝きには行き当たらなかった。川を挟む東西の尾根に南から差し込む山陰のう
す曇りを抜ける日差しは、際立たせる力がなかったのかもしれない。風土記が書かれた8世紀の竹などもうない!とは思っていたけど・・・。

温帯の国のタケは地下茎を移植されて広がってきたといわれる。花がさき身がなるが、花は一世紀に一度ほどの開花だといわれ、種になる花は数千分の一だそうだ「室井綽・竹」。そうなると、竹やぶはいつか誰かが運んできたことでそこにあることになる。
この思いは景色の中の竹やぶにどこかの人の汗の匂いを感じさせたりする。早春の華やぎの出会いに、その思いが繰り返し浮かんでくる。誰が運んできたのか?

3000年前の縄文時代の青森で漆塗りの竹の籠や櫛が見つかっている。が、青森の気候からして、南から運ばれた商品では、ともいわれる。その商人は荷物のなかに竹の地下茎をひそまして、竹栽培の好適地をさがしていたのかもしれない。彼らも竹の繁茂のを推し進めた人々にちがいない。

この日曜日、我APそば、大河漁港の漁協の水産祭りが開かれている。
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ぶらぶらと歩いて向かった。
生海苔の味噌汁と殻付き牡蠣焼き、無料配布が目玉で、小さな賑わいが固まって港のそばに生まれている。海苔は江戸時代からの伝統がこの港にはあるらしい。味噌汁は潮臭さがうれしい。
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生簀の活魚販売。生ワカメのビニール袋詰め放題¥300が目玉。が既に詰め込まれた袋が渡されるが、誰ももっと入れてくれ!とねだっている。お願いしてみた。とても食べきれない量を渡された。さて、どうする。
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周防大島の東端の日向泊の海岸道路でおじいさんがワカメを干しているのにであった。この海岸には地元しか入れない、ひじきの岩場もあり、早春には、そのそばの海に腰まで入ってワカメが刈られる。海際の道にはそれらの獲得品が干される。潮香にむせぶような、そして甘い味わいのそれらは北海岸の伊保田の漁協の事務所で売られている。事務所のドアを押すには最初ちょっと勇気が必要だ。個人に一つでも売ってくれるだろうか? がその勇気は自宅の食卓で十分に称賛することになる。

ワカメ干しのおじいさんはあまり真水で洗わずに干すことがキモ!だといっていたことを思い出して、欲をだして、手に余るほどの生ワカメを小さなベランダにそのまま干すことにした古代の藻塩製造を連想する。ベランダの昼過ぎにはワカメはすっかり乾いて、手に取るとパラパラと崩れる。口に含むと、「飯!」といいたくなった。
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干したワカメの向うの家の小さな庭の一本の竹が若草色で風に揺れた。
筍とワカメの若竹煮が出番が近づいた。生若芽を冷凍して竹の子の出番までまっていることにした。
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港のそばの住宅街になった丘にも竹やぶが広がっている。カキいかだ用でここに植えられたのだろうか。大河漁港の人々の昔が、風にゆれ、祭りの大漁旗がそれを追っかけて揺れていた。
牡蠣いかだに使用するモウソウ竹は江戸時代にもたらされたという。モウソウ竹を持って広げた人たちは、まだ特定できそうな、それを追っかけたいような、妄想が始まった。
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# by forumhiroshima | 2016-02-23 11:14


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