こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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メモ帳

海が割れ、道ができる、ノヨ!

先日は寒かった。ボロアパートはむき出しのコンクリート壁で、とても寒くて気持ち エエ?カ!

寒いと思い出すのが、比治山の東の段原交番よこの柳の古木の麓の水仙。同じ環境生活?仁保島の古バス通りの蝋梅は咲き始めた。早くも梅も開いてきた。水仙、咲いているかな?

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交番は好きじゃないけど、柳の古木の鎮座を警護しているようで、そう考えると古木が凛々しい。柳が早春に薄みどり色の若葉を風にゆらせる景色は、特に夕日の残っている夕暮れが薄い緑の濃淡が際立っていいと、思っていたが、若葉は柳の花だという。3月の開花が楽しみになった。

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水仙は先日の降雪で首を垂れていた。


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柳は地下水位が高く、日当たりがよい場所、荒れていて小石の混ざった土地でも成長できると聞く。胴回り1m以上もあるこの柳はとても長い時間をここですごしてきたのだろう。その地下には豊富な水が絶え間なく長い時間流れている証。

面白い記録があって比治山と黄金山の仁保島がつながったのは江戸時代・寛文21662根とある(仁保島大河十軒屋誌)。普通はきっちりと年が記録されることではないだろうに。そのつながった土地は元禄121699年から年貢が徴収された。

大阪の淀川が生み出す砂洲の収穫へ課税は満潮時の海面より土地の標高が25cmほどになってからと、定められた。平安時代初頭の取り決め。

比治山、仁保島間に砂洲が伸びてつながった場所は柳の鎮座するこのあたりではなかったのでは、と思いが膨らむ。そこに畑がつくられ収穫されるのに三十数年の歳月があって、そこに城下への道が踏み込まれた。

島と島がつながる景色の手がかりかとおもえるエピソードがここに残っている。

霞町の2Rのホットモットと吉牛の西の交差点から南、黄金山の高台の住宅地の中に木立の繁みが濃い丘がみえる。緑の中、赤い鳥居と小さな本殿が長い石段の先にある。十軒屋稲荷神社でこの麓は十軒屋の地名がいまも残っている。この地名の由来が「大河地域誌」にある。

[元禄51692年浅野藩四代藩主が蒲刈島から島民十戸を移住させ、同じころ京都・宇治かた茶人を招き、比治山の谷に住居を建築、茶室も新築された。そこからの眺望の景色の一つとして十軒の民家が置かれた。十軒屋にも藩主休憩所がつくられ、西隣の大河の集落には藩主用の岩風呂も造られた。]

よほどの美しい光景はそこにあった、のだろう。水墨画の景色をお殿様は再現しようとでもおもっていたのだろうか。博多・志賀島の海ノ中道の写真からでも、このつながった島の景色を想像してみる。志賀島への砂嘴の先に鎮守の海神社と、この稲荷が重なった。

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広島城から十軒屋へ「往還道」が通っていた。往還道とはお役人が通行するときめられたルートの名称で殿様往来の道で、ちょっと庶民にはうっとおしい道、そこに宿舎等が整備されると、街道とよばれる。この道が比治山側から仁保島の山麓にぶつかるり進むと、細い小さな急坂があって、その坂をつくっている岬を殿様山と呼ぶ。坂をだらっと下ると山麓にへばりつく地蔵堂と黄幡神社の境内に入る。

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ここが島の時代のもっとも古い波打ちぎわの汀線になるという。この浜から大河の集落が広がった。住宅に囲まれた路地の黒塀、見越し松にいまも江戸時代が漂ったりする。返して、この往還道は途中の、広大病院の敷地に消えてしまっている。が、また表れて、交番の柳にでてくる。

往還道が通う比治山山麓にも黄幡神社があった。今のモスバーガーあたりか、杉姫稲荷神社かともいわれる。比治山西山麓の比治山神社はこの黄幡神社が移転された。比治山と仁保島と両端に黄旗神社が鎮座していた。海が割れ道が現れた“神威”への人々の驚きを感じる。

現れた道は、往還道と平行してもう一つ踏みこまれて表れた。殿様山と呼ばれる岬の先端からそのころの波打ち際に現われ、比治山の南端へ向かういまの旭町バス通りになったルートだ。この道を「大河道」とこのあたり一帯は高層ビルは広大病院のみで、空が広い。茫洋としている。

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日清戦争開戦の1894年に鉄道宇品線の建設がはじまり、広島駅から埋め立ての始まった宇品の鉄道路線は往還道をなどって設計されている。そこは湿地帯の中でも安全な地盤があった。1904年の日露戦争開戦に国会議事堂が広島に移転された。いまの立町電停付近の広島市水道局と市営駐車場のあたりが国会議事堂だった。それに合わせて宇品線の周囲に旧陸軍関連施設が建設される。きっと農地にはなっていても、湿地帯で民家も少なかったのだろうか、それとも国家権力の強さからか、この辺りに集中して各種軍施設があらわれる。明治36年ごろの地図にはまだこれらの施設は現われていないが、仁保島と比治山との間に畑のマークが記載されており、乾燥した土地があらわれていたと想像できる。海中から現われた道、このことも、“海が割れ”た証だといえないか。

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往還路の跡の道も大河道の跡もこのあたり一帯の埋め立て事業で直線に整備されて、今はR2国道に分断されているが、その面影が残っている。その事業が、海が割れ道ができた、神威の姿を消し去ってしまった。

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# by forumhiroshima | 2016-02-02 06:17

自転車と望遠鏡

島めぐりのツーリングが大好きなSさんから頂いた年賀状に、お元気ですかと小さく添え書きがあった。昨秋に、退職されたと、わざわざ、このボロAPに来られて、時間があったら走りましょう!と、おっしゃっていた。そのご要望の答えていない。   元気ですが・・・。スミマセン。

走るならいいコースを選びたい、案内したいと元自転車屋・根性で、おもってしまう。なのに、この頃、これって”コース“の判断が揺らいでしまっている。お得意の古道、旧道という人馬牛が踏み固めた”みち“なら幾つも指が折れる。NHKこころ旅の火野さんの走るコースもこのごろ渋くなって、幹線道はさけているようだ。が、それが、Sさんには果たして楽しいのだろうか?とおもってしまう。古道の楽しさはいつも感じている。が、なぜに?それが楽しいのか、の訳がワカラン状況にこの頃落ち込んでしまった。
楽しさを伝えたいのだけど。          「走りましょう!」の声かけづらい。

“みち”からフロントホイールが伝えてくるのは、この“みち”に踏み込められた時間の積層だ、と思い出したのは出雲の村々を出雲国風土記巡りで走ったころだった。島根半島の日本海と宍道湖との分水嶺に湖側からとりついた細い舗装路の三叉路から畦道に入った。正面に鳥居が現れ拝殿奥に注連縄へ結界されたマウントの空間があった。畦道は参道だったようで、そばに玄関に注連縄を張った民家があった。たぶん古墳を神々としそれを祖先とする社家の神主と思える老人が軒先の長椅子の背もたれに身を預け、杉木立の木漏れ日に日向ぼっこしている。その場で取り出してめくった風土記にその神社が1300年前の風土記に記載され社として今に比定されていた。その野呂志神社から見上げた杉林の山には古代半島から渡来する人々への烽火の記憶が残っている。
神社を出て分水嶺の峠を越えると正面に日本海が広がっていた。古墳時代、弥生いや縄文、どころか新石器時代、大陸からここまでたどった道が続いている!と電気が、パルスが、体を走った。オレは大陸への海峡を越える道にいる。自転車で海が渡れるという感情が現れた。峠から日本海へくだると三津の小さな港に着いた。“御”という字を、恐れ多くて使うのをはばかる時代が三津と表記をかえたのだろうか。この浜に古代スクナヒコナが海から到来した伝承が守られている。出雲の盟主オオクニヌシの父スサノオは半島へ往来したといい、スクナヒコナとオオクニヌシがこの国を創ったと伝承される。「御津」であってもおかしくはない。宍道湖からのここまでの古道は半島から大和へ向かうシルクロードの一つの毛細血管だったのではなかろうか。

などと、妄想を拡げることは、オレだけの妄想になるのか。この小さなシルクロードの毛細血管の道、ここを走れば、感じてもらえるのだろうか。

いつも、ツーリングは、こんな電気パルスを探して走っていた。幾つもの村や町に捜した。そしていくつかの、電気パルスに出会った。時間が積み重ねられたところ、人馬や牛の踏み址をおもわせる道に期待できる。古道の「峠」は登って来たトップから下る先の景色がみえる場所にのみそう呼ばれる。「タオ」と呼ばれたりするが、「手向け・タムケ」がトウゲになったともいう。辛い登坂から解放される場所は、自然に頭を下げ手を合させる。何に向かってかは、その時の自分に尋ねるほかない。

時間の蓄積は景色として現れる。時間を感じる触覚を人は持ち合わせない。連続して生まれ朽ちてゆく景色のスライドショーで時間を感じる。自転車の上からみる景色のスライドショー。スライドが変わるタイムスケジュールをゆっくりに調節するように自転車を走らせ、時間の蓄積をゆっくりと氷解させることも。

先日のNHK・日曜美術館で“葛飾応為こと葛飾北斎の三女「お栄」”が残した「夜桜図」を紹介していた。背景に書き込まれた夜空の星が輝いていた。d0089494_16713.jpg点描された星たちは各々を区別する色分けがされているとTVの解説が流れていた。天空に平面に配置されたような星たちはそれぞれ地球からの距離が違い、その距離は光の速さ・光年の単位であらわされる。天空の一枚のキャンバスに置かれた星たちそれぞれの距離を普通感じることはない。が、「お栄」はその時間差を感じていたようにも、思えた。景色の中の時間の濃淡を感じる人がいたのだ。

月からの光は2.3秒ほどかかっているという。
それぞれの時間(時代)に成立した景色を光で受け止める自分との間にもう一つ光の速度という時間があるという。景色のスライドショーの一コマそれぞれに個別に二重の時間がコーティングされている。こんなことに、誰が気付いたにだろうか。光速という時間を。

「1610年12月フィレンツェ 自作の望遠鏡でガリレオは金星・ビーナスを観測していた。金星が月と同じように満ち欠けすることに気づいたのである。観測を続けてゆくと、満ちていくにつれて小さくなり、大きくなることもわかった。
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この現象は、金星が地球からみて太陽の向う側に行くにつれて遠ざかることになり、小さくなって満ちてゆく。逆に、太陽と地球の間にくれば、大きくなるが欠けてゆく。地球が宇宙の中心にあって動かないとする天動説では金星が太陽の向こう側に行くことは決してないから、完全に満ちることはない。金星は必然的に太陽のまわりを回っており、水星や他の惑星もそうだ。このことを メディチ家のジュリアーノに報告している。  ガリレオ裁判 田中一郎」
ガリレオは木星の衛星も発見している。衛星に彼の名がつけられている。と同時に光の速度を計測する実験も行なっている。これは失敗したという。
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光速度が測定されたのは240年のちになる。ガリレオが望遠鏡で見つけた景色は、自分が受けるパルスなどと同じページには置けないのだが、ガリレオもパルスが流れたと、・・・。ガリレオ46歳のことだ。その頃パドバァ大学教授だった。この発見の結果は、23年後69歳で宗教裁判の有罪判決をうけている。地位も失う予感をも打ち消す強い強い電気パルスだった。      

ガリレオの話を引っ張るなんて、・・・。
無茶ぶり!!ついでに、エイ!。       ガリレオの望遠鏡と、オレの自転車と、パルス仲間なんです。
と自分の観念の世界にいまだ沈んでおります。
                            Sさん、もう少し時間頂戴、です。
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# by forumhiroshima | 2016-01-12 16:08

五箇荘

眼前の景色のなかから、何かにフォーカスし、それから連想が始まりだす。妄想の発生!。そんな場所に出会うとそのサイクリングが一段と印象深くなる。印象が残る“そんな場所”がまた別のサイクリングで出会う、と重なった“そんな場所”の意味を探したくなる。

黄金山にブルドーザーが出現させた住宅地、猿猴川に沿ってのびる高架道路、国道2号線に囲まれた42-2のエリア。広島の町の小さな古びたパズルのピースの仁保町。そこに“渡部”と表札のかかる立派な門構えの邸宅の中にそのイチョウがあり、門の前で道は小さくL字に回っている。“遠見遮断”とよばれる侵入する敵の防衛ラインの名残にみえる場所。
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“渡部”の名は黄金山周辺の鎮守・爾保姫神社の神官と同名で、このあたりの古くの名門一族では?。古代の神官と豪族の領主との関係を連想する。イチョウの下をすぎると交差する路地が東の猿猴川へ伸びている。そこの県道をまたぐと川からの引き込みの水面があって、いまそこにR2の国道の橋が架かっている。橋はどこも、昔の渡し場のあった場所にかけられてきた。“渡部”の字がここにあったろう渡し場を思わせる。大阪の天満宮と大阪城下の八軒屋浜との渡りを差配したのが「渡部氏」で、“渡し”からの名称だろう。天満橋の川下に渡辺橋がある。彼らはのちの瀬戸内から長崎・五島列島にまでその勢力を拡げた人々で、倭寇と恐れられた、という。仁保、向洋の外洋漁民たちとの関係も深いといわれる。大阪・五島そして仁保の渡部さん、そして大陸や半島との交流への関連を連想してしまう。

渡部邸から少しの上りで西福寺と竈神社が隣接して路地が交差するエリアにでる。
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振り返ると二本のイチョウが道奥にみえる。ここの幾つかある路地は猿猴川へと向いているが、各々を横につなぐ路地がなくて、ただ川岸へ押し出される。神社を中心に扇形に放射線に設計されている。神社そばから黄金山の山頂へ階段になって道は伸びてゆく。神社の拝殿は山頂を望んで建てられている。路地は扇型の場所を囲むようにある。

1555年の厳島合戦で、毛利元就の軍勢にこの仁保黄金山城の城主で、牛田の東林坊の住職・願通が毛利方で参戦している。お坊さんがここの領主であった。この毛利氏と陶氏との合戦は戦国時代最大の海戦といわれるが、毛利方の構成員は竹原の小早川の六七十程と願通を首領とした江の内の水軍五六十程の構成であったという。来島村上氏は開戦に遅れたといわれ、能島村上は参戦していない。厳島合戦の前に陶氏が黄金島に到来し、撃退されている。だから江の内の水軍の拠点がここ仁保になろうか。渡部邸のまえのL路地の防御ラインが、匂ってくる。ここに水軍の兵站基地が・・・。

「宇品も比治山も江波も島だったころ、この海一帯を江の内とよんで、その西側の海に太田川の砂州ができていた。いまの段原・尾長・白島・広瀬・打越になるこの砂州の地は五箇荘とよばれ、この支配権は東林坊にあると毛利元就が認めていた。
厳島合戦ののち、大阪石山寺の織田信長との合戦に江の内水軍は参戦している。厳島合戦で毛利氏へ味方したのは、敵の陶氏が願通たちの信仰する一向宗を禁止していたことも理由だという(長沼賢海)。」
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「浄土真宗の開祖の親鸞の墓を京都で守っていた子孫の中から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで一向宗とよばれ爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を呈した。・・・諸国で開墾地主がふえ、それらが戦闘力をもち、横に連繁し旧勢力(守護・地頭)からの自衛をつよめ、その連繁する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。
たとえば加賀では、守護の富樫氏をたおし、地侍との協議制のもとで加賀一揆として自治を行うことが二十数年も続いた。紀州いまの和歌山の雑賀の土地もいそうであった。司馬遼太郎・街道をゆく7」

府中町の出張城の北東にある囲む中世武家屋敷エリアといわれる路地に囲まれた路地に入ったとき、仁保の路地を思い出し、“仁保”そこが“そんな場所”になった。府中の出張城の城主が願通和尚の前の仁保城の城主だった。

毛利元就が厳島合戦ののちすぐの1557年に「塩硝熱させ候、然らば其の方馬屋の土然るべき之由に候聞、所望すべく候」と馬屋の土、寺院の床下の土を集めた。この塩硝熱は黒色火薬のことで、厳島合戦1555年で江の内水軍が使用した焙烙火矢(黒色火薬を詰めたつぼの導火線をつけて飛ばす)の威力(伝えられた陶方の負傷・戦死者リストでイズは石疵ばかりで、この石は焙烙火矢の壺にいれた小石といわれる)を見知ったことだろうか。火薬の原料は木炭(柳の若木、麻の茎)硫黄、そして硝石だが、硝石はこの国には存在しない。馬屋の土を所望する元就は、その威力の所有を望んだのだろう。信長の火器への理解に遅れていたのでは。

「○○街道」というタイトルの本を見つけると、欲しくなる。先日本屋で「幻の街道をゆく 七尾和晃」を見つけた。そのなかに“塩硝の道”の章とあって、富山・五箇荘から金沢への塩硝を運んだルートが紹介されている。アマゾンして中古を入手した。
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毛利元就のみた江の内水軍の塩硝は、越中の白山山麓の五箇荘とすこし南の白川郷の生産が特別な培養法という方法で生産されていた。“塩硝道”の中継点の刀利の集落の宇野家には、蓮如の直筆が残っているという。五箇荘の利賀の西勝寺が塩硝の集荷場でここから大阪・石山本願寺へ白山の硫黄とともに送られた。
この生産方法は湿気のないホロホロの手触りの土を囲炉下の土間に2間四方-深さ7尺の穴に詰め、蚕の糞と稗の殻やヨモギやヤマウドの乾いたものをまぜ4年まぜながら置いて乾燥させ、硝化細菌が働きアンモニアが酸化され硝酸塩にかわる。5年目をすぎてから灰とまぜ煮込み上澄みをとり、煮詰める作業から溶液が冷めると結晶化する。これが塩硝。生産の最盛期の幕末には五箇荘1300戸総出の生産で40,500kgになっていたという。(金沢大・板垣英治)

五箇荘の住民はすべて浄土真宗信徒で、石山寺合戦1570~80年に大量の塩硝と硫黄、木炭が送り込まれている。仁保城の願通たちもこの製法も威力も知っていただろう。

1545年鉄砲伝来に同じく到来した火薬は鉱石の硝石から造られたものだ。イギリスの東インド会社の主要な目的がそのころ世界最大に産出していた東インドの硝石の入手であり、この火薬が大英帝国の戦力だった。彼らが囲炉下の土間で塩硝をつくるなんて、ないだろう。信長はこの入手に堺の豪商をつかったのでは。造るより輸入が速い。秀吉、利休の後ろに硝石と鉄の姿がありはしないか。

一向宗徒たちの一揆の勢力の装備に黒色火薬があったことが、多くの大名たちの脅威であったろう。毛利元就は一向宗徒弾圧に動かなかった。願通たちの火薬がそうさせたのか、その火薬の保管は“そんな場所”に・・・。

金沢大出版「加賀藩の火薬・板垣英治」に、安芸国でも塩硝の生産があったと書かれる。
越中五箇荘、飛騨白川郷の合掌つくりの民家は広い囲炉、蚕生産、そして湿気から土台の土地を離す高い屋根と厚いかやぶきをもって塩硝生産の量産を図ったのだと思えないか。合掌造りの民家の群は塩硝の生産工場群だったのでは。その姿は、出雲・吉田のたたら製鉄の高屋根の高殿を連想する。中国山地のどこかに、“そんな場所”を見つけられるかもしれない。

追伸
イチョウの雄雌にメールを頂いた。ありがとうございます。
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あのおっあんに、出会ったら教えておきます。イチョウといえば、ヨコオの1968年の東大駒場祭のポスターを思います。サービスでケンさんのヨコオ・番外地ポスターも。
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柳田国男はゴカノショウの地名は、だれも所有していない、税金かかるなら欲しくない平たい土地だという。番外地もそうですね。“河原ものたち”の河原も。
いまTVで都はるみのファイナルコンサートをやっています。ビックリしています。1968年は東大・安田講堂占拠が医学部学生によってなされた年でイチョウ並木の向うのジャングルといわれていました。その夏にアルバイトでいた東京でイチョウのジャングルをチョット見てから、都はるみの歌舞伎座公演いっていました。TVにとても痩せて傷んだ表情が映りだされています。ちょっと、泣きました。元気でいてください。「ミヤコ!ミヤコ!」
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# by forumhiroshima | 2015-12-07 21:35

四十二条二項

建築基準法の条項で家屋などの建築には4m以上の道路に面している必要があると規定されて、4m未満の道に面している場所の新しく建築されるには、行政にある道路が「みなし道路」と認定されてから、建築許可される。そのためにか4m未満の道に面している古い建築の建て替えが滞る。
そんな町並みを、ひそかに“42-2”と私はいっている。時間がコウティングされている魅力をもっていて、その「みなし道路」と失礼は名称をつけられた道へいつも入り込んでしまう。そこは、“懐かしい”場所だ。自分が生まれる以前にできた町であっても。“小京都”とよばれる景観がそんな代表だろうか。
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道路中央線から図って4mひっこめた設計なら新築の許可はあるそうで、このごろデザイナー○○といわれるおしゃれな四角い家も建築され、瓦屋根のなかに散見される。新鮮な風も吹きこんでいる。がそれでもまだ、古い時間は、渋く失われてはいない。

イギリス人の建築家バリー・シェルトン「高架道路、工場、農地、パチンコ店、公民館、ガタガタの木造住宅、新しいアパート、その他いかにも不調和に見える近隣建築が踵を接して建っている。都市の大半は、明確なパターン、形態、ラインを示すことのない“コラージュ”のような光景を呈する。 日本の都市から学ぶこと・西洋から見た日本の都市デザイン」
“コラージュ・collage”はバラバラば素材を組み合わせ貼り付ける造形美術の創作技法(ウイキ)とある。ピカソやブラックという抽象画の創設者たちの創作になる技法だという。日本の景観もすてたものじゃない。アルファベットで表現されると、路地の町並みもオシャレになる。
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シェルトンは続けて「多様な自然や人工の形態が様々に不揃いに散らばった景観として現れるのは、大きなもの、小さなもの、有形なもの、形ないものにも表れる日本の神々が、様々な信者の優先順位の違いに応じて祀られ、崇拝されることに由来する。」という。西洋の建築家シェルトンは、「キリスト教世界全般は至高で唯一普遍の神が統括する世界で、人は神の意志を遂行するために、神のイメージに似せてつくられている。だから神に似せられる“人”は厳密に階層的で支配的なやり方で神に捧げるモニュメンをつくり都市に配置した。」という。
“シティ・CITY”の名称をもてる都市は大聖堂をもっていなくてはならないという。日本の都市の景観のコラージュ性は、古代からのこの国の神々への信仰のありかたと強い関連性があると力説している。持ち上げすぎだと、思うけど。

11月のNHKのEテレの番組「100分で名著」の「サルトル」のパンフレットに、サルトルとボーボワールとが、パリを歩き回り、都市の“不可思議・メルベイユ”を探したとあった。不可思議・メルベイユ=コラージュなのだろうか? などと、めくってみただ、詳しくはわからなかった。42-2のエリアが、哲学の巨人たちの探し物と同じだとしたら、42-2のエリアも捨てたものでもない、様子である。まぁ、ただの思い込みにすぎなかろうが。

黄金山の山麓には42-2の濃いエリアが本浦、大河と点在しているのだが、そのうちの一つ東の山麓、中腹の新興住宅地の裾の仁保の町並みに、イチョウの二本の巨木が青い空に黄色の紅葉であたりを睥睨してみあげる新しい住宅街と背比べしている。クロサワの「天国と地獄」のロケーションだ。秋の終盤の景色は、この木があたり一帯を支配している。四季の移ろいはいまこの巨木にスポットしている。
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スポットされたイチョウの姿を、立ち止まって見上げてしまう。そこへ昨年の秋に続いて、近所のおじいさんが、また同じことを話しかけてきた。「あんた、どちらがメスか分かるか?昔はギンナンができていたそうだが、この頃は見ていない。二本立っとるから、どちらかがメスなんじゃろうが」こちらも昨年と同じ答え。「わかりません」。通行している人それぞれに聞いている様子だ。一年の時間が回って、元にもどったようだ。
数百年の樹齢ともいわれるイチョウの大木が民家の庭に鎮座して今にあることが、なにか訴えかけてくる。その雄雌もたしかに気になろうと、思う。たしかに神々がそこの鎮座し、そして、この屋敷の広い庭の東側一部はコンビニにつくりかえられている。その駐車場にもイチョウの落ち葉は落ちてくる。“コラージュ”とされる景色。だろう。
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浮世絵の研究をしている歴史家のヘンリーDスミス・米国人は、“歌川広重の金杉橋”の浮世絵では、橋そのものは描かれず、金杉橋を渡ってその先の池上本門寺へ参拝する日蓮宗の信者たちの行列を宗派の紋章の旗で描いているとい、旗の下に描かれた太鼓や傘は旗と反対側へ動いていると表現され、行列は行き帰りが表現されているという。橋の欄干は一本が小さく描かれる。小さなパーツがに積み重ねが全体の景色の空気を描く。
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奥行と広がりという相対的な焦点で表現された景観を額縁で囲い込む西洋的な表現、額縁のなかで完結する風景を当たり前のこととする表現に比べ、しばしば全体を犠牲にして部分を強調する「不完全さ」の秩序が、“日本”的な秩序だといっている。

徳島県祖谷の古民家で暮らす東洋文化研究者のアレックス カーは「一つまたはそれ以上の断片に景色を切り離し」、その小さな断片にフォーカスする。世界を締め出して小さな“コト”に集中する“日本的”能力に言及し、この国最大の桜の名所の吉野の空を占拠した高圧電線鉄塔と電線の醜さがあろうとも、桜の咲く美しさに集中し、美しさは抽出され、電線たちに邪魔されない視点がこの国の人々にはあるのだという。

西洋に人たちは、細部を組み立て、重ね、見たくないパーツは捨てることができる感覚がとても印象的なのだろう。
この国でも、古代、田園は条理という四角形に区分され、都は朱雀大路が南北に貫き、交差する道は北から一、二と条によばれていた。が、造られてまもなく、この区分は崩壊する。
それは、この国の農業が米作りであったことで、水面を基準に土地が区分されるほかなかったからだと思う。均一の平面を広大につくる土木技術もなかったし、広い水面に吹き付ける風は波をおこし植えられた苗を泥から引っこ抜くこともあり、一反という自然に適応した広さを基準とされ、その大きさが手に余るもののでなかったからだろう。その一反は縦×横からの広さでなく、人ひとりが一年で食べる一石の生産ができる広さをいう。数式で極められたのではない。その広さは変幻自在なのだ。

おもちゃのレゴのように小さなパーツを組み替えられながら、ある時代の景色をつくり、また壊し、また組み付けてきたのだろう。そこに、くみ上げられる時間の変化が“コラージュ”と西洋の人々には思えるのかもしれない。

パリの画家たちが額縁をもたない版画に興味をもっていたころ、倉敷・大原美術館にあるエル・グレコの受胎告知が完成したころ、宇宙の運動を数式に表すことに1905年アインシュタインは特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動原子・分子証明という大発見をしたという。もちろん私に内容はわからない。宇宙の創造神の業績の数式による解明であるといわれる。のち数式では宇宙の運動の解明ができなく、量子論の確率的存在でしかないという理論が勃興してきたことにに、「神はサイコロ遊びなどなさらない」とアインシュタイン言った。科学者は神のしもべでなければならない。すべてを子細に見通さなければならない、のが彼らの景色なのだろう。

西洋の創造神のおぼろげなイメージが、なんとなく、うかんでくる。そしてコンピュターは神の計算機なのだと、思い知る。数式の世界は進化しつづける。

司馬遼太郎は「あぜ道から、おっさんは建売り屋か、ときいたことがある。・・・お前ゼイムショか、と凄んでみせた。・・・ブルドーザーが赤松林を根こそぎならし、古墳をこそぎとってそのあとの剥げ地にセメントに赤青の塗料を吹き付けた瓦屋根のむれがはりついていて、戦後の政治が理想をうしない、利権エネルギーの調整機構だけになりはててしまったこと」と街道をゆくの第一巻で叫んでいる。司馬さんのなにも見逃さない知性が叫んでいる。司馬遼太郎の世界の緻密さは厳しい。

だから、赤青屋根の派手さ、気色から浮いた存在を自分の印象の中から取り除く技で、懐かしい景色のDNAを継続してきた、とは思えないだろうな。
自転車の走行スピードは、景色の捨象・抽象の感覚の引き出しに都合良いようで、流れる景色に子細にこだわらなくなる。ゆるくって・・・司馬さんすみません。
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# by forumhiroshima | 2015-12-05 09:27

小声で神紋論争

丹那の穴神社の幟には、厳島神社と同じ“三盛亀甲剣花菱”の神紋が使われている。
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町内会の面々はどうも納得していない。祭神に厳島姫神はおられないという。では、となると確信はないが、とマクラがついて小声で“山姥のマサカリ”じゃろう、と。子供神輿はこの神紋が掲げられる。
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子供神輿の後に手作りの子供獅子が踊っていた。
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山姥は中国山地でよく出会うオババだ。芸北の才乙、天狗石山西尾根、阿佐山南尾根、大暮の山中にはともに平家伝説の姥御前が鎮座し、石見町原山には山姥の祠がある。ここ海の島の仁保島に山姥が徘徊していた伝承があるのだそうだ。この伝承からの“山姥のマサカリ”が数年前に出現したらしい。まだ新しい神紋だ。

丹那の隣町の楠那や日宇那の鎮守は公園の中にある新宮神社。祭りは丹那より二週間遅く、本浦の仁保姫神社の祭礼と同じ日に行われる。小さな神社は荒廃していたのを戦後直ぐの昭和21年に再建されたという掲示板が本浦の仁保姫神社の倉庫に置かれている。
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熊野新宮神社からの勧請だが、神紋はここも厳島神社と同じ“三盛亀甲剣花菱”。
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ネットで調べると、熊野新宮神社は三つ巴だとあった。ネット社会ではすぐに調べられるが、戦後直ぐの時代に、それも神国荒廃の混乱時に神紋に興味があったかどうか、わからない。

天皇家の“十六八重表菊紋”は鎌倉幕府が成立した時代の後鳥羽上皇が奈良時代に中国から渡来した菊をめでられたことから、という。明治2年の政令で定められた。家紋・神紋は鎌倉時代に武士団の判別の要請からひろく作られたという。みなさん、勝手に作ったのだ。その際、いろいろ伝承がつくられる。もう昔だが自転車のフレームのエンブレムを家紋にすることがはやった事がある。エンブレムを作ってくれるメーカーがあった。我家紋はおやじからの伝承がなくて、おふくろ方の家紋を使っていた。曾祖父のとき、養子に出ていて、土井家は断絶、家紋の記憶は失われたらしいと、おふくろがこっそり話してくれた。

家紋消失のケースもあるが、家紋成立伝承は多種多様にある。たとえば、毛利家の一品家紋は家系に皇室につながるとする伝承のもので、ほかにも天皇家から拝領の五七桐家紋も持っている。

伊予・河野家の家紋は折敷という神饌を乗せる容器に三の字。この紋を付けた幕を船に張って蒙古襲来の合戦に出陣し活躍した。三の字が海面に移って波打ってみえた。終戦を祝う宴会が鎌倉でひらかれたおり、河野家は並み居る関東武士をしり目に、源頼朝、北条氏の次席、三番目に席を与えられた。このこともあって、折敷に波打つ三の字を縮み三字に変えた。河野家は源平合戦に義経に従い壇ノ浦に出陣している。戦果も挙げた。いま大山祇神社の神紋はこの河野氏の“折敷縮み三文字”になっている。
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河野氏の武運の印としてだろうか。とても人間臭い感じがする。

日宇那の新宮神社。の祭礼は簡素なものに見えた。紅白の幕もなく、神社は素のままで、祭礼の日を迎えている。神社の東側の尾根上に新しく開発された住宅街は仁保南町に分類される。ここは仁保姫神社の氏子の領域で、新宮神社ではない。

新宮神社横に流れこむ小さな流れにそっている細い登り道を走っている。だれにも会わない。へたっているのを見られないから・・選んだのではないが。神社そばの流れは幅3mに足らない水路に入っている。
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水路は海が埋め立てで取り残された。黄金山の南斜面にふった雨がいくつもの溝で入ってくる海への排水路で両端が海へつながっている。だから、潮の干満が水路に現れる。夕べの満月が朝の満ち潮って関係がたのしい。
その干満の海水に出入りの流れがこの神社で東西に分かれているのを、発見した。大発見だった。そうして、この神社そばの流れの流入口がこの干満の分岐点だとも発見した。
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なぜか、ここに小さな神社を昭和21年(自分の生まれた年)に地元が再建したとき、その場所の選定に、ここが埋め立てられる前にも汐道、つまり、ここで海の干満の流れが分岐していて、その場所が神聖な場所であったからではないか。

瀬戸内海に南の豊後水道、東の紀伊水道を通って外洋から流入した海水は備讃瀬戸西部で会合する。備讃瀬戸大橋の西側あたりになる。塩飽諸島あたりといわれる。
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この会合ラインに金刀比羅山・琴平山が北・南にあり、南に金毘羅宮、北に由加山に由加神社本宮があり、古来両参りするといわれる。海の会合のラインはこの両神が加護していると思える。塩飽の漁師たちは人名とよばれる幕府直属の船乗りたちとされた。海の干満という営みの中心点の立地が彼らの時代を創った。
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黄金山とよばれる仁保山の“仁保”は澪・ミオではないかと考えだした。この島は西の京橋川と北から東へ流れる猿猴川に挟まれる。島の南でこの二つは合流する、としたら。合流する流れは水流の早い流れが底を深くえぐる。このラインが船の航行に使われる。これを示す杭が打ち込まれるとミオのツクシ、あの春のツクシで澪土筆と呼ばれる。広島湾に入った船は仁保山を当て山とし、古代の国府府中への進路をとった。仁保はミオの目印だった。坂の鯛尾の地名は急流に回遊する鯛の記憶、金輪島との間に澪があったのではないか。この海峡の正面に、日宇那の集落があり、そこに真水が流れ込んでいた。
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(ここまで妄想を拡げる自分がコワイ)

その麓に熊野の新宮神社が勧請された。この神を勧請した人々は、瀬戸内一帯に舟による大網漁法を広げた熊野漁民だったろう。

日宇那の小さな流れよりも、丹那の本浦へ抜ける峠道中ごろに清水さまと呼ばれるりっぱないまも湧いている泉と、祠がある。「姥神は子安様・コヤスサマともいって、最初から子供のお好きな、路傍の神様でありました。それがだんだんに変わって来て、後には乳母を神に祀ったものと思うようになり・・・姥神はたいてい水の畔に祀ってありました。 柳田国男 咳のおば様」
題名の「咳」は、これを拝めば咳がとれるとされていたが、もとは“関”だったという。境界を示している。山姥と呼ばれる所以になるのか。芸北の姥神は、そばをぬけると峠道だった。

丹那の穴神社の早朝の獅子舞の舞手は中学生だった。子供が子供を守る、そんな時代がこの町にはあったのだろう。

ブログの更新ができなくて、どうした!死んだか!とあったかいお言葉がいくつも飛んできた。自転車に乗って、書くぞ!を守ってきたつもりだが、(時には??)その自転車のフレームの接着のエンドが抜けて、そのメンテの接着剤の選択と硬化させる環境調べが出来なくて、はしれない、です。
十数年付き合ったカーボン+アルミのフレームで、パーツは4世代です。よく走る!なんてわからないのが本音ですが、ホリゾンタルでノーマルサイズのチューブの姿がお気に入りです。プラモデルっぽいデザインも悪くないとは思っていますが、自転車に走っていただくスタイルで、走らされるスタイルには、恐れ多いのです。フレームはその内、治せるでしょう。それまではブログは飛び飛びです。付き合っていただくのに、すみません。

追伸です。新宮神社の由来掲示ボードが本浦の仁保姫神社に倉庫に投げ込んであるので写真採りにいったのですが、神社本殿横に伊勢神宮の式年遷宮ででてきた材木が置いてありました。ちょっと触りました。
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追伸2です
広島市の紋章が、縮み三文字なんだけど、川なら6本だよな。
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追伸3です
宮本常一の風土記日本・中四国に金毘羅樽の話がある。瀬戸内の海や流れ込む川に金毘羅神へのお供えを樽にいれ、材木に括り付け流す。このお供えが丸亀や多度津の海岸に必ず流れ着く。と拾った人は神社へ、流し主に代わってお供えをした。瀬戸内の漂流物がこの海域に集まることが神威として感じたのだろう。この海峡に汐が湧き、そして引く。金毘羅神の意のままに。この神がおられてこその歌舞伎の上演が貫徹する。
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# by forumhiroshima | 2015-10-26 21:58

小七郎という名の発生

黄金山の南の山麓に住み始めて、三度目の秋になった。秋祭りの手伝いの依頼が世話人さんからの連絡があって、一週間前の幟立てから、
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前日早朝の餅つき、当日早朝の獅子舞、
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片付けに出かけた。手伝っている町内会の面々の名前と顔とが三年目でやっと重なった。

祭りをする丹那町の穴神社の境内に大正9年(1920)に神社が改築された記念碑があって、多数の寄進者氏名が刻まれている。町内会の面々の名があるかと、覗いてみた。
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幾人か同じ名がある。大正のころに寄進できる世代のリストだから、刻まれた人々は江戸末期か明治に生まれた人たちなのだろう。町内会の人々もここがながい。
サイクリングで立ち寄った村の社の境内の記念碑など、よく眺めてみる。その神社の氏子たちの集落での家々の昔が浮かんで来たりする。同じ名の並ぶリストに出会うと、いまも集落の人々は同じ名の人たちだろうと、固定された長い時間を感じさせる。
そんな集落の家々の戸口には表札はなく、屋号だけがあったりする。なぜか、ここにきてよかったなどと、わけわからない感傷が生まれる。「古いなぁ」「頑張って!」そして写真を撮る。が、後で何を写したかを忘れている。ただの玄関の写真だから。自分の頭ではすぐに時は消えてしまう。

この国のすべての人の「氏」を定め記録する戸籍が作られたのは、大化の改新で646年のこと。これ以後許可なく改めることはできなくなった。最初は、もちろん奈良の盆地周辺のことだ。が徐々にひろがっていった。1360年を経て名前が数字にかわりそうだ。“決めていただく”ことになった。

大化の改新で戸籍を定めることができたのは、ずっと以前のある時代に一つの氏族があるところに、どこからか、移ってきて定住し、次第に繁殖していた。その一族への口分田の配分、納税額の決定ができるようになったからだろう。最小単位の一戸は戸主によって束ねられた5親等までの親族や親せき、および奴隷で、十数人以上百人もいたといわれる。この戸を50戸集めて里として、行政単位となった。いまの村や町の規模にあたる。この一戸は同じ「氏」を持っていた。この集団が歴史上に記憶されれば、豪族と呼ばれる。
戸を5つでくくったのが「保」とよばれ、いわゆる五人組制度で、連帯責任を負わされていた。この構成員は同じ血族であった。彼らは農民であるから移動は困難で、長く血族で構成される集落の形態は変わらなかった。「氏名」が地形・地名に由来することは、このことによるといわれる。たとえば、伊予の物部氏と記憶される人々を連想する。この連想が妄想に昇格する。彼らが近場で最も古いと記憶された集団だからだ。

このごろでは考えられないが、名前には昔には、①祖先の集団である「氏」源氏とか藤原とかからの一字を使う、②祖先が就いていた官職、左衛門・兵衛・助・佐内・監物など③太郎、次郎などの父子兄弟の順位、という習慣があった。

とても興味があるのは、①の祖先の集団の「氏」を名前に流し込むという習慣のことだ。官兵衛・勘兵衛さんの「カン」は菅原氏の「菅」から、安兵衛さんは安倍氏の「安」、喜兵衛さん、記内さんは紀氏の「紀(木・喜・記)」、野太郎さんは小野氏の「野」、吉右衛門の「吉」は橘氏から、等々。男の子が生まれたお父さんは、ハタ!と我が家の伝承を思い出して、大古の血族の匂いをフト嗅ぎ出したのかもしれない。まるで落語の登場人物たちのようだが。

「多くの家系は大抵立派な人からでていることになっている。一見おかしいように思えるが、それには大きな理由が存している。親が二人、祖父母が四人、曽祖父母が八人、その前が三十二人、二十一代前で百万をこえ、二十九代前には一億を超えるものとなる。またく代々系統を異にした人との婚姻と仮定されればであるが、おびただしい数に達する。そのなかのおびただしい祖先のなかには、一人ぐらいの有名な人があるであろう。だからだれでもその後裔だといいうるし、また四海同朋で一切が皇室の赤子であり分家であるといえよう。太田亮 日本古代社会組織の研究・1967」
太田亮は立命館大学の先生で古代氏族研究の専門家だ。ここでの理論は同じ氏族内での婚姻という前提で語られているので、系図をレトリックで話している。島国の単一民族であることがその背景にある。彼はいわゆる右翼論者ではない。
が、この論法で“神国日本”は、天皇家の祖先が天から降臨した神の子であることにより、日本人が神の子になったことによる。いま、流入する難民を受け入れる人々には想像できないだろうな。

丹那の穴神社の石碑に、市太郎、為四郎、小太郎など、わが名前“小七郎”に近い名がある。我が名はよく“カッコイイ”などいわれてきたが、うれしくなかった。珍しさで言われることがわかっていた。
この名は③太郎、次郎などの父子兄弟の順位による。サミーデイビス ジュニアのジュニアと同じだ。おやじが七番目の男の子で七郎と名付けられた。その子が七郎の息子で小七郎になる。七郎・ジュニアにしてくれたら、よかったのに。
太田亮はこれを輩行の世襲と呼ぶ。太郎の子が、又太郎、小太郎、余太郎、後太郎、新太郎、余太郎などが挙げられている。
男の子に一郎、二郎、三郎となずけた親の最初は中国の唐の大宗で、日本では9世紀の光孝天皇だそうだ。7世紀の大化の改新で暗殺された蘇我入鹿は君太郎とよばれ、最初の仏像崇拝と、かなり中国かぶれだったようだ。そのころ“小七郎”は最先端のファッションネーミングであったのだ。としておく。

小七郎は実在の人物で明治初期の人、曽祖父にあたる。高祖父・ヒヒオヤジが太田亮がいうところでは、七郎となる。江戸時代に人だ。ちょっと会いたくなった。
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# by forumhiroshima | 2015-10-25 20:51

神の島

大三島の東隣の伯方島の小さな港町の木浦で島の神と呼ばれるところに、三島神社が鎮座している。拝殿の天井にびっしりとすきまなく提灯が吊り下げて、祭りが日常のような景色だ。そばにおいしい寿司屋さんが昼間も開いていて、島の生活の豊かさが望ましい。朝漁の真鯛持ち込み、昼から一杯、二杯・・・。それが生活!!なんて夢。

大三島の大山祇神社が三島神社と呼ばないを、考えている。
福山市蔵王町惣戸神社は江戸期には三島大明神と呼ばれていた。この“三島”がサントウと読まれ、サントウがソウトになった。読みに後付で漢字がつけられる。

京都・比叡山の西の山麓の岩倉に平安初期に不遇の最期を迎えた早良親王、死後、崇道天皇・スドウテンノウを祀った御霊神社がある。御所の南にも下御霊神社があって、不遇の死を迎えた菅原道真などが祀られることと同じ信仰が、スドウをソウトウ・惣戸、サントウ・三島、などを創り出したといわれる。柳田国男は「わずかに遺る土地の信仰の中から、各地に共通の点が見いだされる」といい、松童・マツドウ権現をあげて、「何か恐ろしい天災地妖又は其予覚があった場合に、地方に最も勢力のある神が此の名に於いて祭られるのが自然・・」といっている。甲奴町今は三次市に小童・ヒチもショウドウと読める場所がある。ここに須佐神社がある。祇園社と同じ。南の府中市の素戔嗚神社も祇園社と呼ばれる。

大三島の大山祇神社の祭神は大山積命で、「祇」「積」を使い分ける。三島大明神と合わせれば、三つの名が使われる神となる。強力である。「祇」に祇園のスサノオの力を、「積」に薩摩隼人の守護神の、「三島」に崇道天皇の御霊の力を。

伊予・河野通信は源平合戦で源氏側につき壇ノ浦へは大船30隻で乗り込んでいる。源平合戦の出陣に源頼朝は伊豆・三島大明神に戦勝祈願して出立している。ここの大山祇神社の宝物に源氏関係が多い。

大山祇神社の本殿の奥へ向かう道がある。「生樹の御門」と呼ばれる樹齢二千年の巨樹があって、根本に空洞があり、ここをくぐって道は奥へ。
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そこに阿弥陀寺とよばれる小さな寺があり、奥ノ院といわれる。三つの神力の大山祇神社に仏法の仏力が加えられた。
中世に一万数千石、四国にも領地のある一大荘園だったといわれるほど、ここは繁栄していた。

大楠周囲は路地が石垣の間に伸びているが、一大荘園の名残、24以上あったという、たくさんの僧房の跡の形跡なども、想像できなかった。
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それでも、中世の古代都市の名残りのだったのだろう路地を抜けると、人影のまばらな道の駅の前の車道にでた。阿弥陀寺と生樹楠に漂っていた重い時間の層が消えていた。

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大三島へ上がると、必ず、最初に尋ねる集落がある。西海岸の「肥海・ヒガイ」。
二つの岬が西の海に伸びて、正面の大崎上島の北端の山並みとの間に浮かぶ神殿島を抱きしめようとしている。
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その景色は毛細血管のように路地をめぐらせた集落の山麓にある曹洞宗海蔵寺金剛寺のから見つけた。
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神殿島の東の柵林島に地図に神社マークが見える。神殿島の参拝の場所におもえた。
肥海の集落は直径500mばかりの円で、ちょうど囲まれる。集落に漁師はいない農業専業の集落だと、宮本常一はいっている。
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瀬戸内では対面する島へ海を渡って開墾してきた。対岸に人々が舟で渡り畑を拓き、そこは対岸の行政区分に入る。そんな飛地があった。神殿島のむこう大崎上島の鰆崎は漁師の集落で、農業の出仕事はないだろう。と、想像する。海岸に田園がつくられる。そこに小さな水のたまり場がつくられて、九州の南の水不足の島々でみられる風景がある。”肥”にはその意味があるのか。
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円にかたまる集落の北の尾根に二つの神社があって、八幡社と相殿神社が鎮座している。

島とこれらの配置は、なんらかの関連があるのでは。と、しても相殿社から神殿社は尾根に遮られて見えない。妄想はそこを破れない。

緑の少ない集落はすこし埃っぽい。背景の尾根の向うに砕石採取場あるからでもないようだ。その採石場へ出入りするダンプの影も薄い。そして集落はいつも沈黙している。

現代の今がダンプにのって入り込んでも、集落はただただ沈黙して、日の出には輝くだろう神の島を望むことで、時間を積み重ねられている、と感じる。いつか、お寺の駐車場を借りて、その朝日を見てみたい。
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大山祇神社の神の有り様の中の時間よりも、ここ肥海の神々の配置の中をうろうろ巡る時間がすきだ。何かが、海を渡ってくる。
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# by forumhiroshima | 2015-09-16 16:00

柳と幽霊

大三島の領主であり、越智郡の地名に名を遺すのちの河野氏が、古代、物部氏で大和朝廷が奈良に入ることを阻止した人々であったと主張する鳥越憲三郎のロマンに引きこまれてしまったのだが、彼らの祖神と信仰するニギハヤヒ命の神社はこの島では見つけられない。
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ふと、「饒田津に舟のりせむと月待てば汐もかないぬ今は漕ぎいでな 額田王」この歌を思い出し、です。饒田はニギハヤヒ命のニギ、ニギ??

この饒田の津の地は松山、西条と候補地がある。折口信夫は「饒田津は古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りというのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊・フナユウギョと言ってもよいでしょうが、宮廷の聖なる行事の一つで、舟を浮かべて行われる神事なのです。」

古代三古湯は播磨・有間の湯(有馬温泉)紀国・牟婁の湯(白浜)伊予・伊予の湯(道後温泉)だそうで、どこも神事が古代行われた。大地のエネルギーの噴出が、神業だったのだろう、その業を取り込みたくて朝廷からの来訪が絶えなかった。貴族たちは朝廷の許可なくして入浴できなかった。家臣たちの力の増強を恐れたのだといわれる。
額田王が道後にやってきたのは天智天皇(中大兄皇子)が半島に出兵した662年白村江の戦いのときだといわれる(異論があるが、取りあえず)。半島出兵の戦勝祈願の神事であったのだろか。神業を希求したのだろうか。

それから30年後、大三島に当代随一の祈祷師が現れた。
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「役小角は、尊称されて役行者、役の優婆塞などと呼ばれる。七世紀から八世紀にかけて活躍する怪人物だが、実存の人物であることはまちがいない。  葛城の鴨族という神霊のことをつかさどるグループのなかでも筋目のいい出身であろう。  鴨族の貴種の生まれながら  かれは神に仕えるよりも仏の世界に入った。  役小角は葛城の山の洞窟に住み
葛・カズラをたたいてそれを衣服にし、草の根木の皮を食って暮らすうち“孔雀の呪法”を習得した。  孔雀は毒草も毒蛇も食ってしまうらしく、それに驚嘆したインド人がつくりだしたのが孔雀明王である。  人間のもつ精神的障害を食い業障罪悪を消してくれる。  葛城のふもとに住む鴨族の小角の観念に一大威力をあたえた。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

「葛城の神霊である一言主神を脅し、葛城山から吉野山まで石の橋をかけることを命じ、夜も昼も働かそうとした。  一言主神はたまりかね、藤原ノ京にいる天皇に訴えて、“小角は謀叛をたくらんでいる”と讒言した。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

この讒言があって役小角は伊豆にながされることになる。「日本霊異記」で669年になる。讒言は一言主命の神主であろうと司馬遼太郎はいっているが、「続日本記」にはこの讒言は弟子の韓国連広足・カラクニノヒロタリだという。韓国連広足は韓国に派遣され帰国後その功績のより賜った姓で、元はニオギハヤヒ6世の孫のイカガシコオの孫で、物部氏の父系になるという。谷川健一 役の優婆塞」

河野氏の家の歴史書・伊章記よる、河野家の祖先の小千玉興が役小角と難波から大三島に連れだってきたのは役小角が65歳のころになる。藤原ノ京が出来上がってきたころだという。小千玉興の父守興は662年白村江戦いに参戦している。そのころ役小角が29歳。額田王が道後温泉で神事したときに小千玉興は船出したのか。10年ののち額田王は壬申の乱672年で死亡したといわれる。
大変動の時代の波が大三島や道後に押し寄せていた。
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千小氏は大和で物部と呼ばれた(鳥越憲三郎)。その物部といわれる韓国連広足が讒言したことと、小千玉興が讒言された役小角と伊予にゆくのと、どうなっているのだろう、な。大人の都合の話でしょうか。マアイイカ!

谷川健一「役の優婆塞」には、「役小角の祖父・事葛城君は子供に男子がなく、娘の白専女・シラタウメと呼ぶ一人娘にあとを継がせた。また出雲国加茂の富登江の子の大角を養子にした。大角はのち高賀茂真影麻呂・マカゲマロを名乗り、さらに十十寸麻呂と改名した。十十寸麻呂は白専女の婿となり役小角をもうけたが、のち大角は出雲国へかえったという」京都・下賀茂神社の祭神は賀茂建角身命で、カモ族には“角”がつくのか。ならば、田中角栄はカモ族か?。
額田王は琵琶湖出身とされるが、出雲国意宇郡(松江)出身とも。

役小角は山伏の元祖とされる。空海の山岳修行の先行すること約130年、まさに元祖だ。修験者のという強度な精神力の姿を思わせる。
が、父親の帰郷ということが、彼の人として感傷を感じる。幼年期のことだろうか、青年期の出来事なのだろうか。

出雲国の大角の故郷は、赤川が斐伊川に合流する加茂神社あたりだろうか、と感じる。この神社の西北の山中で銅鐸が発見されている。神社から西へR45にそった地方道が谷を北へ登っている。谷奥に駐車場が現れ、すぐに高架になって道路をまたぐ資料館が現れる。発見現場にレプリカで当時の様子が再現されていた。この谷は神社のある場所からは見えない。が、古代の祭壇の磐座が資料館そばに鎮座する。
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加茂神社は小さな丘に囲まれて、その間を赤川にながれこむ支流がいくつもある。北の宍道湖畔へと北上するR45は赤川を“柳橋”で渡る。平地へいくつもの尾根が張り出しそばに流れを従えて、赤川へ迫り、流れを合流させる。この尾根の先、よく山崎と名付けられる場所は出水の際、水流がせき止められ、ダム化し、水が引いた後に土砂の堆積が残る。なんだか、古代エジプトのナイルの叛乱ににている。
そこに豊かな土地が出現した。そのおいしい場所に古代に現れた人々が古代からの氏神を残す。全国各地で鴨、賀茂、加茂となぜか表記がかわるが、カモ族がここのパイオニアであろう。彼らの祭祀に銅鐸が打ち鳴らされたのだろうか。

京都、山城の賀茂族の祖神を祀る下賀茂の社のそばで賀茂川と高野川とが合流する河合の場所あたり、“柳”と地名される場所がある。そこに京阪電車の出町柳駅がある。ここも氾濫原で出町の地名の場所は古代出雲族の村あとともいう。いまそのあたりに出雲路橋がある。
なぜか、カモ神と柳との関連を妄想してしまう。
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「黄楊は“ツゲ”と書かれる。枝が遠くの一方を指すことから、あたかも何事かを告げんとする形であったために、“告げ”るとされた。 松の枝も広がりの力が顕著で、神降臨の説が起こる。一本松、三本松、五本松は神の所在だ。柳のごとき垂れるを性とするものは、生きた枝の伸び方で神意をうかがおうとしたものである。柳田国男」
陸前高田の奇跡の一本松に、だれもが神の降臨をみたはずだ。

「枝低く垂れて地に臨むものには、笠を連想させるものがある。笠は手を労することなく陰を供するもので、その下に立つ者の尊貴を表徴した。従ってこの名称はその地のかっての霊場であったことを昔の人に感じせしめたのである。 柳田国男」
柳も笠のように丸く放物線に枝を拡げる。枝の有り様で、神の神意をうかがおうとし、笠の形から霊場を思い霊の出現となって、幽霊の出現となったか。

花柳界も神社に隣接する。そこの神々は夜目遠目笠の内の美貌を誇り化けもする。

「花が垂れる藤は、藤原京と古代の城郭に名付けらえた。藤原は禊をする場所のことをいったらしい。“祓え“は水を使わないが、”禊ぎ“は水によって祓うことをいう。飛鳥の北部端で水時計などの施設がみつかっているが、水の流れが古代都の建設要件だった」と折口信夫がいう。額田王の道後訪問もこの禊ぎのためなのだろう。よほど道後は強力であったようだ。
のち”藤原“は禊ぎをする家の名として中臣鎌足だけに与えられた。その家の女子は禊ぎのために、天皇家に嫁いだ。

広島市内にも柳橋がある。そのそばに流川・薬研堀の繁華街があります。そこには、古代の祓い、禊ぎ、占いの空間が夜に立ち上がっている。
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# by forumhiroshima | 2015-09-03 10:56

大三島、三島明神の正体

大三島の大山祇神社への参拝を思い立ったのは、能美島の中町山中の梅河内氏勧請の大山祇神社との出会いからでもあるが、もう一つは、しまなみ海道サイクリングコースの開通が契機なのだろうが、自転車神社が大山祇神社にあると、どこかで聞いて、新しい社でも建立されたのか?とおもったからでもある。
もみのきレースのチビッコレースに参加賞のミサンガをプレゼントしているのだが、そのミサンガを持って、“自転車神社”に参拝し、御利益をただでいただこうと、魂胆したからでも、なのです。

境内に自転車神社は見当たらなくて、どうも山門の古代兵像の兜がヘルメットに、にているから、ってことらしい、と後で知った。いっておきたいが、ツールドフランスでのヘルメット着用は近年のことで、それまでは、サイクルキャップとカスク、NHK番組のこころ旅の日野さんの着用しているヤツだ、と古いファンはそう思っている。古代兵の兜との関連なんぞ?。噂の自転車神社に、ツールドフランスでコースになるギザッロ峠のサイクリストの守護女神キザッロ教会を連想していて、それとの落差にがっくり。

古代ヘルメットの古代兵像のブーツに神紋が刻まれている。
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折敷・縮三文字。拝殿もこの縮三文字の神紋でかざられている。
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大山祇神なら神紋は「大」がふさわしかろうに。どこもここも縮三文字だらけ。
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大三島だから、なのか。三文字の神紋の本拠はここではない。
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三文字の神紋は静岡県三島市、三島大社の神紋とされている。三が縮れていない神紋の静岡・三島市の三島大社は大山祇神と事代主の2柱を祭神とし、大山祇神の娘、コノハナサクヤヒメの鎮座する富士山を仰ぎ見る。
神話世界では神武天皇の5代後、歴史的には卑弥呼の時代の2世紀前、天竺・インドの王子が渡来してきた。住居を探し伊豆の海中から島を噴出させ、七日七夜続けて、10の島を出現させそこに鎮座した。初めて現れたのが初島、次の島に王子や龍神雷神が集まり、神集島(神津島)とし、大島、新島、三宅島(御焼島)、御蔵島、八丈島、小島などを出現させた。「日本後記」は伊豆諸島がこの順番で出来たと語るが、地図上でみられる本州から近い順の順番でなないようだ。火山島として出現したその経緯を、長い地球時間での記憶がそこにあったかのように語られる。石器時代から縄文時代の刃物された黒曜石で神集島産出の石は関東一円から信州までのエリアで見つかっている。旧石器時代からの交流の遺物だという。島の中央の天上山噴火口跡に神々は集まり、島々への水の配分を決めようとした。この島に豊富な水源があるからという。我々のDNAに3万年前の旧跡時代の記憶があっても不思議ではない。

「古代人は自然の激烈な変動を神の仕業と見、そこから一つの神話空間を作り出した。 谷川健一・日本の神々」三島神は三宅島(三は御ヤケは焼く・噴火)から、伊豆半島先端の賀茂郡大社郷白浜の長田神明・ナガタカミアケの地に移された。カミアケは神焼だという。ここでは伊古奈比咩神社と名を替え、いまも10月29日には焚火を焚き、伊豆諸島の島々も巨大かがり火をたいたといわれる。神社の浜からこの60km先のかがり火が見えたという。(谷川健一・日本の神々)このイコナヒメは大山祇神の妻でコノハナサクヤヒメの母だ。

白浜から、三島市の三島大社に移され、その址が伊古奈比咩神社となった。源頼朝は平家追討の挙兵をこの神社で行っている。いまの三島大社の祭神は大山祇神と事代主になっている。事代主は奈良・葛城の高鴨神社の祭神で、出雲、美保関の美保神社の神でもある。

摂津・大阪府高槻市の淀川河畔に少し離れて広い明るい境内の古びた三島鴨神社がある。ここも古代賀茂社領になる。祭神は大山祇神と事代主で、三島大社と同じ。が、ここの大山祇神は仁徳天皇在位の4世紀ごろ、朝鮮半島の百濟から渡来してきた“渡り”の神とされ、ここから伊予・大三島の大山祇神社へ遷座した(伊予国風土記・逸文)といわれている。
伊豆・摂津・伊予(大山祇神社)の三社を3三島とよばれたりする。

宮本常一は、大山祇神社の所在が、古代の賀茂社領であったから、大三島と呼ばれ葛城賀茂社が鎮座する、という。島の本土側の竹原に賀茂川の流れがあり賀茂社領で、上流に西條の町がある。四国側に伊予の西条市があり、そこに加茂川の流れがあり賀茂社領だ。竹原に賀茂神社があり、西条市に喜母神社、加茂神社が鎮座している。その両神社を結ぶラインに大山祇神社が鎮座している。どちらのサイジョウも水がいい。自噴泉・うちぬきが西条市一円に散在している。そこで地下水が噴出している。

大三島・大山祇神社の境内中央の古代楠の右に葛城神社が鎮座している。
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古代に小千・オチ、越智・オチ氏とよばれた河野氏の祖先の小千玉興が8世紀初頭の奈良で朝廷に逮捕された。それは友人で葛城鴨社の神官の役小角・エンノオズヌが呪術で民を惑わしたとされ、それとの共謀関係を疑われた。「役小角、その素姓は賀茂役公・今の高賀茂の朝臣という筋間のよい出身であろう。司馬遼太郎・街道をゆく 1」
玉興は解放されたが、役小角は伊豆に流されることになった。が、玉興はなぜか、役小角を連れて難波の港から中国人の船を見つけ出航した。乗り込んだ船は途中の吉備の水島沖で水を失った。役小角と玉興は海面をかき回し、澄んだ真水を海中から取り上げた。
玉興の父、守興が日本と唐、新羅と戦った白村江の戦いで捕虜になり、抑留されていた中国で越人との間にできた子供がその船長だとわかり、彼を弟として玉澄と日本名を付けた。玉興は三島鴨社から勧請していた三島神を大三島に鎮座させ、その神職となった。真水を海中から取り出した奇禍は伊予の高縄山からの水とされ、三島神からの御神託「水上の河にある野に住むべし」により、玉澄は「河野」と名乗り松山で河野氏の祖となった。今も高縄山山中に河野家菩提寺の高縄寺がある。中国・越人との混血の玉澄は、小千・オトを越智(越を知る)と変えた。高縄山が道後温泉の水源になる。

大三島が古代賀茂社領であるから、境内に葛城神社があると宮本常一さんはおっしゃる。異をとなえるなんてできないが、葛城山で修行した役小角が伊豆に流される前に大三島のやってきたという伝承がこの神社の鎮座の訳とすると、楽しいでしょう。役小角はここから伊豆へいったという。
民俗学者の沖浦和光が、小千氏創建伝承を紹介している(瀬戸内海の民俗誌)。二世紀ごろ大和朝廷の男とワダツミの女が結ばれ、三つ子が誕生した。三つ子は親元をそれぞれ離されて、伊豆へ、吉備へ、伊予へ、と流した。伊予の三津浦(松山港)へ流された子供が小千の御子と呼ばれ、小千氏の祖となった、とされている。伊豆と河野氏とのつながりは深い。

役小角が50歳のころの684年10月14日 伊予、土佐で大地震が発生、伊豆諸島の北西が隆起し新しい島が出現した。伊豆諸島は太平洋プレートにのっかり、本州に衝突する力を常に秘めている。伊予松山平野の重信川、西条市の加茂川は中央構造線活断層地帯そのもので、フィリピンプレートの圧力で右にずれるように四国は引きずられている。
九州から東へ伸びた中央構造線は高縄山で北方向に湾曲し今治市から西条市へとながれる。
高縄山塊は中央構造線ラインをクリップして南西方向から東方向への変更点になる。パワーがここにある、ってことかな。
この中央構造線上に、湧水が点在する。西条市はもとより、松山市東部に龍沢泉、三か村泉、お吉泉(このほか130か所)などがある。また砥部焼の土もこの構造線周辺から掘られている。古代の人々は、神々の神威におののきながらも、ちゃっかり、おいしい水や硅石、長石、カオリンなどを含み、焼いて成型できる粘土を受け取っていた。土器で米がたける。彼らは大地の鼓動の産物を見つけ受け取っていた。道後温泉のそばに弥生時代の巨大倉庫の遺跡がみつかっている。
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大三島の船折瀬戸の浜に出現した大山祇神は大火山地帯の南九州の笠沙浜からの渡来で、三島神は伊豆諸島からの渡来になるのか。838年の伊豆諸島・上津島(神集島)の島周辺の海中が焼炎して野火のようになった。朝廷はこの事態を占わせ、神々に神位を授け、これから各島々へ位階を授ける。沈静化をひたすら祈願させている。

大三島海岸の砂浜の湧水の出現は神威であったと感じられたように思えてならない。
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それを感じた人々の神が南九州の大山祇神であったのだろう。そこで大山祇の神の祀りが行われた。船は真っ二つに折れる激流の瀬戸を背景にして。
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中央構造線が九州の中央を分断するように東にのびて、佐田岬の北側をなぞって四国の瀬戸内川へ入っている。その上陸地点に伊方原発がある。いま科学の安全を神話として、古代の人々のように、我々は受け止めている。変わらん、ね。
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# by forumhiroshima | 2015-08-27 00:12

赤い啄木鳥・アカゲラ

私は戦争を知らない、“むかし”子供たちの二期生です。同時に墨をヌラレタ歴史教科書の塗られた部分も知らない、“むかし”子供たちです。「紀元節、神武天皇東征、神功皇后半島征伐、・・・ETC」なにやら、不可触なもの、がどこかとても「イヤ」だった。

修学旅行は京都・奈良。土門拳、入江泰吉の写真、亀井勝一郎の奈良、宮大工棟梁・吉岡常一の薬師寺。子供から中学生になったころ、墨をヌラレタ日本がむくむく現れたように思えた。そのころに、和辻哲郎の「古寺巡礼」にであった。この中に法隆寺・薬師寺・・に日本があった。

戦前、在庫切れになった古寺巡礼の出版社へ再版要望があった。「著者(和辻)は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。・・近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。」「社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。」古寺巡礼の戦後の改訂版出版に際しての和辻の“改定序”です。

大正9年出版、和辻哲郎「日本古代文化」
「弥生時代の北九州の墓から銅剣や鏡、勾玉などが発掘される。また4世紀に出現したとおもわれる初期大和朝廷の古墳からも剣、勾玉などがでる。しかし、銅鐸はでない。これにたいして弥生時代の近畿地方の墓からは逆に剣も鏡もでない。弥生時代と古墳時代は近畿では連続していない。弥生時代の北九州と古墳時代の近畿地方が連続している。」このことから、北九州に海を渡り到来し定住していた人々が、あるとき東へ移動し、近畿へ到来定住した証だという。

この移動した人々の集団が、物部氏とよばれた大和朝廷の部民(配下)の人たちで、彼らは元「オチ」とよばれるひとびとであった、と考古学者の鳥越憲三郎が「女王卑弥呼の国 2002年出版」で語る。このなかでは、むかし日本が詳しく語られる。

物部氏という古代の豪族が、古代伊予の越智氏でのちの河野氏だといわれる。河野氏が祭祀した大三島の大山祇神社に物部氏の痕跡はない。伝承がただようのみだ。ただ古代の伊予の国造にこのオチの名があり、彼らが物部であると記録されることが、証拠とされる。

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(大山祇神社の神饌)

弥生時代の始まりは、稲の種・籾を壺にあふれるほど詰め込み、稲作の道具も船に詰めもめて、この列島に漂着した人々の稲作成功の情報が九州から列島の最北端に伝えられたのは、北九州に最初に到来した人々からわずか200年といわれる。生きてゆける優れた技術・稲作が時代をつくりはじめた。紀元前400年とのいわれるころ、大和朝廷の成立の800年以上の昔のことだ。

「籾」を「早苗」にそだて、田植して「稲」の実りをつくり、籾を杵でうち「玄米」をつくる。それを「米」とよび壺に水といれ火をたく。弥生時代の壺と縄文の壺がちがうのは、弥生の壺に蓋をおけることだという。蓋つきの土器で、蒸し煮され、米が「飯」になる。飯はモチモチにたきあがらなくてはならない。この好みが、インディカ種でなくジャポニカ種を種として選んだ。これが日本のカルチャーだ。

「オチ」、のちの物部たちは、自分たちのつくる壺に木の葉模様をつけた。この模様の壺・土器が見つかると、そこは物部の所在と言われる、のだそうだ。北九州の遠賀川流域の弥生の集落からこの模様の土器がみつかる。そして瀬戸内から太平洋岸に拡散している。木の葉の土器は、伊予では今治の北部の近見山南麓や道後・湯築城(道後公園)から出土している。
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物部氏のことは9世紀に製作された「旧事本紀」にその部族構成資料があり、それをもとに鳥越憲三郎の「女王卑弥呼の国」では、遠賀川流域の物部が転進し、また定住した、同じ名の場所に遠賀川時代の地名をその場所に付けた。瀬戸内、摂津、大和と、そういった物部関連の地名が、彼らの移動の痕跡だという。

以前古代豪族の物部氏が今に出現した。そう思った。「四天王寺の鷹 谷川健一」を読んだ時だ。
物部氏と曾我氏との尊仏論争からといわれる戦いが587年の大阪の河内で勃発し、物部氏の領主・物部守屋が殺害された。「守屋は仏法に背き、太子はこれをお輿し給う。守屋遂に討たれけり。太子仏法最初の天王寺を建立し給いけるに、守屋が怨霊、伽藍を滅さんが為に、数千万羽の赤の啄木鳥となりて、堂舎をつつき亡ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給いけり。 源平盛衰記」「今も寺に異相のあるとき、太子の鷹来たり、あるいは、御塔上、あるいは金堂上に居り、あるいは講堂の長押に夜々宿するという。寺住のヒト、一度に非ず、二度ならず、悉くこれを見るといふ」

谷川は寺の太子堂の東、ひっそりと守屋祠があるといい、“参拝の者、守屋の名を悪むや、礫を投げて祠を破壊す”から参拝者の入れない場所に置かれたという。
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四天王寺へ走った。寺の宝物館のパンフにも、太子堂の西になる金堂の屋根に鷹の止まり木が設置してある、とあった。それも見つけた。
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谷川は、ついで、「守屋に仕えた者たちで、守屋の敗死後、四天王寺の奴婢になった人々の末裔が、いまも公人と呼ばれて、いろいろな仕事についている」と書いている。境内の、地下の池の流れでお札を洗う亀井堂のおじいさんに、あなたは守屋からの末裔ですか?と、尋ねたかったが、可笑しいヤツと思われそうで、まだ、公人そのことを信じきれなかった。     戦争の空襲で焼失し戦後再建された寺はコンクリート製である。
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大阪湾に渡来した「オチ・物部」の一行が上陸した場所の伝承がある。物部の祖のニギハヤヒは生駒の山に降臨したことになっているが、人間さまは海を船で渡ってきた。
鳥越憲三郎が大阪・河内での物部氏の本拠という恩智神社の神事・大祓の祭りが、旧暦6月に神社から18km先の堺の大浜まで二日がかりの行程で行われることを紹介している。堺の大浜での神輿の禊神事には住吉神社の神官のお迎えがされる。これは住吉の浜が陸地化したことで、南の堺の海岸に移行したのだろうと、鳥越憲三郎は考えている。住吉の浜が物部氏の上陸地点だと。恩智神社と住吉神社は北緯34.36の東西線上にあり、この線にある古街道で結ばれる。
石見・太田の物部神社にも海からの上陸伝承があって、その地点に鳥居という集落がある。いまも鳥居の海岸に出る大祓の神事が行われている。

恩智神社のある生駒山系の麓の北側、難波と奈良とを結んだ暗峠の大阪側に牧岡神社がある。この神社の神官が恩智神社の大祓いの神事の間の神様の留守を守るために来ることになっているという。奈良の春日大社は藤原氏一族の主神を祭るが、この牧岡神社の祭神のタケイカズチとフツヌシは牧岡神社から分霊された。牧岡神社と恩智神社は東経135.38の南北線上にある。ここの古街道の高野街道がこの南北線にそってある。直線の古街道は古代官道だといわれる。古代人たちにとってのランキング上位の“なにか”がそこにある?。

つまり、恩智神社は春日大社、住吉神社よりも、その発生が予想されるというのだ。どうだ、と守屋は、いや鳥越憲三郎は言っている訳だ。
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この牧岡神社の地元ひは、春日大社の創建に手伝いに行った伝法が残っていた。神社近くの小さな神社の社務所にその説明の表示があり、大社からの帰還の祭りがあるとあった。近畿ではこんな伝承てんこ盛りでのこっていた。歴史では伊予・瀬戸内は負けてないのだが・・・。

能美島の鹿川の将軍社の由来に、タケイカズチ・フツヌシのコンビが祭神だとあった。牧岡神社、春日大社の祭神たちだ。大国主に国譲りせまった稲佐浜の「否!諾!」の神様たち。それが、物部の末裔たちの鹿川の神社になぜ?祭られるのか。でもあまりにも、でかいナゾでした。物部と春日とのグチャグチャが、能美島にあるのですね。鳥越憲三郎は藤原氏の出身母体の中臣氏は物部であるといっているんですが。
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すっかり、お疲れの伊予の物部探し、です。
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# by forumhiroshima | 2015-08-07 10:04


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