こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

赤い蹴出しが 風にまう

星野哲郎作詞・美空ひばり・「みだれ髪」。      風が髪も裾も乱れさせる。


星野さんのふるさとの周防大島では八幡宮が海に向かって鎮座する。“神は海から来迎された”風情がある。筏、・下田・海に浮かぶ鳥居のある白鳥・長尾・八田・砂浜の参道の志駄岸と、島を一周し点在する八幡宮はどこも結構の広さの境内に古びて鎮座して、その境内に数百万円・星野哲郎・寄進と刻まれた石碑があった。「沖の瀬をゆく 底引き網の 舟にのせたい この片情け」大島人のふるさとおもいが伝わってくる。この歌詞、瀬戸内の景色ですよね。東北じゃない!?。

雨の日曜日の朝、テントのうどん屋で海に向かってのテーブルに座っている。青鷺・ソフィアはみえない。あの未熟な若い「ニホ鳥・息長鳥」も雨でお休みの様子。潜ると暫し浮上してこないこの鳥の大きな肺活量を名にした琵琶湖の滋賀県・県鳥の名は、湖畔にあった息長邑(今の米原)という古代の神話の主人公たちのふるさとの名でもあった。
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うどん屋から約2kmほど走ると爾保都比売神社の石段前。そこに由来が掲示されている。
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「祭神 爾保都比売姫 相殿神 帯中津日子神 息長帯比売神 品陀和気神」
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                    ”帯”から、だらりの帯と陳腐な連想しました。
                  昔から、帯って、女性にマジカルさ、演出しますね。
    写真の帯の文様は、蛇のウロコ。災い封じの文様だという。災いの○○は、??
その息長帯比売・オキナガタラシヒメはここで生まれ、米原・伊吹山の神より死病をうけたヤマトタケルの息子の帯中津彦・タラシナカツヒコと結ばれて、大阪・羽曳野市の応神陵に埋葬されている応神天皇・ホムダワケをもうけている。仁保島の総鎮守として鎮座している。

霧雨にかわった。今日、いつもより辛いうどんが、微妙に熱燗のあてになる。もう一杯、・・・はダメか。
雨に、すこし酔った気分がゆっくり沈んでゆく。妄想モードへと落ち込んでゆく。

息長帯比売の母・タカヌカヒメの祖先・アメノヒビコ、は半島の古代国家・新羅から北九州に渡来し、瀬戸内海を東進、まず、上陸をはかった播磨の国ではそこの神に追い返され、難波に上陸し北上。琵琶湖そばの、吾名邑・アナムラに暫し滞在し、敦賀から丹後へ。円山川をのぼり豊岡の南、いま、出石に鎮座している。この吾名邑が息長邑である。古事記が語る古代の神話である。
そう、だから、仁保島南海岸、丹那の鎮守・穴神社のアナの“アナ”が薄い酔いに共鳴してくる。“アナ”と息長帯比売がハモッている。

 爾保都比売神社の石段前の由来の掲示に「オキナガタラシヒメ(神功皇后と呼ばれる)は半島の新羅へ出兵し勝利した。その戦いの前に、途中立ち寄った土地の神に戦勝を祈願していた。帰路にこれらの神々に礼・鎮護綏撫の神祐をお祈りなさった。この地で、翌朝出発のおり、邪気祓いのため白羽の矢を放し突き刺さった場所に矢を納めここを鎮守とした。」

「古老の相伝ふる旧聞異事は、史籍にしるして言上せよ。」
713年、機内および7道の諸国に、風土記作成の命令がでた。安芸国にもその令はでている。が、安芸国風土記は残っていないようだ。常陸・播磨・豊後・肥前・出雲国風土記はまとまった形で残っている。

出雲国風土記はほぼ残されたという。今、島根県の人々は、風土記の記載の神々の記述を疑うことない。それは大きな誇りであり、古里が上古の時から、今につながるという長い長い時間を、「今」のなかに、はっきりと確認し確信している。神社横の社家は注連縄を玄関にさげ、神主は朝、精進潔斎される。境内はいきとどいた清浄にたもたれる。訪れるととても気分が安らぐ。それら出雲国風土記に記載される神々の社を、「今」に比定した「加藤義成」の業績を疑うことは、ないだろう。その“いさぎよさ”が“神国日本のスローガンの時代”を乗り切って、トラウマになることなく、古代と今の切れ目を生じさせない。

そこが戦後、神国日本は怖いことだとされた時代に生まれた自分には、神とか神話とかを素直にうけとめて神々との友情ともおもえる親しさをもつ人々が、とてもうらやましい。マンガで日本史を受け入れない不器用さが持ち味なんです。

出雲を走ることは、彼等の日常の営みに入り込み、切れ切れに時代としてくくられ、教えられた歴史観を持っている自分には、普通に歴史を連続した日々の営みと受け止める、夢の時間がある。風土記の記述が今、眼前にある。

もっと、その夢に、酔いしれたければ!走ればいいのだ。そこは、古代からの道の上を走っている!と思えるのだから。それは、神をいただいて、歩んだ土地開拓のパイオノアたちの軌跡、そのラインをたどっていると確信できるのだから。      
ガイダンスブックには加藤義成校正注・出雲国風土記が用意されている。

先日、播磨国風土記に”爾保都比売神”が登場していることを知った。
「息長帯日女の命が、新羅の国を平定しようと思って西行なさった時、多くの神々に祈願なさった。その時、国土を生成された大神の御子である尓保都比売命が、国の造・クニノミヤッコの石坂比売の命に寄り託き神がかりし、教えて「私を手厚く斎奉ったなら、私はよい効験を出して、『比々良木の八尋鉾根の底付かぬ国』『嬢子の眉引きの国』『玉匣かが益す国苫枕宝有る国』『白衾新羅の国』(いずれも新羅のこと)を赤い浪の威力でもって平定なさろう。」とおっしゃった。このようにお教えになって、ここに魔除けの赤土をお出しになった。そこで息長帯日女の命は、その土を天の逆鉾にお塗りになり、船尾と船首にお建てになられた。また船の舷側と兵隊の鎧をこの赤でお染めになった。こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。」          小学館日本古典文学全集『風土記』より、上垣節也の現代語訳

やっと、ひばりの「赤い」蹴出しが登場した。ナガカッタ!!

赤はマジカルなカラーだということだ。神功皇后の赤は丹だろうか?。これが、ニホは丹生と書かれ、硫化水銀になるのだろうか?。仁保山南岸の丹那がピクピク匂う(ニュオウ・・・)。ウイクペディアはそういっている。

仁保浦を香浦と書かれることがある。ニオウ港、どんな匂いだったのだろう。ベニバナ・末摘花も赤い染料。塩屋岬の女の蹴出しはベニハナ染だろうか。ベニバナの匂いは良い香なんだろうか。

爾保都比売神は、のち紀伊の国の菅川の藤代に鎮座させ、祀られた。時が経て、空海・弘法大師は高野山の道場開設を、この神の領域に創建させている。いまも大師の高野山の廟そばに、爾保都比売神がまつられているという。仁保島の姫神も、スッゴイ!!もんだ。失われた安芸国風土記の記述の一端がこの姫神神話であったかも、しれない。と、うれしかった。
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# by forumhiroshima | 2016-06-21 15:32

オバマの折り鶴

「時を追い越し 駆け抜けた日々 時と共に 生きた時代・キセツ 急がずに ゆるやかに 人生はまだつづく あぁあぁ・・・ 時の旅人」          この歌に嵌っている。

2016年5月27日午後4時 平和公園の南側でオバマ大統領の到着を待っていた。西日が熱い。肩越しに隣のスマホのTV中継を見ながら、ここにいるって?ドウナン、TVみてればイイジャン。

1968年、昭和43年1月17日 佐世保駅前広場の群衆に押されるように歩いていた。広島からのこみあった列車に、ほとんど教室で、みることがなくなっていたN君がいた。目が合うとニコッとわらった。彼はヘルメットをかぶっていて、とてもその姿が奇異に感じたことが、強い印象だった。こころ揺さぶられるなにかが、あの時あった。逃げてはいけない、というなにかが、が。
米海軍原子力航空母艦エンタープライズ・CNN-65がベトナムの戦線に派遣される途中、佐世保に寄港することを阻止する数万人の集会がこの町で開催されていた。海岸では学生たちが警察と衝突したとのウワサが波のようにつたわってくる。N君はどうしているだろうか、気になった。地元の人々も道にでてきて、町全体が反戦の政治集会の様相だった。高台からみた沖に停泊する巨艦にたかるようなタクボートたちの日本語のプレートが心をチカチカとさした。

あの巨艦の指揮官がやってくる。

2016年5月27日午後5時半 オバマのキャデラック・リムジンが通過していった。演説になっても聞こえない場所なので、変わらずスマホをのぞき見していた。「ヒバクシャ、って言ったよね、日本語だよね」スマホのオーナーが叫んだ。聞きづらいスマホの音声なのに、周囲になにかフッツと、資料館の改装工事の白い塀の向うの“今”が流れてきて、見物人から違った生物に、自分も周囲も変わった。白い壁をなにかが突き抜けてきた。

公園を離れて、近くのなじみの焼き鳥屋さんへ。浮かれてしまったような体の熱気を“生”で鎮める口実ですっかり酔って、夕刻の慰霊碑へむかった。そこの暗闇に長い列が伸びていた。慰霊碑に近づくと、すぐに追い払われて、芝広場からまだ成長している列の最後に回った。「何か?」「皆さんオバマの献花の写真を撮られるのですよ」 

TVのNEWSでオバマの折り鶴が放送された、が映像はない。見たい!。数日のち、9日に折り鶴が公開されるとのNEWS。オバマの折り鶴、オウ、オウと韻で繰り返し、しみてくる。
2016年6月9日朝、自転車で公園に向かった。公開される資料館の開館は8:30。7:40に到着。公園の朝の朝日は美しい。入口には一人だけ待っておられる。多いかと思ってけど?と先日参拝できなかった慰霊碑へ。メジャーになったね!。核のボタンはこのセンチュリーの結界を乱さなかったですか?と小声で。両親の名があの中にある。

開館された廊下を急いでオバマの折り鶴へ。たくさんの報道関係で、えらく居心地がわるい。折り鶴がなにかを伝えてくれるのか、ゆっくりの時間の中で、自分に何か生まれるもの、をしりたかったのに。・・・・また、落ち着いてから、こようか。
 
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1955年、昭和30年末、小学校、先生から放課後に集会にでるから職員室に来るように、といわれた。自分が児童会の役員だったからだろう。原爆病(そのころはみなこの病名だった)でなくなった女子の慰霊碑をつくるための集会で、彼女が回復をいのって折った千羽鶴の像になると車の中で伝えられて、ハトの折り紙じゃないのですか?と聞いた。「ハトの折り紙はない!」だったが、今調べるとあった。つくると、「モスラ」になった。
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意味がよくわからないままに集会への参加だった。後日学校での募金活動があって参加したか、よく覚えていない。
小学2年で亡くなった同級生のS君は鶴をおったのだろうか?、と髪が抜けてしまって、毛糸の帽子を被って登校していた彼を集会の会場で思った。亡くなってお母さんがその帽子をもって教室であいさつされて、みんな泣いた。折り鶴の少女のクラスもきっと泣いただろう。

8.6が近づくといつも原爆ドーム北側にあった実家周囲には日焼けした汗まみれの人々が、黄色い仏衣の僧侶たちのうちわ太鼓のバンバンの音と一緒にやってきた。埃っぽい中に「お前だけがヒバクシャじゃない」との陰口もやってくる。

佐世保の町の混雑した食堂でとなりで飲んでいた兵隊だったというおっさんが握手もとめてきた。お前たちはアメリカに勝て!反戦叫ぶなら、兵隊になってアメリカからこの国を取り戻して、家族をまもれ、と。おれたちは家族のために戦わなかった。過激さは負けていました。テーブルのトイメンの九大の学生だという、そしてそのころ言いづらかった創価学会の学会員だとスッキリという彼は、今の政府では兵隊になれません、と熱かった。おっさん、ようワカランな、負けるなよ!と負けた様子で出て行った。それからは、公明党のTVのニュースの中で、いつも彼をさがしている。

アメリカの最高軍司令官は水爆のスイッチ、そして折り鶴をもってグランドゼロにやってきて語った。They ask us to look inward,to take stock of who we are and what we might become.
東の海の向こうの国から一瞬の風にのって壁を突き抜け飛ぶ、折り鶴を持ってきたオバマは語っている。「私たちがなにものなのか、どのような存在になるのか、考えよう。」
その手がかりは、We see these stories in hibakusha, と。

この町にはありあまるhibakusha storiesがある。

鶴は携帯の待ち受けに閉じ込めました。

艶やかに 燃え尽きず ひたすら 夢を追い 移り行く ひとの世に 変わらぬ 愛を願う 仰ぐ夜空に 流れる星も 時を越えて 今宵光る 心のままに 明日へ向かおう 歌をうたいながら 急がずに ゆるやかに 人生はまだつづく あぁあぁ・・・ 時の旅人
           NHK 2016ラジオ深夜便の歌 小林旭

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# by forumhiroshima | 2016-06-12 05:47

朝6時半の熱燗

猿猴川の河口の日宇那の高架の下、日宇那漁港と呼ばれる小さな舟泊、そのそばに四角のテントの小屋の小さなオレンジの回転灯が回っている。
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テントはうどんやである。時々沸騰している鍋で踊っているおでん、セブンの二個分はあるおむすび、そして熱燗がある。

もう数週間開店を知らせる回転灯が止まっていた。朝6:30から朝8:30までの変則の営業時間。80円のオデンが60円になる日曜日の朝の自分の日課となっていた熱燗にありつけなかったのだが、回転灯が回っていた。

朝陽が広い川面をシルバー色に染め、一筋のオレンジのラインが中央を割って舟泊へながれこみ、テントに到達する。オレンジ色に包まれた時間の幸せを二乗する、湯呑一杯にこぼれそうな熱燗が置かれ光った。
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その向うの防波堤に、“ソフィー”とよんでいるアオサギが、やっぱり、いつものように置かれたように立っている。お久しぶりです。まるで翁、いや媼・オウナか、老鷺の落ちつきが見える。
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永く長くこの河口の防波堤から時を見ていた、と湯呑を置いたままでこぼさないように、すすった目線をソフーへ向けた。幸せがオレンジにつつまれて、まとわりつく“感情”か消えてゆく。

“0”になった頭に大好きな文章が浮かんできた。
「蓋つきの壺に納められらた稲の霊を舟の底に置いた、いく艘の船隊の先頭の舳先の主人は遥かに原始林の続く海岸を臨みながら、幾度となく水を舐めては、塩味が抜け変わりだす場所を待っていた。そうして、選んだ、豊かな水のたゆとう川を、次第に上流へ、上流へと遡行していった。
行っても行っても、アシ・ハギの繁った低湿地がつづいた。そして両岸には見渡す限りの原始林がつづいた。ちょきには草むらからカワウソが水中に飛び込み、その音に驚いた小鳥が一斉に羽ばたき、我ことのように、枝のような牡鹿の角が揺らぐのも見えた。
やがて、川の蛇行部に、新しい泥の干潟が見えた。稲霊が、あたらしい精霊の芽をだす場所である  。藤森栄一 古道」      (藤森は在野の考古学者。)

ソフィーは、この川に現れた幾つもの船隊たちを見送ってきた、だろうか。

「俄に海上騒がしく、浦の者共に怪しみて、遥かに沖を見てあれば、舟急ぎ八の帆を上げ・・・かの舟の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に登り声をあげ、われらは邪慳な国を逃れ来て、この地の守護となり、子孫繁昌と守るべし」
相模の国の大磯の高来・タカク神社の夏祭りの祝い唄で、半島の古代の高麗国からの渡来した人々から今にまで歌い継がれている。

海から渡来した記憶は人々に今ものこされている。自分たちの親の祖先・高祖、それは途方もなく長い時間を持った翁や媼であるとされ、近江から遠江にひろがる白髪神社の祭神は翁の形だといい、半島の古代国家・新羅からの渡来だという。この地の白神神社もこの白髪であったかな?とおもったりする。猿猴川をさかのぼり、太田川から三篠川へ入ると、古代の稲作適地の乾いた湿地跡がひろがる。干潟だ。ここに白木山があり昭和31年の合併にこの山の名を町名とされたのは、深慮、いや新羅の神の神慮では。

酔ってしまった、か!。妄想の発生!。

白木の三田には平地の真ん中に太田川と江の川の分水嶺がある。ちゃんと神様も鎮座されている。これほどの水の豊かさのある処を稲霊を運んできた人々がみのがすことはないだろう。ここは御田であった。豊かな土地の実りを権力はみのがさない。
ここは、またいつか走りに行くつもりだ。

人びとは海から来航した翁の知恵や経験をあがめることのほかに、幼い神が海のかなたの常世の国から、海岸に漂い寄ることもあった。これを拾い上げた人の娘が、養育して成人させた後、その嫁となって生んだのが、村の元祖で、若い神には御子が生まれ、常世の母神には孫だと考えられたりする。皇室の成立神話は天からアマテラスの孫を地上にこうりんさせる。天孫降臨である。
白島の碇神社の祭神はワダツミで「童子」と現される。この神社はこの湾の最古の神だという。

稲霊をやっと植え次の秋を待つ人々の中に、旅の杖を折ってしまいたくなかった、自由な彷徨の生活を持ち続けたかった男たちは少なくはなかった。出歩きたいと思う者は他の人の労働の成果の品をもって遠くへ行くことになる。新しい土地を探す旅にでる糧を道々で交換・調達できる人たちだけにできることだった。
だが、思いだけでは旅はできない。道の情報を得なければならない。

熱燗がすっかり少なくなってきた。舟泊の船の間に小さな鳥が海面から現れた。ニホ鳥またの名が息長鳥。成鳥はとても長く潜っている。息が長い鳥なのだ。が、こいつ潜るがすぐに浮上してくる。まだまだ幼いのだろうか。対岸に見える桜の木の下の浜でつがいがよく羽を広げている。このヘッタピーの親たちだろうか。干潮時に覗いてみた。
黄金山が仁保島でたったころ、猿猴川河口は広島駅ちかくにあって、段原や東雲の町は浅い海で、「ニホの海」と呼ばれた。
“ニホ”には水流が海中につくる溝を示す「ミオ」「ミホ」など航路を示す言葉ともいわれる。死出雲・島根半島東端の美保神社の祭神はコトシロヌシとミホススミ。ミホススミのススは能登半島の珠洲・ススで
珠洲神社の祭神であったという。(門脇禎二)“ミホ発スス行”ってことらしい。同時にミホは航路をいう。

湯呑が空になった。うどんやさんはお母さんと娘さんの交代制らしい。今日はお母さんだった。ぬるかんででてくる。娘さんはとても熱燗である。熱燗は腹にたまらない。もっといける!。が今日はぬるかんで、深みに入らないで帰れそうだ。まだ酔っていない。ニホ道は大丈夫!大丈夫。
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# by forumhiroshima | 2016-06-10 19:50

琥珀のみち

中東シリア・ダマスカス郊外ドゥマーの戦禍の町の自転車の写真があった。(newsweek)
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都市の喧騒が消えた静寂の車道に不発のクラスター爆弾、と不穏な景色なのだけど、自転車が写真に入ると、どこかその不穏さが自分の気分の中では薄くなる。自転車でできること、は戦場から逃げることだけ、だからだろうか。

イラン、イラクが中東・middle eastよばれるのは、日本が極東とよばれることと同じイギリスをセンターとした位置情報の命名で、それはイギリスの植民地が地球を覆っていた時代の記憶。

いまこの地域から発信しているフリーランスジャーナリストの川上奏徳のブログ“中東ウオッチ”もこの地名が使われている。過去のヨーロッパの植民地をウオッチ!からだろう。

“中東”を拒否し「IS・イスラムステイツ」という主張が渦巻く地域の川上泰徳の“ウオッチ”の2015.8.2付ブログ、「ドイツまで歩いたシリア難民の証言」に難民の歩いたコースの地図が添付されていた。イランからドイツへ。そのコース地図から連想した地図があった。
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古代に北欧バルチック海からドイツを抜けアルプスを越え中東イランへ琥珀が運ばれた地図だった。
紀元前3200年ごろの古代エジプトの古墳から多数のバルチック・アンバー(バルチック海原産琥珀)が多数発掘されている。
トロイを発掘したシューリマンは紀元前1850ごろの地層から400個ほどのバルチック・アンバーを掘り出している。それはマッシリア(マルセイユ・仏)から運ばれている。

琥珀は樹液の樹脂が水分によって、ある条件で歳月を重ねるうちに硬化するものがある。その生成の年月は3000~9000万年といわれる。その奇跡の個体はバルチック海から採取され、それを布で磨くと火花をちらし、羽や木片がくっつく。その不思議な力を古代ギリシャ人はギリシャ語の“琥珀・elektron”にちなんで“electricity(電気)”と名付けている。また“霊魂”ともいわれた。磁石の磁鉄鉱は鉄を引き付けるだけで、木片や羽は引き付けない。琥珀の引力とされた“霊魂”の不思議には磁鉄鉱は昇格できなかった。バルチック・アンバーはただものの宝石ではなかったのだ。特別なのだ。
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バルチック・アンバーはバルチック海の住民たちが、オーストリアの岩塩抗のあるハッシュタルトに運び、そこで岩塩のほかに、イタリアやギリシャから人々の運んできた金属装飾のされた杯などと交換された。それら金属装飾品は地中海沿岸からきた人々よってもたらされ、琥珀を入手して、彼らは小さくて軽く持ち帰って交換価値の大きなバルチック・アンバーをロバの背中に積み込んでかえっていった。その彼らから海の商人とよって地中海を越えエジプトへもたらされた。「道の文化史・シュラバー」
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この本に掲載されていた、古代のバルティク・アンバーの運ばれた道の地図から信州・和田峠で採掘された黒曜石の東日本に広く運ばれたルート地図も距離こそ比べものにならないが、連想した。琥珀も黒曜石も、美しい!。そして、その世界は消えてしまっている。から思いが深くなる。

「東から西から南からも、長い脚のラクダは何年ものあいだシリアへ向っていた。そこへゆくには比較的困難な道を通らなければならなかったが、それだからといってこの国の魅力が減るわけではなかった。シリアの町々は何度も、ヒッタイト人、エジプト人、ウラルトゥ人、アッシリア人、メディア人その他の争いの種となった。何度も争奪戦が繰り返され、占領され破壊されてはまた新たに建設された。道の文化史」

「BC500年ごろ琥珀の道はかなり頻繁な商業交通のすこし改修された自然の道であった。そのそばに、ペルシャ王の道が建設された。
それはまったく明らかにはっきりした考えからできたものである。それはペルシャ帝国の道、帝国の力の、帝国の制度の道となるべきで、けっして他の道のかわりとなるべきものではなかった。古い商路と小道、都市やオアシスに通ずる商人の山路や出入路にはいっさい手がつけられず、そのまま利用されつづけた。現代の高速道路が出発地点と最終地点を最短の距離に設計され、途中の都市にはそこから連絡道がつけられている設計思想を紀元前5世紀に実現されていた。この道は紀元前4世紀のアレキサンドロスの遠征にも、シリアが古代ローマへ遠征した紀元前2世紀にも忘れられたように使用されなかった。 道の文化史・シュラバー」

この王の道は25kmごとに宿舎と馬が置かれていた。ここを使い王へ伝令を届けた使者の速度をアンガレイオンと呼ばれ中世には速度はあらわす最高の単位だった。2500kmの行程を10日で走破していた。この制度が古代中国でも我が国でも早馬飛脚の駅伝制度として幹線道に整備され、いま、人が走って人気の競技になっている。
ギリシャ・アテネで戦勝の使者の走った距離がオリンピックのマラソンになり、王の道の一日250km走破が自転車ロードレス世界選手権の距離であること、を合わせて考えてしまう。

道を高速で走りたい!思った人々がいた。自転車をゆっくり転がして楽しもうとした人々がいた。自転車が現在の形態、チェーン駆動になったのは1879年イギリスでローソンが開発し、1885年になるとやはりイギリスのスタンレーが開発したローバータイプ・セイフティと命名された現在の形が誕生している。
それまでのダルマ型オーディナリーは走行不安定であったから、セイフティ・安全と命名されたのか、それでなくても転倒の多い自転車の操縦で歩行者が安全になったから?。
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1890年代にガソリン自動車は14km/hほどの走行ができるように開発され、1901年にはニースでメルセデスは86km/hで走り出した。だたエンジントラブルの続出で、イギリスでは路面が悪いことにもあって、自動車走行にはその前を赤い旗の人が歩いて先行しなければならない法律があった。自動車に自由な道はなかった。

イギリスでのスポーツクラブの活動に自転車ライディング取り上げられ、それに没頭する愛好家たちが、サイクリスト・ツーリング・クラブとナショナル・サイクリスト・ユニオン (後、数か国の連合によるUCIに発展する) とを創設し、またこの二つの組織が強力な共同体を創っていた。それが「道路改良協会・The Roads improvement Association」で既存道路改良を推し進めた。クラブはイギリスの上流社会で構成されていた。彼らが乗った自転車はクラブモデルとよばれる。彼らは“最高高速・アンガレイオンを実現しようとしていた。彼らはペルシャ王になりたかった。
しかし、この道路改良の恩恵は1896年にクラブの貴族の御曹司たちは自転車から自動車に興味を移し、テムズ河の堤防で自動車のデモを敢行するという“ヤンチャ”で、一般道路走行許可を勝ち取ることになりこの地球に自動車世界誕生を生み出すきっかけとなった。
ペルシャ王の高速道路が、イギリスの“御曹司”たちの国ではなく、自動車社会のアメリカで再生された。

「古い商路と小道、都市やオアシスに通ずる商人の山路や出入路にはいっさい手がつけられず、そのまま利用されつづけた。道の文化史・シュラバー」
この自動車社会のすき間な、ニッチな空間がとても、いとおしい。決して、イギリス上流社会の御曹司たちの、自転車から自動車への心変わりも糾弾しませんね。彼らがおっぽり出した、いまも進化しないクラブモデルに郷愁を感じますね。あのシンプルさに、道具の妖精がいますね。もっと走りたくさせる、ふるい、変わらず利用されつづけた道と自転車なのです。

追伸
北欧の琥珀、バルティク・アンバーがここに陸揚げされた港とおぼしき都市「ラス・シャラムを発掘したシェファー(仏)は紀元前2千年紀の商業地区を発見し、その当時六つの民族が各々別の地区に居住して、死者を家の下に葬った。それは民族の違う人々の間での永遠の休息をしたくない意志だった。この町の役人たちはギリシャ語を加えた7か国語の辞典を製作し、準備していた。そのある時、町の荒廃が起こり輝かしい光が消え失せても、長い道をたどってここに流れ込んだものは残っていた。それは生命の多様さであり、多様な言語であり、多様な種族のすがたであった。道の文化史・シュラバー」

「何度も争奪戦が繰り返され、占領され破壊されてはまた新たに建設された。」
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# by forumhiroshima | 2016-03-02 21:07

春の竹やぶ

日曜日の朝、昨夜の雨もすっかり上がって、朝日が金属ぽっい輝きになって、くっきりしている。黄金山の麓の竹やぶが若やいで、森の木々の濃い緑から浮き上がって、くっきりと森から切り取られている。
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これからタケノコの季節が到来する予告のように現れた若緑が、タケノコ出産、そののちには白っぽくかわる。それから竹林の落葉の季節にながれこむと、夏がそばにきている。竹やぶの舞台のいそがしい季節の始まりの朝。郊外には竹の季節を楽しむサイクリングが待っている。

「出雲国風土記」大原郡阿用の郷の条の、“目一鬼”の話。農家に息子が一人山田で耕作に出ていたとき、一つ目の鬼が現れ襲いかかった。それに気づいた両親は助けるでなく、そばの竹原にひそんだ。鬼にくわえられた息子に両親の潜むそばの竹がそよそよとうごくのが見えた。息子の口から「動動・あよあよ」と言葉が漏れた。このことで、この地が阿欲・アヨとよばれ後に阿用に改められた。
息子は両親に動くな!アブナイ!と言いたかったのか、自分たちだけが助かろうとした親たちが悲しかったのか。両親を気遣った言葉に違いないと確信している。出雲だもの。

今も阿用川が流れる阿用と呼ばれる土地がある。川は南北に開けた広い谷をながれている。そこに竹林をさがしてウロウロしたことがある。出雲の早春に空は輝きに恵まれてはいなくて、鮮やかに森から際立つような竹林の輝きには行き当たらなかった。川を挟む東西の尾根に南から差し込む山陰のう
す曇りを抜ける日差しは、際立たせる力がなかったのかもしれない。風土記が書かれた8世紀の竹などもうない!とは思っていたけど・・・。

温帯の国のタケは地下茎を移植されて広がってきたといわれる。花がさき身がなるが、花は一世紀に一度ほどの開花だといわれ、種になる花は数千分の一だそうだ「室井綽・竹」。そうなると、竹やぶはいつか誰かが運んできたことでそこにあることになる。
この思いは景色の中の竹やぶにどこかの人の汗の匂いを感じさせたりする。早春の華やぎの出会いに、その思いが繰り返し浮かんでくる。誰が運んできたのか?

3000年前の縄文時代の青森で漆塗りの竹の籠や櫛が見つかっている。が、青森の気候からして、南から運ばれた商品では、ともいわれる。その商人は荷物のなかに竹の地下茎をひそまして、竹栽培の好適地をさがしていたのかもしれない。彼らも竹の繁茂のを推し進めた人々にちがいない。

この日曜日、我APそば、大河漁港の漁協の水産祭りが開かれている。
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ぶらぶらと歩いて向かった。
生海苔の味噌汁と殻付き牡蠣焼き、無料配布が目玉で、小さな賑わいが固まって港のそばに生まれている。海苔は江戸時代からの伝統がこの港にはあるらしい。味噌汁は潮臭さがうれしい。
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生簀の活魚販売。生ワカメのビニール袋詰め放題¥300が目玉。が既に詰め込まれた袋が渡されるが、誰ももっと入れてくれ!とねだっている。お願いしてみた。とても食べきれない量を渡された。さて、どうする。
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周防大島の東端の日向泊の海岸道路でおじいさんがワカメを干しているのにであった。この海岸には地元しか入れない、ひじきの岩場もあり、早春には、そのそばの海に腰まで入ってワカメが刈られる。海際の道にはそれらの獲得品が干される。潮香にむせぶような、そして甘い味わいのそれらは北海岸の伊保田の漁協の事務所で売られている。事務所のドアを押すには最初ちょっと勇気が必要だ。個人に一つでも売ってくれるだろうか? がその勇気は自宅の食卓で十分に称賛することになる。

ワカメ干しのおじいさんはあまり真水で洗わずに干すことがキモ!だといっていたことを思い出して、欲をだして、手に余るほどの生ワカメを小さなベランダにそのまま干すことにした古代の藻塩製造を連想する。ベランダの昼過ぎにはワカメはすっかり乾いて、手に取るとパラパラと崩れる。口に含むと、「飯!」といいたくなった。
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干したワカメの向うの家の小さな庭の一本の竹が若草色で風に揺れた。
筍とワカメの若竹煮が出番が近づいた。生若芽を冷凍して竹の子の出番までまっていることにした。
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港のそばの住宅街になった丘にも竹やぶが広がっている。カキいかだ用でここに植えられたのだろうか。大河漁港の人々の昔が、風にゆれ、祭りの大漁旗がそれを追っかけて揺れていた。
牡蠣いかだに使用するモウソウ竹は江戸時代にもたらされたという。モウソウ竹を持って広げた人たちは、まだ特定できそうな、それを追っかけたいような、妄想が始まった。
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# by forumhiroshima | 2016-02-23 11:14

遠い、遠い、記憶の島影を見る

土地の名は最初のパイオニアたちの開拓の場所からと、「叫び」の波紋のように拡がって、競合する地名を消してゆくと言われる。残った地名が後日引き継がれ、そのあたり一帯の地名にされる。

ならば、「広島」という地名のスタート地点はどこなのだろうか?古地図に小さい地名で「広島」と記載されたものにお目にかかっていない。

福田 俊司という写真家のアルーシャン列島の景色作品のを見たとき、広島市内・比治山の谷の景色が浮かんできた。といっても、激しい妄想の力をもってしか、浮かんではこないのだろうが。

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今は消えてしまっているが、市内に古地図に記載されている島がある。古地図にその島は「亀島」と記載されて比治山の南に隣接するように書き込まれている。名前から亀の甲羅のような形の島だったのだろう。

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亀島があったかどうか、は今の地図では、また町名などにその痕跡を見つかられなかった。が、大河から比治山への古道のなかに、先日亀島往来道の名を見つけた。記憶は消えてなかった。

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比治山の南海岸に南に開かれた谷がある。この谷に浅野藩の御用医師の栗原休庵の別荘があった。この谷は休庵谷と呼ばれていた。休庵が広島に来たりとされている1619年は浅野氏が安芸国藩主として入国した年になり、休庵は和歌山から藩主とともに移住してきたのだろう。休庵はここに庭園を設けていた。彼が庭園を設けたころ、まだ亀島はそこからの景色にあったのだろうか。その景色が、福田氏の写真にダブっている。

休庵谷は広大病院へ東に入るバス通りの交差点を逆に西にむかって、坂の上りのトップで入口の三叉路に出会う。ここは車止めがある車道が山頂へループで入っている。比治山に階段のない、自転車を乗って登れる四つの坂道では、ここが最も走りやすい。広い奥行の谷の奥で道は斜面をゆったりとカーブしながら上がってゆく。春には山頂で桜の林にみちは吸い込まれる。ただし。ゴミ置き場の前を通ることになるが。

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この入口に縄文時代の貝塚遺跡の標識がある。

当時は太田川の三角州が発達しておらず,貝塚は広島湾奥の島の汀線付近にあったと思われる。戦時中の軍の工事によりその主要部分が破壊されたが,昭和2324年(19481949)の調査では,地表下30cmに厚さ約1.5mの貝塚が確認された。貝層は,上・下の2層に分かれ,上層から縄文時代晩期前半(約2,500年前)の灰褐色磨研土器,下層から縄文や同心円状の磨消縄文をめぐらす縄文時代後期後半(約3,000年前)の土器などが出土している。石器としては,石鏃(せきぞく),石匙(せきひ),漁網に使用される石錐(せきすい),自然遺物としては,シカの骨,タイの骨,ハマグリ,カキ,アサリ,シオフキなどの貝類が出土しており,狩猟や漁撈を中心とした生活が明らかになった。 広島教育委員会HP

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広島県での縄文遺跡で広島湾近辺では、この比治山遺跡だけが見つかっている。ここが「広島」の曙である、などと思ったりする。

段原交番の柳の西側、近年造成された住宅地に、以前比治山女子学園があり、そば南側に庭のある古びた壊れそうな床がきしむ料理も酒も安い料理屋があって、運動部の学生たちの飲み会の会場に使われていた。

その庭の奥まった谷に「比治山の一溪に茶室を新築し、花木を植え・・その眺望を佳ならしめ、藩主在国の時はしばしば此処に遊び幽邃閑寂の気を養う、元禄十二年閏年九月朔日に至り不用に帰し比の亭を崩解す、後世此の茶寮跡をお茶屋谷と称す、 広島市史・大正十一年刊」

香浦(ニホウラ)と呼ばれた猿猴川河口の広がった海に、浮かぶ馬の耳のような峰二つ(黄金山は馬耳山だった)を背景とした砂州が伸びてつながる。縄文の人々たちが、ゆるやかに、豊かに暮らせる場所。それは今の自分にとっての桃源郷に思える。

自転車旅行は、時として懐かしい、それはずーと昔からの、懐かしい景色を呼び起こしたりする。とても、いたずらな時間が通り過ぎる。

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1945年8月6日 原爆投下の朝、被爆した多くの人々が比治山に向かったと、宇品で被爆した父が語っていた。
なぜ、山へ人々は向かったのだろか。
「ヒジ」には水を語ることばだという。
袖ひぢてむすびし水のこおれるを 春立つけふの風やとくらん
(夏にの水組みで濡らした袖が冬に凍った それを今日の春の風がとかしてくれるのだろうか 紀貫之)
被爆の痛みに水を求めて山へ向かった人々に、水の匂いが比治山から漂ったのだろうか。浅野のお殿様のお茶の水がここにあった。


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# by forumhiroshima | 2016-02-03 09:55

海が割れ、道ができる、ノヨ!

先日は寒かった。ボロアパートはむき出しのコンクリート壁で、とても寒くて気持ち エエ?カ!

寒いと思い出すのが、比治山の東の段原交番よこの柳の古木の麓の水仙。同じ環境生活?仁保島の古バス通りの蝋梅は咲き始めた。早くも梅も開いてきた。水仙、咲いているかな?

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交番は好きじゃないけど、柳の古木の鎮座を警護しているようで、そう考えると古木が凛々しい。柳が早春に薄みどり色の若葉を風にゆらせる景色は、特に夕日の残っている夕暮れが薄い緑の濃淡が際立っていいと、思っていたが、若葉は柳の花だという。3月の開花が楽しみになった。

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水仙は先日の降雪で首を垂れていた。


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柳は地下水位が高く、日当たりがよい場所、荒れていて小石の混ざった土地でも成長できると聞く。胴回り1m以上もあるこの柳はとても長い時間をここですごしてきたのだろう。その地下には豊富な水が絶え間なく長い時間流れている証。

面白い記録があって比治山と黄金山の仁保島がつながったのは江戸時代・寛文21662根とある(仁保島大河十軒屋誌)。普通はきっちりと年が記録されることではないだろうに。そのつながった土地は元禄121699年から年貢が徴収された。

大阪の淀川が生み出す砂洲の収穫へ課税は満潮時の海面より土地の標高が25cmほどになってからと、定められた。平安時代初頭の取り決め。

比治山、仁保島間に砂洲が伸びてつながった場所は柳の鎮座するこのあたりではなかったのでは、と思いが膨らむ。そこに畑がつくられ収穫されるのに三十数年の歳月があって、そこに城下への道が踏み込まれた。

島と島がつながる景色の手がかりかとおもえるエピソードがここに残っている。

霞町の2Rのホットモットと吉牛の西の交差点から南、黄金山の高台の住宅地の中に木立の繁みが濃い丘がみえる。緑の中、赤い鳥居と小さな本殿が長い石段の先にある。十軒屋稲荷神社でこの麓は十軒屋の地名がいまも残っている。この地名の由来が「大河地域誌」にある。

[元禄51692年浅野藩四代藩主が蒲刈島から島民十戸を移住させ、同じころ京都・宇治かた茶人を招き、比治山の谷に住居を建築、茶室も新築された。そこからの眺望の景色の一つとして十軒の民家が置かれた。十軒屋にも藩主休憩所がつくられ、西隣の大河の集落には藩主用の岩風呂も造られた。]

よほどの美しい光景はそこにあった、のだろう。水墨画の景色をお殿様は再現しようとでもおもっていたのだろうか。博多・志賀島の海ノ中道の写真からでも、このつながった島の景色を想像してみる。志賀島への砂嘴の先に鎮守の海神社と、この稲荷が重なった。

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広島城から十軒屋へ「往還道」が通っていた。往還道とはお役人が通行するときめられたルートの名称で殿様往来の道で、ちょっと庶民にはうっとおしい道、そこに宿舎等が整備されると、街道とよばれる。この道が比治山側から仁保島の山麓にぶつかるり進むと、細い小さな急坂があって、その坂をつくっている岬を殿様山と呼ぶ。坂をだらっと下ると山麓にへばりつく地蔵堂と黄幡神社の境内に入る。

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ここが島の時代のもっとも古い波打ちぎわの汀線になるという。この浜から大河の集落が広がった。住宅に囲まれた路地の黒塀、見越し松にいまも江戸時代が漂ったりする。返して、この往還道は途中の、広大病院の敷地に消えてしまっている。が、また表れて、交番の柳にでてくる。

往還道が通う比治山山麓にも黄幡神社があった。今のモスバーガーあたりか、杉姫稲荷神社かともいわれる。比治山西山麓の比治山神社はこの黄幡神社が移転された。比治山と仁保島と両端に黄旗神社が鎮座していた。海が割れ道が現れた“神威”への人々の驚きを感じる。

現れた道は、往還道と平行してもう一つ踏みこまれて表れた。殿様山と呼ばれる岬の先端からそのころの波打ち際に現われ、比治山の南端へ向かういまの旭町バス通りになったルートだ。この道を「大河道」とこのあたり一帯は高層ビルは広大病院のみで、空が広い。茫洋としている。

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日清戦争開戦の1894年に鉄道宇品線の建設がはじまり、広島駅から埋め立ての始まった宇品の鉄道路線は往還道をなどって設計されている。そこは湿地帯の中でも安全な地盤があった。1904年の日露戦争開戦に国会議事堂が広島に移転された。いまの立町電停付近の広島市水道局と市営駐車場のあたりが国会議事堂だった。それに合わせて宇品線の周囲に旧陸軍関連施設が建設される。きっと農地にはなっていても、湿地帯で民家も少なかったのだろうか、それとも国家権力の強さからか、この辺りに集中して各種軍施設があらわれる。明治36年ごろの地図にはまだこれらの施設は現われていないが、仁保島と比治山との間に畑のマークが記載されており、乾燥した土地があらわれていたと想像できる。海中から現われた道、このことも、“海が割れ”た証だといえないか。

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往還路の跡の道も大河道の跡もこのあたり一帯の埋め立て事業で直線に整備されて、今はR2国道に分断されているが、その面影が残っている。その事業が、海が割れ道ができた、神威の姿を消し去ってしまった。

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# by forumhiroshima | 2016-02-02 06:17

自転車と望遠鏡

島めぐりのツーリングが大好きなSさんから頂いた年賀状に、お元気ですかと小さく添え書きがあった。昨秋に、退職されたと、わざわざ、このボロAPに来られて、時間があったら走りましょう!と、おっしゃっていた。そのご要望の答えていない。   元気ですが・・・。スミマセン。

走るならいいコースを選びたい、案内したいと元自転車屋・根性で、おもってしまう。なのに、この頃、これって”コース“の判断が揺らいでしまっている。お得意の古道、旧道という人馬牛が踏み固めた”みち“なら幾つも指が折れる。NHKこころ旅の火野さんの走るコースもこのごろ渋くなって、幹線道はさけているようだ。が、それが、Sさんには果たして楽しいのだろうか?とおもってしまう。古道の楽しさはいつも感じている。が、なぜに?それが楽しいのか、の訳がワカラン状況にこの頃落ち込んでしまった。
楽しさを伝えたいのだけど。          「走りましょう!」の声かけづらい。

“みち”からフロントホイールが伝えてくるのは、この“みち”に踏み込められた時間の積層だ、と思い出したのは出雲の村々を出雲国風土記巡りで走ったころだった。島根半島の日本海と宍道湖との分水嶺に湖側からとりついた細い舗装路の三叉路から畦道に入った。正面に鳥居が現れ拝殿奥に注連縄へ結界されたマウントの空間があった。畦道は参道だったようで、そばに玄関に注連縄を張った民家があった。たぶん古墳を神々としそれを祖先とする社家の神主と思える老人が軒先の長椅子の背もたれに身を預け、杉木立の木漏れ日に日向ぼっこしている。その場で取り出してめくった風土記にその神社が1300年前の風土記に記載され社として今に比定されていた。その野呂志神社から見上げた杉林の山には古代半島から渡来する人々への烽火の記憶が残っている。
神社を出て分水嶺の峠を越えると正面に日本海が広がっていた。古墳時代、弥生いや縄文、どころか新石器時代、大陸からここまでたどった道が続いている!と電気が、パルスが、体を走った。オレは大陸への海峡を越える道にいる。自転車で海が渡れるという感情が現れた。峠から日本海へくだると三津の小さな港に着いた。“御”という字を、恐れ多くて使うのをはばかる時代が三津と表記をかえたのだろうか。この浜に古代スクナヒコナが海から到来した伝承が守られている。出雲の盟主オオクニヌシの父スサノオは半島へ往来したといい、スクナヒコナとオオクニヌシがこの国を創ったと伝承される。「御津」であってもおかしくはない。宍道湖からのここまでの古道は半島から大和へ向かうシルクロードの一つの毛細血管だったのではなかろうか。

などと、妄想を拡げることは、オレだけの妄想になるのか。この小さなシルクロードの毛細血管の道、ここを走れば、感じてもらえるのだろうか。

いつも、ツーリングは、こんな電気パルスを探して走っていた。幾つもの村や町に捜した。そしていくつかの、電気パルスに出会った。時間が積み重ねられたところ、人馬や牛の踏み址をおもわせる道に期待できる。古道の「峠」は登って来たトップから下る先の景色がみえる場所にのみそう呼ばれる。「タオ」と呼ばれたりするが、「手向け・タムケ」がトウゲになったともいう。辛い登坂から解放される場所は、自然に頭を下げ手を合させる。何に向かってかは、その時の自分に尋ねるほかない。

時間の蓄積は景色として現れる。時間を感じる触覚を人は持ち合わせない。連続して生まれ朽ちてゆく景色のスライドショーで時間を感じる。自転車の上からみる景色のスライドショー。スライドが変わるタイムスケジュールをゆっくりに調節するように自転車を走らせ、時間の蓄積をゆっくりと氷解させることも。

先日のNHK・日曜美術館で“葛飾応為こと葛飾北斎の三女「お栄」”が残した「夜桜図」を紹介していた。背景に書き込まれた夜空の星が輝いていた。d0089494_16713.jpg点描された星たちは各々を区別する色分けがされているとTVの解説が流れていた。天空に平面に配置されたような星たちはそれぞれ地球からの距離が違い、その距離は光の速さ・光年の単位であらわされる。天空の一枚のキャンバスに置かれた星たちそれぞれの距離を普通感じることはない。が、「お栄」はその時間差を感じていたようにも、思えた。景色の中の時間の濃淡を感じる人がいたのだ。

月からの光は2.3秒ほどかかっているという。
それぞれの時間(時代)に成立した景色を光で受け止める自分との間にもう一つ光の速度という時間があるという。景色のスライドショーの一コマそれぞれに個別に二重の時間がコーティングされている。こんなことに、誰が気付いたにだろうか。光速という時間を。

「1610年12月フィレンツェ 自作の望遠鏡でガリレオは金星・ビーナスを観測していた。金星が月と同じように満ち欠けすることに気づいたのである。観測を続けてゆくと、満ちていくにつれて小さくなり、大きくなることもわかった。
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この現象は、金星が地球からみて太陽の向う側に行くにつれて遠ざかることになり、小さくなって満ちてゆく。逆に、太陽と地球の間にくれば、大きくなるが欠けてゆく。地球が宇宙の中心にあって動かないとする天動説では金星が太陽の向こう側に行くことは決してないから、完全に満ちることはない。金星は必然的に太陽のまわりを回っており、水星や他の惑星もそうだ。このことを メディチ家のジュリアーノに報告している。  ガリレオ裁判 田中一郎」
ガリレオは木星の衛星も発見している。衛星に彼の名がつけられている。と同時に光の速度を計測する実験も行なっている。これは失敗したという。
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光速度が測定されたのは240年のちになる。ガリレオが望遠鏡で見つけた景色は、自分が受けるパルスなどと同じページには置けないのだが、ガリレオもパルスが流れたと、・・・。ガリレオ46歳のことだ。その頃パドバァ大学教授だった。この発見の結果は、23年後69歳で宗教裁判の有罪判決をうけている。地位も失う予感をも打ち消す強い強い電気パルスだった。      

ガリレオの話を引っ張るなんて、・・・。
無茶ぶり!!ついでに、エイ!。       ガリレオの望遠鏡と、オレの自転車と、パルス仲間なんです。
と自分の観念の世界にいまだ沈んでおります。
                            Sさん、もう少し時間頂戴、です。
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# by forumhiroshima | 2016-01-12 16:08

五箇荘

眼前の景色のなかから、何かにフォーカスし、それから連想が始まりだす。妄想の発生!。そんな場所に出会うとそのサイクリングが一段と印象深くなる。印象が残る“そんな場所”がまた別のサイクリングで出会う、と重なった“そんな場所”の意味を探したくなる。

黄金山にブルドーザーが出現させた住宅地、猿猴川に沿ってのびる高架道路、国道2号線に囲まれた42-2のエリア。広島の町の小さな古びたパズルのピースの仁保町。そこに“渡部”と表札のかかる立派な門構えの邸宅の中にそのイチョウがあり、門の前で道は小さくL字に回っている。“遠見遮断”とよばれる侵入する敵の防衛ラインの名残にみえる場所。
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“渡部”の名は黄金山周辺の鎮守・爾保姫神社の神官と同名で、このあたりの古くの名門一族では?。古代の神官と豪族の領主との関係を連想する。イチョウの下をすぎると交差する路地が東の猿猴川へ伸びている。そこの県道をまたぐと川からの引き込みの水面があって、いまそこにR2の国道の橋が架かっている。橋はどこも、昔の渡し場のあった場所にかけられてきた。“渡部”の字がここにあったろう渡し場を思わせる。大阪の天満宮と大阪城下の八軒屋浜との渡りを差配したのが「渡部氏」で、“渡し”からの名称だろう。天満橋の川下に渡辺橋がある。彼らはのちの瀬戸内から長崎・五島列島にまでその勢力を拡げた人々で、倭寇と恐れられた、という。仁保、向洋の外洋漁民たちとの関係も深いといわれる。大阪・五島そして仁保の渡部さん、そして大陸や半島との交流への関連を連想してしまう。

渡部邸から少しの上りで西福寺と竈神社が隣接して路地が交差するエリアにでる。
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振り返ると二本のイチョウが道奥にみえる。ここの幾つかある路地は猿猴川へと向いているが、各々を横につなぐ路地がなくて、ただ川岸へ押し出される。神社を中心に扇形に放射線に設計されている。神社そばから黄金山の山頂へ階段になって道は伸びてゆく。神社の拝殿は山頂を望んで建てられている。路地は扇型の場所を囲むようにある。

1555年の厳島合戦で、毛利元就の軍勢にこの仁保黄金山城の城主で、牛田の東林坊の住職・願通が毛利方で参戦している。お坊さんがここの領主であった。この毛利氏と陶氏との合戦は戦国時代最大の海戦といわれるが、毛利方の構成員は竹原の小早川の六七十程と願通を首領とした江の内の水軍五六十程の構成であったという。来島村上氏は開戦に遅れたといわれ、能島村上は参戦していない。厳島合戦の前に陶氏が黄金島に到来し、撃退されている。だから江の内の水軍の拠点がここ仁保になろうか。渡部邸のまえのL路地の防御ラインが、匂ってくる。ここに水軍の兵站基地が・・・。

「宇品も比治山も江波も島だったころ、この海一帯を江の内とよんで、その西側の海に太田川の砂州ができていた。いまの段原・尾長・白島・広瀬・打越になるこの砂州の地は五箇荘とよばれ、この支配権は東林坊にあると毛利元就が認めていた。
厳島合戦ののち、大阪石山寺の織田信長との合戦に江の内水軍は参戦している。厳島合戦で毛利氏へ味方したのは、敵の陶氏が願通たちの信仰する一向宗を禁止していたことも理由だという(長沼賢海)。」
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「浄土真宗の開祖の親鸞の墓を京都で守っていた子孫の中から蓮如が出るにおよび、室町の乱世のなかで一向宗とよばれ爆発的に教勢が伸び、やがて西日本において人口の一割以上の者がその信徒になるという盛況を呈した。・・・諸国で開墾地主がふえ、それらが戦闘力をもち、横に連繁し旧勢力(守護・地頭)からの自衛をつよめ、その連繁する機能として、一向宗が大いに社会的効用をはたした。
たとえば加賀では、守護の富樫氏をたおし、地侍との協議制のもとで加賀一揆として自治を行うことが二十数年も続いた。紀州いまの和歌山の雑賀の土地もいそうであった。司馬遼太郎・街道をゆく7」

府中町の出張城の北東にある囲む中世武家屋敷エリアといわれる路地に囲まれた路地に入ったとき、仁保の路地を思い出し、“仁保”そこが“そんな場所”になった。府中の出張城の城主が願通和尚の前の仁保城の城主だった。

毛利元就が厳島合戦ののちすぐの1557年に「塩硝熱させ候、然らば其の方馬屋の土然るべき之由に候聞、所望すべく候」と馬屋の土、寺院の床下の土を集めた。この塩硝熱は黒色火薬のことで、厳島合戦1555年で江の内水軍が使用した焙烙火矢(黒色火薬を詰めたつぼの導火線をつけて飛ばす)の威力(伝えられた陶方の負傷・戦死者リストでイズは石疵ばかりで、この石は焙烙火矢の壺にいれた小石といわれる)を見知ったことだろうか。火薬の原料は木炭(柳の若木、麻の茎)硫黄、そして硝石だが、硝石はこの国には存在しない。馬屋の土を所望する元就は、その威力の所有を望んだのだろう。信長の火器への理解に遅れていたのでは。

「○○街道」というタイトルの本を見つけると、欲しくなる。先日本屋で「幻の街道をゆく 七尾和晃」を見つけた。そのなかに“塩硝の道”の章とあって、富山・五箇荘から金沢への塩硝を運んだルートが紹介されている。アマゾンして中古を入手した。
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毛利元就のみた江の内水軍の塩硝は、越中の白山山麓の五箇荘とすこし南の白川郷の生産が特別な培養法という方法で生産されていた。“塩硝道”の中継点の刀利の集落の宇野家には、蓮如の直筆が残っているという。五箇荘の利賀の西勝寺が塩硝の集荷場でここから大阪・石山本願寺へ白山の硫黄とともに送られた。
この生産方法は湿気のないホロホロの手触りの土を囲炉下の土間に2間四方-深さ7尺の穴に詰め、蚕の糞と稗の殻やヨモギやヤマウドの乾いたものをまぜ4年まぜながら置いて乾燥させ、硝化細菌が働きアンモニアが酸化され硝酸塩にかわる。5年目をすぎてから灰とまぜ煮込み上澄みをとり、煮詰める作業から溶液が冷めると結晶化する。これが塩硝。生産の最盛期の幕末には五箇荘1300戸総出の生産で40,500kgになっていたという。(金沢大・板垣英治)

五箇荘の住民はすべて浄土真宗信徒で、石山寺合戦1570~80年に大量の塩硝と硫黄、木炭が送り込まれている。仁保城の願通たちもこの製法も威力も知っていただろう。

1545年鉄砲伝来に同じく到来した火薬は鉱石の硝石から造られたものだ。イギリスの東インド会社の主要な目的がそのころ世界最大に産出していた東インドの硝石の入手であり、この火薬が大英帝国の戦力だった。彼らが囲炉下の土間で塩硝をつくるなんて、ないだろう。信長はこの入手に堺の豪商をつかったのでは。造るより輸入が速い。秀吉、利休の後ろに硝石と鉄の姿がありはしないか。

一向宗徒たちの一揆の勢力の装備に黒色火薬があったことが、多くの大名たちの脅威であったろう。毛利元就は一向宗徒弾圧に動かなかった。願通たちの火薬がそうさせたのか、その火薬の保管は“そんな場所”に・・・。

金沢大出版「加賀藩の火薬・板垣英治」に、安芸国でも塩硝の生産があったと書かれる。
越中五箇荘、飛騨白川郷の合掌つくりの民家は広い囲炉、蚕生産、そして湿気から土台の土地を離す高い屋根と厚いかやぶきをもって塩硝生産の量産を図ったのだと思えないか。合掌造りの民家の群は塩硝の生産工場群だったのでは。その姿は、出雲・吉田のたたら製鉄の高屋根の高殿を連想する。中国山地のどこかに、“そんな場所”を見つけられるかもしれない。

追伸
イチョウの雄雌にメールを頂いた。ありがとうございます。
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あのおっあんに、出会ったら教えておきます。イチョウといえば、ヨコオの1968年の東大駒場祭のポスターを思います。サービスでケンさんのヨコオ・番外地ポスターも。
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柳田国男はゴカノショウの地名は、だれも所有していない、税金かかるなら欲しくない平たい土地だという。番外地もそうですね。“河原ものたち”の河原も。
いまTVで都はるみのファイナルコンサートをやっています。ビックリしています。1968年は東大・安田講堂占拠が医学部学生によってなされた年でイチョウ並木の向うのジャングルといわれていました。その夏にアルバイトでいた東京でイチョウのジャングルをチョット見てから、都はるみの歌舞伎座公演いっていました。TVにとても痩せて傷んだ表情が映りだされています。ちょっと、泣きました。元気でいてください。「ミヤコ!ミヤコ!」
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# by forumhiroshima | 2015-12-07 21:35

四十二条二項

建築基準法の条項で家屋などの建築には4m以上の道路に面している必要があると規定されて、4m未満の道に面している場所の新しく建築されるには、行政にある道路が「みなし道路」と認定されてから、建築許可される。そのためにか4m未満の道に面している古い建築の建て替えが滞る。
そんな町並みを、ひそかに“42-2”と私はいっている。時間がコウティングされている魅力をもっていて、その「みなし道路」と失礼は名称をつけられた道へいつも入り込んでしまう。そこは、“懐かしい”場所だ。自分が生まれる以前にできた町であっても。“小京都”とよばれる景観がそんな代表だろうか。
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道路中央線から図って4mひっこめた設計なら新築の許可はあるそうで、このごろデザイナー○○といわれるおしゃれな四角い家も建築され、瓦屋根のなかに散見される。新鮮な風も吹きこんでいる。がそれでもまだ、古い時間は、渋く失われてはいない。

イギリス人の建築家バリー・シェルトン「高架道路、工場、農地、パチンコ店、公民館、ガタガタの木造住宅、新しいアパート、その他いかにも不調和に見える近隣建築が踵を接して建っている。都市の大半は、明確なパターン、形態、ラインを示すことのない“コラージュ”のような光景を呈する。 日本の都市から学ぶこと・西洋から見た日本の都市デザイン」
“コラージュ・collage”はバラバラば素材を組み合わせ貼り付ける造形美術の創作技法(ウイキ)とある。ピカソやブラックという抽象画の創設者たちの創作になる技法だという。日本の景観もすてたものじゃない。アルファベットで表現されると、路地の町並みもオシャレになる。
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シェルトンは続けて「多様な自然や人工の形態が様々に不揃いに散らばった景観として現れるのは、大きなもの、小さなもの、有形なもの、形ないものにも表れる日本の神々が、様々な信者の優先順位の違いに応じて祀られ、崇拝されることに由来する。」という。西洋の建築家シェルトンは、「キリスト教世界全般は至高で唯一普遍の神が統括する世界で、人は神の意志を遂行するために、神のイメージに似せてつくられている。だから神に似せられる“人”は厳密に階層的で支配的なやり方で神に捧げるモニュメンをつくり都市に配置した。」という。
“シティ・CITY”の名称をもてる都市は大聖堂をもっていなくてはならないという。日本の都市の景観のコラージュ性は、古代からのこの国の神々への信仰のありかたと強い関連性があると力説している。持ち上げすぎだと、思うけど。

11月のNHKのEテレの番組「100分で名著」の「サルトル」のパンフレットに、サルトルとボーボワールとが、パリを歩き回り、都市の“不可思議・メルベイユ”を探したとあった。不可思議・メルベイユ=コラージュなのだろうか? などと、めくってみただ、詳しくはわからなかった。42-2のエリアが、哲学の巨人たちの探し物と同じだとしたら、42-2のエリアも捨てたものでもない、様子である。まぁ、ただの思い込みにすぎなかろうが。

黄金山の山麓には42-2の濃いエリアが本浦、大河と点在しているのだが、そのうちの一つ東の山麓、中腹の新興住宅地の裾の仁保の町並みに、イチョウの二本の巨木が青い空に黄色の紅葉であたりを睥睨してみあげる新しい住宅街と背比べしている。クロサワの「天国と地獄」のロケーションだ。秋の終盤の景色は、この木があたり一帯を支配している。四季の移ろいはいまこの巨木にスポットしている。
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スポットされたイチョウの姿を、立ち止まって見上げてしまう。そこへ昨年の秋に続いて、近所のおじいさんが、また同じことを話しかけてきた。「あんた、どちらがメスか分かるか?昔はギンナンができていたそうだが、この頃は見ていない。二本立っとるから、どちらかがメスなんじゃろうが」こちらも昨年と同じ答え。「わかりません」。通行している人それぞれに聞いている様子だ。一年の時間が回って、元にもどったようだ。
数百年の樹齢ともいわれるイチョウの大木が民家の庭に鎮座して今にあることが、なにか訴えかけてくる。その雄雌もたしかに気になろうと、思う。たしかに神々がそこの鎮座し、そして、この屋敷の広い庭の東側一部はコンビニにつくりかえられている。その駐車場にもイチョウの落ち葉は落ちてくる。“コラージュ”とされる景色。だろう。
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浮世絵の研究をしている歴史家のヘンリーDスミス・米国人は、“歌川広重の金杉橋”の浮世絵では、橋そのものは描かれず、金杉橋を渡ってその先の池上本門寺へ参拝する日蓮宗の信者たちの行列を宗派の紋章の旗で描いているとい、旗の下に描かれた太鼓や傘は旗と反対側へ動いていると表現され、行列は行き帰りが表現されているという。橋の欄干は一本が小さく描かれる。小さなパーツがに積み重ねが全体の景色の空気を描く。
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奥行と広がりという相対的な焦点で表現された景観を額縁で囲い込む西洋的な表現、額縁のなかで完結する風景を当たり前のこととする表現に比べ、しばしば全体を犠牲にして部分を強調する「不完全さ」の秩序が、“日本”的な秩序だといっている。

徳島県祖谷の古民家で暮らす東洋文化研究者のアレックス カーは「一つまたはそれ以上の断片に景色を切り離し」、その小さな断片にフォーカスする。世界を締め出して小さな“コト”に集中する“日本的”能力に言及し、この国最大の桜の名所の吉野の空を占拠した高圧電線鉄塔と電線の醜さがあろうとも、桜の咲く美しさに集中し、美しさは抽出され、電線たちに邪魔されない視点がこの国の人々にはあるのだという。

西洋に人たちは、細部を組み立て、重ね、見たくないパーツは捨てることができる感覚がとても印象的なのだろう。
この国でも、古代、田園は条理という四角形に区分され、都は朱雀大路が南北に貫き、交差する道は北から一、二と条によばれていた。が、造られてまもなく、この区分は崩壊する。
それは、この国の農業が米作りであったことで、水面を基準に土地が区分されるほかなかったからだと思う。均一の平面を広大につくる土木技術もなかったし、広い水面に吹き付ける風は波をおこし植えられた苗を泥から引っこ抜くこともあり、一反という自然に適応した広さを基準とされ、その大きさが手に余るもののでなかったからだろう。その一反は縦×横からの広さでなく、人ひとりが一年で食べる一石の生産ができる広さをいう。数式で極められたのではない。その広さは変幻自在なのだ。

おもちゃのレゴのように小さなパーツを組み替えられながら、ある時代の景色をつくり、また壊し、また組み付けてきたのだろう。そこに、くみ上げられる時間の変化が“コラージュ”と西洋の人々には思えるのかもしれない。

パリの画家たちが額縁をもたない版画に興味をもっていたころ、倉敷・大原美術館にあるエル・グレコの受胎告知が完成したころ、宇宙の運動を数式に表すことに1905年アインシュタインは特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動原子・分子証明という大発見をしたという。もちろん私に内容はわからない。宇宙の創造神の業績の数式による解明であるといわれる。のち数式では宇宙の運動の解明ができなく、量子論の確率的存在でしかないという理論が勃興してきたことにに、「神はサイコロ遊びなどなさらない」とアインシュタイン言った。科学者は神のしもべでなければならない。すべてを子細に見通さなければならない、のが彼らの景色なのだろう。

西洋の創造神のおぼろげなイメージが、なんとなく、うかんでくる。そしてコンピュターは神の計算機なのだと、思い知る。数式の世界は進化しつづける。

司馬遼太郎は「あぜ道から、おっさんは建売り屋か、ときいたことがある。・・・お前ゼイムショか、と凄んでみせた。・・・ブルドーザーが赤松林を根こそぎならし、古墳をこそぎとってそのあとの剥げ地にセメントに赤青の塗料を吹き付けた瓦屋根のむれがはりついていて、戦後の政治が理想をうしない、利権エネルギーの調整機構だけになりはててしまったこと」と街道をゆくの第一巻で叫んでいる。司馬さんのなにも見逃さない知性が叫んでいる。司馬遼太郎の世界の緻密さは厳しい。

だから、赤青屋根の派手さ、気色から浮いた存在を自分の印象の中から取り除く技で、懐かしい景色のDNAを継続してきた、とは思えないだろうな。
自転車の走行スピードは、景色の捨象・抽象の感覚の引き出しに都合良いようで、流れる景色に子細にこだわらなくなる。ゆるくって・・・司馬さんすみません。
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# by forumhiroshima | 2015-12-05 09:27


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