こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

神の島

大三島の東隣の伯方島の小さな港町の木浦で島の神と呼ばれるところに、三島神社が鎮座している。拝殿の天井にびっしりとすきまなく提灯が吊り下げて、祭りが日常のような景色だ。そばにおいしい寿司屋さんが昼間も開いていて、島の生活の豊かさが望ましい。朝漁の真鯛持ち込み、昼から一杯、二杯・・・。それが生活!!なんて夢。

大三島の大山祇神社が三島神社と呼ばないを、考えている。
福山市蔵王町惣戸神社は江戸期には三島大明神と呼ばれていた。この“三島”がサントウと読まれ、サントウがソウトになった。読みに後付で漢字がつけられる。

京都・比叡山の西の山麓の岩倉に平安初期に不遇の最期を迎えた早良親王、死後、崇道天皇・スドウテンノウを祀った御霊神社がある。御所の南にも下御霊神社があって、不遇の死を迎えた菅原道真などが祀られることと同じ信仰が、スドウをソウトウ・惣戸、サントウ・三島、などを創り出したといわれる。柳田国男は「わずかに遺る土地の信仰の中から、各地に共通の点が見いだされる」といい、松童・マツドウ権現をあげて、「何か恐ろしい天災地妖又は其予覚があった場合に、地方に最も勢力のある神が此の名に於いて祭られるのが自然・・」といっている。甲奴町今は三次市に小童・ヒチもショウドウと読める場所がある。ここに須佐神社がある。祇園社と同じ。南の府中市の素戔嗚神社も祇園社と呼ばれる。

大三島の大山祇神社の祭神は大山積命で、「祇」「積」を使い分ける。三島大明神と合わせれば、三つの名が使われる神となる。強力である。「祇」に祇園のスサノオの力を、「積」に薩摩隼人の守護神の、「三島」に崇道天皇の御霊の力を。

伊予・河野通信は源平合戦で源氏側につき壇ノ浦へは大船30隻で乗り込んでいる。源平合戦の出陣に源頼朝は伊豆・三島大明神に戦勝祈願して出立している。ここの大山祇神社の宝物に源氏関係が多い。

大山祇神社の本殿の奥へ向かう道がある。「生樹の御門」と呼ばれる樹齢二千年の巨樹があって、根本に空洞があり、ここをくぐって道は奥へ。
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そこに阿弥陀寺とよばれる小さな寺があり、奥ノ院といわれる。三つの神力の大山祇神社に仏法の仏力が加えられた。
中世に一万数千石、四国にも領地のある一大荘園だったといわれるほど、ここは繁栄していた。

大楠周囲は路地が石垣の間に伸びているが、一大荘園の名残、24以上あったという、たくさんの僧房の跡の形跡なども、想像できなかった。
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それでも、中世の古代都市の名残りのだったのだろう路地を抜けると、人影のまばらな道の駅の前の車道にでた。阿弥陀寺と生樹楠に漂っていた重い時間の層が消えていた。

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大三島へ上がると、必ず、最初に尋ねる集落がある。西海岸の「肥海・ヒガイ」。
二つの岬が西の海に伸びて、正面の大崎上島の北端の山並みとの間に浮かぶ神殿島を抱きしめようとしている。
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その景色は毛細血管のように路地をめぐらせた集落の山麓にある曹洞宗海蔵寺金剛寺のから見つけた。
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神殿島の東の柵林島に地図に神社マークが見える。神殿島の参拝の場所におもえた。
肥海の集落は直径500mばかりの円で、ちょうど囲まれる。集落に漁師はいない農業専業の集落だと、宮本常一はいっている。
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瀬戸内では対面する島へ海を渡って開墾してきた。対岸に人々が舟で渡り畑を拓き、そこは対岸の行政区分に入る。そんな飛地があった。神殿島のむこう大崎上島の鰆崎は漁師の集落で、農業の出仕事はないだろう。と、想像する。海岸に田園がつくられる。そこに小さな水のたまり場がつくられて、九州の南の水不足の島々でみられる風景がある。”肥”にはその意味があるのか。
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円にかたまる集落の北の尾根に二つの神社があって、八幡社と相殿神社が鎮座している。

島とこれらの配置は、なんらかの関連があるのでは。と、しても相殿社から神殿社は尾根に遮られて見えない。妄想はそこを破れない。

緑の少ない集落はすこし埃っぽい。背景の尾根の向うに砕石採取場あるからでもないようだ。その採石場へ出入りするダンプの影も薄い。そして集落はいつも沈黙している。

現代の今がダンプにのって入り込んでも、集落はただただ沈黙して、日の出には輝くだろう神の島を望むことで、時間を積み重ねられている、と感じる。いつか、お寺の駐車場を借りて、その朝日を見てみたい。
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大山祇神社の神の有り様の中の時間よりも、ここ肥海の神々の配置の中をうろうろ巡る時間がすきだ。何かが、海を渡ってくる。
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# by forumhiroshima | 2015-09-16 16:00

柳と幽霊

大三島の領主であり、越智郡の地名に名を遺すのちの河野氏が、古代、物部氏で大和朝廷が奈良に入ることを阻止した人々であったと主張する鳥越憲三郎のロマンに引きこまれてしまったのだが、彼らの祖神と信仰するニギハヤヒ命の神社はこの島では見つけられない。
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ふと、「饒田津に舟のりせむと月待てば汐もかないぬ今は漕ぎいでな 額田王」この歌を思い出し、です。饒田はニギハヤヒ命のニギ、ニギ??

この饒田の津の地は松山、西条と候補地がある。折口信夫は「饒田津は古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りというのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊・フナユウギョと言ってもよいでしょうが、宮廷の聖なる行事の一つで、舟を浮かべて行われる神事なのです。」

古代三古湯は播磨・有間の湯(有馬温泉)紀国・牟婁の湯(白浜)伊予・伊予の湯(道後温泉)だそうで、どこも神事が古代行われた。大地のエネルギーの噴出が、神業だったのだろう、その業を取り込みたくて朝廷からの来訪が絶えなかった。貴族たちは朝廷の許可なくして入浴できなかった。家臣たちの力の増強を恐れたのだといわれる。
額田王が道後にやってきたのは天智天皇(中大兄皇子)が半島に出兵した662年白村江の戦いのときだといわれる(異論があるが、取りあえず)。半島出兵の戦勝祈願の神事であったのだろか。神業を希求したのだろうか。

それから30年後、大三島に当代随一の祈祷師が現れた。
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「役小角は、尊称されて役行者、役の優婆塞などと呼ばれる。七世紀から八世紀にかけて活躍する怪人物だが、実存の人物であることはまちがいない。  葛城の鴨族という神霊のことをつかさどるグループのなかでも筋目のいい出身であろう。  鴨族の貴種の生まれながら  かれは神に仕えるよりも仏の世界に入った。  役小角は葛城の山の洞窟に住み
葛・カズラをたたいてそれを衣服にし、草の根木の皮を食って暮らすうち“孔雀の呪法”を習得した。  孔雀は毒草も毒蛇も食ってしまうらしく、それに驚嘆したインド人がつくりだしたのが孔雀明王である。  人間のもつ精神的障害を食い業障罪悪を消してくれる。  葛城のふもとに住む鴨族の小角の観念に一大威力をあたえた。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

「葛城の神霊である一言主神を脅し、葛城山から吉野山まで石の橋をかけることを命じ、夜も昼も働かそうとした。  一言主神はたまりかね、藤原ノ京にいる天皇に訴えて、“小角は謀叛をたくらんでいる”と讒言した。  司馬遼太郎 街道をゆく1」

この讒言があって役小角は伊豆にながされることになる。「日本霊異記」で669年になる。讒言は一言主命の神主であろうと司馬遼太郎はいっているが、「続日本記」にはこの讒言は弟子の韓国連広足・カラクニノヒロタリだという。韓国連広足は韓国に派遣され帰国後その功績のより賜った姓で、元はニオギハヤヒ6世の孫のイカガシコオの孫で、物部氏の父系になるという。谷川健一 役の優婆塞」

河野氏の家の歴史書・伊章記よる、河野家の祖先の小千玉興が役小角と難波から大三島に連れだってきたのは役小角が65歳のころになる。藤原ノ京が出来上がってきたころだという。小千玉興の父守興は662年白村江戦いに参戦している。そのころ役小角が29歳。額田王が道後温泉で神事したときに小千玉興は船出したのか。10年ののち額田王は壬申の乱672年で死亡したといわれる。
大変動の時代の波が大三島や道後に押し寄せていた。
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千小氏は大和で物部と呼ばれた(鳥越憲三郎)。その物部といわれる韓国連広足が讒言したことと、小千玉興が讒言された役小角と伊予にゆくのと、どうなっているのだろう、な。大人の都合の話でしょうか。マアイイカ!

谷川健一「役の優婆塞」には、「役小角の祖父・事葛城君は子供に男子がなく、娘の白専女・シラタウメと呼ぶ一人娘にあとを継がせた。また出雲国加茂の富登江の子の大角を養子にした。大角はのち高賀茂真影麻呂・マカゲマロを名乗り、さらに十十寸麻呂と改名した。十十寸麻呂は白専女の婿となり役小角をもうけたが、のち大角は出雲国へかえったという」京都・下賀茂神社の祭神は賀茂建角身命で、カモ族には“角”がつくのか。ならば、田中角栄はカモ族か?。
額田王は琵琶湖出身とされるが、出雲国意宇郡(松江)出身とも。

役小角は山伏の元祖とされる。空海の山岳修行の先行すること約130年、まさに元祖だ。修験者のという強度な精神力の姿を思わせる。
が、父親の帰郷ということが、彼の人として感傷を感じる。幼年期のことだろうか、青年期の出来事なのだろうか。

出雲国の大角の故郷は、赤川が斐伊川に合流する加茂神社あたりだろうか、と感じる。この神社の西北の山中で銅鐸が発見されている。神社から西へR45にそった地方道が谷を北へ登っている。谷奥に駐車場が現れ、すぐに高架になって道路をまたぐ資料館が現れる。発見現場にレプリカで当時の様子が再現されていた。この谷は神社のある場所からは見えない。が、古代の祭壇の磐座が資料館そばに鎮座する。
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加茂神社は小さな丘に囲まれて、その間を赤川にながれこむ支流がいくつもある。北の宍道湖畔へと北上するR45は赤川を“柳橋”で渡る。平地へいくつもの尾根が張り出しそばに流れを従えて、赤川へ迫り、流れを合流させる。この尾根の先、よく山崎と名付けられる場所は出水の際、水流がせき止められ、ダム化し、水が引いた後に土砂の堆積が残る。なんだか、古代エジプトのナイルの叛乱ににている。
そこに豊かな土地が出現した。そのおいしい場所に古代に現れた人々が古代からの氏神を残す。全国各地で鴨、賀茂、加茂となぜか表記がかわるが、カモ族がここのパイオニアであろう。彼らの祭祀に銅鐸が打ち鳴らされたのだろうか。

京都、山城の賀茂族の祖神を祀る下賀茂の社のそばで賀茂川と高野川とが合流する河合の場所あたり、“柳”と地名される場所がある。そこに京阪電車の出町柳駅がある。ここも氾濫原で出町の地名の場所は古代出雲族の村あとともいう。いまそのあたりに出雲路橋がある。
なぜか、カモ神と柳との関連を妄想してしまう。
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「黄楊は“ツゲ”と書かれる。枝が遠くの一方を指すことから、あたかも何事かを告げんとする形であったために、“告げ”るとされた。 松の枝も広がりの力が顕著で、神降臨の説が起こる。一本松、三本松、五本松は神の所在だ。柳のごとき垂れるを性とするものは、生きた枝の伸び方で神意をうかがおうとしたものである。柳田国男」
陸前高田の奇跡の一本松に、だれもが神の降臨をみたはずだ。

「枝低く垂れて地に臨むものには、笠を連想させるものがある。笠は手を労することなく陰を供するもので、その下に立つ者の尊貴を表徴した。従ってこの名称はその地のかっての霊場であったことを昔の人に感じせしめたのである。 柳田国男」
柳も笠のように丸く放物線に枝を拡げる。枝の有り様で、神の神意をうかがおうとし、笠の形から霊場を思い霊の出現となって、幽霊の出現となったか。

花柳界も神社に隣接する。そこの神々は夜目遠目笠の内の美貌を誇り化けもする。

「花が垂れる藤は、藤原京と古代の城郭に名付けらえた。藤原は禊をする場所のことをいったらしい。“祓え“は水を使わないが、”禊ぎ“は水によって祓うことをいう。飛鳥の北部端で水時計などの施設がみつかっているが、水の流れが古代都の建設要件だった」と折口信夫がいう。額田王の道後訪問もこの禊ぎのためなのだろう。よほど道後は強力であったようだ。
のち”藤原“は禊ぎをする家の名として中臣鎌足だけに与えられた。その家の女子は禊ぎのために、天皇家に嫁いだ。

広島市内にも柳橋がある。そのそばに流川・薬研堀の繁華街があります。そこには、古代の祓い、禊ぎ、占いの空間が夜に立ち上がっている。
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# by forumhiroshima | 2015-09-03 10:56

大三島、三島明神の正体

大三島の大山祇神社への参拝を思い立ったのは、能美島の中町山中の梅河内氏勧請の大山祇神社との出会いからでもあるが、もう一つは、しまなみ海道サイクリングコースの開通が契機なのだろうが、自転車神社が大山祇神社にあると、どこかで聞いて、新しい社でも建立されたのか?とおもったからでもある。
もみのきレースのチビッコレースに参加賞のミサンガをプレゼントしているのだが、そのミサンガを持って、“自転車神社”に参拝し、御利益をただでいただこうと、魂胆したからでも、なのです。

境内に自転車神社は見当たらなくて、どうも山門の古代兵像の兜がヘルメットに、にているから、ってことらしい、と後で知った。いっておきたいが、ツールドフランスでのヘルメット着用は近年のことで、それまでは、サイクルキャップとカスク、NHK番組のこころ旅の日野さんの着用しているヤツだ、と古いファンはそう思っている。古代兵の兜との関連なんぞ?。噂の自転車神社に、ツールドフランスでコースになるギザッロ峠のサイクリストの守護女神キザッロ教会を連想していて、それとの落差にがっくり。

古代ヘルメットの古代兵像のブーツに神紋が刻まれている。
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折敷・縮三文字。拝殿もこの縮三文字の神紋でかざられている。
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大山祇神なら神紋は「大」がふさわしかろうに。どこもここも縮三文字だらけ。
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大三島だから、なのか。三文字の神紋の本拠はここではない。
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三文字の神紋は静岡県三島市、三島大社の神紋とされている。三が縮れていない神紋の静岡・三島市の三島大社は大山祇神と事代主の2柱を祭神とし、大山祇神の娘、コノハナサクヤヒメの鎮座する富士山を仰ぎ見る。
神話世界では神武天皇の5代後、歴史的には卑弥呼の時代の2世紀前、天竺・インドの王子が渡来してきた。住居を探し伊豆の海中から島を噴出させ、七日七夜続けて、10の島を出現させそこに鎮座した。初めて現れたのが初島、次の島に王子や龍神雷神が集まり、神集島(神津島)とし、大島、新島、三宅島(御焼島)、御蔵島、八丈島、小島などを出現させた。「日本後記」は伊豆諸島がこの順番で出来たと語るが、地図上でみられる本州から近い順の順番でなないようだ。火山島として出現したその経緯を、長い地球時間での記憶がそこにあったかのように語られる。石器時代から縄文時代の刃物された黒曜石で神集島産出の石は関東一円から信州までのエリアで見つかっている。旧石器時代からの交流の遺物だという。島の中央の天上山噴火口跡に神々は集まり、島々への水の配分を決めようとした。この島に豊富な水源があるからという。我々のDNAに3万年前の旧跡時代の記憶があっても不思議ではない。

「古代人は自然の激烈な変動を神の仕業と見、そこから一つの神話空間を作り出した。 谷川健一・日本の神々」三島神は三宅島(三は御ヤケは焼く・噴火)から、伊豆半島先端の賀茂郡大社郷白浜の長田神明・ナガタカミアケの地に移された。カミアケは神焼だという。ここでは伊古奈比咩神社と名を替え、いまも10月29日には焚火を焚き、伊豆諸島の島々も巨大かがり火をたいたといわれる。神社の浜からこの60km先のかがり火が見えたという。(谷川健一・日本の神々)このイコナヒメは大山祇神の妻でコノハナサクヤヒメの母だ。

白浜から、三島市の三島大社に移され、その址が伊古奈比咩神社となった。源頼朝は平家追討の挙兵をこの神社で行っている。いまの三島大社の祭神は大山祇神と事代主になっている。事代主は奈良・葛城の高鴨神社の祭神で、出雲、美保関の美保神社の神でもある。

摂津・大阪府高槻市の淀川河畔に少し離れて広い明るい境内の古びた三島鴨神社がある。ここも古代賀茂社領になる。祭神は大山祇神と事代主で、三島大社と同じ。が、ここの大山祇神は仁徳天皇在位の4世紀ごろ、朝鮮半島の百濟から渡来してきた“渡り”の神とされ、ここから伊予・大三島の大山祇神社へ遷座した(伊予国風土記・逸文)といわれている。
伊豆・摂津・伊予(大山祇神社)の三社を3三島とよばれたりする。

宮本常一は、大山祇神社の所在が、古代の賀茂社領であったから、大三島と呼ばれ葛城賀茂社が鎮座する、という。島の本土側の竹原に賀茂川の流れがあり賀茂社領で、上流に西條の町がある。四国側に伊予の西条市があり、そこに加茂川の流れがあり賀茂社領だ。竹原に賀茂神社があり、西条市に喜母神社、加茂神社が鎮座している。その両神社を結ぶラインに大山祇神社が鎮座している。どちらのサイジョウも水がいい。自噴泉・うちぬきが西条市一円に散在している。そこで地下水が噴出している。

大三島・大山祇神社の境内中央の古代楠の右に葛城神社が鎮座している。
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古代に小千・オチ、越智・オチ氏とよばれた河野氏の祖先の小千玉興が8世紀初頭の奈良で朝廷に逮捕された。それは友人で葛城鴨社の神官の役小角・エンノオズヌが呪術で民を惑わしたとされ、それとの共謀関係を疑われた。「役小角、その素姓は賀茂役公・今の高賀茂の朝臣という筋間のよい出身であろう。司馬遼太郎・街道をゆく 1」
玉興は解放されたが、役小角は伊豆に流されることになった。が、玉興はなぜか、役小角を連れて難波の港から中国人の船を見つけ出航した。乗り込んだ船は途中の吉備の水島沖で水を失った。役小角と玉興は海面をかき回し、澄んだ真水を海中から取り上げた。
玉興の父、守興が日本と唐、新羅と戦った白村江の戦いで捕虜になり、抑留されていた中国で越人との間にできた子供がその船長だとわかり、彼を弟として玉澄と日本名を付けた。玉興は三島鴨社から勧請していた三島神を大三島に鎮座させ、その神職となった。真水を海中から取り出した奇禍は伊予の高縄山からの水とされ、三島神からの御神託「水上の河にある野に住むべし」により、玉澄は「河野」と名乗り松山で河野氏の祖となった。今も高縄山山中に河野家菩提寺の高縄寺がある。中国・越人との混血の玉澄は、小千・オトを越智(越を知る)と変えた。高縄山が道後温泉の水源になる。

大三島が古代賀茂社領であるから、境内に葛城神社があると宮本常一さんはおっしゃる。異をとなえるなんてできないが、葛城山で修行した役小角が伊豆に流される前に大三島のやってきたという伝承がこの神社の鎮座の訳とすると、楽しいでしょう。役小角はここから伊豆へいったという。
民俗学者の沖浦和光が、小千氏創建伝承を紹介している(瀬戸内海の民俗誌)。二世紀ごろ大和朝廷の男とワダツミの女が結ばれ、三つ子が誕生した。三つ子は親元をそれぞれ離されて、伊豆へ、吉備へ、伊予へ、と流した。伊予の三津浦(松山港)へ流された子供が小千の御子と呼ばれ、小千氏の祖となった、とされている。伊豆と河野氏とのつながりは深い。

役小角が50歳のころの684年10月14日 伊予、土佐で大地震が発生、伊豆諸島の北西が隆起し新しい島が出現した。伊豆諸島は太平洋プレートにのっかり、本州に衝突する力を常に秘めている。伊予松山平野の重信川、西条市の加茂川は中央構造線活断層地帯そのもので、フィリピンプレートの圧力で右にずれるように四国は引きずられている。
九州から東へ伸びた中央構造線は高縄山で北方向に湾曲し今治市から西条市へとながれる。
高縄山塊は中央構造線ラインをクリップして南西方向から東方向への変更点になる。パワーがここにある、ってことかな。
この中央構造線上に、湧水が点在する。西条市はもとより、松山市東部に龍沢泉、三か村泉、お吉泉(このほか130か所)などがある。また砥部焼の土もこの構造線周辺から掘られている。古代の人々は、神々の神威におののきながらも、ちゃっかり、おいしい水や硅石、長石、カオリンなどを含み、焼いて成型できる粘土を受け取っていた。土器で米がたける。彼らは大地の鼓動の産物を見つけ受け取っていた。道後温泉のそばに弥生時代の巨大倉庫の遺跡がみつかっている。
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大三島の船折瀬戸の浜に出現した大山祇神は大火山地帯の南九州の笠沙浜からの渡来で、三島神は伊豆諸島からの渡来になるのか。838年の伊豆諸島・上津島(神集島)の島周辺の海中が焼炎して野火のようになった。朝廷はこの事態を占わせ、神々に神位を授け、これから各島々へ位階を授ける。沈静化をひたすら祈願させている。

大三島海岸の砂浜の湧水の出現は神威であったと感じられたように思えてならない。
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それを感じた人々の神が南九州の大山祇神であったのだろう。そこで大山祇の神の祀りが行われた。船は真っ二つに折れる激流の瀬戸を背景にして。
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中央構造線が九州の中央を分断するように東にのびて、佐田岬の北側をなぞって四国の瀬戸内川へ入っている。その上陸地点に伊方原発がある。いま科学の安全を神話として、古代の人々のように、我々は受け止めている。変わらん、ね。
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# by forumhiroshima | 2015-08-27 00:12

赤い啄木鳥・アカゲラ

私は戦争を知らない、“むかし”子供たちの二期生です。同時に墨をヌラレタ歴史教科書の塗られた部分も知らない、“むかし”子供たちです。「紀元節、神武天皇東征、神功皇后半島征伐、・・・ETC」なにやら、不可触なもの、がどこかとても「イヤ」だった。

修学旅行は京都・奈良。土門拳、入江泰吉の写真、亀井勝一郎の奈良、宮大工棟梁・吉岡常一の薬師寺。子供から中学生になったころ、墨をヌラレタ日本がむくむく現れたように思えた。そのころに、和辻哲郎の「古寺巡礼」にであった。この中に法隆寺・薬師寺・・に日本があった。

戦前、在庫切れになった古寺巡礼の出版社へ再版要望があった。「著者(和辻)は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。・・近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。」「社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。」古寺巡礼の戦後の改訂版出版に際しての和辻の“改定序”です。

大正9年出版、和辻哲郎「日本古代文化」
「弥生時代の北九州の墓から銅剣や鏡、勾玉などが発掘される。また4世紀に出現したとおもわれる初期大和朝廷の古墳からも剣、勾玉などがでる。しかし、銅鐸はでない。これにたいして弥生時代の近畿地方の墓からは逆に剣も鏡もでない。弥生時代と古墳時代は近畿では連続していない。弥生時代の北九州と古墳時代の近畿地方が連続している。」このことから、北九州に海を渡り到来し定住していた人々が、あるとき東へ移動し、近畿へ到来定住した証だという。

この移動した人々の集団が、物部氏とよばれた大和朝廷の部民(配下)の人たちで、彼らは元「オチ」とよばれるひとびとであった、と考古学者の鳥越憲三郎が「女王卑弥呼の国 2002年出版」で語る。このなかでは、むかし日本が詳しく語られる。

物部氏という古代の豪族が、古代伊予の越智氏でのちの河野氏だといわれる。河野氏が祭祀した大三島の大山祇神社に物部氏の痕跡はない。伝承がただようのみだ。ただ古代の伊予の国造にこのオチの名があり、彼らが物部であると記録されることが、証拠とされる。

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(大山祇神社の神饌)

弥生時代の始まりは、稲の種・籾を壺にあふれるほど詰め込み、稲作の道具も船に詰めもめて、この列島に漂着した人々の稲作成功の情報が九州から列島の最北端に伝えられたのは、北九州に最初に到来した人々からわずか200年といわれる。生きてゆける優れた技術・稲作が時代をつくりはじめた。紀元前400年とのいわれるころ、大和朝廷の成立の800年以上の昔のことだ。

「籾」を「早苗」にそだて、田植して「稲」の実りをつくり、籾を杵でうち「玄米」をつくる。それを「米」とよび壺に水といれ火をたく。弥生時代の壺と縄文の壺がちがうのは、弥生の壺に蓋をおけることだという。蓋つきの土器で、蒸し煮され、米が「飯」になる。飯はモチモチにたきあがらなくてはならない。この好みが、インディカ種でなくジャポニカ種を種として選んだ。これが日本のカルチャーだ。

「オチ」、のちの物部たちは、自分たちのつくる壺に木の葉模様をつけた。この模様の壺・土器が見つかると、そこは物部の所在と言われる、のだそうだ。北九州の遠賀川流域の弥生の集落からこの模様の土器がみつかる。そして瀬戸内から太平洋岸に拡散している。木の葉の土器は、伊予では今治の北部の近見山南麓や道後・湯築城(道後公園)から出土している。
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物部氏のことは9世紀に製作された「旧事本紀」にその部族構成資料があり、それをもとに鳥越憲三郎の「女王卑弥呼の国」では、遠賀川流域の物部が転進し、また定住した、同じ名の場所に遠賀川時代の地名をその場所に付けた。瀬戸内、摂津、大和と、そういった物部関連の地名が、彼らの移動の痕跡だという。

以前古代豪族の物部氏が今に出現した。そう思った。「四天王寺の鷹 谷川健一」を読んだ時だ。
物部氏と曾我氏との尊仏論争からといわれる戦いが587年の大阪の河内で勃発し、物部氏の領主・物部守屋が殺害された。「守屋は仏法に背き、太子はこれをお輿し給う。守屋遂に討たれけり。太子仏法最初の天王寺を建立し給いけるに、守屋が怨霊、伽藍を滅さんが為に、数千万羽の赤の啄木鳥となりて、堂舎をつつき亡ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給いけり。 源平盛衰記」「今も寺に異相のあるとき、太子の鷹来たり、あるいは、御塔上、あるいは金堂上に居り、あるいは講堂の長押に夜々宿するという。寺住のヒト、一度に非ず、二度ならず、悉くこれを見るといふ」

谷川は寺の太子堂の東、ひっそりと守屋祠があるといい、“参拝の者、守屋の名を悪むや、礫を投げて祠を破壊す”から参拝者の入れない場所に置かれたという。
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四天王寺へ走った。寺の宝物館のパンフにも、太子堂の西になる金堂の屋根に鷹の止まり木が設置してある、とあった。それも見つけた。
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谷川は、ついで、「守屋に仕えた者たちで、守屋の敗死後、四天王寺の奴婢になった人々の末裔が、いまも公人と呼ばれて、いろいろな仕事についている」と書いている。境内の、地下の池の流れでお札を洗う亀井堂のおじいさんに、あなたは守屋からの末裔ですか?と、尋ねたかったが、可笑しいヤツと思われそうで、まだ、公人そのことを信じきれなかった。     戦争の空襲で焼失し戦後再建された寺はコンクリート製である。
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大阪湾に渡来した「オチ・物部」の一行が上陸した場所の伝承がある。物部の祖のニギハヤヒは生駒の山に降臨したことになっているが、人間さまは海を船で渡ってきた。
鳥越憲三郎が大阪・河内での物部氏の本拠という恩智神社の神事・大祓の祭りが、旧暦6月に神社から18km先の堺の大浜まで二日がかりの行程で行われることを紹介している。堺の大浜での神輿の禊神事には住吉神社の神官のお迎えがされる。これは住吉の浜が陸地化したことで、南の堺の海岸に移行したのだろうと、鳥越憲三郎は考えている。住吉の浜が物部氏の上陸地点だと。恩智神社と住吉神社は北緯34.36の東西線上にあり、この線にある古街道で結ばれる。
石見・太田の物部神社にも海からの上陸伝承があって、その地点に鳥居という集落がある。いまも鳥居の海岸に出る大祓の神事が行われている。

恩智神社のある生駒山系の麓の北側、難波と奈良とを結んだ暗峠の大阪側に牧岡神社がある。この神社の神官が恩智神社の大祓いの神事の間の神様の留守を守るために来ることになっているという。奈良の春日大社は藤原氏一族の主神を祭るが、この牧岡神社の祭神のタケイカズチとフツヌシは牧岡神社から分霊された。牧岡神社と恩智神社は東経135.38の南北線上にある。ここの古街道の高野街道がこの南北線にそってある。直線の古街道は古代官道だといわれる。古代人たちにとってのランキング上位の“なにか”がそこにある?。

つまり、恩智神社は春日大社、住吉神社よりも、その発生が予想されるというのだ。どうだ、と守屋は、いや鳥越憲三郎は言っている訳だ。
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この牧岡神社の地元ひは、春日大社の創建に手伝いに行った伝法が残っていた。神社近くの小さな神社の社務所にその説明の表示があり、大社からの帰還の祭りがあるとあった。近畿ではこんな伝承てんこ盛りでのこっていた。歴史では伊予・瀬戸内は負けてないのだが・・・。

能美島の鹿川の将軍社の由来に、タケイカズチ・フツヌシのコンビが祭神だとあった。牧岡神社、春日大社の祭神たちだ。大国主に国譲りせまった稲佐浜の「否!諾!」の神様たち。それが、物部の末裔たちの鹿川の神社になぜ?祭られるのか。でもあまりにも、でかいナゾでした。物部と春日とのグチャグチャが、能美島にあるのですね。鳥越憲三郎は藤原氏の出身母体の中臣氏は物部であるといっているんですが。
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すっかり、お疲れの伊予の物部探し、です。
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# by forumhiroshima | 2015-08-07 10:04

日本国総鎮守

大三島・大山祇神社の境内入口の鳥居に「日本総鎮守」と掛かっている。
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掛っているのはレプリカで、本物は国の重要文化財だそうだ。鳥居の横の奥に、神社名の石柱がたっている。揮毫は伊藤博文。
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「河野の勢力はその部下又は同族と称するもの、忽那諸島を経て安芸の江の内の島々に達して、安芸国の懐ふかく食い込んでいる。能美島の山野井氏、江田島の土肥氏、もと沼田郡の属する海岸地帯の林氏等はみな河野氏の分族といわれ、これらの諸氏は後には多く毛利氏の家臣となった。伊藤博文は長州藩のこの林氏の出、同藩の伊藤家の養子になった人であるから、河野の海賊党の子孫であるといわれる。 長沼賢海」
林という地名は生口島瀬戸田林だろうか。梅でなく、桜並木の参道の天神さんが古道にある。そばに桃の木の畑もあって、遅い瀬戸内の春がある。林はそんな所だ。
大山祇神社の石柱を博文が揮毫した縁は、河野氏の栄華の昔からかの縁からかも知れない、などと考えた。

大三島から伯方島へ渡る大三島大橋へ入る最初にあった鼻栗瀬戸の海岸にそった、しまなみ海道サイクリングコースそば、車道が入江を横切っている。
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海を渡る車道は欄干がなくて、橋であることが、わかりづらい車道下の浜辺の波打際に円形の井戸がある。
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以前はごみが詰まっていたが、新しく「みたらしの水」表示もつくられて、満潮に囲まれる井戸の不思議さが、保存されている。この井戸に「水神大山積大明神横祓の井戸」と刻まれた小さな石柱がある。
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この井戸のある浜辺の岬の繁みにそって回ると、大きな楠が林立し小さな祠を囲み、また大きな楠に飲み込まれた鳥居のある広場が見つかる。
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道路に標示のカンバン「横殿宮跡」が立っている。
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楠の森と、その前の海の鼻栗瀬戸には干満には激しい潮流が現れ、なぎさの井戸の不思議さで、そこに神を降臨させた人々の思いに共感する。

伝承がここにある。「仁徳天皇(四世紀ごろ)のころに、乎知命・オチノミコト(小千命)が「迫戸浦セトウラ遠土宮オトノミヤ」に大山祇神を移祭したとあり(大三島記文)、(大三島神社大祝家記)によれば、景行、仲哀、欽明、孝徳。斉明、天智ら天皇が道後温泉への途上に参拝した。
のち聖徳太子の勅命によってここに大営造が行われ、新たに“迫戸浦ヨコ殿宮”と呼ばれた。こののちの大宝年間(701-704)ごろ越智(小千)玉純が神託によって、ここから、現在地の榊山に遷宮したと伝えられる。日本の神々2」
楠の林立が法隆寺の回廊の柱のだ。太子も道後温泉へ入浴されている伝承を思い出す。
大山祇神はここのなぎさの井戸へ降臨した、と激しく妄想する。林立する楠の羅列が法隆寺回廊のエンタシスの柱を連想させる。
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古代の天皇や太子たちが、この島を経由して道後温泉へ向かっている。温泉は大地のパワーを噴出する場所とされ、有馬温泉にも古代の天皇が訪れており、貴族たちの温泉入浴には朝廷の許可がいるほど、大地のパワーの独占がおこなわれたという。
道後温泉への天皇たちの旅が安全に行われるために、朝廷は各地の豪族を平定し、国造として任命し、そのそばに朝廷直属の国造も置いたといわれる。

「伊予国には五つの国造に支配地を分割し、そのうちの地元豪族系統は、小市国造、風早国造があり、朝廷系統から伊予国造、久味国造、怒麻国造が置かれた。怒麻国造は安芸国の阿岐国造と同祖で東北の陸奥国の国造たちとも同祖になる。一方小市国造、風早国造は物部連の祖、イカガシコオからの系統とされている。道後温泉のある松山平野の中央の温泉郷を支配地としていた風早国造は、そこを追われ今治市菊間あたりを領地とされた。阿岐国造は佐伯氏で、この一族は安芸国のほか豊後国の安岐(国東)、佐伯(佐伯市)にも見える。 鳥越憲三郎」この朝廷派遣のそれも東北の蝦夷から任命した国造たちが、天皇や太子の道後入浴の快適な環境をつくったのだろう。蝦夷からここに派遣された佐伯氏はまさに遮る・サエギル人なのだ。古代朝廷のウルトラマンたちのエネルギー補給基地が道後温泉ってことだ。

大山祇神社境内中央に樹齢2600年とされ、乎知命のお手植えの楠がある。
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この乎知命が小市国造だという。鼻栗瀬戸のヨコ宮からいまの榊山の遷宮されたのは8世紀初頭といわれる(日本の神々2)。
古代の国造家が現在まで続くのは古代出雲族の出雲大社と和歌山の古代紀氏の日前国懸神社ほかはない。古代からの継続を血族をもっておこなうということが、奇異なことだと思う。がこの国では、特別ではあるが変じゃないのだ。疑いもない検証する必要のない事実とされることが、今おもしろい。大山祇神社の境内の北側に社家とおもえる注連縄をかけた門の屋敷がある。表札には三島とあった。

大山祇神社の神主家は古代の物部氏からの継続とはならなかった。河野氏は戦国末期秀吉の四国征伐で竹原の小早川隆景と戦い、降伏ののち竹原で病死し、ここで河野家は断絶している。小早川隆景はのち博多を領地としたが、病死。家来一党は博多を離れ竹原に帰郷。のち一部は毛利家に召し抱えられ、山口へ。秀吉が朝鮮進出に九州へ向かったとき、河野氏の残党が三原で襲ったという。
村上氏も秀吉の海賊征伐令により毛利家に。芸予の海賊たちは、毛利家に吸い込まれている。幕末を演出するエネルギーがここらにあったのだろういか。伊藤博文は物部氏であった、のだろうか。歴史舞台への再登場のエネルギーは道後温泉?高杉晋作も道後に長逗留してたっけ。

古代物部氏はナガスネヒコとの連合で、神武天皇の大和侵入を一度は阻止、のち神武側に寝返る。はるかのちに、聖徳太子と曽我氏の連合に大阪・河内で戦い滅亡。一部が大和・天理市の石上布留神社の神官となっている。朝廷側の物部として「内物部」と呼ばれた。滅亡したとされる逃亡した物部は天武天皇・大海皇子の戦いに参加して、再度、歴史舞台の表に浮上している。
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# by forumhiroshima | 2015-08-04 09:12

潜む神

能美島・大原の国土地理院の25000分1地図に、観音さんと薬師さんの位置に鳥居マークが置かれている。間違いに違いないのだが、間違いとは言えない何か?を思ってしまう。
というのは、大原は古代にここの開発者であったろう山野井家の守護神の大山祇の神が見当たらない。山野井家の分家の開発とおもわれる中町や宗崎には、大山祇が鎮座して、山野井は、伊予・河野氏と同系統といわれ、その河野家が古代に越智氏と名乗り、もっと古くは“小千・オチ”として大三島の大山祇神社を崇拝し、その神官であったこととに、空白を感じている。地理院の神社マークの間違いと、ここにいない大山祇の神とを、比べてウナッてしまう。
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郵便局は旧道、昔のメイン道路に残っている。旧道のバイパスとされたメイン道路には、広島銀行支店の姿、が広島県の西部でみかける景色。その支店もポツポツと消えて行っているこの頃だが、大原では顕在で町の中心の四つ角を占めている。その正面に豪壮な邸宅が毅然と建っている。文部大臣を歴任した灘尾弘吉氏の生家だと町の歴史資料館で教えてもらった。造り酒屋であったという。
江戸末期に山野井家は海を埋めたてて新田開発に着手し、そこでの塩田事業も始めた。また酒造も行っていた。が、これらの事業が不振で、酒造の権利も失った(大柿町史)。
灘尾家がその権利の継承者かどうかの資料は見つからなかったが、家の裏の元作業場とおもえる空地から、山際に一本の道が通っていて、その行き止まりに小さな社があり、標柱に八幡社とある。この道は確かに参道である。酒造家・灘尾家とこの小さな神とのかかわりが、ナイってことはない。どころか、酒と神は一体なのだ。古道は参道を横切り、灘尾家作業場跡前を横切っている。この配置は神社境内というより、神の庭を感じる。
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灘尾家そばを流れる八幡川の名称は、川上の亀山(神山?)に新宮八幡宮の存在によるのでありお、川下の八幡社は新宮八幡宮祭礼のお旅所なのだろう。神が川筋を往復される。この神は亀山の東の峠を越えて下った海岸の柿浦のすぐ沖の鳶ケ島に、ある夜現れた赤き輝く光として現れ、大原の亀山に鎮座されたという伝承がある。国東半島の宇佐八幡からの勧請といわれ平安時代931年創建。
この伝承と、灘尾家そばの八幡社とが重ならない。祭礼の神輿は峠越えで柿浦へ出向くことになるのじゃないか?などと、大山祇の神が現れないことにいらだったり、している。
国土地理院の間違った鳥居マークからも、この灘尾家作業場跡広場からも、なにかがでてくる。
「神は隠されている。」

大山祇の神が鎮座する伊予・大三島の西端に、日がな、神を探した宗方の集落がある。
「大三島の人の定住を見るようになったのは弥生時代からである・・。その後この島の沿岸には海人の定住する者があったと見られる。島の西南隅にまつられる宗方神社の祭神は市杵島姫命で、筑前宗像神社の系統に属する社である。厳島神社からの分請ならば、厳島神社と称したであろうが、宗方神社と称したことは九州から直接ここへの分祀があったと見て差し支えあるまい。さてこの神は海人によって祀られたものではあるが、せれが主として航海に携わる海人であった。古代に外征がしきりに行われて多くの水師(スイシ・海軍)を度々動かした七世紀の中頃から、漁撈・塩焼を主とするものと航海を主とするものとは次第にわかれていったとみられる。そして航海を主とする人々によって宗方神社は祀られたと見られるが、その人々は神社付近に住居する人たちであったであろう。宮本常一・瀬戸内海の研究」

宗方へは大三島橋の取り付きから外れて、大三島の脊梁の山並みの東の広い車のこない車道を西へはしると、全面に斎灘の海を見る。島影もなく、秋の午後には雲間から幾筋にもなった陽光が海面に散らばる。
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ただただ走ると道は登りになり、峠を越すと休校学舎の憩いの家にでて、すぐに集落に入る。埋め立てられて、放置されたような海岸から集落に入ると鎮守の森が見つかる。広い駐車場のような広場に鳥居たたち、小山にあがる石段が森の中にみつかる。鳥居の神額には八幡神社とある。
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参拝ご、また集落の路地へ入った。

集落の中を流れる小川の岸道を幹として、枝に分岐しながら、畑に消える道をいくつか上り下り。石垣でしっかりと組み上げられた漆喰の土塀に二階建ての大きな屋敷がいくつも軒を迫って建っている。
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でかい家がどうしてここに集まっているのだろうか。
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住人の仕事は・・・。普通の集落じゃない!
屋敷と呼べる古い、もう朽ちそうな家々に引き込まれて、うろうろ。
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神社もお寺もないと気付いたのは、屋敷めぐりに飽きてからだった。

覗いてみた食料品店も留守みたいで、海岸の車道まで下りてやっとお婆さんにであった。宮島さんの神社はありますか?いや宗方神社でしょうか、ありますか?あの八幡さんの他に神社ありますか?  ありませんよ。

オイ!常一、どうなってんだ!

八幡神社の石段を再度登って、境内に戻った。
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境内の小さな祠を見落としたのだろうか、と。
すると、本殿を囲む石垣の一部に小さな石段を見つけた。うっそうとして暗い。落ち葉と繁みの中に、ボーと祠が建っている。
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ドキドキした。これが宗方神社だったら、常一さん、ごめんなさい、です。祠の神様の名のある表示をさがしてみた。あった!。が、護国神社奉加一覧、とあった。

八幡神社本殿の真後ろに鎮座していた祠の神は市杵島姫命だった、と、おもっています。照葉樹の暗い森の中のあの祠のお姿は、姫神にちがいない、と。
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島々のどこの墓地にも頭のとんがった墓標が林立している。この鉛筆頭はすべて戦死者の墓標だ。とても多いし、ひとかたまりに集めてある。めだつ。海軍兵士として、船になれたこの海の若者を徴兵したであろうことは、すぐに想像できる。古代からの水師の島なのだから。戦死した彼等の魂と姫神と。海神・ワダツミ。
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# by forumhiroshima | 2015-07-23 11:52

神さん木

大原の町の尾根筋と谷筋を行ったり来たり。路地は家と家をつないで、次の空間に空地と畑と森が現れるがまた家。黒瓦の立派な屋敷が現れたりする。

「山野井氏の祖先は初代3代能美城に居住し、4代になって山下に居をかまえたという。能美城、麓城、土居、堀、馬場、船蔵など今日に伝わる地名が、堀を廻らせた土居は平時の本拠で、主家と多くの家来下人を住まわせ、牛馬を養うにたる様々の建築が集まり、家来の武術・馬術の練兵場の馬場を控え、当時の入江に面して軍船を収容し修理もできる船蔵も聳えていたであろう。 大柿町史 S29刊行」
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山野井本家邸宅が存在しているらしいが、発見できていない。

尾根から谷への路地の空地が、山野井氏居住時代がそうであったかのごとく、妄想で、ありもしない屋敷で埋まってくる。
「伊予  あのあたりを旅行した人はよく知るごとく、阿波、土佐にかけて土居という地名が無数にある。『小松邑誌(愛媛県小松町史)』は伊予各郡の土居53か所を列記している。何れも河野家の家人であるらしい。 柳田国男」
愛媛県で走っていて、よく土居の地名にであいました。土井でないのが、残念でしたネ。
土居は河野氏には親しみのあった地名であったらしい。大柿にもこの地名があることで、山野井氏と河野氏とのかかわりを妄想する。
1365年伊予の河野本家当主・河野通朝は、讃岐の細川氏に攻められ敗死。その子河野通堯は一族を引き連れ山野井家を頼り、能美島に逃れ、かくまわれた。この敗走支援は山野井家と河野家同族のことによると歴史家は語っている。
この河野氏敗走集団500騎に正岡子規の祖先が加わっていた。(HP山野井家-探索・探訪)

“天つ空 青海原も一つにて つらなる星か いさりする火か ” 正岡子規。
子規に海賊のDNAが入っていた?。“坂の上の雲”秋山真之を思います。“天気晴朗なれど波高し”。我アパートの広島湾に面する楠那町に東郷平八郎揮毫の鎮魂碑がありますよ。このあたり、どこも、坂の上の雲の海です。
ただ、この子規の祖先能美到来伝承はHPほか見付けられなかった。この歌も鎌倉の海を詠んだとされる。興味深い話なんだけど。
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麓は、能美・中町の麓でみた小さな小山の森と同じ地名だ。麓城址という小山の西側にうねった古道に沿って民家が点在している。このあたりが土居だろうか。そこに小山へ上がる狭い石段が登っていいた。上には古墓が列でならんでいた。墓標に山野井家とある。一族の墓所だ。
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石段を下り地図にある、谷筋の馬場へ。三叉路角に石柱と灯篭と登る石段。登ると、境内に雑草がまばらに繁る堂。馬場観音堂。豪族・能美氏の昔の時が、漂ってくる。
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観音堂といえば、朝にゆく広島・南区の黄金山観音堂には雑草はない。自分が参詣する時間は、いつも二人と一匹が、とても楽しそうに掃除されて花を供えている。二人のうちの一人おじいさんは、そっとお墓で民謡?うたっている。いや、うなっている。鐘つきお婆さんと子犬のリリーとは、すっかりお近づき。リリーもこの頃やっとシッポ降ってくれる。黄金山観音堂には生気がある。黄金山観音堂墓地の朝は明るい。
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リリーを思い出したおかげか、大原を走っていて、気持ちの中にもやっていた、“ここ、どこかに似ている?”の場所を思い出した。府中町の小さな森の小山の室町時代の出張城址の東にこじんまり、西と北側に尾根が遮り、談斜面に古道が連なって、そこは出張城を築いた白井氏の配下の居住地だといわれ、一角に崩れかかった的光庵・尾首観音堂があり、そばに首洗いのいかにも中世、の伝承の小さな池も金網フェンスの中にある。斜面に平地を作るに等高線ぞいに拓くことで、路地が曲線に連なる。そんな地割の景色が、大原と府中を結びつける。
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路地を廻って自分の位置確認ができなくなると浮かんでくる“浮遊感覚”が中世にワープさせる。きっと、この景色は長い時間とどまってきているのだ、と。アスファルト、コンクリートと厚化粧させられても、路は自転車のフロントから人々のこれまでの来し方を送ってくる。読み切れるか、どうか。
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ほぼ直線ラインのここお馬さん走ったよね、の馬場の車道を尾根に向けて走ると、能美城址の森が右手斜面にある地点に能美城址とカンバンがあった。
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大柿町歴史資料館でここ大原の遺跡・史跡の地図を尋ねたが、見当たらない。係員と思われる老人に尋ねた山野井家本家の位置もわからなかった。能美城址のカンバンも観光協会のものだ。
薬師堂を探して尾根を見ながら登ってみた。コンクリートの壁に「夜郎自大」と大書されている。これ学生時代の反安保反米帝のタテカンそっくり。どうもここ能美が、合併で江田島となったことが、御不満な様子。いわく、海兵を美化し、公報パンフ・チラシを使い洗脳的方法で市名を江田島とし、能美島の歴史文化を抹殺している。と。オレと同世代のおじいさんなのだろうな、言い回しのステレオタイプが懐かしい。でも、確かに山野井氏の歴史は抹殺されている、と。入れ込んでいる大原、バンザイの気分で、賛同しています。(が、江田島市市役所本庁在所は能美島三高でしたよね)
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コンクリートカベカンのそばに、やっと水田を見つけた。
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大原の町からずっと登った。古代、最初の水田は、水の流れが小さく絶え間ないところの湿地に溝を掘り、側に板を打ち込んで、水抜きをして造られた。農耕の人々のフロンティアは海岸線から奥まった高地に取り付いた。そんな場所をここでは河内と呼んだようだ。古代豪族物部氏が大阪・生駒山山麓で取り付いた場所も河内と呼ばれる。ここの鎮守に御智・オチ神社が生駒の最高峰・高安山の西に鎮座する。この神社は古墳に築かれ、祭神はモノノベ・ニギハヤヒと言われる。伊予・河野氏の祖先、小千・オチ氏に物部氏の系統があるといわれ、その河野氏の流れが能美・山野井氏だとも。目の前の田んぼが、古代人たちの建造かな?と、えらく輝いてみえる。もうこうなると、古代幻想障害シンドローム。病気認めます。戦後すぐの大原の土地利用図です。埋め立てられた干拓地の水田がひろがってました。
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河内とよばれた土地の山際にあった宝持寺が土石流で流され、そこからすこし上流尾根に再建された場所そばにため池が広い空を湖面にうつしている。
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この尾根をトレースする小道に先に独立樹が阿弥陀堂そばに起立している空が近い墓所がある。この木はクロガネモチと表示されて、阿弥陀堂は中世・室町時代に山野井家により建立と、手書きでお堂壁に貼ってある。
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クロガネモチの巨木は、中町の西尾根の上がった処・森木にもあった。
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木の下の壊れそうな祠に壁に「神さん木」とされた張り紙があった。
「このクロガネモチの木は、春にになるといっぱい花をさかせるんで、その蜜を吸いに蜜蜂がマア来るは来るは、群がってちょうど飛行機が通るときのような音がするんよ。昔から夏になるとノ、この森木は、水にこまりよった。毎日下への水汲みがアマナ業(ちょっとやそっとの苦労)きゃあなかったんよ。ほいで、この木の下に井戸を掘ってみたんじゃ。そうしたら、なんときれいな水がでたんよ。この木に神さんが宿っとってんじゃと、祠を建てて、水神さんを祀ったんじゃ。」

森木のクロガネモチのそばにも墓所があった。入り口に六地蔵が置かれている。地獄の通行料は六文で、この地蔵に一文づつ供え、天国へいかせてもらう。そんな言い伝えと、見上げるクロガネモチの「カネ」がオーバーラップした。

太原・阿弥陀堂からつづらに道が下り、峯とよばれる場所の明慶寺の山門にでた。17世紀末建立と由来がかかげてあった。16世紀初旬の山野井家の建立との説(大柿町史)もある。寺の前の道を挟んで小さな広場「青山こども村」のカンバンをみつけた。気持ちが「青山」の名に動いた。
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「私は”青“が古い時代には墓所・墓地を示す言葉だったことを立証するために、地名の分析をはじめて、この十年ばかり以上全国の”青“地名を取材し、確信した。 青の民俗学・筒井功」
青はどこかに、心動かす響きがあると、おもいませんか。

種田山頭火「分け入っても 分け入っても 青い山」自分の周囲全てを山頭火は死地と感じていたのかもしれない。いや、死地を探していたのかもしれない。それは「青い山」と呼ぶ場所だったのだろうか。筒井はその本の中で、686年飛鳥で天武天皇崩御に際して、“人々、ミネ奉る”と葬儀の始まりを紹介している。「ミネ」は大声を発して泣くことという。

古代象形文字として漢字を解析した白川静が「ミネ」は神が寄り付く木であるといい、山を横や上につけるのはその木の場所を示すともいう。能美ではクロガネモチが「神さん木」にされたのだろうか。
寺の山門越しに見上げる峯の名は、陀峯山。この国は神仏習合です。
 「雲の峯 幾つ崩れて 月の山」 松尾芭蕉 霊地月山登攀ののちの歌

ブーンを蜂の羽音がした。蜂はミネの虫??
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# by forumhiroshima | 2015-07-13 10:18

FM 日々是よき日・降っても晴れても

年よりには苦にならない早朝の5時、FMから歌謡曲が流れてくる。JFMの番組“日々是よき日”を聞きながら黄金山北面の観音寺へ走ることが1年を超えた。年齢相応のラジオの番組との相性がよかった。ひざを痛めたりもするが、その時間が結構気に入っている。番組のサブタイトルは“降っても晴れても”。でも降ったら走らない。

山の東を回って、日宇那の集落にでて、楠那小学校の通学路になっている道にでる。この道に春にはランドセルが歩いていて、新学期の季節を目撃できる。その通学路に小さな男の子がピュコピョコ、ウロウロ、グルグル。7時前、まだ校門は閉じている時間だ。よく出会うので、話はしたことないが、眼があってもそらさない。互いになじんでいる。彼はとても学校が楽しいのだろう。踊りながら、彼は楽園に通学している。彼も朝のこの時間がとても気に入っている、と共感する。彼は“降っても晴れても”踊っている。
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観音寺詣に加えて、“よき日”が突然やってきた。“よき日”が能美島通いを数回にさせた。大柿町大原の路地巡りに取り付かれたようだ。フェリーに乗船すると、ピョコピョコ気分は飛び跳ねている。自転車が島に上陸する。
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自転車のホイールは、今の路面をグリップしている。その進行方向には、昔の時間の空間・景色がまっている。大原の昔が待っている、と妄想の中にドロップできる。
その事の起こりは、島の古道を地図に探して、大原から大君への峠越えの途中に、河内という地名を見つけてからだ。島の川に中洲があったのか?でかい川があるのか、と、強く惹かれて、走った。
川は小さかった。でもそこは路地が交錯していた。自転車は昔、道を通った人たちの気分をダイレクトに伝えてくる。たとえば、登りはつらい!を共有できる。田畑はひろく、道は畦でいい、を理解できる。食べる為の生き方がある。田畑を潰して、道にはできなかった。

河内に9世紀からの歴史が残る寺が1999年6月29日にあった豪雨による土石流で壊滅した。古代からの寺の場所が災害に会うことは少ない。古代人は立地には繊細だとおもう。なのに!。のち寺は2012年に場所を移して移築され、落慶法要が営まれたと、HP“江田島ッテ・・・どんなとこ”にあった。
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イツモですが、地名の話です。「人が拓きに入った以前には、地名はなく、地名は土着ののちの仕事」と柳田国男が語っている。地名を考えるって、人々の営みを探すファンタジーな時間なのです。自転車上で感じた感覚を加えれば、妄想を駆り立てる無敵なエネルギーが生まれます。オレだけ、かな?

「河内という地名は、下流の方から命名したものらしい。谷水がしばしば淀んで幾分の平地を作る場処があれば、いつかは登って来て、下流からあふれた人だけが住む。 柳田国男」
河内は災害発生危険地帯な為に、耕地開発の技術の革新をまって、田畑に拓かれた。
能見・高田の高下の大山祇神社再興の責任者は「梅河内 隆義」と標識に刻まれていた。梅は大阪・梅田の梅で「埋る」のウメ、河内は今の話題。梅河内氏は能美島の古族の山野井家の流れの能美氏であったのなら、鹿川で帰農した山野井家の一派は、そこで土名を取り、曽根田と名乗るが、曽根は川床の荒れ地、という名をつけている。河内開発を思わせる。
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「地理測量のまだおぼつかない時代、原野を拓こうとする人にとって、「原・ハラ」と呼ぶ場所は、木の茂みが広がっていなくても、湿地で、歩くことにも障害であった。人は近世になるまで、降りてこれに就くことを好まず、依然として水の音を慕とうて川上にさかのぼった。柳田国男」

大原の東は陀峯山を頂点とする南北への尾根があり、尾根の西向きの緩やかな斜面の底に八幡川が北進して、新宮八幡神社のある亀山で遮られた、直角に西向きに流れをかえる。川が方向を変えると、そこに水の淀みがうまれる。水流が停滞する。含んでいた砂が吐き出され沈殿し、河内が形成される。水の流れを変える場所に八幡神が鎮座する。

古代人たちはこの河内につくられる湿地に取り付いた営みから出発したようでで、発掘されたのではないが、古墳の存在が二ついわれている。押谷古墳と呼ばれる古墳は流された宝持寺ではないのか。埋蔵された宝の存在が匂う。出雲の加茂町のオオキニヌシの御宝を埋めたと伝承のあった神原神社遺跡で発掘された鏡を連想する。また「押」の地名は土砂や水が“押す”記憶の災害地名ともいわれる。河内での水害の記憶か。
もう一つは薬師古墳で、所在はわからない。が、再建の宝持寺から西へ流れる枝尾根の先に薬師堂がある。宝持寺住職がここに経塚をつくったことから、薬師が祀られた伝承が境内にある。ここに薬師古墳があったのだろうか。境内から大原を見渡せる高台の地形はここの領主の領地を俯瞰できる場所で、古墳の存在がにおってくる。
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尾根の水流をたよりに土地を拓き、のちに古墳をつくった人々から、ここ大原は途切れることなく今に続いている、のでは。そんな予感がはじめて河内に走った時、身体のなかにうまれてきた。

古墳の王たちの後裔たちが、ここに能美氏として中世に名をのこしている、としたら、と能美城址をさがした。
国土地理院の1/25000ではこの集落は走れない。地元にそんな地図はみあたらない。そこでグーウルMAPをプリントして使った。軽四トラックでの離合は舗装面だけではむつかしい道が尾根に向けて数本登り、そこから根っこのように路地が枝分かれする。道は谷にあり枝根が尾根にのぼりくだり。グーグルMAPでグルグル。大原グルグル迷宮。迷宮、OK!
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1364年ここに500騎の軍団が現れた。(山野井家・探索、探訪HP)約7000名ほどともいう。伊予・河野氏の河野通堯が細川軍との戦いに破れ、芸州能美に走るという記事があって、安芸能美の山野井家にかくまわれた。また、芸藩通史に山野井家、伊予国河野秀清が子なり、などの記録から、大原の能美城城主の山野井家は伊予・河野家との因縁の関係だったといわれる。
伊予・河野家は古代の小千・オチ国造で物部連大新川命の孫・小千命からの家で、越智郡にいた。伊予の風早には物部連伊香色雄命の4世孫・阿佐利命も記録される伊予・物部氏一族。古代の豪族につながる。

尾根上の道と谷路とそれをつなぐ路地とが交錯している。家々は大きな木々に埋もれて、黒い甍が点々と浮かんでいる。
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その迷宮からやっと、能美城址カンバンを見つけた。こんもりと繁った小山で、登るとベンチがおいてある公園で、木々に覆われて展望も遮られている。城址とは・・。
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城址そばから尾根へ登る道がある。そこに取り付いてみた。道沿いの家々の佇まいがいいのだ。路地は迷宮の様子だが、いつかどこかに出て、そこで出会った景色の記憶が重なってゆく。集落になじんでゆく。さっき見た景色が新しい。なにかが新しく発見される。感覚が小さな発見に集中してくる。そして、これまで見てきた漁村や山村と違うということ、がどこかで見た景色・デジャブにとらわれた。
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道に対して、斜めにむくれているように立っている大日堂。そこに鎮座する二体の鎌倉時代製作と由来があるが、風雨が吹きこんでいる様子。阿弥陀堂を押しつぶそうかとの勢いのクロガネモチの古木。正面の参道の石段へ畑がとうせんぼする畑。こぶしほどの小石を積んだ石垣。みごとな職人技の隙間のない石垣。どっかで、見た。

市天然記念物指定にしてしまうと、となりからも、あそこからも、我も我もと名乗りがあがりそうな、巨木たち。
どっかで、見た。どっかで・・・。
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# by forumhiroshima | 2015-06-30 09:36

神々の雑踏

能美島・高田の港から見上げる尾根の高下の大山祇神社から、南へ尾根を下る。
大山祇神社の草取りをされていた婦人が、「とても簡単にはできない話がこの神社の鎮座の訳にはあるのだ」と力がこもって語っていたことが、心残りだった。聞きたかったナ!

海からこの列島に到来し、上陸して「山中に住居を求め、山に馴れて一代、二代となりと、その存在は忘れられて、もとから山に住んでいたように、里人には考えられてくる。同時に神と神に仕える人とを同じにしてしまう。神が山の神で、われわれ里人の使える神とは違う神、一種のストレンジャー・異邦人の神と山人の神のことを考える。 折口信夫」
山の名がつく大山祇神が島に鎮座し、渡の神と呼ばれる訳について、このように書いている。続けて、山神につかえる人が里に下りて、門口で祝いを述べる“ほかいびと”になったといい、この国の芸能の始めを説く。あの婦人の語り口の一生懸命さが、歴史好きのおじいさんの思いからだけで、大山祇の神が再興鎮座したのではない、のだろうと。
“あしびきの 山に行きけむ山人の心も知らず。山人や。たれ”  「田中陽希!??」

大山祇の神が薩摩半島の南端・笠沙の岬の現れ、高千穂の峰に降臨し、そこから岬に渡来したアマテラスの孫のニニギを迎える。そのときそばにいた娘のコノハナサクヤヒメが彼に嫁ぎ、その子孫・神武天皇が天皇家を起こす。大山祇一族はこの国で、天皇家を“ことほぐ”最初の神になる。この物語が宮中の伝誦となる。(折口信夫・山部と山人)

高いところから下ったと思わせる高下の地名から、あのご婦人のお父さんのDNAに、古代山人の影を見たようにおもえてならなかった。振り返って見た尾根の頂あたりに、山の社が、あの高みに高下の人々の先祖は暮らしていたのだろうか、などと・・。

その高下の山の神が大山祇の神であることは、その神を大三島に祀ったという伊予の古代からの豪族の河野氏に関係ある、と考えるのが自然だろう。高下の住人は河野関係者である、はずである。

毛利氏と大内氏一族の陶晴賢との厳島の決戦が毛利勝利におわったあとすぐの1556年にこの島は敗残兵の掃討作戦がおこなわれたという。合戦場所はすぐ東の飛渡瀬であった、らしい。掃討の対象となったのが大内氏に島支配を安堵されていた、能美氏とよばれた、山野井氏の一派だという。山野井氏は河野氏の一族といわれる。
毛利は能美氏討伐ののち、その子息を家の世継ぎとし、支配下においた。能美島は小早川隆景の領地となり、厳島合戦に助勢した来島村上氏に支配を任せた。(大柿町史)

高下から尾根を降りた場所にこんもりと木々が盛り上がった小さなポツンと小山がみえた。そのあたりは、麓と地図にある。「士族の居住する区域を必ず“麓”と呼ぶのは鹿児島県の各村である。 柳田国男・地名の研究」ここは広島の能美島の中町だが、小さな小山の繁みは、麓城址であると、HPの江田島市の城址・古墳に記載があった。
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大柿町史(S29)に、1518年大内氏と武田氏との合戦に大内側で奮戦したのが能美仲次と書かれている。仲次さんは、あの麓城にいたのだろうかな。高田と中町には城址が6か所とHPにあった。海賊たちの記憶の森。そこを後にした。

能美島で気に入っている場所の一つに大附がある。
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大原の西海岸の西端の行き止まりの小さな集落で、海岸は静か。県指定の自然海浜保全地区で、“いつまでも海水浴などができるように・・・自然保護する”と表示してあるが、駐車場ももちろんシャワーもなくて、自然保護は行き届いている。自分は「いまは もう秋 海岸」と命名している。ミヤザワ ケンジの真ねですネ。ここ、四季通して“誰もいない海”なんです。
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海岸から宮島の東海岸が正面にリン!と、そびえる。宮島口から見る宮島が、宮島(アタリマエダロ)だ。大附からみリンとした、裏面が“厳島”ではないか、な。
宮島は北に530mの弥山、南の岩船山467mの背骨で構成され、弥山は大聖院の奥宮が鎮座する仏教の香が強い。岩船山に伝承もないようだけど、”イワフネ”は、古代豪族で天皇家より前にこの列島に到来したという物部氏の神ニギハヤヒは降臨した山で、大阪・生駒山にはニギハヤヒ降臨伝説の山が三座あり、そこに天磐船にのって降臨した。伊予・河野氏の彼等の伝承の祖先の小千・オチ氏は、古代伊予の国造で物部国造という。

大阪・生駒山の峠で先住民のナガスネヒコと、すでに到来していた物部のニギハヤヒは、あとから到来してきた神武天皇を撃退。神武は紀伊半島を迂回して、東から上陸し、熊野の山中をヤタガラスの先導で大和へ侵入する。そこでニギハヤヒはナガスネヒコから離反し、神武側にたつ。神武は大和の南、葛城の東の畝傍山で政権を樹立する。この神武の東征で用船した海人たちは、誰であったのか。とても興味ある。
この島の海人たちは、飛鳥、藤原京朝廷への納税の荷を運搬していた。その為の造船も行っていた。遣唐使船も請け負っている。このルートは紀ノ川をさかのぼっている。熊野水軍は新宮と紀ノ川河口の海人たちで、彼等もこの海運に従事していた。海人たちのカラスが瀬戸内海を飛び回る。

宮島のカラスの神事・御烏喰式・オトグイシキの記事をHPなどで見ると、いつも岩船山の裾の東の海岸・養父崎神社の前あたりの海で行われているようだ。丁度大附の海岸の西に正面に当たる場所。人目につく、宮島の西海岸でなく、誰もいない、東海岸で神事が行われている。なにか、きっと、なにか、ある。厳島神社の神がこの島に鎮座する場所をさがしたことの神事だと神社発行の「伊都岐島」に記載されている。なのに、今の鎮座場所でなく、裏側になる養父浦なのだろうか。まあ、大人の事情があるのだろう、ナ。

大附は海運の集落であったようで、海運業の古びたカンバンを二つみつけた。胡の表札がかかっていた。
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小さな家の集まりの間に、いや、家々は小さな祠の間にあるようだ。どこからここに運ばれて来た神々なのだろうか。
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埋めたてに残された潮だまりに石橋がかかっている。もうわすれられた埋め立ての工法だ。残された景色が美しい。
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この島に大附という場所が二つある。どちらかが、本家なんだろうが・・。
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大附の地名がある三高へも走ってみた。その海岸に貴船神社が鎮座する。貴船の神は京都・賀茂川上流の貴船の神。都の水源の神。この神に摂津の尼崎で出会った。大きな境内の神社と古い住宅地の片隅にある神社と近くの二社あって、記憶にのこった。伝承で瀬戸内海を西からやってきて、この尼崎から神崎川から淀川を上って、京都に鎮座したとある。川の名の神は貴船の神だともいう。豊前から国東に、この神社は密集している。
三高の貴船の神は都から下ってきたのか。
能美島の海人たちも、このルートで京との海運を行っていたにちがいない。なにせ、平清盛配下にもなった人たちなのだから。京・山城の淀川上流の賀茂の神もカラスをとばしている。

といっても、この貴船神社の由来がカラスより、すごかった。「この神社は竜宮、龍神社と称されていた。ジュンゴの宮ともいわれた。」と境内の由来書にある。

「宮古島にはジュンゴをヨナタマといい、宮古あたりでヨナは海、タマは玉の意味。海を差配する神だという。ある夜、ある小さな島の漁師が捕えたジュンゴを食べようとしたら、どこからか、声がして、ヨナタマ!ヨナタマ!どうしたのか、今食べられようとしている、そうか!いまサイ(津波)をやって助けるぞ、と声がした。この声を聴いた隣の住人はすぐに飛び出して、島を離れた。そのあとすぐに、津波がやってきて、その島は何も跡形なくなっていた。 谷川健一・小田人のコスモロジー」

貴船の神は南の島から渡来したのだろうか。だれが、運んできた、この伝承を。ジュンゴとカラスは、仲がいいのか!そこが知りたい。など、おかしくなってきた。神々がわんさか、現れる。

三高の南の谷奥の大附の集落は数軒で道路から離れて尾根中腹に静かにあった。
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道からの入り口に、菊栽培発祥地の石碑がある。
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温室が作業をつづけていた。静か、だった。
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# by forumhiroshima | 2015-06-28 22:46

山上の神 山を降りた神

「江田島・能美島は小さな島であるが、海から離れた集落が幾つかある。宗崎も山麓に発達した村で、農業を主にして暮らしをたてている。そうした村が発展していくためには、山林をひらき、海岸を埋め立てたものである。 宮本常一 私の日本地図4 瀬戸内海1」

宇品港から三高へのフェリーが、小雨で海面に出来た小さなあばたの中を進んでいる。景色は薄い靄と鈍色の海とが境をなくして、音が吸い込まれとても静かだ。少し寒い湿気の中のデッキの風は、ゆっくりと深呼吸させてくれる。

「三高」の地名は能美島のフリーの港が三吉と高祖からつくられている。その高祖は北九州にあった古代・伊都国の糸島半島の付け根にある、スサノオ伝説の背振山の一つのピークの高祖山を連想させる。糸島半島は、西の宮島の神のふるさと宗像にちかい。

宗崎は三高の港から東へ回った最初の集落で、今は埋め立てられただ小方の南の端に宇品との高速艇高田港乗り場が出来ている。宗崎+小方で、宗方で宗像と、北九州の高祖・・・。アホな妄想がぐるぐる頭の中を回転する。

地図で尾根の上の集落までの直登の車道をさけ、そばの古道らしいルートを見つけてきたのだけど、直登と変わらなかった。
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数軒の民家が集まった尾根上の宗崎の集落すぐ下に田植の済んだばかりの田んぼがあった。ここで稲作が続いている!。
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「秋」に金偏をつけると鍬、秋に稔るイネ。鍬は畦もつくり、田起こしもする。稔りをつくる金属の道具が鍬。その稔りを創造する神が、春、鎮座する山から田へ降臨し、山の神から田の神に替る。秋の実りのあと、田の神は、カカシの案内で山へ。カカシは案山子と漢字される。山の神の鎮座が、集落の背景の尾根の上にある。
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宗崎の集落の集会所のある小さな広場から車道がストレートにコンクリートの舗装で山へ登る。小雨でウエットなコンクリートの路面では、帰りのブレーキングがすべてスリップ!、と正しい弱気を選択して、徒歩で登り出す。
いきなり横からイノシシの子供のウリ坊が、ウギューンと唸って現れ、横ぎって草むらへ飛び込んだ。お母さんが出てこないか?と、身構えたが、音なし。よかった、イノシシと出会うと、よく、あの奇妙な苦しそうな唸り声を聞く、と思うほど落ち着くまで、時間がかかった。
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コンクリートの道が海が背景の広場にでる。展望すこぶる良好。東南向きに鳥居と石段の参道、その奥に拝殿のある祠。「岩風呂神社」と神額がかかっている。拝殿の正面に由来が長い板に書かれている。由来の最後にこの板は境内にあった古松が枯れて伐採したものに記載したとある。オシャレである。ここに書き留めた人の存在がうかんでくる。この神社の祭祀に関わる家があるのだろう。が、由緒は墨がかすんで、読みにくい。写真とったけど、手ぶれしてしまって読めない。興奮していた。ただ祭神は大山祇の神とは読めた。由緒の隣にある拝殿、本殿再建の費用の奉加名簿にはここから見渡せる中町や高田すべてから集められている。北部東能美島総鎮守である。
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境内の鳥居から車道とは別方向に狭い石段が草むらへ入っていた。この参道の方向が海岸の高田・中町でむかっている。この参道はきっと海岸へストレートにのびているだろう。それが、カカシがご案内する山の神の往来ルートだ。ここの展望はすばらしい。ここでキャプすると、正面から朝日が昇る。キャンプとは不謹慎かな。清浄のためのおこもり、といっておこう。
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江田島・能美島には尾根中腹に農道がつけられている。海岸からこれに取り付くには、少々ウンザリの急坂だが、登った農道は水平ぎみな展望がよいところが多い。昭和60年代の整備だったが、きっと柑橘類栽培のための作業道として作られたのだろうが、いまはイノシシ・ロードだといわれる。

宗崎の小さな広場にある集会所へもどって、そこからの農道を南下。最初の四つにあるビニールハウスで作業されているお婆さんをみつけた。四つ角に神社で見つけた狭い石段が出てきている。これが、岩風呂神社参道でしょうか?そうだが、今はイノシシでるよ。海から登ってくるこの道が町からの参道になりますか。そうよ!。そこでもイノシシでるよ。今日の朝、ハウスがやられた!。どうも御立腹な様子で、退散です。おばあさんの本音は、イノシイに注意しんさい!と伝えてくれていたと思う。この島はとてもどこでも親切なのです。

ビニールハウスからの軽四一台幅の道がそばに沢を従えて下ってゆく。海岸の旧車道にでると、右に郵便局、左へは、高田港。ここの中心街であったのか、錆びついて閉まった商店が点在する。活気の熱は消えてしまっている。地図に地名が間所とある。「沼・所」のイメージで、湿地帯であった地名になる。昔、河口のこのあたりは干潟がひろがっていたのか。広い干潟に鳥たちが舞い降りる、そんな景色がもどってきているのだろうか。
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ルートを引き返す形にとって、集落の後背地の尾根傾斜へ川沿いに登る。分岐に地蔵堂が現れる。お地蔵様は境界をしめすことが多いようだ、墓地の六地蔵は冥界との境界だろう。川上に大きな寺院があるので、寺境か、寺への案内地蔵なのか。ただこのあたりは、空と地名にとある。ソラは焼畑地帯とおわれるが、豊かな水流の川をみると、どうも地名案内は当たってないようです。

高田の集落は黒瓦の甍が木々の間に点在して、とても豊かな地域に思える。
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その家々の間の広い車道から、川を離れて尾根にのぼりだした細くなった道幅を上がってゆく。切石のきっちりと組み上げられた石垣から、野積の石垣の石が細かくなって、道をかこみだして、畑の跡らしい空地の間をいくつか縫うと、隣の声が聞こえる程の狭い込み合った間隔の数軒の家々の集落に入った。地図に高下と記載され、その集落の裏に池があるようで、果樹栽培と田んぼのマークがつけられている。あたりに無住の廃屋もない。
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「水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に住居し得られた場所に上代の土着計画者が、まずこれに注目したのは自然である。いっぽう、天然の水溜りの沼地は地味も肥え、取り付く際には相当の誘惑であるが、わずかに水位が下がればすぐに乾いて、一旦の開発の耕地を荒らさねばならない。人は近代になるまで、山中から降ってこれに就くことを好まず、依然として、水の音を慕って川上にさかのぼった。 柳田国男」

道が分岐して、すぐにまた分岐して、今の自分の位置が混乱してきた。深呼吸して、あたりを見回す。
尾根に上って道が集まっている場所が、道幅からみて広くなっている古道がある。通路としては必要以上の幅、見方を変えれば、小さな広場、古代的には「庭・ニワ」とおもえる。古い景色に思える。そこに古木の茂みと神の存在があれば、ずっと昔に時間がクリップされ、フリーズされて、タイムトンネルが手招きする。
これまで、出会った、「庭・ニワ」にここが似ている。
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やはり、柿の木の茂みの向うに祠を見つけた。回り込んで、鳥居のある参道が現れた。拝殿はなく本殿の祠がある。そこから人影があらわれた。虫よけのネットのある帽子と長袖に手袋のご婦人。不審者と思われては、と、参拝させていただきます、声をかける。
ネットの帽子をとられると、上品な老女があらわれた。草取りをされている。手に草がにぎられている。神社好きなもんで、と非不審者です、のアリバイ作り。
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参道の石柱に大山祇神社とある。「とても長い長いわけが、あるので、説明しきれません。」
「この神社は父が昭和62年に建立した神社で、御神体は伊予・大三島の大山祇神社から勧請。ここ高下の古文書に、後背地の山に大山祇神社が以前あったとあり、それによっているのです」と、早口で話される。神社は新しいのですが、Googleの地図に載っているのですよ。自分もその地図で発見しました。国土地理院の地図に記載はないですね。この会話で、不審者の垣根がとれたようで、昨年の秋の大三島の大山祇神社参拝の話もされた。お父さんへの気持ちが、小雨の中の草取り作業のようだ。

実は、先ほど宗崎の岩風呂神社に参拝してきたのですが。大山祇の神様が祀られていましたけど、このあたりに、ほかにも大山祇神社があるのですか?
ここで空気が変わった。あそこの神様は大山積と書きます。ここは大山祇の神様です。オレ、いつもの、一言多かったラシイ。

“大山祇”は日本書紀の記載で、“大山積”は古事記の記載で同じオオヤマヅミの神だとはいわれるが、また別だとも。大三島神社は大山祇神社といわれ、その祭神は大山積とされている。
そのあたりが、高下の古文書にあるのかもしれない。興味ある。

座り込んでの話になりそうで、神様由来話は好きなのだけど、しょせん自己満足の世界だから、酒でも飲んで、あやふやな頭でヨタ話だと面白いけど、上品な女性とでは。また一言多くなりどうだし で、あいさつして、自転車に帰った。そして山を下りてこられた神様にお別れした。
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# by forumhiroshima | 2015-06-20 11:44


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