こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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メモ帳

日本国総鎮守

大三島・大山祇神社の境内入口の鳥居に「日本総鎮守」と掛かっている。
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掛っているのはレプリカで、本物は国の重要文化財だそうだ。鳥居の横の奥に、神社名の石柱がたっている。揮毫は伊藤博文。
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「河野の勢力はその部下又は同族と称するもの、忽那諸島を経て安芸の江の内の島々に達して、安芸国の懐ふかく食い込んでいる。能美島の山野井氏、江田島の土肥氏、もと沼田郡の属する海岸地帯の林氏等はみな河野氏の分族といわれ、これらの諸氏は後には多く毛利氏の家臣となった。伊藤博文は長州藩のこの林氏の出、同藩の伊藤家の養子になった人であるから、河野の海賊党の子孫であるといわれる。 長沼賢海」
林という地名は生口島瀬戸田林だろうか。梅でなく、桜並木の参道の天神さんが古道にある。そばに桃の木の畑もあって、遅い瀬戸内の春がある。林はそんな所だ。
大山祇神社の石柱を博文が揮毫した縁は、河野氏の栄華の昔からかの縁からかも知れない、などと考えた。

大三島から伯方島へ渡る大三島大橋へ入る最初にあった鼻栗瀬戸の海岸にそった、しまなみ海道サイクリングコースそば、車道が入江を横切っている。
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海を渡る車道は欄干がなくて、橋であることが、わかりづらい車道下の浜辺の波打際に円形の井戸がある。
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以前はごみが詰まっていたが、新しく「みたらしの水」表示もつくられて、満潮に囲まれる井戸の不思議さが、保存されている。この井戸に「水神大山積大明神横祓の井戸」と刻まれた小さな石柱がある。
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この井戸のある浜辺の岬の繁みにそって回ると、大きな楠が林立し小さな祠を囲み、また大きな楠に飲み込まれた鳥居のある広場が見つかる。
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道路に標示のカンバン「横殿宮跡」が立っている。
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楠の森と、その前の海の鼻栗瀬戸には干満には激しい潮流が現れ、なぎさの井戸の不思議さで、そこに神を降臨させた人々の思いに共感する。

伝承がここにある。「仁徳天皇(四世紀ごろ)のころに、乎知命・オチノミコト(小千命)が「迫戸浦セトウラ遠土宮オトノミヤ」に大山祇神を移祭したとあり(大三島記文)、(大三島神社大祝家記)によれば、景行、仲哀、欽明、孝徳。斉明、天智ら天皇が道後温泉への途上に参拝した。
のち聖徳太子の勅命によってここに大営造が行われ、新たに“迫戸浦ヨコ殿宮”と呼ばれた。こののちの大宝年間(701-704)ごろ越智(小千)玉純が神託によって、ここから、現在地の榊山に遷宮したと伝えられる。日本の神々2」
楠の林立が法隆寺の回廊の柱のだ。太子も道後温泉へ入浴されている伝承を思い出す。
大山祇神はここのなぎさの井戸へ降臨した、と激しく妄想する。林立する楠の羅列が法隆寺回廊のエンタシスの柱を連想させる。
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古代の天皇や太子たちが、この島を経由して道後温泉へ向かっている。温泉は大地のパワーを噴出する場所とされ、有馬温泉にも古代の天皇が訪れており、貴族たちの温泉入浴には朝廷の許可がいるほど、大地のパワーの独占がおこなわれたという。
道後温泉への天皇たちの旅が安全に行われるために、朝廷は各地の豪族を平定し、国造として任命し、そのそばに朝廷直属の国造も置いたといわれる。

「伊予国には五つの国造に支配地を分割し、そのうちの地元豪族系統は、小市国造、風早国造があり、朝廷系統から伊予国造、久味国造、怒麻国造が置かれた。怒麻国造は安芸国の阿岐国造と同祖で東北の陸奥国の国造たちとも同祖になる。一方小市国造、風早国造は物部連の祖、イカガシコオからの系統とされている。道後温泉のある松山平野の中央の温泉郷を支配地としていた風早国造は、そこを追われ今治市菊間あたりを領地とされた。阿岐国造は佐伯氏で、この一族は安芸国のほか豊後国の安岐(国東)、佐伯(佐伯市)にも見える。 鳥越憲三郎」この朝廷派遣のそれも東北の蝦夷から任命した国造たちが、天皇や太子の道後入浴の快適な環境をつくったのだろう。蝦夷からここに派遣された佐伯氏はまさに遮る・サエギル人なのだ。古代朝廷のウルトラマンたちのエネルギー補給基地が道後温泉ってことだ。

大山祇神社境内中央に樹齢2600年とされ、乎知命のお手植えの楠がある。
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この乎知命が小市国造だという。鼻栗瀬戸のヨコ宮からいまの榊山の遷宮されたのは8世紀初頭といわれる(日本の神々2)。
古代の国造家が現在まで続くのは古代出雲族の出雲大社と和歌山の古代紀氏の日前国懸神社ほかはない。古代からの継続を血族をもっておこなうということが、奇異なことだと思う。がこの国では、特別ではあるが変じゃないのだ。疑いもない検証する必要のない事実とされることが、今おもしろい。大山祇神社の境内の北側に社家とおもえる注連縄をかけた門の屋敷がある。表札には三島とあった。

大山祇神社の神主家は古代の物部氏からの継続とはならなかった。河野氏は戦国末期秀吉の四国征伐で竹原の小早川隆景と戦い、降伏ののち竹原で病死し、ここで河野家は断絶している。小早川隆景はのち博多を領地としたが、病死。家来一党は博多を離れ竹原に帰郷。のち一部は毛利家に召し抱えられ、山口へ。秀吉が朝鮮進出に九州へ向かったとき、河野氏の残党が三原で襲ったという。
村上氏も秀吉の海賊征伐令により毛利家に。芸予の海賊たちは、毛利家に吸い込まれている。幕末を演出するエネルギーがここらにあったのだろういか。伊藤博文は物部氏であった、のだろうか。歴史舞台への再登場のエネルギーは道後温泉?高杉晋作も道後に長逗留してたっけ。

古代物部氏はナガスネヒコとの連合で、神武天皇の大和侵入を一度は阻止、のち神武側に寝返る。はるかのちに、聖徳太子と曽我氏の連合に大阪・河内で戦い滅亡。一部が大和・天理市の石上布留神社の神官となっている。朝廷側の物部として「内物部」と呼ばれた。滅亡したとされる逃亡した物部は天武天皇・大海皇子の戦いに参加して、再度、歴史舞台の表に浮上している。
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# by forumhiroshima | 2015-08-04 09:12

潜む神

能美島・大原の国土地理院の25000分1地図に、観音さんと薬師さんの位置に鳥居マークが置かれている。間違いに違いないのだが、間違いとは言えない何か?を思ってしまう。
というのは、大原は古代にここの開発者であったろう山野井家の守護神の大山祇の神が見当たらない。山野井家の分家の開発とおもわれる中町や宗崎には、大山祇が鎮座して、山野井は、伊予・河野氏と同系統といわれ、その河野家が古代に越智氏と名乗り、もっと古くは“小千・オチ”として大三島の大山祇神社を崇拝し、その神官であったこととに、空白を感じている。地理院の神社マークの間違いと、ここにいない大山祇の神とを、比べてウナッてしまう。
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郵便局は旧道、昔のメイン道路に残っている。旧道のバイパスとされたメイン道路には、広島銀行支店の姿、が広島県の西部でみかける景色。その支店もポツポツと消えて行っているこの頃だが、大原では顕在で町の中心の四つ角を占めている。その正面に豪壮な邸宅が毅然と建っている。文部大臣を歴任した灘尾弘吉氏の生家だと町の歴史資料館で教えてもらった。造り酒屋であったという。
江戸末期に山野井家は海を埋めたてて新田開発に着手し、そこでの塩田事業も始めた。また酒造も行っていた。が、これらの事業が不振で、酒造の権利も失った(大柿町史)。
灘尾家がその権利の継承者かどうかの資料は見つからなかったが、家の裏の元作業場とおもえる空地から、山際に一本の道が通っていて、その行き止まりに小さな社があり、標柱に八幡社とある。この道は確かに参道である。酒造家・灘尾家とこの小さな神とのかかわりが、ナイってことはない。どころか、酒と神は一体なのだ。古道は参道を横切り、灘尾家作業場跡前を横切っている。この配置は神社境内というより、神の庭を感じる。
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灘尾家そばを流れる八幡川の名称は、川上の亀山(神山?)に新宮八幡宮の存在によるのでありお、川下の八幡社は新宮八幡宮祭礼のお旅所なのだろう。神が川筋を往復される。この神は亀山の東の峠を越えて下った海岸の柿浦のすぐ沖の鳶ケ島に、ある夜現れた赤き輝く光として現れ、大原の亀山に鎮座されたという伝承がある。国東半島の宇佐八幡からの勧請といわれ平安時代931年創建。
この伝承と、灘尾家そばの八幡社とが重ならない。祭礼の神輿は峠越えで柿浦へ出向くことになるのじゃないか?などと、大山祇の神が現れないことにいらだったり、している。
国土地理院の間違った鳥居マークからも、この灘尾家作業場跡広場からも、なにかがでてくる。
「神は隠されている。」

大山祇の神が鎮座する伊予・大三島の西端に、日がな、神を探した宗方の集落がある。
「大三島の人の定住を見るようになったのは弥生時代からである・・。その後この島の沿岸には海人の定住する者があったと見られる。島の西南隅にまつられる宗方神社の祭神は市杵島姫命で、筑前宗像神社の系統に属する社である。厳島神社からの分請ならば、厳島神社と称したであろうが、宗方神社と称したことは九州から直接ここへの分祀があったと見て差し支えあるまい。さてこの神は海人によって祀られたものではあるが、せれが主として航海に携わる海人であった。古代に外征がしきりに行われて多くの水師(スイシ・海軍)を度々動かした七世紀の中頃から、漁撈・塩焼を主とするものと航海を主とするものとは次第にわかれていったとみられる。そして航海を主とする人々によって宗方神社は祀られたと見られるが、その人々は神社付近に住居する人たちであったであろう。宮本常一・瀬戸内海の研究」

宗方へは大三島橋の取り付きから外れて、大三島の脊梁の山並みの東の広い車のこない車道を西へはしると、全面に斎灘の海を見る。島影もなく、秋の午後には雲間から幾筋にもなった陽光が海面に散らばる。
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ただただ走ると道は登りになり、峠を越すと休校学舎の憩いの家にでて、すぐに集落に入る。埋め立てられて、放置されたような海岸から集落に入ると鎮守の森が見つかる。広い駐車場のような広場に鳥居たたち、小山にあがる石段が森の中にみつかる。鳥居の神額には八幡神社とある。
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参拝ご、また集落の路地へ入った。

集落の中を流れる小川の岸道を幹として、枝に分岐しながら、畑に消える道をいくつか上り下り。石垣でしっかりと組み上げられた漆喰の土塀に二階建ての大きな屋敷がいくつも軒を迫って建っている。
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でかい家がどうしてここに集まっているのだろうか。
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住人の仕事は・・・。普通の集落じゃない!
屋敷と呼べる古い、もう朽ちそうな家々に引き込まれて、うろうろ。
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神社もお寺もないと気付いたのは、屋敷めぐりに飽きてからだった。

覗いてみた食料品店も留守みたいで、海岸の車道まで下りてやっとお婆さんにであった。宮島さんの神社はありますか?いや宗方神社でしょうか、ありますか?あの八幡さんの他に神社ありますか?  ありませんよ。

オイ!常一、どうなってんだ!

八幡神社の石段を再度登って、境内に戻った。
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境内の小さな祠を見落としたのだろうか、と。
すると、本殿を囲む石垣の一部に小さな石段を見つけた。うっそうとして暗い。落ち葉と繁みの中に、ボーと祠が建っている。
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ドキドキした。これが宗方神社だったら、常一さん、ごめんなさい、です。祠の神様の名のある表示をさがしてみた。あった!。が、護国神社奉加一覧、とあった。

八幡神社本殿の真後ろに鎮座していた祠の神は市杵島姫命だった、と、おもっています。照葉樹の暗い森の中のあの祠のお姿は、姫神にちがいない、と。
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島々のどこの墓地にも頭のとんがった墓標が林立している。この鉛筆頭はすべて戦死者の墓標だ。とても多いし、ひとかたまりに集めてある。めだつ。海軍兵士として、船になれたこの海の若者を徴兵したであろうことは、すぐに想像できる。古代からの水師の島なのだから。戦死した彼等の魂と姫神と。海神・ワダツミ。
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# by forumhiroshima | 2015-07-23 11:52

神さん木

大原の町の尾根筋と谷筋を行ったり来たり。路地は家と家をつないで、次の空間に空地と畑と森が現れるがまた家。黒瓦の立派な屋敷が現れたりする。

「山野井氏の祖先は初代3代能美城に居住し、4代になって山下に居をかまえたという。能美城、麓城、土居、堀、馬場、船蔵など今日に伝わる地名が、堀を廻らせた土居は平時の本拠で、主家と多くの家来下人を住まわせ、牛馬を養うにたる様々の建築が集まり、家来の武術・馬術の練兵場の馬場を控え、当時の入江に面して軍船を収容し修理もできる船蔵も聳えていたであろう。 大柿町史 S29刊行」
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山野井本家邸宅が存在しているらしいが、発見できていない。

尾根から谷への路地の空地が、山野井氏居住時代がそうであったかのごとく、妄想で、ありもしない屋敷で埋まってくる。
「伊予  あのあたりを旅行した人はよく知るごとく、阿波、土佐にかけて土居という地名が無数にある。『小松邑誌(愛媛県小松町史)』は伊予各郡の土居53か所を列記している。何れも河野家の家人であるらしい。 柳田国男」
愛媛県で走っていて、よく土居の地名にであいました。土井でないのが、残念でしたネ。
土居は河野氏には親しみのあった地名であったらしい。大柿にもこの地名があることで、山野井氏と河野氏とのかかわりを妄想する。
1365年伊予の河野本家当主・河野通朝は、讃岐の細川氏に攻められ敗死。その子河野通堯は一族を引き連れ山野井家を頼り、能美島に逃れ、かくまわれた。この敗走支援は山野井家と河野家同族のことによると歴史家は語っている。
この河野氏敗走集団500騎に正岡子規の祖先が加わっていた。(HP山野井家-探索・探訪)

“天つ空 青海原も一つにて つらなる星か いさりする火か ” 正岡子規。
子規に海賊のDNAが入っていた?。“坂の上の雲”秋山真之を思います。“天気晴朗なれど波高し”。我アパートの広島湾に面する楠那町に東郷平八郎揮毫の鎮魂碑がありますよ。このあたり、どこも、坂の上の雲の海です。
ただ、この子規の祖先能美到来伝承はHPほか見付けられなかった。この歌も鎌倉の海を詠んだとされる。興味深い話なんだけど。
.
麓は、能美・中町の麓でみた小さな小山の森と同じ地名だ。麓城址という小山の西側にうねった古道に沿って民家が点在している。このあたりが土居だろうか。そこに小山へ上がる狭い石段が登っていいた。上には古墓が列でならんでいた。墓標に山野井家とある。一族の墓所だ。
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石段を下り地図にある、谷筋の馬場へ。三叉路角に石柱と灯篭と登る石段。登ると、境内に雑草がまばらに繁る堂。馬場観音堂。豪族・能美氏の昔の時が、漂ってくる。
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観音堂といえば、朝にゆく広島・南区の黄金山観音堂には雑草はない。自分が参詣する時間は、いつも二人と一匹が、とても楽しそうに掃除されて花を供えている。二人のうちの一人おじいさんは、そっとお墓で民謡?うたっている。いや、うなっている。鐘つきお婆さんと子犬のリリーとは、すっかりお近づき。リリーもこの頃やっとシッポ降ってくれる。黄金山観音堂には生気がある。黄金山観音堂墓地の朝は明るい。
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リリーを思い出したおかげか、大原を走っていて、気持ちの中にもやっていた、“ここ、どこかに似ている?”の場所を思い出した。府中町の小さな森の小山の室町時代の出張城址の東にこじんまり、西と北側に尾根が遮り、談斜面に古道が連なって、そこは出張城を築いた白井氏の配下の居住地だといわれ、一角に崩れかかった的光庵・尾首観音堂があり、そばに首洗いのいかにも中世、の伝承の小さな池も金網フェンスの中にある。斜面に平地を作るに等高線ぞいに拓くことで、路地が曲線に連なる。そんな地割の景色が、大原と府中を結びつける。
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路地を廻って自分の位置確認ができなくなると浮かんでくる“浮遊感覚”が中世にワープさせる。きっと、この景色は長い時間とどまってきているのだ、と。アスファルト、コンクリートと厚化粧させられても、路は自転車のフロントから人々のこれまでの来し方を送ってくる。読み切れるか、どうか。
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ほぼ直線ラインのここお馬さん走ったよね、の馬場の車道を尾根に向けて走ると、能美城址の森が右手斜面にある地点に能美城址とカンバンがあった。
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大柿町歴史資料館でここ大原の遺跡・史跡の地図を尋ねたが、見当たらない。係員と思われる老人に尋ねた山野井家本家の位置もわからなかった。能美城址のカンバンも観光協会のものだ。
薬師堂を探して尾根を見ながら登ってみた。コンクリートの壁に「夜郎自大」と大書されている。これ学生時代の反安保反米帝のタテカンそっくり。どうもここ能美が、合併で江田島となったことが、御不満な様子。いわく、海兵を美化し、公報パンフ・チラシを使い洗脳的方法で市名を江田島とし、能美島の歴史文化を抹殺している。と。オレと同世代のおじいさんなのだろうな、言い回しのステレオタイプが懐かしい。でも、確かに山野井氏の歴史は抹殺されている、と。入れ込んでいる大原、バンザイの気分で、賛同しています。(が、江田島市市役所本庁在所は能美島三高でしたよね)
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コンクリートカベカンのそばに、やっと水田を見つけた。
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大原の町からずっと登った。古代、最初の水田は、水の流れが小さく絶え間ないところの湿地に溝を掘り、側に板を打ち込んで、水抜きをして造られた。農耕の人々のフロンティアは海岸線から奥まった高地に取り付いた。そんな場所をここでは河内と呼んだようだ。古代豪族物部氏が大阪・生駒山山麓で取り付いた場所も河内と呼ばれる。ここの鎮守に御智・オチ神社が生駒の最高峰・高安山の西に鎮座する。この神社は古墳に築かれ、祭神はモノノベ・ニギハヤヒと言われる。伊予・河野氏の祖先、小千・オチ氏に物部氏の系統があるといわれ、その河野氏の流れが能美・山野井氏だとも。目の前の田んぼが、古代人たちの建造かな?と、えらく輝いてみえる。もうこうなると、古代幻想障害シンドローム。病気認めます。戦後すぐの大原の土地利用図です。埋め立てられた干拓地の水田がひろがってました。
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河内とよばれた土地の山際にあった宝持寺が土石流で流され、そこからすこし上流尾根に再建された場所そばにため池が広い空を湖面にうつしている。
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この尾根をトレースする小道に先に独立樹が阿弥陀堂そばに起立している空が近い墓所がある。この木はクロガネモチと表示されて、阿弥陀堂は中世・室町時代に山野井家により建立と、手書きでお堂壁に貼ってある。
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クロガネモチの巨木は、中町の西尾根の上がった処・森木にもあった。
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木の下の壊れそうな祠に壁に「神さん木」とされた張り紙があった。
「このクロガネモチの木は、春にになるといっぱい花をさかせるんで、その蜜を吸いに蜜蜂がマア来るは来るは、群がってちょうど飛行機が通るときのような音がするんよ。昔から夏になるとノ、この森木は、水にこまりよった。毎日下への水汲みがアマナ業(ちょっとやそっとの苦労)きゃあなかったんよ。ほいで、この木の下に井戸を掘ってみたんじゃ。そうしたら、なんときれいな水がでたんよ。この木に神さんが宿っとってんじゃと、祠を建てて、水神さんを祀ったんじゃ。」

森木のクロガネモチのそばにも墓所があった。入り口に六地蔵が置かれている。地獄の通行料は六文で、この地蔵に一文づつ供え、天国へいかせてもらう。そんな言い伝えと、見上げるクロガネモチの「カネ」がオーバーラップした。

太原・阿弥陀堂からつづらに道が下り、峯とよばれる場所の明慶寺の山門にでた。17世紀末建立と由来がかかげてあった。16世紀初旬の山野井家の建立との説(大柿町史)もある。寺の前の道を挟んで小さな広場「青山こども村」のカンバンをみつけた。気持ちが「青山」の名に動いた。
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「私は”青“が古い時代には墓所・墓地を示す言葉だったことを立証するために、地名の分析をはじめて、この十年ばかり以上全国の”青“地名を取材し、確信した。 青の民俗学・筒井功」
青はどこかに、心動かす響きがあると、おもいませんか。

種田山頭火「分け入っても 分け入っても 青い山」自分の周囲全てを山頭火は死地と感じていたのかもしれない。いや、死地を探していたのかもしれない。それは「青い山」と呼ぶ場所だったのだろうか。筒井はその本の中で、686年飛鳥で天武天皇崩御に際して、“人々、ミネ奉る”と葬儀の始まりを紹介している。「ミネ」は大声を発して泣くことという。

古代象形文字として漢字を解析した白川静が「ミネ」は神が寄り付く木であるといい、山を横や上につけるのはその木の場所を示すともいう。能美ではクロガネモチが「神さん木」にされたのだろうか。
寺の山門越しに見上げる峯の名は、陀峯山。この国は神仏習合です。
 「雲の峯 幾つ崩れて 月の山」 松尾芭蕉 霊地月山登攀ののちの歌

ブーンを蜂の羽音がした。蜂はミネの虫??
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# by forumhiroshima | 2015-07-13 10:18

FM 日々是よき日・降っても晴れても

年よりには苦にならない早朝の5時、FMから歌謡曲が流れてくる。JFMの番組“日々是よき日”を聞きながら黄金山北面の観音寺へ走ることが1年を超えた。年齢相応のラジオの番組との相性がよかった。ひざを痛めたりもするが、その時間が結構気に入っている。番組のサブタイトルは“降っても晴れても”。でも降ったら走らない。

山の東を回って、日宇那の集落にでて、楠那小学校の通学路になっている道にでる。この道に春にはランドセルが歩いていて、新学期の季節を目撃できる。その通学路に小さな男の子がピュコピョコ、ウロウロ、グルグル。7時前、まだ校門は閉じている時間だ。よく出会うので、話はしたことないが、眼があってもそらさない。互いになじんでいる。彼はとても学校が楽しいのだろう。踊りながら、彼は楽園に通学している。彼も朝のこの時間がとても気に入っている、と共感する。彼は“降っても晴れても”踊っている。
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観音寺詣に加えて、“よき日”が突然やってきた。“よき日”が能美島通いを数回にさせた。大柿町大原の路地巡りに取り付かれたようだ。フェリーに乗船すると、ピョコピョコ気分は飛び跳ねている。自転車が島に上陸する。
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自転車のホイールは、今の路面をグリップしている。その進行方向には、昔の時間の空間・景色がまっている。大原の昔が待っている、と妄想の中にドロップできる。
その事の起こりは、島の古道を地図に探して、大原から大君への峠越えの途中に、河内という地名を見つけてからだ。島の川に中洲があったのか?でかい川があるのか、と、強く惹かれて、走った。
川は小さかった。でもそこは路地が交錯していた。自転車は昔、道を通った人たちの気分をダイレクトに伝えてくる。たとえば、登りはつらい!を共有できる。田畑はひろく、道は畦でいい、を理解できる。食べる為の生き方がある。田畑を潰して、道にはできなかった。

河内に9世紀からの歴史が残る寺が1999年6月29日にあった豪雨による土石流で壊滅した。古代からの寺の場所が災害に会うことは少ない。古代人は立地には繊細だとおもう。なのに!。のち寺は2012年に場所を移して移築され、落慶法要が営まれたと、HP“江田島ッテ・・・どんなとこ”にあった。
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イツモですが、地名の話です。「人が拓きに入った以前には、地名はなく、地名は土着ののちの仕事」と柳田国男が語っている。地名を考えるって、人々の営みを探すファンタジーな時間なのです。自転車上で感じた感覚を加えれば、妄想を駆り立てる無敵なエネルギーが生まれます。オレだけ、かな?

「河内という地名は、下流の方から命名したものらしい。谷水がしばしば淀んで幾分の平地を作る場処があれば、いつかは登って来て、下流からあふれた人だけが住む。 柳田国男」
河内は災害発生危険地帯な為に、耕地開発の技術の革新をまって、田畑に拓かれた。
能見・高田の高下の大山祇神社再興の責任者は「梅河内 隆義」と標識に刻まれていた。梅は大阪・梅田の梅で「埋る」のウメ、河内は今の話題。梅河内氏は能美島の古族の山野井家の流れの能美氏であったのなら、鹿川で帰農した山野井家の一派は、そこで土名を取り、曽根田と名乗るが、曽根は川床の荒れ地、という名をつけている。河内開発を思わせる。
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「地理測量のまだおぼつかない時代、原野を拓こうとする人にとって、「原・ハラ」と呼ぶ場所は、木の茂みが広がっていなくても、湿地で、歩くことにも障害であった。人は近世になるまで、降りてこれに就くことを好まず、依然として水の音を慕とうて川上にさかのぼった。柳田国男」

大原の東は陀峯山を頂点とする南北への尾根があり、尾根の西向きの緩やかな斜面の底に八幡川が北進して、新宮八幡神社のある亀山で遮られた、直角に西向きに流れをかえる。川が方向を変えると、そこに水の淀みがうまれる。水流が停滞する。含んでいた砂が吐き出され沈殿し、河内が形成される。水の流れを変える場所に八幡神が鎮座する。

古代人たちはこの河内につくられる湿地に取り付いた営みから出発したようでで、発掘されたのではないが、古墳の存在が二ついわれている。押谷古墳と呼ばれる古墳は流された宝持寺ではないのか。埋蔵された宝の存在が匂う。出雲の加茂町のオオキニヌシの御宝を埋めたと伝承のあった神原神社遺跡で発掘された鏡を連想する。また「押」の地名は土砂や水が“押す”記憶の災害地名ともいわれる。河内での水害の記憶か。
もう一つは薬師古墳で、所在はわからない。が、再建の宝持寺から西へ流れる枝尾根の先に薬師堂がある。宝持寺住職がここに経塚をつくったことから、薬師が祀られた伝承が境内にある。ここに薬師古墳があったのだろうか。境内から大原を見渡せる高台の地形はここの領主の領地を俯瞰できる場所で、古墳の存在がにおってくる。
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尾根の水流をたよりに土地を拓き、のちに古墳をつくった人々から、ここ大原は途切れることなく今に続いている、のでは。そんな予感がはじめて河内に走った時、身体のなかにうまれてきた。

古墳の王たちの後裔たちが、ここに能美氏として中世に名をのこしている、としたら、と能美城址をさがした。
国土地理院の1/25000ではこの集落は走れない。地元にそんな地図はみあたらない。そこでグーウルMAPをプリントして使った。軽四トラックでの離合は舗装面だけではむつかしい道が尾根に向けて数本登り、そこから根っこのように路地が枝分かれする。道は谷にあり枝根が尾根にのぼりくだり。グーグルMAPでグルグル。大原グルグル迷宮。迷宮、OK!
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1364年ここに500騎の軍団が現れた。(山野井家・探索、探訪HP)約7000名ほどともいう。伊予・河野氏の河野通堯が細川軍との戦いに破れ、芸州能美に走るという記事があって、安芸能美の山野井家にかくまわれた。また、芸藩通史に山野井家、伊予国河野秀清が子なり、などの記録から、大原の能美城城主の山野井家は伊予・河野家との因縁の関係だったといわれる。
伊予・河野家は古代の小千・オチ国造で物部連大新川命の孫・小千命からの家で、越智郡にいた。伊予の風早には物部連伊香色雄命の4世孫・阿佐利命も記録される伊予・物部氏一族。古代の豪族につながる。

尾根上の道と谷路とそれをつなぐ路地とが交錯している。家々は大きな木々に埋もれて、黒い甍が点々と浮かんでいる。
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その迷宮からやっと、能美城址カンバンを見つけた。こんもりと繁った小山で、登るとベンチがおいてある公園で、木々に覆われて展望も遮られている。城址とは・・。
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城址そばから尾根へ登る道がある。そこに取り付いてみた。道沿いの家々の佇まいがいいのだ。路地は迷宮の様子だが、いつかどこかに出て、そこで出会った景色の記憶が重なってゆく。集落になじんでゆく。さっき見た景色が新しい。なにかが新しく発見される。感覚が小さな発見に集中してくる。そして、これまで見てきた漁村や山村と違うということ、がどこかで見た景色・デジャブにとらわれた。
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道に対して、斜めにむくれているように立っている大日堂。そこに鎮座する二体の鎌倉時代製作と由来があるが、風雨が吹きこんでいる様子。阿弥陀堂を押しつぶそうかとの勢いのクロガネモチの古木。正面の参道の石段へ畑がとうせんぼする畑。こぶしほどの小石を積んだ石垣。みごとな職人技の隙間のない石垣。どっかで、見た。

市天然記念物指定にしてしまうと、となりからも、あそこからも、我も我もと名乗りがあがりそうな、巨木たち。
どっかで、見た。どっかで・・・。
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# by forumhiroshima | 2015-06-30 09:36

神々の雑踏

能美島・高田の港から見上げる尾根の高下の大山祇神社から、南へ尾根を下る。
大山祇神社の草取りをされていた婦人が、「とても簡単にはできない話がこの神社の鎮座の訳にはあるのだ」と力がこもって語っていたことが、心残りだった。聞きたかったナ!

海からこの列島に到来し、上陸して「山中に住居を求め、山に馴れて一代、二代となりと、その存在は忘れられて、もとから山に住んでいたように、里人には考えられてくる。同時に神と神に仕える人とを同じにしてしまう。神が山の神で、われわれ里人の使える神とは違う神、一種のストレンジャー・異邦人の神と山人の神のことを考える。 折口信夫」
山の名がつく大山祇神が島に鎮座し、渡の神と呼ばれる訳について、このように書いている。続けて、山神につかえる人が里に下りて、門口で祝いを述べる“ほかいびと”になったといい、この国の芸能の始めを説く。あの婦人の語り口の一生懸命さが、歴史好きのおじいさんの思いからだけで、大山祇の神が再興鎮座したのではない、のだろうと。
“あしびきの 山に行きけむ山人の心も知らず。山人や。たれ”  「田中陽希!??」

大山祇の神が薩摩半島の南端・笠沙の岬の現れ、高千穂の峰に降臨し、そこから岬に渡来したアマテラスの孫のニニギを迎える。そのときそばにいた娘のコノハナサクヤヒメが彼に嫁ぎ、その子孫・神武天皇が天皇家を起こす。大山祇一族はこの国で、天皇家を“ことほぐ”最初の神になる。この物語が宮中の伝誦となる。(折口信夫・山部と山人)

高いところから下ったと思わせる高下の地名から、あのご婦人のお父さんのDNAに、古代山人の影を見たようにおもえてならなかった。振り返って見た尾根の頂あたりに、山の社が、あの高みに高下の人々の先祖は暮らしていたのだろうか、などと・・。

その高下の山の神が大山祇の神であることは、その神を大三島に祀ったという伊予の古代からの豪族の河野氏に関係ある、と考えるのが自然だろう。高下の住人は河野関係者である、はずである。

毛利氏と大内氏一族の陶晴賢との厳島の決戦が毛利勝利におわったあとすぐの1556年にこの島は敗残兵の掃討作戦がおこなわれたという。合戦場所はすぐ東の飛渡瀬であった、らしい。掃討の対象となったのが大内氏に島支配を安堵されていた、能美氏とよばれた、山野井氏の一派だという。山野井氏は河野氏の一族といわれる。
毛利は能美氏討伐ののち、その子息を家の世継ぎとし、支配下においた。能美島は小早川隆景の領地となり、厳島合戦に助勢した来島村上氏に支配を任せた。(大柿町史)

高下から尾根を降りた場所にこんもりと木々が盛り上がった小さなポツンと小山がみえた。そのあたりは、麓と地図にある。「士族の居住する区域を必ず“麓”と呼ぶのは鹿児島県の各村である。 柳田国男・地名の研究」ここは広島の能美島の中町だが、小さな小山の繁みは、麓城址であると、HPの江田島市の城址・古墳に記載があった。
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大柿町史(S29)に、1518年大内氏と武田氏との合戦に大内側で奮戦したのが能美仲次と書かれている。仲次さんは、あの麓城にいたのだろうかな。高田と中町には城址が6か所とHPにあった。海賊たちの記憶の森。そこを後にした。

能美島で気に入っている場所の一つに大附がある。
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大原の西海岸の西端の行き止まりの小さな集落で、海岸は静か。県指定の自然海浜保全地区で、“いつまでも海水浴などができるように・・・自然保護する”と表示してあるが、駐車場ももちろんシャワーもなくて、自然保護は行き届いている。自分は「いまは もう秋 海岸」と命名している。ミヤザワ ケンジの真ねですネ。ここ、四季通して“誰もいない海”なんです。
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海岸から宮島の東海岸が正面にリン!と、そびえる。宮島口から見る宮島が、宮島(アタリマエダロ)だ。大附からみリンとした、裏面が“厳島”ではないか、な。
宮島は北に530mの弥山、南の岩船山467mの背骨で構成され、弥山は大聖院の奥宮が鎮座する仏教の香が強い。岩船山に伝承もないようだけど、”イワフネ”は、古代豪族で天皇家より前にこの列島に到来したという物部氏の神ニギハヤヒは降臨した山で、大阪・生駒山にはニギハヤヒ降臨伝説の山が三座あり、そこに天磐船にのって降臨した。伊予・河野氏の彼等の伝承の祖先の小千・オチ氏は、古代伊予の国造で物部国造という。

大阪・生駒山の峠で先住民のナガスネヒコと、すでに到来していた物部のニギハヤヒは、あとから到来してきた神武天皇を撃退。神武は紀伊半島を迂回して、東から上陸し、熊野の山中をヤタガラスの先導で大和へ侵入する。そこでニギハヤヒはナガスネヒコから離反し、神武側にたつ。神武は大和の南、葛城の東の畝傍山で政権を樹立する。この神武の東征で用船した海人たちは、誰であったのか。とても興味ある。
この島の海人たちは、飛鳥、藤原京朝廷への納税の荷を運搬していた。その為の造船も行っていた。遣唐使船も請け負っている。このルートは紀ノ川をさかのぼっている。熊野水軍は新宮と紀ノ川河口の海人たちで、彼等もこの海運に従事していた。海人たちのカラスが瀬戸内海を飛び回る。

宮島のカラスの神事・御烏喰式・オトグイシキの記事をHPなどで見ると、いつも岩船山の裾の東の海岸・養父崎神社の前あたりの海で行われているようだ。丁度大附の海岸の西に正面に当たる場所。人目につく、宮島の西海岸でなく、誰もいない、東海岸で神事が行われている。なにか、きっと、なにか、ある。厳島神社の神がこの島に鎮座する場所をさがしたことの神事だと神社発行の「伊都岐島」に記載されている。なのに、今の鎮座場所でなく、裏側になる養父浦なのだろうか。まあ、大人の事情があるのだろう、ナ。

大附は海運の集落であったようで、海運業の古びたカンバンを二つみつけた。胡の表札がかかっていた。
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小さな家の集まりの間に、いや、家々は小さな祠の間にあるようだ。どこからここに運ばれて来た神々なのだろうか。
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埋めたてに残された潮だまりに石橋がかかっている。もうわすれられた埋め立ての工法だ。残された景色が美しい。
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この島に大附という場所が二つある。どちらかが、本家なんだろうが・・。
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大附の地名がある三高へも走ってみた。その海岸に貴船神社が鎮座する。貴船の神は京都・賀茂川上流の貴船の神。都の水源の神。この神に摂津の尼崎で出会った。大きな境内の神社と古い住宅地の片隅にある神社と近くの二社あって、記憶にのこった。伝承で瀬戸内海を西からやってきて、この尼崎から神崎川から淀川を上って、京都に鎮座したとある。川の名の神は貴船の神だともいう。豊前から国東に、この神社は密集している。
三高の貴船の神は都から下ってきたのか。
能美島の海人たちも、このルートで京との海運を行っていたにちがいない。なにせ、平清盛配下にもなった人たちなのだから。京・山城の淀川上流の賀茂の神もカラスをとばしている。

といっても、この貴船神社の由来がカラスより、すごかった。「この神社は竜宮、龍神社と称されていた。ジュンゴの宮ともいわれた。」と境内の由来書にある。

「宮古島にはジュンゴをヨナタマといい、宮古あたりでヨナは海、タマは玉の意味。海を差配する神だという。ある夜、ある小さな島の漁師が捕えたジュンゴを食べようとしたら、どこからか、声がして、ヨナタマ!ヨナタマ!どうしたのか、今食べられようとしている、そうか!いまサイ(津波)をやって助けるぞ、と声がした。この声を聴いた隣の住人はすぐに飛び出して、島を離れた。そのあとすぐに、津波がやってきて、その島は何も跡形なくなっていた。 谷川健一・小田人のコスモロジー」

貴船の神は南の島から渡来したのだろうか。だれが、運んできた、この伝承を。ジュンゴとカラスは、仲がいいのか!そこが知りたい。など、おかしくなってきた。神々がわんさか、現れる。

三高の南の谷奥の大附の集落は数軒で道路から離れて尾根中腹に静かにあった。
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道からの入り口に、菊栽培発祥地の石碑がある。
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温室が作業をつづけていた。静か、だった。
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# by forumhiroshima | 2015-06-28 22:46

山上の神 山を降りた神

「江田島・能美島は小さな島であるが、海から離れた集落が幾つかある。宗崎も山麓に発達した村で、農業を主にして暮らしをたてている。そうした村が発展していくためには、山林をひらき、海岸を埋め立てたものである。 宮本常一 私の日本地図4 瀬戸内海1」

宇品港から三高へのフェリーが、小雨で海面に出来た小さなあばたの中を進んでいる。景色は薄い靄と鈍色の海とが境をなくして、音が吸い込まれとても静かだ。少し寒い湿気の中のデッキの風は、ゆっくりと深呼吸させてくれる。

「三高」の地名は能美島のフリーの港が三吉と高祖からつくられている。その高祖は北九州にあった古代・伊都国の糸島半島の付け根にある、スサノオ伝説の背振山の一つのピークの高祖山を連想させる。糸島半島は、西の宮島の神のふるさと宗像にちかい。

宗崎は三高の港から東へ回った最初の集落で、今は埋め立てられただ小方の南の端に宇品との高速艇高田港乗り場が出来ている。宗崎+小方で、宗方で宗像と、北九州の高祖・・・。アホな妄想がぐるぐる頭の中を回転する。

地図で尾根の上の集落までの直登の車道をさけ、そばの古道らしいルートを見つけてきたのだけど、直登と変わらなかった。
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数軒の民家が集まった尾根上の宗崎の集落すぐ下に田植の済んだばかりの田んぼがあった。ここで稲作が続いている!。
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「秋」に金偏をつけると鍬、秋に稔るイネ。鍬は畦もつくり、田起こしもする。稔りをつくる金属の道具が鍬。その稔りを創造する神が、春、鎮座する山から田へ降臨し、山の神から田の神に替る。秋の実りのあと、田の神は、カカシの案内で山へ。カカシは案山子と漢字される。山の神の鎮座が、集落の背景の尾根の上にある。
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宗崎の集落の集会所のある小さな広場から車道がストレートにコンクリートの舗装で山へ登る。小雨でウエットなコンクリートの路面では、帰りのブレーキングがすべてスリップ!、と正しい弱気を選択して、徒歩で登り出す。
いきなり横からイノシシの子供のウリ坊が、ウギューンと唸って現れ、横ぎって草むらへ飛び込んだ。お母さんが出てこないか?と、身構えたが、音なし。よかった、イノシシと出会うと、よく、あの奇妙な苦しそうな唸り声を聞く、と思うほど落ち着くまで、時間がかかった。
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コンクリートの道が海が背景の広場にでる。展望すこぶる良好。東南向きに鳥居と石段の参道、その奥に拝殿のある祠。「岩風呂神社」と神額がかかっている。拝殿の正面に由来が長い板に書かれている。由来の最後にこの板は境内にあった古松が枯れて伐採したものに記載したとある。オシャレである。ここに書き留めた人の存在がうかんでくる。この神社の祭祀に関わる家があるのだろう。が、由緒は墨がかすんで、読みにくい。写真とったけど、手ぶれしてしまって読めない。興奮していた。ただ祭神は大山祇の神とは読めた。由緒の隣にある拝殿、本殿再建の費用の奉加名簿にはここから見渡せる中町や高田すべてから集められている。北部東能美島総鎮守である。
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境内の鳥居から車道とは別方向に狭い石段が草むらへ入っていた。この参道の方向が海岸の高田・中町でむかっている。この参道はきっと海岸へストレートにのびているだろう。それが、カカシがご案内する山の神の往来ルートだ。ここの展望はすばらしい。ここでキャプすると、正面から朝日が昇る。キャンプとは不謹慎かな。清浄のためのおこもり、といっておこう。
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江田島・能美島には尾根中腹に農道がつけられている。海岸からこれに取り付くには、少々ウンザリの急坂だが、登った農道は水平ぎみな展望がよいところが多い。昭和60年代の整備だったが、きっと柑橘類栽培のための作業道として作られたのだろうが、いまはイノシシ・ロードだといわれる。

宗崎の小さな広場にある集会所へもどって、そこからの農道を南下。最初の四つにあるビニールハウスで作業されているお婆さんをみつけた。四つ角に神社で見つけた狭い石段が出てきている。これが、岩風呂神社参道でしょうか?そうだが、今はイノシシでるよ。海から登ってくるこの道が町からの参道になりますか。そうよ!。そこでもイノシシでるよ。今日の朝、ハウスがやられた!。どうも御立腹な様子で、退散です。おばあさんの本音は、イノシイに注意しんさい!と伝えてくれていたと思う。この島はとてもどこでも親切なのです。

ビニールハウスからの軽四一台幅の道がそばに沢を従えて下ってゆく。海岸の旧車道にでると、右に郵便局、左へは、高田港。ここの中心街であったのか、錆びついて閉まった商店が点在する。活気の熱は消えてしまっている。地図に地名が間所とある。「沼・所」のイメージで、湿地帯であった地名になる。昔、河口のこのあたりは干潟がひろがっていたのか。広い干潟に鳥たちが舞い降りる、そんな景色がもどってきているのだろうか。
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ルートを引き返す形にとって、集落の後背地の尾根傾斜へ川沿いに登る。分岐に地蔵堂が現れる。お地蔵様は境界をしめすことが多いようだ、墓地の六地蔵は冥界との境界だろう。川上に大きな寺院があるので、寺境か、寺への案内地蔵なのか。ただこのあたりは、空と地名にとある。ソラは焼畑地帯とおわれるが、豊かな水流の川をみると、どうも地名案内は当たってないようです。

高田の集落は黒瓦の甍が木々の間に点在して、とても豊かな地域に思える。
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その家々の間の広い車道から、川を離れて尾根にのぼりだした細くなった道幅を上がってゆく。切石のきっちりと組み上げられた石垣から、野積の石垣の石が細かくなって、道をかこみだして、畑の跡らしい空地の間をいくつか縫うと、隣の声が聞こえる程の狭い込み合った間隔の数軒の家々の集落に入った。地図に高下と記載され、その集落の裏に池があるようで、果樹栽培と田んぼのマークがつけられている。あたりに無住の廃屋もない。
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「水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に住居し得られた場所に上代の土着計画者が、まずこれに注目したのは自然である。いっぽう、天然の水溜りの沼地は地味も肥え、取り付く際には相当の誘惑であるが、わずかに水位が下がればすぐに乾いて、一旦の開発の耕地を荒らさねばならない。人は近代になるまで、山中から降ってこれに就くことを好まず、依然として、水の音を慕って川上にさかのぼった。 柳田国男」

道が分岐して、すぐにまた分岐して、今の自分の位置が混乱してきた。深呼吸して、あたりを見回す。
尾根に上って道が集まっている場所が、道幅からみて広くなっている古道がある。通路としては必要以上の幅、見方を変えれば、小さな広場、古代的には「庭・ニワ」とおもえる。古い景色に思える。そこに古木の茂みと神の存在があれば、ずっと昔に時間がクリップされ、フリーズされて、タイムトンネルが手招きする。
これまで、出会った、「庭・ニワ」にここが似ている。
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やはり、柿の木の茂みの向うに祠を見つけた。回り込んで、鳥居のある参道が現れた。拝殿はなく本殿の祠がある。そこから人影があらわれた。虫よけのネットのある帽子と長袖に手袋のご婦人。不審者と思われては、と、参拝させていただきます、声をかける。
ネットの帽子をとられると、上品な老女があらわれた。草取りをされている。手に草がにぎられている。神社好きなもんで、と非不審者です、のアリバイ作り。
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参道の石柱に大山祇神社とある。「とても長い長いわけが、あるので、説明しきれません。」
「この神社は父が昭和62年に建立した神社で、御神体は伊予・大三島の大山祇神社から勧請。ここ高下の古文書に、後背地の山に大山祇神社が以前あったとあり、それによっているのです」と、早口で話される。神社は新しいのですが、Googleの地図に載っているのですよ。自分もその地図で発見しました。国土地理院の地図に記載はないですね。この会話で、不審者の垣根がとれたようで、昨年の秋の大三島の大山祇神社参拝の話もされた。お父さんへの気持ちが、小雨の中の草取り作業のようだ。

実は、先ほど宗崎の岩風呂神社に参拝してきたのですが。大山祇の神様が祀られていましたけど、このあたりに、ほかにも大山祇神社があるのですか?
ここで空気が変わった。あそこの神様は大山積と書きます。ここは大山祇の神様です。オレ、いつもの、一言多かったラシイ。

“大山祇”は日本書紀の記載で、“大山積”は古事記の記載で同じオオヤマヅミの神だとはいわれるが、また別だとも。大三島神社は大山祇神社といわれ、その祭神は大山積とされている。
そのあたりが、高下の古文書にあるのかもしれない。興味ある。

座り込んでの話になりそうで、神様由来話は好きなのだけど、しょせん自己満足の世界だから、酒でも飲んで、あやふやな頭でヨタ話だと面白いけど、上品な女性とでは。また一言多くなりどうだし で、あいさつして、自転車に帰った。そして山を下りてこられた神様にお別れした。
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# by forumhiroshima | 2015-06-20 11:44

海霧

能美島へフェリーで宇品から三高へ。

島の集落は尾根にあったものが江戸時代の中期、長い戦乱が終わって、新田開発が盛んになり、海岸線へ降りてきたといわれる。それは今から300年ほど前のことになる。今の田舎の田んぼの景色の年齢は300歳。里山のある日本の原風景も新田開発にともなった、尾根と田んぼとの境界に作られた居住地の景色なのだろう。長いこの国の歴史のなかでは、まだ新しい景色に含まれるものかもしれない。

江戸時代の新田開発も古代の居住地開拓も必須な条件は自然の水流の利用だった。
「水田に変えられる沼地、湿地を意味する地形語が一度境を超えると変化している。東日本の谷を示す「ヤチ」は箱根を超えて使用されなくなる。九州で使われる、谷をしめす「ムダ」は東へ進むと、長門では「ウダ」土佐でも「ウダ」京都近くにも「宇多」という語は古くから多く、武蔵と甲斐の一部ではそれがヌタともノタともいう。おれを九州でニタという。開けば田になる湿地をいい、クテともいい鍬の字をあてる。島根では、シノトと呼び、特異である。 柳田国男」
「我々の祖先の農業は当初自然の水流を利用するために好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠る(立てこもる)所のある最少の盆地を求めた故に、上代の開拓は常に川上にむかって進む傾向をもっていた。それが人多く智巧が進み、のちに平和の保障が得られるようになって、始めて立ち戻って低湿広漠の地を経営することになったので、今日の農地の主要部分をもって目せられるものは、どこへいっても皆300年この方の新田であった。 柳田国男・地名の研究」
新田開発対象地の呼び方が各地で異なっていることが、新田開発好適地を人々が探し始めた時期が新しいことを示していると、柳田が語るところだ。「ウタ」は尾道、向島の歌、「ニタ」は島根の仁多がそうなのだろう。

一方で埋め立てできる海岸や、技術力で困難であった荒野伐採などの開発対象地帯をもたなかった地帯では、いまだに尾根の上部にある集落も残っている。焼山農業地帯だった地名だと云われる、ソラ、ソヤ、ソイ、ソリ、サス、キナを見つけると、尾根中腹に小さな民家の固まりが点在する広い空の下の景色が浮かんでくる。小さな水の流れを囲んで抱きしめるようにつづらに誘導し、ため池も配置して、その間に家々が隣接する。
小さな家々の固まりを、自動車道が何とか路地を拡張して、たどっている。

能美島の西海岸の尾根の中腹をトラバースしてバス道が伸びている。沖美バス通りと自分は呼んでいる。
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小石の野積みの石垣のみかんの畑が山側に続き、海へ邪魔者なしの展望。宮島の北海岸との間の奈佐美瀬戸に昼前なのに霧が流れている。
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気温30度を超すだろうが朝にお天気予報だったが、風が冷たくなってきた。少々寒い。

宮島の神様の使いは鹿になるのだろう。カラスではないようだ。青空色の海面に白い霧が海岸へ向かってきている。バス通りの下の海岸は入鹿の浜と呼ばれていた。鹿川という地名の鹿との連想で気になる。今サンビーチというレジャー施設に代わって、ソテツも植えられてすっかりビーチ気分。ここに入鹿神社が鎮座して、神社裏から湧水が出ている。ビーチが出来る前は砂浜と神社と流れ出る疎水の流れだけの、いかにも神聖な場所だった。海霧がビーチの景色を崇高なものに変えないか?と、帰りが辛い急坂をおりた。

季節外れの海水浴場は、ただそれだけ。誰もいない海、の情緒もながれていない。神社拝殿もベタと油っぽく雑然として、昨夏の喧騒の疲れが漂っている。霧も沖へ流れてしまった。
ふと、鳥居に“山野井 忠八”と彫り込んである。墨も入れてある。ここにも“山野井”ですか。
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由来が掲示してある。祭神はワダツミの神。福岡の海の中道の突端の志賀島、志賀海神社に鎮座する。広島、白島の碇神社にも祀られている。志賀が鹿なのか、志賀海神社には大量の鹿の角が納められている。“太占・フトマニ”骨を焼いての占い用なのか。
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古代の朝廷から任命された海人の統率者集団の安曇族は、7世紀朝鮮半島への出兵の将軍の族だ。出兵を命じた中大兄皇子は瀬戸内海で三か月の滞在中に海民の徴兵をしたという。この徴兵に伊予の越智一族も徴兵されている。
朝鮮半島で敗北したのち、安曇たちは陸上がりしたのでは、と云われる。琵琶湖畔の高島市安曇の開拓者、その西の大津の地名から県名になった滋賀も彼等に由来する。信州の安曇野の名も彼等の移住開拓による。

入鹿浜から、情けなくも、自転車押し上でバス通りへ。通りは、時々軽四トラック、そして郵便屋さんが日曜日のような時間の中を走ってゆく。遠くの海霧が沖で踊り出して宮島の裾をゆっくり隠しだした。

バス通りがサエギル・コス・トウゲの才越峠で二車線の車道に替って終わり、鹿川の交差点にでた。
旧道に入る横のJAの前の銅像がある。プレートに曽根田弥太郎翁とある。
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曽根田の名に記憶があった。HP“山野井家・探索、探訪”に、「祖先は山野井氏よりでて、小字・曽根田の地を受けて現在の地に居住すること15代農家なり。寛永15年(1640年)の地主名簿に記載あり。ある夜井戸に光るもの在り。御神体なり。上の山に神社作り祭る。天将軍社という。」を思い出した。鹿川の開拓者として記録にのこる最初の人々を祖先とする方からの投稿だった。  ボケてないぞ。!

広島藩の歴史書「芸藩通史」に「鹿川村に同族あり。その祖八太夫、朝鮮の役に従い、帰朝ののち別家す。その家、朝鮮飯器を蔵す。」とある。「山野井の系図は曽根田家にあるのでは?曾根田も蔵など解体し、いまでは分かりません。“山野井家・探索、探訪”より抜粋。

ソネは表土の下に岩、礫、砂のあるところ。旧河床なり。との説明もある。河床は地下水が地表に現れた場所のこと。日照りが続いても川は枯れないのは、地下水が流れるからだ。
井戸を掘れば水は入手できるが、山崩れの危険地帯でもある。それがソネという地名の意味。。

旧道から細い路地を抜け、勝善寺の山門の前から将軍社へぬける。神社横から軽四の幅の道路が現れ、空地に新しい墓所にでる。そばの民家の表札を探すけど、表示していない。神社横に自転車を置いて、曽根田の表札を探しながら、道を歩く。

小石を野面に積んだ石垣の角が新しい切石で補修され家が石垣の上におおいかぶさって、、道の反対側の石垣の野面の間に花が咲いている。
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そこに突き出す軒先の瓦屋根は傾いて、鍬などの農具がさびて投げ出されている。

とても懐かしい景色に思えた。納屋の奥に小さな川が流れている。道をもう少し登ると、空地の墨に墓所があった。墓所はその地域でもっとも風通しの良い、災害の少ない、できれば住居を見守ってくれる場所が選ばれた。出雲では墓所を朝にニワトリを離して、トキの声をあげた場所にしたとデンショウされる。朝日のあたる見通しのよい場所が墓所となった証に思える。

見渡せる鹿川の海上とその向うの才越峠の鞍部に海霧が流れ込んでいく。正午前の日差しに白い霧が青い海と空とに際立つ。寛永15年と記録される彼等のここからのスタートは、浅野藩が島嶼部の検地をはじめて、この島の支配者の地位から、浅野藩への納税者に転落した年だ。そうであっても、この曽根田はきっと満足できる、未来への勇気をもたらした土地だったのだろう。ここを本貫として、家名を曽根田としたのだから。
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# by forumhiroshima | 2015-06-13 21:13

能美島・鹿川 海側 デラシネたち

「豊かではないが、簡素な、魚がほしいときに、海にでて魚をとるという気安さの生活があった。船を家として、海を漂流しながらの小さな網での収穫は交換価値の低いものであった。だから交換できる野菜、穀物はささやかなものであった。水を村人に乞い、薪は岬の松の茂みでとってくる有様だから、苦しい生活の繰り返しである。しかしこの家船の民とよばれた人びとは、傍目にうつるほど苦におもわなかったのかもしれない。納税もしないし、社会的制約もうけない、一種の隔離された気安さがあり、その簡素な生活から、親村の人口をあふれさせ、外に向かう力となって、瀬戸内や九州の無人の浜辺や孤立した岬の岩陰に枝村をつくったとみられる。 羽原又吉・漂海民」

「瀬戸内海に面した広島県三原市の西、幸崎町能地は、一年の大部分を家族共々小船に乗って海上で暮らす漁業の集落で、人々はその一生を小網漁で暮らした。
小網は藻の上を曳くので、日和は少々悪くても漁ができる。朝船を岸に寄せて、家内が魚をハンボウ(木桶)に入れて、カベッテ(頭上運搬)村々に売ったり、米とカエコトしたりした。 河岡武春/海の民・漁村の歴史と民俗」
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頭上運搬は、昭和30年代までは見られたという。沖縄・糸満アンマーたちの魚のカミカキネーなど、南太平洋や中国南海岸伝い、東南アジアなどの風俗との共通性を見出す民族学者もおおい。
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柳田国男の弟子の瀬川清子「販女」がこのカッテベを取り上げ、貧しい漁民だからと思われていたが、民族的風俗ではないかと注目された。

広島・大河の小イワシ売りのおばさんたちは、リヤカーを使用して市内へでかけていた。吉右衛門の鬼平の密偵、おまさは箱背負って行商している。関係ない、か!イイノ。

「鹿川の南に漁業部落がある。三原市幸崎町能地の善行寺の過去帳を見ると、幕末のころ、海上漂泊生活をつづけている数人の能地漁民がここにおちついて、ささやかな村をつくったことが、知られる。それはほんとにささやかな部落であった。能地漁民が住みついたことによって、地元の零細な生活をしているものが次第に漁業をいとなむようになり、海岸へ密集集落をつくりあげていった。 宮本常一 私の日本地図4」
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小船で年中海上で暮らす人々も、江戸時代におこなわれた毎年の宗門届けの義務があり、その届けを記録した宗門人別帳が残っている。宮本常一の弟子の河岡武春は、三原・能地の善行寺の過去帳などを子細に調べ、この人たちの動向を明らかにした。その移住先は福岡・山口・広島・岡山・愛媛・香川の六県のほか大分、長崎までも拡がっていた。

瀬戸内の海上漂泊生活者を家船・エブネとよんだりするが、その拠点とされる親村は能地だけでなく、忠海の二窓、尾道の吉和も数えられる。瀬戸内に、このほかはない。
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吉和は尾道の西端、JRと旧R2が並走しはじめるところの山側で、小魚加工の阿藻珍味の工場がある場所の北側の小さな住居密集地帯。そこに艮神社、八幡神社、胡神社が鎮座し、阿弥陀寺と墓所と弓練習場という小さな広場を囲んでいる。家船に乗って出かける両親の留守に子供たちが寄宿する学校も置いてあった。

三原からR2をはなれJR呉線にそってR185を西へ向かい、以前は幸陽船渠、今は今治造船・広島工場の巨大クレーンを通り過ぎて、川を渡ると能地に入る。集落西の小山の下の常盤神社が家船の漁師たちの鎮守になる。

R185を西へ走り、並走するJR呉線を高架で横切り、登りになる。JRは海岸へ抜けていて、峠から下ってまたJRと並走になる時点が忠海・二窓。JRの踏切を海側へこえる場所が家船の本拠地になる。密集する民家中央に胡神社が鎮座、ここらが昔の海岸線であったのだろう。

吉和・能地・二窓どれも西側に小山を持ち、冬の北西の風よけの港を思わせる。能地は小さな網を曳くテグリ網漁、二窓は延縄漁。能地の漁師がとる小魚を二窓の延縄のエサとして、この二つは関連して漁を行ったという。吉和は一本釣りで、周防大島・大畠の鯛、佐賀関のアジの一本釣り技術をつくったという。

羽原又吉は、家船の形態での漁民を「漂海民」と呼んだ。この名称に引き込まれた。“海のデラシネ”、いいね。能地から二窓への移動は能地の常盤神社から東へ旧道をはしる。川のでて遡ると分岐点は右へ向かうと、正面の小山へ上る長い石段の寺門がみえる。ここが善行寺。石段のしばの墓石は漁師たちの墓標でなく、かれらは、遠方で死去しても塩漬けに処置され、この砂浜に埋葬されたという。古代海人たちは、砂浜に産所を置き、砂を広げた。産土をウブスナと読むのはこのためだと、谷川健一が語るが、浜辺にズラッと並ぶ墓標のある集落は瀬戸内の島々に多いこととの関係を思ったりする。

寺から分岐にもどり、西へ走ると広い谷間から小さな峠で二窓へくだる。この谷はきっと海であったのだとおもう。善行寺は小早川氏の家臣の浦氏の菩提寺で、臨済宗だという。このことから、沖浦和光は家船の人々は小早川氏配下浦氏所属の水軍であったのだろうと、いう。(瀬戸内の被差別部落)。

瀬戸内の島々で農村と漁村とが隣接しているところでは、必ずその境界が道や水路、川などで分割される。鹿川では貯水池からながれる川がその境界になるのだろうか。貯水池までのぼって、旧道とおもえたコースを下る。川沿いの三叉路の分岐点に独立した木が目立っている。妄想すると、これがシメナワならぬ標木・シメキ、ではなどと、楽しい、ぞ。道に桜並木が現れる。土手だったのだろう。土手の桜は、この国の定番景色。そばに斜面から石段だ降りてくる。海辺の雰囲気が濃くなる。このあたりで、昔のデラシネたちが桜の下で一服していたのか。
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古い造船所のカンバンの奥の景色にシャターを開いた倉庫があらわれた。数人の男どもが網を修理している。ながい浮き輪の列が奥におさめられているのか、ユルユルと動いている。昼前の日差しが、室内を暗くして、浮き輪が空中を踊っている。
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港へでてみた。ここにチョッと知られた寿司の食堂がある。昼定食があるようだが、まだ支度中の札がゆれている。料金はいくらなのか、書いてない、きになる。何せ低予算なもので。
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港は一人おじいさんが撒き餌して、釣り糸を係留された船横へなげこんでいる。船は巻き網用の漁船だろうか。網を両方から曳く二艘に群れ探索船などの船団のようだ。倉庫で網作業の男たちの船なのだろう。
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防波堤の突端まで歩いてみた。振り返って見上げる山が立山だった。見立山だろうか。富山湾の立山のスケールはないけど、海の人々の海からのマーキングが、この山つけられたのは、ここに能地からの移住の人々の大きな仕事の結果だっただろう。

寿司の食堂の札が返されて営業中。のれんを分けて首突っ込んだ。誰もいない店内は厚い白木のカウンターに、石鯛がうごめく水槽のポンプ音。すぐに亀さんして、首ひっこめたよ。
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# by forumhiroshima | 2015-06-09 10:53

能美島・鹿川集落の山側

先日の江田島市訪問で、鹿川の集落に入り込んで、跳ね返された。急坂もその理由なのだが、込み合った家の間を縫う路地が行き止まりの連続で、それにも疲れてしまった。
でも、路地の途切れたところの民家の小さな庭ごしから見えた、谷の向うの尾根に並ぶ家々のところまで行きたい未練が残っていた。あの尾根にこの集落の始まりの中世からの歴史があるはずなのだ。
その気分が、再度宇品からのフェリーへ向かわせた。

「あの。谷の奥にずっと目をやると、休耕田に植えた若い杉林は途中で終わって、その先は雑木林になっているよね。あの道は谷の田をつくりに行く道で、外に抜ける道じゃないだろうな。外に抜ける道なら途中から尾根筋にのぼって、尾根伝いに続いて、山の鞍部を通って向うに行っているだろう。ここからの視線の角度なら道の通り具合は、木々の間から途切れ途切れでもあらかた見えるだろう。 
尾根伝いに外へ抜ける道ってのは、古いんよ。尾根と言ってもそれほど高い山の尾根じゃない。さらにその上、山の七合目あたりのところは二十くらいにきちんと分割されているよね。あのあたりがもとの共有林で、それを分割したんだろうな。共有の草刈山か茅場だったのかなか。区画の境のあちこちに山桜らしい木が見えるけど、あれ、境木かもしれんよ。 宮本常一」宮本がフィールドワークの時語った景色の読み方を弟子の香月洋一郎が記載している。(景観写真論ノートより)

「鹿川付近の畑は、軍用地の払下げをうけたとき均分されたためか、段畑が、たてに区切られているのが美しかったが、それが昭和41年12月、ヘリコプターで飛んだとき、早く植えたところは畑をミカンのみどりでうずめ、おそいものも、畑の中に点々とみどりが絣模様のようにならんで、イモ・ムギ畑とはちがったはつらつとした美しさをつくりだしていた。
こうして、島が次第にイモ・ムギからミカンにかわりはじめたのである。そしてそのことが、島の生活を大きくかえていくことになるであろうとおもわれる。  宮本常一、私の日本地図4」
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鹿川の周囲はすっかり濃い緑色のミカンに囲まれて、ところどころに黄緑色の竹林がみえる。とても綺麗だ。竹は早春の灰色の雑木林でいち早く緑色を濃くし、タケノコの季節を終えると、黄緑色の葉を落としだしすっかり枯れたように夏の日差に萎れてしまう。季節のうつろいとこの国で呼ばれる言葉を逆展開させてあがなっている。山際に拡がる若草色の繁みは以前には草刈の場だった。“草肥”にされたり、飼われていた牛馬の飼料であった。その役目が終わり、畑もミカン山となって、草場は竹林にかわり、“みどりの絣模様”も消えてしまう。
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鹿川の集落は宮本の残した昭和の写真より増加した多くの民家が段畑だった場所に出来ている。前回の失敗にこりて、今回はGoogle MAPをプリントしを継ぎ接ぎさせて不恰好な地図にして用意してきた。出来るかぎりに路地をウロウロしながら、Google MAPにある郷土資料館を探した。それだけ用意しても、Googleでは目印にしやすい、お寺がわからない。国土地理院の地図とちがってGoogleでは道の幅も忠実に区分されている。石段も記載される。すばらしいのだが、等高線が集落では消えてしまう。高低差がつかみにくい。などブツブツ。
ランドマークになる、でかい寺院の屋根が見つからない。自転車のハンドルの幅ほどの道幅の路地で、通行の邪魔をしてしまったお婆さんに道をきくはめになった。「この道を進んで出会う四つ角を左に、すぐ右の路地を登ると大きな木の後ろがお寺だよ、尾根の向う側だよ、ここから見えん」

みつけたお寺の正面の民家に江田島カヌークラブのカンバンが掲げてある。海までは遠いのだが?。
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丁度お寺さんのご夫婦が山門におられ、探している「郷土資料館」を聞くと、南面している寺門正面向うの尾根の上のこんもりとした繁みを指して、あそこの神社の境内にあるけど閉まっているよ。Googleには神社マークはない。神社も探していた。

そこの広場をぬけて、民家の横をすり抜けると早い!と、お教えてくれたのは、お寺の大黒様だ。このあたり、通り抜けるのに、個人の庭と広場と路地の区別はないようだ。解放区・カルチェラタン!!  たどり着いた神社は鹿川将軍社。
境内の神社改修記念碑 「瀬戸内海に於いて海賊との戦いに武勲をたて武人として祭る」とある。勇ましい!これってこの島に海軍さんの学校があったから、同調したのではないようだ。
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HPに伊予の歴史をブログしているサイト・「湯築城への招待」があって、大変詳しくて、“伊予・河野氏”から派生したといわれる、能美氏、山野井家についても語られている。そこには、「能美の鹿川将軍社浦少し登と墓地あり中央に山野井の大きな墓石・・」と投稿掲載されていた。その墓所と神社・将軍社との関係にひかれて、ウロウロしてきた。

広島・浅野藩の歴史書「芸藩通誌」に、「大原の山野井氏、先祖河野清景、伊予の河野秀清の子、この国に来たり能美島を開き松尾城に居す。十世河野景重 朝鮮役より帰り十一世重久より農間に降り里正となる。鹿川村に同族あり、その祖八太夫、朝鮮役に従い帰朝ののち別家す。その家朝鮮飯器を蔵す。」とあるから、伊予・越智氏、大三島の大山祇神社の神官家、古代の伊予・物部氏と長い経歴を幾重にも語られる人々の痕跡がここにあることになる。神社の急な石段の参道から海が見える。彼等もみた景色が見える。
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神社をでてからの登りは尾根上に伸びていて、寺のあった谷間から少しつづらに神社に登って背後の真道山の南の鞍部へのルートには、広い林道から鹿川貯水池を経由して山越えて、東の海岸の飛渡瀬へ、南の古古江にと走れる。宮本の語る“外へ抜ける道”はこの感じなのだろう。

「田んぼや畑のなかからいきなり立ち上がっているような家は、視線から消して。大体新しくでた分家だろう。それから新しい車道沿いの家も車道こと消して無いものとして見ると、少し前のむらがイメージできる。 宮本常一」
なかなか技がいる宮本流、景観観察方法だが、路地を区切る石垣は、ダイレクトに“すこし前”を感じさせる。
「中国地方だと、宮座のある地域の旧家の石組みはよく見ておけ。(神社維持継承の取り組みの集団で、集落の管理支配組織にもなることが多い、といわれる。鹿川将軍社はここの開拓パイオニアの信仰の中心であろうから、ここに宮座があったかもしれない。土井)石組みそれがそこのひとつの基準になる。石積みの石は、自然石そのままの野面石・ノズライシ、割石、切石となり、もっとも加工されたのが切石ということになる。その組み合わせが歴史でもあり、他との比較資料にもなる。墓地も歴史そのものだ。宮本常一」

路地にお石組みにセメントを差し込んでいる老人のそばに、ベコニアの花壇があった。傾斜地に家を作る、田んぼをつくる、その為に石垣をつく。それが土地も区分の境界になる。それが基準となって、動かせないものとなる。だから残る。時間がそこに溜まる。
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ここ鹿川の傾斜地の石垣に区切られた路地はむき出しの時間の重層、時間のミルフィーユケーキだ。石垣と石垣との間隔が狭くなる場所は、石垣が支えきれる圧力を小さくさせるため。地下水がその下で溜まって、重い土壌が石垣を内側からメリメリと押している場所。この崩壊しやすいところが、辛うじて支えられている場所こそが、パワースポット。微妙なバランスが、人の体に信号を送ってくる場所。寺社や墓地は置かれなかった場所だ。寺社は観光パワースポットとされるが、そこが面白くない訳は、このあたりにあると、思う。石垣はあやうさをせき止めている、とても頼れるヤツでなきゃいけない、ヤツなのだ。
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# by forumhiroshima | 2015-06-06 10:32

シルクロードの小オワシ

呉・宮原町の宮は亀山神社だとおもっていた。グーグルの地図に宮原村と山中に記載があり、そこに若宮がある。八咫烏が宮原の主人だったのか。それにしては、佇まい、寂しすぎる。

急傾斜地の人家の間をぬう、細い唯一の車道が下りはじめ、亀山神社が現れる。明治に呉鎮守府の建設で鎮座地の入船山を海軍の長官宿舎として渡し、ここに移転した。移転以前は八幡神社とよばれ、祭神は神功皇后だ。ただ、皇后だけだはないようで、境内の由来によれば、「神社創建の703年、そのころ、大屋津日売・オオヤツヒメを祭神とする。日売は木の神でこの地域の中心が木に関わる産業であったことの表れと言えよう。また“日売島神社”大分・姫島の神は北の栃原村に天降り、のちここにご遷座」とある。
ここの海には宗像三姉妹をはじめ、女神たちが往来している。さすがシルクロードの最終地点の地域である。

日売島神社の神は「あかる姫」と呼ばれ、姫は半島の新羅から亭主からのがれて、北九州に上陸、次に東進し、姫島に鎮座し次にこの呉に渡来し、のち大阪の西淀川区姫島町、東成区の比売許曾神社・ヒメコソ。東住吉区の赤留比売神社・アカルヒメがある。亭主の名はツヌガノアラヒト(日本書紀)といい、天日槍・アマノヒホコ(古事記)ともいう。日売は追っかけてきた亭主を最後まで受け入れず、亭主は傷心して放浪し丹波に鎮座した。瓦そばの出石・イズジにある、出石神社がその鎮座所だ。冒険家・植村直己の墓所がちかい。コウノトリも飛んでいる。そんな場所だ。

ツヌガノアラヒトは敦賀に渡来して地名に残ったといわれるが、ツノは角で「額に角有ひたる人で、古代中国の兵器の生産神として登場する蚩尤・シユウで、鉄額で、鉄石を食うとあり、頭に角があって、それで戦うとされている。 谷川健一・青銅の神の足跡」

「神武天皇の東征の船のパイロットであったという姿で現れる“ウズヒコ”を祖先とする「紀」族の分かれに木角宿禰・キノツヌノクスネ一派があって、この「ツヌ」は周防国都郡・ツヌグンにあった紀村の人々で、隣の佐波郡にも居住していたと続日本記にある。彼らは半島から渡来した、鉄製造の技術者で「韓鍛冶」とよばれた。岸 俊男。」この地に古代の鉄の専門家の姫君が降臨されていた。その女神をお送りしたのが、木の国の人々だとなる。亀山神社の祭神のあかる姫は造船に使用する鉄の神様になろうか。都濃群はいまの新南陽、周南市あたりだといわれる。伊予・越智氏と隣接して存在している。紀氏と越智氏との婚姻も続日本記にみられる。

「きい、紀伊は、もと木国と書きたるを、和同年間に好字を選び、二字を用いさせられしより書也。・・・とくに楠が若葉をふきあげる季節・・・いのちの旺盛さを感じるのではないか。クスというのは“奇し”からきたことばであろう。・・・古代人にとって、丸木舟の材だったのである。そういうことがあって、古代、楠の老木は崇められ、いまもそうだが、シマナワがめぐらせて神木になっている場合が多い。・・・古代祝い、ここに海部群がおかれてきたことでもわかる。かれらにとって、舟の材になる楠の森への尊敬心も篤かったはずである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」「“紀”という家系の祖ははるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州紀氏であるといわれる。・・・紀氏の祖先は、・・紀ノ川下流平野を総ていた古代首長であったことはまぎれもない。司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」

4~6世紀の古墳時代を記紀は朝鮮半島への計略・派兵の記事で溢れている。その派兵はそれが渡海作戦であった以上、水軍という条件がその基幹となったのではなかろうか(岸 俊男)。紀氏およびその同族は、応神3年紀、仁徳41年紀、雄略9年紀、顕宗3年紀、欽明23年紀等々に現れ、活躍する。彼らの紀国が外洋に面しており、彼らの航海術をもって海峡をわたることができたといわれる。

日本書紀・続日本記にある安芸国のよる造船の記録では、遣唐使用に746年から778年の間に5度計16艘がある。古代の造船地である舟木郷と呼ばれる地域は安芸国では沼田郡(三原市)、安芸郡(呉・倉橋・江田島・矢野)高田郡(高宮・吉田)がみられる。呉は船の材料を呉木と呼ぶことからの地名だと。亀山神社の祭神の大屋津姫のことを考える。伊予国風土記に、越智氏の里の野間郡で熊野という船を造った伝承を記載している。熊野の名が紀国を連想させる。
4世紀から20世紀の建造当時世界一の戦艦大和建造につづく歴史は、三津峰山の急傾斜地にさばりつく住宅に生きる人々が担ってきた。仕事場で付いた鉄の匂いを風呂で洗い流すそんな生活の音が道にこぼれてくるようだ。

広へ向かって呉越えの峠へR174をあがり、トップの呉越の信号の手前で右へ入る住宅の間の道へはいる。下ると休山トンネルの東出口の交差点にでる。渡ると阿賀神田神社横を通り、呉越え旧道ではないかと。旧道に由緒ある寺社の参道が必ず設けられる。
JR高架を潜って、南へ向かう。左に橋が見える四つ角で、路地の登りにとりついて、丘に祠のみえる三叉路で左へ向かう。阿賀の町を俯瞰して、ここも丘をトラバースして細い車道が南へのびている。
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広島駅の南口、再開発されている新しいビルのそばに、源蔵本店という居酒屋がある。二代目に代わって、清潔な店内につくりかえられたが、居酒屋でもっとも大切な酔客の喧騒がいつもある、魚の新しいお店がある。店内のショーケイスの小イワシの刺身がお望みで、覗き込むと、ありますよ!と声をかけてくれるお姉さんが、この刺身を作っている本人である。
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源蔵の前の車道に軽四トラックを止めて、午前中だけ小イワシだけをうっている。そこの刺身がこれか?と尋ねたら、自分がつくっていると教えてくれた。おかしいのは、軽四のおとうさんが、このお姉さんの義父なのだそうで、ライバル?ってこと。源蔵本店のイワサシは新しくて、ぐちゃとしていない。お姉さんの実力がみえる。
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3月にはいってすぐの2週間の午後になると阪神沿線の魚屋さんの店頭に、キビナゴ1kgパックが積み上げられる。クギ煮という佃煮用で各家庭でつくられ、親類縁者に配られる。小魚は干しても煮ても腹を下に「く」の字になるのが新しい。はらわたの新鮮さが形をそうさせる。クギ煮の名は木材から抜いた古い錆びたクギの形とも、煮るとき古クギを入れるからともいう。郵便局はクギ煮用のパッケジを売り出すほど。風物詩である。
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和歌山の港では、早春からシラスが市場に箱でならぶ。朝の漁の成果をその日の内に売り切る。またシラス干し作りには、煮あげる時間が5~6段階もあって、時間差で煮あげられた商品がずらり並んでいる。シラス丼はほとんど生だが、生臭くない。シラス丼にカツオの刺身(タタキではない)定食、たまらんわい。

イワシ漁も瀬戸内で始まる。浜で採りたてを煮て干すと煮干し。生で干すと干鰯・ホシカ。このホシカが木綿や稲作の肥料とされ、大量消費がはじまったのが戦国時代初期といわれる。この需要に対応した漁は、それまで浜で地引網を曳いていた形を、二艘の船で網を引っ張り、イワシの群れを一網打尽にする形に変えたのが、紀国の漁師たちだ。特に綿花生産には大量にホシカが必要とされ、北海道のニシンも肥料にされ、巨大なマーケットが出現した。大阪の南の和泉地方は木綿の大生産地で、和歌山の漁師たちは忙しく、古代紀氏の時代からの勝手知ったる瀬戸内海へもこの船曳網が進出した。東京オリンピックの東洋の魔女は和泉の貝塚市の大日本紡績・貝塚工場の実業団チームだ。(世界のナデシコ、沢がんば!!)
東能美の大君にあった紡績工場はさきごろ廃業されたが、この島で綿花とホシカとの生産があって生まれた。

紀州網とよばれた漁法は広島湾でも無敵の成果をあげ、地元のクレームに技術移転という方法で共存をさがした。広島湾は緑井の阿武山のキレットと本川沖を結んだラインで上下の漁場と区分されたが、すべてが入会という自由さがあったようで、争論が頻発した。なかでも暴れん坊が阿賀のおっさんたちで、自由に漁を玖波・小方・地御前の漁師たちがさせないと訴えている。浅野藩が仲介し落着したが、のちの1694年にまた阿賀浦が地御前の漁師が邪魔すると争論になった。

この争論が決着したのちに1710年から厳島神社の管絃際の御座船曳航を阿賀浦の網船2艘で担当を始めている。江波の漕伝馬船も参加するが、江波は浅野藩の三ノ瀬の藩役所などへの飛脚担当だという。宮島から30kmほどもある距離で、広島湾内でもない阿賀浦の管絃際参加が、不思議におもえる。公式発表は御座船の暴風雨時の救助によるというが、どうかな。

阿賀浦の管絃際お漕船(とんてこんと)の艇庫をぐるりとまわってみた。
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そして祭り前日に安全祈願する住吉社と小さな祠の延崎神社は、ひっそりと人影のない街角に鎮座していた。
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阿賀浦の鎮守の神田神社には朝鮮半島出征の神功皇后の帰途、この沖で暴風雨にあい、ここに滞在した伝承があり、また平清盛の音戸の瀬戸開削とのかかわりの伝承とを残している。
浅野藩のお姫様の対馬への婚儀での輸送を担当した向洋の漁師たちの外洋での活躍など、シルクロードを航行する海人たちと紀国とのかかわりを思ったりした。

呉港からフェリーで宇品港へ。夜の海の闇の濃さが久しぶりです。
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# by forumhiroshima | 2015-05-06 10:25


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