こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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川が運んだもの

13世紀初頭に記録に残る栗栖氏はなぜ戸河内に定着できたのだろう。彼らの祈願社の大歳神社の神紋は厳島神社の神紋が使用される。栗栖氏は厳島神社神領衆といわれ深い関係がいわれる。栗栖氏と関わり深いここの大歳神社は厳島神社の摂社となるのだろうか。
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大田川下流の口田の弘住神社の神主家が栗栖さんだと発見。川上に中世繁栄した栗栖氏が今と中世をつなぐものあるか、に引かれた。弘住神社のそばの小山に大歳神社も鎮座している。川上―川下の関係、チョットロマンチック、とおもったのです。
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厳島神主家の廿日市・桜尾城と同じ名の城が加計の町の西の滝山川右岸の上調子にある。ここにも大歳神社が鎮座している。加計から太田川をすこしさかのぼると、右岸にあるのが西調子。ここにも大歳神社が鎮座している。
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この「調子」の地名が下流にある。
広島市安佐南区川内の胡神社のすぐ南のバス停に「中調子」がある。「下調子」は明月寺前のバス停にある。安佐南区川内6丁目に上温井集会所がある。温井は加計・上調子の滝山川にある温井がある。いま温井ダムの名に残っている。水はけのよい、抜ける井・水の場所が“温井”だという。
太田川の川下の川内に温井、調子の地名が残り、川上、川下に同じ温井、調子の地名があらわれる。古代の河内郷にあった温井・調子が今に残っている。
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「“調子”は三々九度の杯に巫女さんがお酒を注ぐ容器で左右に注げる。川上から流れ込んでそこで膨らんで川下は細くなる流れ。それがお銚子に似ている。だが、そんな地形はどこでもある。奈良県の宇陀に調子の地があるが、もと鳥飼で音読みでチョウシになり鳥子から調子へ変わった(池田末則 地名の話)」。
地名の漢字にフリガナがつかないと、かってに自分が読める発音になる。調子は川沿いにあることから、鵜飼いの浜のことだったら、おもしろい、と。太田川の鵜飼いのポイントが“調子”なのだ、とは、いかないか、妄想にすぎないカ?。
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大田川の左岸の口田、右岸の川内・東野・中筋、そして古市の河内郷が川を越えて一括の区分にあり、1603年川の流域が変わって、口田と東原の間には新しく太田川が流れ、古川(それまでは佐東川)も残り、その領域は“北の庄”と名前が変わり、明治に高宮郡とまた変わり、そして今安佐北区に変わった。高宮郡は古代には八千代、吉田、美土里(安芸高田市)、と高宮あたりとされている。それは鎌倉時代には高田郡に吸収されて消えている。江戸時代の“北の庄”の北の指す場所、明治の“高宮”の復活になにかがありそうで、気になるのです。

1245年、鎌倉時代、厳島神社が自社の荘園の年貢徴収の記録が残っている。その領地の内、山県郡三角野の荘園が、(場所不明だが、中国新聞社・鉄学の道では北広島町・豊平にあてている。)年貢を鉄、百三十四斤余(約80kg)で課せられている。宮島へ鉄が送られていた。
この辺りは1171年地元の豪族凡氏から厳島神主家佐伯景弘が仲介して平清盛に寄進し厳島社領となった。三角野は北広島市西宗あたりらしい。

火と砂から鉄を取りだす、古代の最先端の鉄生産技術者たちが住まう場所が高宮と呼ばれても不思議ない。とおもうのは、九州の宗像大社の奥宮を高宮祭場とよぶ。そこは森の中の宗像三姫神の降臨の地だというしめ縄で結界されたただの空間なのだけど。神の降臨なくして(化学反応)、砂は鉄にならないだろう。いまは、すっかり圃場整備と直線車道で昔匂いは消し去ってしまっている。

栗栖氏の拠点の加計から丁川・ヨウロ川畔を北上し豊平へ向かうと出会う、溝口・千代田の分岐のカンバンを右で、民家が坂に点在する鶉木・ウズラキの集落の十文字峠(鶉木峠)にかかる。とても広い空へ登る。ここの登坂は中国山地には珍しい九十九の道を気に入っている。曲がり角に厳島神社が谷を望む姿で鎮座している。来るものを拒んでいるのかと威圧を感じる。中世厳島神社神領の入口を守護している、かの様子。峠のとりつき口に神原、才ノ平の地名がある。神原の神は厳島の三女神だろうか。才ノ平の才はサエギる場所でヒラは坂をさすことがある。「切り立った地下へ通じる道の境界・柳田国男」の意味であの世をしめすという。神なる土地へのヒラ。峠登り口に安芸太田町と北広島町の境界線がある。“才”がある。
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峠を越え右へとり、豊平の都志見の町へ。採鉄のかんな流しで砂鉄を採取しできた田んぼが広がっている。このあたりに、鉙原・カンナハラの地名もある。とても清潔な街並みが整備された車道に並ぶ。たたら製鉄址が保存される公園も駐車場かとおもったほど、昔が消えている。鉄の匂いも消えている。けれども、砂鉄採取のカンナ流しの土砂を階段状に石垣を組んでそこに流し込んででできた景色は山尾根でなく田んぼの中に森と神社を置いているのが多い。神社周囲の土砂もながしてしまったからかと、その特異さが中国山地でどこかで又であったりすると、なぜか懐かしい。

たたら製鉄址公園から東へ15kmほどに千代田の古保利薬師がある。境内に大歳神社が鎮座している。ここに古墳があり、古代豪族・凡氏に関係しているといわれる。凡氏はオオクニヌシの末裔を自称している。彼らが鉄の職人たちなのだろうか。宗像女神長女の御主人大国主鎮座の出雲を連想する。(戸河内インター・上殿の大歳神社の石柱の文字の揮毫が出雲大社の千家だった)凡氏はのち山県氏として毛利家に属し今にいたっている。
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平安時代10世紀中旬の”和名抄“に安芸国山県郡に賀茂郷がみられ、すこし離れるが大朝のもっとも古い神社とされる枝宮八幡神社は三輪庄大麻三荘鎮守と古称され、三輪は奈良の三輪山に通じて、大国主の国ってことになる。境内に摂社として賀茂社が鎮座する。凡氏は出雲に関係あり、枝宮の摂社に大国主社もあった。出雲の賀茂神はオオクニヌシの長男・アジスキタカヒコネ(よくできている鍬)で、鉄そのものの神にといえる。
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凡・オオは梵・ソヨギとも同じ字になる。元カープの梵選手は三次出身。この珍しい名は県北にであったことがある。古代がポツリと顔をのぞけた感じがした。
太田川下流の口田の月野瀬神社の祭神は賀茂神。古代高宮と明治の高宮が賀茂神つながったと、妄想完成。が、明治に官営製鉄産業が勃興したのは豊平ではなく備北だった。
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戸河内、上殿の栗栖氏の実力の一端が彼らの館跡の宗玄寺にある石碑が言っている。上殿は石工自慢であり、今に残っている石組みは福井県の一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉城と同じだとその石碑にあった。ここらあたりにはない!と自慢している。
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車道を越えて北の山へ伸びている。その先に佐々木家の立派な墓所。そこの西に箕角(大歳)神社、裏尾根の上に箕角城址と中世トライアングル。この三角関係をつなぐ水は神社奥の谷から出ている。館(今は寺)側が最良の田で前田と呼ばれたりする。ここでは土居とあるから堀があったのだろう、などと痕跡を探してウロウロがいい。
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# by forumhiroshima | 2018-04-15 16:14

安芸太田町 中世の豪族・栗栖氏

中国道・戸河内インター近くの、ひな壇状に点在する赤瓦の民家の町が「上殿」。高速道からは譜面にみえる。
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三段峡へ向かうと潜るトンネルの尾根に栗栖氏が最初につくった土居の発坂城址があり14世紀初頭とされている。東隣尾根に連続して栗栖氏の岩田城址がある。その城址の尾根裾が流れ落ちる「上殿」集落に箕角八幡神社が鎮座し、すぐそばに宗玄寺がある。この八幡神社は大歳神社であったと角川地名辞典にある。
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「われわれの祖先の多くが、農耕に従事し、生活を楽しんだ平野には、中世の遺物・遺跡は豊富である。“立ノ内”“辰ノ越”などは武士の居館であり、近くに菩提寺の跡があろう。背後の城山は戦時にたてこもる要害である。居館(タテ)よりさがったところに「屋敷」の地名があるが、ここは名主・ミョウシュのいたところで、・・・・戦国末期の兵農分離の過程で、大名の家臣団に編入され、村を去った。その残された屋敷神が村の鎮守となってくる。そのまま農村にとどまれば、庄屋として村落共同体の首長になる。 石井進」
“山城址”の教育委員会の標識近くに神社があり、集落に寺院、のトイラアングルが田園の集落に残されていることに中世の時間があること、驚いた。すこし景色を見る目が変わった。戦国の時代が頭を駆け巡る、そんな集落が「上殿」だった。いまも中世の精霊のただよう時間に町が見え始める。
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山城址は全国に三万とも四万ともあるといわれ、それは14世紀からの300年間に築かれた、という。山に見張場をつくることが、支配者の気分があったのだろうか。文化庁宗教年鑑で神社が88600社、摂社・末社含めて30万とも。寺は77350寺とある。どうりで、そこかしこで、マジ、どこでも、中世トライアングルか?と、妄想してしまう。

たとえば?土居の大歳神社は栗栖氏の祈願所なのか、また彼らの館の跡なのか。土居は館にめぐらした空堀をいう。だから、・・・?と。
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岩田城址、箕角八幡神社に宗玄寺のトライアングルが中世を残しているといわれる。寺が栗栖氏の館跡なのだという。宗玄寺に石碑がある。
「今は、この辺りを「考哉河内」と呼ぶが、昔は「高野河内」であったことを示す貴重な碑である。栗栖氏と高野山とは丹(朱)の産地を通して関係が深い。昔、太田地方は丹を多く産出して、栗栖氏の豊かな財源になっていた。栗栖氏が高野山へ献じ物をするための土地であったと考えられる。」
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「広島に住んでいます。田舎は戸河内で、そこら一帯、栗栖ばかりなんですけど。その辺りに昔、栗栖の殿様がおって、栗栖の城もあったらしい・・」ネット「全国栗栖会コミュの栗栖族って」を見つけた。ホント!安芸太田は栗栖さんでいっぱい。栗栖が多くて、栗栖のカンバンや表札を数えながら走ったことも。そのHPに各地の栗栖さんが書き込んでいる。戸河内の栗栖氏はどこからやって来たのだろうか。

栗栖氏は関東・下野国岩田からの説、京都・山科の栗栖野からの説、和歌山市栗栖からの説、等々。和歌山に自分は特別な思いいれがある。

紀氏・栗栖氏とある戸河内・栗栖氏の記録がある。和歌山県田辺市から東征に向かう、熊野古道・中辺路途上、ここから山岳ルートの起点にある中辺路町栗栖川を思い出す。栗栖と書かれたカンバンは気にしてなかった。熊野古道は地味な古風がある道で錆びたシャーターが目に付く。栗栖とあるカンバンは印象にのこっていない。それは、きっとここからの登坂が怖かったから、景色を見る余裕なかったのかも。
熊野古道・辺路道の王子と呼ばれる点々と置かれた祠をたどる道に初めて「辺」・あの世の境、清濁の境をここと決めた人々がいたこと、を発見した道だった。最初に神の所在を感じた人が、そこを石や木によってマークする。そのマークは伝えられ、そこにまた神の所在を見つかられると、そこが人々に認知され、ある機会に祠にする人があらわれ、そこが王子と伝承される。そして境界が辺路になり遍路になる。やはり、遍路には、その名だけで、なにかを生まれさすなにか、があるのかな。長い人々の思いの時間の蓄積が、走る気分を熱くする。
中辺路が登り連続になって「こんなバカなこと、どうして、?」と思ったとき、非日常のサイドに入った。日常の向こうに渡った。境を越えたと「王子」が教えてくれた感覚があった。が、息は切れ、足は止まり、腹が減っていた。夢みていたようだった。今、あの時を思い出した。

栗栖氏が最初にこの地に現れたそのルートはきっと船だろう、と妄想する。
5世紀雄略天皇の時代に半島の新羅に征新羅将軍として紀小弓が派遣されたが現地で病死。その子、小鹿火は帰国し朝廷に角国にとどまり住むと願い出て許されている。そののち、名を角臣とした(日本書紀14巻)。この角国・ツヌコクは山口県都濃郡に古代あったという紀村とされる(岸俊男)。この角臣の一族に紀・坂本臣があり、8世紀に半島の製鉄技術者集団の韓鉄師たちが坂本臣の氏姓を賜った。近世に大朝、可部、そして岩国は鋳物の中心地となった。
紀・栗栖氏は丹だけでなく、鉄などの鉱山経営に関わってゆく一族のバックボーンがあった。と妄想する。箕角八幡神社の「角」がツノでは、と思ったりしている。

紀氏・栗栖氏2代目帰源は、僧・栗栖帰源禅門になり、京都・東福寺住職・雪舟喜猷を開基として招聘し、戸河内・土居・実際寺を創建(1366年ごろか)の記録がある。豊臣秀頼寄進の3つの橋廊と紅葉の東福寺は鎌倉幕府の唐船つまり貿易船を運営した巨大寺院。戸河内に貿易の専門家の坊さんがやってきていたことはすごい。14世紀ここに中国大陸との接点・境があった。ここに世界に向かうエネルギーがあった、と思った。


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# by forumhiroshima | 2018-04-08 15:21

中世は生きている

太田川の名は戸河内・本郷の町並みが途切れる橋の上流の天神さんが鎮座する合流点から太田川放水路河口までだという。上流からみての左右で左岸右岸になる。上から目線にこの表現にはとまどう。太田川橋上流の細野神社から右岸(この表現では左岸が自然)に筒賀まであるルートが電源管理道路と整備され関連施設は右岸に設置されている。この道を見つけ走った40年以上前に初めて、サイクリングの何!を見つけた、ことは忘れられない。車は見られなく、道独り占めだった。解放感にあふれて走った。
古代の安芸郡も今の安佐北区も、川上への境界線は津都見(堤?)の八幡神社あたりにあるようだ。ここから川上が安芸太田町になる。川でも道でもない、この境界はどうして決まったのか、県・市・町などの境界の表示に出会うと何故か緊張感がわいてくるのはなぜか。
すこし下流の戻っての宇賀ダムに入る道を詰めると空の広い山村・高山で行き止まる。ここの安佐北区安佐町、境界が交錯する。そこ石段を登ると大歳神社の小祠がある。安佐北区は太田川を越えてここに境界がある。境界の印が社だろうか。

自転車で走っていて神社の名を見るための止まることはまずない。神社は地図で位置を特定するには多すぎて使いにくい。それでも、この電源道を幾度か行き交っているうちに、大歳神社の連続に不思議を感じていた。その始まりが川下からは、口田の大歳神社、そしてすこし距離をとっているが高山の小祠、その上流へ安芸太田町、戸河内・本郷にかけて、まさに乱立連続する。
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「地図をひろげてみていただきたい。燕・鴻の巣・鷹の巣・鳥越などの鳥に関する地名、白岩・赤倉・洗足岩・不動岩など岩石に関する地名がでてくるであろう。今日では発見しにくいような深山の岩石が地名になって、ひとびとに周知されたのはなぜであろうか。それは中世社会に大きな役割を果たした修験者(法印さま)が、入山の修行をするときの、登山コースの目標であった為にほかならない。
これらの点と線をたどってゆくと、崇拝対象となっている丸山・星峠などに達する。その山腹・山麓には本地である阿弥陀・観音・大日・蔵王などの諸仏菩薩・権現をまつる仏堂があり、八幡・熊野・十二神などの社祠がある。また山頂にいたるまでには、荒行をした法印滝・不動滝、精進落としの温泉(湯沢・湯の谷)がある。さらに仏は大地の精である金と考えられたから、山の名は金峯山・金山と呼ばれ、現実に砂金採取のあとがみられることも珍しくない。 山の民・川の民 井上鋭夫」作者は中世史の専門家。新潟大学でフィールドワークをかさねて、この記述がある。境界の在り様に近づける。

自転車ではあるとき、古道の勾配に痛めつけられる。何故にこのルートができたのか?知りたくなる。こんな道つくるか?。その道で山中に孤立する集落にでくわす。いま、なぜ、ここで生活を営むのか。法印様が道をつくり、開拓した人?どんな人?。

「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の依代の森をあちこちにのこして神の場・ニワとした。そのうち、紀国ぜんたいの神の場として、日前・国懸(ヒノクマクニカカス)神社の森をのこし、木綿・ゆうや幣・ヌサなどをかけて斎祀ったのである。 司馬遼太郎 街道をゆく32・紀ノ川流域」
和歌山市の古墳で覆いつくされた山際に鎮座する森の神々は住宅や学校に囲まれて窮屈そうだけど、負けてはいない存在感を示している。
「宮司は紀氏である。“紀”という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。 司馬遼太郎・街道をゆく32」

安芸太田氏に大歳神社を建立した栗栖氏はこの「紀氏」の流れにあるという。大歳神社を実際寺側に1311年に鎮座させたのが栗栖氏初代の高基でその系図に「紀氏」とある。(東皓傳・修道商学41-2)。紀氏は愛媛の河野氏の祖先越智氏と婚姻関係があり、周防国玖珂に古代住民リストに名が残る。

和歌山市の日前神社そばを走るわかやま電鉄貴志川線の路線に出雲の神々が点在して鎮座している。出雲の神々を背負って移動した人々の痕跡の路線は神社に導かれていて至る終点の貴志川駅はネコ駅長で人気。ネコ様に人々が集まる景色がここから始まった場所では、なかろうか、と思うほど人々があつまっている。
「街道をゆく32」にある根来寺へ向かった。貴志川にそって低い瓦屋根が軒先に顔をのぞかせる集落の中を北上していると、屋根の向こうに小高い木々の森が見えた。司馬さん流では、日前社に集められた残りの森?と、向かった。森を背負って「大歳神社」があった。長屋門の境内の森の中の小山に鎮座している。大歳神社はスサノオがお父さんで、そこかしこに鎮座しているお稲荷さんと兄弟で、親しみやすい神様だと思っていたが、ここは威厳がある。創建の由来に推古11年(603年)と古い。
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大歳神を貴志川側の森に鎮座させたのは紀男麻呂宿禰という人で欽明23年(574年)に新羅遠征の記録があり、また崇峻4年(596年)の九州遠征にも記録がある実在の人。和歌山から瀬戸内海を航行して半島へ九州へ活動した「紀氏」の痕跡が安芸太田町に残っていることは、不思議ではないと思える。

史実のある神様の由来の前に、上古(司馬さんによれば、記録がない時代、らしい)のモヤモヤとした古代妄想感に目いっぱいに浸るって時間はできそうもない、かと、思いきや、そうでもない記述があった。
伊勢神宮の摂社・伊雑宮・イザワノミヤに“天真名鶴・アマノマナズルが稲の穂をくわえて湿地に植えているのを見つけた倭姫が驚き伊左波登美に命じて収穫し、その地に伊雑宮を建立した。天真名鶴を毎年到来する大歳神として佐美長神社を建立し祀った。その大歳神、天真名鶴を招来して紀国の調月・ツカツキに大歳神社を建立し祀った。
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戸河内インターからR186で左へ向かうと巨木の銀杏を見る。筒賀神社は角川地名辞典で大歳神社とされる。旧筒賀村は天上山の北山麓に広がって、中央部に棚田の井仁の集落がある。そのすべてに大歳神社が鎮座する。
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大歳神社祭神・天真名鶴から「ツルガ---ツツガ」との説がある。井仁の森を“引き明けの森”とはロマンチックだ。太田川を越えると大箒山、月の子原、その地名群に法印様がチラチラする。
井仁の棚田の谷、北斜面の独立峰の姿がすっくと空を切る。どうしても聖なる山に思える、が。修験者たちの時間、中世の景色が、ここにありはしないか。
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天真名鶴の飛ぶつるがの里。モヤモヤとした古代妄想感なのか。
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# by forumhiroshima | 2018-03-22 12:31

流れ星と月

矢口、月野瀬神社は弥生の集落にあって、平安末期にその記録があるという、その長い時間重なる境内の子供たちの遊び声がひびく。その神社の前にきっと、さかのぼった時間には湖があって、川湊があった、と妄想している。その湊にやってきた人々が出発した湊は加計の太田川と丁川との合流する所の元JR三段峡線(本郷線)の加計駅そばの月ヶ瀬ではないか!と名前繋がりで、重ねて妄想する。

今は廃線になった鉄道と船便との接点という重要な場所だ。そこは陸と川との接点を示している。加計の町並みに入るR433のトンネルを抜けてすぐの三叉路に大きな屋敷がある。鎌倉時代の隠岐国守護佐々木氏の末裔という加計の庄屋、鉄山師・隅屋の居宅。1661年からここにあるという。鎌倉幕府崩壊時、隠岐を離れてからの放浪の末の定着という。その屋敷南に旧JR加計駅、その川岸に月ヶ瀬の川湊とならんでいる。

加計の北部・温井ダムの西に大箒山という流れ星の名の山がある。その南山麓に月の子原があって、そこに宇宙人到来の泉岩という伝承地がある。もう宇宙がいっぱい。
ここに加計から走ったことがある。R191が消えR186と変わるループな不思議なポイントの加計山崎の信号交差点(R191は戸河内インターでまた現れる。不思議な訳は?)。ここは東西南北の交差点だと、加計はそういう場所だと、信号が点滅する。
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ここから西の滝山川の渓谷をたどる3.5kmの登坂ルートののち広々とした明るい盆地にでる。そこが月之子原だ。この坂、辛いような、そうでも無かったような印象。芸北の松原の虫木トンネルの上の残る東へ入る林道が大箒山を巻いてここに下り、加計の鉄山師・隅屋・佐々木家に向かう牛馬が行きかった道で、たたら鉄の運搬、たたら工夫たちの食料運搬の道だった。森の中の道は下草もなく、しっかりと踏み固められた感触が靴から伝わってきた。もちろん連れて入った相棒のMTBは荷物だったが、歴史を踏んでいる感慨がうれしかった。加計から牛馬の踏み跡を広げた滝山渓谷の道を登って月の子原に入る。そこには3.5km標高差300mのデーターで平均化することのできない「道」の色々がある。ここだけの「歌」があるのです。
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月の子原から南の戸河内へ向かって約6km、ストレートな、走ってはいるが、だた自転車に乗っかっている、ユルイ下り。誰も車もこないのびやかさで、暇でキョロキョロしていると、川向うの小高い丘の上にひょろりと散りかかったしだれ桜が見えた。橋を見つけて、花見にゆく。桜は1940年に「栗栖さん」が植樹した「与一野のしだれ桜」と説明版があった。
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HPで「与一野しだれ桜」を探して、HP..rogukameraで写真を見つけた。きれいな桜なのだと、おもった。が、散りかかったさくらの木を見上げて、発見!の感動は薄くならなかった。
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桜から戻って車道に入ってすぐに与一野大歳神社がある。平家物語の那須与一はこの地に到来し、ここで亡くなったから“与一野”との伝承もここにある。「エー色々そうなの」と景色を見まわすような伝承が、まるで遠野物語(遠い時間のある野の物語)。この野が古戦場であったことで、夜討野・ヨウチウノと無粋な説明もあるようだが、与一の墓まで用意されたロマンの前にはかすんでしまう。

加計・隅屋は、「たたら場2カ所,鍛冶屋11軒のほかに,酒造場4カ所を操業し,大坂通船2 艘,川船18艘,牛48匹,馬87匹を有し,土蔵数は36カ所,借家は489 にも江戸期にある大庄屋だった(芸藩通史)」。今も県内屈指の山林主だという。庭園・吉水園はこの家の別邸になる。 1814年に浅野藩から苗字帯刀を許され祖先の氏名・佐々木を名乗り、明治に“加計”に改名している。戦後加計学園を創建し、広島加計学園・英数学館、岡山理科大学を経営し、獣医学部を愛媛県今治に設置する。

与一野の道がストレートから川沿いに蛇行しだすとすぐに小さな分岐にでる。古道の雰囲気の右へ。すぐにトンネル、暗いね。出口にトンネルの上に古城・発坂城のあったとある。
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下りの左に奇妙といえるだろう、コンクリートで造られた藁屋根に卍マークの寺を見る。
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実際寺という。この寺の景色が広島から太田川を遡上して約60kmのポイント。与一野は寺領と呼ばれる地域の一部にある地名でこの寺の領地であった地名という。その重要さが感じられる。14世紀中葉創建とその歴史は古い。
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寺を過ぎてR191の合流地点から右へ少し走ると、右奥に大歳神社が見える。なぜかGoogle Mapには掲載されてないが、1311年創建のこの地域で最初の大歳神社。この神社を建立したのが、トンネル上の発坂城の主の栗栖氏初代。
「栗栖」が口田の弘住神社そばの小山へ長い石段の先にあった大歳神社と弘住神社の神主の栗栖正臣さんとが、クロスする。


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# by forumhiroshima | 2018-03-19 10:44

川内町(河内郷)の迷路の道

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589年2月毛利輝元は吉田をたって20日に築城の場所の見立てに二葉山、牛田・新山、己斐・松山を視察、いまの場所に決定している。視察前に、案内人の安佐南区川内にあった福島大和守元長の屋敷に立ち寄っている。そののちに、福島家に敷物が不足しているようだと、調達し渡すよう申し送っている。(新修広島市史2)。福島家の質素な生活が思える。
一説として毛利家祖先の大江広元(胡町の胡子神社祭神)の「広」と“鍬はじめ・鍬入れ”の神事にも加わった福島元長の「島」を合わせて「広島」としたと紹介している。(新修広島市史2)

広島城築城から330年のち、浅野藩が作成した“芸藩通史”の添付された中筋・古市村地図に“福島宅址”と位置が記載されている。
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そして大正7年1909年の国土地理院地図に同じく“福島宅址”があった。
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この400年を超えて公式に記録される福島元長・宅址は普通じゃないな、いたく感じた。“広島の地名”に残された家名も伝承とはいえ、凄い。
「福島大和守元長は古代からの官人の家の人で“守”の位の称号をもつ、国人領主といわれ地元の豪族だという。安芸国守護に任命されていた武田氏(1300年ごろ銀山城建設)に被官し、1340年ころに守護代(現地知事ほどか)にも任命されている(東晧傅 修道大)。」銀山城落城・武田氏滅亡1541年には戦勝者大内氏から銀山城代に任命されている。そののち1555年厳島合戦の後に毛利元就の銀山城入城にも立ち会っていた。この時に毛利氏に所属している。元就はこの城を隠居所と考えていたといわれる(新修広島市史2)。その彼の太田川河口の情報は築城に欠かせない。
守護という行政長官に仕えた役人で官職名・大和守と代々名乗る彼の一族の太田川中流での長い戦乱を潜り抜け持続した時間は、これもすごい。

その領地に古代官道が通っていた。福島氏宅と地図に残っている場所の才ノ木神社が祈願所だといわれる。神社はその官道面していた。そばの堤に車道のすぐそばにわざわざ石段が残されているのは、古市の町中へと古川を渡る官道の痕跡ではないか。対岸の古市の小路を西へ入ると住宅に囲まれた江戸期の地図の山王社とある久保山神社前にでる。このあたりの迷路のような古道が氾濫原にのこった古代官道の痕跡だろうという(広島市文化財団)。福島宅址が才の木神社に隣接してあるように思う。古代安芸国佐伯郡と安芸郡の郡境界線がこの辺りにあった。才ノ木のサエは遮るのサエだ。福島氏は大内氏が武田氏を滅亡させたとき河内の領地を安堵されている。

1607年の太田川の氾濫で東の口田町と分離した。口田と中筋とは一帯だったことを知らなかった、おどろきだった。
口田の町をだから走ってみた。口田の弘住神社のHPに、兼務神社、のページがある。兼務とあるのは、ほかの神社の神主をされている、ということだろう。口田・月野瀬神社・新宮神社から、川内・温井八幡神社、東野・平堤神社、中筋・才ノ木神社、古市・久保山神社を兼務とあった。口田の町に大田川氾濫により新しい流路がうまれる前、までの古代からの行政区分にこの神社が全て含まれている。福島氏との関係を考えてしまう。弘住神社境内に廃止された小田の川渡しの石灯籠がモルタルで丁寧に修復されて、移設されていた。川により分かたれた向こう岸辺へのレクイエムか。
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月野瀬神社からJRのちいさな踏切をぬけて車が飛んでくる土手の車道にで安佐大橋を渡る。西橋つめの信号の交差点から右の土手の車道から分岐する小道へ。すぐ正面に中調子の胡神社の神額の鳥居。拝殿は恵比寿神社の神額、そんなことどうでもいいのだけど、気になる。
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「船乗りたちは太田庄の加計から一日で下ることができる。広島で夜を過ごせば加計まで次の日に帰れない。広島での荷下ろしを早く片付けて中調子までかえっておれば、次の日に加計まで帰れる。ということで中調子は帰路の宿泊地として栄えた。 (川内の生活1955.7広島大)」
そこの行きの荷、帰りの荷を求める人ができ胡子神社に市場が生まれる。市場に神様が鎮座する。品物をまずお供えし神様に預ける。神様のお供えになる品物なら間違えない、と求める人がいる。そこで御下がりにして頂く。ちょっと皇居への御用達の品物と似ている。御用達になるものなら、まちがいない。市場の信用の基準に自分ではない他者にあたる神様が勧請される。市場には必ず神社が鎮座する。それは品物から自分の所有権を抜いて、無縁にする。それも求める人とも無縁であって、交換することがシンプルになり、無限に拡大してゆける。気遣いは必要がない。品物に魂があった時代のことだが。

堤防の車道の下に平行してある小道を進むと、道に面してに民家が現れる。堤の車道より低い場所にある。「中調子の堤防の上には非農家が家並みをそろえているが、船乗りの帰航の宿泊地として栄えた(川内の生活1955.7広島大)」その古い堤防の痕跡だという
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。こういった場所は対岸の矢口はすが丘団地西のJR路線、堤防車道との狭い間の民家にも同じ痕跡を感じる。ここにも胡子神社があったが、それは今、新宮神社に移設されている。
すこし変わっている、ヘンだ、と思うこの場所には必ず訳があるものだ。(川内の生活1955.7広島大)の記述を読んでここに宿泊の集落があって、新設された堤防の下の横に残されたと理解で来た。川船の船頭さんが浮かんできた。ここで一服・・・。すぐそばに観音堂と鐘楼が古びて、用水路をまたぐようにある。昔の時が固定されてあった。
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堤防から川内へ入った。地図では結構方形に区分され道路網なのだが、(条理に区分された時代を感じた)。
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その区分の中は車道、路地、あぜ道、水路と交錯している。畑とビニールハウスと小さなプレハブの家、アパートも交錯している。
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とまどったが、すぐに、何処へすすんでも堤防にぶつかることに気づいた。迷ってもいい、余裕がでてきて、その分景色の細部が飛び込んでくる。農地に働く人影が多いのにビックリ。
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人のいる景色の中で一番が子供たち、次が農作業のひとたちを見るのがすきだ。景色に角がない。素直に心にとどいてきて、記憶にかわりやすい。その景色にこの町で出会った。

安佐南区区役所のまちめぐりのパンフレットを取り出して、福島大和守の墓所へ。
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HPに写真にあった住宅の中へ。驚いた、です、大きな墓標と五輪塔がない。まさに墓荒らしの行状。気分がわるくなった。
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思い直して、「中調子の明円寺は1506年行空の開基というが、1604年福島大和守の次男京進が行空に改変して開基したという」に直行した。もしやパンフにあったおおきな墓標がうつされていないか、と思った。そこで、見当たらなかった。
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とても、辛い気持ちが広がって、そこから急いで離れた。角のない景色が消えてゆく。
福島大和守元長は広島城完成前年の1597年亡くなっている。

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# by forumhiroshima | 2018-03-10 10:33

古墳の間・一間道

口田町にある道しるべとポストの分岐の東の尾根の古墳から卑弥呼の三角縁神獣鏡と、リストバンド古代版の緑色凝灰岩の車輪石が発掘され、4世紀の歴史が現れている。卑弥呼、車輪石の車輪に過剰反応してしまう。(中小田1号古墳・国指定遺跡)

車輪石  「古墳に葬られた死者の副葬品として発見される。そして大型の古墳には数多く副葬された事例をみる。身を飾る装身具というだけでなく、死者の生前の地位を象徴していた。しかし、腕を通すにはあまりにも孔が小さいものもあるので実用でなく、権威を象徴する宝器であったとみる考えもある。昔、京都にお住まいのお公家さんの末裔の中にはこんな小さな孔でも通す細い手首の方もいたと、ある先生から教わった。仮に手首に通せたとしても、腕飾りとして持ち上げ続ける力がそのお公家さんにあったか疑問だから、やはり腕飾りとしては非実用の場合もあったのであろう。古い頃には碧玉(へきぎょく)主流の材質であったが、新しい時期になるとほとんどが緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)に替わった。(国立歴史民俗博物館)」
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古墳のある町、豊かさから生まれたにちがいないその痕跡を抱く景色を示すいささか自慢げな掲示板。その指す方向に姿をさがしても、多くは尾根の森の中に隠されている。なのに、その森を忘れていないことが多いようだ。
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山陰・石見、益田の山陰の海が遠望できる久城の町がある。季節の海と空をだけが見える水仙が咲く崖っぷちの道そばのスクモ古墳から車輪石が発掘されている。その「外形が環状のものは石釧(いしくしろ)」とよばれる。発掘品・クシロが町の名になっている。古墳埋葬品が地名?になっている。とても価値があったのだろう。胸張って“クシロの町”です。
車輪石はここ口田の町から大田川を50km遡上した河畔の筒賀の横路小谷古墳でも発掘された。四世紀が川でつながっている。「車輪石は、初期の近畿政権の手によって一元的につくられ、各地の首長に配布されたものと考えられる。ニッポニカ」

小田用水とJR路線に沿う道を北上する。右手2ツ目の踏切を渡って車道を横切り路地を道なりに緩やかな登りで中小田公園がみつかる。その西隣に祠を包み込む椎の木の中に古墳の入口が正面に開いている。そこにしめ縄が張られて、平野神社と大穴牟遅神とある神額がある。大国主の別名とされる神名だが、シンプルに古墳の穴の奥の祖先が神、それでいい、とおもった。いや、大穴牟遅神・オオナムチは祖先が眠る古墳なのだ。とても可愛らしい。子供たちはきっと、もぐりこみたくなるだろう。
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古墳のすぐ下の教円寺の墓所の石垣(古墳と今の墓地のセットは何処にもある)をまわって、車道を横切り小田用水の流れそばの道にもどって北上する口田小学校教材の「ふるさと口田」に、学校西にある杉崎山に大歳神社があって、そこに5世紀中葉の円墳に枕石を置いていて、多数の鉄製品が検出と記載がある。「枕石」?なに。北枕って言葉もあるな!。大分宇佐神宮は枕がご神体のひとつになっている。「枕石」になにかありそう。
そのお宮がなかなか見つからない。Google Mapにも記載がない。探して通ったはずの路地の民家の奥にはさまれた結構急坂の石段とその上の鳥居をやっと見つけた。
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神社は新しく拝殿が再建されたようだ。その後ろの石垣が丸い川原石で一部に造られている。
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どこか特別ななにかが雰囲気がただよう。「安佐南区まちめぐり」のパンフレットに“とんこ石組”とあった。大田川流域だけの石組みらしい。この情報が気になっている。古い鳥居に大歳神社との神額がかかっていた。(後日訪れた矢口の西願寺古墳の石組みが“とんこ組石”になっていた。モルタルもないころ、楕円の枕に似てる石で壁を組んでいた。)
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,もどって小田用水の道を北上する。農業用水には片側だけに道がつくことが多いようだ。田が掘りこんであるのは水面を用水の水面より下げるため。出た土砂は畑の土盛りや家の建設用地用に使用された。川は排水用、落とし水にと、設計されている。

用水道を進むと正面の森に鳥居、それも二種類の神社が現れる。
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祭神がきっと複数だったのだ。すぐそばにJR線路。上に高架で車道、騒音が降ってくる。「ふるさと口田」に背後の森には縄文、弥生の土器が見つかった太田川流域最大規模の前方後円墳だとあった。新しい高架の車道で削られたとある。本殿右後ろに巨木の杉に注連縄。そばをぬけて登ってみた。踏み跡のような木々の間の痕跡をたどって、尾根になる場所でビックリ、古墳のモニュメントが場違いに鎮座している。この古墳が神社のご神体だろう。ここからガラス玉が1731個もみつかっている。ここは縄文土器、弥生土器も見つかっている。数千年の時、ここは、きっといつも聖地だった。
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JR芸備線の路線を渡って車の高架くぐり進むと矢口川の河畔のお地蔵さんも座っている古びた小道にでる。この道が好きで幅1.8mほどで「一間道」と命名している。江戸期の村道のサイズが一間ほどだ。
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農協前の信号で車道を横切る。矢口川の集まっている三つの橋のそばの登りの小道へ。矢口川の左岸をたどる道は手すりが設置されて、小学校の通学路に整備されているのかもしれない。走りやすい、静か。
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橋にであってそこでUターンして川沿いに車道に変わった道を下ると新宮神社の御神木の銀杏が見えだす。祭神は大山祇命と「ふるさと口田」にあった。関ケ原戦い前年1599年の建立。
神社を抜けてから直進しカーブミラーの四つ角を右。この道が旧県道、ここに西の幹線車道へ移転した郵便局跡があった。この町の昔のメインストリート北上して広い車道の交差点の正面に見える幅一間の路地へ。また「一間道」が現れる。道に時間がとどまっている古さ。おばあさんの妖精がいます。その古さを証に道なりで幹線車道にでて、横断して三叉路に先ほどの路地の続き「一間道」を見つけられる。

「一間道」の右の石垣の一部が開けてその奥に神社を発見する。
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入口の石垣に神社由来がかかげてある。
「推古天皇は、河辺臣を安芸国に遣わして船を造らせた。舟材として霹靂・ヘキレキの木があったので伐ろうとした。そのときある人が、霹靂の木(雷神の宿る木)です。伐ってはなりません。雷電がおこり大雨になります。といった。河辺臣は、「木こりを害するなら、自分の身を傷つけよ」と祈った。雷鳴が轟いたが河辺臣は無事。雷神は小さな魚になった。この魚を木の枝で挟みとって焼いたところ雷もおさまり無事に船が造られた。そこで別雷神(加茂大明神)を祀り、この地を大明地と称した」
河辺臣が安芸国で造船をしたところを船建築材の場所・古代船木郷にあてている。古代安芸国船木郷は三原市本郷町船木、呉市三津田、安芸高田市高宮町船木が比定される。本郷町船木には霹靂神社が二つ鎮座している。高宮町船木は江川に2kmほどの場所、呉市はいまも造船のまち。本郷町船木は沼田川河畔にある。
ここが造船の場所だっただろうか。
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境内は広くその端にスタジイの木(椎木)が二本そそりたっている。雷のおちた木・霹靂の木には神威がやどるという。ここ月野瀬神社に霹靂の木があったのだ・・・ろうか。境内の椎木の祖先だろうか。そうそう、二葉里の鶴羽神社はその昔、椎木八幡社とよばれたっけ。
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本殿背景の森から弥生時代後期の村がみつかっている。すぐ上の山陽道の高架があるとは思えないくらい静かだ。すこし高い境内に社務所がある、閉鎖された南向き空間で、空が広がり明るい。とても落ち着ける。弥生の時間が感じられるから、なのか。

神社のすぐそばから南へ一間道と交差する道がコンクリートで固められた溝を渡る。そこに流れるのが絵坂川。大阪の江坂の淀川(神崎川)の氾濫原の地名を連想する。月野瀬神社由来にここは大明地とあった。大明池、イケではないのか。
※太田川河川の試錐資料(ボーリング)を検すると新流路・いまの太田川に厚い粘土層があり水流の停滞によるもので、河跡湖の推積層を示す(広島の農村1995)

この町の古墳、古跡は海抜15mほどに点在している。太田川の氾濫のデーターで標高10mまでだという。広島城は標高6mにある。それでは江戸期に氾濫に洗われた。平成22年7月にJR安芸矢口駅標高9mが水没している。
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縄文・弥生の人々の川沿いの氾濫原のあった湖を古墳時代の人々が大明池とよんだのでは。ここに矢口に流れ込む川の流れは西へ東原・中筋の北岸を進み古市で本流に流れ込んだのだろうか。
「一間道」は標高10mほどで、この氾濫原の岸の道ではないだろうか。
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1371年大宰府に赴任する室町幕府の九州探題・今川了俊が三原市船木そばを通過したの紀行文「みちゆきぶり」で残している。
「日が暮れてしまってから、河面に舟をうかべると、夕闇のなかの山の端のかげもおぼつかないのに、ほたるがかすかに飛びちがって、なんとなく心細い。そこへ松明をとぼしてやってくる人々の火かげが川の波にキラキラとうつろって、まるで鵜飼いでもしているようだ」
この矢口の湖が存在したら?の景色昔を妄想させてくれる。

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# by forumhiroshima | 2018-03-03 12:34

大田川の流路ストーリー

戸坂から河畔を北上する古道が芸備線にそって走り出すとすぐに幹線への分岐に出会う。そこに郵便ポストと道しるべの石柱が並んで迎えてくれる。チビッコな情報をお仕事ご夫妻に思えた。名前を付けて呼びたい!カワイイ。
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お父さん?の石柱に「左 東野 渡テ 古市ニ通ヅ」と刻まれる。道を進んでJRの高架橋手前で車道を横切ると足元に小田用水にそった道がみつかる。
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用水にそった道がJRの踏切を渡るその先に弘住神社と深い森が現れる。
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この神社は川向うの中筋の福島大和守の祈願所の才ノ木神社の祭司を勤めていた。
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弘住神社の祭祀圏は矢口・小田と対岸の古市・中筋・東野であったという。930年ごろ、このエリアは安芸国・田門郷・タト、よばれていたとの記録がある(倭名類聚鈔・延喜式)。
聞き語りなのだが、胡町の胡神社の祭司は広瀬神社が担当されているという。
市内の広瀬神社は毛利元就の菩提寺の洞春寺があった場所で、胡神社の祭神が毛利家祖先の大江広元であることにかかわりがあるのかもしれない。神社の祭祀圏・氏子のエリアは何かしら昔の当たり前が埋もれているようで、覗き込みたく、知りたくなる。
この田門郷と呼ばれた場所に条里制の土地開発の痕跡は現在残っていない。氾濫頻発の所だから消滅した、のだろうか。

「古代に条里制の開発が進められたのは収穫への税金賦課の計算に便利であったことにもよるが、大きな理由は牛馬農耕が人力の2.5倍の効率があり、耕地を方形に、尚且つ一辺60間ほどに整備すると30間の耕地とでは前者の効率が後者の1.2倍になることによる。(開拓の歴史・宮本常一)平安時代に拓かれた水田の大半が条理制の設計であったことは、圧政による押付けからではない」、という。「増産する生産機構を斉一化したことで国民意識が生まれ、国力の伸張するときの国全体にみなぎる気風を万葉集の数々の歌にうかがえる。宮本常一」
そのための農耕馬の生産は、東に向けた峠越えで馬木、12世紀の記録にある豊平、また佐伯も牧がある良馬の産地だった(広島県農業発達史)。

古代の“田門郷”矢口・小田・東野・古市・中筋を今の町行政区分で大正7年国土地理院地図に記載してみた。
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地図では区分は古市・中筋・東野を合わせて三川村となっている。東から太田川、古川、安川の三川か。一つの町に三つの流域が入っている。この区分は明治22年古市・中筋と東野の合併によっている。町の区分は太田川を渡って右岸の高宮郡(1664年浅野藩により安北郡から改名)に含まれている。すぐそばの大町・祇園の太田川左岸は沼田郡(佐東郡からの改名1664年)になっている。川を境界としない不自然さがある。とても気になっている。
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明治31年(1898)に安佐郡となり昭和55年(1980)に広島政令指定都市指定時に安佐南区が成立し、太田川の右岸に所属し、区役所が古市に設置され区の中心になった。大田川左岸の矢口・小田が合わさった口田は安佐北区にふくまれた。1607年の洪水で生まれた太田川から373年後となっている。
三川町の南の古代幡良郷は古川に分断され東原・西原に代わっているがここも三川村とおなじ変遷をたどった。

古代に安佐郡と佐伯郡の境界は古川だった。1607年の新しく流域を変えた太田川を行政区分では安佐と佐伯をミックスして安佐郡としたのが明治31年(1891)。氾濫するたび現れる流路にもてあそばれている様子だ。
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いきなりですが、自転車は道を走る。その道に駐車や障害物があると、えらく腹がたつ。個人的な道路使用は許せない!。ここは公共なエリアである、と。が、自分も走りながら道を個人所有しているのである。
ふと思う。土地の境界区分に打つ杭は、はたしてどちらの所有なのか?。
境界が線で描かれても、その線はどちらの領域に所属しない。線でなく面で不確実な領域を境界と認められると、その面はだれの所有でもない。支配するものが居なくなる空間がうまれる。

この河の流路の変遷が行政区分の不確定さをつくってきたのだろう。そこは河原で水に沈む氾濫原だった。
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この流路の変遷を歴史の中の追った論文が広島文教女子大のHPに見つけた。「中世地域経済の発展と広島湾頭 角重始」(図1 古代~中世の太田川流路図)
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① 太田川は可部で北から根の谷川、東から三篠川と合流し南下する。流路に砂州ができており、いまの高瀬堰あたりで東西に分流していた。東の流れは矢口から西へ急角度に流れ、田門郷の北の境界となった。
② 西の流れはいまの古川の流路をとり古市で西の旧安川を含んだ流路で南下する。田門郷の北辺を流れてきた東からの流路は古市あたりで合流する。
③ 古市から旧安川に流路で南下する。いま公園になっている旧古川よりも広い流域をもっており、東原と西原に地域を分割した流路は遅く戦国時代になる。
論文の図1には流路は①②③と流れ④の流路で大芝水門あたりで海へでたと説明される。④から⑤に分流したのは中州別符(いまの中須)古河村(いまの古市)と氾濫原の地名を残すことから、このあたりが安川・古川が合流しまた分流した場所で今の古市橋あたりだろうという。ここに1955年に安川が古川へ流す放水路が過去の流路跡につくられている。中筋は流れが集中した場所、いわゆる「筋目」からの地名ではないかともいう。

安川の「安」はもしや「野洲」では?。琵琶湖東の野洲市は野洲川が山地から出てそこにつくった扇状地の氾濫原上にできた町だ。などと妄想がふくらむ。
古代の田門荘の北の境界線が、古太田川の東の流路と関係あるのか、はわからない。ただ道路や水路の方向を想像するしかない。

大田川の流路の変遷について地理学からの論文が広島修道大学のHP掲載されている。東晧傳「前近代における広島湾頭地域の開発とその進行」。地形から読み取れば、矢口から西へ洪水時には流れができる、とある。掲載された図で矢印を赤くしている。
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広島築城に関わった福島大和守の痕跡をさがしていて、いつの間に古代からの安佐、佐伯両郡の境界線を不明にした流路を探すことになった。そこに生まれた無縁所ともいう氾濫原に立ち上がった人々の生活の痕跡の道がそこにあること、に興味がうまれた。

ただ氾濫原が頭の中で暴れて、しまっている。

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# by forumhiroshima | 2018-02-24 10:15

ストリート、ストーリィ・条理制の道・福島大和守を訪ねる

430年程前の天正17年(1589)2月20日。 吉田町を出発した毛利輝元が北庄(広島市安佐南区川内あたり)の福島大和守元長の屋敷を宿舎にして己斐・松山、明星院・二葉山、比治山に登り、広島城の場所を定めた。(広島市新史)。福島元長の屋敷が浅野藩・芸通藩史(1825年完成)にある絵地図に書き込まれている。どんな所にすんでいたのか?
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江戸期の芸通藩史の地図にある福島氏屋敷跡の八幡神社が地名だろう才ノ木に記載されている。いま才ノ木神社として古川(旧太田川)の面してあり、福島氏の祈願所であったという。「才ノ木」は「塞」、さえぎる神で境界を示している。キは城ではないだろうか。ここに福島氏の邸宅という城塞があったと、妄想すると、何だかどこかでみた戦国の映像がうかんでくる。

この場所は古川を渡って古市という昔の市場に賑わいを思わせる場所に渡る地点で、ここに屋敷、城塞があるってことは、川を渡る人から通行税をいただくtoolgateなのでは。福島大和守は渡し人・船頭さんの親方のだろうか。

「どこへ行くのよ、知らぬ土地だよ・・・」渡し場って心地よい響きがある。千葉・松戸の矢切は谷・ヤのオワリ・切、谷を出てきたところ。ここの矢口は谷・ヤの入口、これから谷を登る。追分は山へ分け入る。落合は下ってきて出会う。旅の言葉に憧れる。

古代山陽道・大宰府官道がこの才ノ木神社そばを抜けている。福島氏の神とともにいた官人としての姿が浮かんできた。古代の行政は神に寄り添っているように感じている。大和守という朝廷が下賜する官職の位が輝く。官道は府中町を経由して戸坂から古市、大町へ、とむかったという。

古代山陽道・大宰府官道が府中から戸坂へ入る場所に7,8世紀、条里制といわれる長方形が並ぶ田が拓かれた。そこに中山峠の谷から南へ流れる中山川を条里制の地割に直角に曲げ合わせる古代の川の付け替え工事の痕跡がある。JR芸備線の中山踏切を府中町へ向かう土手道がそれだ。

そう知ってここに立つと、なぜか時間の重層なんだと、感慨がある。今は広島駅への高速道路の工事で、美しかった土手桜並木もさっぱりとバッサリ伐採されてしまった。2018年の春が一つ失われた。
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踏切を越え川が屈折する所を右へ土手をくだる道が、古代山陽道でいまはJRの車両基地の新幹線車両がズラリ見えるのフェンスにぶつかる。道は基地のフェンスにそって南下し、バイク・自転車・人、通行可の長い長い陸橋を登り車両基地を東へ越える。ワクワクする長さ、眼下に新幹線車両、チビッコがいれば大喜びだろう。陸橋を下ると、幹線道路にのみこまれるが、府中本町の古代山陽道・大宰府官道になる古道へつづく。
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桜が伐採の土手は条里制時代の設計でその南北の角度が安芸郡系条理角度といわれ(祇園あたりの条里制の痕跡は佐伯系といい安芸系とは角度が異なる)。安芸系は中山峠を越えて、戸坂の条理制のラインに現れる。条里制は神社を基点に設計されている。その一つの基点が西の狐爪木神社・クルメギ、また一つが東の三宅神社の位置とされる。戸坂に安芸系の条理制の区分が残されている。
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中山峠の登り約1.6km標高差45mほぼ直線の古代官道仕様と、JR路線が平行してシートで覆われた路線の無機的な景色が、つらい。下った戸坂の町並みに入ると、道や水路が直角に交差している。それに引き換え西の狐爪木神社のあたりから道が交錯しはじめる。この対比は条里制の名残の景観となることを残しているのだろうか。古代の課税単位は「束・ツカ」で、戸坂にある“千束”地名はそんな遠い時間の豊かな収穫の景色を思わせる。農地の広がる景色があっただろう。
戸坂の西の町・くるめ木の並みの道は曲線に交錯している。鎮守の狐爪木神社のクルメギはクルメク、川が大きく蛇行する場所に付く地名との説明は納得させる。川が残した不規則な砂州にそって人々が寄り添って交錯する道になり、広がった町なのだろう。クルメについた「キ」は「城」でここの小山に中世の城があったと妄想したくなる。尾根の先っぽを切り落とし、城にする瀬戸内海の海賊たちを感じる。そばに八坂神社・祇園さんがあって、古い賑わいがあっただろう。路地の郵便局の景色も古風がある。

安芸大橋にもどる。ここに吊り橋があった記憶があって、昭和27年に架けられたとHPで見つけた。それまでここに渡船があったそうだ。条里制の安芸系角度も太田川を渡り、東原にその直角な道筋で痕跡を残している。
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安芸大橋のすこし川上で川を渡ったといわれる官道の直線の道の痕跡は600mもすると行き場を失う。条里制の痕跡もそこから北では失われる。
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1607年、洪水で東原と戸坂の間にあたらしい川が現れた。それまであった安芸角度の条里制は途切れることなく両岸に残った。土地が分断されたことの証が安芸系条里制が担っている。

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# by forumhiroshima | 2018-02-20 13:17

ストリートストーリィ 土手内の神道の木

平和公園から南下1.5km。吉島のおおきなゴルフ練習場や住宅展示場を囲む弓形の道があって、元安川西河畔からすこし下る弓の弦になる道に入った。直線に西へむかって信号のあるその向こう角に店中が洗われたように瑞々しい、店の戸は十分に風を入れるように畳まれて隅っこに、ステンレスのショウケースが光っている、そんな魚屋さんがある。裏の路地に評判の酒屋、もっと奥の路地にお酒のディスカウント店。そばに銭湯。この町に住むってことは、横文字で、ラッキー!。
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店をすぎての向こうの西空に大きく広がる緑が頭を出しているのを見つけた。ドキドキしだした。府中町本町の路地の向こうにそびえるクスの巨木に出会った時もそうだった。あの町の路地に泉が湧き出て、板塀下の疎水が音を立てて流れて、「暮らし」という言葉が浮かんできた。
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どこかの町中で出会う巨木からは、ひどく目立つのに、やさしい、何かが降りてくる。おおきな緑で町を包み込んでいるようなハーブな気分が降りてくた。ここ吉島にも、巨木がある。街角を回れば、もう旅(永六輔)。

緑の下の石組みに赤い鳥居がある。緑の正体の大きなクスの木、そのそばにエノ木が並んで冬枯れのエノ木は枝だけの頭が背伸びしている。吉島稲荷神社の神木たちで被爆樹木に指定されている。先日ここにNHKのこころ旅で火野正平さんが現れていた。
この境内で読まれた手紙はこの町に数年赴任した青年の思いでの木々だとあった。彼の心にのこる暮らしが木々の下にあった。
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吉島町・西、東吉島町は江戸期から明治までに干拓された(図説広島市史)。海の干拓地は堤防で囲まれて、中に塩抜き用の排水路が造られて後に農地にされる。市街地化すると堤防上に家が建てられ、水路は暗渠か埋められて道路に。
そこに堤防の石組みがその景色に残され、水路は直線に道になっている。干拓事業の区分も道として残されて、ここの弓型の土手道にも街並みの歴史が埋め込まれている。時間の影のスライドショー。なかでも、その景色の変遷を3Dとして稲荷社の木々が、自分をドキドキさせる。
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そんなドキドキが干拓されてこの町に生まれた、元の海の呼び名が知りたかった。広島築城まえに広島湾はないだろう。“築城まえの海”などとは、いいたくない。
「もしもし中途などにも、少し逗留も候ては、笑止千万、興あるべからず候。川の内(エノウチ)警護船五六十ほども仕立て候申し越し候、小早川・御方警護、六十艘七十艘も御着候はば、・・・・」毛利元就が小早川隆景に厳島合戦まえにおくった書状だ。
「川の内はまた江の内ともある。江と川とは同意に通用した。江の内は広島湾頭、今の広島を中心とする海浜地帯であろう。神武天皇東征のここでの行在所は埃宮・エノミヤといった。埃宮・エノミヤは江の宮の意で・・・  長沼賢海・海賊」
どうも、元の海はエノウチと呼ばれたらしい。

安芸国の古代の一の宮(厳島神社はのちの昇格)だったという速谷神社(HPによれば)のそばに流れるのが、可愛川・エノカワ。安芸国国府在所といわれる府中町の埃宮・エノミヤ(ただしこの宮は明治時代建立)そばの川は榎の川・エノカワと「エ」が現れる。こじつけっぽいけどね、矢野町絵山や宮島のそばの絵の島はどうなん!中区の榎町は?。等々。
そうなると「エノ木」は、とても気になる。

民俗学者の柳田国男は、神を勧請する木があったという。それを「タタイの木」という。“タタエ”る木かもしれない。諏訪神社の御柱のモミの木も、京都・上賀茂神社の御神木・椎の木も「タタイの木」だという。またタタイはタタリに通じ、
神をまつり神意を伺う場所に生えている神が降臨してくる木をいう。神が降臨する場所は木だけだなく、岩だとか、立てた竿でも良かったようだ。神は必要に応じて一時それらに鎮座し、神域を巡回している。のちに、この巡回道に岩や巨木の代わりの祠がおかれる。

エノ木が祟ることのエピソードに幕末宮家から徳川家に嫁入り(降嫁という)された和宮の行列が京都からの道中、嫁入りの行列はこの前を横切ると祟りがあるとされる中山道にあったエノ木を避けたという。この木には神威がやどる。
福山市の西の郊外の山手町の西国街道の交差点に一里塚だったという表示があるそんなに大きくないエノ木がある。松じゃない、のが不思議だった。どこか元気なくて、地元の皆さんに避けられているのか!と木にむかってたずねた。県内唯一の一里塚エノ木さまだ!と返事が・・・。
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エノ木は巡回する神のルートを示す「タタイの木」であったことが忘れられてしまったが、かろうじて微かに一里塚の木とされて、記憶をのこしたのだろう?と、は、おもえないだろうか。歴史の記録が残されていないころ、人と植物との交流とは今では考えられないほど深いつながりが、植物の生態のあり方をもってあっただろう、と誰も理解している。
柳田国男はエノ木に寄生木(ヤドリギ)が付きやすく落葉した高木を注目したのでは?という。またこの木は枝を落としたり、伐採したりしても、盛んに「ひこばえ・孫生え」する。この萌芽更新の生態は被爆し根本から伐採され、再生した白神神社の前にあるエノ木に見られる。この再生能力も「タタイの木」の要因かもしれない。モミの木は、独立樹木としては一世紀は超えないという。諏訪神社御柱の七年更新はそこらを感じさせる。
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エノ木の「榎」の漢字は国字(日本でつくられた漢字)で大陸では「朴・エ」と書かれる(日本人と植物・岩波新書)。この字が木偏に卜(占い)で「エノキ」と読まれるという。古くは占いに使われた信仰に関わる木ではなかったか?とある。なんとか「エ」が現れた。

明治20年の地図に吉島につくられた干拓地の荒野にポツネンと稲荷社が記載されている。社の横に「天明七年(1718) 空鞘稲荷神社の分祠としてこの地に建立す」と由来が建てられている。
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以前江戸期の一揆を以前に調べたことを思い出した。天明三年浅間山大爆発以後の関東地方飢饉で米が江戸へ価格高騰をねらって米が集中し、江戸ばかりか地方各地で一揆発生、広島では天明七年五月に発生している。エノ木もここへ嫁にきたのだろうか。丁度300年前の混乱の時、干拓地の荒野の原っぱ中央に祠が海を背景に置かれた景色は夏の青空の白い雲の中に浮かんできた。その景色は神々しい。
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神社から西へ細い路地を抜けると変形の四つ角にでる。
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右への路地へ入ると道なりに弓型の道の弓の部分で幹線道を横切るとゴルフ練習場にでる。河川土手道を引き返し南へ直進し信号をぬけるつ道が古い土手。次の信号の右の老人ホームの路地へ入ると、湾曲しながら道なりに西へぬける。これも土手道。家々は土手に囲まれて沈んでいる。土手は防音壁なのだろう。
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元は土手だった道は吉島小学校にでる。ここは大正期にはまだ海だった。学校の北の五角の小さな交差点に小さな祠が二つおかれている。ここを神の所在としたのは人間である。
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空鞘神社から吉島稲荷神社に勧請しまた新しくエノウチの海へのばされた干拓地の先端にかみを勧請した人がいた。その人、人達は人々に神を動かせる人だとされていた。地元の人々に神の人だと認識されていた。神勧請のルートの訳がきっとあったはず、それが古地図に残された一本の道。それは今羽衣町交番前の交差点から
南へ入る路地だろうか。その神の巡回道がここまで延びて、吉島の鎮守の神のエリアがひろがったということなのだろう。

吉島は葦が生えていた島の地名。今島であった痕跡はない。ただ吉島町というシンプルな地名と、地域の中心地だったことが多い郵便局と、地域にとって共同の場所で人が住み始めてから必ずつくられる墓地を探す。墓地が道奥に見えるお寺そばに、萬象園と浅野藩時代の領主一族の別荘の名のつくマンションがあった。Google Mapで細かいゾーンで標高がわかる。すごい!。マンションエリアが周囲より幾分高い標高に出てくる。きっと、ここなのだろう。
しかし、走ってみて傾斜はないような??MAP計測では2mもの標高差があったのだけど。どうなん!
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# by forumhiroshima | 2018-01-17 11:39

フジバカマ

黄金山の周回の古道沿いの民家の塀越しに山茶花が開きだした。

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朝の通学前の旧道はまだ静かでアスリート気分で走っているときに「アッ、サザンカ、ツバキ?ドッチ」とやり過ごした花が、スタミナが足れてツーリスト気分にかわってくると、写真でもとろうか!と足を止める口実になってくれる。普通に老いてきてますね。
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数年前に、もみの木公園のサイクリングコースがトップからワインディング始めたポントの夏の陽だまりに、白い小さな花が密集した手のひら程の扇形になっていて、その扇の塊にヒラヒラと動くものたちを見つけた。いい気分の下りコースでも、でも、ブレーキレバーをひいた。あのシーンかもしれない。

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ずっと以前、芸北の臥龍山から掛頭への縦走路の緑の森の木漏れ日をスポットライトにした蝶の群れにつつまれたことがあった。そこに木漏れ日をかき回すように白い虫取り網が振り回されて、そして老人があらわれ、それはギョッとする仙人と、のような出会いだった。

蝶の名は、を聞くと、アサキマダラだと教えられた。すこし地味ですね、蝶は派手な、例えば夜の蝶なんて・・・と軽口がいけなかった。この蝶は、フジバカマに集い、台湾へと半島へと海を渡るのだ!とすこし怒った、いや屈辱されたかの熱い感情が降りかかってきた。MTBで下ってきたことも、御不満だった様子。少々の説教の時間があって、また網が振られ、採った蝶を確認して放す作業が目の前で始まった。

何処かで採取されて、羽に場所と日付がマーキングされているか、を確認しているのだと、まだすこし青みがかった、わからんだろう!の拒絶のまなざしで見据えられた。忘れられない。白いフジバカマの花にMTBが寄りかかっていることにヤット気づいた。

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八ヶ岳の谷にフジバカマを畑に栽培し、アサギマダラを待っている、いや旅立ちへの応援をしている夫婦をTVが放映していたのを見たことがある。夏の終わりに、もみの木公園のフジバカマの花が終わって、薄毛にまとわれた種たちをコースのそこかしこに振って歩いている。この蝶、“なにかもって、なにかを変化させる”。

もみの木公園にもアサグマダラが現われている、ヨ!あの芸北の青いまなざしの老人に伝えたいと思った。

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先の戦争に出兵した学徒が前線で博士論文を完成し理学博士となったとの話題をもつ植物学者・前川文夫が、大陸で見た人里の様々な観察から日本に古代に渡来した稲作に伴ってやってきた植物を「史前帰化植物」と区分した。

「九州・佐賀県、唐津平野の菜畑水田縄文晩期遺跡、福岡県、福岡市博多区の板付水田晩期遺跡は水田造成、農具は高度な技術水準であるといわれる。稲作農業は中国大陸ではすでに4000年という長い実績を経てきて、すでにあらゆる条件に適応できるレベルで紀元前400年前後に横滑り的にわが国へ入ってきた結果によるのである。 水田の考古学・工楽善通」

稲作農業を新天地で展開できた人々、この国のパイオニアたちの痕跡は九州だけでなく、岡山市・松山市・高松市・姫路市・松江市・井波氏・茨木市・東大阪市など挙げられている。何処にもある「ワダ」の地名もこのパイオニアたちに関わるそれは、、というロマンもある。「ワダ」へと、走りたくなる。

「史前帰化植物」には稲作に伴って渡来した、“水田雑草”、畑に伴った“畑雑草(人里植物)”、そして畔などに成長する“田畑共通雑草”に区分されている。前川文夫はこの三種を約120の植物としてリストアップしている。

“水田雑草”は田植えに合わせて芽生え、稲刈り前に実をつけ種子を散布させ冬には土に潜む。秋の七草のなかに挙げられるものが多い。“畑雑草”は稲刈りのあと日差しをうけた田に芽生える。春を彩る花々で、それらの中で、春の七草にもあげられている。麦作伝来に伴われたとも、いう。

稲作が始まってからの景色に、稲作以前の縄文時代の植物たち・日本原産の花々は人々の生活圏にはほとんどみられないのではないか、といわれる。七草の選択基準の意味は今誰も説明しきってはいなようだ。だが、その草々に稲作の景色を感じることは、だれも同じではないだろうか。

「九州の菜畑遺跡、板付遺跡の開発期の水田土壌には申しわせたようにツツジ類の種子がかなり多くみつかっている。この灌木は縄文時代以来の自然林を切り開き、水田となった周辺の閑地には、春になるとツツジが咲き誇っていたのだろう。弥生人はこんな景色を眺めながら、田植のための田ごしらえをしていたにちがいない。水田の考古学」

いまは住宅地になるのか、新しい開墾地が放棄されて野に帰るところにツツジは最初に繁茂する。おなじ景色が生まれる。稲作伝来の開発最初の景色がいまも昔も同様にこの国の大地に生まれている。開墾地に田作りされた里山の景色は2000年以上も繰り返され、自分のDNAに、いや魂にインプットされているといえるのかもしれない。田園のあぜ道や棚田のトレッキングから生まれるなつかしさで確かめられる。

秋の七草にライアップされているフジバカマは“水田雑草・畑雑草・田畑共通雑草”の中には挙げられていない。だが「中国から有用植物として持ち込まれたもの、或いは、古里を思い出させるもの」としてもたらされた、と前川文夫はいう。フイバカマは薬草で利尿作用があるという。

パイオニアが伴ってきたフジバカマの花が咲くころ、アサギマダラは海を越えて、パイオニアたちを訪ねてきたのだろう。そしてまた海を渡るのだろう。

あの青い目の老人は、そう考えていたのかもしれない。彼の魂は蝶たちと海峡を超える旅へ出ようとしていたのだろ。拒絶の眼差しは、これからの冒険への勇気があふれ、こぼれていたからだろう、と。


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# by forumhiroshima | 2017-12-13 08:17


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