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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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大阪・姫島行方知れず


奈良盆地の東南ある長谷寺の初瀬川の対岸に与喜天満宮がある。
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参道途中から尾根を越えて南に出れる道が古風さいっぱいで引き込まれた。古道趣いっぱい。何とか走れる。尾根越えで小さな集落に入った。まだ眼下に見える車道まで少し距離がある高巻き道で、古道発見と喜んだ。道はだんだん畑に入って、とうとう下に見えていた車道に引きずり込まれた。まだ古道があるか?と山道で入るとその集落の名、吉陰・ヨナバリの看板に出会う。車道下れば墨坂、名張・ナバリは陰国・コモレルクニだそうで、墨色の向こう側なのか、そこに室の寺、室生寺がある。
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木津川の源流域の榛原の墨坂と大和川の源流域の初瀬・長谷寺とは約1km弱、標高差40mほどの距離。二つの川の分水嶺がこの近さ。そして木津川、大和川が堺に河口を付け替えるまで難波上町台地の北でつながっていた。

墨坂から木津川河畔を走ってみた。川下へ走るのだから、大丈夫!と。川の両岸に道があるわけではないが、木津川は辛うじて、どちらかの河畔に道がある。橋で右岸、左岸を移動する。なかには、登りで山中へ引っ張り上げられて、結果、引返す。道幅がえらく狭くなったら、沈下橋。これって怖い。が道あるだけありがたい。もう古道なぞ探す余裕なくなって、車道一本でやっと木津駅に逃げ込んだ。すっかり暗くなって、陰国を満喫させられた。景色は黄昏に白く浮かび上がる川面しか見えないサイクリングでした。川だけが目印でした。気が付きました。木津川にフジタカヌーがあったことを。カヌーにすればよかった。けど、途中にあるダムどうする?
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木津からJR大和路快速であっとのまの1時間の乗車で大阪梅田。まさに快速で快適。車中で距離をみると梅田からぐるり初瀬を回って190kmぐらい?。初瀬から木津の走ったのは90kmほど。平野川(旧大和川)大和川(初瀬川)木津川 淀川でまさに川の環状線。この円に琵琶湖 宇治川 賀茂川 桂川 と、主要河川が流れ込み淀川河口に難波の町をつくる。この環状線の唯一の切れ目に与喜天満宮が鎮座する。天満宮は区分される土地の境に置かれることが多い、と宮本常一は例えば、瀬戸内海の瀬戸田にある二つの天満宮のことを例に話している。瀬戸田には二つの行政区がありその西端にそれぞれ宮が鎮座している。水流の神の龍の頭を初瀬とし、尻尾を陰国としたなら何となく納得する。
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この川流域の環状線の流域を畿内としている。河内国、大和国、近江国、山城国、摂津国の雨は余すことなく最終に難波の上町台地の北にあつまる。この環状線で囲まれた土地の四方を四囲とし畿内とされる。この律令の発令ののち、貴族は朝廷の許可なくこの区分のそとには出られなかった。この律令が飛鳥でなく、古代難波の宮で646年に発せられたことに川の流域があるのかもしれない。
大阪の西淀川区の姫島神社が、姫を追っかけてきたイクメイリヒコの時代にはまだ島が出現してなく、海原だったといわれている。一方、大阪府西淀川区区役所のHPには「古代の文献に地名(媛島・日女島・比売島)の出典を求めて、「ヒエシマ(稗島)」を「姫島」と当地に比定していることに由来する。「ひめを・ひえ」と訛り、遂には稗島と書くに至れりとするもの差し誤りなきに似たり。(後段は西成郡史より)とある。司馬遼太郎さんは、「地名には落とし穴がある。面白いと思えば面白い。」そうです。姫島は古代にあったのかどうか。生島足島神ははたして島産みされてただろうか。淀川の砂の推たい運動が大阪湾の沿岸流の運動との拮抗したエネルギーが姫島の女神の所在の関わっている。
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縄文時代、温暖化の気候変化で海が陸地に進出して海岸に打ち寄せる波・沿岸流と風による流砂によって砂がたまり、例えば天の橋立のような砂州が生まれる。大阪湾では上町台地から北上して出来た砂州によって、淀川が運ぶ土砂は遮られ、上町台地の東側に堆積したため、砂州の西側の海になる古代には姫島が出現していないと、「大阪平野のおいたち。1986出版」の著者の梶山彦太郎、市原実は、記述している。この砂州は十三、加島にのび尼崎に到達している。生国魂の神々の贈り物。いまこの砂州の上のJR、阪急、阪神の路線が設置されている。国道2号もこの贈り物の上を走る。広島湾では太田川の推たい運動と沿岸流、潮の干満運動とによって、横川あたりの砂州の誕生から、二次的には、神田川の東西への流れ、また広島城築城時には今の本通りが先端部ではなかったか、と言われる。
淀川が運ぶ土壌の推たいした砂州の東側の内側に幾つかの島が出現してくる。それらの島には縄文、弥生の遺跡が見つかっていて、その一つに大阪市旭区の京阪本線の森小路駅そば森小路遺跡付近(GooglePH94+7H 大阪市、大阪府)が伝承の媛島ではないかと梶山、市原は述べる。地名の落とし穴から這いあがれそうだ。だとするとヒメ島は存在するのだ。神々の島産みにより、すでに生まれていた島々の景色の記録がある。
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姫島でなく媛島と書かれるのは、日本書紀に「牛を難波の大隅島と、媛島の松原とに放て」とあり(安閑2年、6世紀半ば)秋九月、勅してここに牛を放牧せられ,のち鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。※東淀川区大桐に乳牛牧址の由来の石柱がたてられている(Google PGXX+G4 大阪市、大阪府)。続日本紀の元正天皇2年(716年)に、牧を廃止された記録がある。約130年にわたる牧場だった。牛とかかわるヒメコソ女神伝承との関わりを連想する。

平安時代の延喜式という記録に東成郡ヒメコソ神社記載があって、現在は場所不明なのだが、これが、西淀川区姫島の姫島神社は、梶山、市原の語る媛島はこれなのか!としている。が、西生と東生の地名の違いがある。この違いについては、古代に淀川の右岸が西生とよばれ、左岸が東生となっていた。のちに西成、東成に字がかわった。土地が生まれる、成る、ことによる。現在の西成、東成は難波全体のうち上町台地の海側を西に、内側を東に分けていた地名が、だんだんに狭い地域に限定されて、今に残ったといわれる。難波の大地創世記を示す「生・成」は淀川を母としている。その母がヒメコソの女神は担っていたのでは。女神を追って半島からやってきた男神たちは、敦賀と出石にそれぞれ鎮座しているが、女神たちは難波から立ち去った気配はみつけていない。今も国生みは続いている。

ならば、姫嶋の女神もさがさなければ。
守口市の地図で森小路遺跡そばに祝町の地名を見つけた。大分の姫島の比売語曾神社とそばの祝島とが浮かんだ。「祝」に、神の島と祝、つまり神と神主との関連を感じる。西淀川区の姫嶋神社のHPにある由来に「応神天皇の御代、新羅の国の女神が夫から逃れて筑紫の伊波比(いわい)の比売島、さらに移って摂津の比売島(姫島)に留まったと伝えられている。」筑紫は九州のこと。伊波比が祝。守口市祝町そばに媛島があった、と妄想を確信している(この日本語オカシイ、かな)。大分の姫島は火山の火口の集合体で形造られている。古代の人々は国生みの神業として感じる同じ場所だったのだろうか。火山と洪水。

祝島と姫島は聖地を海を隔てて遥拝する、そんな神殿と拝所の関係ではないか。宮島・厳島神社と地御前神社、沖縄セーファ御嶽と久高島、兵庫赤穂坂越と生島などなどいくつも存在する。







# by forumhiroshima | 2021-09-08 11:17

ヒメコソの女神の赤玉・赤石

ヒメコソの話は古事記にも日本書紀にも二つ、半島の王子の話としてあって、新羅の王子の天の日鉾は牛飼いから取り上げた赤い玉から生まれた赤留売女神が逃げ込んだ日本へ追いかけてきた。比売は難波の比売許曾神社に鎮座。当人は琵琶湖を回って日本海にでて、コウノトリの舞う但馬の出石に鎮座。
一方の加羅の王子のツヌガノアラヒトは自分の飼牛を盗まれて、その犯人から取り上げた白い玉が美しい日売となった。王子が口説いたが逃げられて、追って穴戸の国、山口県・下関あたりにやってきたのちに出雲を経由して越前・敦賀の気比神宮に鎮座。敦賀の古地名、角鹿(つぬが)に名を残しているといわれる。彼には角があったとのでツヌガと伝承されている。比売はどちらも難波の比売許曾神社に鎮座。が白い玉の女神はのち瀬戸内海を西へ豊国の国東の姫島に至りて島の比売語曾神社に鎮座(許と語がちがって書かれる)。二柱の比売神は難波の地で同じ「コソ」で祀られることから、「両者の内容が重なり合うことから同じような人物と見なされる。(青銅の神の足音・谷川健一)」とされている。
王子たちが、二人なのか一人なのかは、古事記・日本書紀の製作者はヤヤコシスギル。が、今もヒメコソは祀られている。「コソ」は「聖地、即ち、マツリゴトの場所で、この言葉がとくに新羅、加羅という古代の朝鮮半島の国と関わっている。(神社と古代王権祭祀・大和岩雄)」とある。古代の半島での言葉だとは、王子たちが古代の半島からスタートしているのだから、そうなのだろう。

「コソ」の神社は出雲、島根半島の佐太神社そばに許曾志神社がある。
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特異な狛犬が猿と鶏の姿で境内で待ち受けている。出雲国風土記にある古社なのだが、拝殿正面の神額に「白髭神社」と掲げられている。新羅と似ている。許曾志神社の祭神はサルタヒコとアメノウズメのご夫妻。猿の狛犬はそこら辺からだろうか。ニワトリはどうなる?。比売の鎮座ではないようだ。王子たちに追いかけられる日女たち。半島の出生は同じだし、玉から生まれ出たのも同じ。だが赤玉と白い玉と違う。

瀬戸内の海で赤石の神と出会った。玉は石となって「コソ」=神社に収まっておられる。ツンガノアラヒトの最初の訪問地の穴戸、(これが長門地名の由来?か)その穴戸・下関の赤間神宮の鎮座地は紅石山の麓にある。広島を夜半に車ででて、九州のどこかを走るとき、神宮の前の海沿いの駐車場で仮眠させてもらった。大きな潮騒で目が覚めることもあった。早朝神宮の境内を散歩していた。大連神社があるそばに赤い鳥居の稲荷神社があった。
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赤間神宮は維新前は阿弥陀寺という高杉晋作の事務所みたいなところ。ここに赤い馬の形の巨石があったという。平家はこに都からの稲荷神を招来し紅石稲荷社を創建したと由来の看板があった。関門海峡は馬関とも、門司と赤馬で馬関。

赤馬関から瀬戸内海を東進して出会う赤石は周防大島の北海岸の久賀の赤石様、
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と南海岸の戸田の赤石明神。
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どちらも集落の端っこに鎮座されていて、この島出身の宮本常一は集落の入り口の守り神だとする。赤馬も瀬戸内海の西端の境ですよね。南隣の平郡島の南海岸に真っ赤な赤石神社が鎮座している。
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そばに海に面して、細い道一つで真水の大きな蛇池があり、
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蛇の伝説をつたえている。道一つが真水と海水を分けている驚きの景色は古来船乗りたちにはよく知られていただろう。海と空の青を背景に平群の赤石神社は赤色に塗り込まれている。

赤石や赤崎の地名はヒメコソにつながらないのだが、幾らもみつかる。防府市の向島・赤崎、上関町の長嶋・赤石鼻、周南市の大津島・赤石等々。瀬戸内の東端の明石は「赤石」が由来。JR明石駅から2km程の宮ノ上町の林神社は浜にあったおおきな赤石を祀った神社で、岩が海中に没した為に代わりとして創建とある。神社から海岸に伸びる参道の道は見事に子午線をなぞっている。子午線の町、明石の証?なんて。明石原人発掘地はここから西の海岸線にある。とても古くからの人の営みがあった。明石海峡を東進すると正面に生駒山。赤馬から生駒へ、「コソ」の半島との海峡のの、対馬をつけて、三馬ルート、とでも、どうか!。ただツヌハノアラヒトの比売は白石からの誕生なんだが?。比売コソの女神の誕生は牛に関わって,つたえられている。瀬戸内に点在する赤石の神の所在の島々は半島から持ち込まれる家畜の牛馬搬入ルートではないのか?。牛や馬は古墳時代末期に使役の家畜として持ち込まれた。馬は騎馬でもあった。牛馬の船旅ルートに水を与え草を食む場所、言ってみればサービスエリアやパーキングエリアを島々に設置した。としたら、どうなのか。周防大島の小松は「高麗津」いや「駒津」、倉橋島の南端の鹿老渡は「唐渡」だと言われる。港だけの機能の場所なのだろうか。

「中国地方の島では,牧畑が行なわれていた。牛馬の放牧地をいくつかに区切って垣で囲み、その一区画で牛を飼うとあくる年は作物をつくる。そして二、三年もすると、また牛を放牧するのである。宮本常一。日本風土記」輪作障害の起きる作物、麦・アワなどに用いられた。「牛は傾斜地に放牧すると等高線にそって食べていくものである。馬にもその性質があるが、牛のほうが強い。草の生えてるところを次々に横に食ってゆくと、段々が出来てゆく。こうして海辺より山頂にいたる段畑が積み重なって山頂に至る階段を作り出したのである。宮本」放牧や牧畑は瀬戸内の島では愛媛県忽那島、広島県生野島、岡山県鹿久居島、山口県祝島、祝島では今ブタの牧場がある。
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八島
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、平郡島、雌雄島、見島、大島など。それらの島は川はないのだが湧水あった。牛の背で石を運び石垣を造った。牛は本土に売れる大切な商品でもあった。牛飼いの人々が島にいる訳が牛馬が家畜として運搬したルートでもあったと思わせる。

# by forumhiroshima | 2021-08-09 15:58

大阪・上町台地の古代渡来者たち

大和の玉造のように、大阪の上町台地に玉造の地名がある。古代渡来するお客様で忙しいところだったようだ。

イクメイリヒコの時に、半島から逃れてきた嫁や恋人を探して上町台地の北端に現れた男が二人がいた。半島にあった古代国家、新羅の王族だという。
一人の男天之日矛(あめのひほこ)は牛飼いの男から手に入れた赤い玉が美しい娘となって妻となった。いつしか天之日矛は驕り高ぶり妻を罵るようになった。妻は「私はあなたの妻となるべき者ではない、私の祖国へ行く」と言って小船に乗って逃げ渡り、難波に留まった。今は比売碁曾社・ヒメゴソに坐すアカルヒメという神だ。「古事記」
もう一人の男、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は飼っていた牛をある日見失った。その牛を食べてしまった農民たちから、償いとして手に入れた白い石を寝室に置いた。すると、白い石は美しい乙女になった。喜んだ男は、さっそくこの乙女と交わろう、近寄った。すると忽然と消えていなくなってしまった。乙女は海を渡り、日本に辿り着いた。乙女は難波にいて比売語曽社のアカヒルメ神となった。「日本書紀」

逃げられた二人は玉から生まれた女を追っかけて、難波・上町台地の北端部にやってきた。その女たちは女神となって、上町台地の突端エリア周辺に鎮座している。その由来の神社は多い。
アカルヒメの社は比売許曾神社とも呼ばれJR鶴橋駅の東に鎮座している。西淀川区姫島の姫神社はヒメコソ神として、平野区平野の赤留比売神社の鎮座もこの神だとしている。笠縫の深江稲荷神社の伝承に、下照姫(したてるひめ)を、また玉造稲荷神社も下照姫命と稚日女命(わかひるめのみこと)を祀神としている。この女神はヒメコソ神と同体だとされる。中央区高津宮の摂社にも比売古曽神社がある。これらみな日女・ヒメ神だという。
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「女神たちは高い木に降臨する神を鳥のごとく舞いながら、太陽を待ち受ける。そして神霊を受胎し、自ら神となり、人の世に向かう。」と、中国や半島の古代呪術を調べる民俗学者の吉野裕子は語っている。女神の衣装のたもとは羽のように長いと吉野は語っている。「しのぶ思いを 振袖に、祇園恋しや だらりの帯よ,・・祇園小唄」そう、振袖は乙女だけの衣装だった。女神たちは「日女・ヒメ」と語られ、また「日妻・ヒルメ」とも言われる。いずれも「太陽の妻」という意味の名前であった、と中沢新一、大阪アースダイバーで語っている。

女神たちが太陽の妻・日妻であること、それって、何とか知りたい。
日妻は太陽の動き・朝日と夕日を、冬至から春分・秋分・夏至の一年を通して指定出来るから、日妻、太陽を受胎した女神とされるのだろうか。天体観測者なのか。
そんな神業を、今自由に指定したポイントで地図上に日の出日の入りの時刻、日差しの方角を描き出すアプリをみつけた。「日の出日の入り・時刻、方角マップ」。まさにアプリ・日妻だ。太陽の動きを自然の地面にラインしてゆき、冬至の日に最も南からスタートし夏至の日に最も北で、そこから反転する朝の陽ざし。地面の置かれた垂直な棒の影がつくる角度を記録し、日々のその角度を記録すれば、夏至の日を予見できる。冬至も角度がもっとも小さくなる日の朝日が上る山を知りさえすれば、冬至の日を予見できる。日の出の位置を山のピークに設定すれば、観測がしやすい。高安山もその南の二上山も物差しのように横たわる生駒山地では判別しやすい。特に双耳峰の二上山の峰の間が冬至の朝日なら、それだけで、冬至の朝とわかる。そして夏至と冬至の太陽の朝日の位置の中間が東に大雑把にはつかまえられる。生駒山山頂はたやすく判別できる。冬場にオリオンの三ツ星の上るポイントの山際と朝の陽ざしの東方向と合わせれば精度がたかい。幼稚で雑だが今住む世界を包み込むスケールの大きなストーンサークルを持つことができる。日妻たちは日々太陽を迎える舞の動作の中にに所作に、太陽の位置と動きを感知したのだろう。祭りの舞は表と裏と回る動作で構成されていると聞いた。自転車の旅をこのストーンサークルに落とし込めば、景色が宇宙につながってくる。

それどころか、マークした山際の向こうにも広がることがある。古代難波の宮とほぼ同じ北緯に鎮座する玉造神社、つまり生駒山に隠れているが、その向こうに正しく東位置の御蓋山もストーンサークルの一つの起点として、玉造稲荷神社の冬至の朝日を調べる。生駒山地の南端にチョッコリとピークを見せる高安山から太陽は上ってくる。高安山の東に信貴山が並び同じ朝日のラインにある。
このラインは東の王子町を流れる大和川に懸かる明治橋をぴったりと通過する。ある日そこに走った時、橋から二つのピークが生駒山地の尾根上に見ることができた。
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自分と高安山・信貴山と難波の宮が見えないライン上に並んだ。そしてアプリ・日妻の冬至のラインは自分を通り越して奈良盆地の南東の三輪山に向かう。冬至の日に近い正月元旦に三輪明神大神神社で大松明のご神火まつりが行われる。巫女たちが太陽の復活を知らしめること、が祭りになる。
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御蓋山の春日大社では12月17日の夜半に若宮御祭りで巨大松明が参道をひきずられる。
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春日大社と大神神社はほぼ東経135.50.10にあって同じ子午線に位置する。難波の宮・春日大社・大神神社は直角三角形を形成している。この三角形は三角定規の30°60°90°にほぼ近い。小学校時代筆箱にいれてたアレです。などと、なると、日妻は東西どころか、南北まで、お知らせします、の魔女?とまぁ。そこまでは「日女」気分に浸れた。Keisanというアプリがある。直角三角形の角度計算はっこれで行った。
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この国の神社占有率NO-1は、神功皇后の八幡神社と住吉神社で、皇后は日女であろうか、稚日女命が住吉大社の祭神でもある。そこで住吉大社をアプリ・日妻のターゲットとすると、高安山、信貴山を東西の正方位に置き、冬至の朝日は二上山から差し込む。
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「いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から神聖な山として崇められてきた二上山。悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。」
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これ程の設定があろうか?いや、住吉大社の位置は二上山と高安山・信貴山との太陽の示す宇宙との交信として置かれた。その神託は稚日女命のお告げ‎に依る。とチョット本気でそう思ったりして。

住吉大社を突き抜けた冬至の朝日は1分のちに、神戸市住吉区の本住吉神社に到達する。この二つの神社には本家と元祖の争論がある。
「日本書紀」神功皇后摂政元年二月の条に・大津渟中倉之長狹・に住吉三神の和魂を 居さしむべしとあり、その地こそ現在の鎮座地で、大阪の住吉大社は後にまつられたものである。江戸期の国学者の本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。(本住吉神社HP)なのだが、大津渟中倉之長狹は大阪の住吉大社の鎮座地だと、大方の歴史学者は述べる。

本住吉も住吉大社も航海の神・港の神として祀られた神社と周知されている。瀬戸内海から東進してきて明石海峡の北側尾根にある巨大な五色塚古墳を望む。
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その位置から東の生駒山地の南のピーク、高安山を目指せば住吉大社の浜の住之江に入る。ラインは東西正方向なのだ。勝負あり!になるのではないか。
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以前本住吉神社のそばの住吉郵便局の年賀状元旦配達のアルバトをやった。早朝出勤の前に神社参拝。神社は標高20mの高台に南に向かって真っすぐな参道に見える車道が海へと下って、ご来光の時にははやすぎるが、白く霞んでいた。白んでくる遠い空に小さいが双耳峰の形の目立つ二上山のがげが浮き出て、それに真っ白な霧がむくむくと山から流れ出していた。二上山の霧はとても神々しい。
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住吉大社でも見られるだろう。

Keisanというアプリは見える範囲も簡単にたたきだす。ちなみに本住吉神社標高20mから見渡せる範囲は17kmとKeisanされた。住吉大社までは24kmの距離。住吉大社はここから目視できない。東経差約20分も朝日の到着の差を大きくさせる。元旦の朝に地球は球体だと、宇宙をかんじてしまったことだった。本住吉神社から標高499mの二上山まで44km。Keisanでは85kmの範囲が見えると答えた。


# by forumhiroshima | 2021-07-22 16:10

飛鳥の瓦蘇我氏の玉造

奈良の町へ入る機会には、元興寺に立ち寄る。飛鳥から718年、平城京に移築されてる。後に衰退の一途で広い境内に住居が侵入し、今の奈良町になった。奈良町に住む友人に古代の不法占拠?とはなしたら、町の住人はみな寺の信者なのだと、話していた。境内の本堂・禅室 の屋根瓦は飛鳥時代創建当時のものだといい、青いグレーや鈍色のオレンジのモザイク模様は、596年以来のものになる。鵤の里・法隆寺の再建が670年だから、80年も古い。古代飛鳥がここにあると思うとなにやら感慨深い。まるで不思議の国へとアリスが入り込んだウサギの穴を気分は滑っている。奈良っていいな。
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もっとウサギの穴に潜り込んでみよう。
御影から笠に囚われて、その影をつくる太陽の方位、正位東西を追っかけると、暗がりの峠に行き着いた。摂津の笠縫の稲荷神社も古代の時間へと引っ込んくる。さらに西へ、次に現れたのが摂津玉造の玉造稲荷神社だ。輝く「珠」に御影の影が揺らめいている。それもこれも古代の天皇イクメイリヒコ由来の時代とされ、そして道が生まれてくる。

元興寺は古代豪族の蘇我氏の菩提寺として建立とされているが、その時代に僧侶はいなかった。まったく新しく寺院と僧侶が用意されることになった。
日本書紀に(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」ウイクペディア。(法興寺は元興寺の前の名。)寺は596年に完成。寺院と僧侶全てが渡来してきている。
蘇我馬子は自宅に仏を安置していたといわれるが、僧侶なき、いきなり仏教なんです。いきなり五重塔なんです。本尊の丈六仏像が鞍作鳥(止利)のよりできたのが609年だろうといわれている。それにしても寺院完成後18年後なんです。

1956-57年に行われた飛鳥の法興寺発掘調査で「刹柱(塔の心柱)」が掘り出された。「出土品は、挂甲(上古のよろいの一種)、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。金銅(銅に金メッキ)製品 - 耳環23点以上、歩揺146点以上、鍔付半球形金具2点、円形打出金具14点、杏葉形打出金具28点以上、鈴7点。玉類 - ガラス小玉、ヒスイ製勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀製空玉、銀製山梔玉、赤瑪瑙製丸玉、ガラス製トンボ玉、その他 - 金延板7点、金粒1点、銀延板5点、銀粒7点、雲母片、琥珀片、蓋石片(凝灰岩製)。後日、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることが奈良文化財研究所の調査で判明し、同研究所の2017年版紀要で調査結果が公表された。これらの小玉は直径1.5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。ウイクペディア。」
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これほどの宝物を造っただろう場所が蘇我氏の本拠地に発掘調査されている。
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「曽我町の歴史より」
曽我町の西北にある宗我都比古神社は古く、弥生中期の遺跡群の中にあり、半世紀前頃までは田畑に土器片や石器が見られました。曽我の地名は8代孝元天皇の曾孫に当たる武内宿禰(タケウチノスクネ)の第三子・石川宿禰が“蘇我(そが)“の姓を頂いてこの地に住み着いたのが由来とされます。宗我坐宗我都比古神社(ソガニマスソガツヒコジンジャ)は蘇我石川宿禰夫妻を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子(~626年)の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられています。時は飛鳥時代でその頃の曽我集落はこの神社近く或いはもう少し北側(北曽我と言う条理地図名あり)が中心だと考えられます。曽我は蘇我氏発祥の地であり、蘇我氏宗家は乙巳の変(645年)での入鹿の死によって滅亡しましたが、宗我坐宗我都比古神社の宗我座講中各家やその縁戚は蘇我氏の子孫で、今に至っています。

曽我遺跡(そがいせき)ウイクペディア
宗我都比古神社そばの曽我遺跡(そがいせき)は5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの集落であったことが判明しています。滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方から持ち込まれ、玉類が生産されていました。玉類の完成品・未製品、さらには玉を研ぐための砥石、玉に穴をあけるための舞錐状(まいきりじょう)木製品などといった、玉造りに関わる多量の遺物が出土しています。ここで作られた玉類は勾玉、管玉、丸玉、切子玉、小玉など多くの種類が確認されています。
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この遺跡についてこんな話をブログでみつけた。
「朝鮮半島では、鉄が非常によく利用されています。日本では、鉄が必要で、その鉄を直接輸入するためにに勾玉をなどどんどん作って、ある種の支払い手段として、バーター貿易で取引が行われた。今で言えばドルとか円の代わりに通貨の支払い手段として、掘り出したものを大量生産して、それを朝鮮半島に支払って鉄の武器とかを輸入していたようだと言うことが分かっております。それから非常に興味を持ったのは、蘇我一族と言うのは、天皇家に楯突した大変な連中だったのか、よく調べましたら、そうではなく、むしろ蘇我一族は、天皇家の忠実な保護者であったと思われます。曽我遺跡に埋蔵されている勾玉管玉類はトラックに20台分世界的な量です。石の数は億です。それで、勾玉管玉完成品は、1300万個、気狂いじみた数です。それが末だに眠っている訳です。」曽我遺跡の勾玉~貴石の話いろいろ~民谷 晴亮

司馬遼太郎の「竹ノ内街道こそ・街道をゆく夜話」
・・・飛鳥期は蘇我氏の時代と言ってよく、その蘇我氏はこの山麓(二上山、葛城山)に盤踞し、この赤土の官道をにぎっていた。この官道ははるかに難波ノ津に通じ、難波ノ津には韓カラとも唐とも知れぬ蕃船が入津し、異国の神はきらきらしといわれた仏像その他の文物を運んできては、揚陸した。・・・この景色に、きわめて奇妙なことながら、異国がかぶさるようになった。たとえば長安というだけで、胸がときめくのは、強引な言葉をつかうとすれば、日本人の史的遺伝といっていい。・・・

奈良、元興寺の瓦に、蕃船の入港する飛鳥時代の景色がかぶさっている。



















# by forumhiroshima | 2021-07-09 09:58

暗越奈良街道 クラゴエナラ街道

伊勢神宮へ関西の人々は「御蔭参り」を江戸時代に盛んに始めた。イクメイリヒコの娘のヤマトヒメが大和・笠縫村から放浪のごとき旅の末に伊勢に鎮座、伊勢神宮創建の伝承。そこへの大阪からの参拝の旅n出発地がイクメイリヒコ創建の玉造稲荷神社とされ、同じくイクメイリヒコ創建の大和笠縫村からの移住由来の摂津笠縫村の深江稲荷神社で参拝者は笠を求めた。大阪から奈良・猿沢池までの伊勢参りのルートが暗越奈良街道とよばれる。

暗峠・クラガリと聞いたときには奇妙な地名におどろいた。そうして、峠はとても狭いが今も国道308であることに引き込まれた。その道が、イクメイリヒコとヤマトイメの伝承、そして御蓋山・生駒山・上町台地の東西正方位ラインをなぞっている暗越奈良街道は生駒山をこの峠で奈良へと抜ける。玉造稲荷神社で伊勢参りの地図が有料で頒布されている。いまも伊勢参りはここをスタートに盛んに行われている。
(ネットにいくつかの伊勢参りのコースガイドがあり、そのうちの「暗越から伊勢本街道をくhttp://kaz.my.coocan.jp/isemap-kouraibashi-1.htm]は実に子細に案内されている。)

玉造稲荷神社のHPに「当神社は垂仁天皇・イクメイリヒコ18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ」は、邪馬台国の卑弥呼活躍の300年も前の神話になる。イクメイリヒコの宮殿は纏向珠城宮・マキムクノタマキの宮で奈良盆地の南東の三輪山の北、山の辺の道に近く、跡碑がある。玉造と珠城と連想ゲームに誘われる場所だ。この宮殿と玉造のお宮とを生駒山越えで結ぶ道が上代にあったのだろうか、と。神話と思っていてもですが、ね。大阪の古代の地形を工事現場を尋ね地層をしらべ古代地理を想定した「大阪平野のおいたち 1986年発行」に5世紀の古地形図がある。
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想定された地形図をのぞき込むと妄想が膨らんでくる。瀬戸内海を西から淡路島と本土との海峡・明石海峡を抜けると、海の水はしょっぱくなくなる。川が流れ込んでいる。定住の希の味がする。主面には小高い岬が南の山地から伸びており、岬の向の東の空に高い尾根の山影が重なって現れる。岬を回り川にさかのぼると、葦原に縁どられた広い干潟に入る。魚が飛び跳ねる。水はとても澄んでいて、ここに「イル」人々は、静かな湖面と取り巻く森との美しさに包み込まれただろう。後にここを「ナニワ」とよばれた。お酒のアテをサカナ、酒菜という。酒の「ナ」がいくらでもあるから、魚の庭と、つまり「ナニワ」になった?。大和の大和川上流、山城の桂、賀茂川、河内の大和川下流、和泉の石川、摂津の安威、猪名川の水は近江、琵琶湖の水を含めてすべてがナニワに流れ込む、すべて、がです。水が良ければ魚が集まる。アテがよければ美味い清酒も、と、清酒は摂津・伊丹で誕生した。「イリ」して、到達した人々の上陸の歓喜の歌が聞こえてくるようだ。

この地理図に古代暗越街道の想定図が加えられた図(大阪アースダイバー・中沢新一)に平安時代に作られた「延喜式」の神社でリストアップされた神社を記入してみると、河内瑚はすでに陸地化していたとみられ、生駒山から上町台地への連絡は5世紀ごろにはできたとある(古代日本の空間・足利健亮)。日本書紀に「猪甘津に為橋す。即ち其ところを小橋という」とある小橋がJR玉造の周辺にのこる小橋地名にかかわっているとすれば、暗越街道は橋も渡れる古くからの存在なんだろう。小橋の南にも鶴橋の地名も古い。ここには古く橋も架けられていたと、されていいのだろう。「イリ」して河内瑚の渚を生駒山ピークをランドマークに大和へと進んだちがいなかろう。
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5~6世紀には人々の営みが集まってくると、神の鎮座を願い神社を創建される。渡来しここに「イリ」した人々は祖先を同じくする人たちごとに集住しその祖先を祀る。玉造稲荷神社創建にある紀元前12年は「滅後の真筆」なんだろうが、「イリ」した伝承を自分たちのアイデンティティを、イクメイリヒコとヤマトヒメの日本書紀記載を根拠に、「やはり、祖先はイリしたのだ」と確信したのだろう。「滅後の真筆」は日本書紀の神々を人々によって、今によみがえり正当化される。加えて御蓋山と生駒山と上町台地が東西正方位にあるという地形の持つ神威はイクメイリヒコ御陵位置をそこに置くことで一層の「イリ」の人々に与えられた神威の根拠になる。「滅後の真筆」は「紀元前12年」が真実である!と筆を今に走らせる。春分・秋分の朝、そのラインの正当性を太陽が必ず示してくれるのだから。
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広島市市街地に東西正方位は見つけられない。それは広島の都市設計の街並み方丈の区分で道は置かれているが、東北に約18°に傾いだ天守閣と大手町通りのラインが基本線になっていると言われる。ゆえ東西の春分・秋分の朝日が差し込む道はない。が、シツコクさがすと、道・ルートではないが発見があった、カナ?。毛利元就の厳島合戦戦勝祈願の己斐、旭山神社の真東の府中甲越峠の中腹、人家もない車道そばに出雲大社広島祠祖霊社がたしか1980年代にきなり出現した。。毛利家は出雲大社の宮司家千家の祖先天穂日命・アメノホヒの14世・野見宿祢・ノミノクスネを祖先とする。だから?などと、おもうことは「滅後の真筆」に囚われている自覚はある。野見宿祢はイクメイリヒコの命により大和・当摩の蹴速と角力をして勝利している。角力の元祖だ。ここも、イクメイリヒコ!!!!!もう「滅後の真筆」病ですね。

暗越奈良街道はGooglmapに路面表示されている区間もある。Google mapを追うと街道の案内になる。Google mapで街道の出発点の高麗橋は秀吉の大阪城大手道。こっから秀吉大阪城天守が正面に現れる場所で、この道は周囲の方丈の街並みから外れて南に傾いでいる。明治んはここに大阪道路元標がおかれてて、最初に国道308起点とされた。ここからいったん北浜、八軒屋浜と北上し、八軒家浜スタートの「くまのかいどう」の石碑前を南に入る熊野街道に重なる。大阪市街の中心で榎木の大木に小さな祠手前を左折で奈良方面に東進し暗峠に向かう。著名な熊野街道・熊野古道のGooglmapの記載はないようだ。大阪人のこの街道重視をGooglは見切ったのかも?だって「イリ」の末裔たちが今も健在かもしれないから。

暗峠へ大阪市内から向かうなら、Googleの暗越奈良街道を追わずに玉造稲荷神社の北の阪神高速13号東大阪線の高架下を東進し、大阪外環状線の高架を見つけるとけいはんな線石切駅で高架を南に潜り、すぐに東へ。目前の生駒山に向かい近鉄奈良線の踏切をぬけ線路に沿って南下すれば峠入口が見つかる。このルートが今の国道308になっている。兎に角、生駒山へ走ればいい。体力温存してさあ、峠に。
旅先の町でランドマークを早く見つける!とその町での自分の位置が見つかる。

もっとも急坂、いや激坂な暗峠が今も国道308に指定されており、大阪や周辺のロードバイク乗りには周知されている。
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道がコンクリート舗装になったころの1984年ロスアンゼルスオリンピックの自転車4km団抜きの選手たちの練習コースでこの登りを教えてもらった。平気にトラックで上り下りしてた。下りのブレーキングでリヤタイヤの摩耗がはげしすぎるのが、過激な斜度よりもご不満な様子がおかしかった。関西の実業団の選手でチームは構成されていた。オリンピックの結果はたしか10位だったかな。
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NHKチャリダー出演の猪野学さんが最強激坂と「坂バカ奮闘記https://cyclist.sanspo.com/317157」で紹介している。コースを詳しく紹介してくれているHPは、「最大斜度41%、暗峠へロードバイクでhttps://jitensha-hoken.jp/blog/2018/03/kuragaritouge/」がほのぼのっとした紹介記事で、わかりやすさで行ってみようか?と身近に感じさせてくれる。チャレンジは、ヤメるのがお勧めですが。往路の登坂も半端ないが、復路下りは、もう行けません、が三十数年前の自分の昔々の感想。だから峠から東へ下る奈良市街地までの田舎道は凄い住宅造成地もありだが、田舎道が続いていて走りやすい。下りなのに目線が上がる。奈良の空は、すっごく広い!。低山に囲まれた奈良盆地へ綺麗な雲を見ながらのラクチン下りを満喫できる。

「ヤマトは国のまほろば たたなづく青垣山隠れる ヤマトうるわし」って思い出したりしましたね。
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# by forumhiroshima | 2021-06-20 14:04


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