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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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馬の渡河 高瀬

韓半島から渡来した2系列の比売許曾の女神たち誕生に牛の伝承がそれぞれにある。姫神たちはこの列島に家畜をもたらした人々の神ではないか。全く新しい家畜の到来は、きっと強いインパクトを起こしただろう。強さが残影となり、渡来ルート2系列という協調された伝承として古事記、日本書紀に併記されてあるのではないだろうか。二系列の女神にそれぞれ赤と白の玉の話があり、瀬戸内海の島々に赤、白の玉の祠や伝承が到来のルートとして残ったと、妄想している。家畜たちの到来は5世紀初頭ごろで、そのころ造られた古墳から多くの馬具の埋葬が発掘されていて、それまでいないとされる牛馬の到来の新しい時代を指示しているという。

馬も牛も体重によるが、一日に25から40リットル程の飲料水が必要だとネットにあった。韓半島から船での牛馬との旅では、飼料の草と水の補給の必要性を思うと、水や草のある島々に立ち寄りながらの旅かな、と思ってみている。瀬戸内の島々に残る赤白の伝承が、飼育のプロたちのその痕跡になろうか。

533年の日本書紀に「摂津国をして大隅島、媛島に置いた二か所の牧場を止めて農地に転換する許可」が記録されている。淀川右岸の大隅島はそれまで乳牛牧だった。このあたりが初期の牛馬渡来の最終地点になるのだろうか。媛島の高瀬神社は比売許曾の女神たちの伝承を持ってはいないのだが、牛たちの牧場の記録が、牛馬を伴って渡来してきた人々の神のそれも姫神を祭祀する神社が存在証明なってもいいのでは。「渡来人たちは韓半島の出身地を問わず、集団として来り、聚居して生活圏が出来上がると、まず寺を建て、神社を建て、仏像を拝し、祖霊を安んじた。白川静」
高瀬の東方そばの四条畷にある車塚古墳は5世紀初頭の古墳で、馬全身の埋葬が発掘されていて、祭祀の痕跡といわれる。
馬の渡河 高瀬_d0089494_10523496.jpg
韓半島の新羅からの渡来人の「馬の埋葬は馬飼集団の顕著な習俗である(馬と古代社会・佐々木虔一)」といわれる。比売許曾の女神も韓半島・新羅からの渡来の神話だという。淀川河畔は田として開発されていたのでなく、湿地と蘆原の場所で、農地に転換することを認めた以前は草むらの川原に牧場がつくられていたのだろう。そこは牛馬飼育の好適地だった。それは、川原の牧場の適地に移住してきた人々は米を作りに到来したのではないことを示している。彼らの到来は、すでに準備されていて、それは定着への援助ができる勢力の要請があったのだろう。その援助には生活補助、飼育環境の整備に、海上、陸上の移動、港や道が用意されただろう。淀川両岸に出来てくる牧場に架橋することも、いそがれていたのではないか。

東大寺建立の大僧正となった行基が、『行基年譜』「天平十三年記」のよれば西暦644年に高瀬大橋を架橋している。架橋するところはどこでも良いとは、古代にはむやみにきめることはできなかっただろう。橋げたを川底に打ち込む作業、機材の調達などの、見極めなどが大切だっただろう。その場所選定のヒントがある。

ヨーロッパの話なのだが「数百年にわたって商人は同じ峠道を通り、同じ徒渉点で川を渡った。商業路の交点と、もっとも重要な徒渉点に集落ができた。その名前のよって本来の意味が今日でもよくわかる。ボスポラス(雌牛の渡渉点)からオックスフォード、クラーゲンフルトからハーフォード、ストラトフォードからティフルトまでの地名はすべての渡渉点をあらわしている。古代ペルシャ語のペレトゥ(橋)はユーフラテス(りっぱな橋のかかった河の意味)という河の名のなかにふくまれている。シュライバー 道の文化史」
馬の渡河 高瀬_d0089494_10545586.jpg
馬も泳げる、ぞ!
馬の渡河 高瀬_d0089494_10560493.jpg
ドイツ語で-furt・フルトは浅瀬で、fordも同様。イギリスの都市の名、オックスフォードやブラットフォードも同じ意味だという。動物、特に家畜たちが川を渡るポイントは浅瀬で流れが強くない。そこに道を伸ばし、人々は歩いて渡った。のち架橋される。行基も牛馬たちの渡川地点を見極めたのだろう。西欧風にいえばcou ford takase,でしょうか。到来した飼育のプロたちも、商人のように移動する人々。定住する農耕の民ではない。移動に道が生まれる。

渡川地点と思える高瀬は、浅瀬と同意(精選版 日本語大辞典))の地名だとある。河川用語辞典・国土交通省編では、「瀬」は水深が浅いところを示す、とある。fordです。しかし、高瀬の「高い」と、浅瀬は表現に矛盾は、ないだろうか?。浅瀬を高瀬で表現は無理じゃないか。「高瀬」にはきっとなにかある。地図もない古代の旅で川に行き着いたとき、渡川地点を探すだろう。そんな時「高瀬」の場所を知ると、フォードの様に、渡川地点だと、そこにむかった?のではないだろうか。

高瀬のでる古代の有名どころの話をネットでさがしてみた。
例えば源氏物語・宇治十帖。
「橋姫の 心をくみて 高瀬さす  棹(さお)のしづくに 袖ぞ濡れける」宇治の橋姫のような、淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、 私も涙で袖を濡らしております。という意味。「宇治の橋姫」は、流れの速い宇治の川瀬に居て、人の罪けがれを運び去ってくれると信じられた女神、 宇治の橋の守り神、鬼女など、色々なお話があるのです・・・。(ブログ・源氏物語・あさきゆめみしにある解説です。)
橋姫は平家物語にあって、深い妬みにとらわれて、鬼になることを祈願し、神のお告げで宇治川に21日間も浸ってのち、都に帰り一条堀川の戻り橋で鬼となった女を、源綱が成敗した話。高瀬の架橋に、橋姫を比売許曾の女神と結びつけられないか、とむちゃぶり連想する。平安京の右京が荒れ寂れて、賑わいのある左京との境となった一条堀川を右京へ渡ることは怖い、戻れないかもしれない橋となった。そこに鬼となった姫が現れる。そんな橋なんだそうだ。
大阪・鶴橋の比売許曾神社の参道入口のそばに胞衣塚の祠がある。
馬の渡河 高瀬_d0089494_10570933.jpg
「垂仁天皇2年に創建されたとされる比売許曽(ひめこそ)神社にまつられている大小橋(おおばせ)命の胞衣を納めた塚と伝えられています。日本書紀に「仁徳天皇14年11月橋を猪飼津に造り、即ち其処を号(なず)けて小橋(おばせ)と曰(い)う」とあり、この橋は文献上では日本最古の橋といえます。大阪市HP」比売許曾の女神が大小橋命を生んだ時の胞衣・胎盤なのだろうか。小橋は古橋を意味していて、鶴橋の古名だとも。比売許曾の女神と橋がつながった、か?。

例えば、清少納言の枕草子
清少納言が、淀を渡川したときの光景を、卯月のつごもりがたに(一一四段)で、「屏風の絵に似ていとをかし」と述べ、「これをよみけるなめり」と業平が歌にした景色として引用している。 その在原業平が歌ったという「こもまくら 高瀬の淀に 刈る菰の かるともわれは 知らで頼まむ」、つまり「あなたが心変わりをして来なくなったとしても、私はそれを知ることもなく、あなたの訪れを待つことでしょう。高瀬の淀に」が解説としてあった。清少納言と在原業平に高瀬が絡んでいる。
行基の高瀬大橋架橋から枕草子の間は2世紀半の時間がすぎていても、なお語られる「高瀬」は古代にとても高名な場所のようだ。

その地名は、業平の歌にあるように、薦枕(こもまくら)が歌枕とされている。歌枕は和歌に組み込まれた名所を示す言葉で、薦枕は高瀬を連想させる枕詞でもあるという。
白川静は「古代、枕詞の起源が、地霊に対する呪語(悪魔、災難を払う言葉)に起源すると言われている。地霊にいい聞かせる言葉に満ちているのである。全集11巻万葉集」
薦・コモ(イネ科の多年草マコモの古名)枕は、高瀬に何をいい聞かせたのだろうか。

神事に関わる「薦」で浮かんでくるのは、例えば、宇佐八幡神社の御神体が神社から遠い西の中津市の薦神社の鎮座地の三角池で採れたマコモでつくられている。
馬の渡河 高瀬_d0089494_10582603.jpg
八幡のご神体が薦の枕とは不思議だ。出雲大社で6月に真菰(薦)の神事が行われる。
馬の渡河 高瀬_d0089494_10595042.jpg
神官が潔斎して道に置かれてゆく薦の葉を踏みながら進む。これらの薦に特別の意味があるのだろうか。枕草子は、「菖蒲・薦などの末の短く見えしを取らせたれば、いと長かりけり。薦積みたる舟のありくこそ、いみじゅうおかしかりしか。」とある。薦枕が高瀬を人々の心中に引き出す「言魂」なのだろう。清少納言はなにが「おかしかりしか」なんだろう。
高瀬の地名の由来が知りたい。

淀川の堤防に建てられた古代の高瀬大橋の説明板は、広い淀川河川敷の平坦なサイクリングロードのように、ただただ、そこにある!だけだった。河畔の少年野球グランドと広いサイクリングロードと低空飛行する伊丹空港行きの広い青空を背景に黒い影の飛行機の景色はハッキリと思いだせる。川岸の水際にマコモと茅が風にゆれていた。


































# by forumhiroshima | 2021-11-11 11:02

難波の姫島

半島で誕生した二人の姫神の伝承。(神の伝承って好きなんです)

ある女が太陽の光を受けて受胎し赤い玉を生み、その玉をもらい受けた牛飼いから、玉を奪った男がいた。男のそばで玉は美しい娘に生まれた。また、ある男がいなくなった牛を探して、その牛を食べてしまった犯人たちを見つけて、その代償に彼らが祀っている白い玉取り上げた。その石から美しい娘がうまれた。この二人の娘たちはそれぞれに男への不満から逃げ出し、難波に至って比売許曾の女神となる。一方、彼女を追いかけて海をわたった、それぞれの主人たちは、難波から遠く日本海に面した越の国の敦賀や、但馬の国の出石に鎮座している。二つの話はよく似た筋書きで古事記にも日本書紀にも書かれていて、神々のゴッシップぽくって面白いと思った。

女神たちのこの国での最終の鎮座の場所は散らばっていて、難波の上町台地のから東に大阪市平野の赤留比売社、東成区比売許曾社、深江稲荷社、中央区玉造の玉造稲荷社、深江稲荷社、天王寺区高津の宮など、いくつもが重なるようにして今もある。難波到来までには瀬戸内海を経由し、大分の姫島の比売語曾神社、広島の呉の亀山神社にも姫神の伝承が残っている。大阪の西淀川区の姫島神社は難波の瀬戸内海の入り口の西端に上町台地から離れて鎮座している。
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その姫島神社は鳥居は朱色でなく、真っ赤に塗られ反り返ってけっこう派手な印象だった。強烈な存在感の演出に違和感を失礼にも感じてしまった。姫神たちは、ひそやかに町の路地裏に鎮座されていることが、上町台地の姫神たちの鎮座地に感じていたからかもしれない。塗りたての朱色より、風雪にさらされた木目の古代を感じがふさわしい。
ところで西淀川区姫島神社が創建とされるころには、まだ淀川の国生みの神威は姫神の鎮座地とする島を用意されていなかかった、という。まだその場所は海だった、と。そういった創建の伝承の危うさが派手な印象をより強くさせたのかもしれない。
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畿内のエリアという巨大な水域の膨大な全ての水流が淀川を一つだけの蛇口として水とともに吐き出す土砂から生まれてくる島々に、神の所在を感じて神の一柱を勧請することは、違和感はないと感じる。その流れの出口を姫島神社が、正面から受け止めている。洪水が去った朝に突然出現した砂州を目の当たりにしたとしたら、神の仕業と、に思いはゆく。そこに姫神の姿を見出す人はいたのではないだろうか。大地が生み出す国土の出現の神威を人は感じても不思議はないだろうな。広い氾濫原の平野にポツネンとあるお宮さんはどこにもある景色だ。たとえば、斐伊川の氾濫原の真ん中、出雲・斐川町の広い田園に森に囲まれて鎮座する熊野神社を思い出した。
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難波は成・ナル、生まれる土地(庭)の言葉で、西成と東成に淀川を挟んだ地名で呼ばれた。難波には押し照る・オシテルの枕詞がつく。歴史地理学者の大和岩雄は、「オシテルは太陽を仰ぐの意味があり、迎日・日神を祀る庭と解釈される。難波に到来した比売許曾の女神は、難波で日女・ヒルメに成れる。半島の古代国家の新羅の創生伝説の始祖・赫居世・カクキョセイの居世は許曾である。この王は海の向こうから(倭国)からやってきた伝承は稲飯命・イナヒノミコトであると「韓国古代歴史書・三国史記」にある。 神社と古代民間祭祀」
姫神は始祖の難波へむかったのか?日本側の記録にも、『新撰姓氏録・平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑』において新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとされている。まさに末期の真筆・カオスの登場である。

難波に鎮座した西淀川区姫島神社は、淀川の水が大地を初期に生成した、もっと東の場所にまずおられて、そのうち西へ移転、かもしれない。ならばとなると手掛かりに「日本書紀」を引き出してきて、その533年の条に「牛を難破の大隅島と媛島松原とに放て」とあることから、大隅島のそば、今の守口市の弥生時代の遺跡の森小路が媛島ではないか、と大阪の古代を調べた「大阪平野のおいたち」は述べている。弥生時代からの人跡が発掘されているここに想定されたのだろう。がそう見ても、このあたりに、媛神鎮座の神社は見いだせない。

奈良時代の僧・行基が森小路辺りに比売嶋堀川を開削したという伝承があり、媛島の存在がより確かには、なってくるが、これも文献資料のみでその場所は比定されてはいない。大阪で最も低い位置にできた古代集落と言われる今の森小路の町は弥生遺跡址を公園として整備し区画整理がおこなわれて弥生遺跡の痕跡は全くなく、静かな住宅地だった。ただそこに居ると古代の景色を想像したるする。神武天皇東征の船団はこの集落の南の水路、いまの寝屋川を進んだことになるのでは。古事記・日本書紀では稲飯命・イナヒノミコトはこの軍団の船に乗船しているはずなのだが。稲飯命は紀伊半島の熊野の沖で海に身を投げて隠れられている。そののちは、知られていない。
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神武たちの船団の船の埴輪が出発地美々津の港の近くの古墳から発掘されている様な船だったのだろうか、そうなら、彼らの船団に森小路に暮らしていた人々は目を見張らさただろう。ただし、その神武東征紀元前667年はいかに、何でも無理すぎでしょう。淀川の氾濫原の低地に集った森小路の弥生時代の集落の営みの痕跡は新森中央公園公園に建てられた一本の石柱と教育委員会の表示カンバンだった。
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姫島神社とは結び付かないが、森小路遺跡の真北2.5kmあたりの京阪・守口市駅の西の淀川に行基によって高瀬大橋が天平2年(730年)に架橋と「行基年譜」にある。行基は橋を架ける場所に必ず寺院を建立している。「橋畔には高橋橋院と尼院が建てられた。”行基年譜”行年63歳 730年(天平3年)のこと」と記載。高橋橋院は淀川右岸の大隅島にあって、左岸の森小路遺跡の約1.3kmに高瀬神社がある。「高瀬神社は神社の社伝に行基により鎮座とある。ウイクペディア」
 
歴史地理の足利健亮「生馬直道 河内北部の東西横断・歴史の道の原型」に、高瀬橋院の淀川右岸に建立されたが、淀川左岸、森小路の媛島にも高瀬の地名が見いだせるとある。淀川を挟んで左右の岸に「高瀬」の地名がみられるという。左岸の高瀬は古代媛島にもある地名だとすれば、高瀬神社が比売許曾の女神の鎮座としても、いいのではないだろう、などと思う。チョット無理筋でしょうか。西淀川区姫島神社の真っ赤な鳥居がえらく印象にのこっている、からだろう。西淀川区の姫島神社が虚構とは思えない。神を新しく鎮座させるのは、そう難しくはない、が無くすことは難しい。

媛島の高瀬神社の祭神は天之御中主神だとある。「天之御中主神 平安時代の延喜式神名帳にはこの神を祀る神社はラインナップされていなく、この神への信仰の形跡はない。ウイクペディア・」。まさに、そうなら、奈良時代の行基活躍のころ、高瀬神社の祭神は不明ということになる。比売許曾神であってもいいのだ。
行基は誕生の地近く矢田の阿麻美許曾神社との関わりがあるといわれ、神社そばに今、行基大橋(昭和53年完成)がその由来から架橋されている。その神社の祭神は半島から渡来してきた比売許曾の女神たちと同じ許曾の名を名乗る。阿麻美許曾の神は渡来の神で行基も渡来の人の子孫だ。高瀬神社に最初の姫神の鎮座地にしてはどうかな。のち淀川に河口の海への進出により鎮座地も下って行ったのでは。
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西淀川区の姫島神社への冬至の朝日は生駒山系の高安山の山頂から上る。媛島の高瀬神社では生駒山頂から上る。日の出日の入りマップ・https://hinode.pics/で確認できます。※高瀬神社 大阪府守口市馬場町1丁目1−11
大分・姫島神社の冬至の朝日をマップで見てみると二つのピークの間を抜けて神社に伊勢の夫婦岩のように到達する。姫島は死火山の集合体で出来ている。神社には湧くが流れている。温泉として使われる。
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大地は火山から生まれ、水流で造形される。そこに神の所在を思うよね。

# by forumhiroshima | 2021-10-14 14:07

大阪・姫島行方知れず


奈良盆地の東南ある長谷寺の初瀬川の対岸に与喜天満宮がある。
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参道途中から尾根を越えて南に出れる道が古風さいっぱいで引き込まれた。古道趣いっぱい。何とか走れる。尾根越えで小さな集落に入った。まだ眼下に見える車道まで少し距離がある高巻き道で、古道発見と喜んだ。道はだんだん畑に入って、とうとう下に見えていた車道に引きずり込まれた。まだ古道があるか?と山道で入るとその集落の名、吉陰・ヨナバリの看板に出会う。車道下れば墨坂、名張・ナバリは陰国・コモレルクニだそうで、墨色の向こう側なのか、そこに室の寺、室生寺がある。
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木津川の源流域の榛原の墨坂と大和川の源流域の初瀬・長谷寺とは約1km弱、標高差40mほどの距離。二つの川の分水嶺がこの近さ。そして木津川、大和川が堺に河口を付け替えるまで難波上町台地の北でつながっていた。

墨坂から木津川河畔を走ってみた。川下へ走るのだから、大丈夫!と。川の両岸に道があるわけではないが、木津川は辛うじて、どちらかの河畔に道がある。橋で右岸、左岸を移動する。なかには、登りで山中へ引っ張り上げられて、結果、引返す。道幅がえらく狭くなったら、沈下橋。これって怖い。が道あるだけありがたい。もう古道なぞ探す余裕なくなって、車道一本でやっと木津駅に逃げ込んだ。すっかり暗くなって、陰国を満喫させられた。景色は黄昏に白く浮かび上がる川面しか見えないサイクリングでした。川だけが目印でした。気が付きました。木津川にフジタカヌーがあったことを。カヌーにすればよかった。けど、途中にあるダムどうする?
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木津からJR大和路快速であっとのまの1時間の乗車で大阪梅田。まさに快速で快適。車中で距離をみると梅田からぐるり初瀬を回って190kmぐらい?。初瀬から木津の走ったのは90kmほど。平野川(旧大和川)大和川(初瀬川)木津川 淀川でまさに川の環状線。この円に琵琶湖 宇治川 賀茂川 桂川 と、主要河川が流れ込み淀川河口に難波の町をつくる。この環状線の唯一の切れ目に与喜天満宮が鎮座する。天満宮は区分される土地の境に置かれることが多い、と宮本常一は例えば、瀬戸内海の瀬戸田にある二つの天満宮のことを例に話している。瀬戸田には二つの行政区がありその西端にそれぞれ宮が鎮座している。水流の神の龍の頭を初瀬とし、尻尾を陰国としたなら何となく納得する。
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この川流域の環状線の流域を畿内としている。河内国、大和国、近江国、山城国、摂津国の雨は余すことなく最終に難波の上町台地の北にあつまる。この環状線で囲まれた土地の四方を四囲とし畿内とされる。この律令の発令ののち、貴族は朝廷の許可なくこの区分のそとには出られなかった。この律令が飛鳥でなく、古代難波の宮で646年に発せられたことに川の流域があるのかもしれない。
大阪の西淀川区の姫島神社が、姫を追っかけてきたイクメイリヒコの時代にはまだ島が出現してなく、海原だったといわれている。一方、大阪府西淀川区区役所のHPには「古代の文献に地名(媛島・日女島・比売島)の出典を求めて、「ヒエシマ(稗島)」を「姫島」と当地に比定していることに由来する。「ひめを・ひえ」と訛り、遂には稗島と書くに至れりとするもの差し誤りなきに似たり。(後段は西成郡史より)とある。司馬遼太郎さんは、「地名には落とし穴がある。面白いと思えば面白い。」そうです。姫島は古代にあったのかどうか。生島足島神ははたして島産みされてただろうか。淀川の砂の推たい運動が大阪湾の沿岸流の運動との拮抗したエネルギーが姫島の女神の所在の関わっている。
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縄文時代、温暖化の気候変化で海が陸地に進出して海岸に打ち寄せる波・沿岸流と風による流砂によって砂がたまり、例えば天の橋立のような砂州が生まれる。大阪湾では上町台地から北上して出来た砂州によって、淀川が運ぶ土砂は遮られ、上町台地の東側に堆積したため、砂州の西側の海になる古代には姫島が出現していないと、「大阪平野のおいたち。1986出版」の著者の梶山彦太郎、市原実は、記述している。この砂州は十三、加島にのび尼崎に到達している。生国魂の神々の贈り物。いまこの砂州の上のJR、阪急、阪神の路線が設置されている。国道2号もこの贈り物の上を走る。広島湾では太田川の推たい運動と沿岸流、潮の干満運動とによって、横川あたりの砂州の誕生から、二次的には、神田川の東西への流れ、また広島城築城時には今の本通りが先端部ではなかったか、と言われる。
淀川が運ぶ土壌の推たいした砂州の東側の内側に幾つかの島が出現してくる。それらの島には縄文、弥生の遺跡が見つかっていて、その一つに大阪市旭区の京阪本線の森小路駅そば森小路遺跡付近(GooglePH94+7H 大阪市、大阪府)が伝承の媛島ではないかと梶山、市原は述べる。地名の落とし穴から這いあがれそうだ。だとするとヒメ島は存在するのだ。神々の島産みにより、すでに生まれていた島々の景色の記録がある。
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姫島でなく媛島と書かれるのは、日本書紀に「牛を難波の大隅島と、媛島の松原とに放て」とあり(安閑2年、6世紀半ば)秋九月、勅してここに牛を放牧せられ,のち鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。※東淀川区大桐に乳牛牧址の由来の石柱がたてられている(Google PGXX+G4 大阪市、大阪府)。続日本紀の元正天皇2年(716年)に、牧を廃止された記録がある。約130年にわたる牧場だった。牛とかかわるヒメコソ女神伝承との関わりを連想する。

平安時代の延喜式という記録に東成郡ヒメコソ神社記載があって、現在は場所不明なのだが、これが、西淀川区姫島の姫島神社は、梶山、市原の語る媛島はこれなのか!としている。が、西生と東生の地名の違いがある。この違いについては、古代に淀川の右岸が西生とよばれ、左岸が東生となっていた。のちに西成、東成に字がかわった。土地が生まれる、成る、ことによる。現在の西成、東成は難波全体のうち上町台地の海側を西に、内側を東に分けていた地名が、だんだんに狭い地域に限定されて、今に残ったといわれる。難波の大地創世記を示す「生・成」は淀川を母としている。その母がヒメコソの女神は担っていたのでは。女神を追って半島からやってきた男神たちは、敦賀と出石にそれぞれ鎮座しているが、女神たちは難波から立ち去った気配はみつけていない。今も国生みは続いている。

ならば、姫嶋の女神もさがさなければ。
守口市の地図で森小路遺跡そばに祝町の地名を見つけた。大分の姫島の比売語曾神社とそばの祝島とが浮かんだ。「祝」に、神の島と祝、つまり神と神主との関連を感じる。西淀川区の姫嶋神社のHPにある由来に「応神天皇の御代、新羅の国の女神が夫から逃れて筑紫の伊波比(いわい)の比売島、さらに移って摂津の比売島(姫島)に留まったと伝えられている。」筑紫は九州のこと。伊波比が祝。守口市祝町そばに媛島があった、と妄想を確信している(この日本語オカシイ、かな)。大分の姫島は火山の火口の集合体で形造られている。古代の人々は国生みの神業として感じる同じ場所だったのだろうか。火山と洪水。

祝島と姫島は聖地を海を隔てて遥拝する、そんな神殿と拝所の関係ではないか。宮島・厳島神社と地御前神社、沖縄セーファ御嶽と久高島、兵庫赤穂坂越と生島などなどいくつも存在する。







# by forumhiroshima | 2021-09-08 11:17

ヒメコソの女神の赤玉・赤石

ヒメコソの話は古事記にも日本書紀にも二つ、半島の王子の話としてあって、新羅の王子の天の日鉾は牛飼いから取り上げた赤い玉から生まれた赤留売女神が逃げ込んだ日本へ追いかけてきた。比売は難波の比売許曾神社に鎮座。当人は琵琶湖を回って日本海にでて、コウノトリの舞う但馬の出石に鎮座。
一方の加羅の王子のツヌガノアラヒトは自分の飼牛を盗まれて、その犯人から取り上げた白い玉が美しい日売となった。王子が口説いたが逃げられて、追って穴戸の国、山口県・下関あたりにやってきたのちに出雲を経由して越前・敦賀の気比神宮に鎮座。敦賀の古地名、角鹿(つぬが)に名を残しているといわれる。彼には角があったとのでツヌガと伝承されている。比売はどちらも難波の比売許曾神社に鎮座。が白い玉の女神はのち瀬戸内海を西へ豊国の国東の姫島に至りて島の比売語曾神社に鎮座(許と語がちがって書かれる)。二柱の比売神は難波の地で同じ「コソ」で祀られることから、「両者の内容が重なり合うことから同じような人物と見なされる。(青銅の神の足音・谷川健一)」とされている。
王子たちが、二人なのか一人なのかは、古事記・日本書紀の製作者はヤヤコシスギル。が、今もヒメコソは祀られている。「コソ」は「聖地、即ち、マツリゴトの場所で、この言葉がとくに新羅、加羅という古代の朝鮮半島の国と関わっている。(神社と古代王権祭祀・大和岩雄)」とある。古代の半島での言葉だとは、王子たちが古代の半島からスタートしているのだから、そうなのだろう。

「コソ」の神社は出雲、島根半島の佐太神社そばに許曾志神社がある。
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特異な狛犬が猿と鶏の姿で境内で待ち受けている。出雲国風土記にある古社なのだが、拝殿正面の神額に「白髭神社」と掲げられている。新羅と似ている。許曾志神社の祭神はサルタヒコとアメノウズメのご夫妻。猿の狛犬はそこら辺からだろうか。ニワトリはどうなる?。比売の鎮座ではないようだ。王子たちに追いかけられる日女たち。半島の出生は同じだし、玉から生まれ出たのも同じ。だが赤玉と白い玉と違う。

瀬戸内の海で赤石の神と出会った。玉は石となって「コソ」=神社に収まっておられる。ツンガノアラヒトの最初の訪問地の穴戸、(これが長門地名の由来?か)その穴戸・下関の赤間神宮の鎮座地は紅石山の麓にある。広島を夜半に車ででて、九州のどこかを走るとき、神宮の前の海沿いの駐車場で仮眠させてもらった。大きな潮騒で目が覚めることもあった。早朝神宮の境内を散歩していた。大連神社があるそばに赤い鳥居の稲荷神社があった。
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赤間神宮は維新前は阿弥陀寺という高杉晋作の事務所みたいなところ。ここに赤い馬の形の巨石があったという。平家はこに都からの稲荷神を招来し紅石稲荷社を創建したと由来の看板があった。関門海峡は馬関とも、門司と赤馬で馬関。

赤馬関から瀬戸内海を東進して出会う赤石は周防大島の北海岸の久賀の赤石様、
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と南海岸の戸田の赤石明神。
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どちらも集落の端っこに鎮座されていて、この島出身の宮本常一は集落の入り口の守り神だとする。赤馬も瀬戸内海の西端の境ですよね。南隣の平郡島の南海岸に真っ赤な赤石神社が鎮座している。
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そばに海に面して、細い道一つで真水の大きな蛇池があり、
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蛇の伝説をつたえている。道一つが真水と海水を分けている驚きの景色は古来船乗りたちにはよく知られていただろう。海と空の青を背景に平群の赤石神社は赤色に塗り込まれている。

赤石や赤崎の地名はヒメコソにつながらないのだが、幾らもみつかる。防府市の向島・赤崎、上関町の長嶋・赤石鼻、周南市の大津島・赤石等々。瀬戸内の東端の明石は「赤石」が由来。JR明石駅から2km程の宮ノ上町の林神社は浜にあったおおきな赤石を祀った神社で、岩が海中に没した為に代わりとして創建とある。神社から海岸に伸びる参道の道は見事に子午線をなぞっている。子午線の町、明石の証?なんて。明石原人発掘地はここから西の海岸線にある。とても古くからの人の営みがあった。明石海峡を東進すると正面に生駒山。赤馬から生駒へ、「コソ」の半島との海峡のの、対馬をつけて、三馬ルート、とでも、どうか!。ただツヌハノアラヒトの比売は白石からの誕生なんだが?。比売コソの女神の誕生は牛に関わって,つたえられている。瀬戸内に点在する赤石の神の所在の島々は半島から持ち込まれる家畜の牛馬搬入ルートではないのか?。牛や馬は古墳時代末期に使役の家畜として持ち込まれた。馬は騎馬でもあった。牛馬の船旅ルートに水を与え草を食む場所、言ってみればサービスエリアやパーキングエリアを島々に設置した。としたら、どうなのか。周防大島の小松は「高麗津」いや「駒津」、倉橋島の南端の鹿老渡は「唐渡」だと言われる。港だけの機能の場所なのだろうか。

「中国地方の島では,牧畑が行なわれていた。牛馬の放牧地をいくつかに区切って垣で囲み、その一区画で牛を飼うとあくる年は作物をつくる。そして二、三年もすると、また牛を放牧するのである。宮本常一。日本風土記」輪作障害の起きる作物、麦・アワなどに用いられた。「牛は傾斜地に放牧すると等高線にそって食べていくものである。馬にもその性質があるが、牛のほうが強い。草の生えてるところを次々に横に食ってゆくと、段々が出来てゆく。こうして海辺より山頂にいたる段畑が積み重なって山頂に至る階段を作り出したのである。宮本」放牧や牧畑は瀬戸内の島では愛媛県忽那島、広島県生野島、岡山県鹿久居島、山口県祝島、祝島では今ブタの牧場がある。
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八島
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、平郡島、雌雄島、見島、大島など。それらの島は川はないのだが湧水あった。牛の背で石を運び石垣を造った。牛は本土に売れる大切な商品でもあった。牛飼いの人々が島にいる訳が牛馬が家畜として運搬したルートでもあったと思わせる。

# by forumhiroshima | 2021-08-09 15:58

大阪・上町台地の古代渡来者たち

大和の玉造のように、大阪の上町台地に玉造の地名がある。古代渡来するお客様で忙しいところだったようだ。

イクメイリヒコの時に、半島から逃れてきた嫁や恋人を探して上町台地の北端に現れた男が二人がいた。半島にあった古代国家、新羅の王族だという。
一人の男天之日矛(あめのひほこ)は牛飼いの男から手に入れた赤い玉が美しい娘となって妻となった。いつしか天之日矛は驕り高ぶり妻を罵るようになった。妻は「私はあなたの妻となるべき者ではない、私の祖国へ行く」と言って小船に乗って逃げ渡り、難波に留まった。今は比売碁曾社・ヒメゴソに坐すアカルヒメという神だ。「古事記」
もう一人の男、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は飼っていた牛をある日見失った。その牛を食べてしまった農民たちから、償いとして手に入れた白い石を寝室に置いた。すると、白い石は美しい乙女になった。喜んだ男は、さっそくこの乙女と交わろう、近寄った。すると忽然と消えていなくなってしまった。乙女は海を渡り、日本に辿り着いた。乙女は難波にいて比売語曽社のアカヒルメ神となった。「日本書紀」

逃げられた二人は玉から生まれた女を追っかけて、難波・上町台地の北端部にやってきた。その女たちは女神となって、上町台地の突端エリア周辺に鎮座している。その由来の神社は多い。
アカルヒメの社は比売許曾神社とも呼ばれJR鶴橋駅の東に鎮座している。西淀川区姫島の姫神社はヒメコソ神として、平野区平野の赤留比売神社の鎮座もこの神だとしている。笠縫の深江稲荷神社の伝承に、下照姫(したてるひめ)を、また玉造稲荷神社も下照姫命と稚日女命(わかひるめのみこと)を祀神としている。この女神はヒメコソ神と同体だとされる。中央区高津宮の摂社にも比売古曽神社がある。これらみな日女・ヒメ神だという。
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「女神たちは高い木に降臨する神を鳥のごとく舞いながら、太陽を待ち受ける。そして神霊を受胎し、自ら神となり、人の世に向かう。」と、中国や半島の古代呪術を調べる民俗学者の吉野裕子は語っている。女神の衣装のたもとは羽のように長いと吉野は語っている。「しのぶ思いを 振袖に、祇園恋しや だらりの帯よ,・・祇園小唄」そう、振袖は乙女だけの衣装だった。女神たちは「日女・ヒメ」と語られ、また「日妻・ヒルメ」とも言われる。いずれも「太陽の妻」という意味の名前であった、と中沢新一、大阪アースダイバーで語っている。

女神たちが太陽の妻・日妻であること、それって、何とか知りたい。
日妻は太陽の動き・朝日と夕日を、冬至から春分・秋分・夏至の一年を通して指定出来るから、日妻、太陽を受胎した女神とされるのだろうか。天体観測者なのか。
そんな神業を、今自由に指定したポイントで地図上に日の出日の入りの時刻、日差しの方角を描き出すアプリをみつけた。「日の出日の入り・時刻、方角マップ」。まさにアプリ・日妻だ。太陽の動きを自然の地面にラインしてゆき、冬至の日に最も南からスタートし夏至の日に最も北で、そこから反転する朝の陽ざし。地面の置かれた垂直な棒の影がつくる角度を記録し、日々のその角度を記録すれば、夏至の日を予見できる。冬至も角度がもっとも小さくなる日の朝日が上る山を知りさえすれば、冬至の日を予見できる。日の出の位置を山のピークに設定すれば、観測がしやすい。高安山もその南の二上山も物差しのように横たわる生駒山地では判別しやすい。特に双耳峰の二上山の峰の間が冬至の朝日なら、それだけで、冬至の朝とわかる。そして夏至と冬至の太陽の朝日の位置の中間が東に大雑把にはつかまえられる。生駒山山頂はたやすく判別できる。冬場にオリオンの三ツ星の上るポイントの山際と朝の陽ざしの東方向と合わせれば精度がたかい。幼稚で雑だが今住む世界を包み込むスケールの大きなストーンサークルを持つことができる。日妻たちは日々太陽を迎える舞の動作の中にに所作に、太陽の位置と動きを感知したのだろう。祭りの舞は表と裏と回る動作で構成されていると聞いた。自転車の旅をこのストーンサークルに落とし込めば、景色が宇宙につながってくる。

それどころか、マークした山際の向こうにも広がることがある。古代難波の宮とほぼ同じ北緯に鎮座する玉造神社、つまり生駒山に隠れているが、その向こうに正しく東位置の御蓋山もストーンサークルの一つの起点として、玉造稲荷神社の冬至の朝日を調べる。生駒山地の南端にチョッコリとピークを見せる高安山から太陽は上ってくる。高安山の東に信貴山が並び同じ朝日のラインにある。
このラインは東の王子町を流れる大和川に懸かる明治橋をぴったりと通過する。ある日そこに走った時、橋から二つのピークが生駒山地の尾根上に見ることができた。
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自分と高安山・信貴山と難波の宮が見えないライン上に並んだ。そしてアプリ・日妻の冬至のラインは自分を通り越して奈良盆地の南東の三輪山に向かう。冬至の日に近い正月元旦に三輪明神大神神社で大松明のご神火まつりが行われる。巫女たちが太陽の復活を知らしめること、が祭りになる。
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御蓋山の春日大社では12月17日の夜半に若宮御祭りで巨大松明が参道をひきずられる。
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春日大社と大神神社はほぼ東経135.50.10にあって同じ子午線に位置する。難波の宮・春日大社・大神神社は直角三角形を形成している。この三角形は三角定規の30°60°90°にほぼ近い。小学校時代筆箱にいれてたアレです。などと、なると、日妻は東西どころか、南北まで、お知らせします、の魔女?とまぁ。そこまでは「日女」気分に浸れた。Keisanというアプリがある。直角三角形の角度計算はっこれで行った。
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この国の神社占有率NO-1は、神功皇后の八幡神社と住吉神社で、皇后は日女であろうか、稚日女命が住吉大社の祭神でもある。そこで住吉大社をアプリ・日妻のターゲットとすると、高安山、信貴山を東西の正方位に置き、冬至の朝日は二上山から差し込む。
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「いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から神聖な山として崇められてきた二上山。悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。」
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これ程の設定があろうか?いや、住吉大社の位置は二上山と高安山・信貴山との太陽の示す宇宙との交信として置かれた。その神託は稚日女命のお告げ‎に依る。とチョット本気でそう思ったりして。

住吉大社を突き抜けた冬至の朝日は1分のちに、神戸市住吉区の本住吉神社に到達する。この二つの神社には本家と元祖の争論がある。
「日本書紀」神功皇后摂政元年二月の条に・大津渟中倉之長狹・に住吉三神の和魂を 居さしむべしとあり、その地こそ現在の鎮座地で、大阪の住吉大社は後にまつられたものである。江戸期の国学者の本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。(本住吉神社HP)なのだが、大津渟中倉之長狹は大阪の住吉大社の鎮座地だと、大方の歴史学者は述べる。

本住吉も住吉大社も航海の神・港の神として祀られた神社と周知されている。瀬戸内海から東進してきて明石海峡の北側尾根にある巨大な五色塚古墳を望む。
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その位置から東の生駒山地の南のピーク、高安山を目指せば住吉大社の浜の住之江に入る。ラインは東西正方向なのだ。勝負あり!になるのではないか。
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以前本住吉神社のそばの住吉郵便局の年賀状元旦配達のアルバトをやった。早朝出勤の前に神社参拝。神社は標高20mの高台に南に向かって真っすぐな参道に見える車道が海へと下って、ご来光の時にははやすぎるが、白く霞んでいた。白んでくる遠い空に小さいが双耳峰の形の目立つ二上山のがげが浮き出て、それに真っ白な霧がむくむくと山から流れ出していた。二上山の霧はとても神々しい。
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住吉大社でも見られるだろう。

Keisanというアプリは見える範囲も簡単にたたきだす。ちなみに本住吉神社標高20mから見渡せる範囲は17kmとKeisanされた。住吉大社までは24kmの距離。住吉大社はここから目視できない。東経差約20分も朝日の到着の差を大きくさせる。元旦の朝に地球は球体だと、宇宙をかんじてしまったことだった。本住吉神社から標高499mの二上山まで44km。Keisanでは85kmの範囲が見えると答えた。


# by forumhiroshima | 2021-07-22 16:10


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