備後の史跡の写真に、田んぼにこわれた五輪等がポツネンと建っているのがあった。それが三谷廃寺の三重塔の礎石だという。備後の国に、壮大な寺院が奈良時代の始まりのころにあったという。天平の甍、ということになる。
古代の記録に、備後国三谷郡の大領が依頼した 朝鮮半島から渡来した放済という僧侶が三谷寺を造立した記事がある。この三谷寺が発掘によって特定されている。
朝鮮半島にあった百済という国が、中国の唐にせめられ、大和朝廷の援軍もろとも敗れてしまった。その国の高官たちが、国を逃れてやってきたという。いま開催されている正倉院の宝物もこのころのものだともいう。
渡来した人々のレベルは驚異的なものであったようで、古墳時代から奈良時代へと転換する。太平の甍の出現の時代到来。その甍の跡が備後の国の三次・塩町そばにあるという。
古代にかの国の文化をそのまま出現させるだけの力があったことになる。中国山地の裾野にそれが出現したとき、人々はどう感じたかは、判らないが、その場所にいってみたくなった。
あたらしい農道が入った寺町は、名ばかりの数軒の農家が南むきの斜面に点在するところ。ちいさな標識が「史跡 寺町廃寺跡」とあった。そこには、発掘された瓦は7世紀に創設され、様式は備後・吉備・出雲の各地限定版だとあった。渡来した人が仕事できる基盤はもうここにあったということになる。やるもんだ!この寺院の瓦がこの奥の尾根でつくられたことがわかっている。
田んぼのなかに写真でみたとうりの、五輪等がポツンとある。そばに座ってみた。ここは上下川、本村川、美波羅川、国兼川が馬洗川に合流する地点から、東へのぼった尾根になる。河川交通の要所だとおもうが、ここからは、それが見えない。案内板に掲載されていた壮大な伽藍や三重塔も、川面をゆきかう人たちからは見えなかったのでは?ランドマークとして、人々をおどろかす為政者の意図より、この地が信仰にとってなにかの意味があったのだろうか?なんておもってみる。
なにはともあれ、ここはすごいや。