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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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7,8

上下の町は日本海へはいる江川水系と瀬戸内海へ流れる芦田川水系の分水嶺になる。上下とはよくこの地形を示した名だと感心してしまう。
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上下の町から下った甲奴の町に小童川が上下川へながれこんでいる。JR福塩線のガードをくぐって、数キロの山手に大きな鎮守の森がある。このあたりが小童で、ここに須佐神社がある。
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小童はヒチとよむことに、引き寄せられていた。私事だが、自分の名に七がつく。ふりがなをシチとするかヒチとするか、中学校ごろになやんだ。で、なぜか「ヒチ」にしてきた。パソコンの変換では「ヒチ」では七は表示されないことになって、不便ではある。

古事記によると、天から地上におりたった神を天孫とよぶ。アマテラスの孫ってことだ。この神様は7歳の子供であったという。関東の秩父にも7歳の子供が降臨して北辰の神様になった神話がある。古代7歳までの子供は神だったのだそうだ。
備後の小童もスサノオが子供になって南の矢野から来たという神話がある。7がここではヒチになっている。ヒチには納得して満足しているが、スサノオが南から来たことに不満がある。やはり出雲から、北からきてほしかった。

小童の須佐神社は本殿のまえに回廊があって、絵馬がたくさんかかっている。おおきな神社で備後三大祇園の一つ。
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あとは駅家の須佐神社と鞆の沼隈神社だそうだ。備北三大祇園もあって、この小童と総領町の八幡宮、庄原・山内の日枝神社。どこも祇園社とはいわない。
それは祇園社の本山の京都・八坂神社がそうであるように、祇園社という名が明治の廃仏毀釈できえたことによる。広島の安佐南区祇園の神社は安神社となっている。祇園社は寺院とおもわれたことによるらしい。でもいまも祇園は祭りや地名でしっかり残っている。

八坂の神社は、古代渡来した「伊利之・イリシ」という人が、故郷のソシモリからスサノオを勧請したとある。ソシモリはいまの慶州だという。スサノオはソシモリの牛頭山におられた。ここに備後国風土記の武塔神またの名スサノオが南海にいる海の大王の娘バリサイ女を嫁にもらう旅の途中に、一宿をたのんだのに金持ちは断って、貧しい弟は、こころよく泊めてくれ、かえりにわざわざ立ち寄って、金持ちを殺害、そのとき弟の一族まで殺害しないように「蘇民将来」という魔よけの札をくれたという神話の武塔神が後に牛頭大王となって、そしてスサノオにむすびつく。祇園社は牛頭大王が祭られている。この神いや仏は、八人の子供を生むが、これが八王子になる。

八坂は八尺で、出雲の八岐大蛇につながるとう話もあって、七のあとは八ってことになって、神話はぐるぐると回りだす。

小童の須佐神社のお祭りは、神社のすこし南にある武塔明神社へ神輿の車が渡って、一日そこですごして、また帰還するのだそうだ。武塔神の社もりっぱなつくりで、この須佐神社が半端な神社ではないことが良くわかる。
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それに、その道沿いの家々には御幣をつけた棒が、玄関や軒に飾られている。ある仕事にかかわる集団を古代「部」とよんだ。ここは小童・宮部という。ここの住人は宮へ使える集団であったのだろうか。日差しに白い御幣がそんな空想をさせる。
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「部」という集団を構成する人々の考えは、大陸の遊牧民の方法だそうで、慶州に南下してきた民族をおもわなくもない。上下川のここから川下の古代の寺院跡が渡来の人々によって作られたものだけに。

須佐神社と武塔神の社の間に、古代の窯跡があった。そこに地元郷土史の作られた表示がある。「弥生時代末期にここに邪馬台国の前線基地があって、48の武将がいた。その武将たちの間に内乱があって、ここが荒廃してしまった。が千三百三十余年まえに白馬の若武者があらわれ再建された。そのころ内乱で滅亡した48の武将の霊がこのあたりにただよっていた。一人だけ供養されたのだが、のこった47の武将の霊はいまもただよっている。皆こころして供養せよ。」
これをここに掲示した人はきっと眼光するどい老人にちがいないとおもってしまった。この人こそ宮部だと。そうしてこの掲示を容認しているここの人たちも、やはり宮部なんだ。
by forumhiroshima | 2009-11-30 15:50
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