こひちろうの独り言 |
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⑤鉄山師とお殿様
「広島県加計町に加計という家がある。もとは屋号を隅屋といい、久しく鉄山経営をしてきた家である。この家は古い落人の家であった。その家に残るおびただしい古文書によってもこの家の古さとかって大きな勢力を持っていたことがわかるが、「国郡志御用に付しらべ書出帳(文政二年)」によると、加計家はもと隠岐の守護佐々木氏の子孫だという。佐々木氏は鎌倉の末までここに守護としていたが、元弘2年(1332年)後醍醐天皇が北条高時をほろぼそうと兵をおこし。かえって捕らえられて隠岐へ移されたときこれを監視警備したのである。ところが天皇はその翌年ひそかに隠岐を脱出して伯耆の名和長年をたよって船上山により、まもなく京都に還幸して帝位に復した。佐々木氏は当然天皇の敵として守護の地位を奪われ、元弘三年(1333年)佐々木富貴丸というものが家臣二人に守られ隠岐をのがれ出雲に渡り、石見をへて、山口にしばらく足をとめていたが、のちに安芸に移り、加計村のうち香草・遅越・寺尾の地をひらいて百姓になったという。そして近世初期までは佐々木を称していたが、近世にはいって隅屋を称した。そこにおちついて、この家は寺尾山で銀山を掘り当て、銀を出していた。それがこの家の地位と経済を安定させたようであったが、坑内の出水がひどくて、一時は廃坑になっていた。ところが元和、寛永(1630年代)横貫穴を掘って排水に成功し、また銀の採掘をはじめ、しばらくさかんに銀を掘った。が、それも水が出てついにやまなければならなくなった。 その前後のころにこの家は鉄山経営をはじめるのである。・・・・安芸北部から石見山中にかけて砂鉄採掘をおこない、たたら二ヶ所、鍛冶屋11軒を持ち、またたたら、鍛冶屋につとめるものの家498をたて、その家族2103人をかぞえる経営をおこなうにいたったのである。こうした鉄山経営のほか酒造を営み、大阪への廻船二艘、川船18艘を所持していた。まれにみる大経営であったということができる。(宮本常一)」 鉱山はここだけでなく、太田川河畔にたくさんあったようだ。安佐町久地は太田川から沼田町へぬける分岐がある。太田川と吉山川の合流地点・川井の側の金山に西正寺がある。ここに金山があって、千人が作業していた坑内が崩壊し下敷きになってなくなったという過去帳があるという。西正寺の山号は紫金山で、この金山の繁栄時に建立された伝承がる。隅屋が加計の町に残した名園「吉水園」の名が浮かんできた。「吉」の勢力があったのでは?鉄山開発の原動力はこの「吉」と呼ばれる人々では? 「加計の隅屋鉄山は、原料である小鉄(砂鉄)は石見の井野村、鍋石、後になると大坪、鼠原、雲月などの鉄穴場から脊梁山地を越えて戸河内のタタラ場まで、その道筋の農民によって縦送りに運ばれた。そして出来上がった鉄は一駄(25貫100kg)ずつ馬につけ、て、加計の鉄蔵に運び、加計から太田川を舟で広島まで下ろし、海路大阪に運ばれた。逆にタタラ場で使用する米、塩、粘土、縄、狸皮、芋、ゴザなどが運び込まれるので、文政二年(1819年)には戸河内に駄賃馬が267頭いた。加計家の当主隅屋八右衛門は483頭の持ち馬があった。宮本常一」 この砂鉄の運送費がたたら製鉄の費用の23.7%であったという。「でも我が家は、精錬した鉄を川舟で広島へ送っています。川舟は馬に比べると大量に安く運べたから、奥出雲などより有利だったのでは?」加計家当主の加計慎太郎さんの談話。(鉄学の旅/中国新聞社) 加計-広島の往復に二泊三日が必要だった。広島での宿泊と、帰りは太田川と沼田から流れる吉山川の合流地点の川井の上の集落だったようだ。すべて右岸、川ののぼりでは左側の集落だ。発電所が建設された野間平、野冠、鹿之巣がその集落(広島市郷土資料館) また、流れにさからって船を進めるために、激しい流れの瀬の通過に加勢する「ムカエ」という仕事もあった。曳き綱で船を曳く仕事で、あらかじめ場所をきめておいて、早朝にそこへ出向く。この場所は野冠、追崎、澄合などであったという。20才までの若者の賃かせぎになった。 明治になって加計の隅屋が佐々木を変えて、加計という地名を名乗った。広島藩なきあとの、新しいお殿様の誕生だっただろう。「わしに任せよ」って、明治の活とした気分を感じる。 加計から太田川右岸、国道の対岸の古道を走ると、正面に殿河内の集落が三段に平行に石垣の上を尾根に向かって伸びている。この景色を川越しに見渡す、高下は「栗栖」さんの集落で、表札ウオッチングが楽しい。そこかしこ「栗栖」さん。11世紀にここに紀州から「栗栖氏」がきて、太田郷を支配していたという。ふるーいお殿様だった。 上流・大田郷の名であった「太田川」が、きっと佐々木や栗栖という人々によって、河口までの名と発展したのだろう。 河畔は、石垣がきれいだ。殿河内は、石工の里とも聞いている。 太田川右岸は、とても古びた道で、地元の軽トラックか、介護の車ほどが通過してゆく。田んぼの石垣もすぐそばを走っている。家の築地の石垣もさまざま。 井伏鱒二が故郷の福山市加茂に疎開していたときに書いた「石垣」から。 「私のいる村には石垣が多い。ことに私の住んでいる家の付近には、ほとんど奇怪だと思われるほどたくさんの石垣がある。ここは私の生まれ故郷だが、昨年からここに疎開定住するようになって、今さらのようにそのことに気づいた。どこの家でも石垣なしに敷地を区切っていない家はない。畑もみな石垣をひかえた段々畑である。水田もみな石垣をひかえた棚田である。細い道も往還も左右に石垣をひかえ、谷川も溝川も両岸を石垣で工事されている。川の底さえも或る部分は石畳になっている。 一昨日、私が谷川へ鮠・ハヤ釣りに出かけると、橋のたもとのところで、一人の老人が石垣の崩れをなおしていた。同じ部落の石工屋の隠居である。石をすわりのいいように据えてみて、また向きを変えて据えなおしてみて、また向きを変えて据えなおしている。「案外、骨の折れる仕事ですなあ」と私が驚くと「いやあどうも」と石工屋の隠居がいった。「石垣をとるにも、上手と下手があるでしょう。どんなのが、上手というのですか」とたずねると「そりゃ、出来上がりが早くて、みる目に調子よくて、頑丈にしあげることですな」と隠居は答えた。隠居の説明によると「みる目に調子よい」石垣というものは、必ずしも石の表面を滑らかに削ってあるものとはかぎらない。また石と石の接触部分に隙間がないように仕上げてあるのものが、調子よいとは限らない。石垣は古ければ古いほど滋味があるが、どういうものか諸所方々のお城の石垣には、滋味の感じられるものは割合いに少ないような気持ちがする。これは「みてくれ」があるからかもわからない。たまたま見ず知らずの村へ・・出かけたときに、何ともいえない調子のよい石垣を見ることがある。ひっそりとしているようで、朝露にまだ濡れているようにも見え、いつかどこかでこの石垣はみたことがあるような気持ちもする。じっくりとした風采の古めかしい石垣である。こういう石垣は、ほんの通りすがりに見るだけでも、いつまでも忘れられないものだと石工屋の隠居はいった。」 「石垣」にはこんなエピソードも書いてある。村で唯一のおおきな石垣で表面を滑らかに削って、石と石は隙間がないように組上げてあるもので、そこの当主は「石ひとつ築くのに米一俵の代金をかけた」といっていたが、完成しないうちに家は滅びた。村では「バカ石垣」と呼ぶのだそうだ。加計に入る手前の中国道の高い高架橋のしたの右岸に道が出来ている。これで、右岸は戸河内インターチェンジまで完走でしる。ただし通行止はしょっちゅうだけど。 その道が加計のバイパスにでるところのお屋敷の写真。りっぱなお屋敷の石垣を「バカ石垣」といっては失礼だが、それに近い。井伏が書く、すっごい石垣はこれ↓です。 津和野・堀家住宅石垣
by forumhiroshima
| 2010-08-08 09:03
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