こひちろうの独り言 |
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夕陽の丘って名が大阪の四天王寺周辺の名称だという。その名の学校もある。それは四天王寺の西の門からみる方向が浄土だという。寺は上町台地にあって、この門から西へ下り坂になって、古代にはそこまで海がきていたという。その海へ落ちる夕日が、ここに夕陽の丘と呼ばせたようだ。この門が極楽浄土の東門となる。
11世紀に四天王寺の東門のもっと東も極楽浄土の東門になると、思った人がいたようだ。その人が生駒山の西斜面に四天王寺の真東の場所に庵をつくり、四天王寺の五重塔に彼岸におちる夕陽を拝んでいた。修行に夕陽を直視して浄土ての往生を願うことがあったようで、その修行の場が往生院としていまもある。 四天王寺の西の坂をくだって、古代の波打ち際になる場所、四天王寺の真西に今宮戎神社がある。となると、この往生院と四天王寺と今宮戎神社は東西線上にきっちりならんでいる。往生院の急坂から四天王寺方面をながめると、高層ビルが二つ、難波の場所のランドマーク。五重塔はわからない。 四天王寺から彼岸の朝の日の出をみて、この場所をきめれるのだろうか?と思い出した。今宮戎神社は四天王寺の塔を基準にそのむこう正面に彼岸にのろる太陽から決められる。四天王寺は丘の上にあることも好都合。でも四天王寺と今宮戎神社はどちらがさきにこの大阪に鎮座したのだろうか? 大阪にはこの東西線の東に生駒山が南北にのびていて、これに平行して上町台地がやはり南北にのびている。その台地の西側が海でそこに難波御津、住吉津があったという。その港は中国や朝鮮半島との交易の港だったという。 では上町台地の西側の渚のある場所を港ときめて、そこに海外からの舟が入ってくるってことだから、ではその海図がいるのじゃないだろうか?なんて考える。 海外からの交易はここ大阪ばかりでなく生駒山を越えた奈良の都とのことだろう。では、どうして古代に生駒山を越えてこの国の朝廷ができたのだろうか?大阪がおきに召さない、ってことだけでもないだろうな。 古代「東に、よき地(クニ)あり。青山四周(アオヤマヨモニメグレリ)」と九州から進んできた人々が、この国の最初の支配者らしい。では、どうして青山四周の場所へたどり着いたのだろうか? 彼等が移動した生駒の峠を走ってみるしかない!と、考えてしまって、シマッタ! がその前に海から上陸し無くちゃいけない。その上陸地点、難波御津と住吉津を地図に記載して真東の生駒の山中まで直線を引く。古代に西方浄土もないだろうが。 ところがびっくり!瀬戸内海を東へすすみ淡路島と本土との海峡、明石海峡をぬけて、真東の生駒山山中のピークの高安山をめざせば、住吉の津へ着いちゃうのだ。そのラインは大和・飛鳥の法隆寺をチェックする。 難波御津は真東に生駒山主峰南の最初のピークになる。御津の場所は特定されてないようだ。が、一番有力だといわれる場所を地図に置いてみた。 往生院-四天王寺-今宮戎神社のラインは、大阪湾の暗礁だったという天保山を経由して神戸の大輪田で、上陸してしまう。西方浄土も形無し、もっとロナンチックな壮大なラインを期待していた。 大輪田は古代の僧の行基の五泊という瀬戸内海の主要な港のひとつ。ここから生駒山をめざして出航すれば難波につける。波の下の暗礁の場所もわかる。救済事業をおこなった四天王寺や行基の福祉ラインともいえる、西方浄土って、そういうこと、なんだろう。
by forumhiroshima
| 2011-01-19 12:59
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