こひちろうの独り言 |
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「奈良盆地の景観と変遷/千田 正美s54」という本を見つけて、奈良を回っている。大阪城の場所は古代海に囲まれていた、という研究を郵便局の局長さんが、おこなっておられたり、河内や堺の古墳の位置が大阪城を頂点とした直角三角形だという研究をタクシードライバーがされていたり、さすが!古代からの中心地、興味は尽きないのだ。
奈良に自転車で登りだすと、大阪からの入口は生駒山越えか二上山越え。峠アタック!。だが、その山々の間に大和川が流れ出る竜田には坂があるだけ。古代の竜田道で奈良盆地に上がった場所に法隆寺がある。斑鳩の里だ。 千田先生はれっきとした歴史地理の学者さんで、その著書に「奈良盆地は地質時代には山城方面に口を開いた海湾であったが、洪積期の終わりごろから、湾口にできた奈良丘陵の堆積によって大阪湾から孤立し、大和湖を形成するにいたった。その後、亀の瀬付近で断層による陥没ができて、水は大阪湾に向かって排水されるようになった。」 この亀の瀬の陥没が、竜田道になっている。亀の瀬は今も陥没と崩落を続けていて、おおきな工事がつづいている。 盆地から西を眺めると、生駒と二上の山脈が切れ込んで二重に重なって見える。こ こに二つ並んだ山頂が現れる。 信貴山で、「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。」信貴山・朝護孫子寺のHPから。 信貴山の南の二上山もふたつの山頂をもっている。休火山かと、思われていたが、今では1400万年前の火砕流堆積物だといわれ、この火砕流の噴出源はわからない「日本の地形6」という。 二上山も信貴山もよく目立つ。黄昏だした奈良盆地から大阪への脱出ルートは、このランドマークへみかって走っている。 法隆寺から信貴山がみえたら、聖徳太子がここに祈願した気分がつたわってこないだろうか、と。法隆寺の参道の松並木から、しっかり二つのピークがみえて、ほくそ笑んだ。そばで寝そべっていたネコが、ゆっくり立ち上がって、背伸びして、向へ。バカにされた。 「京都・奈良盆地には自然の営みによってつくられた景観(地形)はほとんど存在しない。そこには、歴史時代において人間の営力(人為)もしくは人間と自然との両方の働きによって生じた地形がひろく展開する。日本の地形6」 「大和湖の水面は、6000年ほど前には70mのあたりであったが、その後だんだん低下して2500年前には50mあたりまで低下するにいたった。そして湖岸平野が形成され、弥生文化の時代になって、稲作がこの地域に発生することになる。一方、湖岸はさらに干上がって現在のような盆地底となったのである。奈良盆地の景観と変遷」 奈良は九州で始まった稲作の適地で、それがこの国を統一する勢力が現れた原因だということなんだろう。聖徳太子の6世紀に斑鳩の里は緑の田園が広がっていたのだろうか。その台地を出現させた亀の瀬の陥没は、神業として、記憶が紡がれていたのかも。 古代大和湖が流れ込んでいた北方の平城山の一帯のなかで、一番標高の低い場所を探してみた。ここに古代の流れの痕跡が、いかに? 奈良は「ならす」からきた言葉ということは、この盆地の実感だ。平たいのだ。平城京はナラのシロの都。その北に佐保と佐紀の町がある。この佐紀は「サケ/亀裂」にちがいなかろう!と、平坂へ。 ただ車の列だけ。奈良には自然のままの景観はない!
by forumhiroshima
| 2011-09-02 10:02
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