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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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阡陌「センパク」

「倭・ヤマトは国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる倭うるわし」
四世紀以降、日本の古代国家は大和盆地にその中心をおいてきた。そして八世紀にいたるまで、大和は日本の中心であった。「日本に残る古代朝鮮。段熙麟」

奈良盆地は空がひろくおおきく、そしてその空間を囲む山々は青い。そのしたにひろがる台地に6世紀とも7世紀後半にははいらないとその発生をいわれる、南北にパラレルにのびる直線の道がいまに残っているという。東から、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる。
阡陌「センパク」_d0089494_19275439.jpg


そのなかで、すべてが現存する中ツ道について

「下ツ道は、奈良盆地の中央を南北に縦走する直線道路で、南端は橿原市五条野(見瀬)丸山古墳、北端は平城宮太極殿付近、総延長は約26kmにも及ぶ。このみちの名前は、古くは、『日本書紀』「天武紀上巻」すなわち、「壬申の乱」の記事に見え、平安~鎌倉時代の文献にも、下津道あるいは下津路の名が見える。また、この頃には、中ツ道、上ツ道、横大路とともに、聖徳太子によってつくられた道路であると伝承されていたようだ。

また、下ツ道は奈良盆地の条里地割りの基準線になっていることが知られている。つまり、奈良盆地に見られる方位に則った整然とした水田区画は、いつの時代かに下ツ道を基準につくられたのだ。
近江俊秀」

掲示した地図には平城京が記載されて、古代最初の政治の中心、飛鳥との関連があるようにおもえるが、この三つの道が設置された時代には平城京は存在していない。

この三つの古代道路は「この三つの道が相互に等間隔をたもちながら、奈良盆地の中央を走る下ツ道より東に設定!!され、天香久山を越えて飛鳥の中心部を通っている事実である。つまり上・中・下三道は、飛鳥を中心として設定された可能性がつよい、岸 俊男」
「三道は等間隔をなすが、図上計測では道の間隔は2118mである。これを当時の測量単位である高麗尺=一尺が35.3ないし35.5cmに換算すると、ほぼ6000尺の完数を得る。大宝律令の規定された高麗尺5尺=1歩、300歩=1里とする側地法にしたがえば、6000尺は1200歩=4里ということになる。しかし高麗尺5尺=1歩は大宝律令施行後のもので、この道の設定期間である律令以前では高麗尺6尺を1歩とすることにより、三道間は4里というべきでなく、1000歩という完数をもって等間隔に設定されたのである」

この三道が古代に設計され設置されたことは、
「平成15年(2003)の6月の出来事を思い起こしていた。その年、橿原市の教育委員会は市内出合町にある藤原京跡で、近くの店舗増築工事に伴う発掘調査を実施していた。そして、藤原京の条坊道路網の中でもひときわ重要な東四坊大路が見つかった、とマスコミに発表した。6月16日のことである。5日後の現地説明会に参加して、その巨大な道路遺構に唖然とさせられた。
発掘調査では、南北70メートルの長さの溝が4本見つかった。溝はそれぞれ、道路わきを流れる下水路と排水路を兼ねた側溝だった。この4本の側溝の存在は、当初は路面幅14・5mの道路が造られたが、藤原京建設の際に25m幅に拡張されたことを示している。

■現在の高速道路の一車線の幅は約3mだそうだ。中ツ道を現代の道路に例えれば、当初は5車線幅の高速道路で、後に8車線以上に拡幅されたことになる。現在の名神高速道路は、最大箇所でも6車線にすぎない。実際に縦位置から発掘跡を見下ろしてみた時、その道幅は圧倒されるような広さだった。大型のジェット機でも十分に離着陸できるのでは・・・と思った。2007古代奈良盆地の水陸交通謎を追う」
この発掘で確かめられている。ではナゼ?この道は作られたのか?
この設置された道路が巨大であるだけに、その設置の理由はいろいろにかたられるが、道がどこから始まって、どこまでかよっていたのか、はわかっていないようだ。

中ツ道はその設定にすごく特徴がある。それは大和三山といわれる天香久山の山頂を設定が通っていることだ。そこに古代の人々の設計の思想をよみとる人がいる。

「東西線と南北線が直行し、その線でかこまれた空間は、正方形か長方形の空間となり、整然とつらなることになる。その空間で稲がつくられれば、それが条里制の水田である。阡は東西を、陌は南北をいうことで、この四方の空間で耕すこと、その方形の空間こそ文明であり、美しいとする。王城は方形であるばかりでなく、その空間もまた方形にひろがる。王城の方千里以内を「畿内」といい、その外500里を候服・コウフクという。斉藤晃/日本的風景」
阡陌「センパク」_d0089494_2033148.jpg

天香久山を中心に中ツ道の写真です。
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飛鳥から天香久山へ水路脇の農道を走る。これが古代飛行場ほどのみちであったか!そんな標識があるのかと、一本の石柱にぶつかった。そこには飛鳥時代の大官大寺があったと表記してある。この中ツ道は、平城京にこの大官大寺が移転して大安寺となっていると、大安寺に表示してあった。どちらも強大な塔をもっていたようだ。その塔の場所がほとんと、ピッタリ天香久山の山頂東経135.48.5にあるのです。これって、なに?
by forumhiroshima | 2011-09-16 20:12
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