奈良盆地の南東のひなびた集落の太田にある神社へ、走ったのは、がんばってみようか?という気持ちからだけど、その神社の古い地名が、「海道」だったことにもよるのだ。
ウイキペディアで纒向を調べると。「この遺跡には矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、両溝の合流点は纒向小学校グランドにあり、推定距離は2600mにおよぶ。底から湧水がみられ、この溝は大和川とむすばれて遠く外海と結ばれている。」と記載されている。
この「遠く外海と結ばれている」と神社のある場所の地名「海道」とが、どうしても響きあっているのだ。ウイキペディアの編集者はここでナゼ、海を連想したのだろうか。
纒向から南へすぐに三輪神社の巨大な鳥居がそびえていて、そこからすこし町並みを南下するとえびす神社にでくわす。えべっさんはここに古代栄えたという海石榴市(つばいち)の守り神だ。これは、海のザクロと読める。それがツバイチと読まれる。訳わからん。
奈良盆地は古墳周囲も、そして条里制のなかにもたくさんのため池がある。川の流れも、盆地全体に側溝や用水もふくめて、張り巡らされている。走っていると、水辺の景色が連続する。まるで海の中のようだ。出雲の中海にできた堤防道路走ったときを思い出した。
「街道をゆく24/奈良散歩」で司馬さんが、海石榴市から南下して盆地の南の尾根にある多武峯の談山神社の社人を書いている。その人は六条篤、洋画家で歌人だと紹介されている。
その作品の詩集「六条篤詩選集」から
風景入りのスタンプの中の三等郵便局長R氏はいつも海ばかり見ている。
どの異邦人/タビビト も
どの異邦人/タビビト も
海へゆく方向/ミチ を尋ねる
六条篤は、山深い里の三等郵便局を守ってゆかねばならなかった。それだけに、外界への憧れがつよく、それが海に象徴されていたかと思われる。司馬遼太郎
この詩に「海原は 鷗立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は」と歌う万葉集の歌を自分はおもいだす。この盆地はずーっと昔、地質学者がいう、洪積期の終わりごろまで大阪湾の海湾であった。その記憶が、この土地にある、と言えまいか。六条篤はその景色を思い浮かべることのできた詩人だと、言えまいか。
図は現在の奈良盆地の水系と古代の道路です。