こひちろうの独り言 |
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近畿自然歩道-葛城の道の表示にトンボのマークが書いてある。
![]() この町のマークかな、とおもっていたが、入手したパンフレットに秋津洲の国をめぐる遊歩道とのタイトルとトンボが書いてあって、古代ここが秋津洲・アキツシマだった、ことからのようだ。秋津はトンボのこと、洲はヤクザのシマほどの意味だ。領地というか支配地域っていうか。同時に水田の広がる場所ってことの意味もあるようだ。 ![]() 大和朝廷の最初の天皇、神武天皇が大和平定のおり掖上/ワキガミの嗛間/ホホマの丘から、この国はトンボがトナメ・交尾しているようだといったので秋津・トンボの洲、秋津国とよばれるようになった。その秋津洲が御所市のあたりだという。ここに、ワキガミの地名がJRの駅名でのこっていて、ホホマは本馬の地名にかわっている。神武天皇の王宮だという神社も健在だ。 ![]() ![]() 隣町の橿原市の神武天皇を祭る橿原神宮は大正時代につくられたもので、秋津洲の本拠はここ御所市だと、ちいさな神社が主張しているようだった。秋津洲の出現は紀元前660年2月の即位だとなっている。いまの建国記念の日はこの神話を再現する。さて、どちらが神武天皇の王宮なのか? それにしても、トンボが交尾する国って名称、“ジャパン・クール”。かな?。 秋津洲の景色、弥生の村々がどんな景色か?司馬遼太郎はこう語る。 「これは独断かもしれないが、農耕は段々畑の形式しか、しかたなかったのであろう。山の中から落ちて来る水を、階段式につくられた水田によってダンダンに受けてゆく。大和葛城山麓は、すべて上代人がつくりあげた段丘形式の水田である。ところで弥生式のいつほどか、ひとびとは平地にムラをつくる能力を序々にもった。農業用水をつくるという知恵と技術を身につけたからである。 もっとも、この私説はあまりあてにならない。 大和における弥生式の土器の出土状態からみると、湿地帯のほうが古く、非湿地帯のほうがあたらしいという説があるからである。弥生式農村の歴史は、出土品から推定して湿地帯からだんだん山よりの山麓地帯に移っていったというもので、いわば定説にちかいが、ども私にはうなずきにくい。司馬遼太郎/街道をゆく/葛城みち」 秋津洲の景色を想像からでなく、復元作業をする、とする歴史学者は、 「大和平野の中心地は弥生時代50m等高線よりやや低いところまで湖沼地帯をなしていたと考えてる。大和川が亀が瀬地峡をへて河内平野へでるあたりで、当時なおせきとめられていたと考える。四周の山々から流れ出る諸河川はこの湖沼に流れ込み、その下流部は乱流し、あるいは流路をかえ、そのところどころに成立した三角州的高みに弥生人が住居を定めている姿を考えてよい。 ・このような耕地は住居趾に選ばれた微高地にまして、頻々と水害に襲われたにちがいない。水害は土地を流すようなものだけではない。水はけの悪い湿地では湛水が一定の限度を越えれば稲の育成を不可能にする。・・・これらの土地の再建は繰り返されたが、この地から分かれて山麓部に移り、新しく山麓斜面の湿地を稲作地とし開いた人々は、そこに安定した住居をえて、やがて次代の人々もその地を居住区として、発展してゆく蓄積を可能にしたものであろう。 土地に刻まれた歴史/古島 敏雄」 弥生時代の祭りの祭器だといわれ、或る時いっせいに埋められたり、こわされたりした「銅鐸」にトンボが刻まれている。野鳥も刻まれている。銅鐸の絵は水辺にあつまる動物、鳥類はツル、ガン、カモ、両生類はカエル、イモリ、カメなど、魚はコイ、虫はカマキリ、トンボ、クモ。いずれも淡水の水辺や草原の生物で、秋の季節のものだという。秋津洲にピッタリ。 ![]() ![]() ![]() 山すそのため池にであった。池の向こうの白い鷺とねずみ色の鷺がこちらをみている。池の端の杭にアカネが飛んできた。刈り取った稲藁を燃やした白い煙が低くひろがって、柿の実がその中にうかんでいる。雨模様なのかな。秋津洲の景色も煙のむこうの様子だ。
by forumhiroshima
| 2011-10-15 12:05
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