こひちろうの独り言 |
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畿内の地域が645年に定められ、その外を七道とよび、伊賀、伊勢から東への国々が東海道になった。その国々をむすぶ街道も東海道とよぶ。
645年大化元年に都は飛鳥にあったことで、この東海道の街道の出発点は、その飛鳥にあることになる。このあたりが、東海道とよばれてJR新幹線をイメージしてしまって、とてもピンとはこない。この街道は奈良盆地から南へと下って、伊賀に入っていた。 都が奈良・平城京に移っても、やはり東海道は南の伊賀へむかっていて、山城の国に平安京ができて、東海道は東へ、近江から鈴鹿峠へぬける道筋にかわった。このあたりで現代の道筋に近づいてくる。 古代の奈良盆地の古道でこの伊賀へぬける道は東山中の都祁を経由する「都祁山道」と桜井から初瀬を経由する「初瀬街道」があったといわれる。 古代「都祁山道」の東海道は、今の道の、どれか?なんだろうか。幾度か走ってみて、すっかりはまってしまった都祁の景色の中に「古代」をさがしてみたくなって、また訪れた。 「都祁 (つげ)という文字の並びが、目を惹く。日本書紀では「闘鶏」と書いてつげと読ませているが、その語源が古代朝鮮語のトキノ(都祈野)から来ており、その意味が日の出を意味するということからも、一種独特神秘的な印象がある。」 「都祁白石にひろがる水田の中に点々と樹叢がみえる。集落の東にそびえる野々神岳の麓に鎮座する雄神神社から、3ケ所の樹叢が続き、その先には鎮守の森に囲まれた白石国津神社が鎮座している。この樹叢は「やすんば」と呼ばれ、地元では野々神岳から国津神社に来訪する神の足跡といわれている。森 隆男」 「地元で“ののさん”と親しみこめて呼ぶ野々神岳は男神と女神の二つの峯よりなる。麓の雄神神社には本殿がなく、“ののさん”を神体としている。森 隆男」 「古代にあって稲の播種の時期を探るのに、神社のある場所から「やすんば」の叢林の並ぶ一線上に野々上岳の二つ峰の中間を見て、そこに太陽が上がる時を待ったという。・・まさに神迎えという言葉に相応しい素朴な野の風景が広がっている。」 ![]() ![]() ![]() ![]() その樹叢の点在する景色に、実は気がつかなかった。帰宅して見つけた「大和路散歩ベスト10/小川光三」にこのことが記載してあった。そして当日の写真にラッキーにも一枚その景色がのこっていた。HPにもたくさんの方の掲載が、あった。ただの茂み程におもって見逃していたから、調べていくうち、北京オリンピックの開会式の会場へ向かう巨大な足跡の映像を連想。 国津神社がこの都祁のなかに3つも鎮座している。この奈良の東の山中から伊賀にかけて、国津神社はたくさんみられる。が、春日神社に多い尽くされたようなこの山中に、特別に思えて、この三箇所を訪れることに、気分が一杯だったのだ。雄神神社から白石国津神社を訪ねた際には、拝殿奥の巨大な杉をみつけて、これが御神体だ、スゴイ!と思って、それだけにしてしまった。当然御神体なんだろうが、雄神神社の神のお旅所でもあるとは!。うかつであった、よ。 ![]() ![]() 次に、二つ目の国津神社へ。そばに、小治田 安萬侶の火葬墓、先日訪れた都祁水分神社がある丘の東側の斜面にある。ここも巨木が林立してある鎮守の森の中に鎮座されて、参道は南へ開放されている。境内からみる鳥居の正面に、この土地の名を持つ都介野山が三角錐に現れている。その目線を田園に下ろすと、小さな森がもりあがっていて、地図でそこに三番目の国津神社が鎮座してある。都介野山の山頂と二つの国津神社は、一直線上にある。 この一直線に気付いたとき、最初に訪れた白石国津神社へまた走った。都介野山がそこでは、どう見えるか?。鳥居の枠には入ってはいなかったが、参道は野々神岳とはまったく違う方向にある。言い訳ですが、「やすんば」には・・気づかないよな。 ![]() ![]() 「もともと都祁氏は神祀りを主業とした多 (太)氏であり、そのためこの地に特異な祭祀遺跡が多いと云われる」「ここに人口が急増したのは2~3世紀頃で、都祁全域から弥生後期の遺物が、中国の前漢鏡、銅剣、銅戈といった舶載品をはじめ、東海や関東の土器類もあって、・・・都祁氏は神祀りをおこなった「多(太)オオ氏」の一族で、古墳時代初頭にこの山中から大和平野中心部へ下り、 小川光三」 多神社は盆地中央の「多」に鎮座していて、その場所が東の三輪山と西の二上山との真ん中にあること、そしてその結んだ直線が東西の方向であって、春分、秋分の太陽の通過ラインにあたるという。たしかに地図では、すこしずれるけど、そうかいな!なんて思ってしまう。古代の祭祀は、マジカルだが、その呪術にはまってしまうほうが、楽しいもんだ。都祁では呪術が大地に刻み込まれているのだ。 ![]() 古代の東海道は現代の名阪国道とほとんど同じラインで奈良から都祁まで登ってきている。
by forumhiroshima
| 2012-02-24 12:15
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