こひちろうの独り言 |
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王城の地が畿内だときかされて、内心ムッとして(広島育ちなもんで)それなら、どれほどのものか、なんでも見てやろう?と走り始めた。畿内とは、「646年に発せられた大化の改新の詔に、[東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす]という畿内の範囲に関する記述」があって、その四方に向かってみた。この場合の以来(こちら側)は飛鳥に置いてみた。図は難波京を基点としている。
西の端は明石の櫛淵で、場所はわからないのだそうだが二地点に説があった。一つは明石の街の城跡の西、もう一つは河上に置かれていた。古代、六甲の山麓は海に洗われていたのでは?と、古代の有馬道を西にむかった場所、奇淵(クシフチ)に行ってみた。荘厳な空気が消えかかっているけど、なにかアル場所で、その景色に、けっこう満足! 東は名張の横河。ここは東大寺のお水取りの松明調進に道でもあり、伊勢神宮の斎宮の道でもあって、古さ一杯!地元も古さを今の生活にとりいれていて、道端の地蔵さまもどこか生き生きしている。 これら畿内の端の東西の場所は、川が山から野にでた場所で、氾濫源の様相、荒ぶる神々の舞台だった、と思えた。 北の逢坂山は下れば天智天皇造営の大津京。大化の改新の詔からわずか20年で畿内を飛び越えてその外、いってみれば畿外に造られた京は、近年発掘された礎石一つの空き地に掲示版、それもすっかり文字が消えていた。祠すらなかった。どうしてだろう。天智天皇みずから畿内を定めたのだろうに。 大津京は、古代の飛鳥から大和盆地を北上して、平城山を越え、木津川、宇治川を渡り、大津から若狭へむかう北陸街道。そこへの道は2ルートがあって、宇治経由と宇治田原経由。宇治から逢坂越えに蝉丸神社、宇治田原からに猿丸神社とマルとつく名の神社が鎮座していて、なんでここにマルがあるのか?が、印象に残った。 最後に南の兄山へ、飛鳥経由で向かった。灘波京から兄山へは河内から紀見峠越え。きつそうな峠登りに気持ちがもりあがらなくて、峠越えをするか、峠回避の飛鳥へ迂回するかで、なかなか走り出せない。飛鳥経由も距離が長い。 一方、マルの神社への強い印象が、ふと宇治って地名にマルって関係ないのか?と調べてみた。「ウジという地名で、一番多く古くから使われたのは菟道で音読みでトドウとも読まれる。・・この文字が示すように、ウジにはミチ(道)の意味がある。・・ウ(諾、宣)なる道、すなわち、一番宜(ヨロシイ)道、皆がうなずく(諾)道というのが語源であろう。吉田金彦」 この金田先生が、こう付け加えていた。「大和から紀州に抜ける、今の五条市北部をやはり万葉時代にウジ(宇智)といった。・・そこに人が住むようになると、ソト(外9よりもウチ(内)が良いとの意識が発達してくるけれども、ウジ(宇治・宇智)の起源はどうも交通上適当な道という意にあったようだ。」宇智へのルートに丸山古墳がある。 この文章で畿内・兄山へは、帰り和歌山から輪行として、登り回避し飛鳥経由に決定!ヨワムシ!! 飛鳥の橿原市市役所前に下ツ道という石碑がたっている。石碑の前のR24が古代の下ツ道になるからだろうが、知名度ナイとおもうけど。この下ツ道は南の丸山古墳を南端の標識として使われているという。ここにマルがあるけど、関係ないだろうな!でかい古墳だ。 ここからは近鉄吉野線と平行してゆるい登りコース。「つぼさかやま」駅すぎでR26にわかれ近鉄線沿いに南下。JR和歌山線があらわれ鉄道が平行して走る。ここのJR「よしのぐち」駅にある柿の葉寿司はおいしい。創業100年以上といわれ、これが売り子のおかあさんの口上なんだ。一個づつ売ってくれる。ここは三度目で、自転車さんね!と憶えてもらっていた。 このあたりで近鉄線は吉野へむかい、JRと平行して南下。鉄道との併走ラインはラクチンコースだ。 重阪(ヘイサカ)を越えると五條市街地。いきなり大和街道の標識が現れた。そして同じく宇智神社の石柱。 五條市に宇智の地名はなくて、川があるだけとおもっていたから、神社の出現にはびっくり。その示す神社へゆくと、そこは荒木神社で万葉集にある浮田の社と掲示してある。宇智神社との掲示はどこにもない。掲示は万葉集の中の歌「かくしてや なほやなりなむ 大荒木 浮田の社の標にあらなくに」が書いてあった。大荒木は死者を埋葬するまで遺体を置いておくモガリの場所のことで、注連縄の囲いの中は神聖な場所で、この神社の北の峠が荒阪でそのあたりまでの標だという解釈がしてあった。沖縄など南の島々の埋葬を連想する。天武天皇のもがりも長い期間おこなわれたという。大海人皇子という名にある海と飛鳥がつながってみえる。 畿内は河内から和泉の国が分離するまでの摂津・大和・山背の四カ国で、この五條市が大和の最南端になるのだが、「畿内」では紀の国になる「兄山」が南限だとする。浮田の社の標は、もがりの場所であったことも、また大和の国の南端の標であったとも、思えるのだけど。浮田の社の前に宇智社であったかも、があの標識だろうか。 大和街道をたどるといっても標識はバラバラと置いてあるって設置で、まじめさがない!なんておこってもしょうがない。が、うれしいことに、地図に書き込んでいた兄山までの古道とおもわれるコースにピッタンコ!。古道フェチとしては鼻高々で、次の橋本で中華料理屋さんに。古びた商店街でゼッタイに存在しているのが、散髪屋さん。つぎが中華料理屋さん。ラーメン屋さんではなくて、どんぶりもちゃんとある店。あとはどこもシャッター閉まってるといえる。 古道トレースの旅は時間がいくらあってもたりない。そこかしこ、あそこ、ここここ。このあたりの紀の川は上流で奈良市や和歌山市に水をとられて、河原はすっかり小川だ。でも広い谷の向うの山々は、紀の国らしく濃い緑で、それが川の湿気の向うにあって、ちょうどレンズ越しの風情。ひろくて明るい。ぼーとしてると、オットもう2時すぎです。
by forumhiroshima
| 2012-06-12 11:35
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