こひちろうの独り言 |
カテゴリ
以前の記事
2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 フォロー中のブログ
メモ帳
|
吉野川が紀ノ川と名を変えるのは地図では五條市の西端、奈良県と和歌山県の県境からのようだ。ここが畿内の南の端のはず、と思うのに畿内を定めた古代には五條からまだ下った場所にある。
紀ノ川の河口は古代に「紀の水門」とよばれた港であったという。「中世、紀ノ川下流の今の和歌山市域が雑賀・サイカと呼ばれた・・・。それ以前は[名草・ナクサ]と呼ばれた。名草は渚・ナギサだろう・・ 。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。紀氏の遠祖は神武東征のとき従った天道根命・アメノミチネノミコトであるといい、またその家系に伝説の武内宿禰・タケウチスクネが入るといわれたりする。 司馬遼太郎 街道を行く 紀ノ川流域」司馬さんは街道をゆくの竹内街道では「叔父(司馬さんの叔父)はむろん葛城の竹内のひととして武内宿禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし」と書いている。宿禰は神武天皇の水先案内人で紀の国の祖の宇豆比古・ウズヒコの妹と天皇の皇子との間に生まれた(日本書紀)とも書かれている。古代大和と紀の国の関係はとても濃いように思える。とても司馬さんのお母さんの実家のある竹内街道に住んでいたとは思えないが、でも実家があるのは、「竹内」なのだ。人々の記憶にも紀の国との関係を、濃く残している。 五條市の「標」をのこした神社が大和国と紀の国の境を示したのでは、と思い、川の名もここで変わることも合わせて思いながらも、どこか合点がいかない。ふと、古墳時代の道を記載した地図を思い浮かべた。そこには葛城から紀の水門へのルートと飛鳥からのルートが書いてあった。このルートは五條市と隣の和歌山県隅田街の境になる落合川あたりで合流するようで、「標」に神社よりもっと川下で、そこが阪合部橋で、川が落ち合ったり、坂道が合流したりという地名から、まだまだ、この辺りでは大和国は終わってないのでは?なんて妄想する。「大和街道」はゆるやかにくだり基調で伸びている。 いくつかの街を通り過ぎて、大和街道が田植えの終わって水面がキラキラしている田んぼの中にのびるところで、新しい浄化センターで遮られた。その先の小山が「兄山」だ。 兄山はセヤマと読み、地図には背ノ山と記載される。ここは両側から山が迫っていて、紀ノ川の流れが窮屈になっている。地図では川の中島のような船岡は、南側を開削されて島になったという碑文もあった。国道、旧道、JR路線が肩をならべて精一杯の幅。背ノ山を越えると穴伏川が紀ノ川に白い波をたてて合流している。支流が大河と合流する地点は水かさが増えると大河が支流をせき止める。支流の流れが大河に入り込めないし、水面も大河が高いからここで逆流する。洪水多発地帯。それに加えて、ここは紀ノ川が背ノ山で止められ、流れが強いエネルギーを持つ。ここで紀ノ川も氾濫する。それはここで地名に見られる。穴伏川に佃という地名、人と田でこの集落は田造りの専門家だと思う、佃・ツクダは淀川河口にあって、淀川にできる中州を農地に替えてきた。その技術で江戸に呼ばれ、ここの河口の開発を担った。佃煮はこの人々のお弁当のおかずだと。その南に名手がある。畷・ナワテとよく似ている。畷、縄手も湿地帯の開発地帯。背ノ山の東の窪は文字どうり窪んだ場所だろう。窪んだ低地に浄化センターができた、と。その対岸に渋田・シブタ。シブとかシオはシワで、ここもくぼみた低地。そばの島はそのままだろう。紀の水門へ、また大和へ、の道はここで遮断されてしまう。ここは道が失われる。自然の関所だと、おもったら、背ノ山に関所があったという。 船岡は船のように真ん中が沈んだ形だろう、その沈んだところを開削したと考えた。すこし川下にある橋を渡って、船岡の南へ出てみた。そこに橋が架かっていて、その正面に厳島神社が鎮座しておられる。この神社があるから、開削の際に参道を橋でつくったといおうことだろう。神社に対して公共工事は実に丁寧だとおもおう。そういう法律でもあるのだろうか?COOL! JR和歌山線に列車が来た。万葉の四季と正面にマークされている。 駅そばに万葉集の歌の石碑がある。背ノ山の対岸に妹山とある。歌の意味はわからない。背ノ山に登ると耕運機がゴトゴト急坂を下りてくる。道端で待っていると、運転しているおじいさんがニヤ!万葉集か?それならこの先に万葉桟敷をつくっとるからいってみろ、という。コンクリートの急坂で自転車降りたらおしまいなんですけど。と自転車そばに投げ出して、歩き。靴底のクリートがすべる。うっそうとした桃の林にバラバラと、さびた椅子がおいてあって木々に万葉集だろう歌をかいた木片がかけてある。妹背と合わして、恋愛の歌らしい。 歌ではないが、柳田國男が境の場所は男女で表現されることが多い、といっている。峠や道の分岐点に二対のお地蔵様や祠、並んだ男女の石像などがある。また妹背とつく場所もいくつもある。紀ノ川の上流の吉野川にも川をはさんで対峙する山を妹背と名付けた場所もあった。 駅そばの石碑に打橋渡すとあるけど、いかに紀ノ川がここで狭いといっても橋渡すのは大変だろうと、おもった。渡ってもそこは渋い湿地帯と山しかない。「打橋」って内側に関係あるのか?とおもっていたら、そばに解説があって、丸木橋だとあった。この洪水地帯に無理だとおもうよ!とその解説に話しかけた。ふと「ウジはよく知られたルート、うなずくほどわかっている道」だという解説を思い出した。でもやっぱりここで橋は無理! 紀ノ川沿いの大和街道はたのしい!楽しすぎた!もう五時に近い。この二年和歌山に通うことが多かったけど、和歌山ラーメン食べてないのだ。と、大和街道をおっぽりだして、紀ノ川右岸の車のすくないだろう車道を走り出した。こうなると、ガンバ!!できるぞ。 和歌山市街にはいって、よく見ていたラーメン屋さんを探して、やっと見つけると、休業でした。すべての情熱をうしなって、もうJRで輪行、と和歌山駅へ。ビールしかないです。ふと閉まっているラーメン屋さんのそばに、神社の幟。宇治神社は足神さん、です。そうですね!ウジは道ですね。そこを皆さん歩いたのですね。
by forumhiroshima
| 2012-06-15 22:23
|
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||