こひちろうの独り言 |
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日貫から日和への坂は広い谷間を上って行く。このブログで追っかけてる、上代に移動してきたツングース族やオロチョンたちはすべてが当然自給自足のキャンパーたちだ。日貫で食料にありつけなかったからといって、腹減ったといって、自転車降りておしてはいけない、ね。
「ツングース族のもっている本来の性質が、著しく移動性に富んでいたことであった。彼らはその故郷が忘れられるほど遠い昔から南方から北進し、或いは西し、或いは東し、或いは北して北氷洋にまで進出し、或いは南して中部支那にまで入ったという風に、移動をもってその生命となし、其の歓喜となす習慣があった。多くの民衆には移動は煩悩であり、厭苦であるのが常だけど、彼らにはそうは感ぜられないのみか、寧ろ非常に吸引力を持っていた。・・彼らはじっとして瞑想するのに不適切な性格を持っていた。・・彼らは活き、動き、はしゃぎ、騒いで、生活を享楽する性質を帯びていた。彼らは保守性に欠けている代わりに、濃厚な進取性に富んでいた。彼らの天分は、一ヶ所に定住してそこを死の場所とするよりは、よりよき場所を見出してそこに死なんことを願う動的性能に充たされていた。彼らは夢想家であった。つねにあこがれ、常に夢見て、片時もじっとしていることが出来なかった。・・それゆえに彼らは新しき天地を見出した時、そこに適応し、それに順当するように彼らの生活を改善し、そして過去を顧みて現在を倦むような回顧的気分を持たなかった。 西村真次(早稲田大学教授)大和時代(大正11年発行/早稲田出版部)」 西村博士はツングースの移動の動機が彼らのうちにあるという。だいだいに、時代の変化の要因がすべてが経済的なものとする歴史解説にウンザリしている。西村博士のご意見は大正時代の発表としても、とても新鮮だ。なにか、今のアメリカの人々の分析にも思える。アメリカって、片時もじっとしてない国だよね。じっとしてないことを、トレンドって神話にして撒き散らしてるよね。いそがしいね。 西村博士の著書に古代日本へ移動してきた民族のルート図がある。 いくら走り回ってもわからないだろう。 実は、そうでもない、と思っているから走っているのですよ。上代に大陸から日本への移動には渡海の舟と操縦術が必要。ツングース族も、博士のいうように、順応する能力で操舟術を会得したかもしれないが、それには海を渡る人々がいないと、学習するにしても、乗せてもらうにしてもできない。 世の中には面白い博士たち沢山おられるもので、この海の人々を研究した黛 弘道博士(学習院大学)の説もおもしろいのです。「江上先生が騎馬民族国家説を立てるにあたり、扶余(ツングース族の中国大陸の国家)の祖先、東明が東方に逃れて川を渡るときに、魚ベツ(スッポンのような亀)が現れて、その背中にのって東方へ逃れた伝承と、神武天皇の東征神話に同じモチーフがあることを手がかりにされている。神武天皇の水先案内人は、亀の甲に乗りて釣しつつ羽ぶく人とあるからです。この水先案内人はシネツヒコという名の海人族で、海人族の存在なくて建国説話はできない。大陸からの水先案内があることが、大陸から渡航した人々の存在をしめしているのです。 黛 弘道/古代史と地名には「古代の文献に伝えられる海人族はたくさんありまして、たとえば八太造・ハタノミヤッコというのがあり、太が本のよっては木という字になって八木造・ヤギノミヤッコと読めるのもあります。また倭太という氏族があり、ヤマトノオオと読んだりしますが、ワタと読むべきです。海原をワタハラといいます。ワタというのは外来語で、それは海のことだと思われる。(古代朝鮮語で海はパタ)そうすると倭太はワタとよむことになります。ワタといえば和田です。和田という地名は、すなわち海人の足跡を物語るものであろうと考えます。もっともこの文字はおかしいのです。和・ワは音読で田・タは訓です。後世なんとなくワダと読んでいるわけです。これは重箱読みで理屈に合わない。そこで平安時代の学者は和田という字をニキタと読みました。熟田津・ニギタツ(道後温泉)のニキタなどと読んだのです。いまでも堺市の南のほうに美木多・ミキタという地名がある。平安時代に学者がそう読んだから、地元もそう読んで、今はなまってミキタになっています。この南にチャント、和田という地名があります。・・海人の一派が川をさかのぼってどんどん山のなかに入っていって、やがてそこの農耕民になることは珍しくないということです。たとえば、信州の安曇野というところがありますが、安曇は海人族です。安曇野にそびえる穂高という山の名は安曇の祖先神の穂高見命の名をとったものです。」 黛博士はワタのほかに、由良・ユラや福良・フクラ、明石・アカシ、垂水・タルミ、天津・アマツ、白水郎・アマ、八田・ハタ、畑・ハタ、飯田・ハンダ、海士・アマ、火田・ハタ、船木・フナキなどの地名が、海人族たちの記憶にある地名だといっている。 地図上で、この地名を見つけ、そこが古道の道筋だったりすると、頭はいきなり「黛博士助手」になってしまう。道は人々をつなぐものだし、その人々がそこに至った軌跡でもある。和田やハタはどこにも見出せる地名なのだ。そこが古代、この列島に渡航してきた海人の記憶の場所である、と思うことが移動してきたツングース族の手がかりになる、と思い込んでる。だって、楽しいじゃないですか。 日貫をとおる道を島根県の歴史街道では津和野奥筋・矢上往還と呼んでいる。その名称は江戸時代のものだそうだ。この道筋の西と、東の出羽の隣に和田の地名がみえる。この和田はオロチョン族の水先案内人たちの記憶なのだろうか?と、階段をあがるように、ヨイショとペダルを踏む登りの時間のお楽しみになってくれた。 水越峠をぬけると道は遮るもののない空の下をゆっくりと下りだす。 三次で広島県の三分の一ほどの流域から集めた水を一つにまとめて、江川になる。河口は江津で、日本海にそそぐ。江川は中国山地の南側・瀬戸内側にふった雨水を中国山地脊梁部をぶち抜いて流れている。川は中流域にも河口にも平野をつくらないことから、無能川なぞと呼ばれる。 日本海から瀬戸内へ、またその逆に移動する際、この江川関門が低い場所になる。「古代の江川流域の地域交通は江川の水運によっているものでなく、むしろ江川は南北交通の障害にもなったと思われる。地域はいずれも峠越えの交通路で結びついていたものとおもわれる。江川は沖積平野を形成せず、流域の開発がすすんでいなかった。流域をたどる歴史6江川」 日和は、その関門の頂上に開けている小さな天上の平地だ。この列島に加わったエネルギーの集中するパワースポットだ。なのに、矢上へのトンネルができるまでは冬季の積雪で孤立することもあったという。それだけに、集落は、田園風景の中に沈んでいる。島根県の田舎の古い郵便局は、かわいらしいのだが、ここはまだ現役で、とても、かわいい。ここを走ると、どうしてもこの局の写真をいつも撮って帰るのだ。いま地中のエネルギーはこの郵便局に貯蓄されているにちがいない。 パワー郵便局は江戸時代の浜田藩領地視察の道に面していて、局前の四つ角は、ここが要所であったことになるが、北へ入り江川・川越に下る道は通行止になっていた。川戸へくだる道も杉の小枝で、自転車ゆっくりおろします、状態で、おおかれこの江川への道は閉鎖されるのでは?郵便局前の交差点もお役目ゴメンになろか?パワーのガス欠なんだろうか。 局から東のおおきな送電線の鉄塔の立つ尾根が、矢上盆地の東の中野へむかう大利峠。峠のトップに送電線の足場がある。トンネルができたので、この峠もお役目ごめんになるかも。いや自転車専用路状態です。しかし、木々の繁みから見え隠れする送電線の鉄塔がなんだか見るたびに遠くなるような、登りです。だれか、行くな!って引き込んでるのです。強いパワーのバリアがこの峠にあるようです。
by forumhiroshima
| 2012-07-17 20:04
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