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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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若狭井(閼伽井・アカイ)

この3月の東大寺のお水取りで、深夜に閼伽井から汲まれた香水を本堂の格子越しに手のひらで受け止めることができ、その際の水のヒヤッとした感触がいまも残っている。それ以後、手のひらにマジックがかかってしまっているようだ。

夏になると無性に、青い日本海に行きたくなる。東大寺の二月堂の西にあるお水取りの水をくむ閼伽井戸の水は若狭から一年かけてやってくるという伝承がある。あのヒヤッの水は若狭を昨年旅立っていたことになる。お礼に、いってみようか。

「ワカサの語源については色々の諸説があるが、水はアイヌ語でワッカ、ラテン語ではアクア、梵語ではアーガャ、即ち閼伽の水で、いわば国際語といっていい。・・おそらくワカサの地名は、水の豊な国に、若々しい魂を想像し、その二つのイメージが重なって出来たものに相違ない。白州正子 若狭のお水送り」
「しかし、こうした地名詮索のたぐいにはキメ手がない。ひまつぶしにとどめておくほうがよい。司馬遼太郎 街道をゆく1」
しかし、地名はおもしろい。
奈良、東大寺から地図上を真北にのぼると、京都の東をぬけて若狭湾にとどく。
その京都の町の発生について
「昔の京都市内は町中、川が一面にながれていたようだ。元禄二年(1689)の「名所都鳥」によると、堀川、二股川、小川、更級川、耳敏川、京極川、中川など沢山の川名があがっている。・・堀川は源が若狭国から流れて来ている、としていることで、昔の賀茂川は西よりであり、それが遠く若狭からながれてくるといわれるほど、大川であるとおもわれていた当時、かっての京都市域は賀茂川の支流の大小が網状に南流していた。その一つに烏丸川があった。カラスマはカワラ(河原)ス(洲)マ(際)が語源で、河原の洲の上に発達した場所・・。 吉田金彦 古代地名を歩く」
「794年恒武天皇は低湿地の上に平安京をたてた。都を低湿地に建設するために、平地を流れる川を東にあつめて堤防を築き、南流させて宇治川に落とすようにした。これが賀茂川である。いまの三条から四条のあたりまで沼地があり、これが神泉苑で、この東南角を埋めてできたのが二条城であり、もとの神泉苑の周囲は10町をこえたというが、あるいはもっと広かったかもしれない。この西には低湿地がひろがってセリが生え、アシの穂が風になびいていた。大雨では大きな湖になってしまうことから、次第に右京の地は放棄されて、人々は朱雀大路から東側へうつってくるのである。宮本常一」
この神泉苑の辺にあったのが壬生の集落で、ミブは湿地を示す地名。ここに江戸時代末期に新撰組の駐屯地があった。非正規雇用の新撰組には厚生面での配慮もなく、湿地の上の宿舎が与えられたのだろう。「わたしの手元に豊玉発句集という無名俳人のおそろしく下手な句集がある。豊玉とは、土方義豊という剣客の雅号である。・・土方は故郷の兄から手ほどきをうけた発句をひねった。・・“水の北山の南や春の月”駄句愛すべし。 司馬遼太郎」新撰組が闊歩したころも、京都の北山は水の山であったのだろう。水の上の京都の町の冬は厳しい。そして壬生の湿気に包まれた寒さが終わる春の月として読めば、この歌、駄作なんなじゃないような?愛すべし、なんだよな。

京都の町並みをかえるほどの水が、東の山科の峠を東に越すと、三井寺とよばれる、名に井戸をつける園城寺がある。山科を東西に走る国道1号線の側道に旧1号線がわずかにのこって、迷路のような山科の古い町並みをぬけて、大津へ逢坂越えで続いている。逢坂は二つあって、南はいまの1号線の大幹線道路。北側は琵琶湖疏水の上にあって、白州正子 近江山河抄では「峠の上で、二つの坂道が合うところからでた名称・・」とあるが、旧道とおもって入った、それも一応近畿遊歩道・逢坂と標示も確認した道は合流する場所はなくて、「逢坂越のもう一つの道“小関越”と呼ばれる旧道は、たしかここへ通じているはずだが、もう私には探してみる気力はなかった・・白州正子」とあるほどで、そこには建設業者の仮倉庫が点在するだけだった。
峠越えから左へ、疎水を越えると三井寺の境内に入る。
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「“近江”というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国がすきである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。司馬遼太郎 街道をゆく1 湖西のみち」
街道をゆくのシリーズの巻頭のその始まりの一文だ。「私は不幸にして自動車の走る時代にうまれた。が気分だけは、ことさらそのころの大和人の距離感覚を心象のなかに押し込んで、湖西の道を歩いてみたい。」

三井寺の伽閼井屋を覗き込む。ボコボコと泉が湧き出す音が聞こえる。8世紀からとぎれることない水音。
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「叡山の山すそがゆるやかに湖水におちているあたりを走っていた。叡山という一大宗教都市の首都ともいうべき坂本のそばをとおり、湖西の道を北上する。湖の水映えが山すその緑にきらきらと藍色の釉薬をかけたようで、いかにも豊であり、古代人が大集落をつくる典型的な適地という感じがする。司馬遼太郎」
まるで動かない水面にうつった雲だけが風にながされるのか、動いてゆく。
「街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っている。司馬遼太郎 街道をゆく-1」

自転車で走っていると、路面や道の在り様が多様にかんじられることがあった。そんなころ、この一文にであった。道の多様さを感じることは、車輪を押さえるハンドルを通して、過去というぼう大な時間の世界に接しているのでは?と、気付いた。「日本民族はどこからきたのであろう。という想像は、わが身のことだからいかにも楽しいが、しかし空しくもある。考古学と文化人類学がいかに進もうとも、それが数学的解答ように明快になるということはまずない。司馬遼太郎」
湖畔の道のそばの神社に入った。日差しが強くて、すこしまいっている。すこし日陰ですごそう。そして自販機は、と見わたしても、残念みつからない。
このごろ、神社とそこに鎮座する神々は、あたりまえに当然に人間の創造物であることを実感しだした。神は人がつくった。しかし、神社の社が置かれた土地も、過去のぼう大な時間的存在であって、その時間の厚みが神のようで、なにかを、語りかけてくるのだけど、その意味はわからない。ましてや、「日本民族」となっては、なおさらなんだけど。

日差しから逃れてはいった、神社は小野神社で、この土地の名は和邇。これって奈良の和邇とおなじ。水の害がなく、水が使いやすく、稲をつくることが出来、神への奉げものもでき、燃料となる木々、家となる建築資材もちかくにあって、事あるときにげこむ高台がある場所が奈良の和邇だった。ここも小野神社の境内の田の稲に疎水が流れ込んでいた。まるで奈良の和邇の阪下神社だ。これが、ひとつの日本民族の形なんだろか。
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さて次の日本人さがしへスタート,スタート。若狭は遠い。
by forumhiroshima | 2012-08-23 12:50
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