こひちろうの独り言 |
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三田と篠山との境は虚空蔵山で、JR福知山線の日出坂トンネルが通っている。そばに武庫川がながれていて、車道はふつうに河畔を走っている。日出坂は古丹波道と標示があって、旧道から分岐して細い山道が登っている。ここに入るとすぐに頭上を走る舞鶴若狭自動車道の側道になって、古道らしさは失われていた。
SF作家の小松左京が、1965年に朝日放送の雑誌に「エリアを行く」という紀行の掲載をはじまった。自分がすごく好きな紀行の、宮本常一の「私の日本地図」が1967年、司馬遼太郎の「街道をゆく」が1971年からの連載・発刊になっている。60年代から70年代初頭は、自分にはすばらしい紀行が連続して書かれた時代になる。いまもこの紀行をたどって自転車走らせている。 左京さんは紀行の発刊にさいして「日本の社会と国土の変わり方にはげしさは、一種悪夢にちかいものを感じさせるほどである。しかし、そういった時代であればこそ、かえって、とんでもない過去と未来をまぜこぜにした“SFルポ”や“イメージの旅”といったものが、かえってある意味での耐久性を持つのではないか」と書いている。自分の学生時代のころになる。あのころ「一種悪夢」を感じていたのかな? 丹波国と攝津国との国境・虚空蔵山にかかった小松左京は「そこはすでに、表日本の海洋と平野のそれとは、かなりことなった、内陸山地のクリマ(細分化された区画/ブドウ畑?ドイ)が醸成する、盆地文化、丹波文化の領域が始まっていることが、皮膚に感じられるのだった。山々は、時に高くはあるが、のしかかるような急峻ではなく、老年期山脈特有のなだらかな稜線が、かさなりあいながらつづいている。山と山との間の、屈折した平地もよく発達し、周囲はこのあたりの特有の、のどかな吸収性の静寂にみたされていた。 小松左京/探検の思想・出雲」 いまも開発がつづいている三田から、この山のせまった隘路にはいると、静かだ。吸収性の静寂って、わからんけど、これなのかなぁ。 篠山にはいった場所のJRの駅はくさの。篠山の盆地の南端から武庫川がながれてきて、この旧国境でおおきく蛇行して三田へでてゆく。古代篠山盆地に流れ出た水はすべて武庫川で瀬戸内海へ流れ出ていた。いまは盆地に西端へでる篠山川が加古川に合流して、瀬戸内海へはいっている。「篠山盆地は長く武庫川を通じて排水され、盆地に礫層を推積させた。その推積は最終氷期まで続いた。その間、地形的に水はけの悪い盆地底では推積が続いていた。最終氷期末期、武庫川沿いの当野、古森、草野付近で麓屑面(ロクセツメン){地形の崩落や水流による運搬、マスムーブメント、凍結破砕などの諸作用によって大量の岩屑が生産され、堆積することによってできた斜面。ウイクペディア}の形成が進行し、武庫川を何度か一時せき止めた。篠山盆地は湖水化を繰り返し、盆地底にはシルトや粘土層が推積した。湖水は次第に埋まり、水位は上昇し、その水は加古川の支流にあふれ出て、篠山川が誕生した。 田中眞吾/兵庫の地理」 日出坂に三田から入る場所に古びた酒垂神社が鎮座していた。丹波に三社あるとネットにはあり、丹波杜氏の信仰する神様だともいう。酒の名からの信仰とも推測するが、ここに旧国境がおかれたことを考え、そしてここが湖水の出口であり、たびたびせき止められたというなら、その自然のダムが決壊することを、「蹴裂・ケサキ」伝説として、各地に記憶されていて、酒神社とか境神社となの名でのこっている場所にはこのケサキ伝説がけっこうある。信州の佐久地方は諏訪湖が決壊した、サケた記憶の地名だという。古代の旅人が湖水によって行き止った場所がここでは国境になったのではないだろうか。左京さんのいう吸収性の静寂は過去ここで大音響に崩壊した自然の堰堤の後にきた静寂の記憶かもしれない。 虚空蔵山という名はこの山中に聖徳太子伝説のある虚空蔵寺があることによるが、その存在も古代の災害の記憶からかもしれない。日出坂の名称はこの山頂でいまも元旦の日の出を拝む習慣があることによるようだ。 道側に「丹波の森街道」という標識やモニュメントがでてくる。行政が名付け親のようだ。カンバンも丹波とかかれだして、すこし登り勾配になると、古市という集落に入る。ここには源平の戦いのとき、義経一団が駆け抜けた伝承があるが、古代の戦は河原での合戦になる。それは騎馬戦をするには広場が必要で、その最適地が河原だからだという。義経かここを抜けたということは、そのころ篠山湖は乾いてきていて、騎馬で駆け抜けることのできるルートであったということか? 北上を続けると、牛ケ瀬という信号がある。 道路は直線でアットの間に抜けてしまう場所。信号を東へ入る疎水がながれている。 この疎水は武庫川。そばを北上すると小さな水門はしこし離れて二つ。その先はちいさな溝に変わってながれている。 この溝はその先で小川に流れ落ちる。その側に小さな水の神様の弁天様の祠があり、信号機に丹南弁天とある。流れ落ちた小川はそのまま北上して、篠山川に流れ込んでいる。ルートだけみれば武庫川と篠山川、そのさきの加古川はつながっていることになる。 その分岐が牛ケ瀬で、きっと牛の背中のようにひくい盛り上がりがそこにあって、篠山川と武庫川の分水嶺になるのだろう。江戸から明治にかけてこの篠山川と武庫川とをつないで舟の水路をつくろうという計画があった。とても舟が浮かぶような水量ではないようで、頓挫したようだ。
by forumhiroshima
| 2012-10-07 11:59
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