こひちろうの独り言 |
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「鴨・賀茂・加茂」族の追っかけ。
東大寺の二月堂のお水取りの「水」は若狭の遠敷川の鵜ノ瀬から、お水送りされる。その送り主は鵜ノ瀬の遠敷明神。この神様は二月堂の松明の火の粉がふりそそぐ西斜面に小さな祠にも居られる。そのそばに東大寺の初代別当の良弁和尚が子供のころに鷲にさらわれ、落とされ、ひかっかたとされる杉がある。お水取りの松明見物には、じゃまで不評だ。 「水」はその杉のしたにある若狭井で汲まれる。 遠敷明神が二月堂での修二会に遅参したことをわびて、「水」がおくられることになったのだそうだが、「水」は地下を流れて一年ほどかかって若狭井に届く。この「水」を1300年ほども欠かさず汲んできた修二会。「水」はなぜ若狭の川からなのか?若狭では「水」を送る神事も欠かさず執り行われている。この連携の深さはどうだ!不思議だ。良弁和尚は琵琶湖湖畔に渡来人の子として生まれたといわれるが、鵜ノ瀬ではここが誕生の地とあった。そうでも思わなきゃ、トレンドなんて言ってる自分達に1300年の連続は理解できない。 遠敷明神は鵜ノ瀬のすこし川下に鎮座する若狭彦神社の神、ワカサヒコノミコトの別名だという。 若狭のとなりの丹後の天橋立に籠神社にある日本最古で国宝の海部氏系図にはワカサヒコミコトは、この神社の祭神・ホアカリノミコトであり、京都の下鴨神社の祭神のワケイカズチミコトと異名同神であるとなっている。 京都の賀茂川は若狭から流れてくるといわれていたという。遠敷川-賀茂川-木津川と流れが東大寺につながってくる。若狭井の水が東大寺の建設場所の決め手、といったら、いけないだろうな。このつながりのキーワードが「カモ」じゃろうて!と決めた。カモなら、どこでも行ってみよう。 霧散する「カモ」族 「出雲神族の先三輪、葛城両氏が没落し、その祭祀集団の「カモ」氏が、信仰と反河内王朝の傾向をひめて、全国へ散っていった。 山田宗睦」 「政治的には葛城氏は5世紀末にほろぶ。しかし鴨族は政治的存在ではなさそうだからクッキリとはほろびず、ただ葛城の故郷にあってはしだいに衰弱してゆく。それらは、「鴨の神々」をかついで諸国に散る。 司馬遼太郎 街道をゆく1・葛城道」 「和名抄」(平安時代の辞典)を見ても・・カモを地名とするところも少なくない。・・賀茂郡が5、賀茂郷15、鴨部4となっており東北と九州にはない。荘園の賀茂神社への寄進が進んだ中世には勧請され、おびただしい数になってゆく。・・古い地名の賀茂の地には鴨部が住んでいたようだ。鴨部は鳥をとることを業とする部民であったとおもわれるが、鳥ばかりでなく魚猟もおこなっていたことは瀬戸内海の漁民の中に信奉するものが少なくない。宮本常一」 丹波・柏原の加茂 古代山陰道はいまのR9とちがって、亀岡から篠山へはいって柏原・氷上とをとおて和田山へぬけていたといわれる。古代幹線道の設計思想の直線設計にちかくて、説得される。が、篠山から柏原への道はトンネルで鐘ケ峠には旧道はないようだった。これまで幾度か篠山から氷上へ抜けたが、トンネル嫌いとパスしてきたのだけど、短いこのトンネルのコースを走ることにした。が、驚きモモノキ、トンネルには自転車・歩行者専用の道が1車線ほどのひろさで、明るい照明のなかにあった。 柏原でR176をはずれて、西へ。柏原町鴨野の集落へむかった。 十軒ほどの固まりが峠の入口にある。道のそばに土手がでてきて、その池への登り道の向こうに鳥居がみえた。ドキドキしながら鳥居の神額をみると、加茂神社!!ピンポン!! 合祀された小さな祠にも、神木とおもえる杉の幹にも真新しい御幣がつけられて、境内の一角にある岩には結界の御幣で囲まれていた。神社の背景に円錐の山があり、境内に円錐の砂山がつくられ、神社前の池の御幣はこの池をつくった神だと示しているようだ。 京都・上賀茂神社にせせらぎのそばに葵祭りには神主が上にのって,そばの神が降臨する依代になる巨木に祈る岩がある。どこのカモ神社には、同じような岩があるような、憶えてないようね。円錐の砂山は京都・上賀茂神社にある。この加茂神社の社家は、円錐に砂にサカキをつっこんでいる。新しい感じだ。 カモ神の在り場 「日本は渡り鳥の多い国である。ガン・カモ・ツバメ・ツグミ・ツル・サギ・ムクドリなど。それらをとって食料にあて、またこれを職業とする者も少なくなかった。オトリをつかい、また網を用いてこれをとるので、野獣を採るものとはその仲間を異にするようである。しかも狩猟の方法に網を用いることが多いということで、海部の民とも深いかかわりあいをもっていたのではないだろうか。・・賀茂神社の背後にはまだ解明されていない日本の民族文化の重要な一面がひそんでいるように思う。宮本常一」 「土器がつくられる前、旧石器時代から編み籠・編む技術は相当発達していたはずなんですね。・・モンタージュってことがどこから来たかってこと、それは狩猟と編みの技術だ。狩猟というのは動物の軌跡を追っかけていって、森という統一体のなかに断片をとらえる技術。一方、編みというのは、断片を組み合わせて統一体をつくっていく技術。モンタージュはこの二つをあわせた技術。ハンターとギャザラー(狩猟者と採取者)の精神は旧石器から縄文の精神だ。 坂本龍一、中沢新一/縄文文化巡礼」 水鳥の集う水辺に結界をつくり銅鐸をならした人々の、今は、かすかになった影を見つけられたら、いいのにな。カモの宮はいくつも、待っていてくれる。
by forumhiroshima
| 2012-11-06 11:45
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