こひちろうの独り言 |
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金達寿さんは、「わたしはひとりの文学者であっても、けっして歴史学者といえるようなものではない。しかしながら、私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である。金達寿/日本古代史と朝鮮」
金達寿は自分にとって衝撃な人であった。自転車で通り過ぎる風景に神社の森はてごろなランドマークであり、パンクしたチューブの穴をさがす水のある場所でもあった。境内は開放されて、拝殿や本殿もふるびて、ほんとんど放置されている様子であっても、けっして廃墟ではなく、たまの、秋祭りや初詣ででかける場所であって、そこになにかしか小松左京のいう「なにか奇妙に気がかりな物がそこにある。」と思わせられる。しかし、神社の鳥居にかかがられた神額の神の名について関心がゆくことはなかった。ただ「奇妙な気がかり」を感じるだけだった。 その神社を金達寿は、神に名をつけ、その系統をかたるという形式は半島から古代もたらされたと力説するのだ。その主張は1975年中央公論社から発行された“日本の渡来文化”司馬遼太郎・上田正昭・金達寿編にまとめられる。 「在日朝鮮人である鄭貴文氏は私の近所の友人である。散歩を一緒にする友人で、同時に私にとって朝鮮の言語や風俗についての師匠でもある。・・貴文氏は職業が制限されている在日朝鮮人として、他の多くの人々がそうであるように、喫茶店や遊戯場のようなものを、経営しておられたのだが、それをいっそ整理したいという。弟の詔文氏と話し合われ、・・{朝鮮と日本の関係は、古代では計り知れぬほど大きかったと思うのです。そういう主題で半学術雑誌のようなものを出すというのは、考えられないでしょうか}といわれた。兄の貴文氏は商売をたたみ、弟の詔文氏はその雑誌の費用を出すという目的でさらに商売にはげむという。“三号まで、ともかく出されたらどうでしょうか”私は、ふつうその程度で刀折れ矢尽きるものだと思っていた・・『日本のなかの朝鮮文化』は1963年創刊、すでに24号を数えた。私は人間の志とか営為というものがどういうものであるかを、この兄弟に教えられた。私自身、この雑誌とかかわりを持つようになって、自分なりに、朝鮮文化の原型というものがおぼろげながら見えはじめたような感じがする。司馬遼太郎 街道をゆく7-砂鉄のみち」 金達寿氏はこの『日本のなかの朝鮮文化』に古代遺跡紀行シリーズを書き続け、その中で対馬をおとずれ、永留氏の『対馬の古蹟』をガイドに歩き、そして「『対馬の古蹟』をもとにしてもう一冊新たに書き上げることをすすめ、それを大和書房にとりついだ。古代史の鍵・対馬 はしがき」 この経緯が、対馬、厳原港の抱擁になったのだろうか。 「雑誌“文芸の四月号(1975)金達寿氏が、ひさしぶりに『対馬まで』という題の短編を書いている。中年と初老の年配の在日朝鮮人が何人かで対馬まで旅をする話である。・・(※当時の在日朝鮮人は日本の国籍政策で北朝鮮籍になっており、当時の大韓民国は、北朝鮮籍での入国を認めていなかった-ドイ)ともかくも人生を十分に生き、思慮も教養も申し分のない在日朝鮮人たちが対馬の北端の千俵蒔山に立って海峡のかなたを見るということの重さが主題になっている。 ・・もし故郷に帰ることができれば、とそれを夢想でしかない仮定として話す、ソウルの鐘路の裏のうすぎたないマッコルジブ(濁酒飲み屋)で一杯やりたい、それができれば死んでしまってもいい、というのである。 海はガスで閉じ込められていた。かれらは釜山までわずか50kmあまりにすぎないことを知って、標高287mの千俵蒔山にのぼるのである。強い風がふいたことからその朝は海が晴れていた。やがて釜山の絶影島が見え、他の島々も見えた。その帰路、急に車を止めハンドルに顔を伏せて泣くのである。司馬遼太郎 街道をゆく7-砂鉄のみち」 金達寿氏のこの旅も対馬在の考古学者の永留久恵氏が案内している。 金達寿氏と永留久恵氏との出逢いと抱擁を出版に関してかもしれないと、してはいけないのかもしれない。「晩春の野辺に遊ぶ子供たちが、タンポポの白い花を摘んで、青空に向ってフッーと吹くと、白い穂が風に舞って飛んでゆく。“遠くとべ、朝鮮までとべ、朝鮮まで行って米持って来い”と唱えた俗言が遺っている。古代の鍵・対馬 永留久恵」 このタンポポの話を読んで、海峡を渡る蝶を思い出した。広島の芸北高原にいる蝶・アサギマダラは瀬戸内海の姫島に集まり、台湾まで海をわたり、また夏に渡ってくる。臥龍の林道の終点の水場あたりに乱舞している夏にであったことがあった。もう雪に覆われているだろうか。 タンポポもチョウチョも海峡を渡るのに・・・。
by forumhiroshima
| 2012-12-09 15:14
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