こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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銅鐸の夢

京都に移住してきたという鴨族が定着した場所は、12000年とも7000年ともいわれる歴史のある縄文人の居住の痕跡がある。その痕跡として、発掘された北白川遺跡群の中心部の京都大学農学部キャンパスを徘徊して、ここで発見された古代埋没林と、農学部の関係について、などと妄想してみた。どうして古代埋没林の上に農学部が発生したか?の考察などなど。(バカです)

自分の職場での発掘を仔細にみてきた歴史学者の林屋辰三郎はこの縄文人の居住地に侵入してきた鴨族は、そののち大和族の文化と支配をここに持ち込むことになるとかたっており、鴨族発祥の地、奈良盆地の大和族よりふるい先住民の人々南西の葛城の鴨族と、京都の賀茂族の、どこか違うことをもどかしそうに、空白にしている。
その空白を自分の中で埋めてくれたのは、宮本常一のいう鴨族は狩猟の人でゆえに移動を繰り返してきたという説明だった。鴨族は縄文人だと断言している。(日本文化の形成)
縄文人であるならこの北白川遺跡が賀茂族の居住地であったのか?。古代賀茂族が京都大学最古参のOBであることになる。それも農学部生として。
京都盆地の縄文世界・北白川遺跡群によると、発掘された弥生時代の水田跡と縄文人の住居が「この地でみられた縄文から弥生への移り変わりは、文化の交替でなく変容であった」と報告される。
そうなると縄文人と弥生人は同じ人々で、いま携帯電話を使っている自分がスマホを使い出せば、携帯電話人からスマホ人に変容するってぐらいのこと、らしい。縄文人の大和・葛城の鴨族はここで弥生文化の担い手になり、今の賀茂の地名の命名者となって、上下賀茂神社に鎮座しているのか。

この北白川遺跡からは弥生時代を象徴しAC1世紀には消滅したといわれる銅鐸は発掘されていない。京都市内での発見例も報告されていない。が、梅原猛が(葬られた王朝・古代出雲の謎を解く)で、「下鴨神社の宮司。新木直人氏から聞いた話であるが、下鴨神社にも銅鐸があり、重要な神事、たとえば葵祭の神事を行なう時には必ずこの銅鐸を鳴らすという。・・銅鐸の起源をなす鈴もまた神事には必ず使われる。・・巫女は必ず鈴を持って舞う。この鈴の音は人の心を清々しくするが、神もいたくお気に入りの・・」と書いている。神のお気に入りということに、文句さしはさむと、「上賀茂神社の祭りの掲げられる(おすず)というものがあり、これは藤蔓・フジズルの皮でできた径三寸ばかりの円座様のもの 古代の鉄と神々/真弓常忠」で音はでないようだ。つまらないクレームだけど、上賀茂神社にはおかしなものがあるとおもって。
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この下鴨神社の銅鐸は北白川遺跡の時代から、神社に伝えられたものだとしたら、すごい。
その下鴨神社の祭礼に葵祭の前に行われる御蔭祭がある。神社の北西の比叡山の山麓になる八瀬の山中にある御蔭神社へ馬をつれて参拝し、馬がいななくと神が降臨されたとして馬に乗られた神を神社にお連れする。神社の説明板によると、紀元前581に始まるとあった。もしこの時代だとすると、銅鐸を鳴らさなくてもいいようだけど。
下鴨神社から東へはしる車道に御蔭通と命名されていて、けっこう周知のお祭りのようだ。
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下鴨神社の南の河合神社から京阪の出町柳駅へ走り、御蔭通の一つ北の道から東山の山麓へむかった。出町柳とはいきな地名だとおもって調べてみた。出町は鴨川の右岸、柳が左岸であわせた地名だという。出町は内裏から出たところ、柳は(弥な来)で人々の往来の多い良い場所だとある。(古代地名/吉田金彦)賀茂川と高野川の合流点でここから下流は鴨川と書かれる。縄文の神を語る中沢新一は「精霊たちは、ふだん柳の木の繁茂する気持ちの良い林を住処としている。」と平安時代の蹴鞠の名人が千日休むことなく蹴鞠を続け、その満願の日の夜に鞠の精霊の童子・顔は人で手足は猿が出現し、自分達は木々に住まいしており、そこから蹴鞠の上達の手助けをするから、木々を守るようにと伝えて消えた話を書いている。この柳の林の精霊がまさに縄文のこころだと力説している。オット、横道にはいってしまった。出町柳駅そばの河畔に柳がそよいでいた。このあたりは縄文の住宅地なのです。
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現在は、下鴨神社から御蔭神社へは馬でなく車でゆくのだそうで、それって神事られん。
その御蔭神社への御蔭道がどこなのかは、わからなくて、比叡山の千日回峰行の修験者が比叡山からおりてきて山麓へでる場所の赤山禅院がなにやらあやしくて、そこにまずよって、修学院の町を行き当たりばったりに北上した。峠にでると宝鐘寺という寺院のそばに御影道跡の石柱をみつけて、にんまり。
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その石柱の向うに比叡山がそびえている。そのとき、この景色は葛城・金剛山の景色と似ている!と気付いた。賀茂族はどうも円錐形の甘南備山がお好きのようだが、大和の鴨族は、この雄大な山が似合う。京の賀茂族も、鴨族であったころがあったのじゃないか、と予感がした。
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高野川・八瀬の河畔にでると車道が途切れて、細い道に変わった。道の先は森へ入っている。登山道でもなく林道でもない。軽四のトラックもはいれない幅の道。
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自転車は押しになって坂道を登ると、御蔭神社という小さな木板のカンバン。
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鳥居を木立の中にみつける。落ち葉のなかの石段をのぼると、赤い板塀のなかに祠があった。幣越しに覗き込むと、白い石で結界された空間が本殿まえに作られていた。ここで、神を向かえるのだろうが、馬のいななきは、どうするのだるうか、な。
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でも車ではあの道は入れないから遠回りするほかない。それほどまでして、尚且つ神を車にのせるのだろうか。それほどまでして、なにを守っているのだろうか。

「常世の国を、山中に想像するようになったのは。海岸の民が、山地に移動したからです。・・山の神の祝詞は、(海の民と山の民との)仲介者として仲間内の者に聞かせる、妥協を心にもった、対等の表現をとりました。これをイワイゴトといいます。・・あくまでも、山神の資格を以って、精霊をあいてとしての物言いなのです。・・大和では、山人の村があちこちにありました。・・山の上高く居て、(山の)神の暴威を牽制していたのです。山城加茂には、後ろに聳える比叡が其でしょう。この日吉(比叡山)の山の山人は、八瀬の村などを形つくったのでせう。(ここの住人は)社の神の服従者なるオニの子孫であるという考え方から、村の祖先を妖怪としています。が、唯、山人に対する世間の解釈を、我が村の由緒としたのです。この山村などから、宮廷や大社の祭りに参加する山人がでたのでしょう。・・(祭りなどに参加する)山人の形態の条件が、山かづら(髪飾り)にあった・・かづらが、里の物忌みの被り物とは変わっていたからでしょう。折口信夫/翁の発生」
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この列島に先住していた幾重の人々を新しく渡来した人々は、彼らの語りを「あまのさえずり」と表現してます。まるで小鳥のさえずりのように聞こえたのでしょう。同じ言葉を話しているが声高で聞きたくない、おばさん達の会話を“さえずり”とは表さないですよね。どこかあったかい表現です。葵祭の神主さんがつける葵の一枝にも、かづらの訳があるのかな。
昔々に、海はから川をさかのぼってきて一休みしている野営地に、流れてきたお椀で川上にいる人の気配を感じた話はたくさんあって、その代表が桃太郎なのでしょう。古代、2500年も前に稲作を携えててこの列島に上陸してきた海からの人と先住の人との出逢い情景を、神へのことほぎから読み取ろうとする折口信夫は「二夏、沖縄諸島を廻って得た、実感の学問としての成績は、翁成立の暗示でした。前日本を今日に止めたあの島人の伝承の上には、内地に於ける能芸化せられた翁の、まだ生活の古典として、半、現実感の中に、生きながら繰り返されていることを見てきたのです。」といっています。
「コトホギ」という言葉に古代の心感じることができるのですね。天才!ですね。

鴨川の氾濫源の芦原で暮らしていた人々に、新しい農具とイネの種が届けられたとき、彼らは、もう道具の改良や、植えつける田んぼの設計など、瞬時に浮かんでいたでしょうね。おお喜びでしょうね。その道具と種と届けた人々が「常世人」つまり、安心してながく生き抜ける人にとであったのでしょう。それを届けた人々と、“あまのさえずり”をスピードラーニング゙したのかな。「常世人」はその土地の危険情報や飲み水の情報が欲しかった。

今日4/23朝日新聞に「縄文・弥生文化の出会い」という記事がでてます。国内最古といわれる大阪府茨木市・東奈良遺跡で発掘された“小銅鐸”の文様が縄文土器につけられた文様と一致することから「縄文・弥生人がこの地で共存し、両方の文化を採り入れて共生の祭祀のシンボルとして銅鐸が生まれた」とかかれています。
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縄文人は毛深く、弥生人は薄毛だといわれてきて、薄毛どころかという自分の頭をみると弥生らしいが、こころは縄文が“いいね”といっている。その分裂さが、これで解消です
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by forumhiroshima | 2013-04-24 13:45
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