こひちろうの独り言 |
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楠那の集落の路地の東端の山際におおきな石碑がある。「忠魂碑」とあって、関心なかったのだけど、ブログネタの切り出しに困っていて、ネタ探しでのぞいてみた。「元帥 東郷平八郎揮毫」とある。エー!ここに“坂の上に雲”がある。美しい達筆が風月に痛んでいない。楠那の出身で戦役で亡くなった7名の名が刻まれていた。
あの“トウゴウ ターン”作戦は元帥と愛媛県松山の出、秋山真之との創作で、海外の軍事専門家から驚嘆な賛辞の気分からそう呼ばれたという。 もう一つ、広島からこの会戦の勝利の要因を作った人がでている。下瀬雅充賀という人。彼が製作したのが日本海海戦のナパーム弾といわれる下瀬火薬だ。その迫力はいまのTNT火薬の性能をこえて、着弾した大砲が燃えたとロシヤ兵が言い残している。彼は広島藩の鉄砲役の子息で市内鉄砲町に生まれている。 今も海上自衛隊も海上保安庁もおかれるこの海域は、古代の越智水軍、中世の伊予(河野)水軍、戦国時代の村上水軍と、日本最大の武闘派海人の拠点だ。楠那の楠も船の材料の楠の生産地であったのかもしれない。「呉」はクレギでこれも船材料をいうという。 越智水軍の越智は愛媛県の越智郡としてのこっており、向島と本土の間の水路を整備し海賊活動の避難・逃亡・迂回ルートにしたことから越智の道で尾道の名が起こったと。 この越智氏は小千と書いていた。7世紀に当主の守興が朝鮮半島に出兵したが、唐軍に捕らえられ捕虜となって30年をかの地ですごした。それから脱出して帰国した。その子息の玉興が大阪からの帰りに使った船は中国人の船頭のふねであった。その船頭の話では父親は日本人であって、そのことを書かれた書置きの巻物に守興の名がある。それで兄弟であるとわかる。その彼が中国の南の越の生まれから、越智と名を書き換えた。玉興は大三島の大山祇神社の神主の越智家を創設し、船頭は越智水軍を創設したとある。(沖浦和光・瀬戸内海民俗誌)そうなると、越智水軍の親玉は混血児であったことになる。 宇品は牛奈と古文書に書かれるが牛那でもいいか!かってに、そうしちゃえ!!丹那・楠那・日宇那の那は支那の那、チャイナの那では、どうか。博多の港は那津で、この港が支那とつながっている地名、ステイションはそこからどこへ行くかの地名が使われる。それに、博多は中世のチャイナタウンである。 仁保島は古風をどこか感じさせる。ブログをプロバンスの路地と題するのも、その気分から。路地にある小さなスーパーの店頭に渋柿が売られていた。ふと、買ってしまった。干し柿にと、狭いベランダに吊るしたよ。こんなことするの初めてです。カラスが食べてもいいカー。渋柿うってる人も古いよね。買うひとも。小さな季節を買ったようです。
by forumhiroshima
| 2013-10-01 19:23
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