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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
by forumhiroshima
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鳰海・ニホ鳥の海

仁保島の西端に大河の集落がある。古くに成立した集落、それも海の人たちのそれは細い路地を網の目にひろげている。家々があたらしく作られ直してお化粧をしても路地はそのままに、鎮座している。軽四しかダメです。このさき車行き止まり。そんなちいさなお知らせのカンバンが風にふかれている。

その路地はいろいろな風が吹いている。自転車で通り過ぎると、路地を歩いた昔からの人たちの風が重なり合ってとおりすぎる。その時間には、フト!妄想が浮かんでくる。大河の集落が江戸時代の初頭からの埋立が始まった記録がある。そこに船溜りであったがどこか“川”のような形跡をみつけた。
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モルタルのやプレハブで出来た近頃の、近年の埋立地にたてられた住宅におしこめられている江戸期の埋立地の集落に昔には、そのころ川が入り込んでいて、「大河」の地名になったのでは??。(この妄想に弱点がある。広島ではカワは川と呼ぶ)妄想がもしかしたら?と思わせる江戸時代の図をみつけた。浅野藩発行・芸藩通志にある仁保島の図。
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おなじ芸藩通志に仁保島周辺、比治山、金輪島、似島、向洋等々をまとめて仁保村とし、その海を「鳰海・ニホウミ」と呼ぶともある。鳰鳥はカイツブリのことだそうで、鳰海とよばれるのは琵琶湖のことだという。カイツブリは淡水に生息すると辞典にあるが、海にもいることもあるらしい。この鳰海は猿侯川と京橋川の河口の氾濫源で汽水の海。渡り鳥の浮かぶ海。そこに流れ込む、澄みきった流れ。その景色が鳰海という呼び名からうかんでくる。
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鳰海に浮かぶ比治山、その東に段原東浦という地名がつい先年まであった。いまは段原2町目あたりか。比治山が島でその北端に漁業の集落があった。ここはいまも複雑な路地を残している。比治山に登って漫画図書館の右の繁みの中に石段のある下りの道がある。その中腹に山王神社が鎮座している。琵琶湖湖畔の日枝神社の神様。鳰海が琵琶湖の呼び名であったことに関連づけて考えてしまう。東浦の人々の守護の神であったのだろう、眼下に海人の集落を見守る。東浦の北、猿侯川の右岸に大州の地名がある。洲は砂の浜のこと。その砂浜の東に矢賀の岩鼻(岩の崖があった。いまは削られてうしなわれているが、JRの高架下を車道がくぐるあたり)から東南へむけて府中大川と猿侯川がつくった砂洲がのびていた。いまその上にマツダスポーツセンターが造られている。
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川内をセンナイと読む。これをセンダイと読んで漢字を変えたのが東北の仙台。千代の地名も川に囲まれた場所にみられる。このダイがダンになって川内のハラッパが段原、という意見もある。たしかにPCでセンダイと打つと川内とも変換される。ナイがダイ、そしてダンに、なるのかな?段原はつい先ほどの時代には湿地に作られるレンコンの産地だった。
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芸藩通志にはお殿様が比治山に作られたお茶室や、大河にあった潮風呂へ通われて、その際に休まれた御茶屋山などの記載がある。仁保島の路地を廻ると、この御茶屋山の坂が現れる。下ると黄幡神社と地蔵寺の前に。その奥の山際に潮風呂があったとある。広々とした海、風呂上りの一杯。地元のトレトレの魚!!!鳰海。そしてお茶をたてるにも使える水があった。
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お殿様だけがこの海を満喫したのではなく、この海に暮らす人々もそうであったと、民俗学者の宮本常一は書く。「陸地は田畑が開墾され、そこに入り込むことも出来ない島住まいの人々は船が丸木舟に外側に板を張り、船がすこし大きくなると、・・船の上に苫・トマ(覆い)をふいて船住まいすることもできる。獲物を追って漂泊し、とくに夜の漁をおこなうものにとっては、船住まいはなにかと便利である。それが何艘か船団をくんで、網で魚を引いたり、魚を釣ったり、ヤスでついたり、またもぐってとったりする。それはまことに楽しい生活であっただろうと思われる。海が荒れるときは、船を浦の浜にひきあげて何日もすごす。そこが魚の多いしずかな浦ならば、気のすむまでそこに留まっている。誰におかされることもない。とれた魚介は陸に住む農民と交渉して穀物と交換する。ただし、このような生活ができるためには、海岸の出入りが多いか、島が多くて静かな海でなければならない。宮本常一“海に生きるひとびと”」いまから500年も昔、ここ大河には24戸、となりの本浦は15戸ほどの人口という記録がある。自分の住む楠那は記録されていない。船住まいの人々は記録にはのこらないだろう。

ここの鳰海は河口であるのに川岸に生えてくる「芦」がある地名が見られない。大洲の「洲」は砂浜のことだが、浜は砂の海底や河からの供給がないと細ってしまう。「ス」と呼ばれる砂浜は成長するところをいう。パワースポットである。陸地が生まれる。砂は“清んだ”流れでないと運ばれない。流れに溶け込んで運ばれた砂は流れが落ち着くと、底にたまりだし、水は“澄んで”来る。そこに人は“棲む”。陸地が延びるから家族が増えてゆく。「スム」ってそういうこと。しかし時として、流れが荒れ襲ってくる。だからそこに荒神がおかれる。おとなしくしてくださいね、と祈る。
原子力発電所の空気は澄んでいるようで、清んではいない。そして荒神社もおかれていない。人は神を越えられない。人は原子力発電所をつくってしまった。

芦・アシは流れを止める。淀んでくる。悪・アシきもの。が、そこに小さな昆虫や水生生物がうまれ、魚が集まり、鳥は飛んでくる。食料がとれる。だから芦をヨシ(芳)とも呼ぶ。芦はイネ科植物。芦を稲に換える。そこから水田が生まれる。稲作のアグリカルチャーがここから発生する。人々は砂浜をつくる自然をまね、干拓を始める。早苗を植える。実りを祈る。その成功を祈願する神を将来する。お稲荷さんが登場される。

比治山の島と仁保島が砂洲で結ばれた場所にお稲荷さんが置かれている。長い石段の上、大きな銀杏の木がそびえる。その先から砂洲が比治山までのび、引き潮に歩いてわたれるようになったのは江戸時代初頭だという。それを合図のように干拓がはじまる。その砂洲のルートの痕跡はいまはない。大銀杏も目印の役目を終えているようだ。しかしそこから北上する、お殿様が御城から大河の潮風呂へ通われた江戸時代の道の痕跡はいまも残っている。霞町の郵便局のすこし西から直線で比治山学園をとおって2号線を横切って、広大病院の敷地内へ。ただ塀がある。行き止る。その道の痕跡は塀を越え、病院の正門からでてすぐの北向きの道(旧宇品線・跡)へ。比治山下のモスバーガーの横へはいるルート。これを大河往還とよぶ。お殿様が使われた道を往還道と呼ぶのだそうだ。たしかにお殿様は往復している。
段原の干拓の地から作物の収穫ができだすのは、埋め立てて30年も後になる。塩抜きには時間は必要だった。鳰海・ニホノウミの開拓でつくられた土地には段原日の出町、東雲、旭など朝の訪れの時間の名がつけられるのはどうしてだろうか。仁保島と向洋との渡しは露霞渡と呼ばれていた。
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ウイクペディアでこの露路はルイジアナあやめだとある。河口にこの花がさいていたのだろうか。そうだと、いけますね。うつくしい花と朝焼けの新開地で、お稲荷さんの降臨をに30年,人々は待っていた。
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段原の町も二度目の区画整理と新開発で生まれ変わっている。露霞の花の咲く景色は消えうせている。でも開発の隅にちいさな古さの風が吹いていますよ。
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by forumhiroshima | 2014-01-24 10:15
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