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こひちろうの独り言


マネージャーの独り言を綴ってみたりします。
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広島という町を設計する-5 出雲の実力

広島城の天守閣は城領域の端、西北にぽつんとある。すこし孤独な雰囲気がある。武士たちはここで暮らすのではないから、飾り的になった建築物は孤独になるのかもしれない。

しかし、象徴的であればもっと効果的な、たとえば北面の中央などはどうか。威風堂々ってことにならないかな。そんな感想で広島城下の設計基準がわからないままの時間をすごしていた。広島を設計する!などとタイトルするのではなかった、と後悔。でも、妄想は健在だ。

出雲大社の建設は、大和朝廷から「千尋のタク縄をもって結いて百結び結び、八十結びて、天の下造ららし大神の宮造らし奉れ 出雲国風土記」との命令がきて、高層建築になり、その実行部隊が盾縫・タテヌイの郡の人々だ。百結びに結ぶ人々の盾縫郡に平田がある。
(※余談。平田は古代、沼田という地名だった。古代の大和のジャンヌダルク,神功皇后が遠征先で沼田という場所に立ち寄った伝承がある。沼田の海で鯛がたくさん浮き上がって皇后を歓迎した。その鯛を採って皇后にささげた。その沼田は北陸の若狭湾のヌタ、広島・三原の沼田川河口、そして古代には宍道湖は西の海とつながっていたから、この出雲の沼田。この伝承は有名で、広島県では御調という名を郡名としている。鞆の浦の鯛網はこんなところからの伝承で始まったのかもしれない)

普通、沼田はヌタ場あの猪は泥のなかで毛についた寄生虫をとる場所とおなじ湿地帯のこと。出雲では沼田を乾かして耕作地にしたから平田だという。
出雲は巨大建築の実現できる人々であるだけでなく、土木建築の得意だ。風土記の国引き伝説で「北門の佐伎・サキの国を、国の余りありやと見れば国の余りあり」と引き寄せた国が狭田・サダでこの国に盾縫郡が所属している。佐伎は隠岐から頂いたことになっている。

中世の出雲平野の地図を作った人がある。江戸時代初めの1635,1637年の洪水で斐伊川は東の宍道湖への流入になったというが、西に流れ込んでいた斐伊川本流は天井川で常に氾濫するために、ある程度人為的に天井川になっていなかった東へ導いた側面がおおきいという。その東への流入地域になった斐川町の民家はあふれてくる水流に築地松の家屋森をつくった。北風対策といわれるが、築地の名の通り、すこし盛り上げられた土手に松が植えられている。水害対策も付加されている。その森を切りそろえるのは、訳もあろうが、出雲の自然それも水と風との対話のようで、古代の「百結びに結ぶ・・」というワザからの発展におもえる。
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出雲の土木建設の古代から綿々とつながることを、ぐだぐだと書いてしまった。
広島城が建設されるころ、中国地方に川の三角州に城を築こうと考えた武将はいない。松江城も岡山城も江戸時代に入ってから。今治も三原も三角州のような不安定な場所に建設してない。
城下の基本ラインは岡山だって松江だって真北に設定されて、横の道で方形な市街地をつくっている。広島城の特異性に、ぶつかってしまった。

出雲の平田屋惣右衛門は、広島城建設の決定のまえから安芸国の山中の吉田の郡山城に入っている。そこで基本の設計が決められたのだろう。太田川の氾濫源の中に城を築く目的はなにか?
毛利元就が厳島で陶 晴賢の軍勢を破ったのは村上水軍の助力なくては実現しなかった。「毛利方は・・河内衆(太田川中州)300、熊谷衆(可部)200に命じて厳島へ周防大島の宇賀島衆、大島・桑原衆を討たしめた。しかし熊谷衆は船になれず、みな酔って戦うことができず・・宮本常一・郷土の歴史」という有様。その記憶が城を太田川の河口に海上制覇の拠点として築くことにした。
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しかし太田川河口の三角州は土地も不安定で、また太田川が氾濫することはいつもだった。太田川河口でもっとも安定した土地は横川。そこは古くから地盤は氾濫ではこばれる土砂で固められ、また瀬戸内海の汐の干満の一番奥の渚。満潮の潮が太田川の流れを止めて、そこに急激に土砂を堆積させ、洪水のつど氾濫する場所はもうすこし海へ下がった場所になる。その目印が白神社ではなかったか。
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一枚の地図を見つけた。広島城のある広島の標高を示す地図が図書館にあった。そこへ広島城の堀の設計図を重ねると、もっとも横川にちかい広島の頭からながれる城北川(城ができたから城北川の名称で、その前の名はなにだったのか?・・ドウオデもイイジャン)から堀へ入水を設計し平田屋川へ排出する。満潮線は平田屋川と八丁堀の接点で、ここに樋門をおき城への海水に流入を調節。万が一水量の流入が多くなって平田屋川樋門で処置できない状態では垂れ流しにしている西塔川が自動調整。ここがあふれることの被害は町屋衆の家並み。ってなことでなかった。その調整機能は後に破綻し堀から水があふれる状態がおきて、八丁堀近くに東への堀、源太堀を開削し堀の断面をV字(薬をローラー粉にする薬研とにている)に造った。この断面は水との接面が2つ、四角の横・底の3面とは摩擦係数がちがう。流水スピードを求める設計になっている。と妄想はすごい状態。

平田屋川と八丁堀との接点に樋門があって橋はつくられ、城へ向っての右岸が中の棚。仲の棚の地名は沢山の土地にみられる。魚市場だ。棚は七夕姫のタナで神聖な場所。殿様への魚を納入ってことだろう。
このように中の棚への魚の搬入は船で、平田屋川はお城へのいろいろな物の納入路でもあった。後日やはり川の底は浅くなって、雑魚場と名が変わって、河口付近(国泰寺中学南)
へ移転したり中島にも魚市場ができる。この水流を設計してから400年出雲の土木技術がすごい!と、おもってますよ。

先日O氏からのメールの話を書いたけど、周防大島の南の片島をタレントの清水国明さんが買い取った話しが送られた。釣で行かれたらしい。油宇の町が大島にあって、そこは漁師のにおいのする周防大島では珍しい集落で、四国てのフェリーも以前寄航していたと聞いた。走りにゆきたい。周防大島の南海岸はどこも、○マル。ここらが毛利氏と対峙していたが、寝返った桑原氏一派の水軍のテリトリーであった、そんなにおいがこの港にはある。移住するなら、ここだと思っている。思っているだけですが。
周防大島の北海岸から小さなフェリーの運航がある浮島が正面にみえる西方が宮本常一さんの故郷だが、この浮島は毛利氏の厳島合戦のころは宇賀島とよばれ、宇賀島衆とよばれる水軍で、毛利軍と戦った。宮島で敗北し壊滅した。「宇賀島のごときは人一人住まぬまでに追い払われ、また斬られたらしい。というのは、今の浮島はその後新たに移住した四軒の家が暫次ふえていったもので、一時、完全に無住の島になっている。 宮本常一 郷土の歴史」 宇賀島では記憶が消えないから浮島とよぶのかもしれない。

広島城の真柱は太田川河畔の神社のご神木をもってきた。それ以外の調達は各地にあったが、この宇賀島からが大半であったという。その木材は平田屋川から場内の建設現場に運ばれ、尾道の寺社大工が建設にあたり、城下に尾道の町名があった。
村上水軍が毛利軍加勢の条件に、勝利のあかつきにはこの周防大島の領有をもらうことだった。村上水軍の大将、武吉は秀吉におわれ毛利家の家臣になり、周防大島でなくなっている。墓所の集落から浮島がみえる。
by forumhiroshima | 2014-02-08 15:09
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